現在地 HOME > 掲示板 ★阿修羅♪ |
|
(回答先: イスラエル建国時の国連決議参加国について 投稿者 CH 日時 2002 年 10 月 07 日 04:48:34)
第二次大戦後、1947年2月にイギリスはパレスチナの統治能力を喪失したことを認め、この問題を国連に移管した。国連特別
総会は、同年4月にパレスチナ問題を調査するための特別委員会(UNSCOP)の設置と、同委員会による現地調査派遣を決定した。こ
の委員会には、大国を除く11カ国から構成された。5月に現地調査が行われ、8月末に報告書が提出されたが、多数案と少数案が
併記された。多数案(カナダ等7カ国案)は「アラブ国家とユダヤ国家の分割案で、聖地エルサレムとベツレヘムは国連による永久信
託統治する」というもので、少数案(インド等3カ国案)は「エルサレムを首都とするアラブ人とユダヤ人の連邦国家」であった。オ
ーストラリアは、両案に反対した。多数案は、必要な3分の2の賛成を得られなかった。ここから、シオニストとアメリカによる
猛烈な多数派工作が展開されることとなった。
アメリカ国内には、多くのユダヤ人社会が存在し、選挙母胎としての圧力をかけていた。そして、財界の実力者にユダヤ人が多い
と言うのも事実であった。ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領は、早くからユダヤ人国家の創設に賛成していた。トルー
マン曰く「ユダヤ人は票になるが、アラブ人は票にならない」のである。国連総会におけるシオニストと強国アメリカによる多数派
工作は、熾烈を極めた。工作の対象となったのは、ハイチ、リベリア、フィリピン、中国、エチオピア、ギリシャの六カ国。最後ま
で分割案に反対し通したのはギリシャだけで、残りは棄権と賛成にまわった。運命の1947年11月29日、国連総会はパレス
チナ分割案を賛成33、反対13、棄権10をもって可決した。かくして、シオニストは即日イスラエル国家の設立を宣言し、ア
メリカは直ちにこれを承認し、三日後ソビエトもこれに倣い、イスエラルは建国されたのである。
このイスラエル建国が不当であったことは、改めて言うまでもない。現地アラブ住民の主権を侵害し、外国からの移民にパレス
チナの大部分を割譲し、現地アラブ住民の正当な自決権の行使を否定した。この不当性は、分割案で示されたイスラエル国家とアラ
ブ国家の人口と面積比や土地所有の割合などに照らせば、極めて明白だった。イスラエル国家に割り当てられた面積は、全パレスチ
ナの57%を占めていたが、人口はパレスチナ人口192万人のわずか31%…約61万人を占めるにすぎなかった。その61万人
のうち、当初からパレスチナに住んでいたのはせいぜい十分の一ほどであった。また、この国連の分割案で承認されたイスラエル国
家自身でさえ、そこに居住するユダヤ人は490,020人なのに対して、同国に居住するアラブ人は509,780人を数えユダヤ人が少数
側だったのである。更に土地所有を見ると、1945年時点でユダヤ人の所有する土地は僅か5.66%に過ぎなかった。国連分割案
ではこの「わずか6%ほどの土地所有者であるユダヤ人にバレスチナ全土のほぼ3分の2が与えられた」のである。正に、「軒下を
貸して母屋を取られる」状況であった。
もちろん、この歴史上希に見る不当なイスラエル建国を、アラブ諸国が黙ってみているわけがなかった。1948年5月14
日、イギリス軍の撤退が完了すると同時に、周辺アラブ諸国、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノンは、イスラエルの殲滅を目指
してパレスチナに攻め込んだ。パレスチナ戦争(第一回中東戦争)の勃発である。緒戦ではアラブに有利に進んだこの戦争も、最終的
にアラブは大きく敗退した。この戦争の結果、イスラエルの領域は逆に拡張し、なんとパレスチナの80%にのぼった。この戦争
と、ユダヤ機関のテロ活動の結果、多くのアラブ人が、イスラエル領から追い出された(ちなみに、後のイスラエル首相メナハム・ベ
ギンは、アラブの老若男女254人が虐殺された小村デイル・ヤデイル・ヤシーン事件のシオニスト武装集団イルグンの一部隊長であ
った)。かつて東欧やドイツでユダヤ人が受けた迫害や虐殺を、テロ活動でアラブ人に対して容赦なく行い、アラブ人はパレスチナ
を去らざるを得なかった。そしてパレスチナ戦争によってパレスチナから追い出されたアラブ人は、75万人から100万人にのぼ
ると言われる。国連の中にパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が創設されたが、登録されたパレスチナ難民の数は96万人に
達した。こうしてイスラエル建国はアラブ・イスラエル問題を定着させ、パレスチナ難民という新たな問題を発生させたのである。