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2002年6月22日発行
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JMM [Japan Mail Media] No.171 Saturday Edition
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http://jmm.cogen.co.jp/
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■ 『from 911/USAレポート』 第45回目
「例外と美談」
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■ 『from 911/USAレポート』 第45回目
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「例外と美談」
18日のワールドカップ、トルコ戦を最後に代表チームを解散した日本の試合と、熱
狂の勢いのままに難しい逆転劇を現実のものにした韓国チームの戦いぶりは、明らか
に違いました。すでに様々な論評がされていて、サッカーの素人である私はその任で
はありません。ですが、ESPNの画面を通じて伝わってきた一つのイメージは、ど
うしても脳裏を離れないのです。それは予選リーグとは打って変わった代表選手達の
苦しそうな表情でした。
日本と韓国、同じように前半の開始早々にCKから一点を奪われてリードを許しなが
ら、戦いぶりはずいぶん違いました。守勢は敗北に他ならず攻勢以外に活路はないこ
と、最大の敵は時間であること、韓国チームはそんな状況に忠実であったように見え
ました。スローイングとなれば、ボールを「ふんだくる」ようにしてゲームを先へ進
め、CKでさえ瞬時にボールを蹴って、とにかく攻撃の機会を最大限に持ってゆくの
です。
それは賑やかな応援とあいまって、一見すると衝動にかられた無意識の行為のように
見えました。ですが、一点を先制された状況では、合理的な行動に過ぎないのでしょ
う。これに比べて、日本の代表チームは合理性に欠けていたように思えました。一点
取られている以上、自分たちが一点を取らなければ負ける、そのことは自明なのに、
韓国チームほどの運動量には達していませんでした。
「ベスト16に甘んじていたのが敗因」とか「国力衰亡の証明」、あるいは「豊かさ
の生んだ脆弱」など、印象論では何とでも言えます。監督の作戦や、チーム内の
コミュニケーションなど、細かな原因も報道されているようですが、そうしたことも
結果論としては言えるのでしょう。ですが、私の脳裏に残っているイメージは、単純
なものです。トルコ戦での日本の代表チームは全員が苦しそうな顔をしていたのです。
その表情がどうしても忘れられないのです。
それは、敗北への恐怖でも、疲労感でもないようでした。一言で言うと、例外的な事
態に対する困惑、という表情に見えました。序盤にリードを許した時点では、別に事
態は例外ではありません。ベルギー戦の後半すぐと同じです。一点返せば同点で、持
ち場を守って粘ってゆけば勝機が見えるでしょう。ですが、リードを許しながら、時
間が刻々と過ぎ、後半へ、そして終了間際へと追い詰められてからは違います。事態
は一秒ごとに例外的になってゆくのです。攻守にバランスなど必要ない、攻めのチャ
ンスを少しでも多くしなくては、そして攻めきれなくては負け、という例外的な事態
にです。
そこで、選手全員が見せていた苦しそうな表情は痛々しく、私の脳裏をいつまでも離
れませんでした。想定していなかった例外的な事態に対して、このままではダメだ、
でも今この瞬間にどうしても自然に体が動かない、そんな困惑の表情はどこから来た
のでしょう。それは「例外を許さない」日本の社会風土が関係する、私にはそのよう
に思えました。例外を許さない風土は、例外的な事態への対応に慣れていない人間を
作り出すのではないだろうか、いかに国際経験を積み、個を鍛えてみても、どこかで
例外を恐れる習性が顔をのぞかせてしまうのではないのだろうか、そんな重たい困惑
が選手達を押しつぶしていたように見えたのです。
確かに今の日本社会では「例外を許さない」傾向が強すぎます。このW杯自体でも、
チケットの本人確認問題での騒動にしても、乳幼児に一人分のチケットを要求するな
ど、「例外嫌い」のエピソードには事欠きません。ベッカム選手のサインをもらった
「例外的な」子供たちに対して「他の子と不公平」になると言ってサインボールを取
り上げた淡路の教育委員会の話もそうですし、カメルーン選手団の日程変更という
「例外」に困惑を極めた中津江村の騒動も同じです。
ビジネスの世界でもそうで、何かにつけて業界団体で談合して横並び体質を維持する
ことから、結婚などで姓の変わった社員に通称使用を認めない企業など、正に「例外
敵視」と言って良い風土を感じます。教育現場もそうで、枝葉末節にこだわった校則
で生徒を縛ってみたり、入学試験日に体調を崩したり事故にあって遅刻した生徒には
チャンスは与えられず、肝心の教育内容も「正解のある」内容に限られて「例外」を
放逐する訓練に終始しています。
例外を敵視する文化と表裏一体になっているのが「成文法至上主義」でしょう。何で
も法律に書いてあれば良くて、書いていなければOKという単純な発想法です。今現
在の日本で大きな騒ぎになっている食品への無許可添加物使用の事件にしても、本当
に危険なら放置している貿易相手国に警報を出すべきで、そうでなければ認可へ動く
べきでしょう。
防衛庁リスト問題も同じで、問題は「反対派に事実を開示したくないという恐怖心を
持った組織」に予算を与えて兵器を持たせることが醜悪なことなのであって、違法性
うんぬんというのは本筋ではないはずです。まして、核兵器の開発禁止は「原子力利
用法」という成文法に書いてあるからダメ、だから内閣を信用しろと言われても、首
をかしげたくなります。国策は国策として議論すべきでエネルギー政策の法律に書い
ているからと言って、それが根拠と言われても違和感が残ります。
そんな日本社会に対して、アメリカ社会は例外が大好きなように見えます。例えば、
高視聴率を上げているTV番組、『オプラ・ウィンフリー・ショー』では正に「人生
の例外」を賛美するかのように『型破りの卒業生』という特集をしていました。卒業
シーズンに相応しく角帽をかぶって登場したオプラが紹介した「型破り」の人たちの
エピソードは、正に例外的な人生ばかりでした。
シングル・マザーに育てられた黒人のブリトニー・ボイキンさんは、自分が10歳の
時に母親が男性関係のトラブルから自宅に放火されて殺されるのを目撃してしまいま
した。祖母に身を寄せる中で「何もかもが憎い」という衝動に押しつぶされそうにな
り、暗い十代の日々を送ったと言います。ですが、高校の校長先生から「あなたの才
能には『偉大さ』の可能性がある」と粘り強く励まされ「チャンスがここにあること
に気づいた」のだそうです。その結果として難関をパスして奨学金を獲得し、大学へ
の道が開けたとか。
35歳で卒業にこぎ着けたイエール大学で、卒業生代表のスピーチをしたバレビー・
クロカウさんは、14歳の時にアルコールに溺れたのを振出しに、早すぎた結婚と夫
の麻薬中毒死を経て自身も深刻な麻薬中毒と自殺未遂を繰り返したのだといいます。
偶々、麻薬の更生施設でめぐり会ったカウンセラーに、心の傷を癒されて、自身がカ
ウンセラーを目指す中、他人を救うことで自分が癒されていったのだそうです。試し
にSAT(全国統一テスト)を受けてみたら English(国語)が満点だったことから、
イエール進学の道が開け、次はロースクール(法学大学院)で法律を学んで、麻薬撲
滅に一生を捧げるのだと言います。
その他にも、母の病死とその後の父の鬱病に向き合う中、母の残した料理レシピを他
人に教えながら精神を立て直して卒業にこぎつけた女子高生や、自身がガンとの闘病
を経験し大きく遠回りをしながらメディカル・スクールを卒業した医師の卵など「例
外」的な人生のオンパレードでした。もちろん、お化けのような視聴率と社会的な影
響力を誇る番組ですから、海兵隊の将軍が出てきて奨学金の授与をしたり、逆に女性
差別にあって法学への道を閉ざされた60年後に法学校を卒業したおばあちゃんの物
語でバランスを取ったり、政治色もあったのです。
ですが、正にアメリカ人の好きな「例外という美談」が感動を呼ぶという趣向の番組
であったことに間違いはありません。破滅に直面しても「セカンドチャンス(一度だ
けのやり直し)」があり、そのチャンスを生かした人は挫折知らずの優等生よりも尊
敬される、そんな側面も「いかにも」という感じでした。
私たちの街では、ちょうど、子供たちのリトルリーグの表彰式があったのですが、昨
年のリーグMVPが実に傑作だったのを思い出しました。その子(10歳)は、シー
ズンのはじめに骨折してしまい、その後はずっとベンチを暖めていたのですが、全試
合にユニフォームを着て参加し、チームの応援をし続けたのだというのです。彼こそ
「スポーツマンシップの鏡」ということでMVPが贈られる、これこそ「例外という
美談」に他なりません。ナンバーワン投手や、好打者には特に表彰はない、それでも
皆が納得するのだから不思議といえば不思議です。
では、どうしてアメリカ人は例外が好きなのでしょう。日本人は例外が苦手なので
しょう。アメリカ人は優秀だから経験したことのない未知の領域に適応できる、その
一方で日本人は応用力に劣るのでしょうか? アメリカ人は、チャレンジ精神がある
が、日本人は臆病だからでしょうか? そうではないと思います。アメリカ人は「抽
象的な価値」が大好きなのです。「例外的な卒業生」を集めて、遠回りの人生に感動
したり祝福を送ったりするのは、教育とは人格の陶冶(とうや、古い言葉ですが・・)
だ、という価値を信じているからなのです。
骨折した少年にMVPを贈るのも、リトルリーグでは勝敗や細かな技能よりもスポー
ツマンシップが大事だ、という価値観を信じているからです。そんな中でも特に「例
外」的なエピソードが好きなのは、極端なケースになればなるほど、抽象的な価値の
強さが歴然とするからです。麻薬中毒や自殺未遂の崖っぷちからはい上がった女性を
賞賛するのは、現在そうした問題に苦しむ大勢の若者へのメッセージに他なりません。
君たちにも「セカンド・チャンス」があるのだ、と。
アメリカ人の例外好きは、細かな生活の中に根づいています。学校の教室では、生徒
や学生は先生に対して面倒な質問をすることが賞賛されます。
先生の方が "Well,that's a good question..." と言ったらしめたもので、先生は褒
めているのではなく「やりこめられて」困っているのです。そんな質問をする生徒が
褒められ、そんな質問に誠実に困ってみせる(最終的に答えられなければ教師の権威
は失墜しますが)のが「よし」とされる背景には、生徒の自主的な好奇心や知識欲が
教育効果を高めるのに有効だという価値観があるからです。
レストランでもそうで、ファースト・フードはだめですが、ダイナーと呼ばれる「一
膳飯屋」あたり以上では、「ちょっとマスタードを大目に」とか「タマネギ抜きで」
とか「腹が減ってないから半分で結構」というような「例外」的な注文に応ずるのが
「よし」とされます。もちろん、サービスをする側はチップという見返りがあるので
すが、サービス業の成功の秘訣はお客さんを満足させること、という抽象的な価値が
浸透しているからでしょう。
では、日本人はどうして例外が苦手なのでしょう。それは、日本人が劣っているから
でも、機械や奴隷のように言われるままに働く癖がついているからでもありません。
それは、抽象的な価値が共有できていないということに過ぎません。日本のサービス
業で「例外」を要求しますと、お店の人は一瞬困惑の表情を浮かべて、たいていは
「ちょっと上に聞いてきます」ということになります。定食メニューの「コロッケ」
を単品で注文できないか? とか「5個入りパック」のリンゴは食べきれないから、
3個だけもらえないか? という質問をすると、たいていは「困ります」ということ
になります。リンゴの場合ですと、同じ値段を払うと言っても通らないこともあるよ
うです。
役所へ行けば「規則ですから」ということになり、会社では「前例がない」というこ
とで新しい企画が潰される、それもこれも公務員が「公益」という価値を、企業では
「長期的な収益の最大化」という価値が徹底されていないか、そうした価値と実際の
日々の仕事の間に「断裂」があるからでしょう。その結果として、価値観に立ち返っ
た判断や意見が「書生論」とか「学生気分」として排され、派閥の利害や脱法行為に
濁りながら時間を費やした努力が賞賛される、そんな組織風土はいまだに健在のよう
です。
教育が良い例でしょう。主要教科の全てから、抽象的な価値が見事に取り除かれてい
ます。コミュニケーション手段としての英語はその馬鹿馬鹿しさが修正されはじめて
いますが、国語の教科書には依然として感動と論理が欠落していますし、社会では現
代社会におけるイデオロギー対立の問題が骨抜きにされています。数学では論理性へ
の信仰が不足する一方で、実社会への応用性も足りません。最大の問題は理科で、法
則性を自然に当てはめて「説明のつく瞬間」の感動、科学史における法則発見の感動
を追体験する工夫が少なすぎます。
受験戦争の最大の問題点は、難問奇問で生徒が苦しんだのでも、受験に全てを費やす
灰色の青春を強いた点でもありません。答えが決まっていて、抽象的な価値への信仰
や批判を必要としない、つまり「何の役にも立たない作業」に膨大な労力を使わせ、
その結果として「合理性や抽象的思考」の準備どころか「知的なるもの」への疲労感
に満ちた若者を量産したことにあるのでしょう。大学側の出題意図にはそこまでの悪
意はなくても、「傾向と対策」という語が示すように下らない訓練に時間を使う「受
験勉強」によってその内容は歪められてゆきました。「頑張った、でも役には立たな
い」ということに膨大な労力を使った経験は、人間をどこかで腐敗させるのです。
日本の文化に照らして考えると、抽象的な価値観というのは一部のエリートが考えて
いれば良いのであって、庶民はその具体化の努力をすれば良い、前例を積み上げ、細
かな改良改善を積み上げ、見えるものだけを信じてゆけば良いことがある、レクサス
(セルシオ)やAIBOのような付加価値も出来たではないか・・・そんな発想は今
でも残っています。ですが、サッカーの追い詰められた局面では「勝利」という価値
のためにあらゆる前例を無視して攻撃してゆかねばならないように、この先の日本の
製造業でも高付加価値へのあくなき創造が求められます。過渡期の東アジアで悪者に
されないよう生き延びてゆくには、原理原則に立ち返って政治イデオロギーそのもの
を見直す作業を世論のレベルでしてゆかねばなりません。
例外を美談にしてしまうアメリカ社会の特徴は、そんな日本のこれからにとって示唆
に富んでいます。教育や福祉、医療、メディア、代議制、世論形成、地域社会のアイ
デンティティ作り、そんな分野では、アメリカのように理念を庶民の手に取り戻しな
がら、例外という美談で価値を確認することも相当の部分で有効だと思います。です
が、国際政治とサッカーはダメです。国際政治における現共和党政権の行動パターン
では、「正義が人命に優先する」のです。これでは、お手本になどなるはずもありま
せん。
サッカーは、クジ運のせいもあってUSAチームは知らぬ間にベスト8に残っていま
したが、動物的かつ複雑な判断と作戦は、そもそもアメリカ文化の苦手とするところ
です。日本は日本として独自のサッカーを目指してゆかねばなりません。韓国のよう
な勢い頼みでもなく、冷静でしかも一生懸命で合理的な新しいサッカー文化をです。
もしかしたら、トルコ戦のホイッスル間際に代表チームの全員が見せていた苦しそう
な表情は、苦しみの中にも次の課題を発見しつつあることを示していたのではないか
と、私には同時にそんな希望も感じられました。中田英寿の語っていた「何かが欠け
ていた」という述懐、そして「Jリーグが変わらねば」という指摘には、そんな本質
的な気づきがあったようにも思うのです。
冷泉彰彦:
著書に
『9・11(セプテンバー・イレブンス)―あの日からアメリカ人の心はどう変わったか』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093860920/jmm04-22
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発行部数:109,256部(6月14日現在)
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【編集】 村上龍
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