現在地 HOME > 掲示板 ★阿修羅♪ |
|
(回答先: Re: 宗教は馬鹿のためにある 投稿者 現実 日時 2002 年 9 月 03 日 17:35:59)
ほほう、「宗教は馬鹿のためにある」とは、けだし名言じゃな。
ワシは、「馬鹿」と言う言葉を使わず「愚か者」としとるがのう。
そして、この地上の人間のほとんどは、愚か者じゃて。
あんたやワシも含めてな。
じゃから、あんたも宗教を学んだ方が良いぞ。
宗教とは、本来この世の摂理を学ぶ教科書であり、宗教団体とは学びの館のことじゃ。
教科書には大学生用もあれば、幼稚園生用もあり、巧みに作られた邪神養成用もあるぞ。
それをゴッチャにしとると馬鹿は馬鹿のままじゃと思うぞ。
また、学びの館はこの世の縮図じゃ、良い先生もいれば、その逆もあり、邪神と結ぶ者もいる。それらを一元的に捉えているのは幼稚園生の印じゃのう。
キリスト教外伝には、「もっともキリスト的な部分を捨てて、キリスト教は発展した」という言葉があるが、これは、かつて、ローマ帝国がキリスト教を弾圧しておってな、あまりの弾圧にキリスト教の幹部は教義を曲げ、帝国支配者の都合に迎合し、キリスト教は国教となって広まったと言う、悲しい歴史を指し示しておる。ワシは、それを非難する気は毛頭ないが、宗教とは何かを問うているんじゃ。そしてどの宗教団体の歴史にも似たような話はあるわな。拝んどれば幸せになれるとか、天国へ行けるとかの話もその類じゃ。
宗教とは、生きとし生けるものが調和し、栄えていくための法であり、摂理を語ったものであり、そこへ至るための道を説いたものじゃぞ。ゆえに、金銭がそれだ思う者は拝金教じゃし、科学と思うものは科学教、経済なら経済教という宗教を信じているわけじゃな。
あんたは何教じゃ。本物を捜せよ。しかし、身魂相応にしか展開しないがな。しかし、荒波、怒涛を乗り越える度量があれば、馬鹿でも天は手助けしてくれるがのう。本物は見えづらいが、道は何処にでもある。
だいたい、宗教に対する考え方でその人物の見識が判るとワシは思うておるが、
この世は幼稚園生が多いようじゃぞ。本質が見えん雑魚ばかりの世となっとるぞ。
車で事故った人を見て、車があるからいかんのだ。車を作ったやつが悪い(もちろん欠陥車は別じゃぞ)と言うような論理じゃあかんわな。
邪神とエゴで混沌となっとる上に、狭い知識で天(宗教、神)を見とるのは、まさに節穴から天井を見る図そのものじゃのう。心を澄ませして考えろよ。本物はどこだと。
ほんとの宗教の道はすがっているだけでは歩めんし、傍観者では道が見えんようになっとる。しかし、どこにでも道はある。強い気持ちで立ち向かう力がなければ、本物はつかめんぞ。それも人の魂のレベルをあげるための試練じゃ。
何も学ばず。何も実行せず。評論しているだけでは生きている値打ちはないぞ。