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プリンスの墓標 堤義明怨念の家系
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/373.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 23 日 20:07:59: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

プリンスの墓標 堤義明怨念の家系


2010年5月11日
性豪、西武の堤、創価の池田
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-49c1.html


 最近、女癖の悪い会長二人と言えば、「西武の堤、創価の池田」が有名だ。
 大きな組織を動かしていると、女性も自由になるのだろう。

 側近は、会長好みの女性がいると、「会長に精神的やすらぎを与えて欲しい」などと接近させ、チャンスを与えるのだという。

 それによって側近も可愛がられる。
 つまり同罪なのだ。
 両者とも暴露本が何冊も出版されている。
 今回は西武関連に触れる。

  西武鉄道沿線である多摩湖周辺に住み26年になる。
 いやが上にも、西武関連のニュースは耳に入るし気にもなるものだ。

 2005年3月3日西武鉄道グループの総帥だった堤義明は、西武鉄道株の名義偽装と大量売却問題で、東京地検特捜部は証券取引法違反(虚偽記載、インサイダー取引)の容疑で逮捕された。

 あれから5年が経過した。

 一見、失脚したかにみえる堤義明氏は虎視眈々と復権を画策しているという。
 堤義明氏の逮捕劇は、作家・桐山秀樹氏の新潮への寄稿から始まったと言われている。この経緯などをまとめた「プリンスの墓標・堤義明怨念の家系」は徹底した取材に基づいた内容だ。

 おべんちゃら本、批判本も含め何冊も読んだが、追従を許さない。

  堤義明氏の西武企業の私物化、そして「性部」と揶揄されるにふさわしい女性遍歴にはあきれる。

 「有名企業だが、一流企業ではない」とされる由縁だ。

 それに創価学会の池田会長(朝鮮名は成太作)と並ぶ性豪と言われている。
 創価学会の場合は、殆どが盲信した信者のようだが、
 西武の場合は、有名女優から女子社員にも手を出す。

 カネの威力に物を言わせた性豪ぶりには、側近たちも感心すると言われる。
 もっとも、簡単に落ちる女も女だ。

 この本の中で、第6章高輪プリンスホテルの「公私混同」の項があるが、「高輪プリンスホテル」は、ある秘密の目的を持った同氏の専用ホテルだったと言われる。
 去年、夏頃一度だけ仕方なく利用したことがあるが、同氏がどんな野心であの豪華ホテルを建てたのかと思うと胸くそ悪くなる。

※文中の「荻窪第二夫人」は、天沼3丁目23番1号「西武ゴルフ研修所」という西武社有物件として建てたところに住んでいた。

 愛人まで税金逃れに利用していたというから感心する。
 利益は社会に還元するという「公益」の考えは絶対にない。
 しかし、女に貢ぐカネはおしまない。

 これでは尊敬されるなどあり得ない、物笑いのタネにされるだけ。
 ゴルフ研修所は、都の「天沼弁天池公園」として様変わりしている。

『プリンスの墓標 堤義明怨念の家系』から抜粋
 著者 桐山秀樹 1954年名古屋市生まれ、学習院大学法学部卒 
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%A8%99-%E6%A1%90%E5%B1%B1-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/4103662026

●目次序章 封印されたきた「過去」
第1章 支配の「原点」
第2章 堤義明と軽井沢―「創業の原点」と天皇家の政治利用
第3章 堤義明と芝・増上寺―将軍家の墓の上に建つホテルと政治家パーティ
第4章 永田町の執務室・赤坂プリンスホテル―父と母を失った館
第5章 大磯の「本宅」、苗場の「母」
第6章 高輪プリンスホテルの「公私混同」―政治家、人気女優をもてなす欲望の「館」
終章 「王国」の崩壊と解体 


●大物女優の「口紅」

 東京都港区高輪にある「高輪プリンスホテル」は、堤義明にとって特別な意味を特つ場所であった。「特別」とは、西武グループが所有・運営する他のホテルとは別に、決して人に明かすことの出来ない「目的」を果たすために用いられるという意味である。

 このホテルは、東京の南玄関口・品川駅から徒歩三分の地にある。品川駅からさくら坂を登ると同ホテル「さくらタワー」があり、雑木林の生い茂る広大な庭園を挟んで、奥に石作りの西洋建築「貴賓館」と「和風別館」、「高輪プリンスホテル」かあり、左手には巨大宴会場の「飛天」と「国際館パミール」があり、その間に当初からマンションヘの転用も計画に入れて建設したと言われる「新高輪プリンスホテル」の白亜の建築もそびえ立つ。

 三つのホテル棟を結広縁の庭園は約二万平方メートルに及ぶ。

 このホテル群へは、品川駅から「さくらタワー」玄関へのアプローチ、高輪プリンス正面玄関へのアプローチ、ざくろ坂を登った新高輪プリンス玄関へのアプローチという三つの入口があり、樹々に隠れて人目から逃がれられるという利点がある。

 三つのホテルのうち、最後にオーブンした「さくらタワー」のオープニング・イベントに筆者自身が招かれたことかあるが、各ホテル間を繋ぐ通路は複雑に入り組み、案内表示を確かめないと、方向感覚を失ってしまいそうな「迷路」の様相を呈していた。このオープニング・イベントで堤義明は、当時キャンペーンガールだった女優の沢口靖子を脇に立たせ、国内外からの賓客を出迎えていた。

 数多くの出入口があり人目につきにくいという構造を生かして、堤義明は「高輪プリンスホテル」を自らの「私邸」化した。

 好みの料理人を揃えて、そこに政治家や人気女優らを招いて密談する「秘密の館」と位置付けていた。

 「例えば、この3ホテルの敷地内に新しいレストランがオープンした際、堤は愛人と言われた秘書課の女性と、荻窪第二夫人と呼ばれた女性を同席させ、料理やサービスを自らチェックし、○△×といった項目で採点した。何かに落度があれば現場の責任者を呼んで、二人の女性の前で叱責するのです。秘書の女性はそうした場合、社員側の擁護に回っていました。

 一方でそのレストランがTV番組で紹介され、有名タレントが料理やサービスを誉めたりすると、途端に態度が変わって現場を評価するというかなりミーハーな部分もありましたね」 と元社長は語る。

 このように周囲も公認の愛人を伴なって堂々と「高輪プリンスホテル」を訪れることもあれば、時には大物女優と「お忍び」で真っ昼間から逢瀬を楽しむこともあった。

 「高輪プリンスホテル最上階の16階には、四室続きのロイヤルスイートルームがあり、最も手前にキッチン付の部屋がある。前会長が客を招いて食事される場合は、三人のスタッフが付いて、キッチン付の部屋で料理の準備をする。前会長のいるロイヤルスイートの奥のリビングとの間にもう一つ部屋かおり、そこは中からしか開けられぬ二重ドアが付いていて、そこに料理を乗せたダイニングテーブルを置くわけです。テーブルを置いて、ドアを閉めると担当者がドアを開けて、料理を取り出す。

 その担当スタッフは決まっていて、彼以外は中に入れません。

 食事が終るとテーブルを再び中央の部屋に移勤し、片付けるわけですが、使用したワイン・グラスに大物女優の口紅が付いていると厨房などで大騒ぎになるわけで、中にはそのグラスをこっそり持って帰りたいと冗談を言うスタッフもいました」もちろん女優の名は、ほとんどの社員が知らされていないが、ある程度事前に漏れる場合もあり、社内では「公然の秘密」となるわけである。

 こうした芸能関係者と堤義明の会食などのセッティングは、全国のプリンスホテルで行なわれるディナーショーの企画を一手に引き受ける株式会社プリンスホテルの経営幹部が専門 に行なうと、元社員は苦言する。

 「例えば、ディナーショーの企画を待ちかける時、堤前会長のお気に入りの女優やタレントがいたりすると、まず各ホテルのキャンペーンガールやクリスマスのディナーショーの仕事を振り、それが終った後に二度、ウチの会長に逢ってみませんか、と芸能事務所を通じて会合を待ちかけるわけです」

 ホテルで会食をし、女優の様子を見て、まんざらでもないと判断すると、軽井沢、苗場などのリゾート地にある別荘へと招待した。

 高輪プリンスホテルは、堤義明個人にとっては、ホテル本来の目的とは離れたレストラン、使用人付の「私邸」として利用されてきたわけである。

 その「秘密の館」を現在、頻繁に使用しているのが、他ならぬ小泉純一郎首相である。
 もちろん「高輪プリンスホテル」自体は、一般客を対象とした都市ホテルであるため、若い社員の中には、堤前会長がこうした利用をしていることを全く知らないスタッフも多かった。前会長専門に食事等のサービスを行なうスタッフがおり、専門のベテラン社員がそのセッティングを行なった。それは、プリンスホテルそのものの業務とは、全く関係なしに行なわれた。

 堤義明にとっては、「仕事」そのものが「遊び」であり、「遊び」が「仕事」であった。高輪プリンスホテルに限らず、オーナーの堤義明が系列のホテルに愛用のベントレーやジャガーで到着する際は、ホテル幹部及び指摘されるポイントを知り尽した古参社員が出迎える。

 中には、提前会長が玄関からエレベーターに乗るまでの数十秒を利用して、直接通したい案件を手短かに説明し、会長の承認を得る幹部もいた。万一、「何の話だ」と聞かれた際のために、事前に資料も用意しておく。そうすれば、早い者勝ちでダイレクトに会長決裁がもらえる。

 プリンスホテルは、ホテル同土互いの営業成績をかけて激しい「内向き競争」を行なっていた。普通、ホテル業界は、資本の異なる他ホテルと競争するのが通例である。
 ところが、プリンスホテルは、例えばカクテルの創作コンテストでも、プリンスホテル・チェーン内で技を競うのである。

 ホテル経営に関する提案も同様で、各地域のプリンスホテルが組織内で営業成績を競う。

それに勝つためには、提前会長が来館の折に直訴し、承認を得るのが最も手っ取り早いのだ。

 それによって、他のプリンスホテルを一歩リードできるわけである。ホテル玄関からエレベーターまでは距離にして約三〇メートル。その間に担当者は提案を手短かに話し、提から「ウーン、いいよ」と承認を取った方が勝ちである。
そしてその企画や提案がヒットすれば、ホテルの総支配人に引き上げられることも夢ではなかった。

 だが、この10年余り、提義明へ、現場の「真実の情報」はほとんど伝わっていなかった。代りに、「実権」を握ったプリンスホテル社長の山口弘毅らのグループが情報を遮断し、堤に現実を見せないでいたと元幹部は苦言する。そして、近年はむしろ堤の権威にすがる幹部は敬遠された。

 山口らから「君は、間違った山を登っている」と直接、注意された社員もいた。忠誠を尽すなら、実権を握ったN02の山口の方ではないかという意味合いが、この言葉にはこめられている。

 かくして、提前会長に忠誠を尽せば、側近のN02グループから批判されるという、ややこしい「二重権力構造」が出来上がった。その結果、板ばさみにあって退職する社員も少なくなかった。


●美食と性のアナクロニズム

 側近から現場に関する情報を遮断された堤の行動は、本能のままにエスカレートしていった。山口ら側近が「ホテルマン」として育ち、彼には以前のように直接目を出すことが少なくなってきたことも影響したと指摘する関係者もいる。

 元プリンスホテル関係者は、信じられない光景を口にする。

 「プリンスホテルでは、毎年1月15日頃の成人の日に、二〇歳になった若手社員を集めて『成人式』を行なう。

 ところが何故かそこに、堤前会長がわざわざ出席されるんです。

 そして、気に入った女性がいると、高輪プリンスホテル16階のロイヤルスイートを着替えするからすぐ用意しろ、と連絡が入る。

 利用されるのは30分ぐらいですが、堤前会長が女性を招く際に用意しておく『三点セット』と呼ばれるものがある。趣味のカメラ、避妊具、そしてプレゼントとして渡す高級下着ですが、これが昼の僅かな時間に利用されていて、担当者が驚いたことがあります」
 カメラは女性に限らず風景写真も好きで、国内視察の際にも愛用のニコンを身辺から離さず、いつも被写体を狙っている。

 写した写真のうち、年間12枚を選び、手作りのカレンダーとして、極めて親しい財界人に贈っているほどである。

 だが、社員の目も意識せず、昼の日なかから、ホテルのスイートルームをそうした私的目的に使うとは、経営者として堤義明は老いた、或いは呆けたとしか言いようがない。
 原宿にあるコクド本店の秘書課とその奥にある会長室で、さらにその会長室の隣のアイスホッケーチーム用の浴室でも秘書を相手に猥褻な行為にふけっていたという報道などは、もしそれが本当なら、父親の康次郎と一体化したような近年の堤義明の常軌を逸した行動を示しているといわざるを得ない。

 秘書課の女性を愛人として箱根・大平台温泉にある研修所に住まわせ、そこにジェット・ヘリで通う。

 あるいは、好みのタレントや女優を選んで、豪華な食事に誘い、そこでお気に入りの料理人やソムリエに、好みの料理やワインを運ばせ、女性の前で自らの「権勢」を見せつける。ホテルの世界では、オーナーがそうした華やかな世界に賓客を招くことは珍しくないが、その場合の「主役」はあくまでも「ゲスト」であり、上流階級の人々を招待しての「正式な宮」である。

 だが、堤義明のそれはホテル・オーナーとしての「宴」ではなく、一企業の独裁者が権力を振るうために、社員の前で繰り広げる「私宴」であった。

 愛人たちの別荘への移動は、運転手付の専用車の場合もあるが、人目を避けるため13人乗りのジェット・ヘリ、シコルスキーS−76を利用する時が多かった。

 そのジェット・ヘリは2004年の記者会見後、既に売却され、東京ヘリポートに置かれている。白い機体に青い線が入り、中には革製のソファが備えつけてある。一時間の飛行料は約百万円と言われる。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-49c1.html  

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コメント
1. 中川隆[-9676] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:10:09 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[46] 報告
【西武と堤義明の"悪行"を暴く?】業績悪化の「西武鉄道グループ」(草野洋)
http://www.asyura2.com/0403/lunchbreak3/msg/1078.html


 
シリーズ西武
西武と堤義明の"悪行"を暴く?
業績悪化の「西武鉄道グループ」

西武鉄道グループの広告塔的役割を果たしてきたライオンズ球団を、

「合併させたい」ほど西武鉄道グループは業績悪化している。

「西武鉄道」は前期85億円の赤字。レジャー、サービスは23億円の営業赤字。

「コクド」もレジャー事業が低迷で、営業赤字は八期連続。

西武グループ有利子負債総額は1兆円を上まわる。

そのうち「西武鉄道」は約8,000億円の負債を抱えている。

一方ではグループの土地の含み益はどんどん減り続け、

もはや一兆円を下まわっている。

こうした財務状況の悪化で、スポーツ関連部門でもリストラが続き、

「プリンスホテル」野球部は2000年に廃部、アイスホッケーも

昨シーズン限りで「西武鉄道」が廃部を決め、「コクド」に統合される。

そんな中で今度は「西武ライオンズ」の「合併」を

オーナーである堤義明が口にした。

「西武ライオンズ」は「コクド」の小会社であり、経営内容は非公開だが、

これも赤字の模様だ。もはや球団を支えていく力がないのだろう。

こうした西武グループの哀退傾向の中で、

今年3月に総会屋への「利益供与事件」が発覚、

その責任を取って義明は「西武鉄道」会長を辞任したが、

依然としてグループのオーナーであり、実権と影響力はいささかも変わらない。

この「総会屋利益供与事件」では、

「西武鉄道」元専務ら鉄道側被告10人が有罪となったが、

土地1坪売るにしても義明の了解がなくては売買できない仕組みになっているのに

グループ総帥の義明が関与しないわけがない。

ましてや「西武鉄道」の社有地6,300平米という鎌倉と横須賀の土地を安値で売り、

総会屋はその土地を転売して8,800万円の転売差益を得たというのだから

義明は熟知していた筈である。

昭和38年の衆議院選挙で未曽有の違反者を出した先代堤康次郎は、

心労のためか翌39年4月、76歳で死去。

その遺言では「10年間は何もするな」というものだった。

その際、番頭格の岡野関治は「義明さんのやり方は先代にそっくりだ」

と舌を巻いていたというほどで、この<西武と堤義明の"悪行"を暴く>というシリーズで、

その辺も含めて読んでいただきたい。

2. 中川隆[-9675] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:11:21 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[47] 報告
"宮様"土地収奪の手練手管
http://www.asyura2.com/0403/lunchbreak3/msg/1079.html

 
シリーズ西武
西武と堤義明の悪業を暴く?
"宮様"土地収奪の手練手管
「西武鉄道」のある役員は「義明さんは太陽で、あとはみんな石コロだよ」と言った。

お茶を運んできた女性秘書は、床にひざまずいて差し出す。

西武が開発した"鎌倉霊園"には、毎年元旦にはグループ幹部500人が、

先代の墓前に手を合わせる。

そして「感謝奉仕」の社是を引き継ぐと称して西武グループの「奉仕当番」だ。

これは西武グループの誰かが、毎日2人か3人で墓地の横にある休憩所に泊り込む。

各自手弁当でこの墓地に出勤して清掃する。

これは狂信的な宗教団体のようなもので、

義明のこうした前近代的な君主制は何によって培われたのだろう。

'92年に、"持株会社"といわれる「コクド」が、

名門の「川奈ホテル」の経営を引き受けた。

周知のように「川奈ホテル」には"富士コース"と"大島コース"のゴルフコースがあり、

毎年フジサンケイクラシックが開催される。

一泊してワンラウンドまわると1人7万〜9万円。

凋落傾向にある義明の「コクド」が、なぜ「川奈ホテル」に手を出したのかといえば、

「先代康次郎そっくり」の義明は"宮家"とか"華族""名門"に異常な執着心を見せる。

旧財閥の岩崎小弥太(三菱財閥)の持っていた伊豆長岡の別邸を先代康次郎は、

調査もしないでいい値で買い取った。(『西武大国』長島忠三郎著)

また、北白川家の約4万平米の高輪の土地は衆議院議長に就任した2ヵ月後に

"西武のもの"(所有権登記は26年後)にしている。

そしてここには「新高輪プリンスホテル」を建てた。

戦後の皇室離脱によって民間人になった"宮家"は、税金で持ちこたえられずに、

やむなく"物納"していた。

国は、この土地の一角を衆議院議長公邸として使用していたが、

先代康次郎が衆議院議長に就任するや、北白川家の執事を抱き込み

「高輪に家を建てて戻りたいから、物納した土地を返してもらいたい」と

衆議院議長あてに返還を訴えさせた。

それを受理する側だった康次郎は、衆議院議長の立場を利用して処理させた。

明治天皇は「北白川の宮」、「武田の宮」、「東久邇の宮」、「朝香の宮」

のそれぞれの皇女に約4万坪の土地を持参金として4つに分けて下賜されたものが、

目黒の迎賓館、品川のパシフィックホテル、赤坂のプリンスホテル、

高輪のプリンスホテルなどの土地で、「東久邇の宮」のパシフィックホテルの土地は、

故河野一郎と故大野伴睦に邪魔されて目的を達することができなかった。

3. 中川隆[-9674] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:12:04 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[48] 報告
"皇室"にも触手をのばした義明
http://www.asyura2.com/0403/lunchbreak3/msg/1080.html


 
シリーズ西武
西武と堤義明の"悪業"を暴く?
"皇室"にも触手をのばした義明


「西武」創設者である先代康次郎も堤義明も、

「旧華族」、「皇室」、「名門」にこだわってきたかというと、

世事に疎い"皇族"は"欺しやすい"だけでなく、

"堤家の血"すなわちそのルーツにあるのではないかと思われる。

「日本で活躍する朝鮮半島出身者の末裔・西武王国の実像」

という記事が某誌に掲載された。

その某誌の「最高顧問」も朝鮮半島系の人物で、その記事の中に

「かつて義明は、彼の長男に天皇家の長女・紀宮妃を嫁にもらうべく画策した、

と某週刊誌が報じたことがある」と書かれている。

これが事実だったとすれば、"堤家"は日本の"皇室"の財産を収奪し、

長男を皇室と結びつけることによって堤家の過去の悪業の数々を

隠ぺいしようとしたのだろうか。

人間にとって、その血のルーツがどこにあろうとこだわるべきでないが、

"堤家"の"皇族"に対する執着にはただならぬものを感じる。

その一方で西武は税金を払わないよう経理上の操作をし、

義明個人は「世界一の金持ち」として『フォーブス』に取上げられたこともある。

「義明さんは大物だよ。われわれがゴルフに行くと、

何人連れていってもタダでやらせてくれて、プリンスホテルに泊まらせてくれるよ」

と元首相の小渕恵三(故人)は言った。

そこで「義明さんがそうした待遇をするのは、早稲田大学出身同士という

親しみからでしょうが、何か陳情された時断れないでしょう。

企業人が金を出したり、便宜をはかるときは、必ず下心があるものですよ」

と言葉を返すと、まだ40代後半だった小渕は、意味が飲み込めないようだった。

こうした義明の魂胆を見抜けないノー天気な政治家らは、

そのパーティーにプリンスホテルを利用する。

'98年10月、「高輪プリンス」の"さくらタワー"開業記念パーティーには

1万人ほど招待された。

その中には羽田孜、森喜朗、竹下登(故人)、村山富市ら総理大臣経験者から、

義明と"親密"と噂のある沢口靖子をはじめ芸能人、マジシャンの引田天功、

そして義明と同様に、「プロ野球再編問題」でヒンシュクをかった

『読売』のナベツネこと渡辺恒雄もかけつけていた。

4. 中川隆[-9673] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:13:05 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[49] 報告
お彼岸の中日に皇女「和宮」の墓を壊す
http://www.asyura2.com/0403/lunchbreak3/msg/1081.html

 
シリーズ西武
西武と堤義明の"悪業"を暴く?
お彼岸の中日に皇女「和宮」の墓を壊す


『西武王国・その炎と影』(1990年4月刊)には、

−狂気と野望−というサブタイトルもある。

この『西武王国』は、サンデー社から出版された280頁ていどの単行本で、

先代康次郎の側近弁護士の中嶋忠三郎(故人)が書いたものだが、

中嶋の子息が、この本を義明と清二に届けたところ、

すぐに西武鉄道の総務部長が忠三郎と子息を訪ねてきて

「中嶋さんはすでに退職してますが、特別に1億円退職金を追加で払いたい

と社長(義明)がおっしゃるので小切手を持ってきました」と言って

税金を差し引いた小切手を差し出してきたという。

子息が、「この本を出さないでくれということですか?」と聞くと、総務部長はうなずいて

「こういう出版物は今後出さないようにしてほしい」と告げて帰ったという。

この中嶋忠三郎の『西武王国』には

徳川家と増上寺の土地買収問題が記されてある。

<増上寺は、徳川幕府が寄進した寺院であったのだが、

この当時は徳川家よりむしろ増上寺の方が威張っていた。

明治の初期、一時的には、全部国有地にもなったことがあったが、

それが再度徳川家のものとなったりで、いろいろと複雑であった。

徳川家の所有地3万坪は、増上寺を挟んで東西に分かれていた。

その東側は墓地になっていて、皇女和宮の霊廟もあった。

現在、東京プリンスホテルが建っているところである。>(『西武王国』より)

先代康次郎はこの土地に目をつけ、安い価格で買収したが、

風致地区を知っていて樹木を切り倒し、東京都とモメたことがある。

これも康次郎は風致地区の見直しを検討させ解除させてしまった。

そして中嶋忠三郎は、<私は悲しくも寂しい思いをさせられた。>という個所がある。

それは、<実は私と増上寺側の作田弁護士は、話し合いを重ね、

お墓の移転問題についても打ち合せをしていた。そしていずれにしても

「お彼岸中には移転はしない」という約束をしていた。

ところが、堤は、西武の中村弁護士に指示してお彼岸の中日に、

徳川家のお墓即ち和宮のお墓を取り毀してしまったのである。

これは、大問題に発展した。>(『西武王国』より)

つまり、康次郎は、儲かると思えば、規制もねぢ曲げ、"皇室"の土地であろうが、

"宮様"の墓だって暴いてしまう。

5. 中川隆[-9672] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:14:46 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[50] 報告
朝鮮王朝最後の王女
投稿者: 総務外交 in 「外交の現場」を行く 投稿日: 2016年10月21日
https://www.spjd.or.jp/?p=2226


1910年。日本による韓国併合。これをどう解釈するか?

日本と韓国の近代史を考える際に、避けて通れない問題である。誇り高き韓国人はこれを屈辱と感じ、できれば歴史上なかった事態にしたいと考えている。同じように植民地経験を持つ台湾人が、日本支配をおおむね肯定的に捉えているのと、それは対照的でもある。

あまり言及されることがないが、日本の明治天皇と朝鮮の高宗は、それぞれ1852年11月3日、1852年7月25日に生まれた。つまり同年生まれである。しかし歴史的事実は残酷だ。明治天皇は帝国主義時代の「名君」になり、高宗は時に「愚公」と批判されることもある。

今回のテーマは、その高宗に生まれた最後の王女・徳恵姫(1912ー1989)にまつわる物語である。

日本による韓国併合は、歴史的事実に即して言えば、「大日本帝国」による「大韓帝国」の併合である。急成長した新興国家による没落国家の「吸収合併」であった。「朝鮮王朝最後の王女」の生涯からも、そのことがお分かりいただけるだろう。

<現場@>旧李王家邸宅(港区・赤坂プリンスホテルクラシックハウス)

https://www.spjd.or.jp/wpspjd/wp-content/uploads/2016/10/genba01.jpg


神宮外苑の秩父宮ラグビー場の場所には、戦前、女子学習院があった。皇族をはじめとした名門家庭の子女がここに通った。

1925年4月、京城(現在のソウル)から、ひとりの少女が転校して来た。高宗と下級官女の間に生まれた徳恵姫である。同級生には、後に満州帝国の愛新覚羅溥傑夫人になった嵯峨浩(ひろ)や、「憲政の神様」と呼ばれた政治家・尾崎行雄の3女・雪香らがいた。雪香によると、徳恵姫は「口数の少ない方で、運動会ではいつもビリで、本当にお気の毒でした」という。

「私があなたの立場なら、独立運動をやっているのに、なぜ、あなたはなさらないの?」。ある日、雪香はストレートな質問を徳恵姫に向かって発した。日本の朝鮮政策に批判的だった父親の影響があったようだ。しかし朝鮮から来た少女は、黙ったままだった。彼女の日本語理解力は十分だったが、この過酷な質問には答えられないだろう。沈黙は無理もない。

当時、彼女は宮内省から提供された麻布・鳥居坂の邸宅に、兄の皇太子・李垠(リウン)や日本人夫人の方子(まさこ、皇族梨本宮守正の長女)とともに、住んでいた。当時の住居地図をもとに探索すると、そこには現在、K-POPS公演なども行われる劇場「Zeppブルーシアター六本木」があった。その敷地のほとんどが駐車場だが、立入り禁止の庭の一角に残る鳥居や大木が、わずかに往時をしのばせる。北隣が「スヌーピーミュージアム」であり、南隣は旧岩ア邸跡地の「国際文化会館」である。

徳恵姫は1930年3月、紀尾井町の元北白川宮邸の敷地に完成した新しい洋館「李王家東京御殿」に引っ越した。桃の節句の佳き日であったが、この邸宅が後にどういう運命をたどるか、若い彼女はまだ知らない。

この洋館が現在の「赤坂プリンスホテル・クラシックハウス」だ。ホテルの新築と合わせて改修され、今年夏に再オープンした。歴史を感じさせる建物の一階は、洒落たレストランになっている。ウェイターに聞くと、時折、韓国人観光客が訪ねて来るという。近代朝鮮の「悲運の現場」がそこにあるからだ。

李垠の戦後は悲惨だった。紀尾井町の李王家邸を参議院議長公舎として間貸しし、方子とともに侍女部屋で暮らしていた。一時期、駐日韓国大使館の候補地になったものの、韓国政府から購入資金の送付はなかった。これが「西武」の総帥・堤康次郎に4000万円で売却した背景である。しかし、この4000万円も借金返済などでほとんど消えたという。

伊藤博文から譲渡された大磯の別邸・滄浪閣(そうろうかく)は戦後、楢橋渡(政治家)の手を経て、堤康次郎の所有になった。現在の大磯プリンスホテル別館である。

2005年7月、赤坂プリンスホテルの一室で老人の遺体が見つかった。李垠皇太子・方子夫人の二男・李玖(リク、当時73歳)である。今上天皇とは「はとこ」の関係にある人物だ。子供はおらず、これで李王家の直系子孫は断絶した。当時、日本では皇位継承問題が表面化していたが、翌2006年、秋篠宮家に皇族男子(悠仁親王)が誕生したことで、危機を脱した。

日本の皇室と朝鮮王家の明暗は、このように対照的である。朝鮮王家の金銭感覚のなさも目立つ。「国運」というには、あまりに悲劇的だ。

<現場A>対馬・厳原(宗武志との結婚)

https://www.spjd.or.jp/wpspjd/wp-content/uploads/2016/10/genba02.jpg

本馬恭子「徳恵姫ー李氏朝鮮最後の王女」(1998)は、悲運の王女の生涯を丹念に追った日本で唯一の著作だ。出版当時、著者は長崎の女子大講師であり、版元の「葦書房」は、かつて毎日新聞西部本社記者だった三原浩良が社長を務めていた。私も個人的恩義がある先輩だ。

この著作は、3・1独立運動直後に書かれたプロパガンダ本「朝鮮独立運動の血史」(朴殷植)を不用意に引用するなど、出版当時の時代風潮だった「贖罪史観」が背景にあるものの、取材自体はきわめて丹念に行っている。

その本の口絵に印象深い写真がある。1931年秋、対馬を訪問した徳恵姫と、結婚した宗武志(そう・たけゆき)伯爵のツーショットだ。宗家は対馬藩主の子孫という名門である。当時、徳恵姫19歳、武志23歳。新郎は東京帝大卒、長身のイケメンである。戦後は、麗沢大学教授を務めた英文学者だ。

韓国では「彼は李王家の莫大な持参金を目当てに結婚した」「徳恵姫が病気になるや精神病院に送り込んだ」との風評が少なくなかった。日本側にも同様の見方があった。いわゆる政略結婚説である。本馬の著書の目的は、これに対して「ふたりの人間関係を史実に基づいて明らかにする」ことであり、ふたりに「愛がなかった」という見方に異議を唱えることだった。「愛があったにもかかわらず、彼らは不幸だった」ことを立証したことに、この著作の意義がある。

武志は北原白秋門下の詩人だ。妻に捧げた彼の詩「閑感」がある。その一部を引用する。

愛し妻よ、鳴るや、渡殿/百千鳥 群れ羽ばたくや/離れ屋の 赤き長押に/白珠を 書けて 嘆くや。/愛し妻よ、わたりは絶えて/いとし子を われは抱けり

彼の詩的才能と妻に対する愛情は、この一編の詩から十分に推測できる。

「日鮮融和」を目的とする政略結婚説には、異論を唱える研究者が増えている。

それは最近、日韓歴史ドラマの定番になってい李垠・方子夫妻の場合でも同様だ。縁談のパイプ役だった宮内省事務官の回顧録には、二人の結婚が梨本宮家側が主導されたという記録が残されている。最近になって発掘された。ほかにも傍証は少なくない。この点は新城道彦「朝鮮王公族ー帝国日本の準皇族」(中公新書)にわかりやすく叙述してある。

新城は、徳恵姫の結婚も「政略結婚と結論づけるには留保が必要であろう」と書いている。その理由は、徳恵姫にとって、伯爵家との縁談は「必ずしも悪い話ではなかった」からだ。朝鮮の当時の事情では、「朝鮮貴族ならば子爵以下しか見込めなかったのである」という。

徳恵姫は戦後の華族解体により、一般の日本人になった。1955年には離婚して、母親の氏を名乗って「梁徳恵」となり、ソウルに戻って、韓国籍を得た。

彼女はなぜ離婚したのか。宗武志はなぜ徳恵姫と離婚したのか。この点については、明快でない。徳恵姫の精神病悪化もあり、家庭事情が複雑すぎるからだ。本馬は前著で、彼の詩を引用して宗武志の真情を弁護した。

「狂へるも 神の子なれば あわれさは 言はむかたなし」

この表現に偽善やまやかしがあるとは思えない、と本馬は断じている。

<現場B>韓国映画「徳恵翁主」の虚妄

https://www.spjd.or.jp/wpspjd/wp-content/uploads/2016/10/genba03.jpg


今年の夏、韓国で徳恵姫をヒロインにした映画「徳恵翁主」が封切られた。清楚な人気女優ソン・イェジンが徳恵姫を演じた。観客動員500万人を突破するヒット作になったが、映画自体は批判に遭遇した。(翁主とは側室の王女の意。正妃の王女は公主と呼ばれる)

有力紙「中央日報」は社説「韓国史研究の新たな踏み台に」で、以下のように批判した。

「決定的なミスは、徳恵翁主を独立闘士型のキャラクターとして描いたという点だ。映画で徳恵翁主は日本に強制徴用されてきた朝鮮の民を慰め、日帝に抵抗する朝鮮留学生の集いに参加する」

なんとも荒唐無稽な人物に、映画は仕立てた訳だ。それにもかかわらず映画はヒットした。ありもしなかった「夢の歴史」を見たいという韓国人の願望が投影したと言うしかない。実証主義を基礎にしたフィクションとはほど遠い。これは実は、最近の韓国歴史映画の特徴でもある。

韓国にとってさらに残念なのは、韓国における徳恵姫研究が、18年前に刊行された本馬の著書を超えるものがないという事実だ。これは韓国近現代史研究の全般にわたる「弱点」であり、「大韓帝国亡国史」に関する韓国人の無関心と関係がある。つまり彼らにとって「見たくない歴史」なのだ。だから当時を描いた歴史映画はいきおい「史実を美化したファンタジー」になっているのだ。この虚妄に満ちた「自分の壁」を突破しない限り、韓国史叙述の未来はないと、私には思える。

1989年4月21日、徳恵姫はソウル昌徳宮にある「楽善斎」で、看護師2人に見守られて永眠した。享年76。宗武志は1985年に77歳で死去していた。二人には、ひとり娘「正恵」がいた。早稲田大学を卒業した彼女は、英語教諭と結婚したが、1956年「自殺する」旨の遺書を残し失踪した。遺体が見つかったのは、その50年後だった。

下川正晴の顔写真 (2)  下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。
https://www.spjd.or.jp/?p=2226

6. 中川隆[-9671] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:18:55 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[51] 報告
華麗なる女性関係…愛人は大物女優から秘書まで (夕刊フジ)


 父親、康次郎氏が授けた帝王学では「友達はつくるな。信用するな」と説いたが、女性問題は例外だったようだ。康次郎氏が女性に関しては、「愛人だらけで、康次郎の死後、会社に康次郎似の子供が次々とやってきて、その処理には清二氏が当たっていた」(西武関係者)ほどだ。

 堤前会長も康次郎氏の遺伝子をしっかりと受け継ぎ、コクド関係者は「大物女優から秘書まで盛んでした」と話す。

 実際、昨年10月の有価証券報告書の虚偽記載問題を発表後、姿を消した堤前会長に影のように付き添っていたのは、正妻や子供たちではなく、愛人歴25年のコクド元秘書(48)だとみられる。

 この女性は、堤前会長の威光をかさにあらゆることに口出しすることから「コクドの女帝」と呼ばれ、周囲から恐れられた人物。堤前会長から東京・世田谷にあるテニスコート付きの豪邸があてがわれていたが、堤前会長の失脚で、コクドも辞め、一緒に姿を隠した。

 堤前会長にはもう1人、女優の水野真紀似の30代のコクド秘書の愛人がいた。入社3年目から堤氏が会社で入浴するときの手伝いをする係で、さすがに会社でセックスはできないが、口で奉仕していたと週刊誌で告白。その後、神奈川県・箱根で約10年間、愛人生活を送ったという。その間、勤務実体のない秘書給料のほか、10年間で6000万円の“お手当て”が支給されていたことなどを赤裸々に語った。

 このほか、「荻窪第2夫人」と呼ばれる女性(56)の存在も週刊誌で暴露された。この女性は銀座の超高級クラブの元ホステスで、堤前会長に見初められ、いまでは長男と2人の娘がいるという。

 明らかになっているだけで、3人の愛人がいたが「女性に手を出した数は計り知れず」(西武関係者)ということだろう。

 というもの、フィギュアスケートの元五輪選手でタレントの渡部絵美さんは週刊誌で、17歳のころ、キスを迫られたり、体を触られたり、ベッドに押し倒されたり、堤容疑者から執拗(しつよう)なセクハラ行為を受けたと激白した。

 実名の告白だけにインパクトは大きく、堤前会長の女性関係の一端が生々しく浮かび上がった。また、堤前会長はかつて、大物女優をものにするため、後援会をわざわざ影でバックアップするなど、手の込んだ“ナンパ”法を編み出していたという。

 特に女優の吉永小百合さん(59)との親密ぶりは有名で、西武ドームや東伏見のアイスアリーナで一緒に観戦する姿が目撃され、一部報道では軽井沢の別荘を格安で譲り受けたという。

 西武関係者は「堤前会長の愛人たちを見ていると、兄の清二氏の好みと似ている。2人とも色白のぽっちゃりタイプだが、一流の女性を好む」と解説する。経済評論家の1人は「友達をつくらない堤前会長の唯一の心の安らぎが女性関係」というが、会社の研修寮という名目で愛人に住まいを与えるなど、公私混同ぶりは驚くばかり。

 愛人の“お手当て”の出所が堤前会長個人でなく、会社だったり、住まわせている住宅にかかる費用も会社が出したりしているとすれば、特別背任罪に問われる可能性がある。

 堤前会長は報道されている女性関係について、「事実無根」と完全否定している。だが、華麗な女性遍歴は今後、司直の関心の的になりそうだ。

[ 2005年3月3日18時0分 ]


http://news.www.infoseek.co.jp/topics/business/seibu.html?d=03fuji51668&cat=7&typ=t

7. 中川隆[-9670] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:19:40 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[52] 報告
39 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 20:09:29 ID:7jnn/Pxi
確かフィギュアの渡辺絵美は堤に食われてたはず

40 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 20:49:28 ID:W7xA0ub
>>39
彼女は徹底拒否して、プリンスホテルにいられなくなって、 カナダかどこかで一からやり直したらしいよ。
文春で告発してただろ。

ってことは、美人で西武に居続けられた人は全部、堤に身を委ねた可能性が高い。


42 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 21:32:47 ID:C2yYwVKE

 渡部がセクハラを受けたのはインスブルック五輪に出場した直後の17〜18歳のころで、フィギュアスケート界のアイドル的存在だった彼女は、当時40代の堤義明に

「俺の女になれば、スケートリンクの一つや二つやろう」

「スケートを辞めるか、それとも続けたいか。どうする?」

と言われ、車の中で体を撫でられたり、新宿プリンスホテルの一室で、力ずくでベッドに押し倒されたりしたのだという。

 渡部はそれでも堤義明を拒否した。そうすると、コーチから

「そろそろスケートを辞めれば? 若手にチャンスを与えたあげなさい」

と言われ、品川スケートセンターのロッカーの鍵まで奪われることになった。ホームリンクで滑れなくなった彼女は、一時スケートをあきらめて、新宿でアルバイトをしていたこともあるという。

 そんな彼女の運命を変えたのはアメリカから届いた一本の電話だった。

彼女は再起を決意して米国に渡り、そこで練習を積んで見事にカムバックした。

79年3月の世界選手権ウイーン大会で日本人として初めて銅メダルに輝いた。

80年にアメリカのレークプラシッドで行われたオリンピックでも6位入賞を果たした。


西武王国の崩壊
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/seibu.htm

堤から、絵美はフィリピン人の血が入ってるからだからどうとかまで言われたらしい。

6 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 02:18:56 ID:h54YpGLI

堤はいつもプリンスホテルに泊めた女優の部屋を夜中に訪れるそうだが
沢口靖子には部屋のドアを10分ぐらいノックしてもシカトされたそうな。


46 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/10 15:23:59 ID:Lz4FEZwr

【話題】生々しい堤義明と沢口靖子のツーショット映像(ゲンダイネット)[03/10]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1110428183/


50 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/13 16:20:24 ID:cfKiEZda

http://homepage3.nifty.com/nonu/geinou.htm

週刊誌などで関係が噂された女優のイニシャルから推定すると、

OM(岡田茉莉子)、
TK(太地喜和子)、
SY(沢口靖子)、
MA(水沢アキ)、
YS(吉永小百合)、
MY(三田佳子)
KM(小谷実可子)、
MY(南野陽子)
YJ(八木沼純子)、
IM(伊東美咲)
SE(佐藤江梨子)。

51 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/14 00:21:03 ID:hiDl+wCk

女優食いまくりだな


52 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/14 08:30:39 ID:2302dLQu

吉永小百合の軽井沢の別荘をテレビで映してたがお隣さんがなんと細川もりひろさん
2人とも超格安で手に入れたそうな


53 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/15 00:36:47 ID:TGteWWO
>>52
彼も、西麻布のマンションに愛人の浅野ゆう子を囲ってたよね


54 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/15 03:52:16 ID:bAEJVgch

西武が株をインサイダー相対取引した企業の中に東映が入ってた。
東映と言えば吉永小百合だ。何か関係あるんだろうな。


38 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 16:42:31 ID:FsCR/H0Z

里谷の母親はフジ系列局の北海道文化放送で働いてるそうだ。
これも堤が日枝に頼んだのかな?

週刊アサヒ芸能 03/17号
「里谷多英 何と3Pまで繰り広げていた『公然SEX事件』の一部始終」


55 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/15 23:30:19 ID:oSpt+v9l

サトエリ・・・全裸開脚(*´Д`)ハァハァ・・・


8 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 04:12:53 ID:E6w+sIvg

堤とかホリエモンとか倉本とか里谷とかフジを取り巻く人間はどうしょうもねーなw
http://tv7.2ch.net/test/read.cgi/tvd/1109856985/

8. 中川隆[-9669] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:25:23 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[53] 報告

「創業100年企業の血脈」
第二回 西武鉄道 「社員にカレーを振る舞ったピストル堤」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/32426?page=3


「1939年11月には、箱根土地の系列会社だった国分寺―村山貯水池間の『多摩湖鉄道』(現『西武多摩湖線』)を買収。東京・村山に作られた大貯水池に東京近郊のリゾート地≠夢見て、1950(昭和25)年には『西武遊園地』を作ります。さらに『藤田観光』が所有していた『豊島園』の集客を見越して練馬―豊島園間に支線を開通させ、豊島園を傘下に置きます。

『西武村山線』(高田馬場―東村山間)を持ち武蔵野鉄道と競合していた旧『西武鉄道』の株を取得し、康次郎が社長に就任、武蔵野鉄道に吸収合併させ新生『西武鉄道』を終戦間もない1946(昭和21)年9月に発足させたのです。その後も西武鉄道は拡大を続け、当初武蔵野鉄道の44kmほどだった路線は、約180kmまで発展しました」(西武鉄道OB)


宮家の邸宅跡地に「プリンス」

 康次郎はこの西武鉄道のターミナル駅・池袋で、新たな事業に乗り出す。康次郎は太平洋戦争後の食糧難の中、池袋駅前の土地の権利を取得し、当時は闇市などが広がっていた地域に食品を中心とした総合小売店舗を建てたのだ。今で言う食品スーパーである。これが現在の『西武百貨店』池袋店の前身である。

 さらに1946年5月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、秩父、高松、三笠の直宮家を除く11宮家に臣籍降下と財産税の納付を申し渡すと、康次郎はこれも事業に活用する。降下した宮家の邸宅を買収。跡地にホテルを建てたのだ。旧竹田宮邸には『高輪プリンス』、旧朝香宮邸には『芝白金迎賓館』(現『東京都庭園美術館』)朝鮮李王家邸には『赤坂プリンス』・・・・・・。元皇室の土地が持つ高貴なブランド力を最大限に利用するため、西武系列の多くのホテルには「プリンス」の名が冠される。

 こうして康次郎は、リゾート、鉄道、不動産、百貨店、ホテルなどの巨大な企業グループを構築した。その一方で社員も大切にしたという。

「康次郎さんは『お客様相手のビジネスをしているのだから、お客様に感謝をし、奉仕しなければいけない、これがサービス業の基本だ』と言っていました」

 康次郎のもとで書生をしていた元西武のグループ企業の役員は、こう振り返ると、「先輩社員から聞いた」という次のようなエピソードを明かした。

「戦後しばらくは、大雪が降ると線路を切り替えるポイントが凍結して、電車がよく停まっていました。そうした事態を阻止するため、西武鉄道では社員が徹夜でポイントを監視していたんです。だからどんなに雪が降っても西武だけは電車が停まることがなく運行し、お客様に迷惑をかけることはありませんでした。そんな社員たちに感謝し、康次郎さんは頻繁に自宅に呼んでいた。そして自ら作ったカレーを、来た社員に振る舞っていたそうです。従業員を気遣う社長と社員は、強い信頼関係で結ばれていました。そんな強固な関係が西武を支え、発展させてきたのではないでしょうか」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/32426?page=3


9. 中川隆[-9668] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:33:50 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[54] 報告
太田 雅彦
都市型サービス産業としての鉄道業
―五島慶太と堤康次郎―
(日本の企業家活動シリーズ No.53) 2012/08/06
http://riim.ws.hosei.ac.jp/wp-content/uploads/2014/10/WPNo.131_Ota.pdf


堤 康次郎 : 土地開発と輸送・流通・観光事業

略年譜
1889(明治 22)年 0 歳 滋賀県愛知郡八木荘村生まれ
1902(明治 35)年 13 歳 八木荘小学校高等科卒業、農業に従事
1913(大正 02)年 24 歳 早稲田大学政治経済学部卒業
1917(大正 06)年 28 歳 長野県東長倉村で区有地 60 万坪を購入、沓掛遊園地を設立
1919(大正 08)年 30 歳 神奈川県箱根町強羅で土地 10 万坪を購入、以後仙石原など箱根
町で土地購入
1920(大正 09)年 31 歳 箱根土地開発(後・国土計画興業、コクド)を設立
1924(大正 13)年 35 歳 衆議院議員、初当選
1926(大正 15)年 37 歳 箱根土地開発が国立学園都市の分譲を開始
1928(昭和 03)年 39 歳 多摩湖鉄道設立
1932(昭和 07)年 43 歳 武蔵野鉄道(後・多摩湖鉄道、西武鉄道と合併し西武農業鉄道、現・
西武鉄道)の経営に参画
1940(昭和 15)年 51 歳 京浜デパート所有の「菊屋」を買収し、武蔵野デパート(現・西武
百貨店)に改称
1943(昭和 18)年 54 歳 旧・西武鉄道を買収
1946(昭和 21)年 57 歳 公職追放
1951(昭和 26)年 62 歳 追放解除
1953(昭和 28)年 64 歳 衆議院議長、就任
1957(昭和 32)年 68 歳 三男・義明が国土計画興業の代表取締役に
1961(昭和 36)年 72 歳 次男・清二が西武百貨店の代表取締役に
1964(昭和 39)年 75 歳 死去

1.青年期の堤康次郎

(1)農業からのスタート

堤康次郎は、1889(明治 22)年 3 月 7 日、滋賀県愛知郡八木荘村の農家に父・猶治郎、母・
みをの長男として生まれた。4 歳のときに猶治郎が急死したため、祖父・清左衛門と祖母・
きりは、康次郎と 2 つ違いの妹・ふさを自分たち夫婦の手で養育することを決め、以来 2
人は祖父母の手によって育てられることとなった。
1902(明治 35)年、小学校を卒業した康次郎は、中学校への進学が決まり入学手続きまで
終えたものの、若者の都会暮らしを心配する祖父に遠慮して、進学を諦めることとし、祖
父とともに農業に従事することになる。自らが過燐酸石灰を利用して二毛作を試みるだけ
でなく、畦が曲がりくねっているために歪んだ形をしていた水田の耕地整理に取り組むな
ど、地域農業の生産性向上を図ろうとする姿勢からは、後の康次郎の旺盛な企業家精神の
一端を垣間見ることが出来る。
その後、およそ 4 年間にわたり農業に専念した康次郎は、再び祖父の許しを請い、京都
の海軍予備学校に入学する。およそ 1 年で同校を修了した康次郎は、1907(明治 40)年4月、
愛知郡の郡庁の職員として採用される。県や郡の役所は、能力と意欲のある地方の若者に
とっては安定した可能性のある勤務先であるだけでなく、康次郎にとっては農作業を手伝
いながら八木荘村の自宅から通勤できる職場でもあった。しかしながら、康次郎が郡庁に
勤務するようになって間もなく、祖父・清左衛門が死去する。
すでに祖母を失っていた康次郎にとって祖父をも失ったことは、それ以上八木荘村に留
まり農業を続ける必要のないことを意味していた。康次郎は郡庁の職を辞し、上京するこ
とを決意する。

(2)異色の大学生活
1909(明治 42)年 4 月、郷里の資産を処分して上京した堤康次郎は、早稲田大学の高等予
科第一(大学部政治経済学科に進学する者の予備科)に入学する。弁論部(雄弁会)と柔道部に
所属した。将来、政治家になることを志していた康次郎にとって、演説の能力は不可欠で
あり、雄弁であることが何をおいても必要だったのである。その後、授業には欠席するこ
とが多くなった康次郎も、雄弁会の活動には熱心であり続けた。早稲田大学雄弁会は、
1902(明治 35)年に大隈重信を総裁、高田早苗を顧問として設立され、後には永井柳太郎が
リーダー格となって政治家やジャーナリストを志望する者のための恰好の修行の場となっていた。弁論や演説の能力を身に付けただけでなく、知己を得ることや政治の場での活動
の機会を実現することにも成功した。大隈重信とも、雄弁会の活動を通じて見知られるに
至っている。
一方で、向学心こそ高かったものの、康次郎は大学の授業には欠席しがちとなっていっ
た。大学の講義内容は有用であると考えていたが、大学の授業自体は担当教員の公刊文献
の内容とあまり変わらないことが多いことに気付くと、授業のテキストやノートを入手し
て勉強することで試験をパスしようとしたのであった。このことを、康次郎は、「ノートな
どは五日間分くらいはわずかの間に読めるもので、毎日々々学校に行って、先生のいうこ
とをただ筆記して帰るよりは、この方がはるかに時間が有効だ。これが私の主義だった。
だから学校に行く時でも家から人力車で行き、学生のせん望の的となったが、これも道が
悪くて歩くのに時間がかかるからだったのである」(堤[1957])と振り返っている。
そして、本来であるならば大学の講義に出席すべき時間は、東京でのビジネスにおける
機会の獲得やそれへの挑戦にと費やされるようになる。当初のビジネスへの関心の対象は、
郷里でも多少の経験のあった商品や株式の取引だった。商品取引こそ失敗に終わるが、株
式取引では大きな成功を収める。康次郎は、1910(明治 43)年、関税の改正によってモスリ
ン・毛織物に保護関税が課されることで国内企業に競争上の優位が与えられると考え、毛
織物企業として当時の有力企業だった後藤毛織物株式会社の株式を購入し、同社の株主総
会に出席した。この総会での康次郎の発言が同社の経営者の目に留まり、同社株の買い集
めに加担することで多額の資金を手にすることに成功した。1911(明治 44)年、康次郎はこ
の資金を元手にして、22 歳にして日本橋の蛎殻町郵便局長となった。郵便局経営は、一定
の利益が確実なことに加え、電報の取り扱いを通じて情報に接することができること、局
施設を住居として利用可能なことから、康次郎の合理的な主義にも適ったものであった。
1913(大正 2)年 7 月、康次郎は早稲田大学を卒業する。


(3) ジャーナリスト兼実業家として
大学を卒業したからといっても、すでに在学中から政治や企業経営、投資の活動に携わ
っていた堤康次郎の生活が一変したわけではなかった。学生時代から桂太郎による新党・
立憲同志会の創立員の 1 人となるなど、活動の場が早稲田大学の枠を超えるものとなって
いた康次郎の関心は、もっぱら政治へと向けられていた。
1914(大正 3)年 11 月からは、大隈重信の公民同盟という組織において、『公民同盟叢書』の編集・発行の主宰者となっている。同書の経営は、発刊当初こそ順調であったものの、
大隈をはじめとするその関係者たちが無料で大量配布したことに加え、定期購読者たちへ
の配送が必ずしも確実でなかったなど経営上の問題も多く、発刊から 1 年数ヶ月で廃刊と
なっている。
この後、康次郎は雑誌『新日本』の編集責任者として社長に就く。同誌は、1911(明治 44)
年の創刊以来、大隈が主宰して永井柳太郎が補佐し、当時の指導的な識者の論説を中心に
して編集された月間総合雑誌であり、すでに知識人の中に一定の評価を確立していたが、
経営状況は芳しいものでなかった。康次郎は、発行部数 1 万部を目標として、『新日本』の
編集と経営に新機軸を打ち出すが、次第に他のビジネスに多忙となり同書の経営に割く時
間も少なくなっていった。1918(大正 7)年 12 月、同書は廃刊となり、康次郎のジャーナリ
ストとしての活動も終わった。
一方の企業経営に関しても、失敗続きの状況となっていた。1917(大正 6)年には東京護謨
株式会社を設立し、翌 18 年には名古屋の海運会社・浪越汽船を買収する。当初こそ、第一
次世界大戦の特需から業況は順調に推移するが、第一次世界大戦後の不況が到来すると一
転して経営難に陥り、撤退を余儀なくされた。その他にも、石炭事業や真珠の養殖なども
手がけるが、何れも失敗に終わっている。
その中で、唯一、着実な利益をもたらした事業が、土地への投資であった。1914(大正 3)
年に日本橋の郵便局を売却した康次郎は、豊玉郡落合町(現・新宿区下落合)で土地の購入を
始めた。地元の地主などから 2,667 坪(約 8,000 u)を買い付けたのが最初であり、その後数
年間はこれらを売却することなく土地の買い付けを続け、1919(大正 8)年末には一帯で
14,235 坪(約 47,000 u)の土地を確保するに至っている。康次郎の不動産開発の生涯の第一
歩であった。

2.不動産開発と鉄道事業

(1)軽井沢と箱根の別荘開発

堤康次郎による本格的な不動産開発事業は、第一次世界大戦末期の好況と大正デモクラ
シーの高揚を背景とした中で、軽井沢と箱根での別荘地開発から始まった。
康次郎が軽井沢の開発に乗り出したのは、雑誌『新日本』の経営をしていた 1917(大正
6)年のことだった。大隈重信や永井柳太郎、後藤新平などの支援を受けて、長野県北佐久郡
東長倉村沓掛区の区有地 60 万坪(約 200 万u)を 3 万円で購入する。これと同時に、康次郎は、資本金 20 万円(払込 5 万円)で沓掛遊園地株式会社を設立した。康次郎が計画した土地
付き別荘は、「簡易別荘」と呼ばれた中産階級向けのもので、販売価格は土地 100 坪・建物
7 坪で 500 円のタイプと、土地 100 坪・建物 11 坪で 800 円のタイプから成っていた。
別荘地開発に先立ち、信越線沓掛駅との間に幅 12mの「七間道路」を通したのをはじめ、
水道や電話、日用品を扱うマーケットを建設するだけでなく、発電所も設置して送電を行
うなど、地域のインフラ整備にも尽力した。これら一連の開発工事には、用地買収価格の 7
倍近い 20 万円近くの資金を投入して、康次郎は千ヶ滝遊園地の簡易別荘 40 戸を完成させ、
販売にこぎつけた。後に“道路の堤”と呼ばれるようになる康次郎は、「開発とは何にかと
いうと、それは道路だ。道路をよくしないで観光開発はなりたたない」(由井、前田、老川
[1996])と考えるようになったきっかけだったという。
箱根については、1919(大正 8)年、康次郎は箱根・強羅地区で山林 10 万坪を購入し、続
いて仙石原で 70 万坪、芦ノ湖畔の箱根町で 100 万坪、さらには元箱根、湯ノ花沢と土地を
買収していった。強羅地区では、この頃すでに小田原電鉄が別荘地の分譲を行っていたが、
それは上流階級向けの高級別荘であった。それに対して、康次郎は計画した別荘地は、箱
根においても中産階級向けの「簡易別荘」だった。
1920(大正 9)年 3 月、康次郎は資本金 2,000 万円(払込 500 万円)で箱根土地株式会社(後・
国土計画興業、現・コクド)を設立する。同社は、箱根の開発を担うのみならず、軽井沢の
開発も同社に移管され、その開発規模は一段と大きなものとなった。箱根土地の所有する
土地は、設立からわずか 1 年余り後の 1921(大正 10)年 5 月時点で、箱根方面に 269 万坪、
軽井沢方面に 371 万坪、総計 640 万坪にも及んだ。


(2)「文化村」や「学園都市」の開発
軽井沢や箱根の別荘開発の一方で、堤康次郎は、東京の市内並びにその近郊での住宅地
開発、渋谷や新宿での商業・娯楽施設の建設など、新たな方向にも事業規模やその範囲を
広げていった。これらの事業に取り組んだのは、別荘地の開発には、土地の取得、施設の
建設やインフラの整備に長期に及ぶ多額の資金を必要とするにもかかわらず、軽井沢は分
譲時期が夏期に限られたこと、箱根は交通機関が未発達で分譲が進展しないため、安定し
た収益源が必要だったことも、その要因であった。
1922(大正 11)年から、康次郎は「目白文化村」の分譲を始めている。この年に東京・上
野で開催された平和記念博覧会における住宅展覧会が「文化村住宅展」と称して好評を博したことから「文化村」の名称を使用するに至った。第 1 回の分譲は、それまで康次郎個
人が購入してきた所有地を縁故者向けに販売したもので、29(昭和 4)年にかけて計 5 回の分
譲で 37,137 坪(約 12 万u)が販売されている。分譲地では、道路、電気、ガス、上下水道、
電話などのインフラに加え、クラブハウス、テニスコートも整備されており、新聞、雑誌
への広告掲載が話題となった。
「学園都市」の構想にあたっては、理想の教育を実現するという康次郎の関心がその端
緒ではあるが、それ以上に教育機関の設置とその関係者の居住による地域のステータスの
向上で住宅分譲を促進するという戦略的意図があった。1924(大正 13)年、大泉学園都市と
国分寺学園都市(現・小平学園都市)の開発を開始した。大泉に東京商科大学(現・一橋大学)、
小平に津田英語塾(現・津田塾大学)と明治大学が移転するとの情報から、土地の取得と分譲
へと動いたのだった。両計画とも土地分譲こそ順調であったが、土地付建売住宅の販売は
進捗しなかった。
そして、「国立学園都市」については、康次郎自身が「私の自慢の一つは国立の開発であ
る」と評価している。それは、神田一ツ橋の敷地が手狭になり郊外への移転を検討してい
た東京商科大学を北多摩郡谷保村へと誘致したもので、1925(大正 14)年に交わされた同大
学と箱根土地との契約にあたっては、国分寺・立川間に国立駅を開設して鉄道省に寄付す
ること、駅からは幅 24 間(約 43m)の幹線道路と幅 6 間(約 11m) の東西への放射状の道路
をはじめとしたインフラの整備が約束された。完成した道路は、それぞれ大学通り、富士
見通り、旭通りと名付けられ、現在にと至っている。斬新かつスケールの大きな学園都市
開発の理想は実現したが、その分譲は想定通りには捗らなかった。「敷地も百万坪は用意」
したにもかかわらず、「結局坪四十円に売出す予定のものが五、六円にしか売れず損をして
売ってしまった」(堤 1957)と振り返っている。また、1926(大正 15)年、康次郎は同地に国
立学園小学校を設立し、学校経営にも乗り出している。
商業・娯楽施設に関しては、1924(大正 13)年、渋谷道玄坂に映画館・劇場や 117 店舗の
商店を擁する「百軒店」を、新宿番衆町に映画館や遊戯施設を備える「新宿園」を開業し
た。両事業は、期待した収益を上げることなく短期間で売却、撤退を余儀なくされたため、
娯楽事業への進出や渋谷、新宿への足がかりとして以上の意義は持たなかったといえよう。


(3)鉄道事業への本格進出

堤康次郎は、「元来土地の開発と交通機関とは、不可分の関係にあるものだ」(堤 1957)と
18
図表―3 堤康次郎と鉄道事業との関わり
出所:由井、前田、老川[1996]より筆者作成
評しているが、鉄道事業が土地開発事業に並ぶ重要な中核事業としての位置を占めるよう
になるのは、1932(昭和 7)年に武蔵野鉄道(後・多摩湖鉄道、西武鉄道と合併し西武農業鉄
道、現・西武鉄道)の経営に参画してからのことであった。それまでにも、1923(大正 12)年
から静岡県三島町―沼津間に路線を持つ駿豆鉄道の経営に関与したり、1928(昭和 3)年には
多摩湖鉄道を設立して国分寺―村山貯水池間 9.2 キロの鉄道を敷設したりしてはいたが、こ
れらはあくまでも土地開発の促進のためであったとみていいだろう(図表 3)。
武蔵野鉄道との関わりは、「大泉学園都市」の分譲にあたり、1924(大正 13)年に石神井―
保谷間に東大泉(現・大泉学園)駅を建設、寄付するとともに、25(大正 14)年に康次郎と箱根
土地が同社の株式を保有したことに始まっていた。当時、同社は浅野セメントの資本によ
って運営されていたが、業績不振から経営陣が退陣することを契機に、康次郎が大株主と

なり経営権を掌握したのだった。武蔵野鉄道は、コスト削減などのリストラクチャリング、
債権者への利払いの延期要請などの措置にもかかわらずその再建は進展せず、1933(昭和 8)
年には 500 万円の社債償還が不能となったため、鉄道財団の管理下におかれることとなっ
た。そのような事態に至っても、康次郎はなおも債権者や金融機関と交渉し、1936(昭和 11)
年に強制和議を成立させるとともに、翌年には減資と負債整理に踏み切り、経営再建に成
功した。康次郎自身は、1939(昭和 14)年に取締役、40(昭和 15)年に社長に就任している。


1923年
駿豆鉄道
1928年
多摩湖鉄道
1932年
武蔵野鉄道
1933年
大雄山鉄道
1940年 合併 1943年
西武鉄道
1941年 合併 1943年
近江鉄道
1945年
西武農業鉄道 合併
1946年
西武鉄道
1957年
伊豆箱根鉄道


3. 政治家「堤康次郎」と戦中・戦後の企業家活動

(1)衆議院議員「堤康次郎」としての一面

したたかに、しかも強引に事業を推し進める一方で、堤康次郎には政治家としての一面
があった。「人生で最高の仕事は政治だと思っている。金をかけて事業をやってみたところ
で、それは国全体のある一部分でしかない。・・・私は早くから政治を志していた。しかし、
金をもらって歩いていたのではとても政治はできない。それでまず金をもうけようとした
わけだ。」(堤 1957)と述懐する康次郎は、1924(大正 13)年から故郷である滋賀県選出の衆議
院議員となっている。以来、当選を重ね、戦後の 1953(昭和 28)年 5 月からは衆議院議長に
就任し、政治家としても大きな足跡を残した。
政治家としての康次郎は、1932(昭和 7)年、斉藤実内閣において永井柳太郎拓務大臣のも
とで政務次官を務めている。拓務省は、植民地行政のために設けられた機関で、その監督
範囲は朝鮮、台湾、樺太、南洋、関東州に及び、総面積は当時の日本の領土の 44%を占め、
南満州鉄道や東洋拓殖などの国策会社も管理していた。1911(昭和 6)年には二・二六事件が
起きるなど、軍部の台頭著しい時代背景の中、康次郎は一貫した軍縮論者として、軍部の
政治介入を批判し続け、民政党員として国際派であることを貫き通している。
しかしながら、戦後の 1946(昭和 21)年、GHQによる軍国主義者の公職追放と超国家主
義団体の解散が指令されると、康次郎はその該当者として追放指示を受ける。追放解除と
なって政界に復帰するのは、1952(昭和 27)年の第 25 回総選挙のときのこととなった。改進
党に所属した康次郎は、翌 53(昭和 28)年 5 月から 54(昭和 29)年 12 月まで、衆議院議長の
職にも就いている。政治家としての康次郎は、戦前、戦後を通してリベラルであり続けた
のだった。康次郎の次男である堤清二は、「日ソ国交回復(1956 年)に憤慨して、議員の辞表
を提出して、岸信介に慰留されたりしてね。慰留されるのを計算して辞表出したのかと思
っていたら、どうもわたしの父は政治についてはまじめなところがあって、本心だった。

ビジネスでは相当ひどいことをやっているんですよ。けれど、政治は、あの年代の日本男
児としては、一種の理想的行為でなければならなかったんだろうなあ。大隈重信の弟子で
すからね。親父は、派閥を作ったり、駆け引きしたりしていない。正直一本やり」(堤、三
浦[2009])だったと評価している。


(2)戦中・戦後の事業展開

堤康次郎は、戦時下の交通調整が進展する中で、1943(昭和 18)年、旧・西武鉄道を傘下
に収めた。同社はその沿線において武蔵野鉄道との競合、対立が著しく、康次郎はこれを
解消すべく東武鉄道が所有していた同社株を譲り受け、経営権を掌握するとともに、自ら
が社長に就任した。武蔵野鉄道と旧・西武鉄道は、1945(昭和 20)年に合併して西武農業鉄
道(後・西武鉄道)となり、現在の西武鉄道へと続いている。
また、1940(昭和 15)年には、京浜急行電鉄が兼営する京浜デパートの分店であった菊屋
を買収し、武蔵野デパートと改称して、食料品、日用雑貨中心の小規模百貨店の経営に進
出している。そして、これを拠点にして池袋駅周辺の土地買収にも着手し、1948(昭和 23)
年には池袋駅東口を中心に 16,000 坪(約 53,000 u)を所有するに至っていた。この頃、池袋
で西武百貨店の建設をしようといた康次郎に、銀座・松屋の株式購入の提案がもたらされ
ているが、この商談は成立に至っていない。その事情を堤清二は、「戦後になっても、当時
の康次郎はなによりも不動産経営に重きを置いていた。百貨店をつくるのも、百貨店の経
営そのものに関心があるのではなく、それが土地の価値を高めるというかぎりで関心をも
っていた。したがって、池袋以外の百貨店にはそれほど関心がなかった。なぜなら銀座で
松屋を買収しても、康次郎が所有している西武鉄道沿線の土地の開発には関わりがないか
らである。康次郎が西武百貨店の経営を始めたのは、西武鉄道沿線の土地の価値を高める
という波及効果に着目してのことだった」(由井編[1991])と解説している。
そして、戦後の康次郎の土地買収は、旧皇族や旧華族の邸宅地にも向かった。「プリンス
ホテル」の命名の由来は、旧皇族の邸宅跡地であることにある。GHQの方針によって臣
籍降下(皇籍離脱)することとなり免税特権を失った各宮家は、その財産税の支払いを迫られ
ていた。利用価値が高く広い土地を購入できる好機だと捉えた康次郎は、積極的にその購
入に取り組んでいる。臣籍降下した 11 宮家のうち、朝香宮家、竹田宮家、北白川家、東伏
見宮家の 4 家と、李王家が、康次郎にその邸宅地を託す結果となっている(図表 4)。しか
しながら、康次郎は宮家の邸宅地買収にあたって、極めて不透明な手法をとっていた。北


図表―4 西武グループの旧・宮家所有資産

譲渡年月日 その後の使用形態
朝香宮別邸 1947/08/12 千ヶ滝プリンスホテル
朝香宮邸 1950/10/07 東京都庭園美術館(西武鉄道が買収後、都に転売)
竹田宮邸 1951/02/07 高輪プリンスホテル
北白川宮邸 1953/07/24 新高輪プリンスホテル
東伏見宮別邸 1954/01/07 ホテルニューオータニ
李王家邸(旧・北白川宮邸)1954/09/29 赤坂プリンスホテル

出所:猪瀬[1986]、由井、前田、老川[1996]より筆者作成

白川邸のケースでみると、12,000 坪の土地の購入代金 9,600 万円は、内金などとして 1,500
万円を支払っただけで、残額は支払猶予金として年 1 割の利息を支払うだけという形式と
なっていた。加えて、その 12,000 坪の土地の所有権移転登記は 26 年後の 1979(昭和 54)
年になってからのこととなる。この手法を採用することで、康次郎にとっては多額の資金
の流出が抑えられる一方、北白川家にとっては「北白川家所有」という形式を偽り続ける
ことができるのであった。さらに、邸宅地の売却を担当した執事長をはじめとする宮家の
職員は、西武鉄道などのグループ会社へと就職が斡旋されていたのだった。
軽井沢や箱根における土地取得が成功への端緒となったことが象徴的であるが、康次郎
は土地にしか関心が無かった、といってもいい。彼の生涯は、ただひたすら所有地を増や
すことにあったといっても過言ではないだろう。


(3)堤康次郎の事業承継とその後

堤康次郎は、1964(昭和 39)年 4 月、「人生で最高の仕事」だと考えていた衆議院議員とし
て、現職のまま 75 年間のその生涯を閉じる。1957(昭和 32)年に三男・堤義明を国土計画興
業の代表取締役に、次いで 1961(昭和 36)年には義明の異母兄弟である次男・堤清二を西武
百貨店の代表取締役に就任させることで、それぞれの事業の後継者を明確にしていた。ま
た、第二次世界大戦の開戦 1 年後の 1942(昭和 17)年 12 月 8 日には、『家憲』を残していた。
そこでは、堤家の相続人には、財産を「私有財産として与へるもの」ではなく、それは「堤家の事業の管理人と云ふ観念に外ならぬ」とし、「たとえ国家が滅びても、堤家は守らなけ
ればならない」としていた。
2 人の後継者は、その後、競うようにして事業の拡大に没頭した。西武百貨店を率いた清
二は、従来の百貨店の枠を超えて、自動車販売、ヨットハーバーの運営や分譲住宅の販売
などの新規事業に進出し、生活に必要な衣・食・住にかかわる商品やサービスを網羅する
西武流通グループを組織した。そして、さらにそれを拡大させることで、流通を核とする
「生活総合産業」セゾングループへと進化させていった。1988(昭和 63)年にはインターコ
ンチネンタルホテルを 2,800 億円で買収するなど、ホテル経営やリゾート開発にも事業領
域を広げたが、バブル崩壊後は多額の借入金から急速に経営を悪化させることとなった。
1995(平成 7)年、清二は、セゾングループ各社の株式からなる私財 100 億円を提供するとと
もに、グループ内企業の全役職を退任することで、セゾングループは崩壊した。
片や、西武鉄道と国土開発興業を率いた義明は、プリンスホテルのブランドのもとに、
首都圏や東北、北海道を中心にして、数多くのシティホテルや大規模なスキーリゾート、
ゴルフリゾートを建設していった。1980 年代からの地価高騰は、土地の含み益を増大させ
ることを通して、プリンスホテルのビジネスモデルにさらなる積極的な事業展開を可能と
させていた。1987(昭和 62)年発行の雑誌『フォーブス』は、西武鉄道グループを支配する
義明が 210 億ドルの資産を有する世界一の金持ちであると報じていた。
しかしながら、西武の手法、つまり事業を興すために借金をする、そしてその金で土地
を買う、という康次郎伝来の経営手法は、平成の時代に入ると段々と通用しなくなってい
った。リゾート、不動産、そして建設と、義明が最も得意としてきた事業は平成不況の影
響を強く受ける。そして、2005(平成 17)、康次郎の後継者であり西武グループの総帥とし
て君臨してきた義明は、証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載、インサイダー取引)
の容疑で東京地方検察庁特捜部に逮捕された。康次郎の没後 40 年間にわたり、グループの
結束と堤家の財産保全のために行われてきた名義借り株式の問題が白日の下にさらされた。
それは、取りも直さず、「株の多数を買収せられたり、過半数の株を買収して乗っ取られな
い様にせねばならぬ。五島慶太の陰謀は計画遠大、到底普通の者では防ぎきれぬものでは
ない」と、軽井沢や箱根のリゾート開発や伊豆半島での鉄道敷設で争ったライバル五島慶
太のことをわざわざ堤家の『家憲』に書き残した康次郎の教えを忠実に守ってきたことの
証であったのだった。06(平成 18)年、西武鉄道グループは、新設された西武ホールディン
グスの下、再編されている。


おわりに

五島慶太と堤康次郎の 2 人は、その強烈な個性と、なにものにも屈しない強固な信念と、
強力なリーダーシップをもって、それぞれ国家的事業にも比肩するような規模と範囲を擁
する巨大企業グループを一代で築き上げた。阪急電鉄の小林一三の描いた「地域開発事業
としての電鉄」という日本独自の概念を踏襲した慶太と康次郎の事業展開には、驚くばか
りに多くの共通点があった。それらは、鉄道、宅地開発、百貨店、ホテルなど、枚挙の暇
がない。
慶太の支配下にあった箱根登山鉄道と康次郎の支配下にあった駿豆鉄道が、新規バス路
線の申請をきっかけにして、箱根開発の主導権を握ろうと蝸牛角上の争いを演じたのは、
終戦から間もない 1950 年代のことだった。「箱根山の交通が、山カゴと人力車だけの間は、
何の騒ぎもなかった。道が開け、ガソリンのにおいがし始めてから、ケンカの時代となっ
た」(獅子[1962])と小説にまで取り上げられたことで、2 人が事業面でライバル関係にある
ことは広く社会の知るところとなっていた。
しかしながら、それぞれが“強盗”慶太、“ピストル”堤と仇名されるほどにエキセント
リックで、自らの目的達成のためには手段を選ばない交通事業者らしからぬ性格の持ち主
であったという点は奇妙までに似通っていたが、どちらかといえば慶太は鉄道路線の伸長
と住宅開発をひとかたまりにした経営方式に重点を置き、一方の康次郎は電車の終点の彼
方に拓かれたリゾート地開発を中心に事業を展開するという点において、両者の違いは明
らかであった。このため、この 2 つの電鉄会社の鉄道事業における競合は少なかったとい
っていい。2 人が衝突したのは、主に戦後の観光開発やリゾート開発における事業展開にお
いてであった。
また、戦時中に多くの事業家たちが軍需産業へと傾注し、その利益を追求した中で、慶
太と康次郎は直接軍需産業に手を染めることをしなかった。戦時体制下においても、慶太
と康次郎は積極的にその事業の規模と範囲を拡げようとしていたし、すでに大規模に事業
展開していた 2 人に幾多の誘惑があったことは想像に難くない。自らの構想の実現のため
にはその手段を厭わなかった 2 人であるが、鉄道事業を通して国家に貢献するという信念
を共有していたということは、偶然の一致であったとしても、きわめて興味深い。
一方で、その企業経営においては、人材の登用、資本政策の 2 点において対照的であっ
た。人材面において慶太は、積極的に官僚出身の人間を重用する。グループの枢要なポス
トは、鉄道省、内務省、大蔵省や海軍省から慶太が直接ヘッドハントしてきたメンバーが占めるようになっていた。片や康次郎は、晩年に至っても自らが専制的に支配、経営し続
けることを選択した。このため、各企業のトップマネジメントには専ら血縁関係者が選任
されることなり、組織的には戦前からの同族企業の色彩を強く残していた。
資本政策においても、両者には大きな差異が見て取れる。慶太には、企業が特定の企業
を支配するためにその株式を取得するという意識こそあったものの、これを通じて一族支
配をもくろむという発想が無かったとみてよいだろう。現実に、慶太とその後継者であっ
た五島昇が保有した株式は、東急電鉄をはじめとする各社において 1%に満たなかった。そ
して、その価値観は昇にも色濃く引き継がれていた。ところが、康次郎においては、慶太
とは正反対の発想をしていた。自らが堤家の『家憲』として書き残したように、事業、す
なわち所有する土地を堤家の「家産」とみなして、それらを保有する会社の株式の支配を
通じて、その支配を永続させようと考えていた。康次郎の「家産」の継承者であった堤義
明も、その手法、価値観を『家憲』として墨守していたのだった。西武鉄道グループを解
体、再編に追い込む端緒となった有価証券報告書の虚偽記載問題、すなわち 40 年以上も続
けられていた西武鉄道株式の名義借り問題は、2 人の企業家の経営手法の違いを期せずして
炙り出したのだといえよう。
慶太と康次郎という 2 人のライバルは、生前からそれぞれの息子をその後継者として指
名していた。そして、五島昇と堤義明という 2 人の後継者はその役割をともによく果たし
た。しかしながら、慶太と康次郎の没後からおよそ 50 年が経過した現在、東急グループ、
西武グループの経営陣には、その創業者の血を引いた者はいない。

10. 中川隆[-9667] koaQ7Jey 2020年11月23日 20:40:09 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[55] 報告
PRESIDENT 2015年6月29日号
加谷 珪一

西武鉄道の創業者である堤康次郎は、戦後ハイパーインフレをフル活用して、国内トップクラスの資産家となった。

堤氏は、大政翼賛会の推薦で政治家になった人物であり、一時は公職追放も受けている。しかし、戦争中から日本の敗戦と、その後のハイパーインフレによる土地価格高騰を予測しており、実際にインフレが始まると、かなり手荒な方法で資産形成に邁進した。

●太平洋戦争後のインフレで「プリンスホテル」用地入手。

(左)赤坂プリンスホテル(現在は再開発中)と、李王家邸(同別館)。戦前は大韓帝国最後の皇太子(プリンス)の邸宅地だった。

堤氏は戦後、臣籍降下に伴い経済的に困窮していた旧皇族をターゲットに、長期分割払いでの土地売却を持ちかけ、都心の一等地を次々に買い漁ったのである。

インフレで土地の値段は跳ね上がるが、支払いは長期分割なので、全額を支払い終わる頃には、毎回の返済額は実質的に二束三文になる。経済に疎い旧皇族はこのカラクリを見抜けず、今日の現金欲しさに、みすみす土地を手放してしまった。堤氏の息子で西武グループを引き継いだ堤義明氏は一時、米フォーブス誌の世界長者番付の常連だったが、その基礎となった土地はこのようにして手に入れたものである。

戦後のハイパーインフレはやがて落ち着いたものの、日本は高度成長が続き、1980年代までほぼ一貫してインフレの時代が続いた。こうしたマクロ経済的な環境を事前に予測できたかできないかで、個人の資産形成には天と地ほどの差が付くことになる。
https://president.jp/articles/-/15995?page=2


11. 中川隆[-9664] koaQ7Jey 2020年11月23日 21:57:39 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[58] 報告
西武鉄道、薄氷踏む資金繰り、激動の15年の末…コクド事件、堤家内部の愛憎劇(Business Journal)
http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/774.html
2020.11.02 06:00 文=佐藤信之/交通評論家、亜細亜大学講師 Business Journal


■優先株発行の報道

 つい最近、ネットでも話題になった、西武鉄道ないし西武ホールディングスが優先株800億円を発行して、日本政策投資銀行とみずほ銀行が半分ずつ引き受けるという内容の報道。これに対して10月16日、西武ホールディングスは、この内容が会社の発表したものではないとする文書を出した。優先株であっても株価への影響は避けられず、迅速な対応が必要だったのだろう。ただ、株式の希薄化を伴わない資本性資金の調達については検討していることを明らかにしている。

■新型コロナの影響

 春からの新型コロナウイルスの感染拡大により、西武ホールディングスは、鉄道事業、ホテル事業での利用者が大幅に減少しており、キャッシュ不足を回避するために、銀行からの融資枠を600億円から1500億円に拡大するとともに6月までに1310億円の借入を実施、9月にも250億円を追加したという。同社は、これでとりあえず年度末まで乗り切れるとの認識であった。

 西武ホールディングスは、今期末の業績予測を、売上高は前期比40%減の3320億円、営業損益は637億円悪化して前期の黒字から552億円の赤字に転落することを見込んでいる。鉄道での旅客数が一時半減し、その後も3割程度の減少が続いている。それ以上にホテル事業の影響は大きく、大半のホテルを緊急事態宣言後の5月を中心に営業休止したことで、売上高の減少は甚大であった。

■創業家、堤一族の闇

 ところで、西武鉄道は、ここ15年間激動の期間であった。その伏線にあった創業家の家族関係から説明を始めよう。

 西武鉄道は、堤康次郎が創始者といわれているが、実際には、明治の半ばに甲武鉄道(現在のJR中央線)の子会社として設立された川越鉄道の流れとなる旧西武鉄道(現西武新宿線)と、飯能辺りの住民によって発起され、浅野セメントなどからの出資を得て建設された武蔵野鉄道(西武池袋線)が合併して、昭和20年9月に現在の西武鉄道として成立(合併時は西武農業鉄道、翌年西武鉄道に改称)した会社である。旧西武鉄道は、大正時代に電力会社に吸収され、それ以降電力会社の兼業として経営された。今は存在しない川越〜大宮間や荻窪〜新宿間の軌道線も運行していた。

■堤康次郎の女性遍歴

 堤康次郎は、「箱根土地」を設立して、もともと軽井沢の町有地など広大な土地を購入して別荘地を開発したのを手始めに、箱根の観光地、国立、大泉などの学園都市の開発を進めたデベロッパーであった。その後、東京市が郊外の狭山丘陵に水源地として人口の湖を造成(昭和2年着工)したが、堤は都市の住民の行楽地として着目し、アクセスのための多摩湖鉄道を整備した。ここで鉄道との関係ができた。その一方で、大正時代、経営難に陥っていた武蔵野鉄道の株式を取得して傘下に収め、次にその競争相手であった旧西武鉄道に触手を動かしていった。

 堤康次郎は、経営者というより政治家であった。大正13年の総選挙で当選して、衆議院議員となった。戦前は立憲民政党、戦後は改進党など保守政党を遍歴して保守合同により自由民主党に属した。昭和28年5月から翌年12月まで衆議院議長を務めた。

 幼いころから政治家を志し、早稲田大学に進学して大隈重信公の薫陶を受け、公の主宰する「新日本」の編集・発行を引き受けるなど、政治運動に打ち込んでいった。幼くして父親を伝染病で失い、母親は里に帰されたため、祖父母のもとで育てられた。母親と生き別れになった経験から母親を慕う気持ちが女性への偏愛へとつながったのか、異常なほどの女性遍歴を続けた。

 最初は、東京に出る前のまだ10代のころ、幼馴染の西沢コトと恋愛し、女児をもうけた。その子は、のちに西武鉄道の役員に嫁し、その人物は西武鉄道の社長となった。次に、早稲田大学の学生の時に日本橋の三等郵便局を購入して郵便局長となったが、その事務員をしていた岩崎そのと交際し、妊娠させることになる。堤から反対されたが、迷惑をかけないからと約束して長男を出産した。長男は清と名付けられて、20歳になった時に堤が養子として引き取った。東大経済学部を卒業後、西武鉄道の取締役に就任したが、冷たく捨てられた母親の件があって堤に反抗したことで勘当されてしまった。堤家のほかの兄弟には、この事件が複雑な気持ちを抱かせる契機となったといえよう。

“その”との交際が続いていた時、大隈公からの紹介で川崎文と結婚した。堤が軽井沢に広大な土地を購入する際に、援助を受けたのが文の実家であった。これが堤のその後の事業の原点であることを思うと、堤は文とのことに恩義を感ずるべきなのであるが、性病で体が不自由になると、「東京土地」を経営していた青山芳三の娘・操と結ばれ、大正12年に堤邸で同居を始めた。ただし、その時の正妻は川崎文である。文は昭和16年に死亡したため、操が正妻の座に就くことになるが、結婚したのは昭和28年であった。川崎文には子供はできず、操との間には清二と邦子をもうけた。

 操と結婚していなかった空白期、代議士の娘石塚恒子をほぼ強引に妾にしてしまった。後継者をもうけることが目的だったようである。恒子との間には義明、康弘、猶二をもうけた。この義明が、その後西武鉄道グループの総帥となる人物である。

 堤は、もともと長男の清を跡継ぎに考え、育ての親の祖父の名から一文字をとって命名した。しかし、ひょんなことから勘当してしまったので、次は清二ということになるが、清二は東大在学中から共産主義に染まり、父親との関係は良くなかった。清二は自ら後継者の地位を義明に譲ることになる。ただし、義明は、いったん引き継いだ西武グループの中の流通部門を分割して清二に提供した。それがのちに西武セゾングループとなる。

 義明は、操が正妻であった時に妾となっていた恒子が産んだ子である。正妻の子である清二は義明に後ろめたさを感じていた。ブルジョワの放蕩な性生活に思想的な抵抗感を抱いたのである。

後継者問題

 堤康次郎は昭和39年4月に逝去した。後継者は義明に決まっていたが、相続権を持つ人間が、表に出ている人物だけではなく、知られていない子供を含めると10人を超えていた。康次郎の財産を分割しては義明へ回る分はごくわずかになってしまう。特に株式がやっかいであった。西武グループを統括するためには、ある程度の(「国土計画」の)持ち株比率が必要である。そこで一計を案じて、株式を信用できる関係者に分散させて所有させ、相続の手続きが済んでから義明にまとめるということにした。持株隠蔽のはじまりであった。

有価証券報告書虚偽記載事件

 西武鉄道は、長期間にわたり、有価証券報告書に記載された大株主に示されたコクドの持株数を過少に記載していた。平成16年3月期には、コクド(もと箱根土地→国土計画)の持ち株比率を22%と記載していたが、実際は西武鉄道グループ各社の従業員持ち株会やOBなど1000人の名義を使って、持ち株を分散させていた。コクド、伊豆箱根鉄道など株主の上位10人を合計しただけでも実際には80%の株式を保有していた。これが東証の上場基準に抵触していたため、西武鉄道は上場廃止となった。また、翌年3月3日にはコクドの堤義明会長は、証券取引法違反と有価証券報告書の虚偽記載により東京地検特捜部に逮捕された。10月に執行猶予付きの有罪判決を受けた。

 この一件で、コクドの幹部職員と西武鉄道の社長経験者が自殺している。

損害賠償訴訟

 その後、西武鉄道の個人株主がコクドと堤義明会長に対して上場廃止による損害の賠償を求めて訴訟を起こした。平成20年4月24日、東京地方裁判所は、上場廃止後に株式を売却した個人株主の損害を認め、総額2億円の支払いを命じる判決を下した。

 この西武鉄道を訴えたのが義明の弟の2人と、親族たちであった。この親族は、康次郎が外でもうけた子であるという話を聞いている。そのような子がどれだけいるのか、わからないというのが西武鉄道の認識であった。

 堤康次郎は、西武鉄道グループの株式を堤家の当主が支配する仕組みをつくり上げた。その中心になったのが箱根土地の流れを汲むコクドであった。非上場のコクドが西武鉄道などのグループ企業の株式を保有したのである。そしてコクドは堤家の当主が支配した。康次郎が死亡した時、西武の株式は跡継ぎの義明に相続させた。これに対して、ほかの康次郎の子には不満が募っていた。

 そしてコクドは西武鉄道の株式の大半を保有することになったが、東京証券取引所の上場条件として、株式の流動性を保証するために特定個人による企業の支配を禁止していた。そこでコクドは、1000人あまりの個人名を使って持ち株を分散させて、この上場基準をクリアしていた。しかし、これにより西武鉄道の有価証券報告書に記載される大株主の事項に、コクドの株式保有率が実際より大きく下回る数字が書き込まれることになった。

西武鉄道の経営立て直し

 上場が廃止されて窮地に陥った西武鉄道の経営体制を立て直すために、平成16年11月、西武鉄道とコクドで「西武グループ経営改革委員会」を発足させた。平成17年1月に再建策が発表されたが、これに基づいて旧経営陣は退陣し、新たにメインバンクのみずほコーポレート銀行から後藤高志副頭取を西武グループの代表取締役社長に迎えた。

 そして経営組織の抜本的な変革を行った。

(1)変更前

(2)平成17年11月29日、コクドは株式移転によりNWコーポレーションを設立。

(3)平成18年1月31日コクドが新株発行(約1331億円)を、また西武建設が保有する西武鉄道株式の譲渡(約263億円)を行うことにより、総額約1800億円の資本増強を実施。

(4)平成18年2月1日、プリンスホテルがコクドを吸収合併。西武鉄道のホテルとその関連事業を西武鉄道から分離の上、プリンスホテルに統合。

(5)平成18年2月2日、西武鉄道とプリンスホテルとの間における株式交換により、プリンスホテルが西武鉄道を完全子会社化。

(6)平成18年2月3日、プリンスホテルが株式交換により当社(西武ホールディングス)を設立。

(7)平成18年3月27日、プリンスホテルがグループ関連会社の管理事務を分割し、当社が継承。西武鉄道が当社の直接の子会社となる。

上場廃止

 西武鉄道は平成16年12月に上場廃止となった。大手私鉄としては不名誉な出来事だった。さっそく構造改革に着手し、プリンスホテルがコクドと西武鉄道の鉄道事業以外の部門を分割の上で吸収した。もともとコクドが担っていたグループの統括部門をいったんプリンスホテルに集約したのである。

 続いてプリンスホテルが株式交換により西武ホールディングスを設立して、一時的にプリンスホテルに属していたグループの管理部門を引き継いだ。これにより、西武グループは、持ち株会社の西武ホールディングスが一元的にマネジメントする普通の企業グループに生まれ変わった。

サーベラスとの資本提携

 この再建策のなかで西武鉄道は、資本を充実するためにアメリカの投資会社サーベラスに対して出資を要請した。サーベラスは1992年にアメリカで設立された投資ファンドで、経営困難な企業や政府機関に対する再建投資に特徴がある。政府機関から健康産業、製造業、流通業、交通事業などを投資対象としているが、交通事業の内容はバス車体の製造などメーカーとレンタカー会社などで、公共交通の運営会社への出資はなかった。

 サーベラスは平成10年代から日本企業への投資を始めたが、対象となるのは大規模小売業や銀行、デベロッパーなど多岐にわたっていた。西武鉄道は経営の再構築を進めるなかで、サーベラスに協力を要請し、平成17年11月に資本提携契約を締結した。平成18年1月、コクドが約1331億円を増資したのに対して1040億円を引き受け、サーベラスの西武ホールディングスに対する出資比率は29.93%(102,384株)に達した。

 その後、平成24年になって、再上場時の株価をめぐって経営陣と対立した。投資ファンドは、投資家から集めた資金を運用して利益を出して投資家に還元するのが業務である。再上場により、十分な含み益が実現できないことには投資家の信用を失うことになりかねない。

 サーベラスは平成24年10月に後藤社長に宛てて、不採算路線の多摩川線、山口線、国分寺線、多摩湖線、西武秩父線の廃止と西武ライオンズの売却などを要求するレターを提出した。利益率を高めるための鉄道路線の廃止は、経営陣には論外であり、議論の余地はなかった。

 この間、東証への再上場のためにサーベラスとの資本提携を解消することが必要なため、平成24年5月以来この解消を申し入れていたものの、受け入れられなかった。サーベラスは平成25年3月12日、株式公開買付(TOB)を実施した。買取価格は1400円とし、議決権ベースで4%の株式の買い取りを目指したが、4月5日に条件を改定して目標を12%に引き上げ、最終的に議決権の44.67%を目標に設定した。当初5月17日までを買付期間としていたが、買付が不調なために5月31日まで延長した。買付の結果は、議決権の3.04%、議決権ベースの持ち株比率は35.48%に上昇しただけであった。

 目標とした40%超えは、役員の派遣などの状況により子会社化が可能な数字であり、西武鉄道としては到底受け入れることはできなかった。株主には再三にわたりTOBに応じないように文書が配布された。サーベラス以外の株主は、純粋に投資目的で売買差益だけを目的としているわけではなく、西武鉄道や球団に対する愛着から株式を持つ人も多い。利益本位のアメリカの投資ファンドには理解できないことであったのかもしれない。サーベラスは取締役候補8名と監査役候補2名の推薦を行うが、平成25年6月、株主総会で株主提案は退けられた。

株式の再上場

 平成26年4月23日に西武鉄道の株式は再上場を果たした。サーベラスの持ち株比率は、平成26年3月末に25.18%であったが、翌年の3月末には28.16%へと増加していた。しかし、その後株価が順調に値上がりして、平成27年3月には最高額3295円、最低額2975円を付けたところで、5月27日、33,750,000株を売却した。これで持ち株比率は25.59%に下げた。サーベラスの購入額は970円といわれているので、十分な利益を出すことができたことになる。その後徐々に売却を進めて平成29年8月に保有株式はゼロとなった。

サーベラスと国際興業

 サーベラスは、西武鉄道以外にも出資した。株安と円安で日本買いが進んだ時期である。

 埼玉県で路線バスを運行するほか、全国のバス会社を傘下に持つ国際興業もその一つであった。国際興業は、経営状況が悪化したにもかかわらず海外ホテルなどに大規模な投資を続けて、財務状況を悪化させていた。平成15年3月期決算には、売上高511億円、純利益17億円に対して単体の有利子借り入れ3800億円で、年間の利息は76億円に達した。報道では負債総額5000億円といわれた。

 平成16年11月30日、サーベラスが株式を買収して経営権を取得。取締役会の過半数をサーベラスが送り込んだ。ただ、小佐野隆正社長は引き続き社長職にとどまった。

経営再建

 サーベラスは、UFJ銀行とりそな銀行に対する一部の債権放棄を受けるとともに残りの負債を半額で引き取り、これを資本化した。これにより、資本金は14億5050万円から1030億1800万円に増強された。そして優良資産として帝国ホテルを三井不動産に、浜松町の遊休地を日本生命に、八重洲富士屋ホテルを住友不動産に売却するとともに、東北地方や山梨県のバス事業やリゾート地を売却し、これらの収益を特別配当としてサーベラスに還流させた。

 平成24年11月1日運輸・交通事業および流通・商事事業を分社化して国際興業グループ株式会社を設立した。

創業家の経営復帰

 平成26年、小佐野隆正(ロッキード事件で知られる右翼の大物、小佐野賢治の甥)ら創業家の運営する国際興業ホールディングスが、サーベラスから国際興業株を1400億円で購入。3月1日、国際興業を国際興業管理に、国際興業グループを国際興業に社名を変更した。

系列会社の売却

 国際興業の系列会社であった十和田観光電鉄、岩手県交通、秋北バスは、平成25年7月に国際興業グループが分社化して国際興業東北が設立されたのに伴い、国際興業東北の完全子会社となった。さらに11月国際興業東北の全株式を本田一彦に譲渡したことで、社名を国際東北と変えた。

山梨交通

 国際興業は山梨県下で路線バスなどを経営する山梨交通を傘下に置いていた。かつては甲府駅から出る鉄道も経営していた。

 ここで堤康次郎が再度登場することになる。山梨交通は、衆議院議員の河西俊夫が経営していたが、1960年代に経営を傾け、大株主が国際興業の小佐野賢治に再建を依頼した。小佐野は40万株を購入し、取締役に就任した。しかし河西社長は、別に堤康次郎に支援を依頼し、河西派と小佐野派で覇権争いを展開することになる。最終的には小佐野の側が勝ちを収め、国際興業の子会社となった。河西の持ち株はすべて小佐野に譲渡され、山梨交通の株式はすべて小佐野賢治の手に落ちた。

 国際興業がサーベラスの下で経営再建を進めた際に、平成24年、国際興業の所有する山梨交通の株式を山梨交通の役員に売却した。これで国際興業の傘下から外れた。

西武鉄道と国際興業

 サーベラスが出資した西武グループと国際興業は、いずれも埼玉県内に路線網を展開する交通企業である。西武グループは資本提携を要請したのであるが、国際興業は経営問題が深刻化して経営再建が急務とされた時期に、突然株式を買い進めたのであった。気が付くと筆頭株主となっていた。ちょうどその時、十和田観光電鉄が十和田市駅の立ち退きの問題を抱えていた。親会社が混乱する中で支援を受けられず、国・県から補助金を受けて近代化を進めていた最中に、廃止せざるを得なくなったという悲劇が起きた。

 西武と国際興業の路線バスの路線網は隣接しており、経営を一元化したらならば、経営の効率化も可能だったのかもしれない。そういう発想がサーベラスになかったのかと、疑問に思うところであるが、路線バスは全体的に収益率が低く、利益率を考えるならば統合よりも路線網の縮小ということになるのだろう。

 サーベラスは、平成26年に国際興業、平成29年に西武から撤退した。その後、日本から完全に撤退することになった。欧米企業には、日本人のメンタリティや企業文化は異質で理解するのは難しいのであろう。欧米的な合理性を持った村上ファンドも証券取引法違反で代表が逮捕され実刑判決が確定した。村上ファンドは信用をなくして解散した。

(文=佐藤信之/交通評論家、亜細亜大学講師)

12. 中川隆[-9663] koaQ7Jey 2020年11月23日 21:58:26 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[59] 報告
堤康次郎は 被差別同和部落出身の在日?


美智子さまの実父が、正田英三郎ではなく、実は堤康次郎であるという噂が絶えません。

堤康次郎の下りを読み思わず「あっ」と、声が出てしまいました。

私の実家は西武の地元に代々住む家で、祖父や父、親戚の叔父達から堤がどのような手段であの辺りの土地を手に入れて成り上がったかを聞いて育ちました。

御多分に洩れず部落です。

昔から西武グループはそちらの人達が多く働いています。それより何より堤清二と美智子さんが似ていると、確かにそのように見えますが、他にもよく似た人物を思い出しました。

記事中にあるように、康次郎が女色に耽ったのは事実で地元の芸者に産ませた子供を見知っています。この人物が見事に美智子さんに似ています。

垂れ下がった康次郎譲りの鼻、腫れぼったい瞼に眉と目の間が広くあいている所も。何かパズルのピースが嵌っていくようで、少し身震いいたしました。
(以上)

★驚いていることは、今、堤家の本を資料として、数冊読み込んでいますが、堤義明が、「堤王国」が崩壊する過程で、ある「事件屋(総会屋と暴力団の中間的存在)」から、「質問趣意書」を突き付けられます。主に「堤王国」が崩壊した「株名義偽装事件」のことですが

箇条書きにされた質問事項のトップが「堤家のルーツは半島人であるのは事実か?」と言うものでした。

「総会屋」も「事件屋」も経営者を脅して、なんぼの商売ですから、質問されて、経営者が鼻でせせら笑うような、いい加減な質問はしないものです。

部落民の堤家は先祖が朝鮮半島から来て、滋賀県の部落に住み着き、定住した可能性は高いです。これも、国民例外無しのDNA鑑定を義務付ければ簡単にわかることです。

https://ana.open2ch.net/test/read.cgi/emperor/1495994469/201i  

13. 中川隆[-9662] koaQ7Jey 2020年11月23日 21:59:15 : kRUBXkulcE : N0ZLaXVybHNtS28=[60] 報告
【北の国から】西武お抱えの倉本聰【優しい時間】

1 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/03 22:36:25 ID:CJGP3D83

倉本聰脚本の優しい時間が8話目を迎える。 老人の懐古主義と陰口を叩かれながらも、時流に媚びない本格派ドラマを謳う同ドラマ。

その倉本聰と逮捕されたばかりの西武・堤義明とは麻布学園で中高と同級生であり、昵懇の間柄である。


昭和47年、富良野にスキー場を開設。
49年、富良野プリンスホテル開業。
52年、ワールドカップ開催。

同年夏、倉本は富良野に移り住み、57年に、あの「名作」北の国からがスタートした。

好評を博した同ドラマにより、富良野の観光客は80万から200万人に激増した。

堤義明と倉本聰の友情が生み出した奇跡だ。

だが、堤が逮捕された今、それを美談と賛美できる人間がどれほどいようか?

倉本は、「北と国から」は堤との関係で始まったものではない。

1作目についてはフジテレビの鹿内と村上とで考案したものだと主張している。

だが、その後のシリーズでは富良野プリンスから数々の便宜を図ってもらったと認めているのだ。

つまり「北の国から」は、実質西武ビジネスのプロモーション作品としての意味が大きかったのだ。

ちなみに倉本聰初監督映画は中島朋子主演のフィギアスケート物語で、それらは品川プリンスホテルのスケートセンターを無料で提供してもらって撮影されたもの。

そして視聴者のどれほどが、今放送中「優しい時間」の舞台となっている喫茶店が、今、話題となってる堤西武グループ・新富良野プリンスホテルの敷地内にあることを知っているだろうか?

さて、フジテレビアナウンサーの里谷がDV離婚・白人との公然猥褻/暴行事件が発覚したが、スキーモーグル選手だった彼女がフジに入社できたのは堤が親密なフジ日枝に依頼したからだと言われている。

そしてフジテレビが今、コクド→西武で問われた親子資本関係のいびつさと全く同種の欠陥をつかれ、ライブドアに乗っ取られかかっているのは皮肉な話だ。

「優しい時間」と同時期のこの冬公開されている映画「北の零年」主演・吉永小百合と言えば、 言わずと知れた堤との“特殊な関係”。早稲田大学時代には堤から単位取得の後押しを申し出られている。

またに徒党の円環構図と言えよう。

「優しい時間」放送当日に堤が逮捕され、放送真っ只中、裏番組で堤のニュースが流されてるのは、腐臭を放つインサイダーの輪の中にいた、倉本聰への引退勧告である。

7 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 03:42:33 ID:hZS06KRr

自然を賛美してるようなドラマ作っていながらスポンサーはコクドかぁ

60 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:2005/03/21(月) 14:52:13 ID:prGjtx4u 

ニッポン放送OBである脚本家倉本聰さんは

「僕はドラマを通して『心を洗う』ことにこだわってきた。
今回の騒動は、収益率を上げ、カネもうけしようという最近のテレビの功利主義的な姿勢を突かれてしまった側面を感じる」と語る。
http://www.asahi.com/business/update/0321/013.html

お前も長年西武の金儲けに手を貸してきたじゃないか。
何を偉そうに言ってんだよ。

15 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 16:18:40 ID:9vtdx0/5

レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」は、 映画としてどれだけ優れてようが、それがナチスのプロパガンダであるという事実を無視して評価はできないからな。

倉本の「北の国から」の中身がどうであろうが、実態としてそれは西武リゾート開発のプロモーションであるという現実は否定すべくもない。

「民族の祭典」だって世に出た当時は偉大な作品、しかし今は・・・だよ。


9 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 04:13:50 ID:Ti/9wkG

近年のトレンディードラマとか酷評してただろ、倉本は。

そんなご立派な男がさ、裏で環境破壊ビジネスやってる西武堤のひも付きで、ビジネス後押しドラマやってた、つうことになったら、言ってきたこと、創ってきたことの全てにおいて、説得力を喪失するぜ。

シャープの“環境に優しい”家電製品のCMに出てる吉永小百合が、 仮に堤の愛人だったとしたら実に嫌なことだろ。 そんな女優に環境がどうとか言われてもなあ。

パトロンがいるから悪いということじゃない。
倉本の作品が壮大なCMに過ぎなかったということが問題なんだよ。

33 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/07 14:09:02 ID:/cdS/YH1

私企業ビジネスのインフラが、税金で整備されたのだと思えば見方も変わってくるよ。

長野新幹線見てみろ。あれは田中角栄が新潟に新幹線引っ張ったのと同じだ。

堤はスポーツ協会牛耳って招致委員会作り、多額の裏金が問題になった五輪誘致に成功して、自分とこの商売に税金投入させたんだよ。

それを富良野でもやってたわけだ。

その一連のどす黒い動きの中に倉本作品が位置づけられてるんだよ。

富良野の景色見て感動してる奴は、諫早湾干拓事業を絶賛してる馬鹿同様の大間抜けだ。


10 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 05:06:38 ID:u+xo4CB8

堤は環境破壊どころか税金払ってないからな。

49 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/10 17:50:51 ID:/gD7aDjq

倉本そーは尊敬してたが今回の露呈で失望したな。

都会流を痛烈に批判して筋金入りの自然擁護主義で富良野塾の教え子にも強制していたが、いくら鼓が同窓生でも西部がやっていた環境破壊行為は耳にしてただろう。
その時点で奴とは縁を切るべきだったろうに。

いくらいい脚本書いてもその思想と行動の矛盾が生じたら一気に冷めてしまうもんなんだよね。

長渕強しがいい例だけどそういえば倉本は長淵大好きなんだっけな・・

75 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:2005/03/27(日) 08:28:23 ID:uN4C0fCZ

綺麗ごとや説教いう人なんて裏はそんなもんだよ。

せりふが説教じみていて、北の国から嫌いでまったくといっていいほど(家の人が見ていたので多少せりふは耳にはいった程度)見ていない。

無名だった富良野を全国的に有名な観光地にした一種の街おこしとしては意味があっただろうね。

うるおったのはプリンスだけじゃなかっただろうし・・


20 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 17:50:30 ID:ypqMFYzf

堤逮捕で裏話が氾濫するようになったから初めてわかってきたことが多いだろ。
倉本と堤の関係とかね。

中学・高校の同級生で、昨年秋以降、西武疑惑が浮上してから、

堤と倉本が電話で連絡とって話たりしてたなんて逮捕まで誰も知らないし、
それ以前に、映画のフィギアってもろ西武関連。

『時計 Adieu_l'Hiver』(1986)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17752/story.html


>二郎はアイスホッケーの極東製紙チームの監督をしており

富良野だって特に勘ぐらなきゃ、ことさら西武を連想したりしないだろ。
意識させないで富良野(のバックの西武)の売り込みに成功したわけだから、
その意味じゃ倉本は“CMプランナー”としては有能なのかもな。

31 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/07 07:05:21 ID:A2ChBgH
>>20
ちょっと西武のこと知ってるなら、堤と倉本の関係ぐらい誰でも知ってるよ。


82 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:2005/04/10(日) 22:10:37 ID:R7YaULv8

倉本と堤は高校の同級生。


83 :名無しより愛をこめて:2005/04/16(土) 15:30:16 ID:s4sZ6L1m
>>82
その倉本聰と逮捕されたばかりの西武・堤義明とは麻布学園で中高と同級生であり、昵懇の間柄である。

おまいは>>1も読めんのか
堤は早稲田の旅行サークルの仲間も、大量にコクドに入社させている

28 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/06 17:54:21 ID:xTOtJy3q

>好評を博した同ドラマにより、富良野の観光客は80万から200万人に激増した。
>堤義明と倉本聰の友情が生み出した奇跡だ。
>だが、堤が逮捕された今、それを美談と賛美できる人間がどれほどいようか?


数百億かけて作ったリゾート施設が閑古鳥が鳴いているところが多いのに、
制作費数億でこれだけ観光客を増やせたというのは逮捕とは関係なく賞賛できるが。


57 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/19 07:21:17 ID:qqAWoQaV

「優しい」喫茶店がオープン

 放映中のテレビドラマ「優しい時間」(フジテレビ)に登場した北海道富良野市の喫茶店「森の時計」が19日、 一般向けにオープンする。撮影の終わったロケセットをそのまま使用、新しい観光スポットとして人気を集めそうだ。

場所は新富良野プリンスホテルの敷地内。倉本さん主宰の「富良野塾」OBで、マスターになる小暮忠広さん(41)は「ゆったりとした時間の中でくつろいでほしい」と話している。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2005/03/19/03.html

59 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/20 00:39:52 ID:BNSMFLUJ
>>57
西武に金をおとしたくはないな
税金払えよ > 堤


39 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 20:09:29 ID:7jnn/Pxi

確かフィギュアの渡辺絵美は堤に食われてたはず


40 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 20:49:28 ID:W7xA0ub
>>39
彼女は徹底拒否して、プリンスホテルにいられなくなって、 カナダかどこかで一からやり直したらしいよ。
文春で告発してただろ。

ってことは、美人で西武に居続けられた人は全部、堤に身を委ねた可能性が高い。

42 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 21:32:47 ID:C2yYwVKE

 渡部がセクハラを受けたのはインスブルック五輪に出場した直後の17〜18歳のころで、フィギュアスケート界のアイドル的存在だった彼女は、当時40代の堤義明に

「俺の女になれば、スケートリンクの一つや二つやろう」

「スケートを辞めるか、それとも続けたいか。どうする?」

と言われ、車の中で体を撫でられたり、新宿プリンスホテルの一室で、力ずくでベッドに押し倒されたりしたのだという。

 渡部はそれでも堤義明を拒否した。そうすると、コーチから

「そろそろスケートを辞めれば? 若手にチャンスを与えたあげなさい」

と言われ、品川スケートセンターのロッカーの鍵まで奪われることになった。ホームリンクで滑れなくなった彼女は、一時スケートをあきらめて、新宿でアルバイトをしていたこともあるという。

 そんな彼女の運命を変えたのはアメリカから届いた一本の電話だった。

彼女は再起を決意して米国に渡り、そこで練習を積んで見事にカムバックした。

79年3月の世界選手権ウイーン大会で日本人として初めて銅メダルに輝いた。

80年にアメリカのレークプラシッドで行われたオリンピックでも6位入賞を果たした。


西武王国の崩壊
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/seibu.htm

堤から、絵美はフィリピン人の血が入ってるからだからどうとかまで言われたらしい。


6 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 02:18:56 ID:h54YpGLI

堤はいつもプリンスホテルに泊めた女優の部屋を夜中に訪れるそうだが
沢口靖子には部屋のドアを10分ぐらいノックしてもシカトされたそうな。


46 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/10 15:23:59 ID:Lz4FEZwr

【話題】生々しい堤義明と沢口靖子のツーショット映像(ゲンダイネット)[03/10]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1110428183/


50 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/13 16:20:24 ID:cfKiEZda

http://homepage3.nifty.com/nonu/geinou.htm

週刊誌などで関係が噂された女優のイニシャルから推定すると、

OM(岡田茉莉子)、
TK(太地喜和子)、
SY(沢口靖子)、
MA(水沢アキ)、
YS(吉永小百合)、
MY(三田佳子)
KM(小谷実可子)、
MY(南野陽子)
YJ(八木沼純子)、
IM(伊東美咲)
SE(佐藤江梨子)。


51 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/14 00:21:03 ID:hiDl+wCk

女優食いまくりだな

52 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/14 08:30:39 ID:2302dLQu

吉永小百合の軽井沢の別荘をテレビで映してたがお隣さんがなんと細川もりひろさん
2人とも超格安で手に入れたそうな

53 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/15 00:36:47 ID:TGteWWO
>>52
彼も、西麻布のマンションに愛人の浅野ゆう子を囲ってたよね


54 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/15 03:52:16 ID:bAEJVgch

西武が株をインサイダー相対取引した企業の中に東映が入ってた。
東映と言えば吉永小百合だ。何か関係あるんだろうな。

38 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/08 16:42:31 ID:FsCR/H0Z

里谷の母親はフジ系列局の北海道文化放送で働いてるそうだ。
これも堤が日枝に頼んだのかな?

週刊アサヒ芸能 03/17号
「里谷多英 何と3Pまで繰り広げていた『公然SEX事件』の一部始終」

55 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/15 23:30:19 ID:oSpt+v9l

サトエリ・・・全裸開脚(*´Д`)ハァハァ・・・

8 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:05/03/04 04:12:53 ID:E6w+sIvg

堤とかホリエモンとか倉本とか里谷とかフジを取り巻く人間はどうしょうもねーなw
http://tv7.2ch.net/test/read.cgi/tvd/1109856985/

14. 中川隆[-11021] koaQ7Jey 2024年4月03日 08:45:16 : JZjevIjDyM : QzcwTW1UMUxLbGs=[1] 報告
プリンスの墓標 堤義明怨念の家系
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/373.html

堤康次郎は 被差別同和部落出身の在日?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1032.html

テレビドラマ 田中邦衛 吉岡秀隆 中嶋朋子 竹下景子『北の国から フジテレビ 1981年』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004571

15. 中川隆[-10996] koaQ7Jey 2024年4月05日 08:11:14 : YrAW814xVU : YjYxeGhBMy5FVHc=[2] 報告
<■107行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
堤康次郎:不動産も女も漁り続けた西武グループの創業者。堤康次郎が築いた西武王国の内幕に迫る!
2024/03/21
https://www.youtube.com/watch?v=fi5zCrBPjMQ




西武グループの創業者であり、"ピストル堤"という異名を持つ堤康次郎の驚異の人生を追うドキュメンタリー。選挙での実弾(金)の撃ち方から、企業買収の冷酷な手法まで、堤の不動産と権力、多くの女性を愛する深い執着を解き明かします。さらに、1992年に発生した伊豆箱根鉄道買収を巡る騒動で右翼によりピストルで撃たれても、その脅しに屈しない堤の精神力と事業へのあくなき挑戦に迫ります。

堤康次郎は箱根や軽井沢を魅力的な一大リゾート地へと大変貌させ、東京郊外の開発にも貢献しました。西武鉄道、西武ライオンズ、PARCO、無印良品、ファミリーマート、としまえん、苗場スキー場など、今日私たちが親しむ多くの西武ブランドや施設の誕生に欠かせない土台を彼は築き上げました。

その一方で、「ピストル堤」という異名を持ち、その果断な手法やプライベートの話題性から、人々の意見は大きく分かれる存在です。生涯にわたり様々な女性との関係が噂された彼は、まさにその時代の寵児とも言える人物。その生き様は、好色家としても知られ、社会的地位を問わず、家政婦から事務員、貴族、政財界の令嬢、女優に至るまで多くの女性との関わりがあったと言われています。


【動画の目次】
00:00 プロローグ
01:34 堤康次郎とは?意外なネットで検索結果
02:28 堤康次郎の生い立ち
06:04 少年時代に見せた商才
08:21 康次郎事業家への旅たち
09:47 郵便局の女性と関係を持った
10:42 28歳で一生一代の大バクチ
13:49 意表を突く別荘販売計画
15:46 迫る倒産危機
17:56 狸芝居の緻密な計算と展望
20:26 情け容赦しない火事場泥棒経営
22:20 不動産の次は鉄道だ!
23:07 ピストルで撃たれた!
24:08 凄まじい不動産への執念
25:57 小田急と箱根山戦争
30:21 宿敵五島慶太との縄張り争い
34:32 成功の影に妻・愛人・女性あり
38:28 東京都民も感激する屎尿事業
40:09 堤康次郎の晩年
43:53 おわり

【関連著書・資料】
私の履歴書―昭和の経営者群像 https://amzn.to/3Pvx02W
西武事件 https://amzn.to/3TLlnaA
野望と狂気 西武の創始者-堤康次郎・波瀾の生涯
プリンスの墓標 https://amzn.to/4cqU8sV
西武王国ーその炎と影 https://amzn.to/3TuFNmy

【堤康次郎のこれまでの経歴】
彼の商売哲学「刑務所の門まで行くが中には入らない」の真意とは?滋賀県の農家から出発し、不動産業界にその名を刻んだ男、堤康次郎の「狂気」の根源に迫るこの動画は、あなたの知らない真実を明らかにします。

堤康次郎が創り上げた「国立学園都市」は、東京都国立市に位置する、独特な都市開発プロジェクトの一つです。このプロジェクトは、主に1960年代に計画され、実行されました。国立学園都市の開発は、教育施設を中心にしたコミュニティづくりを目指し、その周囲に住宅地や商業施設を配置することで、住民が快適に生活できる環境を提供することを目標としていました。

堤康次郎の晩年は、彼の事業帝国に関するさまざまな課題や挑戦に直面しながら過ごされました。彼の生涯は、日本の高度経済成長期とその後のバブル経済の時代を通じて、多大な影響を及ぼしましたが、1990年代に入ると、バブル崩壊とともに西武グループも困難な時期を迎えます。

堤康次郎は、西武鉄道株式会社の会長職を長年務めた後、1997年に息子の堤義明に会長職を譲ります。しかし、その後、西武グループは財務不正問題に見舞われ、特に2004年には西武鉄道が証券取引所から上場廃止となるなど、グループ全体が大きな信用失墜を経験しました。

堤康次郎自身は、これらの問題が明るみに出る前の1999年に逝去しています。したがって、彼の晩年は、西武グループが直面する後の試練の前に終わりましたが、彼が築き上げた事業帝国は、その後、多くの挑戦に直面することになります。

晩年は比較的静かに過ごされたとも言われますが、彼が生涯を通じて築き上げた業績と、その後の事業に対する影響は、日本の経済史において重要な位置を占めています。堤康次郎の遺産は複雑で、その評価は時代と共に変化するかもしれませんが、彼の事業によってもたらされた影響の大きさは、疑う余地がありません。

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