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2002年8月15日 ハンセン病の教訓、次代に 親子で療養所に行こう!桜井由紀治(鳥取支局)
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夏休みに1泊2日で、中学1年の長女(12)を連れて岡山県邑久(おく)町の長島にあるハンセン病国立療養所を訪れた。取材で知り合った元患者から体験を聞き、その歴史を12歳の胸に刻んでもらいたいと思ったからだ。高齢化した元患者の願いは、差別と偏見がこの地からなくなることだ。それを次の世代に引き継ぐ意味で「親子でハンセン病療養所に行こう」と呼び掛けたい。
瀬戸内海に浮かぶ東西6・5キロの島中央部に療養所「長島愛生園」はある。鳥取県がまとめたハンセン病資料集の編集委員で園の前自治会長、石田雅男さん(66)が、体験を語った。
自治体が患者を療養所に強制収容する「無らい県運動」が盛んだった1946年、10歳の石田さんに病気特有の知覚まひが起きた。警察官と医師がやって来てハンセン病と診断し、鳥取県境港市の親元から引き離されて収容された。
「なぜ、罪を犯したわけでもないのに何十年も隔離されたのか。なぜ同じ人間なのに差別を受けてきたのか。よく考えてほしい」。石田さんは長女に話した。
島訪問を提案したとき、ハンセン病の知識のない長女に特段の反応はなかった。島では美しい景色に見とれて観光気分に浸っていたが、重いその問いかけにうつむいてしまった。
私も言葉がない。特効薬が出回ってから40年間、「らい予防法」を廃止しなかった国の政策の過ちは明らかだ。だが、それだけを差別の根拠にするのは、元患者に精神的苦痛を強いてきた社会の一員として、無責任だと考える。長女への問いはそのまま、私にも投げかけられたと感じた。
88年、島が陸続きになった「人間回復の橋」、邑久長島大橋の架橋運動に尽力した加賀田一さん(84)は19歳の時、働いていた大阪で発病した。愛生園に行く前、母親に一目会おうと故郷の鳥取県用瀬町を訪れた。病気を打ち明けると母親は泣きながら「病気が知れると親族に迷惑がかかる。誰にも言うな。手紙もいい」と告げられ別れた。
「おじさんたちは、隔離の中で夢を抱くこともできなかった。君たちは努力すれば願いがきっとかなう。将来、何になりたい?」。加賀田さんの話に、それまで黙り込んでいた長女は顔を紅潮させて口を開いた。「弟のような障害児の世話をする先生になりたい」
知的障害がある5歳下の弟がいて、抱くようになったという長女の「夢」を初めて聞き驚いた。加賀田さんと石田さんは満面に笑みをたたえた。「一人の人間をみんなで守ろうという意識を持つことが大切だ。障害がある人を助けたいという今の気持ちを大切にしてほしい」と長女を励ました。
国の隔離政策を違憲とした昨年5月の熊本地裁判決後、愛生園を出て社会復帰した元患者は10人。現在も513人が園で暮らす。石田さんは「園を出るばかりが社会復帰とは思わない。療養所も社会生活の一部分として、島外から来る人たちを歓迎したい」と語る。
社会的関心が高まった昨年は約3000人が園を訪れた。一昨年の倍だ。若い世代の訪問が目立つ。根強い偏見を解消させる力になると、元患者たちの期待は大きい。園の自治会役員たちは自らの体験を語る「語り部」を務めている。加賀田さんは「残された人生の時間はいくらもないが、命が続く限りハンセン病の歴史を伝えていきたい」と力を込める。
入所者の平均年齢は75歳。元患者たちに応えるために、出会いの場を作っていきたい。若い感性をはぐくむことは将来、新たな感染症が発生した場合に、国や社会に過ちを犯させないチェック機能にもなる。
私も取材で元患者と出会うまで、その歴史と元患者の労苦を理解していたとは言い難い。どう接していいか思いあぐねていた私を、元患者は「遠くからよく来ていただいた」と、笑顔でねぎらってくれた。重い過去を背負いながらも相手を気遣う姿に、先入観から心の隔たりをつくっていたのは私の方だったと思い知らされた。
愛生園(0869・25・0321)に申し込めば、入所者の話を聞ける。宿泊所もあり、利用料は1泊1000円。全国13の国立療養所の多くがこのように、市民の訪問を積極的に受け入れている。
この夏、私たち親子は、一緒に聞いた話について語り合う機会も生まれた。輪を広げたい。行こう、親子でハンセン病療養所へ。
メールアドレス kishanome@mbx.mainichi.co.jp
(毎日新聞2002年8月15日東京朝刊から)