杉田氏やはすみ氏が世に出たのはそもそも仕掛け人がいたようで。 杉田水脈議員はなぜ「ネット右翼界」の寵児になったのか?その源流「出版社X人脈」を探る 古谷経衡 | 作家/文筆家/評論家9/30(水) https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200930-00200742/ 上記記事より、以下一部抜粋 次世代の党』は、保守界隈・ネット右翼へ訴求し、外国人における生活保護不正受給の問題などをやり玉に挙げたが、実際には生活保護不正受給の例は極めて少なく、ネット世論に訴求し先鋭化しすぎた主張が有権者に無視されて破滅した。こうして2014年11月から、杉田氏は議員バッジを外し、在野の活動家としてその歩幅を広げた。
この時、杉田氏にいち早く注目したのが、東京都渋谷区に本拠を置く出版社・青林堂である。杉田氏の初の著作は、『なでしこ復活 ―女性政治家ができること―』であり、版元はこの青林堂であった。正確に言えばこの杉田氏の初の著作上梓時、氏は『維新』に所属していて『次世代の党』議員ではなかったものの、この処女作の出版からわずか半年を経ずして杉田氏は議員バッジを外し、いち在野の活動家としてその活動の幅を議会から在野に広げることになる。この彼女の「ネット右翼としての才」をいち早く見抜き、そして著作を刊行せしむるに至ったのが青林堂である。いや、というより、キーパーソンとなるのは青林堂代表取締役社長である'蟹江幹彦(かにえみきひこ)氏の鶴の一声であった。 筆者から推察するに、杉田氏の保守界隈・ネット右翼界隈への訴求は、むしろ『維新』→『次世代』を経てからの青林堂による刊行物のネット右翼界隈での膾炙(かいしゃ)により形成されたと言ってほぼ間違いはない。この時から、要するに下野時代において杉田氏は保守界隈・ネット右翼界隈での認知を急速に拡大させていった。つまり杉田氏は、『維新』時代は知る人ぞ知る右派論客だったが、氏の界隈での本格的認知は、むしろ氏が代議士のバッジを外してからの2014年以降の下野期間における、出版社・青林堂を中心・媒介とした「露出」にこそ、その核心があるといえる。 なぜ筆者がこのような断定的言い回しをするのかと言えば、私自身が、この時期くだんの青林堂と深いかかわりを持っていたからである。具体的には、2012年〜2013年にかけて、青林堂が刊行していた右派系・ネット右翼系のオピニオン雑誌、『ジャパニズム』の編集長を勤めていたからである。よってこの時期の前後になぜ、杉田水脈氏が保守界隈・ネット右翼界隈で活躍するようになったのか。その経緯が筆者にはまるで手に取るように判明するからである。 ・杉田水脈氏、千葉麗子氏、はすみとしこ氏を「発掘」した青林堂 2012年、まだ民主党政権の末期であったころ、杉田水脈氏はSNS『ツイッター』を使用していたが、そのフォロワー数は筆者の記憶によるところ2万程度であった(2020年9月末現在では約19万)。当時、保守界隈・ネット右翼界隈の気鋭の新人として認知されていた筆者ですら、そのフォロワー数が1万数千あったことを考えると、市井のライターであった筆者と、当時現役衆議院議員である杉田氏のそれは、巨視的に見れば概ね大差ない。やはりこの時点で、杉田氏は「保守界隈・ネット右翼界隈」の点景に過ぎなかったのである。 ところが杉田氏が前掲2014年の衆院選で敗れ下野すると、かえってネット界隈での杉田氏の評判はにわかに、かつ加速度的に上昇した。それは兎にも角にも、右派的・ネット右翼的価値観を披歴して憚らない杉田氏を、青林堂が「救い上げた」結果にほかならない。もっと言えば、その采配は同社社長の蟹江幹彦氏の鶴の一声と言ってもよかった。 この時期、私は青林堂の社長・蟹江氏と緊密な関係を築き、前掲『ジャパニズム』の発行業務に邁進していた。そもそも青林堂と蟹江氏が、所謂保守界隈・ネット右翼界隈と接点を持つようになったのは、ゼロ年代中盤に同社が刊行したある筆者の著書を、右派系CS放送局『日本文化チャンネル桜』(現在はCS放送から撤退)に紹介もかねて営業したのが発端だとされる(−ちなみに日本文化チャンネル桜本社と、出版社青林堂は同じ渋谷区の目と鼻の先に位置する)。 この辺りは詳しくなりすぎるので詳細は省くが、ともあれ編集長としての私の意思に関係なく、蟹江氏は保守系・ネット右翼系に訴求する「言論人」や「文化人」の発掘に余念がなかった。そこで見いだされたのが杉田水脈氏であり、「左翼(パヨク)から右翼に転向した」と自称する元アイドルの千葉麗子氏、のちにジャーナリストの伊藤詩織氏への名誉棄損等で民事訴訟の被告人になる漫画家のはすみとしこ氏らがその系列である。 杉田、千葉、はすみの3名は、概ねこの時期に、青林堂もといその代表取締役である蟹江氏によって次々と保守界隈・ネット右翼界隈でのデビューを飾ることとなる。蟹江氏はすでに述べた通り『維新』時代の末期、2014年に杉田氏をして処女作を刊行させると、千葉麗子氏の『さよならパヨク ―チバレイが見た左翼の実態―』(2016年)、はすみとしこ氏は『そうだ難民しよう! はすみとしこの世界』(2015年)と、保守界隈・ネット右翼界隈に訴求する単行本を続々刊行させるに至る。こういった著作の刊行と、それに呼応するSNSでの拡散が契機となって、杉田・千葉・はすみの3名は、保守界隈・ネット右翼界隈でたちまち寵児として持て囃されるようになる。 こう考えると、杉田代議士はもとより、千葉麗子氏、はすみとしこ氏らのデビューの切っ掛けを作ったのは、いうまでもなく出版社・青林堂であり、同社から刊行される刊行物の事実上の全ての采配を握っていた蟹江氏のプロデュースの賜物である。 筆者は、編集方針等の違いから2013年中盤になると青林堂および蟹江氏とは疎遠になりがちであったが、事実筆者の商業刊行本たる処女作は2012年に同社から刊行されており、蟹江氏には並々ならぬ恩義を感じているのである(−そして蟹江氏のミリタリー方面での知識造詣の深さにも敬服しており、その知識量は並のオタクを遥かに凌駕すると現在でも思っている)。そこで肯定も否定も排除した評価を下すと、蟹江氏は純粋に当時自らの信奉する保守界隈・ネット右翼界隈の信奉する「嫌韓・反中・反朝日新聞・反左翼(野党)」といった大義に杉田氏・千葉氏・はすみ氏らが合致すると見込んでの思惑があったように思え、ここに何らかの邪念があるとは思い難い。単純に、蟹江氏の経営者としての嗅覚が、当時、保守界隈・ネット右翼界隈以外ではほぼ無名に等しかった杉田氏をデビューたらしめたのであろう。 しかし爾後の展開は、青林堂と蟹江氏の思惑を大きく超えた展開を見せる。杉田氏は青林堂での処女作発表の後下野し、下野時代に「嫌韓、反慰安婦運動」で名を馳せ、着実に保守界隈・ネット右翼界隈の信用を勝ち得た。どの時点でかは判然としないが、この活動に自民党が目をつけ、2017年に中国比例での公認を得ることにつながった。 千葉氏、はしみ氏も議員になるという道を辿らなければ同じで、第二次安倍政権が発足してからしばらく、2013年〜2014年に保守界隈・ネット右翼界隈にデビューすることで、「文化人」としての地位を固めた。しかしこの三者の大元を辿ると、すべて青林堂と蟹江幹彦氏に行き着く。つまり杉田氏は、自民党から立候補を打診するはるか以前からネット右翼の前衛たる青林堂と蟹江氏に見込まれていたからこそ、現在の地位がある。自民党が、無名の在野活動家をただ野放図に一本釣りしていたわけではないのである。 〈以下略〉 この国に生きる女としては、まずはこういう構造で日本社会が出来ていることを頭に入れておきますよ。
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