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特集・追いつめられる言論・表現の自由 「法学セミナー」 2001年12月号
『官僚たちの危険な思惑』 魚住昭(稿)より
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官僚主導国家
小泉政権の誕生以来、めっきり影が薄くなっていた自民党の元幹事長・野中広務氏が久々にその存在感を示した。米国の同時多発テロ事件から二週間余り後の九月二八日、京都市での講演で次のように述べたのである。
「法律ができていないのに出発させる、空母の護衛のために硫黄島に四隻の軍艦をあてる。法制化もできていないのにそんなことを本当にやっていいのか。このテロに対して『行け、行け』と引っ張っているのは外務省だ。イージス艦が何の根拠もなく出かけるのは許し難い。突っ走る外務省の姿に怖さを覚える。それに便乗しているのが防衛庁制服組。何とかブレーキをかけようとするのが内局だ」(朝日新聞九月二九日付朝刊より)。
野中氏はあのテロ事件以後、日本政府のさまざまな動きの裏に何があったかをズバリ指摘している。どさくさ紛れに「後方支援」という名の海外派兵を画策したのは外務官僚であり、防衛庁の軍事官僚たちだ。われわれは政治家たちのパフォーマンスに惑わされることなく、この国が明治以来一貫して官僚主導国家だったことを思い起こすべきだろう。
実は今国会で成立するかもしれない個人情報保護法案の裏にも自らの権益を拡大しようとする官僚たちの思惑や利害が潜んでいる。私はこの半年間、法案反対運動に関わって、それを実感させられた。私たちの本当の敵は法案通過を図る連立与党でなく、彼らを裏で操る官僚たちではないかとさえ今は思う。少なくとも私たちは水面下で蠢(うごめ)く官僚の危険な思惑をもっと正確に把握する必要がある。それを抜きにして、最近の国家主義的な言論統制の動きに抵抗し、反撃していくロジックを組み立てることはできないだろう・・・以下は私が個人情報保護法反対運動のなかで見聞きし、考えたことの中間報告である。
(中略)
安田氏は法律家の立場から個人情報保護法案の危険性を鋭く指摘した。
「この法案は意図的に未熟な法案です。これほど乱暴で杜撰で曖昧で、しかし国家意思がはっきりした法律はない。これは極めて高度な確信的な意図によるものだと思います。民間の個人情報については管理統制する一方で国家が保有する個人情報については先送りして如何なる規定もない。そして(苦情処理のため)認定個人情報保護団体を新設するという規定が設けられている。恐らくこの団体は官庁の新たな外郭団体、天下り先として多数つくられるでしょう。こうした類の法律の裏には常に利権集団が存在するのです」。
治安・統制官僚の台頭
安田氏の言う「意図的な未熟」さは、個人情報とは何かという基本的な定義自体が曖昧な点にも表れている。条文には氏名、生年月日が明記されているだけで、たとえば住所、出身地などがどうなるのか不明のままだ。どの程度の量の個人情報を集めれば、取扱事業者として規制対象になるのかについても「政令で定める」とあるだけで、事実上の決定権は官僚に委ねられている。このほかにも「政令で定める」「必要な措置を講ずる」などの語句が頻繁に登場し、官僚のさじ加減一つでどうにでも運用できるように作られている。
裁量の余地があればあるほど官僚の権限が増大するのは言うまでもない。行革や規制緩和の圧力にさらされる官僚たちにとって、個人情報保護法は新たな権限と天下り先を生む魔法の杖のようなものなのかもしれない。
同じことはメディア規制三点セットの一つ、人権救済機関にも言える。公正中立な機関によって部落差別や報道被害に悩む人々を救済すると言えば聞こえはいいが、この機関を事実上運営するのは法務省の人権擁護局である。人権救済機関をつくることで法務省はマスコミヘの影響力を強め、自分らの権限と組織を拡大させていくことになる。
私は9・2集会の司会者の一人としてゲストたちに「なぜ最近になって個人情報保護法案のような言論統制、国家統制の動きが急速に強まってきたのか」と尋ねてみた。社会学者の宮台真司氏の答えは明快だった。
「バブル経済が崩壊して官僚の権力構造に大きな変化が起こりました。従来は旧大蔵省、通産省を頂点としていたのですが、今では総務省や警察庁が取って代わっている。それは五、六年前からキャリア試験のトップグループが総務省や警察庁を志望するようになったことでも判定できる。経済全体のパイが収縮する中で(予算の分配権を持つ)旧大蔵省のようなやり方があまり有効でなくなり、むしろ情報を持って民間を規制する官庁の社会をコントロールする力が大きくなったのです」。
安田氏も「バブル経済の崩壊で利権が限定されてきたため、その再配分がいま行われている。その争いで旧大蔵省グループを放逐して勝ち切ったのが、戦前の旧内務省グループに属する警察であり、検察であり、裁判所だと思う」と同じ趣旨の意見を述べた。
たしかにバブル崩壊を機に旧大蔵省の地盤沈下が進み、それと対照的に警察庁・検察庁などの治安・統制官僚たちの台頭が目立つようになった。九八年の大蔵省の接待汚職はそれを象徴する事件だった。検察は「役人が酒食の接待を受けていても、金品の授受がなければ収賄罪には問わない」という従来の慣例を破って大蔵中堅官僚らを起訴し、高級幹部を辞職に追い込んだ。
それと前後して従来、大蔵省の指定席と見られていた公正取引委員会の委員長ポストや預金保険機構の理事長ポストを検察OBが占めるようになり、新設の金融監督庁の長官にも検察OBが就いた。行革の社会的要請もなんのその、今年六月にまとまった司法制度改革審議会の意見書では検察官、裁判官の大幅増員がうたわれ、警察でも全国の地方警察官を一万人増員する計画が進められている。
こうして主導権を握った旧内務省系などの官僚グループの動きは、戦後社会に伏流していた国家主義の潮流と一部で結びつきながら、新たな国家総動員体制づくりに向けて突っ走っているのではないだろうか。一昨年に成立した盗聴法や国旗・国家法、改正住民基本台帳法、そして今回の個人情報保護法や人権救済機関など一連の国家統制法案もそうした文脈で捉え直してみる必要があるだろう。
テロ事件後の外務省の異様なはしゃぎぶりや、防衛庁によるインド洋へのイージス艦派遣計画などに見られるように、官僚たちの暴走はすでに始まっている。かつての日本を破滅的な戦争に追いやったのも、陸軍の中堅幕僚たちの身勝手な振る舞いだった。過ちは二度繰り返してはならない。半世紀前、私たち日本人がどれほど莫大な犠牲を払って憲法の自由と不戦の理念を手に入れたか、今こそそれを思い起こすべきときだろう。