★阿修羅♪  Ψ空耳の丘Ψ17
 ★阿修羅♪
Ψ空耳の丘Ψ17検索
 次へ  前へ
やっぱり東欧ユダヤ人のルーツはハザールらしい 投稿者 転載 日時 2002 年 3 月 21 日 05:24:45:

------------------------------------------------------------------------

▽126 :126 :02/03/18 14:43

■東欧ユダヤ人のルーツの謎 〜「出ドイツ仮説」の検証〜 その1

一般に「アシュケナジーム」のルーツについて“定説”とされてきたのは、
西欧のユダヤ人が東部へ向かって流れ出して、ドイツ・ラインラントから
東部へ移住したというものであった。

いわゆる「出ドイツ仮説」と呼ばれるもので、東欧のユダヤ人の祖先は
西ヨーロッパ、特にドイツからの移住民であったと信じられてきたのである。

しかしこの伝統的「出ドイツ仮説」は、ラインラントのコミュニティーの規模の小ささ、
ラインの谷間から出て行くほどの積極性のなさ、逆境下でのあまりにも紋切り型な対応の仕方、
そして、当時の年代記などにその移動を示唆する記述が全くないなど、様々な問題を抱えている。

(以下、長文が続くけどごめん。テキスト保存だったのでURL忘れちった(汗)

------------------------------------------------------------------------

▽127 :126 :02/03/18 14:44

「アシュケナジーム」というヘブライ語は、中世のラビ文献中では
「ドイツ」の意味に使われており、一般に誤った印象を与える恐れのある語である。
この語のイメージが、現代ユダヤ人の9割を占める東欧のユダヤ人の祖先は、
ライン川から興ったとする伝説を生み出す原因となったのである。
また、東欧のユダヤ人たちが使用していたイーディッシュ語は、
ドイツ語からの借用語が多く、このことも「出ドイツ仮説」を支える結果となっていた。

イーディッシュ語というのはユダヤ教の礼拝に用いられている言葉で、
ナチスによるホロコースト以前は日常の話し言葉としても広く用いられていたが、
今日ではソ連やアメリカの少数の伝統主義者の間で残っているだけである。

イーディッシュ語はヘブライ語、中世ドイツ語、スラブ語その他の混成語で、
ヘブライ文字を使って書かれる。現在は、絶滅しかかっている言語であるためにかえって
アメリカやイスラエルでは学問の対象として注目を集めるようになった。
しかしそれまでは、20世紀に入ってからでさえ、ヨーロッパの言語学者の間では
単なる奇妙な訛り言葉でまともな学問の対象にはならないと考えられていた。

***
------------------------------------------------------------------------

▽128 :126 :02/03/18 14:48

イーディッシュ語におけるドイツ語からの借用語の多さは注目に値するが、
どこの地方のドイツ方言が含まれたかを辿ることによって、
逆に「出ドイツ仮説」が正しくないことが判明する。

ユダヤ史研究家ミエセスは、イーディッシュ語の語彙、音声、統語法を
中世の主なドイツ語方言の幾つかと比較研究して、次のように結論している。

「フランスと国境を接する地域のドイツからの言語要素は、
イーディッシュ語には全く見られない。J・A・バラスがまとめた
モーゼル−フランコニア語起源の語彙リストからは、ただの一語もイーディッシュ語に
入っていないのである。もう少し西部ドイツの中心に近いフランクフルト周辺の言語も、
イーディッシュ語に入らなかった。……つまり、イーディッシュ語の起源に関する限り、
西部ドイツは除外されてよい。……では、ドイツ・ユダヤ人は昔々、フランスから
ライン川を渡ってドイツへ移住してきたという定説が間違っていたということなのだろうか?
然り。ドイツ・ユダヤ人──アシュケナジームの歴史は、書き直されなくてはならない。
歴史の間違いは、しばしば言語学の研究によって訂正されるものである。
アシュケナジームはかつてフランスから移住してきたとするこれまでの定説も、
訂正を待つ歴史の誤謬の一つなのである。」


このように、ミエセスは、イーディッシュ語の中のドイツ語要素が
西ヨーロッパ起源のものではないとして、これまでの定説を覆した後、
イーディッシュ語に最も大きな影響を与えたのは、
いわゆる「東中部ドイツ方言」であると指摘している。
この方言は、15世紀頃までオーストリアのアルプス地方および
バイエルン地方で使われていたものである。

つまり、イーディッシュ語に入ったドイツ語は、
東ヨーロッパのスラブ・ベルト地帯に接する東部ドイツのものだったのである。

***
------------------------------------------------------------------------

▽129 :126 :02/03/18 14:49

ここで重要になってくるのが、中世の東欧・ロシアでは、
ドイツの文化がもてはやされていたという点だ。例えばポーランドに住む人々は、
ドイツ人の文化を喜んで受け入れ、ドイツ式のやり方を真似た。貴族階級さえも
ドイツ式を好むようになり、ドイツから来たものは何でも美しく素晴らしいと考えた。

当時、ポーランドにいたユダヤ人──アシュケナジームたちも、
社会的成功のためにドイツ語を学ばざるをえなかったであろう。
また、先住のポーランド人と商取引をする立場の人は、商業用ポーランド語も
学ばねばならなかったであろう。手工業者や材木商人はドイツ人顧客には
ブロークン・ドイツ語で話し、荘園内の農奴にはブロークン・ポーランド語で話し、
そして家庭ではヘブライ語にドイツ語やポーランド語を適当に交ぜて、
混成国際語としてのイーディッシュ語が形成されていったと推測される。

***

もともとイーディッシュ語は長期にわたる複雑な過程を経て完成された言語である。
書き言葉として現われるのは19世紀になってからであり、それ以前にはずっと
「話し言葉」としてのみ使用されており、しかも決まった文法もなく、
人が好きなように外国語を加えることができた。決まった発音も綴りもなかった。

ポーランドのユダヤ人の中で、ドイツ語の誘惑に精神的でも物質面でも
抵抗をしたのはカライ派のみである。彼らはラビの学問も物質欲も拒否した。
したがって、彼らはイーディッシュ語には決してなじまなかった。
1897年の第1回全ロシア国勢調査によると、ロシア帝国(ポーランド含む)内には
1万2894人のカライ派ユダヤ人がいた。彼らのうち9666人がトルコ語
(ハザール方言)を母語としており、2632人がロシア語、
そしてイーディッシュ語はたった383人であった。

しかし、カライ派というのはあくまで例外的存在といってよいだろう。
一般論として、移住民というものは2、3世代のうちにはもとの言語を捨て、
新しい土地の言語を採用するものなのである。例えば、現代アメリカの場合を考えてみても、
東ヨーロッパからの移民の孫の世代はポーランド語やウクライナ語を話さない。
そればかりか、祖父母のしゃべるチンプンカンプンな言葉をこっけいとさえ思うだろう。

このことから考えても、これまで多くの歴史学者たちが
ハザールからポーランドへの移住を裏付ける証拠を無視してきた理由というのが、
ハザール人がハザール語とは異なった言語を使っている──移住後500年以上も
経っているのに──という点だったとはとても理解しがたいことである。

ついでながら付け加えると、聖書に登場するイスラエル12支族の子孫たちは、
言語的適応性を示す見本と言えるほど、多くの言語になじんできている。
最初、彼らが話していたのはヘブライ語である。バビロン補囚時代になるとカルデア語、
イエスの時代にはアラム語、アレキサンドリアではギリシア語、
スペインではアラビア語──ただし後にはラディノ語となる。

ユダヤ人は宗教上のアイデンティティーは守り続けたが、言語の方は
都合のよいものにどんどん変えていったのである。ハザール人は
イスラエル12支族の子孫ではない。しかし、彼らはイスラエル12支族の
コスモポリタン気質と、その社会的特徴とを共有しているのである。

***
------------------------------------------------------------------------

▽130 :126 :02/03/18 14:51

■東欧ユダヤ人のルーツの謎 〜「出ドイツ仮説」の検証〜 その2

次に、当時のドイツのユダヤ人の状況を具体的に眺めて、
「出ドイツ仮説」を検証してみたいが、

これまで定説とされている、西ヨーロッパ・ユダヤ人の
ラインラントからポーランドへの大脱出──その途上、彼らは敵意に満ちた
非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けたとされていたのだが──は、
歴史的にみて根拠が薄いことが分かるのである。

***
------------------------------------------------------------------------

▽131 :126 :02/03/18 14:53

記録に残っている限りでは、ドイツにおける最初のユダヤ人コミュニティーは、
906年のものである。この年、イタリアのルッカから
マインツへ移住したカロニムスという人物の率いる一団があった。
同じ頃、シュパイヤーやウォルムスにもユダヤ人が住んでいたという記録が見出される。

もう少し時代が下ると、トレブ、メス、ストラスブール、ケルンなど、
ライン川沿いのアルザス地方にもユダヤ人コミュニティーができていたらしい。

この頃のユダヤ教会の記録類を見ると、ドイツでは3つの都市
(ウォルムス、マインツ、シュパイヤー)だけが挙げられているにすぎない。
これらのことから、11世紀初頭のラインラントでは、この3都市以外の
ユダヤ人コミュニティーは、まだとるにたらない程度の
存在であったとみなしてよいだろう。

1096年に第1回十字軍が起き、ラインラントのユダヤ人たちは
キリスト教徒の十字軍によって大勢が虐殺された。
この時の犠牲者は、ウォルムスでは約800人、
マインツでは900〜1300人と、ヘブライ側文献では一致している。
もちろん、死よりは改宗を選んだ人々もいただろうし、文献には生き残った人の数は
記されていない。しかし、この両都市でのユダヤ人総数は、
死者だけの人数とされている数よりさほど多かったとは考えられず、
ウォルムスとマインツで生き残ったユダヤ人の数は、
それぞれせいぜい300人程度にすぎなかったと推測されている。

***
------------------------------------------------------------------------

▽132 :126 :02/03/18 14:55

以上のように、ドイツ・ラインラントにおけるユダヤ人の人口は
第1回十字軍以前でさえ、ほんの少人数であったと考えられ、
十字軍が通過した後はますます減少してしまったということが考えられる。

しかも、ライン川より東の中央・北部ドイツには、当時──そしてその後かなり長い間──
ユダヤ人コミュニティーは全く存在すらしていなかったのである。

以前ユダヤ史学者の間では、1096年の十字軍がドイツ・ユダヤ人の大集団を
ポーランドへ押し出したと考えられていたようであるが、これは今や伝説と化してしまった。
当時はハザールの歴史についてはほとんど何も知られていなかったため、
東ヨーロッパに何処からともなく出現した大量のユダヤ人の出どころが他には考えられず、
辻褄の合いそうな仮説で埋め合わせしてきたのだ。

最近の文献では、ラインラントからドイツ東部へ向かってのユダヤ人の移住について、
ましてや遥か東のポーランドへの移住に関しては全く触れられていない。

この旧学派に属するユダヤ人学者シモン・デュブノブは
「東へ向かった第1回十字軍は、ユダヤ人集団を更に東へ追いやった」と
いったん書いたすぐ後、次のように付け加えざるをえなかった。
「ユダヤ史にとって非常に重要な意味を持つこの移動の状況に関し、
詳しい記録は一切残されていない」。

***

ところが一方では、次々と繰り出される十字軍の時代に、ドイツ・ユダヤ人
コミュニティーがとった悲惨な行動の記録は豊富に残されているのである。

例えば、自ら死を選んだ者あり、抵抗して殺された者あり、
中には幸運にも生き残った者もいた。この生き残り組は、緊急時には一応法律上は
ユダヤ人を保護する立場にあった司教や軍事長官の城塞にかくまわれていたのだった。
ただ、この種の保護は常に有効であったとは言えないが、ともかく十字軍が
嵐のように通り過ぎた後、生き残った者たちは略奪された我が家へ、シナゴーグ
(ユダヤ教会堂)へと戻って行って、そこで新たな出発をしたのであった。

年代記には、トレブで、メスで、その他の地域で、このパターンの繰り返しが見られる。
第2回以降の十字軍遠征の頃になると、ユダヤ人側の対応の仕方も手慣れたものになってくる。
「新しい十字軍が沸き起こると、マインツ、ウォルムス、シュパイヤー、
ストラスブール、ウュルツブルクその他の都市のユダヤ人たちは、
書物その他の財産を新しい隣人に託して、近くの城塞へと逃げこんだ」

これらの史料の一つである『追想録』を書いたエフライム・バー・ヤコブ自身も
13歳の頃、ケルンからウォルケンブルク城へ逃れた避難民の一人であった。
ソロモン・バー・シモンによると、第2回十字軍の時代には、マインツのユダヤ人は
シュパイヤーにかくまわれ、やがて故郷へ戻って新しいシナゴーグを再建したという。

これが年代記に一貫して現われるモチーフである。
ユダヤ人が東部へ向かって流れ出していったという記述は一言もないのだ。
更に指摘するならば、ドイツ東部は当時はまだ「ユーデンライン」
(ユダヤ人に汚されていない土地)であった。
そしてそれからも、数世紀にわたって「ユーデンライン」であり続けるのである。

***
------------------------------------------------------------------------

▽133 :126 :02/03/18 14:57

なお、13世紀に入るとドイツのユダヤ人コミュニティーは多少回復の兆しを見せる。
しかし、これはほんの短い猶予期間にしかすぎなかった。
14世紀になると、フランスとドイツのユダヤ人には、
また新たな迫害の手が伸びてきたのであった。

その最初の悲劇は、フィリップ4世の領地からの全ユダヤ人追放であった。
フィリップ4世に追い出されたユダヤ人たちは、フィリップ4世の版図外にあるプロバンス、
ブルゴーニュ、アキテーヌ、その他のフランス内の封建領土へと逃れて行った。

「フランスのユダヤ人がまさに崩壊の危機に瀕していたこの時代にも、
ドイツのユダヤ人人口がフランスからの流入によってその数を増したという
記録は全く残されていない」とユダヤ史研究家ミエセスは述べている。

また、ユダヤ人がフランスからドイツを通り抜けポーランドへ移動していったという記録も、
この時代にはもちろん、その他の時代にも全く見当たらない。

フィリップ4世以後の時代になると、ユダヤ人は
一部呼び戻された(1315年および1350年)が、もとの状態に回復することは
不可能であったし、新たに湧き起こる迫害を阻止することもできなかった。
14世紀末頃まではイギリス同様、フランスも事実上「ユーデンライン」
(ユダヤ人に汚されていない土地)であったと言えるであろう。

***
------------------------------------------------------------------------

▽134 :126 :02/03/18 15:01

14世紀のユダヤ史上第2の悲劇は「黒死病(ペスト)」であった。
トルキスタン経由で東方からやってきたこの疫病は、1348〜1350年の2年間だけで、
ヨーロッパ全人口の3分の1(地域によっては3分の2)を消し去った。

この黒死病は、十字軍に続いて、東欧のユダヤ人の起源の謎を解く
“第2の鍵”だと長らく考えられていたのであるが、黒死病の場合も、
ユダヤ人の「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無である。

黒死病の時も、ユダヤ人の生き残りへのたった一つの道は、十字軍の時と同様に
ドイツを出ることではなく、ひたすら団結して砦のような場所か、
多少は敵意の少ない地域にかくまってもらうというものだった。

黒死病の時代にユダヤ人が移住を行なった唯一の例としてミエセスが言及しているのは、
シュパイヤーのユダヤ人がハイデベルクに逃れたというものであるが、
これでも、ほんの10マイル程度の移動にしかすぎない。

黒死病の通りすぎたあとのフランスとドイツでは、
ユダヤ人コミュニティーは事実上消滅してしまった。その後、ほんの2、3の小集落が
細々と生活していただけで、スペインを除く西ヨーロッパ全域は
それから200年間というもの「ユダヤ人に汚されていない土地」
(ユーデンライン)であった。

16〜17世紀になって、イギリス、フランス、オランダに、近代コミュニティーを
開いたユダヤ人たちというのは、スファラディム(スペイン系ユダヤ人)と呼ばれる
全く別の系統のユダヤ人である。彼らはそれまで1000年以上にもわたって
住んでいたスペインから、この頃になって追い出されたのであった。

***

このように、これまで定説となっていた
西ヨーロッパ・ユダヤ人のラインラントからポーランドへの大脱出
──その途上、彼らは敵意に満ちた非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けたと
されていたのだが──は、歴史的にみて根拠が薄いことがわかる。
「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無といってよいのだ。

***
------------------------------------------------------------------------


※続き(その3?)があるようですが、まだのようです。


 次へ  前へ



フォローアップ:

全★阿修羅♪=

 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。