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CIAとつながり、新自由主義を日本へ持ち込んだ中曽根康弘
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010150000/
2020.10.16 櫻井ジャーナル
グランドプリンスホテル新高輪で10月17日に行われる中曽根康弘の内閣・自民党合同葬は、政府の予備費から約9600万円が投入されて行われるという。中曽根が101歳で死亡したのは昨年11月29日。1982年11月27日から87年11月6日にかけて内閣総理大臣を務めたが、その間に国鉄を分割するなど私有化を進めるなど新自由主義を日本へ導入している。つまり日本の破壊を本格化させた人物だ。その経歴を振り返ってみよう。
彼は東京帝国大学を卒業した後、1941年4月に内務省に入るが、それから間もなくして海軍経理学校に入学、海軍主計少佐として敗戦を迎えた。敗戦から間もない1945年10月に内務省へ戻り、翌年9月には警視庁警視になるのだが、その年の12月に依願退職。1947年4月に衆議院議員選挙に出馬、当選して政界入りを果たした。
政治家になった中曽根は河野一郎の配下へ入り、そこで右翼の大物とされていた児玉誉士夫と知り合うが、その児玉がCIAの手先だったことがロッキード事件の際に判明している。
中曽根が権力の階段を登り始めるのはMRA(道徳再武装運動)と関係するようになってから。この団体はCIA系の疑似宗教団体で、日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維が参加していた。(グレン・デイビス、ジョン・G・ロバーツ著、森山尚美訳『軍隊なき占領』新潮社、1996年)
MRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合い、1950年6月にはスイスで開かれるMRAの世界大会に出席している。
ハーバード大学を卒業した直後、キッシンジャーは「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールの責任者になるが、1953年のセミナーに中曽根は参加した。セミナーのスポンサーにはロックフェラー財団やフォード財団のほか、「中東の友」といった団体も含まれていたが、この「中東の友」はCIAが隠れ蓑に使っていた団体だと言われている。
そして1954年3月、中曽根が中心になって2億3500万円の原子力予算案が国会に提出された。予算案は修正を経て4月に可決されている。言うまでもなく、こうした動きの背景には1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。
中曽根は旧制静岡高校から東京帝国大学へ進んだのだが、高校時代の友人に東郷民安という人物がいた。東郷は殖産住宅の創業者だ。その会社の株式が1972年10月に上場されたが、その際に中曽根は東郷に「株式公開を利用して政治資金をつくりたい」と持ちかけている。公開時の株価操作で儲けさせてくれというわけだ。
この上場を取り仕切ったのは業界最大手の野村証券。中曽根によると、当時の野村証券社長、北裏喜一郎は中曽根のスポンサーのひとりだというが、この上場でトラブルが発生、児玉誉士夫が出てくる。結局、東郷は1973年6月に所得税法違反の容疑で逮捕され、有罪判決を受けるのだが、冤罪だと考える人もいる。(東郷民安著『罠』講談社、1986年)
リチャード・ニクソンが1974年8月にウォーターゲート事件で辞任した後、ジェラルド・フォードが副大統領から大統領に昇格するが、このフォード政権で台頭してきたネオコンは好戦的な政策を打ち出す。
民主党のジミー・カーター政権ではズビグネフ・ブレジンスキー国家安全保障補佐官がアフガニスタンで秘密工作を実行、ソ連軍を戦争に引き込み、ロナルド・レーガン政権は1983年11月には戦術弾道ミサイルのパーシングIIを西ドイツへ配備している。
そうした流れに中曽根も乗る。首相に就任して間もない1983年1月、彼はアメリカを訪問、ワシントン・ポスト紙のインタビューで「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべき」であり、「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語った。
それから間もない1983年4月から5月にかけてアメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で大艦隊演習「フリーテックス83」を実施、3空母を集結させた。エンタープライズ、ミッドウェー、コーラルシーを中心とする機動部隊群が集まって挑発手金が軍事演習を実行したのだが、この重大な出来事を日本のマスコミは報じなかった。
そして1983年8月31日から9月1日にかけて大韓航空007便がソ連の領空を侵犯するという事件が引き起こされる。この旅客機はアンカレッジを離陸して間もなく航路を逸脱、NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が設定したアラスカの「緩衝空域」と「飛行禁止空域」を横切ってソ連軍の重要基地の上を飛行、ソ連側の警告を無視して飛び続けた末にサハリン沖で撃墜されたとされている。航路を逸脱してソ連へ向かう旅客機にNORADは何も警告していない。この事件には不可解なことがいくつもあるのだが、今回は割愛する。
この事件を利用してアメリカ政府は大々的な反ソ連キャンペーンを展開、その年の11月にはNATO(北大西洋条約機構)軍が軍事演習「エイブル・アーチャー83」を計画、核攻撃のシミュレーションも行われることになっていた。1981年の段階で西側からの全面攻撃を想定していたソ連のKGBはこれを「偽装演習」だと疑い、全面核戦争を仕掛けてくるのではないかと警戒、その準備を始めている。
大韓航空機の事件から2年後の8月12日、羽田空港から伊丹空港へ向かっていた日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落した。乗員乗客524名のうち520名が死亡している。
運輸省航空事故調査委員会はボーイング社の修理ミスで隔壁が破壊されたことが原因だと主張しているが、医学的にありえず、全く説得力はない。再現実験でも調査委員会のストーリーは無理だということが確認されている。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、墜落から10年後の1995年8月、アメリカ軍の準機関紙であるスターズ・アンド・ストライプ紙は日本航空123便に関する記事を掲載した。墜落の直後に現場を特定して横田基地へ報告したC-130の乗組員、マイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。
123便が墜落した頃、兜町では1987年に「完全民営化」する予定の日本航空の株価が暴騰していた。株価を上昇させ、大蔵大臣名目で保有されていた4090万株を高値で売却、1988年には700万株の時価発行増資を行うというシナリオだった。
2000円台の前半で推移していた日本航空の株価が急騰し始めたのは1984年のことで、「中曽根銘柄」と呼ばれていた。1985年の夏に株価は8000円を突破、そこで123便が墜落したわけだ。
株価は5000円を切るまで下落、日航株の仕手戦は終わったと考える人は少なくなかったが、内情を熟知している人は値上げさせなければならない事情があるので、絶対に値上がりすると断言していた。実際、1987年には2万円を突破している。
その頃、日本航空は超長期のドル先物予約をしている。証券関係者から「クレージー」と言われていたが、これは株価操作による資金調達の代償だった可能性がある。
日本航空123便が墜落した翌月、ニューヨークのプラザ・ホテルで開催された先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議で「ドル高是正」で合意しているが、その前からドルが安くなる、つまり円高になることは確実視されていた。ドルを保有したくない日本の金融機関にとって超長期のドル先物予約をした日本航空はありがたい存在だったはずだ。
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