>>3(補足) >菅政権は、この目標の達成のために、大学等の学術研究機関の原子力研究を軍事目的に使わないように提言してきた日本学術会議の過去の決議が邪魔になっていると考えているのだろう。 ご参考に。 ◆ 原子力三原則 (コトバンク 百科事典マイペディアの解説) 1954年3月,中曽根康弘を中心とする国会議員が,自由・改進・日本自由の3党に働きかけ,3党が突如原子炉予算を提出・可決した。 これに対し,4月23日日本学術会議は原子力問題に対する政府の態度を非難,核兵器研究の拒否と,1.研究の民主的な運営,2.日本国民の自主的運営,3.一切の情報の完全公開の三原則を声明し,同年10月の第18回総会で可決した。 日本学術会議では,52年に原子力の平和利用と原子炉建設について政府に働きかけるべきか否か,大きな論争があり,内部に検討のための委員会を設置していたからである。 この原子力三原則は物理学者伏見康治が,原子炉予算の可決を受けて,急遽とりまとめたものである。 これが,原子力基本法第1章第2条に盛り込まれ,日本の原子力開発の基本方針となり,諸外国の原子力法には見られない大きな特徴とされてきた。 https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87-492355 ◆ 伏見康治
伏見 康治(ふしみ こうじ、1909年6月29日 - 2008年5月8日)は日本の理論物理学者。名古屋大学名誉教授、大阪大学名誉教授。理学博士。公明党参議院議員(1期)。 本来の仕事である物理学、特に統計力学の分野で大きな研究業績を上げた他、戦後日本の科学研究体制の確立と発展にも力を尽くし、原子力平和利用研究を推進、さらには科学者の社会的責任のアピールと行動、一般向け書籍による物理の面白さの啓発・普及、そして対称性の美の追究など、多方面に大きな足跡を残した。 戦後になって伏見は日本においても独自に原子力の研究を行うことの重要性を認識し、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を起草して茅誠司と共に提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。 1977年-82年 日本学術会議会長 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%BA%B7%E6%B2%BB ◆ 茅誠司 茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 - 1963年)。 日本学術会議会長として日本の南極観測参加に尽力する。 また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。 1954年(昭和29年)- 1月 日本学術会議会長、この年社団法人日本アイソトープ協会会長 1955年(昭和30年)- 世界平和アピール七人委員会の結成に参加 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%85%E8%AA%A0%E5%8F%B8 ◆ 原子力白書 (昭和31年版) (原子力委員会,昭和32年12月)
第一部 総 論 第1章 原子力基本法の制定まで §1 原子力問題の論議 この原子力研究の問題はわが国学界の大きな問題として論議され,日本学術会議ではこれを議題として27年秋の第13回総会に提案されたが,当時としては原子核の学術的研究は大いに行うべきであるが,原子力の研究は兵器の製造に連る危険性があるからしばらく待つ方がよい,との意見が大勢をしめた。わが,国で「原子核研究」と「原子力研究」とが区別されて取り扱われるようになつたのはこの時に始まるといえる。 日本学術会議においては,原子力研究に対する態度を検討するため第39委員会が設置された。この委員会では原子力に関する内外の情報を集めて討議が行われたが,28年末までには結論がえられなかつた。29年第3期日本学術会議の成立により,新しい第39委員会が設置され討議が始められた。この頃には世界の情勢からみて原子力の平和利用に関する認識も多少変つてきていたので,原子力研究について従来よりも積極的な方針がとられ,まず29年2月原子力研究開始の可否についての公聴会が開催されて各方面の学者の意見が開陳された。この公聴会においては従来の空気にくらべて積極的な意見がふえていることが認められた。 ところで,原子力の開発を早急に行うべきであるとの意見は国会方面において強調され,29年の第19国会に,自由党,改進党,日本自由党の三派による予算修正案として2憶5,000万円の原子力予算が提出された。これに対し日本学術会議から「原子力の研究は重大ではあるが,準備の整わぬ今日,しばらく待ち,その予算は経費削減によつて困難に直面している原子核研究所にまわしてほしい」という主旨の申入れが国会に行われたが,原子力予算は29年3月国会を通過した。ここにわが国最初の原子力予算は成立して,わが国の原子力の研究,開発および利用はその第一歩を踏み出すことになつた。 日本学術会議第39委員会においては,原子力予算が成立した以上,原子力研究の遂行に遺憾ないよう努力すべきであるとの態度をきめ,4月20日からの総会にはかつた。総会では激烈な論議のすえ,第39委員会提案による二つの決議が可決された。 そのーはビキニ事件に言及し,原爆実験の禁止について世界各国の科学者の協力を求めたものであり,その二は平和目的の原子力の研究について,次の三項目の実行を求めたものである。 1)原子力の研究,開発および利用の情報は完全に公開され,国民に周知されること。 2)原子力研究は民主的な運営によつてなされ,能力あるすべての研究者の十分な協力を求めること。 3)原子力の研究と利用は,自主性ある運営のもとに行われるべきこと。 この公開,民主,自主の三つの項目は日本学術会議の原子力研究の三原則といわれるようになつた。この三原則は幅の広い表現であるため論議の対象となり,反対意見もあつたが,後に原子力基本法にとり入れられ,わが国原子力開発利用の基本方針となつた。 http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1956/sb10101.htm ◆ 三宅 泰雄(著)『死の灰と闘う科学者』(岩波書店,1972/09/20)※ 科学が創造をひらき、人々に平和と福祉をもたらす基盤は、科学者の自主性と、学問、思想の自由である。これはたんなる理念上の要請ではない。むしろ、歴史がしめしている現実というべきものである。私たちが、数多くのにがい経験をもっているように、科学が自主性をうしない、利己的な政治・経済の道具としてもちいられるかぎり、科学の恩恵は保証されないばかりか、科学の諸悪からまぬがれることもできない。 戦後のわが国に、日本学術会議がもうけられたのは、まさに科学と政治を、たがいに正しい座標軸におくためであった。科学における潜在的な政治性と、現代政治に要求されている高い科学性の相互認識が、それを可能にする前提であった。 もし、日本学術会議が、創立以来二十数年間、その設立の目的にそって機能していたら、わが国の科学は、いまとはかなりちがう路線をあゆんでいたであろう。人文・社会・自然の諸科学、あるいは巨大科学と一般科学のあいだの調和のとれた発展、大学・研究所間の自由な人事交流、平等・互恵を原則とする国際協力など、とおのむかしに実現していたにちがいない。しかし、現実はそうではなかった。日本学術会議が発足してから、五、六年もたたないうちに、その設立の理想から、大きく後退してしまったのである。それとともに、わが国の科学は、いまだに混迷の道をさまよいつづげている。 私がここに書いたのは、わが国の科学のある分野が、どのようにしてうまれ、うまれてからの数年間をどのように歩き、それが日本の科学にどのような影響をもたらしたか、という歴史的な記録である。その分野とは、放射線影響と原子力の研究の分野のことである。がんらい、これら二つの分野は、広義の原子力研究に属し、原子力平和利用における車の両輪の役目をはたすべきものである。しかし、わが国では別々のものとして発足した。 この二つの分野は、時をおなじくし、一九五四年(昭和二九)がその発端の年であった。すなわち、この年におきたビキニ水爆被災事件と、原子力予算の国会通過がそれである。とくに、後者が始反応となり、わが国の科学と科学行政の、世界には例のない混乱へと連鎖反応がすすんでゆくのである。 この記録には、よいにつけ、わるいにつけ、日本の政治、社会、科学のもつ、さまざまな側面がしるされている。それは同時に、また、日本人自身の歴史の一こまともいえるであろう。 ※「はじめに」より抜粋して引用 https://www.iwanami.co.jp/book/b267104.html http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-1345.html
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