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沖縄から「核地雷小隊」
米軍解禁文書で判明 「核攻撃の策源地」示す
しんぶん赤旗 2020年5月6日【1面】
ベトナム戦争時出撃
本土復帰前の沖縄から、核兵器がいつでも南ベトナム駐留米軍に送り届けられ、迅速に使用できる態勢にあったことが、国際問題研究者の新原昭治氏が入手した当時の米陸軍の解禁文書などから判明しました。1975年4月30日に終結したベトナム侵略戦争から45年。沖縄がベトナム核攻撃の策源地だった実態を、あらためて検証する必要があります。(新原氏インタビュー2面)
研究者の新原氏が入手
米軍占領下にあった沖縄はアジア太平洋最大の核貯蔵庫とされ、ピークとなる67年には1300発もの核兵器を配備。B61など空軍の核爆弾や地上部隊が使用する核地雷、8インチ、155ミリりゅう弾砲など多様な戦術核兵器が配備されていました。太平洋軍のシャープ司令官は「核装置使用のための緊急計画が沖縄で準備されている」(米統合参謀本部歴史書『統合参謀本部とベトナム戦争 1960―68』)と報告しています。
使用に備える
こうした核攻撃態勢の詳細が示されているものに、南ベトナムの米陸軍司令部が現地の傘下の陸軍部隊に届けていた指示・連絡文書「在南ベトナム米陸軍の展開と支援」があります。65年から72年まで頻繁に発行されており、新原氏が米テキサス工業大学ベトナム・センター文書館で入手したものです。
一連の文書では、(1)米陸軍の一大部隊が南ベトナムに駐留しはじめた65年のうちに「核兵器整備要員」を急速に拡大して、1000人を超す実員を配置していた事実を知らせる一方、(2)南ベトナムの戦況がきびしさをました67〜68年にかけての時期には、傘下部隊に対し、核兵器使用態勢をとれという指令が出た場合には、早急にそれに応えられるだけの準備を取るよう指示していました。
一連の連絡文書のうち、67年12月11日付には、実際に核兵器能力を持つ部隊名とその準備態勢が列挙されており、その中に、沖縄から南ベトナムに移駐していた米陸軍第173空挺(くうてい)旅団の「核地雷小隊」が明記されていました。同部隊は沖縄の西表(いりおもて)島、読谷(よみたん)村などで訓練を行い、65年に南ベトナムに配備されましたが、「核地雷小隊」の存在が明らかになったのは初めてです。文書では、「早急に、部隊の核能力を再構築するための計画を支援するため、臨戦態勢を取るよう」指示し、人員・訓練・装備の3点で核兵器能力の整備状況を記しています。
貯蔵は沖縄に
一方、核兵器そのものは沖縄に置かれていました。新原氏は「南ベトナムでは、米軍基地がいつ戦闘に巻き込まれるか分からないので、核弾頭などの貯蔵は危険と判断したのではないか」と指摘しています。
ベトナムへの核攻撃態勢は、米陸軍の場合、海兵隊などと同様、いざとなれば沖縄の核基地からベトナム現地の実行部隊に核兵器が送り届けられる形で成り立っていたものとみられます。
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沖縄への核兵器配備と県民のたたかい(上)
国際問題研究者 新原昭治さんに聞く
しんぶん赤旗 2020年5月6日【2面】
大統領主導で核基地に
沖縄をはじめ、日本の米軍基地が、いかにアジア諸国を危険にさらし、その命を奪ってきたのか。とりわけベトナム戦争では、沖縄は単なる侵略戦争の拠点にとどまらず、核攻撃の震源地とされていました。そうした実態の解明に取り組んでいる国際問題研究者の新原昭治さんに聞きました。
戦後、サンフランシスコ講和条約により日本から不当に分断された沖縄は、米国の軍事植民地支配の下に置かれました。その状況下で、アイゼンハワー米大統領は1953年7月23日の国家安全保障会議(NSC)で沖縄への核持ち込みをひそかに決定しました。
■54年に核部隊
この日の議事録には、「大統領は極東に追加の飛行隊を駐留させ、とりわけ、想定される緊急使用のため沖縄での核兵器能力を使用可能にすることを考えていると述べた」と記されており、アイゼンハワー大統領が主導したことが分かります。同大統領は「核兵器も通常兵器と同じように使える」という持論の持ち主で、同年策定した新たな国家安全保障基本戦略(ニュールック)に、そうした考えを盛り込んでいます。
その結果、翌54年に沖縄の米空軍嘉手納基地に隣接する巨大な弾薬庫(現在の嘉手納弾薬庫地区)に、多数の核兵器が配備されました。その後、さらに核兵器が追加配備され、沖縄は米国以外の世界では、例を見ない巨大な核基地とされたのです。
米空軍についていえば、54年、「米空軍第400弾薬整備中隊」が米ニューメキシコ州のサンディア空軍基地(現・カートランド空軍基地)から沖縄に配備されます。同基地は45年8月の広島・長崎原爆投下計画の際、原爆開発の中心だったロスアラモスから、西太平洋のテニアンまで送り出した歴史を持つ巨大な核兵器基地です。
また、第400弾薬整備中隊が核兵器部隊であることは、日本共産党国会議員団が71〜72年にかけておこなった沖縄での調査で入手した米軍内部資料からも明らかです。同部隊の「点検報告書」には、多数の核爆弾の取り扱いがきわめて詳細に記録されていました。
■民主主義抹殺
核配備が進められた53〜54年にかけて、沖縄では米軍による県民へのむき出しの弾圧、民主主義抹殺が相次ぎました。
53年に琉球大学の学生4人が那覇市内で広島・長崎の原爆の惨状を訴える街頭演説を行ったところ、それを理由に、米軍の指図で退学させられるという事件が発生しました。また、54年10月、沖縄人民党の瀬長亀次郎さんが、奄美諸島が日本に返還された直後の時期、奄美の活動家をかくまったという根拠のない口実で不当逮捕されました。その直後、人民党の活動家たちが抗議集会の開催に向けての相談で集まったところ、警官が急襲して25人を逮捕する事件も起きています。
一連の事件を考えると、米軍が沖縄に核兵器を配備しつつあったその時期に、県民がいっさいモノを言えないようにするため、不当な言論弾圧が強行されたと考えられます。
同時に、米軍は大規模な軍用地収奪も進めていきました。沖縄の軍用地問題に関する米下院軍事委員会の報告書「プライス勧告」(56年公表)には、「(沖縄では)原子兵器の貯蔵・使用の権限に対し、外国政府による制限がない」との文言があり、県民から強い憤りと抗議が相次ぎました。
一方的な軍用地収奪にたいしては、伊江島その他での「銃剣とブルドーザー」による強奪や、土地の一括買い上げなどに対して、文字通り「島ぐるみ」のたたかいに発展し、辺野古新基地建設に反対する現在の「オール沖縄」の源流となっていきます。(つづく)
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