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https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2003/03/news043.html
ちょっと前、台風なのに定時出社を目指すため駅に長蛇の行列をなすサラリーマンたちを「社畜の参勤交代」などと揶揄(やゆ)する投稿がSNSで話題になったが、それで言えば、さしずめ今回は「情報弱者の参勤交代」というところか――。
いったいなんのことかというと、先週末に各地で起きた「トイレットペーパー・パニック」のことだ。
新型コロナウイルスの国内感染拡大を受け、「マスクと同じく中国からの輸入に頼っているので品切れする」というデマを真に受けた人たちが、ドラッグストアや量販店に押しかけ、競い合うようにトイレットペーパーを購入。一時、店頭からトイレットペーパーやティッシュペーパーが完全に消えてしまったのだ。
もちろん、2月28日時点で日本家庭紙工業会が「中国に依存しておらず、製品在庫も十分にあります」とアナウンスしているように、週明けから店頭には徐々にトイレットペーパーが並び始めている。
つまり、厳しい言い方になるが、このディズニーランドやUSJのアトラクションばりの行列に加わった方たちの努力は「ムダ」に過ぎず、むしろ「人混みを避ける」という真逆のことをやっているので、感染リスクを高めるようなことになってしまったのだ。
■自ら進んでデマに踊らされにいった
リスクが発生した際には「情報リテラシー」がいかに大切かをあらためて思い知らされる事例だが、その一方でこの問題は「デマに踊らされた」という言葉だけでは片付けられない部分もある。実は、紙不足になるという話は「デマ」だと分かったうえで、列に加わっていた人もかなりいたのだ。
実際、某情報番組が列に並んでいた人にマイクを向けたところ、「デマなのは知っているが、みんな並んでいるし、なくなったら困るから」なんて言葉が返ってきていた。行列参加者のSNSにも同様なコメントが多い。
このような現状を踏まえると、今回の現象は「デマに踊らされた」というよりも、「買い貯めに走るみんな」に引きずられる形で、「自ら進んでデマに踊らされにいった」といったほうがしっくりくる部分も多々あるのだ。
では、なぜ在庫がたくさんあると分かっているのに、トイレットペーパー行列できてしまったのか。
「自分さえ良ければいいという人間が多いからだ」「マスゴミが報じるから不安をあおられたのだ」などいろいろなご意見があるだろうが、筆者は、これまでもたびたび日本を危機的状況に追い込んできた「みんな至上主義」がまん延しつつあるからではないか、と思っている。
■非論理的な「みんな至上主義」
「みんな一緒」を過度に求めるあまり、冷静に考えれば分かるようなことでもスコーンとどこかに飛んで、無意識に「みんな一緒」の行動、判断をしてしまう。そんな「みんなと一緒だったら地獄に落ちても安心」みたいな非論理的な「みんな至上主義」が危機発生時には事態をさらに悪化させる、ということは歴史が証明している。
その分かりやすい例が「インパール作戦」である。
およそ3万人が命を落とし、世界中の戦史家から、「太平洋戦争で最も無謀」とボロカスに酷評されるこの作戦は、世間一般的には「日本は神の国で絶対に負けない」と信じて疑わぬ大本営がゴリゴリ押して進められた、というようなイメージが強いがそうではない。
実は日本軍の幹部たちもこの作戦が失敗する可能性が高いことはなんとなく分かっていた。が、「作戦を進めたいみんな」に引きずられる形で、「ま、ここまできたらやるしかないでしょ」みたいなふわっとしたムードの中で進められてしまったのだ。そのあたりは、歴史学者・戸部良一氏の『戦争指導者としての東條英機』(防衛省 戦争史研究国際フォーラム報告書)に詳しい。
現地軍の苦境を知った大本営が、ビルマへ派遣した秦彦三郎参謀次長が帰国後、「作戦の前途はきわめて困難である」と報告したところ、東條英機は「戦は最後までやってみなければわからぬ。そんな弱気でどうするか」と強気の態度を示したと記録されている。と聞くと、「ほらみろ、こういうトップの暴走が悪いのだ」と思うかもしれないが、これは彼の本心ではなかったのだ。
『この報告の場には、参謀本部・陸軍省の課長以上の幹部が同席していたので、東條としては陸軍中央が敗北主義に陥ることを憂慮したのであろう。このあと別室で2人の参謀次長だけとの協議になったとき、東條は「困ったことになった」と頭を抱えるようにして困惑していたという』(同上)
実は東條英機もこれがいかに無謀な作戦なのか、ということは頭ではよく分かっていた。が、分かっちゃいるけどやめる決断を下せなかった。頭が悪いとか、根性がないとかではない。組織人として「みんな」に気を使ったのである。
秦彦三郎によると、「インパール作戦は現地軍の要求によって始まった作戦であるので、作戦中止も現地軍から申請するのが筋である」(同上)という考えが大本営にあった。一方、大本営にいた佐藤賢了は、東條英機を「独裁者でなく、その素質も備えていない」として、こう評している。
「特に責任観念が強過ぎたので、常に自己の責任におびえているような面があった」(佐藤賢了の証言)
■「みんな」という顔の見えない化け物
責任感の強いリーダーは、「みんな」を引っ張って、ひとつにまとめるのは自分だという自負があるので、「みんな」がバラバラになることを極度に恐れる。東條英樹はそんな「調整型リーダー」の典型だった。だから、頭では、この無謀な作戦で多くの兵士が死ぬとは分かっていたが、中止を決断できなかった。「みんな」が望む作戦を中止するなんて、無責任なことはリーダーとしてできるわけがないからだ。つまり、「人命」よりも「みんな」を優先するという本末転倒な思考回路に陥っていたのである。
このように戦争末期の軍部は上から下までいたるところまで「みんな至上主義」にとらわれていた。「みんな」が頑張っているのに、ここで撤退できるか。亡くなった「みんな」のために、潔く死んでこい。「みんな」を助けるため。「みんな」のために――。そんな感じで「みんな」という顔の見えない化け物に押しつぶされて思考停止をした。
だから、終戦後にアメリカ軍や、世界の戦史家たちが、日本軍の命令系統を振り返ってみて驚いた。誰かが責任を持って命じたことではなく、個人の責任があやふやなまま支離滅裂な作戦が遂行されていたからだ。
この悲しい歴史から我々が学ぶべきは、日本人は「みんな至上主義」に陥りやすいことだ。一致団結、ワンチーム、絆、オールジャパン、などの集団になったときに強さを見せる一方で、顔の見えない「みんな」に引きずられて個人の頭で考えることをやめてしまう。その結果、その象徴が戦争末期の国民スローガン「いくぞ、1億火の玉だ」である。「みんな」という言葉で思考停止をしてしまい、誰が言い始めたのかも分からない無茶苦茶な話でも、自ら進んで乗っかってしまうのだ。
それが先日のトイレットペーパーパニックであり、今も続く「やり過ぎ自粛」の正体だ。
新型コロナの影響で、ディズニーリゾートやUSJなどの大型テーマパークが休園し、大規模イベントが中止になっているが、そこまで多くの人が集まらないような小規模なイベントや、濃厚接触の恐れもない屋外施設などでも自粛が始まっている。ここまでやるのはおかしい、とどこかでみんな思っている。しかし、「自粛するみんな」に引きずられる形で、「とりあえず自粛しておくのが安全」という判断へ自然と流れている。誰に命じられるわけでもなく、そうしなくてはいけない法的根拠などどこにもないにもかかわらず、思考停止をして「みんな」のやることにただ黙って従っているのだ。
■何かを守るためには、何かを犠牲に
そんな「思考停止」を象徴するのが、病院や役所の人たちに「検査を受けさせろ!」と迫り、薬局店員に「マスクはいつ入荷するんだ!」とキレる人々だ。彼らに怒りをぶつけても無意味だが、もはや自分の頭で考えられず、「みんな」の不安にひきずられてパニックになっているのだ。事実、薬局店員などから「新型コロナよりも人間が怖い」という声が漏れている。
戦時中、日本のいたるところでこういうパニックが起きた。善良な市民が、戦争反対を叫ぶ「非国民」を追いかけ回してリンチをして、子どもが女の子ばかりの家は、お国のために役立っていないと町内で陰湿なイジメにあった。
これを「過ぎた話」だと笑っていられない。それは、在庫のあるトレイットペーパーに群がり、マスクをめぐってストリートファイトを繰り広げ、電車内でせきをした人間にキレる人々の姿を見れば明らかだ。
では、どうすれば「みんな至上主義」から抜け出すことができるのか。
個人的には、社会全体で「トリアージ」の考え方を普及させていくしかないと思っている。これは救急医療の世界で使われる考え方で、大事故・災害などで同時に多数の患者が出たときに、手当ての緊急度に従って優先順をつけることだ。
「命に優先順なんてない!」と怒りに震える方たちもいらっしゃるだろう。もちろん、「みんな」をすべて助けられれば理想だが、緊急事態の中でそれをやっていたら助かる命も助からなくなるのだ。このような考え方は「危機」に立ち向かう政治家にも企業経営者にも必要である。「危機」が起きた際に、「みんな」を守れれば理想だが、現実は難しい。つまり、何かを守るためには、何かを犠牲にしなくてはいけないということだ。
これまで筆者は「危機」に見舞われた政治家、役人、企業経営者からの相談に乗る機会がたびたびあった。そこで気付くのは、「危機」の真っ只中にいてもリスクを取りたくないリーダーが非常に多いことだ。これを守りたいのなら、これをあきらめるべきというコミュニケーションのプランをこちらが提案をしてもムニャムニャ言って何も決めらない。社会、取引先、有権者など外の人間だけではなく、身内などすべての人にいい顔をしたい思いが強いので、「優先順位」をつけることができないのだ。
余計な犠牲を払いたくない。なるべくダメージをゼロにしたい。責任を背負い込みたくない。余計な一言を言って揚げ足を取られたくないなど、そういうムシのいい「守り」をするのが、危機管理だと勘違いをしている人が非常に多いのだ。
■「昭和型危機管理」は通用しない
国民が不安で話をもっと聞きたい中で、安倍首相が質問をロクに受けずにサクサク会見を切り上げたと批判されているが、あれこそが「守り」に特化した典型的な「昭和の危機管理」である。中止の指示をしたという首相広報官も、国民からブーイングがくるのは分かっていた。が、あそこで厳しい質問を浴びたら失言をして炎上するかもしれないので、「答えない」で叩かれるほうがまだマシと判断したのだ。なるべくリスクを取らずに、その場をやり過ごしたい「昭和型危機管理」の発想だ。
もちろん、このようなムシのいい危機管理は大失敗する。それをこれ以上ないほど分かりやすく世に示したのが、ダイヤモンド・プリンセス号だ。英国船籍だ、外国企業の船だ、狭い船内だ、と山ほど「制約」があるのだから、こちらがやれることが限られていることは分かっていた。そこで柔軟な判断をするのが危機管理であるはずが、とにかくリスクを取りたくない政府は、3600人を船内に閉じ込める、というカチカチに硬直した「守り」をして大コケしてしまう。
日本人だけでも下船させる。あるいは希望者だけでも別の施設に移すなどいくらでも個別対応ができたが、「現実的ではない」「キャパが」「法的根拠は」など官僚の知識をフル回転させて言い訳をしている。リスクをとって「例外」をつくったら、誰かの責任問題になる。「責任」は政治家と官僚が一番嫌いな言葉だ。
つまり、あの「船内隔離」というのは、3600人や国民の安全を優先して導き出された結論ではなく、政治家も官僚も誰も責任を追及されることなく、現行のシステムに基づいて「でも、一生懸命やりましたよ」と胸を張って言えるスキームということで選ばれたのに過ぎないのだ。
政府内でも現場にいた人も「この感染対策はずさんだ」とうすうす感づいていた。しかし、誰も異を唱えられなかった。東條英機が作戦撤退を決断できなかったのと同じで、「みんな」に逆らうリスクを取りたくなかったのだ。
旧日本軍の流れをくむ厚労省がかじ取りをすれば、このような典型的な「昭和型危機管理の失敗」をするのはある意味で分かりきっていたことなのだ。
■「みんなを守れ」と叫びながら破滅の道
新型ウイルスばかりでパニックになっているが、これから日本にはほぼ間違いなく発生する、首都直下型地震や南海トラフ地震が控えている。梅雨になればまた水害もあるだろう。ある意味、「危機」が日常になってくるのだ。
そんな厳しい環境の中で、これまで死屍累々の「昭和型危機管理」が通用するとは到底思えない。今回のパニックを、真摯(しんし)に受け止めて、「危機が起きた際に何を犠牲にして、何を守るべきなのか」という優先順位を決めておかなければ、「みんなを守れ」と叫びながら破滅の道を歩むだけなのではないか。
(窪田順生)
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