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(回答先: 中島由佳利 「新月の夜が明けるとき」2 投稿者 YM 日時 2002 年 10 月 19 日 15:14:29)
『未来』2002年2月号
日本の中のクルド人問題
──新月の夜が明けるとき──北クルディスタンの人々(9)
中島由佳利(ノンフィクションライター)
収容所に拘束される難民申請者
二〇〇一年一〇月初め、東京近郊に住む難民申請中のアフガニスタン人九名が、東京入国管理局の収容施設に身柄を拘束される、という事態が発生した。この問題にかかわる弁護士や市民団体は「遠い地にいるアフガニスタン難民には支援の手を差しのべるが、日本国内で助けを求める難民に対しては収容してアフガニスタンに強制送還する」というような日本政府の姿勢に矛盾があることを指摘している。
マスコミもこの出来事を取り上げ、その推移をたびたび報道してきた。情報の受け手である多くの日本人は、自分の国の中にもアフガニスタン難民がいたことや、その人たちが在留資格のないまま滞在しているアフガニスタン人であるという理由でこの時期に次々と収容された事実を、マスコミ報道によって知っただろう。そしてそれぞれが考え、なかには途方に暮れた人もいたはずである。「これが私たち日本人の正しいやり方なのだろうか」と。
さまざまな国から日本へ助けを求めてやって来た難民申請者の収容、本国への強制退去は以前から恒常的に行われており、今回のケースは九月一一日にアメリカで起こった驚愕的な出来事に端を発するアフガニスタン問題が背景にあったためマスコミも注目し、氷山の一角が表面化したにすぎない。
(中略)
ところでアフガニスタン難民収容問題が取りざたされる数ヶ月前にも、クルド難民申請者が相次いで収容される、という事態が起こっていた。だが日本にクルド人が存在すること以前に、クルド問題自体の認知度が日本ではあまりにも低いため、マスコミが注目して大きく報道するということはほとんどなかった。そのため、この事実を知る日本人は少ない。
ハンストで訴えるクルド人
雑木林を切り開いた道を抜けると、うっそうと茂る緑に隠されていた近代的な建物が、こつ然とその姿を現す。茨城県牛久市にある東日本入国管理センター・牛久収容所。
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/whatisushiku.html
二〇〇一年五月九日、一〇日付けの朝日、読売、毎日、東京の各新聞の茨城版に、同収容所内でハンガーストライキを続けているトルコ国籍のクルド人難民申請者たちの記事が小さく掲載された。記事は、難民認定や収容所内の処遇改善を求めて一か月から二か月以上にわたるハンストを続ける四人の存在と、その目的の一部を報道していた。
「このクルド人男性は一九九八年三月、不法残留で逮捕、収容。以来三年が経過、処遇への不信感も強まり『死んで訴えるしかない』と思い詰めハンストを始めたという」(五月一〇日、東京新聞)
アリ・アイユルデュスさんは三月一九日から二か月以上、収容所内でハンガーストライキを続けていた。一二〇キロ近くあった二六歳の身体は、この聞、水や塩ぐらいしかロにしなかったため急激に体重が減り、肝機能の障害などさまざまな体調不良をおこしていた。それでも普通の人よりはまだ大きな体を引きずってアリさんは面会室に現れ、意外に落ち着いた表情で語った。
「現在、トルコの拘置所の中で、トルコ政府によるクルド人弾圧に抗議するため三〇〇人以上の女性や男性がハンストしています。最近だけで、ハンストで三〇人以上の人たちが死に、自分の身体を燃やして死んだ女性もいます。私もここでトルコ政府に対して抗議しています。それから、日本の政府や入管に対しても」
アリさんらに対する入管の行為は「難民および難民申請者に対して、不法滞在を理由に不利益を課してはならない」という国連の難民条約三一条に反するものだ。員本も一九八一年に、この難民条約・議定書へ加入している。
アリさんは一九九三年四月、クルド人弾圧に加担することになるという理由で兵役を拒否して来日、二度にわたって難民申請をしているが、いずれも認定されず、一度目の処分に対する異議申し立ては却下、二度目の申し立ては現在、審査中だ。退去強制の命令については、今年の四月に提訴していた東京地裁より「トルコヘの送還部分の執行停止決定」を得ている。その後、仮放免不許可処分の取り消しを求めて水戸地裁に提訴し、仮放免された。
ハンストを続けてきたクルド人たちは、六月一日、要求の一部が入管側に受け入れられたため行動をいったん停止したが、その身体はすでに内臓が固形物を受け付けない状態にまで陥っていた。自らの生命が取り返しのつかない事態になるということも省みず、ハンストを続けたクルド人たち。彼らの背後には、トルコから日本へ庇護を求めてやってきたクルド難民申請者の存在とその実状、さらに彼らが遭遇した「日本」という国の姿が広がっていた。
日本からトルコヘ強制送還されたクルド難民たち
現在、日本に滞在しているトルコ国籍のクルド人は、五〇〇から七〇〇人といわれている。その中で日本政府に対して難民申請している人は一〇〇人を超えるが、難民認定を受けた者はまだひとりもいない。トルコ国内におけるクルド人に対する執働な虐待と弾圧の状況を訴えるが退けられ、法務大臣によって難民不認定処分を受けて日本からトルコヘ強制送還された人たちには、深刻な事態が待ち受けていた。
ムスタファ・クズマズさんは四〇歳代、トルコ東南部アディヤマン県出身の小学校教師だった。政府のやり方に対して批判的な立場をとっていたため、トルコ国内の刑務所に五年間拘束されたことがある。治安当局は常に彼の動きを監視、その行方を追っていた。ムスタファさんは日本へ逃れ、一九九七年に日本政府に対して難民申請を行った。そのとき彼に続いて二〇数名のクルド人が申請をしている。申請にあたっては出入国管理および難民認定法によって「申請は、その者が本邦に上陸した日(本邦にある間に難民になる事由が生じた者にあっては、その事実を知った日)から六〇日以内に行わなければならない」と規定されている。そのため、六〇日を超えていたムスタファさんの申請はあっさり却下された。だが、とにかく命がけで国籍国から脱出することが先決だった申請者にとって、あらかじめ入国先の法律や規定などを悠長に調べてくる余裕はなかっただろう。申請却下の処分に対して異議申し立てをしたが、その間にも他の仲間たちの申請が次々と却下され絶望したムスタファさんは、九八年の秋にトルコ共和国へ自ら帰国していった。難民条約による難民とは、「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、……国籍国の保護を受けることができないもの」と定義されている。だが実際は、いくら国連が申請者を「難民である」と認めても、受け入れ国の政府が難民認定しなければ、申請者は難民としてその国に在留することはできないのである。
ムスタファさんはアゼルバイジャン経由でトルコに密入国したものの、治安当局に見つかり拘留された。日本で難民市請していたことが発覚し、トルコ政府は彼をトルコ共和国に対する反国家活動、分離主義活動家と見て、激しい拷問を加えた。その後釈放されたが、九九年七月、ムスタファさんは殺害された。トルコ国内の新聞は「自らの息子がナイフで殺害、殺されたムスタファはPKK日本支部の責任者」などと大きく報じた。(『ある一人のクルド人の死──難民問題の落とし穴」中川喜与志・AWC通信二〇〇〇年五月号よリ)
息子がムスタファさんを自分の意思で刺したとされているが、ムスタファさん一家をよく知る人たちは言う。「彼の息子は『父親を殺さなければ家族を全員殺す』と治安部隊から脅迫されていたんです」
(中略)
二〇〇一年四月二七日。ハッサン・チカンさんにトルコ国籍のクルド人難民申講者としては初めて、特別在留許可がおりた。難民としては不認定だが、日本政府はハッサンさんをトルコヘ再び強制送還するわけにはいかなかったのである。
ハッサンさんは、九〇年代の後半に初来日し、難民申請を行った。だが九九年に不認定の決定がなされ、トルコ共和国に強制送還された。トルコ治安当局はハッサンさんの身柄を拘束し、日本で分離主義活動難民申請)をした、PKKに日本から資金援助をした疑いがある、などの理由により厳しい拷問を加えた。彼の身体には今もその傷あとが残る。その後も彼は、常に当局の監視下におかれ続けた。
ハッサンさんは今年二月、再び日本へ逃れてきた。だが成田で上陸拒否に遭い、そのまま空港内の上陸防止施設に拘束されてしまった。入管は彼に対して退去命令を出し、退去強制の手続きに入った。ハッサンさんはそこで難民申請を行ったが、東日本入国管理センター・牛久収容所に身柄を移されてしまい、クルド人難民申請者らのハンストに加わって退去強制処分の取り消しの訴訟を千葉地裁に提訴していた。
日本政府はなぜ、ハッサンさんに難民認定を与えず特別在留許可を与えたのか。それはおそらく、日本とトルコ共和国の外交的配慮からであろう。難民として認定すれば、トルコ国内にクルド弾圧はないと主張しているトルコ共和国に対して日本が内政干渉している、ということになってしまう。だからといってさまざまな証拠を自らの身体でもってトルコから持ち帰ってきたハッサンさんを、再ぴトルコヘ強制送還するのは、人道的配慮に欠けるという判断をし、特別在留許可を与えた、ということではないだろうか。
クルド間題に関する情報の不足
(中略)
難民認定のための審査の際には、通訳の能力や立場によっては申請者らの主張が正しく審査官に伝えられなかったり、担当審査官の裁量によって結果に差が出る、ということも起こってくる。入管側の当該国に対する情報不足や、申請者に対する誤った認識と先入観にも問題があるかもしれない。担当者ですらそうなのだから、一般的な日本人は情報の極端に少ないクルド問題について関心を抱きにくいだろう。例えばトルコ大使館のホーム・ページ(http://www.turkey.jp/a1.htm)には「クルド問題について」や「PKKのテロリズムについて」などのていねいな記述があり、私たちもトルコ政府の主張を情報として簡単に入手することができる。これを全面的に信頼して読めば誰でも、日本で難民申請しているクルド人を受け入れることなどできない、と感じるはずである。一方の言い分を鵜呑みにしないためには、他の角度からの情報を分析してみる必要があるのは周知の通りだ。それらの情報をどう判断するのかは、その人の裁量に任されるしかないだろう。だがそれ以前に、一般的な日本人がこの問題を考えたいと思っても、クルドに関する基本的な情報ですら日本ではかなり少ないというのが実状である。
日本人に突きつけられた矢
(中略)
私たち日本人がクルド問題を知る機会はきわめて少ない。
「クルド」という言葉は、湾岸戦争後に北イラクで大量のクルド難民が発生したとき、PKKのオジャラン議長が逮捕されたときなどに、散発的にマスコミに登場することはあっても、日本ではあっという間に話題にも上らなくなる。特集番組はなかなか放映されず、クルド人について書かれた出版物も皆無に近い状態であった。
だが昨年末にクルド関係の本が二冊たて続けに出版され、日本でもやっとクルド問題が一般に認知される下地がつくられつつある。そのうちの一冊、クルド学序説として書かれた『クルド人とクルディスタンー拒絶される民族』(南方新社)の著者、中川喜与志氏は、なぜ日本のマスコミがクルド問題を取り上げないのかという点について、この本の中で触れている。
その一部に、マスコミ批判ではあるが、情報を受ける側の一般的日本人の意識にもどこかズシリとくる箇所がある。「一方で国際化、グローバル化などと言いながら、記事や番組はあくまで『日本、日本人にとって意味あるもの』でなければならないとする。国際社会で何が起ころうが、世界でどんな非人道的なこと、どんなに道理に反することが起こっていようと、日本や日本人の利害に関係しないなら、それは報道する対象にはならないという。『そうでないと売れない』と正直に白状する編集者も多い」
このようなマスコミの、受け手に対する偏った思いこみと商業主義が、日本人の世界に対する真の関心や他者に対する想像力を奪い、希薄にしている、ということもありはしないだろうか。
(後略)
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/
(在日アフガニスタン難民問題の現在サイト)
2002年9月15日
クルド人の生命を危険にさらす法務省
〜難民申請をしている特定の個人について
在外公館が迫害国の治安当局に問い合わせ〜
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/kurd.html
東京地裁3月8日の判決に関する
クルド難民弁護団の声明