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(回答先: Re: 「信仰」は馬鹿者のために。吟味的「思考」は利口者のためにある。 投稿者 ぱらどくす 日時 2002 年 9 月 04 日 02:36:05)
肉体を超えた世界を認識するのは、「上から」降りてくる(上の)意志がなければ、難しい。上から降りてくるならば、その人間がどんなに汚れていても、エーテル体の心臓や他の内臓などを入れ替えて(肉体のではない)まで上に用いられるように改造されてしまう。上のなさることは否応なしですね。そのようにして受け取った天啓は、その人の「能力」ではない。このような場合に、上から人に求められるのは能力ではなく「信仰」ですね。信じて受け取るしかない。そして、そのような情報が世間の人々に提供され、後世まで預言として語り継がれたり、宗教形態として残ったりする。ただ、情報継承は正確でなければならないのは勿論のことです。いずれ人類が精神的に進歩すれば、ほとんどの人々がこのように天と密接な情報交流を得られるようになるようです。上からの啓示を受けた人にとってだけは思考が干渉しない事が、自分を保つためには必要とされる態度になります。ただ自分に課された情報伝達者としての役目を果たして行くことになるのでしょう。
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しかし、普通の人は上から特殊なものはそんなに頻繁には降りてこない。従って、ある意味普遍的な方法に従う事になりそうです。
覚醒意識よりは眠ってはおりますが、イマジネーション認識(霊視)、インスピレーション認識(霊聴)は、思考や感情を足がかりにしてある程度は「発達」させられます。
その前に、「人格的基礎」が当然のように必要とされます。すなわち(簡単に言えば)精神的な平安・落ち着き等です。
人や動物や植物の内的状態を感じ取る能力は、確かに思考を「超えて」います。なぜなら、いくら考えても外的対象の内面を見たり聞いたりできないのは経験上明らかだから。
しかし、そのためには、思考(や感情)を足がかりにする必要があります。ここらへんを丁寧に詳述した本はルドルフ・シュタイナー著の「いかにして超感覚的認識を獲得するか」(イザラ書房)にあります。
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ただ、普通の人が上との繋がりが全く存在しないかというと、それも違う。だから、「信仰」の要素は否定されるべきでもないと控え目には言えると思います。