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(*1943年にエジプト・近江の地において発見された写本 MS-06 ZAKUU、通称「長浜爺文書」に基づく最新版決定資料)
中世に編纂された聖人伝集成「黄金虫伝説」には、聖ヨハンナについて、次のように記録されている。
「後の教皇にして聖女・オングレームのヨハンナは、キリストの御年819年に現在のイギリス・カンタベリーの地に、47歳の修道女を母に、父たる大司教の第8女として生まれたが、日々に美しさを増して名器、否、名花と謳われるようになった娘の才知と老愛人の権謀を恐れた大司教は、12歳になったヨハンナを遠くドイツ・フリースラントの女子修道院に入れてしまう。ところが、当該女子修道院には隣接してドミニコ会の男子修道院が位置しており、ヨハンナは若き修道士マルティヌスを毎夜自房に連れ込んでは夜伽をさせていたのであるが、稚拙未熟なマルティヌスの技法に辟易したヨハンナは、あろうことか好色の男子老修道院長ハインリッヒをたぶらかしてマルティヌスを殺害させた上、返す刀で老ハインリッヒ師をも毒殺、挙句に若くてたくましきスイス人修道士ヨハンネスとギリシャに出奔してしまう。
二人はアテネの学堂にて学び、放蕩三昧の年月を重ねるが、力一辺倒のヨハンネスにそろそろ飽きのきていたヨハンナは、彼に異端の嫌疑をかけさせた上焚刑へと陥れ(フリースラント時代に愛人の1人だったドミニコ会士異端審問官を再利用したと言われている。)、自らは男装の上、22歳の時に司祭へと叙階された。(841年。)
その後、あらゆる“知識”と“経験”を積んだヨハンナは847年、聖レオ4世の教皇登座に伴って枢機卿に抜擢され、ローマへと移る。
855年、教皇レオ4世が突然崩御(一説には真夏の夜にヨハンナと23回もの事に及ぼうとしての腹上死とも伝えられる。)すると、枢機卿による教皇選挙(コンクラーヴェ)が通例に則って行われた。突然の前教皇の死のせいもあって、その一日目は多数得票者を見ることもなく空しく夜を迎え休会となったが、次の日の朝になると状況は、皆一様に目の下に隈をつくり腎臓あたりに僅かに痛みを覚えつつ入場した枢機卿たちによって一変した。 口元緩み、視点未だ定まらぬこれら枢機卿連は、最長老の枢機卿の腎虚による死亡の報告の後、全会一致でオングレームのヨハンナを教皇聖座に推戴したのである。 ここに、第104代教皇、史上初めて Papa ではなく Mama と呼ばれるローマ法王ヨハンナ1世聖下が誕生したのである。 時に、キリストの御年855年7月20日のことであった。
教皇の座に着くと直ちにヨハンナ聖下は教会改革に着手し、全ての司祭に其の愛人との結婚を奨励、並びに同性愛修道士たちにはその各々のパートナーとの事実婚を許可し、つまるところ全カトリック聖職者の満場の支持・満足と称賛を勝ち得て教皇聖座の体制強化に尽力、これら大胆かつ時代を先取りしたとも言える改革案の法制化を急いだ。
しかし、キリストの御年857年12月24日、聖降誕祭前夜のミサ出席のためのラテラノ宮への典礼行列の最中、教皇ヨハンナ聖下は突然の陣痛に見舞われ、急ぎ近くの馬小屋に運ばれるや、そこで女児を産み落とし、そのまま産褥のため落命してしまった。(ちなみに、この時生まれた女子の子孫が現在の英国王家たるウィンザーことハノーファー家である。)
並び行く枢機卿の中で事情を知らぬ者はいなかったが、皆一様に、自らが産まれ出でたる赤子の父親たることの露見するを恐れて、一同揃ってかしまづき唱和した。
「なんとめでたき天の元后 これぞまことにマリアの再来
聖なるかな 聖なるかな 無原罪の御宿り 乙女の懐胎
我らが教皇こそは聖母の慈愛を御身に体現するものなれば」
かくして、その生前の良き、非常に心地良き“行為”により教皇ヨハンナは、聖母マリアの奇跡を体現したものとして死後の1034年に列聖され、12月24日をその祝日として性者、否、聖者の列に加えられた。現在では主として、多産、避妊、フェミニズムの守護聖人として広く崇敬されている。」
(「黄金虫伝説」、ローマ、1098年、より抄訳)
なお、近年、各地の聖堂に安置されている聖ヨハンナ像が涙を流したという奇跡について報告が相次いでなされている。 これらの奇跡を目撃した人々によると、聖ヨハンナ像がその御眼より涙を流すと、あたりは恍惚とした光に包まれ、一面、栗の花の香りがたちこめると言う。(これは、聖母マリア像の落涙現象時に百合の花の芳香が発生したとの報告に驚くほど酷似している。)教皇庁教理聖省ならびにグレゴリオ大学研究機関による分析結果によれば、これらの顔面より流れ出た涙は、いづれも通常の人体の体液成分と完全に一致しており、やや白濁してDNA等の蛋白質が多量に含まれ、又その組成中には、鞭毛を打ち激しく活動する特形なる細胞が数多く見られたという。(なお未確認ながら、鑑定の結果、これらの涙が男性のものと判明したとの報告もなされている。)(←こ、これは、いわゆる、ガ○シャというやつなのでは......。)
本騎士団はそれまでの諸々の活動・功績を認められて、1057年、ヨハンナ没後200年祭の年に、ヨハンナと同じくイギリス出身の第169代教皇ハドリアヌス4世によって正式に騎士修道会として認可され、その本拠として、ギリシア・レスボス島にあるかつてのヨハンナの邸宅跡地を与えられた。ここに本会は、聖ヨハンナに捧げられた騎士団として“軍事的にして至高なる教皇聖ヨハンナ救護騎士修道会”と新たに名づけられ、その活動の新たなる段階へと大いなる一歩を踏み出したのである。
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騎士団大本営総務統括部 / maryandkoji@hotmail.com