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(回答先: Re: 宗教はオオ馬鹿のためにある 投稿者 牧師 日時 2002 年 9 月 04 日 21:41:49)
牧師さん
仏教ではすべてが変化相であり,確実絶対のものは何もない,と考えています。変化するものに,執着すること(attachment)が非常に問題を作ると考えています。執着から自己解放できたなら,そのときは「涅槃」として理想である、と。その道に行くのにさまざまな方法が用意されています。
仏教では絶対次元・存在の概念がない、ということは宗教学の基本知識になっています。書店やインターネット上で多くの解説文献を入手することができます。ご自分でおしらべになってはいかがでしょうか?残念ですが,私は時間がありません。
仏陀は仏教という新宗教を創設するために登場したのではなく,あくまでヒンズー教の批判者として登場した歴史的経緯があります。彼はヒンズー教の環境で育てられました。ヒンズー教は絶対的次元を想定しますが、それらが人格化された神を拝むという偶像崇拝にひとつの特徴があります。仏陀はこの偶像崇拝を厳しく批判しました。これが彼の仏教の出発点となっています。仏陀に批判されたヒンズー教のほうは,彼自体を偶像崇拝するという新たな循環に入ってしまったという皮肉があるほど,ある意味,ヒンズー教は何でも包んでしまうおおらかさがあります。
仏教に顕教(exoteric teaching)と密教(esoteric teaching)があり(どの宗教の教えにも基本的にこの二つの顔があります),前者の文脈,すなわち一般大衆向けには、偶像崇拝を批判したいために,その元になっている絶対的次元までを否定するというレトリックを導入した形跡があります。それが,絶対的なものは存在せず,すべては変化をする,という教えに結実した,と考えられます。つまり逆にいうと,彼は絶対的次元を想定していなかったのか,といえば,実はそこが大問題です。
お経の解釈は歴史的にほとんど北方に流れたものが中心ですが,彼の死後に近い次期の南方系の経典の中に、絶対次元を想定していることを示唆するものがあります。つまり,どうも彼は本当は絶対次元を想定していたのではないのか,実際,なんと言ってもヒンズー教の枠そのものを全否定することは考えにくいのだから(偶像崇拝を問題にしただけで),という推定が成り立つ余地があるのです。また輪廻転生をシステムとして認めるなら,やはり絶対的次元の存在を想定しなければ,論理的には整合性を持たせにくい,という点からも,そう推定せざるをえない面があります。ただし、そのようなヴィジョンを彼が持っていたとしても、それは当時の密教学徒(宗教的エリート)のサークルに対してのみ教示していたことではないか、と察せられます。ただ,現代の仏教学では,彼は絶対的次元の存在を否定していた、というのが,世界的に確立した理解となっています(世界のどの大学でもそう教えています)。