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(回答先: 拉致関連文書アーカイブ・安明進証言の信頼性問題編 投稿者 YM 日時 2002 年 9 月 25 日 02:58:19)
現代コリア1998/9
元北朝鮮工作員安明進氏の証言
北朝鮮がなぜ日本人を拉致するのか
まず、拉致された人たちの救出のための運動を通してではありますけれども、私をこのように招へいしてくださいましたみなさんに、感謝の言葉を申しあげたいと思います。私は、皆さまがたとこのようにお会いできるのに、もう少しいい話題でお話できればというふうに思うのですけれども、しかし私がお話し申しあげることは、日本人の拉致ということについてでありまして、心がちょっと重たい感じがいたします。
(中略)
ところが、めぐみさんのご両親がソウルにいらっしゃってお会いした時に、私の父母と同じ親の姿を(めぐみさんの)ご両親を見て考えを変えました。そこで横田めぐみさんのご両親が悲しんでいるように、もしも私がどこか外国に拉致されたらたぶん自分の父や母はどれだけ悲しむだろうか、そのように考えると北朝鮮に拉致された日本人のお父さんお母さんがどのような思いをしているだろうかということに考えが及ぴまして、そこで自分の良心に恥ずかしくない証言をしなければたらない、と決意をしたものであります。
私が北朝鮮にいた時、横田めぐみさんは実は若い女性だったから関心を持っていたのであって、それ以外に多くの日本人がいるということを知っていましたけど、それは当然のことだと思っていたので、そのことについてそれほど神経を使っていなかったんですね。
(中略)
金正日の拉致指示
ここにいらっしゃいます日本のみなさんは、北朝鮮がなぜ拉致をするのかという理由、あるいはその拉致をした人たちを何に使うのか、あるいはどのように拉致をしていくのか、あるいは拉致についてどのように考えているのか、というようなことについてご関心があると思います。
北朝鮮は、一九六〇年代から韓国人および日本人を含む外国人の拉致を少しずつは、やっていたというふうに認識しています。日本人のケースとしては、一九六〇年代に能登半島の近くから日本人の少年を拉致したというケースを私は聞いています。
しかし、北朝鮮が組織的にある一定の目的を持って、日本人・外国人を拉致しはじめたのは一九七四、五年からであるというふうに考えています。その時から北朝鮮は、日本人、アラブ人、そして韓国人を組織的に拉致していったその背景は、七〇年代の中盤に出た金正日の特別指示によってであります。
率直に申しあげまして、私が本を書いた時点の時は、その中に北朝鮮の最高指導者の名前を、その人の責任だというふうに、その人の命令だというふうに書くということについて恐れがありました。いつか個人的にテロなどに遭うかもしれない、そういう恐怖がありました。
こちらにいらっしゃる方はご存じないかもしれませんけども、実は、ソウル近郊で二年近く前に金正日について悪口を書いているという理由でテロに遭った亡命者がいました。ですから私は、韓国で暮らしながら、恐れをいつも感じ、用心深く行動していますけれども、しかし今となっては、知っていることを堂々と話そうというふうに決意しています。
三号庁舎の役割り
北朝鮮が組織的な拉致を始めたのは七四、五年からですけれども、その時まさに金正日が、北朝鮮の中で対南工作をやる部署なんですけれども、俗称三号庁舎と呼ばれています朝鮮労働党の中の対南工作担当部署ですけれども、そこを自分の指導下に置こうとして大検閲事業を始めました。
その時金正日は七四、五年以前になされた対南工作活動を全部点検しまして、工作活動の中身、あるいは工作員教育の中身はすべて成果はゼロだと、何もないと、ちゃんとされてないと、これからは私が直接それを掌握してやるんだというふうな発言をしました。
その時金正日が大変強く指摘したのは、工作員教育に問題があるということです。なぜ現地教育を徹底的にしないのかと言って、そして現地人を拉致してそれを使って現地人化教育を徹底的にさせる、という指示をしました。その金正日の指示が出たあと、組織的に韓国で、アラブで、日本で、そして中国で外国人をだましたり拉致して連れてくるという事業が組織的に展開されました。
もちろん実際に日本などに来て拉致を実行した人間も悪いですけれども、私自身も実はその状況で金正日の命令があれば拉致を実行していた、そういう立場にいた人間です。ですから、私たちが今その日本人拉致の一番の責任者、基本的な責任者、その首謀者の責任をまず考えなければならない時期に来ていると思います。私たちは金正日の命令をもしも実行したければ、そこで絶対に許してもらえなく、死を覚悟しなければなりません。
(中略)
私が見た「拉致された日本人」
私が北朝鮮にいました時、日本から拉致された人たちが、いつも下を向いて話すこともできず生活しているのを見ながら、かわいそうというよりも人間らしい生活もできないんだな、というふうに見ていました。会いたくてたまらない両親に会うこともできず、やりたいことをすることができず、やりたくないことばかりさせられて、また自由にまわりの人と親しくなることもできない、そのような本当に不幸なやるせない立場に置かれていると思います。
私は、先ほど飛行機の中で日本に来る途中に北朝鮮で自分が出会った日本人の顔を一人ずつ思い出していました。ですからその人たちのことを思い出しまして、今は私はその人たちに少し堂々と対することができると、もちろん前のことを考えると申し訳ない気持ちがありますけども、今ははっきりとその人たちを助けようという運動に参加して証言をこれからしていきますから、その人たちの前にも、前のことがありますから恥ずかしい気持ちはありますけど、しかし今は堂々と対することができるとそう思いました。
「証言者」は亡命者の中にかなリいる
北朝鮮による日本人および外国人・韓国人拉致について具体的に証言をすることができる人は、韓国に他にもいるというふうに考えます。私はその人たちと個人的に会って話もしているわけですけれども、その人たちはこの問題については話をしたくたい、巻きこまれたくないという立場に立っています。
(後略)
〈解説・安氏証言の注目すべき点〉
西岡力
以上は、前北朝鮮工作員安明進氏が七月三十一日新潟空港新潟市(横田めぐみさん拉致現場)で行なった記者会見での証言だ。安氏は八月十日までの十一日間、日本各地で拉致を中心とする北朝鮮の工作機関の活動に開して具体的に証書してくれた。三月に安氏は『北朝鮮拉致工作員』(徳間書店)という本を出版し重大な証言を多く行なったのだが、本には書かなかった新しい詳言は以下の五つだあった。
一、今回の訪日で安明進氏が語った最も注目すべき証言は、拉致の首謀者についてだ。「拉致は一九六〇年代からであったが、本格化するのは七〇年代中頃からだ。七四年金正日が後継者に選ばれた後まず手を伸ばしたのが資金、人材のすべてが優先的に回されている対南工作部門、三号庁舎だ。金正日は三号庁舎を掌握するために、74〜75年にそれまでの工作活動を検閲し、その成果はゼロだったと批判した。そして、『工作員の現地人化教育を徹底して行え。そのために現地人を連れて来て教育にあたらせよ』という指示を出したのだ。その指示により、日本人をはじめとして韓国人、アラブ人、中国人、ヨーロッパ人が組織的に拉致された。自分はこのことを金正日政治軍事大学の『主体哲学』という科目の中で、金正日のおかげでいかに対南工作がうまくいくようになったかという例として学ばされた。」安明進氏はこのことについて本には書かなかった。金正日を直接非難することにより北朝鮮に住む両親と妹、弟らの上に連座制で処罰が下り、自身もテロにあう危険が大きくなることを恐れたからだ。しかし、横田さんら被害者家族がこの二〇年あまりいかに苦しんできたかを知り、「良心に恥ずかしくなくありたい」と覚悟して今回はじめての証言に踏み切ったのだ。
二、安明進氏が金正日政治軍事大学内で合計七回程度めぐみさんの写真とそっくりの日本女性を目撃した際、笑うと浮かぷえくぼがとても印象的だったのでそのことを「何気なく」著書に書いた。その記述が、安明進氏の見た女性がめぐみさんに聞違いないというもう一つの根拠となった。今回各地での記者会見でめぐみさんの両親が自宅にあったという笑顔の写真を示しながら語られたように、確かにめぐみさんは笑うとえくぼが出たのだが、そのことについて両親はまったくマスコミにも警察にも話しておらず、公開写真にもえくぼの出ているは一枚もなかったからである。
三、安明進氏がめぐみさんと併せてもう一人、はっきりと見覚えがあると語るのは七八年八月一二日鹿児島県日置郡吹上浜で失踪した市川修一さんだ。今回鹿児島で市川さんのお母様とお兄さんに安明進氏から直接その状況を伝えてもらうことができた。お母様が、直接息子が生きているという消息を聞くことができてとてもうれしかったと、安明進氏に感謝していた姿が忘れられない。安明進氏は市川修一さんについて「写真と顔がそっくりだ。髪を右に分け目を作って左に分けていた。北朝鮮ではそのような分け方はしないので、珍しくて覚えていた。もう一つ、赤いネクタイをしていたことを思い出す。北朝鮮では、赤いネクタイは少年団員がするもので、大人は絶対にしない。」市川さんのご家族によると修一さんは髪の分け方も、赤いネクタイを好んでいたことも安明進氏の証言通りなのだ。
四、金賢姫の日本人化教師「李恩恵」について、九一年に日本で身元が判明し、大きく報道されても何の処罰も受けず、ただ所属が同じ対南工作部署内の三号庁舎で、対外情報部から社会文化部に移されたというだけだという話を、安明進氏は大学内で聞いている。日本で騒ぐと拉致被害者の身の上に何か良くないことがおきるのではないかという質問を受けた安明進氏は、「李恩恵も、彼女が反抗などをしたわけでもない以上、処罰される理由がない。それに工作員の日本人化教育のために利用価値がある間は利用される。むしろ、拉致問題が大きくなれば、対日交渉の力ードとしての利用価値も出てくるから、よけい手出しはしないと思う」と答えた。なお、筆者(西岡)の調べによると、日本政府は昨年五月横田めぐみさんを拉致疑惑者リストに入れる前に、「あるルート」を通じて北朝鮮側に被害者の身辺に何かあれば後日日朝正常化の際に取り返しのつかないことになるというメッセージを伝えている。
五、安明進氏以外にも拉致について具体的に証言できる元工作員が数十人韓国にいる。
実は八月一八日、安明進氏から国際電話をもらった。安明進氏にとって金正日政治軍事大学の先輩にあたる亡命工作員たちに、なんとか拉致に関して証言をしてくれるようにもう一度話してみる、とのことだった。安明進氏が講演の中で語っていたように、それらの人たちが、安明進氏に続いて「命がけの証言」に立ち上がってくれるかどうかは、日本政府と日本国民がどれだけ真剣に拉致問題解決に取り組むかにかかっている。これからも地道に署名を訴え一人でも多くの日本国民がこの問題を知り怒りの声を上げてもらうべくがんばらねばど決意を新たにしているところだ。
救出運動レポート14
安明進氏招へい全国縦断講演会
……
さて安氏は新潟市、柏崎市、鹿児島県日吉町でそれぞれ拉致現場の検証を行った。その結果新たにいくつかのことがわかり、また、前号のこの連載で書いたように小浜事件の状況とも一致する。これによって私たちのしてきた推測が裏付けられたといえよう。現場検証の内容は次の通り。
新潟市(横田めぐみさん拉致現場)
安氏に横田さん拉致について語った金正日政治軍事大学のチョン教官の話は「海岸から脱出しようとしていたときにめぐみさんに見られたので拉致した」とのことだったが、現地の状況を直接見て検討した結果、私たちの推測、すなわちめぐみさんは路上で拉致され、車で連れ去られたというのがほぼ確定的になった。安氏によれば横田さん宅に近い寄居浜は護国神社の林などで陸地側からは視界が遮られ、侵入するには適当だが、失踪当時の捜索で警察犬が止まった場所(現在の新潟大学付属小学校前)から海岸への距離などを考えるとその場所で拉致されたと考えるのが適当だ。車を運転したのは当然ながら北朝鮮工作員ではなく、総聯系在日朝鮮人の協力者であろうとのことだった。
チョン教官は労働党創建記念日の集会でめぐみさんを見て自分が拉致したと語った。そして集会終了後、学生に取り囲まれて(若いきれいな女性だったので興味が集まった)当時の状況を聞かれて話しているのだが、安氏の想像では「子供をつかまえてきた」とは言いにくかったので、「見られたのでしかたなく拉致した」と言った可能性もあるとのことだった。
朝鮮総聯はこれまで「拉致でっち上げ」説を持ち出すたびに安氏の証言と現場の状況のギャップを取り上げてきた。安氏自身はこれまでも、今回の訪日時も、自分が直接見た話と聞いた話、推測をはっきりと分けて話してきたが総聯側はこれを意図的に混同し、捏造であると宣伝してきた。原敕晃さんや久米裕さんの事件については反論もしなかった、というよりできなかったのだが、唯一の根拠だっためぐみさん拉致現場の状況のギャップの問題もこれで明らかになった。逆に、総聯系在日の関与の疑いが出てきており、この点は今後明らかにされねばならないだろう。