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古代日本の主流氏族の26%が韓国系、天皇制国家支配体制の一軸を成す
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/534.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 3 月 15 日 15:46:38: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した 投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 24 日 05:14:09)

古代日本の主流氏族の26%が韓国系、天皇制国家支配体制の一軸を成す
18, 2020 09:00
https://www.donga.com/jp/List/article/all/20201118/2244640/

9世紀始めの日本の主流氏族の約26%が韓国系だったという研究結果が公開された。三国時代を前後して韓半島に渡ったいわゆる渡来人の後裔の多くが天皇制国家支配体制の一軸を成すほど融合した存在だったということだ。

東北アジア歴史財団が最近出版した『新撰姓氏録 訳註本』によると、当時、事実上、日本の支配階層を構成した氏族1182氏のうち313氏が韓半島から来たことが確認された。彼らは、戦争、権力闘争、自然災害などによって新天地を求めて移動し、または対日外交や政治的目的で派遣されて定住した韓国系の子孫だ。

『新撰姓氏録』は、平安時代を開いた桓武天皇(781〜806)が799年に編纂を命じて815年に完成された古代氏族名鑑。遷都した平安京(京都)と畿内(都や皇居に近い地域を指す呼称)に居住する氏族1182氏の系譜を記録した。8世紀末、奈良時代の政治的混乱の中、平安遷都を行った桓武天皇が主要氏族の系譜を把握し、支配秩序を強化して社会の安定を図るために編纂したという見方が支配的だ。

桓武天皇は、2001年に天皇陛下(当時)が「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べ、注目された。

同書は、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族(皇別)、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族(神別)、渡来人系の氏族である諸蕃で構成されている。諸蕃で韓国系氏族は百済104氏、高句麗41氏、新羅9氏、任那9氏の163氏で、中国系氏族は漢163氏。これまで韓国系氏族はこの163氏だけとされた。

しかし、東北アジア歴史財団のヨン・ミンス前歴史研究室長(63)を責任者とする研究チーム(韓国教員大の金恩淑名誉教授、釜山経済大史学科の李根雨教授、漢城大人文科学研究院のソ・ボギョン特任教授、忠南歴史文化研究院のパク・ジェヨン研究室長)が2014年から7年間、新撰姓氏録や日本書紀などの過去の史料を対照、検証した結果、中国系163氏のうち150氏が韓国系だったことが明らかになった。韓国系の氏族が漢や秦の系統の子孫だと主張した。

ヨン氏は、「当時、日本の朝廷は、韓国系など才能のある渡来人の子孫を重用し、いわゆる多国籍官僚群を形成した」とし、「同書は、古代日本の韓国系氏族史研究はもとより韓国古代史の外縁を広げるうえでも有用だ」と話した。
https://www.donga.com/jp/List/article/all/20201118/2244640/  

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コメント
1. 中川隆[-11463] koaQ7Jey 2024年2月27日 14:41:39 : YTt52zfG96 : bksxUnhBS29XRkk=[4] 報告
ゲノム解析からわかってきた日本人のルーツ〜神武東遷・邪馬台国・空白の四世紀
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2024/02/15
https://www.youtube.com/watch?v=iSlBLpHywTk

古墳時代に日本に大量の渡来人がやってきた〜!DNAのゲノム解析からわかってきた日本人のルーツ。古墳時代、渡来人が大量に日本にやってきた!縄文・弥生・古墳時代の歴史をどう読み解けばよいのか?皆さんにわかりやすくお話しします。また、銅鏡からわかることも併せて。久しぶりの古代史シリーズです^^
葛木御歳神社

2. 中川隆[-10616] koaQ7Jey 2024年5月15日 08:32:52 : QDdtsXBIZY : dGZaWW5ZaWIxeHc=[8] 報告
<■75行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ソウルで発見された日本の埴輪、それでも三韓征伐を否定したい
2024.05.14
https://www.thutmosev.com/archives/35054.html

ソウルで発見された日本の埴輪


https://japan.hani.co.kr/arti/culture/49367.html [独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見 _ 文化 _ hankyoreh japan
都合の悪い遺跡を埋め戻した

日本の初期の天皇9代は記録があいまいで物証も乏しいので『失われた9代』となっていて、存在したともしないとも証明する事はできない

だが人は木の根っこから生まれてこないので10代崇神天皇は先代の息子だった筈で、その前にも王権の長い歴史が続いていた筈でした

10代崇神天皇はおおまかに言って西暦300年頃、15代応神天皇は西暦400年頃の人物で応神天皇母が今も歴史を揺るがす神功皇后でした

神功皇后は仲哀天皇の妻で自身も開化天皇の子孫という家系で、夫の仲哀天皇は即位9年でなくなってその時に妻は息子を身ごもっていた

子供がいない場合後継者は弟とか皇族の親戚になるが、史書によると妻の神功皇后は熊襲(九州の独立系種族)を征伐し海を越えて半島まで出兵し三韓征伐をした

現代的な分析では当時のヤマトと半島の間に大規模な戦闘は起きてあらず、新羅・百済・高句麗は戦争を避けるために和平を結んだと考えられる

半島の地方国家が大陸国家に従う形で和議を結ぶことはよくあり、三韓征伐も神功皇后のヤマトに占領されたのではなく外交政策として従っていたのだと思われる

三韓の中でとりわけ日本の支配力が強かったのが百済で、半島の先端には任那日本府が存在しここにヤマトは拠点を置いて半島を支配したとされている

この時代に九州や大阪などに大量の渡来があり、神功皇后の孫にあたる仁徳天皇は労働者である渡来人を度々視察するなど気にかけていたと記されている

当時ヤマトの首都は奈良県にあったが港は大阪にあったので、大阪湾埋め立てに多くの渡来人が従事していて、彼らの子孫は埋め立てた大阪市に現在も住んでいると言われている

渡来は神功皇后の西暦400年以前から663年に白村江の戦いで天智天皇の日本軍が唐・新羅連合軍に敗れるまで続き、敗戦後も百済などの人々が大量に日本へ逃げてきた

神功皇后の三韓征伐でヤマト国家が半島を支配下に置き、唐の援軍を得て新羅が独立戦争を仕掛けるという大きな流れがあった

独立した統一国家が有史以来ひとつもない
ところが戦後の韓国は「三韓征伐も神功皇后も任那日本府もなかった」と不都合な歴史を消してしまい、「なんの理由もなく白村江の戦いが起きた」と言うので歴史は滅茶苦茶になった

当然のことながら各地の遺跡を発掘すると証拠になる日本関連の遺跡が発見されるのだが、韓国政府と韓国の学者は「天皇は韓国人だった」などの奇想天外な主張をして煙に巻こうとした

彼らの意見では韓国で前方後円墳などが発見されるのは天皇が半島出身者だからで、日本人もそもそも半島から移住したのであるから、前方後円墳も半島から日本へ伝わった

全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳は上から見ると前方後円墳で発掘したら石造りで日本のと同じ墓が埋葬されていた

古代九州の有力者かその支配下にあった者の墓と推測されたが、あまりにも都合が悪かったので文在寅政権は発見しなかった事にして埋め戻した

埋めるのはまだ良い方で証拠が残らないように切り崩したり更地になった前方後円墳や日本式古墳もあるということです

韓国政府は日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念したと言っているが、日本で本当の事を言うと韓国政府から「極右」指定されるのは相変わらずです

最近発見されたのは1500年から1600年前つまり西暦400年から500年のソウルの遺跡から、多数の日本式の品が発見された

埋蔵品は埴輪、瓦などで半島になく日本特有の形式であることから、この場所に日本の職人や技術者が住んでいた証拠であるという

因みに日本の「法隆寺」など初期の建築は渡来系の技師らが関わっていて、半島から日本に来ていたのだから日本から半島に行っても何もおかしくないが、韓国はそれが不愉快なのです

百済が存在していた頃の力関係は大陸から仏教や建築などが先に伝わった半島が「進んでいた」が、数カ国に分裂していたので国力ではヤマト=日本が強かった

唐は強大ではあったものの半島国家を従属させると満足し、本格的に出兵してまで直接占領しようとする事はほとんど無かった

九州を制圧し統一国家になったヤマト=日本にとって半島を支配下に置こうとするのは自然なことであり、半島は少なくとも3つに分裂していてそれぞれの国は弱かった

679年新羅は日本軍に続いて唐も追放し半島に初の統一国家を樹立したが、唐の冊封を受けて家臣になったので統一新羅が独立国家なのかは今も疑問がある

結局朝鮮半島で議論の余地のない独立国家が誕生するので1948年の韓国と北朝鮮だが、これも分裂国家で統一されてはいない

「独立した統一国家が有史以来ひとつもない」という事を彼らは認めたくないのです
https://www.thutmosev.com/archives/35054.html

3. 中川隆[-10300] koaQ7Jey 2024年6月07日 18:30:03 : culQP1Wabk : b1JkVmRpcjNkbkk=[22] 報告
<■77行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
1500年前の日本の関西、朝鮮半島の祖先が住んだ場所だった
2023-10-10
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607


『渡来人の考古学と歴史』発刊 
米国の学者が古代韓日交流史をまとめた本

全羅南道咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳だ。古墳の各所に石を積んだ跡(葺石)が見え、周囲を溝で囲む日本式の前方後円墳の典型的な姿をそのまま示している=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社
 最近、韓国人が最も多く訪れる海外の観光地の一つが、大阪のある日本の関西地方だ。日本で最大規模のコリアンタウンがあることでも有名なこの地域について、多くの韓国人は、20世紀初めに植民地となった祖国を離れた多くの朝鮮人が生計のために定着したところだと認識している。

 しかし、歴史的な真実は、関西に刻まれた古代の祖先の驚くべき足跡を伝える。『続日本紀』の8世紀初めの人口調査記録によると、1300年前の関西地方の中心だった南部の奈良盆地に住んでいた人の80〜90%が百済系移民だった。それを立証するのが、関西地方に5世紀後半から登場する百済特有の墳墓の様式である横穴式石室墳で、6世紀まで爆発的に増加し、高安などの地域に「1000個の墓」という意味の千塚古墳群が雨後の筍のように登場する。一部のエリートの墓は王陵級であり、非常に大きいうえ、銅鏡、鉄製短剣、刀、金のイヤリング、玉・ガラス製品などが出土し、百済と馬韓系統の住民と支配者の存在を示している。未発掘の古墳は数百基にのぼり、関西地方だけでも少なくとも1000基を超える百済系の古墳群が造られたと推定される。歴史考古学者の石渡信一郎氏は「千塚と呼ばれる巨大な墳墓の主が朝鮮半島西南部出身の渡来人とその子孫であることを考えれば、紀元後475年から600年までの125年間に、少なくとも100万人が朝鮮半島から日本列島に渡ってきたものと考えられる」と推定した。


『渡来人の考古学と歴史』表紙//ハンギョレ新聞社
 こうした事実は、米国で研究中の3人の考古人類学者が、韓国と日本で刊行された膨大な考古学と歴史学の刊行物の書誌情報をもとに分析・整理した学術書『渡来人の考古学と歴史』(周留城出版社)に出てくる内容だ。米国オレゴン大学のイ・ソンレ考古学名誉教授、オレゴン大学のメルビン・エイケンス人類学(考古学)名誉教授、英国ダラム大学のジナ・バーンズ日本学名誉教授が共同で執筆し、韓国伝統大学融合考古学科のキム・ギョンテク教授が翻訳した。この本は、紀元前1000年以前の無文土器時代から紀元後7世紀の三国時代まで、朝鮮半島から日本列島に渡った移民の経路と、これらの人たちが日本の文化と社会の発展に寄与したことを、朝鮮半島からの「渡来人」の活動状況を通じて集中的に探求する。

 この本は、古代の朝鮮半島からの渡来人の話を7つの質問を通じて解き明かしていく。これらの人たちはどこから来て、その歴史的・社会文化的な背景は何であり、なぜ朝鮮半島を去り、日本列島のどこに定着して何をしたのか。これらの人たちを日本列島の人たちはどのように待遇し、また彼らは日本社会にどのような貢献をしたのかについて、最近の研究成果をもとにわかりやすく解いていく。時代別に、稲作の伝来、青銅器文明の伝播、鉄器の伝播、宗教・文化的文物の大規模伝播などに区分される古代朝鮮半島の祖先の日本列島移住文化史は、絶えず流れる「河川のようなもの」であり、渡来人の話は、日本の始まりというミステリーの箱を開く重要なカギだとする洞察によってまとめられている。著者らは「日本が5〜6世紀に古代国家の基盤をつくった革命的な変化は、技術と技能を持った人たちが入ってきて、技術的・文化的な革命を成し遂げたことによって可能だったもの」だとし、渡来人は古代日本の国家基盤を作った必須の要素だったと指摘する。


『古代韓日交流史』表紙//ハンギョレ新聞社
 今年上半期に出版された中堅考古学者のパク・チョンス教授(慶北大学)の力作である『古代韓日交流史』(慶北大学出版部)も、伽耶・百済・新羅からの文化伝播が4〜6世紀の日本の古代国家成立の軸になったことを、考古学的な発掘の成果で論証した大作だ。3〜5世紀の日本列島と隣接した朝鮮半島南部の伽耶圏の文化が日本との交流の主軸であり、金官伽耶と大伽耶の順に交渉の主体が移り、その後、新羅の伽耶吸収によって百済に交流の中心が移ることになる過程を、パク教授が集めた日本各地の詳細な考古学的な発掘成果を通じて論証し展開していく。日本とは敵対的な関係に変わったとされている新羅の日本との交易や文物交流は、一般的に言われているのとは違い、5世紀以降も活発に継続し、百済滅亡後は唐に対応する両国の外交的な必要によってよりいっそう深まったという事実を、日本各地の新羅系古墳遺跡の事例を通して示しているのが興味深い。
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607

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