ヒステリーと精神分析は切っても切れない仲にある。 精神分析はフロイトとヒステリーとの出合いによって誕生したものだと言ってよいだろうし、また、フロイト自身もヒステリーであったということを考え合わせると、まさに精神分析はその生い立ちからして、ヒステリーの中から生まれたヒステリーのもの(of the hysteria)なのである。ではその誕生の経過を少し辿って見よう。 *シャルコー
フロイトは1885年10月から1886年の2月までの5カ月の間、パリのシャルコーのいるサルペトリエール病院に留学する。 このときの経験はフロイトに大きな印象を与えた。 神経学者としてパリにやってきた彼は、シャルコーのヒステリーを扱う圧倒的な力量に感激し、自分も精神病理学に方向転換し、ヒステリーに携わることに直接興味を持ち始めたのであった。 シャルコーは有名な“火曜日のレッスン”で催眠術を用いて患者にヒステリー症状を出させたり、またそれを取り除いたりして見せたり、外傷ヒステリーの名で、それまで一般的に女性の病であると信じられていたヒステリーに男性ヒステリー患者の形があることを症例提示によって示したりして参加者たちを驚かせ、感嘆させ、また当惑させていたのであった。 フロイトはここで催眠下の無意識の状態において一つの思考が存在し、それが患者の症状を支配しているのだという可能性、そしてそれと共に、そこには性的なものが作用しているということを垣間見るのであった。 またヒステリーにおける身体麻痺は決して解剖学的な経路に従うのではなく、腕とか足という言語表象による身体イメージに従って生じるということも学んだ。 精神分析の誕生の発端となるこれらの考えも、シャルコーにおいては何の日の目も見ずに葬られ、新しいヒステリー理論が生まれることもなく終わってしまった。 彼の理論は器質的な観点から成り立っており、ヒステリーは遺伝的なものが支配するという考えを持っていたので、無意識の理論が発展する基盤は欠けていたし、性の問題にしてもそれが現実に病気の要因となっていることを暗に認めていても、当時のブルジョワ的考えに支配されていた彼にとってそれを正面から取り扱うことは不可能であった。 当時フランス医学界のボス、支配者の一人であったシャルコーは患者の応対にしても、一人一人を自分の部屋に呼び出してくるという態度で、結局、ヒステリーにたいして支配者的な立場に立ち、そこから患者を見るという「観察の臨床」から逃れることはできなかった。 彼は、それとは反対に、患者の前に赴き、ヒステリーの言葉に耳を傾け、それを真理として受けとるフロイトの「聴取の臨床」とは正反対の場所にとどまったのであった。 *ブロイヤーとアンナ・O 精神分析の誕生にあたり、フロイトとヒステリーとの結び付きをとりなしてくれたもう一人の師は、フロイトより14歳年長で、フロイトにヒステリーの催眠治療の手解きを与えたブロイヤーであった。
彼は有名なアンナ・Oとの治療を催眠を使って1880年から1882年までおこない、その結果を、ブロイヤーと交友のあったフロイトに知らせたのであったが、フロイトはあまり大きな反応は見せなかった。 シャルコーのところに行って、彼のヒステリーの扱いに目をみはったフロイトは、ブロイヤーによるアンナ・Oの治療の話をシャルコーに話して見るが、シャルコーは興味を見せなかったのであった。 シャルコーのところから帰って開業を始め、ヒステリーの治療に携わるにしたがってヒステリーにたいする興味がふくらみ、プロイヤーを説き伏せ再び彼にアンナ・Oの症例を持ち出させ、彼と共同で『ヒステリー研究』(1895年)を書き上げるのであった。 ウィーンに帰ってからフロイトは最初、催眠下における暗示によって治療を施していたのであったが、暗示は必ずしも有効ではないということが徐々に判明するようになり、少し違った方法を使うこととなった。
それは、ブロイヤーがアンナ・Oの治療の際に考案したもので、催眠下に暗示を与える代わりに、患者と会話を交わし、患者の考えていることを自由にしゃべらせて、患者の中に鬱積しているものを吐き出させ、患者の心の中にあるものを浄化しようというものである。 これはカタルシス法と呼ばれている。 カタルシス法はブロイヤーが考え出したというより、ブロイヤーがアンナ・Oから教えてもらったものだといったほうが正しいかもしれない。 彼女は「詩的で創造力の豊かな天賦の才能を持つと共に、鋭く、批判力を持った知性を持ち、この知性が簡単に暗示をかけることを妨げていたのであった」。 このような患者を前にしてブロイヤーはなす術を失っていたのだろう、結局、彼女の言うことをおとなしく聞くことしかできなかったのである。
彼女はそれを「talking cure」とか「煙突掃除」とかいう誠に正鵠を射た表現を使って表わすのだった。 『ヒステリー研究』のアンナ・Oの症例はカタルシス法によって彼女は病気から解放されたとなって終わっている。 しかしながら実際はまだ後日談が残っている。 ブロイヤーはアンナ・Oの治療を最後まで行ったわけではなく、あるとき突然治療を打ち切り、自分は妻と一緒にイタリアに旅行にでかけてしまったのであった。 なぜ彼はそのような行動を取ったのだろうか。 その答えはそれから50年後になってやっと明らかになる。
フロイトは当時偶然にブロイヤーの口から聞き、そのときは何を意味するものか把握できないままにあった言葉を半世紀後に思いだし、それが何を意味していたのかを理解するのであった。 それはこうである。 アンナ・Oの症状が一応治まったとき、彼女はブロイヤーに腹部の痙攣発作を訴えてこう言うのだった―― 「ブロイヤー先生の子供が生まれるのですわ。」
これを聞いてプロイヤーは愕然とする。
彼女は想像妊娠の症候を示し、それもブロイヤーの子供だというのである。 彼女はブロイヤーが子供を欲しがっていることを知り、主体の欲望は他者の欲望であるというラカンの言葉どうり、自ら子供を持ちたいという欲望を抱き、それを想像妊娠という形で、愛する主治医に見せつけるのである。 これはアンナのブロイヤーに対する転移であるとともに、ブロイヤーも気がついていない彼のアンナへの対抗転移を表わすものでもあろう。
このような状況を前にどうしてよいか分からなくなったプロイヤーは患者をその場に放り投げて、逃げ出すのであった。 そして彼の妻はイタリア旅行中ブロイヤーの望むとおり子供を身籠もるのであった。 ブロイヤーの発見はまさに精神分析の誕生を準備する直接の第一歩であった。
彼が最後に逃げ出さず、自分の今やっていることは何を意味するのか、何が自分の目の前にあるのかを見とどけようとしていれば素晴らしいものが得られたであろう。 ブロイヤーは優秀で才能にも恵まれていた医師であったが、それ以上のものではなかった。 彼は因習的な考えに捕えられ、フロイトが言うように「ファウスト」的なものを持っていなかったのだ。 夢判断の扉に「天上の神々を動かしえざりば冥界を動かさむ」と記したフロイトのような大きく、自由な志は持っていなかったところが、この二人の医者の運命を大きく隔てることとなったのである。 *自由連想法 ブロイヤーと共同で著した『ヒステリー研究』はブロイヤーの扱った『アンナ・O』も入れて五つのヒステリーのケースが取り扱われており、彼女たちの治療を通して精神分析が生まれていった様子が生き生きと描かれている。
医学的にヒステリーを治療する時、治療者は、シャルコーがそうであったように、病気を治すための知をもって患者を診るという支配者の立場に立つのが通常であるが、『アンナ・O』のケースにおいてブロイヤーは医者という立場を一旦保留し、患者との談話の中で、患者が自ら健康を回復するのを待つという方法をとった。 これがカタルシス法として精神分析の自由連想の前身となったのである。 フロイトがブロイヤーのカタルシス法を初めて適用したのは、『ヒステリー研究』の最初の症例『エミー・フォン・N夫人』においてであった。 まだこの方法になれていないフロイトは、彼女にあれこれといろいろ尋ね回ったのであろう。 ある日、 「彼女はすっかり不機嫌になって、これはなんのためか、あれはなんに由来するのか、といつもいつも尋問するものではない。 こちらが言おうと思っていることをしゃべらせていただきたい」 とフロイトに苦情を言うのであった。
この一見、些細な出来事の中には、患者に頭に浮かんでくることを自由に語らせるという、精神分析の唯一の方法である自由連想法となって大きく実を結ぶものが含まれていたのである。 『エミー・フォン・N夫人』の治療においては、すべてがカタルシス療法で行われたわけではなく、フロイトは催眠中に暗示を与えて効果を得るという方法にも大きな助けを求めていた。
しかしながら、当時のフロイトはこのケースにおいて暗示というものに不信を抱くようになったのである。 「フォン・N夫人の夢遊状態を研究していた時に、初めて私はベルネームの『暗示の中にすべてがある』という命題の正しさ、および彼の聡明な知人デルブフの『どうして催眠術が存在しないか』という考え方に対して、重大な疑念を抱くようになった。
私が指を前に突きだして、一度だけ『お眠りなさい』と言うことが、患者の特殊な心理状態を作りだしたはずだ、しかもその状態における患者の記憶が心的体験をすべて包括していたなどということは、今でも理解できないところである。 この状態は私が呼びおこしたものかもしれないが、しかし私の暗示によって作り上げたものではない。
この状態の性格は、ともかく普遍妥当的であって、私をはなはだ驚かせたからである」。 このような疑惑が無意識の発見に結び付いたのであろう。
ここには精神分析誕生の胎動が聞こえてくるような調子がある。 精神分析が成立するのには、暗示との離別が必要不可欠なもので、ブロイヤーのカタルシス法はその第一歩であったのだ。 だが、それ以前にもフロイトは暗示について批判的な目を持っていた。 『集団心理学と自我の分析』の中でフロイトはこう言う 「このようにして暗示はまさにそれ以上還元できない根源的現象、人間の精神生活の根本事実である、とすぐにも主張されるかもしれない。
私が1889年にその驚くべき手腕をまのあたりに見たベルネームもそう考えていた。 だが、わたしはその当時でさえもこの暗示の専制にたいして、ぼんやりではあるが反対していたことを思い出すことができる…… 私の抵抗はその後もつづいた。 そして万事を説明する暗示そのものは説明されるべきではないとする説に反対するという方向に向かった。 そしてこれについて私は、むかしのなぞなぞあそびを繰り返したものだ。 クリストフはキリストを背負い
キリストは全世界を背負った。 それなら、いってごらん。 クリストフはどこに足を据えたか」。 カタルシス法において患者との談話は催眠下で行われる。
そして、催眠術はまたひとつの暗示効果であるならば、暗示との離別の次の段階は催眠術の使用なしに患者と接して治療を進めることであろう。 患者によっては催眠が効かない場合もあるということを考慮にいれるとますますこの必要性は増大するのである。 この課題は次の『ミス・ルーシー・R』の症例で果たされる。 というのは、彼女には催眠術が効かず、フロイトは正常な状態のままで談話を、すなわち分析を行うことを余儀無くされたのであった。 そして、その結果は満足のいくものであった。 フロイトの最後の症例『エリザベート・フォン・R嬢』では最初から催眠術の助けを借りずに分析が始められ、自由連想による分析の基礎が完成した。 フロイトはこう言っている 「この症例は私が手掛けた最初の完全なヒステリーの分析であったが、このようにしてわたしは、のちに一つの治療法にまで高め、目的意識をもってそれを駆使するにいたった、一つの処置を発見することとなった」。
*精神分析の諸概念 『ヒステリー研究』には精神分析理論に重要な概念が、その十分な意味は展開されず、いまだに未熟のままではあるが、数多く含まれている。
その中のひとつは「父親」である。
父親はここでとりあげられている五つの症例の中の四つに共通する一つのキーワードであると言ってもよいだろう。
『アンナ・O』と『エエリザベート・フォン・R嬢』は父親の病気の看病をしていて病気になったのだし、 『カタリナ』は父親から受けた性的外傷がもとで病気になった。 『ミス・ルーシー・R』は雇主である主人への愛をめぐってヒステリーが生じたのであるから、これも一つの父親像として考えてみて良いであろう。 『ヒステリー研究』の中では、父親というものを分析における中心的な概念として取り扱うという問題意識はまだ生まれてはいないが、分析の誕生とともに父親というものがこのように大きな場所を占めているのは注目すべきである。
父親という概念は、もう少し後になって、フロイト自身の問題からエディプスがとりあげられるようになるための一つの布石になるのである。 その他の分析にとって重要な概念となるものをいくつか挙げてみると、
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転移
ブロイヤーとアンナ・Oの間に生じた転移は精神分析の原動力となるもので、これを前に逃げだしたブロイヤーとは逆に、フロイトは後にこれを治療における一つの重要な要因であることを認めた。 分析は転移をうまく操作することが要求される。 転移とは、すでに分析誕生以前のアンナ・Oの症例でも問題になるほど分析では重要な概念で、まさに「始めに転移ありき」なのである。 _____ 性
ヒステリー研究においては性の問題はあまり大きく取り上げられてはいない。
その理由は、そこで取り扱われている患者が殆ど裕福なブルジョワ階級に所属しており、当時の彼女たちの道徳からして、性に関することに触れることは大変むつかしいことだったということに由来するのだろう。 ただ、カタリナの場合には、彼女は庶民的階層の出身であったからであろう、 病気の原因としての性的な外傷がはっきりと示されている。
のちにフロイトはヒステリーの一般的な病因は子供の頃の性的な外傷にあると考えるようになった。
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抑圧 フロイトはここで病気は病原となる回想に結びついており、その回想が抑圧されたことから生じると考えたのであった。
カタリナとルーシー・Rにおいては抑圧は二つの系列の回想に結び付いていて、一つの系列のものがもう一つのものに遡及的な効果を及ぼして抑圧が起こり、症状が形成されるという、抑圧の遡及理論の萌芽も見られる。 ________
無意識
そもそも、催眠によって、意識上には昇ってこない過去の回想が再生され、それが病気を決定しているということから、そのまま無意識の概念が導き出されるであろう。
だが、無意識を形容詞的ではなく名詞的に使うフロイト的無意識の確立は第一局所論を待たなければならないのであった。 アンナ・Oの場合のように、ヒステリーの第二状態は無意識を考えるのに格好の症状であったであろう。 _______
*フリース
フロイトとヒステリーとの最初の出合いは、このように大変実りの多いものであった。 ここには、精神分析が成立するための殆どのものがあると言っても良いだろう。 しかし、まだ分析が分析として作動し始めたわけではない。 殆どのものと言ってもすべてではなく、やはり、何かが欠けているのである。 では、何がここに欠けているだろう。 それはエディプス理論、そして分析家である。
分析家になるための唯一の条件は、自分で分析を受け、自分自身の欲望を構成する主体的構造の糸を一つ一つ手繰っていく経験をしなければならない。
だが、フロイトは最初にやってきた分析家なのであるから、だれかほかの分析家に分析を受けるということは、当然、不可能であった。 それでも、一人の分析家が誕生したのである。 ここには、すべてのものごとの始まりにある、マルクスにおける本源的蓄積のように、ひとつのロジックに暴力を加えるような、出来事があったのである。 それはフロイトとフリースの出合いである。
シャルコーそしてブロイヤーとの出合いは、フロイトとヒステリーの結びつきの媒介となるものであったことはすでにのべた。
ところが、フリースとの出合いにおいては少し状況が変わって、彼はヒステリーではなくパラノイアであったことがこの二人の間の関係において決定的なものとなったのである。 フリースはフロイトよりも二歳年下の耳鼻咽喉医であったが、自分の職業を実践するに、一つの奇妙な理論を作りあげていた。 それは人間の周期性、両性具有性、鼻と性器の関係という三つの要素からなる、多分にパラノイア的な理論であった。
通常ならばこのような理論はあまりまともにはとりあげられないであろうが、ちょうどこの頃のフロイトの目には、それが真理として映ったのである。
その結果、フリースはフロイトにとって知を想定された主体の場に置かれ、分析で生じる関係と同じようなものが成立し、すなわち転移がうまれ、フリースに語りかけるという形をとって、フロイトはそこで自分の無意識の構造を捕えるという奇跡的な「自己分析」が可能となったのである。 このフロイトの「自己分析」においてもうひとつの重要な出来事は、フロイトの父ヤコブ・フロイトの死であろう。
父親の死によって、フロイトは自らのエディプスの存在にいやがおうでも目を向けさせられるようになるのである。 フリースとの「分析中」に起こった父の死は自分自身のファンタスムの構築を容易にし、その結果エディプスコンプレックスが作りあげられたのだと言ってもよいだろう。 ここにおいても、ヒステリー研究の諸症例と同じように、父親が重要な位置を占めているのがわかる。
それは、ほかでもなく、フロイト自身がヒステリーであったということに由来しているのである。 フリースとフロイトの出合いはパラノイアとヒステリーとの出合いであり、これがミシンの上のコウモリ傘のように不思議な光を放ったのである。 ヒステリーのための
精神分析はヒステリーのためにあると言ってよいだろうか。 分析的観点からすれば、主体的構造は、神経症、精神病、倒錯の三つに分類することができるが、一般的に倒錯は分析にはやって来ないものだし、フロイトは精神病は分析できないという立場を取っているので、結局、神経症だけが分析の対象として残る。 また、神経症は強迫神経症とヒステリーによって構成され、もちろんどちらも精神分析の対象であるが、フロイトによれば前者は後者の方言、つまり強迫神経症はヒステリーをひとつのローカルな言葉で表わすものとされるのであるから、精神分析はヒステリーのためにあるという命題は成立する。 では、ラカンにおいてはどうだろう。 ラカンの考えるヒステリーのディスクール においてヒステリーとは主体($)が代弁者の場に立つという構造で、ヒステリーとは主体に外ならず、分析のディスクール は分析家(a)が主体($)を相手とするという構造を取っていることは一目瞭然であるので、精神分析はヒステリーのためにあると言ってなんら異存はないであろう。 また、分析が成立するためには患者のヒステリー化がまず前提として必要である。 精神分析はヒステリーのためにあるとすれば、はたしてそれは精神分析の使命なのであろうか。
精神分析だけがヒステリーを扱うのであろうか。 では、精神医学の役割はどう考えれば良いのだろう。 精神医学とヒステリーは歴史的に深い関係にある。
*ヒステリーの歴史
ヒステリーについては紀元前2000年ごろから古代エジプトの記録に残されており、そこでは、ヒステリーは子宮が体内を移動することから生じ、それが身体の諸器官を刺激することからさまざまな症状が現れるのだとされていた。
その治療法は、子宮を元の位置に戻すことで、そのために悪臭を放つものをかがせて、子宮を上から追い下げると同時に、陰部の方に芳香の良いものを置き下に引き戻そうとする、今から考えるとまことに突拍子もないものであった。 この理論がギリシャのヒポクラテス(BC460-377)に受け継がれ、19世紀までこの説を支持していた医者が残っていたというほど長い間、西洋医学におけるヒステリーの考えを支配するのである。
子宮の移動をヒステリーの原因にするという考えには、ヒステリーを前に途方に暮れたであろう男性のファンタスムが多分に混ざっているのだろうが、それと同時に、ヒステリーの諸症状を心的、霊的もしくは神的なものと見なさず、体内の一つの器官という物理的なものに因を求めようとする合理的な理論化の努力は注目にし値する。
また子宮という性的なものとヒステリーを結び付けたことも興味深い。
これは性というものがまだタブー化されていなかったからであろう。 ヒステリーを問題にした古代の最後の重要な人物はガレヌス(131-201)である。
彼は小アジアに生まれ、ローマ皇帝の侍医として迎えられ、長い間医学界の権威であった。 解剖学に優れ、心身症について考えたのも彼である。 ヒステリーについては、その原因を性的な抑制にあるとし、また男性にもヒステリーがあることを認めた。
彼がヒステリーの子宮移動説を採らなかったのは、彼の解剖学の知識がそれを許さなかったのであろう。 キリスト教に支配された暗黒の時代、中世はヒステリーにとっても暗黒の時代であった。
宗教にとって病気の悪は道徳的な悪と同一な次元としてみなされ、善の敗北であって、この悪に打ち勝つのは信仰しかないのである。 こういった時代にはヒステリーは消滅し、そのかわりに悪魔憑き、魔女、またその逆の聖人がでてくるのである。
そしてジャンヌ・ダルクが犠牲になったような魔女裁判が治療に取って代わり、医者の代わりに僧侶、エクソシストが活躍する。
宗教的にヒステリーを悪きものとみなした中世においては、ヒステリーの対応に医者が介入する余地を取り上げるのであった。
だが、この考えは同時に悪魔憑きの現象を“精神病理”的に把握しようという傾向を後の時代に持ち込んだのであった。 シデンハムなどの医者は悪魔憑きを医学的に扱い、それが精神的異常をもたらす病気だという考えをもたらした。 またシデンハムはヒステリーをカメレオンのように限りなくその症状を変化させるものだということを認めた。 それに続く啓蒙時代にヒステリーと深い関係にあるものは、メスメリスムである。
それはドイツの医者メスメール(1734-1815)の考え出した治療法で、彼は自分の身体からは磁石の磁気にも匹敵する“動物性磁気”が発散していると信じ、それをおけに溜めて、万病の治療に使用できるような装置を開発した。
この装置は奇跡的に多くの病の治療に効果的で、それによって彼の名声は、一時的にではあったが、おおいに高まったのであった。 彼の「動物性磁気」による治療は、その当時あった磁石を使った治療から思いついたもので、もちろん物理的な実際の効果はなく、 その秘密は彼自身の持っていた特殊な暗示能力と、彼のところにきた患者の多くがヒステリーであったというところにある。 この時代にはまだ暗示というものが理論的に確立していず、ヒステリーの治療に効果のある暗示にたいしても、啓蒙時代に相応しい、科学的因果関係による説明が要求されたことから、それを磁石の磁気のように、物理的合理性を持ちながら離れた距離から作用するものが根拠として使われたのであった。 そして磁石の磁気から「動物性磁気」が想定されたのである(このような考え方はいつの世にも無くならないもので、現代においても磁気を使ったブレスレットの類いが氾濫しているのを見ればメスメリスムを一概に笑うわけにはいかないであろう)。 19世紀はヒステリーがもっとも自分の市民権を確立した時代である。 メスメリスムから催眠法が生れ、それはピュイセギュールとかラフォンテーヌによって引き継がれていった。 しかし彼等は医者ではなく医学界からはまともな扱いは受けなかった。 19世紀の半ば頃にイギリスの外科医ブレイドがこれに興味を示しその効力を実験した結果、実際に作用があることが確かめられ、徐々に医学界に認められていく。 フランスではリエボー、そしてベルネームが催眠法を用いてヒステリーの治療にあたり、ナンシー学派を形成する。 しかしヒステリーにとってこの時代の重大な出来事はシャルコー(1825-1882)の到来である。 37歳でサルペトリエールの医局長に就任した彼は、1870年に病院の制度の改革を機会に同病院の癲癇とヒステリー患者の責任者となり、このときからヒステリーとシャルコーの名前はしっかりと結び付けられるのである。 神経学者として優秀な業績をおさめたシャルコーは、ヒステリーに対しても実証科学的な方法をもって対処していこうとした。 彼にとってヒステリーは他の病気とおなじように一つの病気なのである。 こうして、彼はヒステリーに器質的な病因を求めようとしたのであったが、そのうちにヒステリーには何の器質的な欠陥もなくまた、何の理由もなく病気が治癒することがあることに気がついた。 そこでこの問題を解決するために催眠法に助けを求めたのであった。 だがシャルコーは自分の器質障害説をヒステリーにおいてもやはり捨てることができなかった。
催眠法によって自由に症状を生み出すことはできても、その奥にはやはり何か器質的なものを見ていたのだ。 彼の弟子ババンスキーはこの点において師の教義を変更しようとした。
ヒステリーが自由に催眠で生み出せるものならば、器質的なものとは何の関係もないのであって、患者はただ擬態によって症状を作り出しているにすぎない、と。 これは変更というよりも、より現実に沿うようにしたにすぎないのであるが。 シャルコーにとってヒステリーとは、 (1)発作、 (2)視野狭搾とか麻痺、感覚過敏などのヒステリーを特徴的に示す諸症状、(3)どのような器官的な障害も真似し得る神経的擬態、 からなっている。ババンスキーは結局、(2)のヒステリーに特徴的な症状を(3)ら来るもの、つまり擬態であるとするのである。
そして最終的に、ヒステリーを、何の実体もない、単なる患者の模倣から発生するものとした。
ヒステリーの病名そのものも、それが実体を持たないものだということから、廃止してしまい、そのかわりに、説得によって治るという意味の、ギリシャ語に由来する、ピティアティスムという病名を提案するのであった。 ババンスキーは、ヒステリーの症状が暗示によって左右されるものだということのみを強調して、そこに主体の分裂、すなわち無意識という壁があり、意識的な説得だけではヒステリーの治療はできないということに気がつかないのであった。 19世紀は、シャルコーの大ヒステリーによって代表されるように、ヒステリーが大きくクローズアップされた時代であったと同時に、その実体を実証科学的につかむことの難しさにより、ババンスキーがヒステリーという疾患名そのものをも廃止しようとしたことに示されるように、ヒステリーというものが精神医学から消滅する第一歩が踏み出された時でもあったのだ。
シャルコーでもうひとつ忘れてはならないことは、フロイトとの出合いである。
われわれにとってシャルコーの本当の意味は、彼がヒステリーの治療についてフロイトにバトンタッチをしたことではないだろうか。 ヒステリーの歴史は、何か得体の知れないものに、それぞれの時代がどうにかこうにかひとつのレッテルを貼り付けてきたというのが本当のところである。 この状況に終止符が打たれるには精神分析の誕生を待たなければならなかった。 フロイトの生み出したこの新しい実践によって、それまでさまざまなところを彷復ってきたヒステリーはやっと自らのすみかを見つけ出したのだ。 いやむしろ、最初の章で見てきたよ.うに、ヒステリーは自ら自分の巣を造り上げたのだといったほうがよいかもしれない。 たしかに、ヒステリーは精神分析に自分の領域を見つけだすのであったが、それとは反比例的に、精神医学においてはますます隅のほうに追いやられてしまうようになった。
奇妙なことに、そこにも分析が一役買っていることも見逃すことができない。 フロイトの理論に精神医学の側から最初に興味を示したのはブロイラーであった。
現代の多くの精神科医と同じように、ブロイラーの関心の中心は精神病にあった。 ところが、精神分析理論は神経症の理論であって、直接精神病の治療を目的とはしないのであるから、精神科医にとってはあまり興味の対象とはならないはずである。
それにもかかわらず彼が分析理論に興味を持ったのは、そこにある普遍性を見いだしたからであって、ヒステリー理論を精神病理論に応用できると思ったのである。 つまり精神病をヒステリー理論で読みとろうとしたのである。 そしてその後に、その結果できあがった精神病像を通して、ヒステリーを、「大きなヒステリー」を見ようとしたのだ。 つまり、ヒステリーと精神病との混同がなされたのである。 そしてこの混同にはっきりとした形態を与えたのが、精神分裂病という疾患単位である。
分裂病という言葉が使われるようになる以前は、早発性痴呆が一般的に使われていたのであるが、そもそも早発性とは早期に発症するという意味であるにもかかわらず、早発性痴呆患者が必ずしも若いうちに発症するとは限らないということ、そしてまた痴呆ということにも問題があり、この命名法の不適切さが指摘され、そのかわりに、ブロイラーが分裂病の名を与えたのである。 その時点で、上記の混同により、分裂病は大きく膨れあがった概念となった。
この分裂病という言葉は精神医学界で大きな成功を獲得し、その結果、ヒステリーという言葉を片隅にやってしまったのである。 分裂病という言葉は、精神病と神経症との境界をあやふやにしてしまい、そこにできたどっちつかずの症例にボーダーラインのような、つぎあてのための概念が当てるられることになった。 これによってますますヒステリーは肩身の狭いものになってしまったのである。
そして現代にいたって、最近のDSMではヒステリーという言葉が消し去られてしまった。
ここでヒステリーの長い受難の歴史にピリオードが打たれたかのようである。 精神医学が実証科学的であろうとするなら、客観的なデータのみを取扱い、常に曖昧性を伴う主体的事象を排除せざるを得ないであろう。
ヒステリーとはじつは自分の名を持たない主体のさけびこえなのである。 名前を持ちようのない主体に、歴史が与えた名前なのである。 ヒステリーの定義の難しさ、カメレオンのように容貌を変え、捕えたと思ったときにはもうそこにはいなくなっているという、掴みどころのないその性格は、シニフィアンの主体の性格に他ならない。 この意味で現代医学はたしかにヒステリーを排除しようとしているのであり、また排除せざるを得ないのである。 なぜなら現代医学にはヒステリーというものが透明なものとなり、見えないものなのであるから。 現代医学にとって、精神分析がヒステリーを取り扱うのは、ちょうどドン・キホーテが風車と戦っている姿に映るであろう。 しかし、本当のドン・キホーテはボーダーラインなどという風車と戦う者ではないだろうか。 現代医学がヒステリーから遠ざかれば遠ざかるほど、精神分析はますますヒステリーのためにあることを主張するのである。 ヒステリーによる精神分析
精神分析はヒステリーの女性たちと、フロイトというヒステリーから生まれたのだということを見てきた。
では、このことは精神分析にどのような影を残しているのだろうか。 ラカンはセミネール11巻でこう言う
「分析実践のフロイト的領野はある始原の欲望に依存したままに残っていた」。 始原の欲望とは「分析のある原罪」であり、「フロイトの欲望そのもの、つまりフロイトにおいて何かが決して分析されたことがないということ」であるとラカンは言う。
フロイトがフリースを相手にして「自己分析」した結果得られたものは、
母親にたいする愛情と、母親を自分のものにするために、父親を亡きものにしようとする感情によって構成される、エディプスコンプレックスであった。 エディプスを、われわれの精神を支配する根源的な構造であると考えたのであった。
しかしラカンのことばに従えば、フロイトの見つけ出した、もしくは、考え出したエディプスコンプレックスそのものに「フロイトにおいて何かが決して分析されたことがないということ」が含まれているのではないだろうか。 エディプス神話を見てみるとそれは必ずしもフロイトが垣間見たエディプスコンプレックスと同じ水準では語れないことが分かる。
神話ではエディプスの父、ライオスは偶然にエディプスに出合い、殺されたのであり、ただの通りがかりの人物としてしか出てこない。
そしてエディプスがテーバイの王となり自分の母イオカステを妻とめとったのも、スフィンクスの怪物にかけられた謎を解いたからであって、自分の母を妻にしようとしてなった訳ではない。 エディプス神話はいろいろな解釈を許すものではあるが、主体の構造を表わすストーリーとしての神話としてはあまり適切ではないのである。 また、父親への愛とか、超自我の形成なども、エディプス神話では説明がつかない。
そこでフロイトは文化人類学的資料をもとに、現代における神話を一つ作り上げようとする。 『トーテムとタブー』がそれである。
『トーテムとタブー』は次のように構成されている。
まず人間社会の原始状態には、一つの部族では強大な父親、オランウータンのような父親が部族を支配して、母も娘も含んだすべての女性を独占し、息子たちは一人の女性もあてがわれず部落から追い出されていた。
この状態を不満に思う子供達はある日、団結して父親を殺してしまう。
そして父親を食べてしまい、父親に同一化するのである。 だが、父親を殺して父親に対する攻撃欲動を満足させたあとは、今まで父親に対する憎しみが隠していた父親への愛が頭をもたげ、愛するものを殺してしまった悔恨から罪悪感が生じる。 これが超自我の起源である。 こうして、死んでしまった父親は罪悪感を通してよりいっそう子供達を支配するようになり、子供達は父親殺しの原因となった近親相姦の欲望を禁止し、掟を定めたのである。
死んだ父親はトーテムとなり、宗教の神の原形となる。
また、トーテム生蟄の饗宴を通して父親への同一化が繰り返され同一の理想像によって部族の結束が固まるのである。 この神話は父親の神話であることは一目瞭然であろう。 すべての女を独占し、女の悦びを満足させ、自分も満足する、一人の超人のような父親、これこそはヒステリーの望んでいる父親である。 ここにはエディプスの父とは比較にならない強大な父のすがたがあり、このような父に対してのみ憎しみが生まれ、また愛も生まれるのである。
もちろんこの父親は死んでしまうのだが、死んだからといって意味を持たなくなったわけではない、むしろ死んだからこそひとつの理想像としての威力を発揮するのである。
フロイトはこの神話によって父親というものを救おうとしている。 この父親を救おうとする欲望はヒステリー的な欲望である。
ヒステリー研究の中にあってアンナ・O、エリザベート・フォン・Rは父親を看病していることから病気になったのだったということが思い起こされよう。 またカタリナの場合には父親に誘惑されたことが彼女の症状の奥にあったのだが、自分の娘にまで手を出すような父親は、まさに獣のような『トーテムとタブー』の父親と同じようなものである。
ここでは父親を救うまでもなく、そういう父親が存在するのである。
ところで、フロイトは最初、カタリナのケースのようにヒステリーは小さい頃に父親とか近い親類に性的ないたずらを受けたことが原因であると考えた。
しかしながら、あまりにも多くのヒステリーの無意識にそのような出来事を見いだすことから、結局、それはヒステリーのファンタスムにほかならないと結論した。
無意識には事実とファンタスムの区別はないのである。
ヒステリーのファンタスムにはそれゆえ『トーテムとタブー』に描かれているものと同じような父親を認めることができる。 こうして見るとエディプスとはヒステリーのファンタスムであるという結論が出てこよう。
フロイトの“自己分析”は自分自身のファンタスムをエディプスとして構築したのである。
そしてそれを乗り越えられなかったところがラガンのいうように「フロイトにおいて何かが決して分析されたことがないということ」ではないだろうか。
フロイトの殆ど最後の論文である、『終りのある分析と終りのない分析』で、フロイトは分析が乗り越えることのできない限界について述べている。
「われわれは分析治療を施しているうちに陰茎願望と男性的抗議にまで達すれば、それですべての心理的な地層を貫いていわば人工の加わらない『自然のままの岩石』に突き当たったので、仕事はこれで終りであるという印象をしばしばもつものである。
これはおそらく本当であろう」。 陰茎願望とは女性が男性性器を所有したいという陽性の志向に由来するものであり、ラカン的に言えばファリュスを得ようとすることである。
男性的抗議とは、男性が、他の男性にたいして受身的、あるいは女性的立場をとらされること、つまりペニスを失うこと、についての反抗である。 フロイトはこの二つを去勢コンプレックスと名づけている。 女性がファリュスを得ようとするのは誰にたいしてであろう。
それは当然ファリュスを持っている者、去勢されていない者である。 つまりトーテムの父親である。 男性が他の男性にたいして受け身になることについては、陰性エディプスの問題がからんでくるものであるが、男性が受け身になる相手の男性とは、やはりあの愛される、『トーテムとタブー』の、殺された父の姿をとった男性である。
それゆえフロイトが持ちだす分析の限界とはエディプスの限界であり、「フロイトにおいて何かが決して分析されたことがないということ」の限界なのである。
女性の論理
結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。 実際、フロイトにとって女性は暗黒大陸であって、かれの自ら立てた「女性は何を欲するのか」という問いは最後まで謎として残ったのであった。 フロイトの分析の限界は、そうすると、男性的見方の限界であって、彼が女性ということについて十分な論理を持っていなかったことに通じるのである。 http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:sIbQ3BuJvZgJ:psychanalyse.jp/archives/M_MUKAI/Hysterie.doc+%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88+%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC&cd=24&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
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