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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70739
安倍政権の問題が凝縮…突然の休校要請という「ヒドすぎる危機対応」
新型コロナが明らかにしたこと
平河 エリ
「読む国会」主宰/ライター
●5つの問題点
「三つ子の魂百まで」という言葉がある。たしかに人間はそう簡単には変わらないものだ。普段はあまり冴えない人間が、危機になると突然豹変し、頼りがいのある存在になる……そんな「ドラえもん」の映画版でののび太くんや、スーパーマンのクラーク・ケントのようなケースは少ない。
それは政治も同じである。平時に対応がお粗末な政権に、危機管理は出来ない。これは自明のことだ。
今回、安倍晋三政権のコロナウイルスに対する対応を巡っては、様々な批判が寄せられている。とりわけ、クルーズ船における対応、また、あまりに唐突に発表された「休校要請」については、国民から怒りが噴出した。
これら問題含みの対応が行われることは、コロナウイルスがアウトブレイクが疑われる前から、すでに予見可能であった。つまり、このコロナウイルスへの対応は、政権がこの7年間一貫して示してきた様々な姿勢が一気に表面化した結果とも呼べるものなのだ。
政権がこの7年間で示してきた姿勢とは、大きく分ければ、下記の5点のことである。
1.非常時におけるリーダーシップと発信能力の欠如
2.専門知の軽視
3.責任を取らない姿勢
4.生活感覚の国民との乖離、古い家族観への妄執
5.根本的な危機感の欠如
以下、順番に述べていく。
●1.非常時におけるリーダーシップと発信能力の欠如
先日、筆者がTwitter で安倍総理の危機対応をこのように評したところ、大きな反響があった。
災害が起こったら国民の前に出ない。災害と関連して覚えられないようにする。そうすると責任論にならない。色気を出してリーダーシップを発揮しようとしなければ、いつかみんな忘れる。
安倍総理の災害対策への姿勢は、以前から一貫している。都合が悪い時は、国民の前に出ないのだ。
今回のコロナウイルスに関しても、ほとんど自分自身で会見することはなく、対策の基本方針ですら厚生労働大臣が会見で発表する、という形になっている。
この点は、2月26日の衆議院予算委員会集中審議において、立憲民主党の枝野幸男代表からも「厚労省に押しつけて、政府を挙げてやっている感覚が足りないのではないか」と、厳しく指摘されている。
今回のコロナウイルスの問題は、国家的な問題である。
その証拠に、衆議院予算委員会の棚橋泰文委員長は、野党がウイルス関連以外の質問するのを牽制する意味で、審議の際に「極めて重要なコロナウイルス対策の大事な国会!国民が見ている!」と絶叫した。世耕弘成参議院幹事長もわざわざ「国会で野党はコロナウイルスについて質問しないのは理解できない」とまで言っている。
しかしながら、国民に対して発信し、訴えるという重要な行為は、野党が質問によって実現するのではなく(与党が野党に期待するのでもなく)、行政府のトップたる総理大臣、もしくは官房を代表するスポークスマンとして官房長官が行うものだ。
安倍総理は、この7年間、会食や芸能人、著名人との会合には積極的に出席している。あるいは、春に新宿御苑で行われ、様々な功労・功績のある方々と一緒に政権が安泰に維持されていることを祝う祭り(どういった会か名前が思い出せないが)などもそうだ。
一方、危機のとき、国民に語りかけるべきときに出てくるのは、菅義偉官房長官や大臣、事務方の官僚である。
このような安倍総理の姿勢、あえていうなら都合が悪いときにリーダーシップを発揮しない姿勢が、危機対応において露呈したと言っていいのではないか。付け加えるならば、この後に見る、唐突に発表された「休校要請」は、そのリーダーシップのなさを誤魔化すために発表されたものだったと言えるかもしれない。
●2.専門知の軽視
2月28日、政府は全国の小中学校、高校に対して休校を要請した。
この要請に関して、新型コロナウイルス対策の専門家会議の委員である、川崎市健康安全研究所の岡部信彦所長は、NHKの取材にこう答えた。
「専門家会議で議論した方針ではなく、感染症対策として適切かどうか一切相談なく、政治判断として決められたものだ。判断の理由を国民に説明すべきだ」
また、多くの専門家が「休校(だけで)は意味がない」とも発言しているように、この休校要請という措置が、何らかの疫学的な知見に基づいて行われた要請であるとは考えづらい。
そもそも、専門家会議に相談をしないなら一体専門家会議とは何のために存在するのだろうか。
クルーズ船を巡っても、岩田健太郎神戸大学教授からは二次感染を防ぐ措置がなされていないことや、「感染の専門家がいない」ことが指摘されていた。
このように、専門知、専門家による指摘を軽視する傾向は、この7年間の安倍政権に一貫して見られる姿勢だ。
それは、大臣の人選にも見て取れる。
例えば、「USBが何か知らない」と暴露した桜田義孝(サイバーセキュリティ担当)大臣がいた。
共謀罪の議論について「私の頭脳ではちょっと対応できない」と国会で答弁した金田勝年法務大臣がいた。
「北方領土問題に関しては素人」と会見で堂々と述べられた江崎鉄磨沖縄北方担当大臣もいた。
そしてもちろん、「勉強不足」「ヤマを張る」など、国会を学校の定期試験の場と勘違いしているかの如き珍答弁を今も繰り返している北村誠吾(内閣府特命担当)大臣がいる(いくらでも追加できるが、文字数の関係でやめておく)。
●3.責任を取らない姿勢
もちろんこれまでの政権でも、明らかに能力を欠く大臣は存在した。しかし、そうした大臣はあっさり罷免されていたものだ。
安倍政権の大きな特徴は、資質に欠ける大臣を年功序列で任命した後、「適材適所」と国会で延々と述べながら決してやめさせないことにある。素人を大臣にし、かつ任命者である行政の長が責任を取らない……このような姿勢が現場の官僚を疲弊させ、かつファクトに基づかない奇妙な意思決定を頻発させているのではないか。
健全な政官関係とは、政治家が事の責任を取ることによって実現するものだ。「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う」と述べたのは田中角栄であるが、今の安倍政権において一人でも「すべての責任を負った」大臣がいただろうか。
責任を取らない姿勢は、「休校要請」にも如実に表れている。今回、安倍総理が行ったのはあくまで「要請」である。噛み砕いて言うなら「あとはよろしく」だ。現場でなにか混乱が起きたとしてもそんなことは知らない。その場合には、「現場現場で柔軟に対応してくれ」という「さらなる要請」が来るだけだろう。しかし、それはあまりにも卑怯ではないか。
あえて申し上げたい。政治家は、絶対に官僚や専門家には勝てない。安倍総理は法学部であるので法律や憲法のことはとてもよくご存知だろうが、感染症の専門家ではない。加藤勝信厚労大臣もそうだ。
しかし、政治家にしか出来ないことはある。それは、リスクある意思決定を行い、その決定の責任を引き受けることだ。首を切られることだ。
今回、ネット上などでは、東日本大震災の菅直人総理と、安倍総理を比較する声がある。歴史にIFはない。災害対応もそれぞれ違うので、比較はできない。しかしながら、我々は学ぶことが出来る。安倍政権下ではあるが、熊本地震が被害を一定程度に抑えられたのは、東日本大震災や阪神淡路大震災の知見を活かすことが出来たからではないのか。
だからこそ、意思決定の過程と結果を記録し、何が正しく何が間違っていたかを後世に残し、間違っていたことがあれば政治家が責任を取る。それが、政治家が、後世に責任を取る唯一の方法ではないか。
●4.生活感覚の国民との乖離、古い家族観への妄執
今回のコロナウイルスの騒動に当たって、私の敬愛するTwitterユーザーが「『カップラーメンの値段も知らない的な批判はくだらない』って思ってたけど、関係ないことなんてなかったんだ」と述べていた。つまり、政治家は国民の生活感覚に通じていることが重要だという指摘だが、深くうなずいた。
総理は「パートは月収25万円」と延べ、副総理は「カップラーメンは400円」と述べる。この二人は中高年の男性であり、また、政治家のご子息である。そして、今の安倍政権は、基本的に「中高年の・男性の・政治家の家庭に生まれた」人たちで構成されている。
なるほど、それなら、学校が休校になったところで問題などないだろう。彼らの頭の中では未だに専業主婦の存在が当たり前であり、「あるべき」家庭象なのかもしれない。なんなら子供を「だっこし放題」で、母親たちからは喜ばれる、そんな心づもりだったのか。
しかし現実的には、小さい子供を抱える家庭は共働きが当たり前になっている。シングルマザーやシングルファーザーも少なくない。
学校の休校という意思決定が、いかに大きなインパクトを国民生活にもたらすかは、そういった「家族観のアップデート」を行えていれば、想像ができたはずなのだ。
残念ながら、今の政府の中枢は、ある特定の、極めて限られた属性の人たちによって占められている。残念ながら、彼らが今から価値観を変え多様性を尊重するようにはならないだろう。
この項ではこれ以上深く申し上げる気はない。安倍政権の中枢が旧態依然とした家族観を持っていて、かつそういった家族観を持つ方に支えられ、7年間の政権運営を行っていることは、自明であるからだ。
●5.根本的な危機感の欠如
最後に、本当に安倍総理、あるいは政権は、危機感を持って対応しているのか? という問題がある。
ご記憶の方も多いと思うが、2018年の7月5日、西日本で豪雨災害が起こる中、安倍総理は何をしていたか。「赤坂自民亭」である。
安倍総理は宴会の会場に日本酒を持ち込んで写真を取り、今や経済再生担当大臣に出世した西村康稔官房副長官(当時)は「まさに自由民主党」などとTwitterに投稿していた。
2019年7月25日、北朝鮮が弾道ミサイルを発射した後も、総理は「我が国の安全保障に影響はない」などとして、ゴルフに興じられていたこともあった。
そして今回、コロナウイルスが猛威を振るうなかにあっても、会食を繰り返している。
本当に総理は、危機感を持っているのだろうか。
もし本当に自分がリーダーであり、かつこれが危機的な事態であるという認識があれば、まず会食は取りやめ、公邸からは可能な限り出ないだろう。
実際のところ、総理、あるいは政府閣僚は、「コロナウイルスは大したことはない」と認識しているのではないか?
それならそれでいい。専門家の中にも「人混みも問題ない、イベントの中止はやりすぎ」という声もあるし、現段階で過剰に反応する必要はない、という意見もあるのは確かだ。
しかし、であるならばなぜ、休校を要請したのだろうか。政府の認識が「問題ない」なのであれば、休校は、IOCや海外に向けた「ちゃんとやっていますよ」という単なるポーズなのだろうか。だが、「ポーズ」に付き合わせあれ、最終的にその負担を引き受けるのは家庭や学校なのではないか。
私はこの点について強く疑問に感じる。
●「危機管理に強い内閣」というファンタジーの崩壊
ここまで、安倍政権の過去7年間の姿勢と、今回のコロナウイルスにおける対応の関連性を述べた。牽強付会との批判は甘んじて受けよう。最後に総論を述べる。
政治家、とりわけ大臣は、普段は素人でも問題は起きないのかもしれない。政治の世界とは、「役割を演じる」世界でもあるからだ。大臣は官僚の書いた作文を読むことで、専門家を演じることができる。
海が凪いでいれば、艦長は船を操縦できなくても、貫禄さえあればいい。裏で事務方が操縦してくれるからだ。そうした「本音と建前」「密教と顕教」の使い分けで国家の秩序が保たれ、経済が安定するなら、それにも一定の意味はあるだろう。
一億総活躍、女性活躍をぶち上げ、成長戦略の矢を矢継ぎ早に繰り出す。そんなビジョンとスローガンを、国民は半ば信じ、期待し、安倍総理は7年の政権を作り上げた。
これらの政策に、ほんとうの意味で「現実を直視しなくてはならない瞬間」は訪れない。たとえ女性議員の比率が一向に改善しなくても、たとえ少子化が永遠に解決されなくても、最後の瞬間までスローガンは増え続け、唱えられ続けるだろう。
しかし、ウイルスや防疫、災害には、スローガンやビジョンは通用しない。そこにあるのは冷徹な現実と、対処すべき問題だけだ。しっかりと嵐を見つめ、現実に何が起こっているかを把握し、対応するしかないのだ。
その時ファンタジーは崩壊し、パニックが起こり、操縦できないが貫禄があるだけの艦長は海へと投げ出される。
映画『オズの魔法使い』で、偉大な魔法使いだと思われていた男は、スクリーンを倒してみれば、ネブラスカ州オマハから来た平凡な詐欺師であった。
いま、スクリーンは倒されつつある。「危機管理に強い内閣」が謳われていた裏から出てきたのは、国民の前に姿を現さない総理大臣と、パニックに陥り、場当たり的な意思決定を繰り出すばかりの内閣であった――もしそれが現実だとすれば、あまりに悲しい現実である。
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