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スカンジナビア半島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/289.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 15:17:46: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ヨーロッパ人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 16:02:53)

スカンジナビア半島人の起源


雑記帳 2019年10月12日
スカンジナビア半島の戦斧文化集団の遺伝的起源
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_25.html


 スカンジナビア半島の戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)集団の遺伝的起源に関する研究(Malmström et al., 2019)が報道されました。まず、本論文で取り上げられるおもな文化の略称を先に記載しておきます。戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)、縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)、鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)、単葬墳文化(Single Grave Culture、SGC)、櫛目文土器文化(Combed Ceramic Culture、CCC)。

 紀元前3000年頃に、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の牧畜民がヨーロッパ中央部へと拡散していき、その影響力は現代ヨーロッパ人に強く残っています。これはヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡大によるものと考えられており、ヨーロッパ各地で多様な文化集団を形成していきました。ヤムナヤ文化集団の拡大範囲の北西部では、縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)がその代表例で、ヨーロッパ北部および中央部に紀元前3000〜紀元前2000年前頃に分布していました。しかし、CWCの形成におけるヤムナヤ文化集団の移住の影響に関しては、文化伝播もしくは地域的発展と人類集団の移住およびその遺伝的影響のどちらが重要だったのか、議論が続いています。

 また、ヨーロッパ中央部・スカンジナビア半島・バルト海東部では、ヤムナヤ文化集団の移住と混合の遺伝的痕跡が確認されているものの、そうした移住はさまざまな地域で異なる経路をたどったと考えられており、移住がヨーロッパにおいて人口史にどのような影響を与えたのか、正確には明らかではありません。スウェーデンでは、CWCは戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)と呼ばれています。紀元前3000〜紀元前2800年頃に始まるBACは、現在のスウェーデン中部とノルウェー南部までのスカンジナビア半島と、フィンランド北西部のバルト海東側にまで分布していました。

 これらバルト海周辺地域に関しても、BACおよびCWCの拡散が文化伝播もしくは地域的発展なのか、それとも外来集団により導入されたのか、議論が続いてきました。以前の考古学的研究は、BACおよびCWCを共通の文化的・社会的慣行を伴うものとして把握しており、埋葬習慣と土器形式と舟形戦斧の均一性を強調しました。最近では、これらの見解は単純すぎると議論されており、BACおよびCWC内の地域的パターンと特徴が強調されています。以前の考古遺伝学的研究では、BACおよびCWCの個体群のゲノム解析がポーランド(関連記事)やフィンランドおよびロシア北西部(関連記事)などで行なわれてきましたが、スカンジナビア半島でのBACの出現もCWC内の移住パターンの特徴と時間および地理的経緯については、まだよく解明されていません。

 本論文は、スカンジナビアにおけるBAC出現の様相をよりよく理解するため、現在のスウェーデン・エストニア・ポーランドの、紀元前3300〜紀元前1660年頃と推定されている11人のDNAを解析しました。ゲノム規模網羅率は0.11〜3.24倍です。遺伝的に、11人のうち男性は5人、女性は6人と推定されています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は全員、Y染色体ハプログループ(YHg)は3人が分類されました。

 11人のうち5人はBACおよびCWCの遺跡で発見されており、そのうち2人はポーランドのオブワチュコボ(Obłaczkowo)、1人はエストニアのカルロヴァ(Karlova)、2人はBAC埋葬地であるスウェーデンのベルグスグレーヴェン(Bergsgraven)で発見されました。年代は、オブワチュコボの2人(poz44とpoz81)が紀元前2880〜紀元前2560年頃、カルロヴァの1人(kar1)が紀元前2440〜紀元前2140年頃、ベルグスグレーヴェンの2人(ber1とber2)は紀元前2640〜紀元前2470年頃です。

 11人のうち6人は、BACおよびCWCではない遺跡で発見されています。そのうち5人はおもに漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)と関連している巨石墓に埋葬されており、2人(ros3とros5)がスウェーデン南部のヴェステルイェートランド(Västergötland)のレッスベルガ(Rössberga)で、3人(oll007とoll009とoll010)がスウェーデン南部のスカニア(Scania)のエルスヨ(Öllsjö)で発見されています。年代は、ros3とros5が紀元前3330〜紀元前2920年頃、oll007が紀元前2860〜紀元前2500年頃でBACの2人と重なっており、oll009とoll010はスカンジナビア半島の新石器時代後期〜青銅器時代となる紀元前1930〜紀元前1660年頃です。6人のうち残りの1人(ajv54)はスウェーデンのゴットランド(Gotland)の円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)遺跡となるアジュヴァイド(Ajvide)で発見され、年代は紀元前2900〜紀元前2680年頃です。

 BACおよびCWC遺跡の個体群は、巨石墓からのoll007も含めてmtHgでは、石器時代狩猟採集民と関連しているU4・U5と、新石器時代農耕民と関連しているH1・N1a・U3に分類されます。これはCWC遺跡の他の個体群に見られるmtHgの変異内におおむね収まりますが、本論文で新たに報告されたmtHg-U3およびN1aは、CWC遺跡で発掘された個体群では報告されていません。

 本論文で新たにYHgが分類された男性3人では、BAC遺跡のber1とCWC遺跡団のpoz81がともにYHg- R1aで、これは既知のCWC文化遺跡個体群の主流YHgです。またCWC集団では、少数派ながらYHg- R1bやYHg- I2aも見られます。YHg-R1aはヨーロッパ中央部および西部の新石器時代農耕民や狩猟採集民の間では見つかっていませんが、ヨーロッパ東部の狩猟採集民と銅器時代集団では報告されてきました。ポントス-カスピ海草原のヤムナヤ文化集団ではほとんどがYHg- R1bで、YHg-R1aではありません。この他に、レッスベルガのros5がYHg- IJと分類されています。

 本論文は新たにDNAを解析した11人のうち、分析が可能な個体の表現型についても報告しており、カルロヴァの1人(kar1)には乳糖耐性関連アレル(対立遺伝子)が確認されています。また外見に関しては、髪の色は明暗両方、目の色も茶色と青色両方が見られました。炭素と窒素の安定同位体値からは、アジュヴァイドの1人(ajv54)を除いて、陸生の食性だったと明らかになっています。ベルグスグレーヴェンの個体のストロンチウム同位体データ、少なくともそのうち1人は死ぬ少し前にベルグスグレーヴェンに移住してきた、と示しています。

 11人のゲノム分析と既知のゲノムデータとの比較は、以前の結果を改めて確認します。第一に、ヨーロッパ全域の早期および中期新石器時代農耕民と中石器時代狩猟採集民は明確に分離します。第二に、ヨーロッパの狩猟採集民間の亜構造はおおまかに東西の勾配と対応していますが(WHGたるヨーロッパ西部狩猟採集民とEHGたるヨーロッパ東部狩猟採集民)、スカンジナビアは例外です(関連記事)。第三に、ほとんどの後期新石器時代および青銅器時代個体群は現在のヨーロッパ中央部および北部の人類集団と重なり、これはポントス-カスピ海草原からのヤムナヤ牧畜民関連の侵入集団との混合に起因します。

 スカンジナビア半島では、漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)と円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)と戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)という考古学的に異なる3文化間の明確な遺伝的分離が見られます。PWC遺跡の新石器時代採集民は遺伝的に中石器時代スカンジナビア半島狩猟採集民と類似していますが、農耕民集団との類似性もやや見られ、おそらくはスカンジナビア半島における狩猟採集民と農耕民集団の混合に起因します。

 BAC遺跡の個体群は、ヨーロッパの他のCWC遺跡の個体群との関連を明確に示します。とくに、スウェーデン南部のエルスヨ遺跡のoll007個体は、直接的にはCWC遺物と関連していませんが、年代的にはCWCと重なっており、CWCの個体群と一群を形成しており、それはもっと新しい年代のエルスヨ遺跡の2人(oll009とoll010)も同様です。エストニアのカルロヴァ個体とポーランドのオブワチュコボの個体群もBAC個体群と類似しており、バルト海地域全体のBACおよびCWC個体群との強い遺伝的類似性を示しているようです。オブワチュコボの2個体も含めてCWCの何人かは、ヤムナヤ牧畜民と関連する草原地帯系統と密接に類似します。これらの個体群は、CWC個体群でも年代は最古と推定されており、全体としてCWC個体群では、時間の経過とともに草原地帯系統の減少という類似した明確な傾向が見られます。

 本論文は、スカンジナビアへのCWC関連集団の拡大を調査し、CWCおよびBAC関連個体群で見られる系統の割合をよりよく理解するため、アナトリア農耕民とヨーロッパ西部狩猟採集民とヤムナヤ草原地帯牧畜民という3起源の系統のモデリングを実行しました。CWC個体群のほとんどはヤムナヤ系統(草原地帯系統)の割合が高いのですが、アナトリア農耕民およびヨーロッパ西部狩猟採集民系統も見られます。スウェーデンのBAC個体群も同様です。BACと同年代ではあるものの文化が不明か、何百年も早く巨石墓に葬られたエルスヨといった他の個体群は、スウェーデンの他地域の典型的なBAC個体群と同じ遺伝的構成を示します。

 BAC関連個体群は高い草原地帯系統を有しますが、ほとんどの他のCWC個体と比較してその割合は相対的に低くなっています。しかし、エストニアのカルロヴァのCWCの女性個体(kar1)もBAC関連個体群と類似しています。対照的に、ポーランドのオブワチュコボの2個体(poz44とpoz81)は草原地帯系統のひじょうに高い割合(90%以上)を示しており、もっと後のポーランドのCWC関連個体群とは異なりますが(関連記事)、ドイツやリトアニアやラトヴィアの他のCWC関連個体群とは類似しています。

 BAC集団の形成史に関しては複数のモデルが提示されており、PWC集団に関しては直接的な祖先か否か、判断が分かれていますが、CWC集団に関しては全モデルで一致して主要な祖先とされており、スウェーデンのBAC集団は他のCWC集団からの移住なしには出現しなかった、と推測されています。さらに詳しく見ていくと、BAC集団はエストニアのCWC関連集団の姉妹集団としては適合しますが、ポーランドもしくはリトアニアのCWC集団とは姉妹集団としては適合しません。これは、CWC集団とBAC集団との間の系統の多少の違いを示唆します。混合モデルでは、スカンジナビア半島におけるBAC集団の出現に関して、バルト海地域東部からのCWC集団の直接的移住、もしくはバルト海地域南部からCWC集団がスカンジナビア半島に移住し、FBC集団と混合した、と推測されます。本論文は、より多くの標本からゲノムデータを得ることで、さらに詳細な形成史が推定できる、と見通しています。以下に、スウェーデンのBAC集団の形成史に関する本論文の図3を掲載します。
画像

 本論文はこれらの知見を踏まえて、CWC遺跡群の人々は、紀元前三千年紀より前にはヨーロッパ北部および中央部には存在しなかった遺伝的系統を有する、と改めて指摘します。この草原地帯系統は、上述のように紀元前3000年頃にポントス-カスピ海草原からヨーロッパ東部へと拡散を始めたヤムナヤ文化牧畜民集団にまでさかのぼります。この遺伝的構成は、バルト海周辺地域のDNA解析されたBACおよびCWCの全個体において、遺伝的系統では最大の割合を示します。

 ここで注目されるのは、上述のように、これまでに分析された最初期のCWC個体群では草原地帯系統の割合が最も高いのに(90%以上)、もっと後の個体群ではこの割合がより低い、ということです。これは、アナトリア農耕民系統へとその遺伝的系統のほとんどをたどれるヨーロッパ北部のFBC集団のような、侵入する集団と在来集団との混合の漸進的過程を示します。この過程は、おもに侵入する男性と在来の女性との混合により推進されました(関連記事)。混合過程は、CWCの全体的な範囲にわたって明らかで、FBC集団もしくはその遺伝的に関連した集団が見つかっていないバルト海東部沿岸のような地域でさえ、確認されています。こうした混合の背景としては、CWC全体の交換ネットワークもしくはバルト海東部地域への特定の移住が想定されます。後者の場合、その潜在的な起源地域は、現在のポーランドもしくはスウェーデンで、そうした地域ではCWC集団の到達に先行するFBC集団が見つかっています。

 BACおよびCWC個体群で見られる父系の起源はよく分からないままです。これまでの研究では、CWC個体群のYHgはR1aで、推定されるヤムナヤ文化集団の大半はYHg- R1bとされています。YHg-R1aは中石器時代と新石器時代のウクライナで見られます。これは、ヤムナヤおよびCWCは父系的社会を形成し、まだDNA解析が進んでいないヨーロッパ中央部および北部の集団が、BACおよびCWCの父系の直接的起源だった可能性を提起します。

 スカンジナビ半島アの中期新石器時代の巨石墓はFBCと関連づけられています。しかし、BACおよびその後の文化で共通する人工物からは、後の文化集団による再利用が示唆されています。FBC関連のエルスヨ遺跡の巨石墓に埋葬された個体(oll007)はBACと同年代で、遺伝的にはBAC個体群とひじょうに類似しています。したがって、考古学的には巨石墓の再利用は早いと推定され、本論文の知見は、じっさいのFBC関連巨石墓をBAC集団も埋葬地として利用していたことを示す、最初の証拠になるかもしれません。これは、デンマークの単葬墳文化(Single Grave Culture、SGC)でも同様かもしれない、と本論文は指摘します。

 BACはスカンジナビア南部でFBCを置換しましたが、以前には在来集団の文化的変容との見解も提示されていました。しかし、本論文の知見で改めて確認されたように、スカンジナビア半島のBAC集団はより広範なCWC集団の一部で、外来集団の移住によりその遺伝的構成に草原地帯系統がもたらされ、ヨーロッパ西部狩猟採集民・アナトリア農耕民・草原地帯牧畜民の各系統の混合を示します。スカンジナビア半島のBAC集団は、紀元前2600年頃よりも前のバルト海沿岸南部もしくは東部地域のCWC個体群よりも、アナトリア農耕民関連系統を有しており、FBC集団との混合を示唆します。こうしたBAC個体群の混合系統は、すべての常染色体分析で明らかで、mtHgでも同様ですが、YHgでは外れたパターンを示します。これは、ヤムナヤ文化とその後のCWC集団で見られる、男性に偏った移住および混合過程を反映しているのでしょう。

 ただ、BAC集団が外来集団と在来集団との混合により形成されたのか、確定的ではなく、スカンジナビア半島以外で混合した集団が移住してきた可能性も考えられます。たとえば、BAC集団は櫛目文土器文化(Combed Ceramic Culture)のような他のバルト海東部地域の集団との特別な遺伝的関連性を示しません。CWCの人々はおもに陸路で拡散していたので、ヨーロッパ中央部から現在のデンマークやスウェーデンへと移住してきた、と推測されます。この期間にバルト海地域では土器の技術的交換が確認されており、遺伝子流動と関連していたかもしれませんが、まだ確証はありません。

 本論文は最後に、BAC個体群からの遺伝的データはまだ限定的で、本論文の知見から推測される遺伝子流動のパターンは、スカンジナビア半島への単一の移住事象と、社会的および技術的交換の広範なネットワークを伴う継続的過程の両方と一致する、と指摘します。この問題のより詳細な解明には、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となります。ヨーロッパを中心にユーラシア西部の古代DNA研究の進展は目覚ましく、ユーラシア東部圏の日本人である私としては羨ましくなりますが、今後はこの格差が縮小していくほど、ユーラシア東部の古代DNA研究が進展することを期待しています。


参考文献:
Malmström H. et al.(2019): The genomic ancestry of the Scandinavian Battle Axe Culture people and their relation to the broader Corded Ware horizon. Proceedings of the Royal Society B, 286, 1912, 20191528.
https://doi.org/10.1098/rspb.2019.1528

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_25.html  

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1. 2020年9月01日 20:09:46 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[50] 報告
雑記帳 2019年05月16日
樹脂の塊から解析されたスカンジナビア半島の中石器時代の古代DNA
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_28.html


 スカンジナビア半島の中石器時代の古代DNAに関する研究(Kashuba et al., 2019)が報道されました。古代DNA研究では、早期氷河期以後のヨーロッパには、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)・ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)・スカンジナビア狩猟採集民(SHG)という3集団の存在が指摘されています。SHGはWHGとEHGの混合と推測されています(関連記事)。これは、最終氷期終了後のスカンジナビア半島への人類集団の移住に、南からの11500年前頃のWHG、北東からの10300年前頃のEHGという2経路があったことを示唆し、考古学的証拠とも一致します。この記事の年代は、放射性炭素年代測定法による較正年代です。ただ、DNAが解析されたSHGとヨーロッパ東部の早期石刃製作技術との直接的関連はまだ確認されていませんでした。この件もそうですが、古代DNA研究における問題の一つは、DNA解析された個体と物質文化とのつながりが明確でない場合も少なくないことです。

 本論文は、スウェーデンの中石器時代のヒューセビークレヴ(Huseby Klev)遺跡(HK遺跡)で発見された、カバノキ属の樹皮の樹脂の塊8点から3人(ble004・ble007・ble008)のDNAを解析しました。このうち女性は2人、男性は1人です。中部旧石器時代以降、カバノキ属の樹皮の樹脂の塊は石器製作で接着剤として使われていました。当時の人々はこの樹脂の塊を噛んで接着剤として用いており、じっさい、歯型が残っています。年代は10040〜9610年前頃で、スカンジナビア半島で確認された人類のDNAとしては最古となります。DNA解析により3人のゲノム規模データが得られました。網羅率は0.10倍・0.11倍・0.49倍です。ble004とble007は二親等程度の関係と推測されています。ミトコンドリアDNAハプログループ(mtHg)は全員U5a2dと分類されました。

 ゲノム規模データからは、HK遺跡の3人がスカンジナビア半島の最初期人類集団と遺伝的にひじょうに近縁だと明らかになり、SHG をWHGとEHGの混合とする推測が改めて確認されました。また、HK遺跡ではヨーロッパ東部の石器技術の影響が確認されており、HK遺跡の3人のDNA解析は、SHGとヨーロッパ東部平原の石器技術との直接的関連を示したという点でも注目されます。HK遺跡の3人は、EHGよりもWHGの遺伝的影響が強い、と明らかになりました。以前の研究ではヨーロッパ東部平原文化の影響から、SHGにおけるEHGの強い遺伝的影響が想定されていました。本論文は、スカンジナビア半島における最初期人類集団では、遺伝子流動を伴わないような文化交流もあったのではないか、と推測しています。

 カバノキ属の樹皮の樹脂の塊には、乳歯で噛まれた痕跡もあることから、子供も作業に関わっていたと推測されます。上述のように、男女ともにこの作業に関わっていましたから、子供にはまだ性別分業が確立していなかった、とも考えられます。カバノキ属の樹皮の樹脂の塊のような咀嚼物は、人類の遺骸がなくとも、古代DNA研究を可能にしますから、今後大きく古代DNA研究を発展させるのではないか、と期待されます。また本論文は、こうした咀嚼物が当時の環境・生態系・口腔微生物叢の情報源となり得ることを指摘しており、この点での研究の進展も楽しみです。


参考文献:
Kashuba N. et al.(2019): Ancient DNA from mastics solidifies connection between material culture and genetics of mesolithic hunter–gatherers in Scandinavia. Communications Biology, 2, 185.
https://doi.org/10.1038/s42003-019-0399-1


https://sicambre.at.webry.info/201905/article_28.html

2. 2020年9月01日 20:36:34 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[57] 報告
雑記帳 2018年11月28日
フィンランドとロシア北西部の古代ゲノム
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_52.html


 フィンランドとロシア北西部の古代ゲノムに関する研究(Lamnidis et al., 2018)が報道されました。ヨーロッパの現代人の遺伝的構成はおもに、上部旧石器時代の狩猟採集民、新石器時代初期にアナトリアからヨーロッパへと拡散してきた農耕民、新石器時代末期から青銅器時代初期にユーラシア西部草原地帯からヨーロッパへと拡散してきたヤムナヤ(Yamnaya)集団の混合です。考古学的研究成果より、フィンランドには9000年前より人類が居住していた、と明らかになっていますが、ヨーロッパ北東部の古代DNA研究は、ヨーロッパの他地域と比較して遅れています。

 本論文は、ロシア北西部のコラ半島の北部に位置するボリショイ・オレーニ・オストロフ(Bolshoy Oleni Ostrov)遺跡(BOO遺跡)と、コラ半島南部のチャルムニー・ヴァレ(Chalmny Varre)遺跡(CV遺跡)、フィンランド南部のレヴェンルータ(Levänluhta)遺跡(Ll遺跡)で発見された人類遺骸のゲノムを解析しました。BOO遺跡では3473±87年前頃の6人の遺骸のゲノムが解析され、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループは以前に報告されています(U4a1・Z1a1a・T2d1b1・C4b・U5a1d・D4e4)。このうち男性は2人で、Y染色体DNAハプログループはともにN1c1a1aです。CV遺跡では紀元後18〜紀元後19世紀の2人の遺骸のゲノムが解析され、1人は女性(mtDNAハプログループはU5b1b1a3)で、もう1人は男性(mtDNAハプログループはV7a1、Y染色体DNAハプログループはI2a1)です。Ll遺跡では1700〜1200年前頃の7人の遺骸が発見されており、このうち分析・比較に耐え得るゲノムデータが得られたのは女性3人で、そのmtDNAハプログループが報告されています(U5a1a1a’b’n、U5a1a1、K1a4a1b)。

 これらのデータは、他の古代ゲノムデータや現代人のゲノムデータと比較されました。本論文は、これら比較対象となったゲノムデータの構成要素を5区分しています。それは、ヨーロッパ西部狩猟採集民集団(WHG)、地理的範囲はドイツを中心とする新石器時代となる線形陶器文化(Linearbandkeramik Culture)の農耕民集団(LBK)、ヤムナヤ集団に代表されるユーラシア西部草原地帯の集団(ヤムナヤ)、ヨーロッパ東部の中石器時代の狩猟採集民集団(EHG)、ガナサン人(Nganasan)に代表されるシベリア系集団(シベリア系)です。

 BOO遺跡の6人ではシベリア系要素が多く、ヤムナヤ要素とWHG要素は見られません。上述したmtDNAハプログループでも、BOO遺跡の6人ではシベリア系のZ1・C4・D4が見られます。Ll遺跡の3人のうち、2人にはBOO遺跡の6人ほどではないとしてもシベリア人要素が多く見られますが、1人(Levänluhta_B)には見られません。現代のサーミ人には、Levänluhta_B を除くLl遺跡の2人ほどではないとしても、他のヨーロッパ人、とくに西方ヨーロッパ人より多くのシベリア系要素が見られます。フィン人には、現代のサーミ人ほどではないとしても、他のヨーロッパ人よりも多くのシベリア系要素が見られます。BOO遺跡の6人に先行するヨーロッパ北東部の人類集団では、シベリア系の要素が見られません。ヨーロッパ北東部の人類集団は、ヨーロッパ系とシベリア系との混合と推測されます。

 バルト海地域の9500〜2500年前頃となる106人の人類遺骸のゲノムデータが得られていますが(関連記事)、8300〜5000年前頃のバルト海地域集団には、シベリア系要素が見られません。これは、シベリア系要素のヨーロッパへの到来が5000年前頃以降であると示唆していますが、ヨーロッパ北東部の古代ゲノム解析はまだヨーロッパの他地域より遅れており、もっと早い年代だった可能性を排除できません。シベリア系集団がウラル語族をヨーロッパにもたらした可能性は高そうですが、ウラル語族のヨーロッパ北東部への拡大が3500年前よりもさかのぼりそうと推定されていることや、ウラル語族集団の交雑パターンは歴史的に複雑で、単一の事象ではなさそうなことから、単純化はできない、と本論文は注意を喚起しています。ヨーロッパに遠く離れたシベリア系要素が流入した要因として、古代のシベリア系集団は遊動的な生活を送っており、広大な距離を交易・移動し、他の集団との接触が広範囲及んでいたからではないか、と推測されています。

 レヴェンルータ遺跡の3人のうち1人(Levänluhta_B)を除く2人は、現代人集団ではサーミ人と遺伝的に最近縁でした。Ll遺跡の集団は、現代のサーミ人の直接的な祖先集団か、現代には遺伝的影響を残していないとしても、サーミ人の祖先集団ときわめて近縁な集団だったのでしょう。サーミ人は現在、おもにスカンジナビア半島北部に存在していますが、かつてはもっと広範囲に南部まで存在しており、フィンランドでは鉄器時代以降に遺伝的構成の変化が起きた可能性を示唆しています。Ll遺跡遺跡の近隣地域にはサーミ語由来と推測される地名があることからも、サーミ語はフィンランド語がフィンランドに流入する前にフィンランドで話されており、その範囲が現在よりも広範だった可能性は高そうです。ただ、フィンランドにおける移住と交雑についてさらに詳細に解明するには、もっと多くの古代DNAが必要だと本論文は指摘しています。本論文の観察パターンがフィンランド全体を反映しているのか、まだ確定できない、というわけです。


参考文献:
Lamnidis TC. et al.(2018): Ancient Fennoscandian genomes reveal origin and spread of Siberian ancestry in Europe. Nature Communications, 9, 5018.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-07483-5

https://sicambre.at.webry.info/201811/article_52.html

3. 2020年9月01日 20:49:59 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[62] 報告
雑記帳 2018年01月12日
スカンジナビア半島の初期人類集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_12.html

 これは1月12日分の記事として掲載しておきます。スカンジナビア半島の初期人類集団の遺伝的構成に関する研究(Günther et al., 2018)が報道されました。スカンジナビア半島は、ヨーロッパで最後に人類が進出した地域です。27000〜19000年前頃となる最終最大氷期(LGM)の期間で、スカンジナビア半島においては23000年前頃に氷床が後退し始め、植物や動物が再度拡散してきました。スカンジナビア半島では、北部でも南部でも、11700年前頃より人類の居住の痕跡が継続的に確認されています。11700年前頃からしばらくは、スカンジナビア半島内陸部には氷床が存在していました。

 スカンジナビア半島の初期人類集団の遺伝的構成は、これまでよく分かっていなかったので、この研究は、スカンジナビア半島の中石器時代の狩猟採集民7人のゲノムを解析しました。放射性炭素年代測定法による較正年代で、最古の個体は9452〜9275年前、最新の個体は5950〜5764年前となります。ゲノムが解析された7人中、男性は4人、女性は3人です。この7人は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプログループではU5aとU4aに、Y染色体DNAのハプログループ(男性3人)ではI2に区分されます。網羅率は、女性の1個体で57.79倍と高いのですが、その他の個体は最大でも4.05倍で、最小の個体は0.10倍です。

 ゲノム解析の結果、スカンジナビア半島の初期人類集団は、西方狩猟採集民集団と東方狩猟採集民集団の混合だと推測されています。考古学的証拠も考慮すると、スカンジナビア半島には、まず西方狩猟採集民集団が南から、その後に東方狩猟採集民集団が北東から到来した、と推測されています。東方狩猟採集民集団は、スカンジナビア半島内陸部の氷床を避けつつ、スカンジナビア半島を北方もしくは南方経由で西部へと進出した、と考えられています。このように、西方狩猟採集民集団と東方狩猟採集民集団との混合により形成されたスカンジナビア半島の初期狩猟採集民集団は、同時代の中央および南部ヨーロッパの狩猟採集民集団よりも遺伝的に多様で、これは現代とは対照的だ、と指摘されています。中石器時代のスカンジナビア半島の狩猟採集民集団の少なからぬ遺伝的多様体が現代では失われてしまった、というわけです。

 注目されるのは、高緯度地帯となるスカンジナビア半島への人類の適応です。高緯度地帯では紫外線量が少なくなるので、ビタミンD合成のために薄い肌の色の方が有利となります。ビタミンDが不足すると、くる病を発症します。逆に低緯度地帯では紫外線量が多いので、肌の色が濃くてもビタミンD合成の妨げにはならず、命に関わるような汗腺の損傷や皮膚の炎症を抑えるためにも、濃い肌の色の方が有利となります。スカンジナビア半島の初期人類集団のゲノムには、低度の色素沈着と関連する多様体が確認されており、高緯度地帯への適応を示しています。また、スカンジナビア半島の初期人類集団は、身体能力と関連する遺伝子領域(TMEM131)において、現代の北部ヨーロッパ人との強い連続性を示しています。


参考文献:
Günther T, Malmström H, Svensson EM, Omrak A, Sánchez-Quinto F, Kılınç GM, et al. (2018) Population genomics of Mesolithic Scandinavia: Investigating early postglacial migration routes and high-latitude adaptation. PLoS Biol 16(1): e2003703.
http://dx.doi.org/10.1371/journal.pbio.2003703

https://sicambre.at.webry.info/201801/article_12.html

4. 2020年9月01日 20:51:14 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[63] 報告
雑記帳 2018年02月03日
中石器時代〜青銅器時代の北ヨーロッパの人類の古代DNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201802/article_3.html


 これは2月3日分の記事として掲載しておきます。中石器時代〜青銅器時代の北ヨーロッパの人類のDNA解析に関する研究(Mittnik et al., 2018)が報道されました。この研究は、北ヨーロッパにおける中石器時代〜青銅器時代の人類遺骸のDNAを解析し、バルト海地域における人類集団の移住と継続性について検証しています。対象となるのは、較正年代では紀元前7500〜紀元前500年前頃の106人の人類遺骸です。このうち、41標本のDNAの保存状態は良好で、38標本でゲノム規模の一塩基多型解析データが得られました。対象となった一塩基多型領域の網羅率は平均で0.02〜8.8倍です。

 スカンジナビア半島へと拡散した人類は、まず間違いなく現生人類(Homo sapiens)のみで、その年代は11000年前頃までさかのぼります。以前の研究でも指摘されていたように、スカンジナビア半島の最初期の人類は、ロシア北西部のカレリア(Karelia)での存在が確認されている東方狩猟採集民集団と、イベリア半島〜ハンガリーまでの西方狩猟採集民集団双方の混合だと推測されています(関連記事)。さらに、中石器時代のリトアニアの狩猟採集民は遺伝的には、地理的に近い東方狩猟採集民集団ではなく、西方狩猟採集民集団とたいへんよく類似していたので、スカンジナビア半島へは、西方狩猟採集民集団が南方から、東方狩猟採集民集団が北回りで拡散してきた、と考えられています。スカンジナビア半島への最初期の人類集団の移住経路は二通りあった、というわけです。西方狩猟採集民集団は、南方からバルト海地域東部まで拡散したことになります。

 スカンジナビア半島での農耕の始まりは南部からで、中央ヨーロッパよりも1000年ほど遅れて6000年前頃となります。バルト海地域東部では、さらに1000年ほど、狩猟採集や漁撈のみに依存した生活が続きました。最初期のスカンジナビア半島の農耕民は、中央ヨーロッパ経由のアナトリアの農耕民に起源がある、との以前からの見解が、この研究でも改めて支持されました。ヨーロッパでは、先住の狩猟採集民がアナトリア半島からヨーロッパへと移住してきた初期農耕民にゆっくりと同化されていった、との見解が提示されています(関連記事)。中央ヨーロッパでも、新石器時代中期になると、最初期農耕民と先住の狩猟採集民集団との間での交雑が進行していました。しかし、スカンジナビア半島においては、すでに初期農耕民において先住の狩猟採集民集団との交雑の痕跡が強く残っています。

 バルト海地域東部においては、紀元前2900年頃より、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯(ポントス-カスピ海草原)から遊牧民が拡散してきて、大きな遺伝的・文化的影響を及ぼします。この遊牧民集団は、ヨーロッパに初期農耕をもたらしたアナトリアの農耕民集団の遺伝的影響を受けていない、と推測されています。この遊牧民集団は中央ヨーロッパおよびスカンジナビア半島の農耕民とは大規模には交雑しませんでしたが、青銅器時代の初期より、バルト海地域東部ではこの遊牧民集団と先住の狩猟採集民集団との交雑の割合が増加していきます。この研究は、狩猟採集から農耕、さらには新石器時代から青銅器時代といった文化の移行期において、各地域で人類集団の交雑・継続・置換の様相には違いがあったことを指摘しており、なかなか興味深いと思います。


参考文献:
Mittnik A. et al.(2018): The genetic prehistory of the Baltic Sea region. Nature Communications, 9, 442.
http://dx.doi.org/10.1038/s41467-018-02825-9


https://sicambre.at.webry.info/201802/article_3.html

5. 2020年9月21日 12:45:57 : LRsxCcIg7A : TDBiLmtTMHg5Wlk=[20] 報告
雑記帳 2020年09月21日
ヴァイキングのゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_27.html


 ヴァイキングのゲノム解析に関する研究(Margaryan et al., 2020)が報道されました。ヴァイキング(Viking)は、襲撃・探検・略奪などを意味する「víking」という古ノルド語(古北欧語)に由来します。紀元後750〜1050年頃となるヴァイキング時代の事象は、ヨーロッパの政治・文化・人口地図を変えました。スカンジナビア半島からのヴァイキングの拡散は、アメリカ大陸からアジアの草原地帯へと広がる交易と植民を確立しました。ヴァイキングは着想・技術・言語・信念・慣行をこれらの地域に輸出し、新たな社会経済的構造を発展させ、文化的影響を同化させました。

 本論文では、ヴァイキング時代のゲノムの歴史を調べるため、紀元前2400年頃の青銅器時代から紀元後1600年頃の近世までの遺跡で発見された442人の遺骸から抽出されたDNAのショットガン配列が提示されます。これらの古代DNAデータは、3855人の現代人および1118人の古代人の既知のデータとともに分析されました。以下、本論文で取り上げられた標本の位置と年代を示した本論文の図1です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-020-2688-8/MediaObjects/41586_2020_2688_Fig1_HTML.png


●スカンジナビア人の系統とヴァイキング時代の起源

 ヴァイキング時代のスカンジナビア人集団は共通の文化的背景を有していましたが、この時点ではスカンジナビア人の自己認識を表す共通の言葉はありませんでした。単一の「ヴァイキング世界」が存在するというよりはむしろ、スカンジナビア半島とバルト海周辺地域の沿岸部集団間での遠洋航海の採用に続く、急速に成長する海洋探検・交易・戦争・植民から、一連の相互に関連するヴァイキング世界が出現しました。したがって、ヴァイキング現象が、最近になって共有された遺伝的背景を有する人々にどの程度当てはまるのか、あるいはスカンジナビア半島において集団変化が鉄器時代(紀元前500〜紀元後700年頃)からヴァイキング時代の移行とどの程度つながっているのか、不明です。

 本論文で取り上げられたヴァイキング時代のスカンジナビア半島の個体群は大まかには、青銅器時代以降の古代ヨーロッパ個体群の多様性内に収まりますが、複雑な微細構造を示唆する集団間の微妙な違いもあります。たとえば、ゴットランド島の多くのヴァイキング時代個体群は、バルト海地域の青銅器時代個体群とクラスタ化し、バルト海全域の移動性を示唆します。f4統計を用いて草原地帯牧畜民および新石器時代農耕民と対比させると、ノルウェーのヴァイキング時代の個体群がそれ以前となる鉄器時代個体群と類似した分布を示すのに対して、スウェーデンとデンマークのヴァイキング時代個体群は、アナトリア半島の新石器時代農耕民へのより強い類似性を示します。

 qpAdmを用いると、集団の大半は、狩猟採集民・農耕民・草原地帯関連系統の3者混合としてモデル化できる、と明らかになります。3者モデルは、スウェーデンとノルウェーとバルト海地域の一部集団では却下され、コーカサス狩猟採集民もしくはアジア東部人関連系統を含む4者モデルで適合できます。アジア東部人関連系統は、以前に報告されたシベリアからの遺伝子流動と一致します(関連記事1および関連記事2)。

 ヴァイキング時代のスカンジナビア集団と年代的に最も近い鉄器時代集団との遺伝的連続性を調べると、ほとんどのヴァイキング時代集団は、単一の鉄器時代系統を起源として用いると適合でき、大まかにはさらに2区分される、と明らかになりました。一方はイングランドの鉄器時代系統で、ブリテン諸島とデンマークのヴァイキング時代個体群のほとんどとなり、もう一方はスカンジナビア半島の鉄器時代系統で、ノルウェーとスウェーデンとバルト海地域に由来します。

 注目すべき例外はスウェーデン南部に位置するケルダ(Kärda)の個体群で、中世前期となるハンガリーのロンゴバルド個体群のみが、単一の祖先集団として適合します。一方の適合性の低い集団は、追加の北東部系統、たとえばラドガ(Ladoga)のヴァイキング時代個体群か、あるいは追加の南東部系統、たとえばユトランド半島のヴァイキング時代個体群を含めると、モデル化できます。本論文の分析からは全体的に、ヴァイキング時代スカンジナビア半島集団の遺伝的構成はおもに、先行する鉄器時代集団の系統に由来するものの、系統の微妙な違いと、南と東の両方からの遺伝子流動も明らかになる、と示唆されます。これらの観察は考古学的知見とほぼ一致します。


●スカンジナビア半島におけるヴァイキング時代の遺伝的構造

 ヴァイキング時代のスカンジナビア半島の精細な集団構造を解明するため、網羅率0.5倍以上となる298人(新たな289人と既知の9人)の遺伝子型補完が行なわれ、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)により現代ヨーロッパ人個体群の参照パネルと共有されるゲノム断片が推定されました。

 多次元尺度構成法とUMAP(機械学習による非線形次元削減手法)を用いての遺伝的クラスタ化から、ヴァイキング時代のスカンジナビア半島個体群は、地理的起源により3集団にクラスタ化し、それぞれ現代の同地域集団と密接な類似性を有する、と示されます。一部の個体、とくにゴットランド島とスウェーデン東部の個体群は、ヨーロッパ東部人との強い類似性を有しています。これはおそらく、バルト海系統を有する個体群を反映しており、バルト海地域の青銅器時代個体群とのクラスタ化は、UMAP分析とf4統計で明らかです。

 ChromoPainterと参照パネルの使用により、長くて共有されたハプロタイプが識別され、微妙な集団構造が検出されます。現代人集団との類似性を有するスカンジナビア半島の系統構成が明らかになり、本論文ではこれらが「デンマーク的」・「スウェーデン的」・「ノルウェー的」・「北大西洋的」と呼ばれます。つまり、ブリテン諸島からスカンジナビア半島に及ぶ可能性がある個体群です。

 ノルウェー的およびスウェーデン的構成はそれぞれ、ノルウェーとスウェーデンでクラスタ化しますが、デンマーク的および北大西洋的構成は広く見られます。意外なことに、ユトランド半島(デンマーク)のヴァイキング時代個体群には、スウェーデン的およびノルウェー的遺伝的構成が欠けています。また、スカンジナビア半島内の遺伝子流動は、大まかには南から北の方向で、デンマークからノルウェーおよびスウェーデンへの移動が支配的だった、と明らかになります。

 ノルウェーとスウェーデンの現代サーミ人集団との類似性を有する、ノルウェー北部の古代人2個体(VK518およびVK519)が特定されました。VK519はおそらく、ノルウェー的祖先も有しており、サーミ人集団と他のスカンジナビア半島集団との間の遺伝的接触を示唆します。

 遺伝的データは、現代の国境よりもむしろ、地形的境界により構造化されています。したがって、ヴァイキング時代のスウェーデン南西部は遺伝的に、スウェーデン本土中央部よりもデンマークのヴァイキング時代集団とより類似しており、おそらくは遺伝子流動を妨げた地理的障壁に起因します。

 遺伝的多様性は、条件付きヌクレオチド多様性と、ChromoPainterの結果に基づく推定系統の多様性により定量化されました。この多様性は、以下に示す本論文の図3で視覚化されました(図3b)。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-020-2688-8/MediaObjects/41586_2020_2688_Fig3_HTML.png


 遺伝的多様性は、均質なスカンジナビア半島の内陸部および北部から、多様なカテガット海峡地域(デンマーク東部およびスウェーデン西部)およびバルト海地域まで顕著に異なっており、ヴァイキング時代の相互作用と交易におけるこれらの海域の重要な役割を示唆します。ゴットランド島では、スウェーデン的構成よりも、多くのデンマーク的および北大西洋的、さらに追加の「フィンランド的」系統の遺伝的構成があり、ヴァイキング時代のゴットランド島への広範な海上接触が示唆されます。

 ゴットランド島とエーランド島に関する本論文の結果は、これらがローマ期(紀元後1〜400年)から続く重要な海洋共同体だった、と指摘する考古学的知見と一致します。類似のパターンはランゲラン島のようなデンマーク諸島中央部でも見られますが、より低水準です。本論文のデータからは、これらの島々における遺伝的多様性がヴァイキング時代の前期(紀元後8世紀頃)から後期(紀元後9〜11世紀頃)にかけて増加し、それは経時的な地域間の相互作用の増加を反映している、と示唆されます。ヴァイキング時代のスカンジナビア半島内の遺伝的構造の証拠は、スカラ(Skara)のような「国際的」中心地の多様性と、ゴットランド島のような交易志向の島々を伴っており、この時期の海路の重要性を強調します。


●ヴァイキングの移住

 本論文のゲノムデータの精細な系統分析は、歴史学と考古学で報告されてきたパターンと一致します。それは、東方への移動がおもにスウェーデン的系統を含む一方で、ノルウェー的系統を有する個体群はアイスランドやグリーンランドやアイルランドやマン島に移動した、というものです。アイスランドとグリーンランドにおける最初の入植も、北大西洋的系統を有する個体群を含んでいました(関連記事)。デンマーク的系統はイングランド現代人で見られ、歴史的記録・地名・姓・現代人の遺伝的構成と一致しますが、ブリテン諸島におけるヴァイキング時代のデンマーク的系統は、ユトランド半島およびドイツ北部から紀元後5〜6世紀にかけて移住してきたアングロサクソン系統とは区別できません。

 イングランドのドーセットとオクスフォードのヴァイキング時代遺跡個体群では、デンマーク的およびノルウェー的系統とともに北大西洋的系統も含まれます。これらの遺跡が敗れて捕虜となったヴァイキング時代の襲撃隊を表しているならば、これらの襲撃は異なる起源の個体群から構成されていたことになります。このパターンは、デンマークのトレルボルグ(Trelleborg)の戦士墓地の同位体データからも示唆されます。同様に、現在のロシアにあるグニェズドヴォ(Gnezdovo)の古代人標本におけるデンマーク的系統の存在は、東方への移住がスウェーデンからのヴァイキング個体群で完全には構成されていなかったことを示唆します。

 本論文の結果は、「ヴァイキング」の自己認識がスカンジナビア半島の遺伝的系統の個体群に限定されていなかったことを示します。スカンジナビア半島様式で埋葬されたオークニー諸島の2個体は、遺伝的に現代のアイルランドおよびスコットランド集団と類似しており、おそらくは最初に刊行されたことになるピクト人のゲノムです。オークニー諸島の他の1個体は50%のスカンジナビア半島人系統を有しており、そのような5個体がスカンジナビア半島で発見されました。これは、ピクト人集団がヴァイキング時代までにスカンジナビア半島の文化へと統合された可能性を示唆します。


●スカンジナビア半島へのヴァイキング時代の遺伝子流動

 デンマークとノルウェーとスウェーデンの標本における非スカンジナビア半島系統は、既知の交易経路と一致します。たとえば、フィンランドおよびバルト海系統は現代のスウェーデンに達しましたが、デンマークとノルウェーのほとんどの個体には見られません。対照的に、スカンジナビア半島西部集団はブリテン諸島集団からの系統を受け継いでいます。スカンジナビア半島におけるヨーロッパ南部系統(50%以上)の最初の証拠はデンマークとスウェーデン南部のヴァイキング時代で見られます。


●グリーンランドからの消滅

 グリーンランド南西部では紀元後980〜1440年に、おそらくはアイルランドから到来したスカンジナビア半島系統を有する人々が定住していました。グリーンランドにおけるこれらの集団の運命については議論されていますが、その消滅の原因はおそらく、ヨーロッパにおける社会的もしくは経済的過程(たとえばスカンジナビア半島内の政治的関係や交易体系の変化)と気候変動を含む自然的過程でした。

 データに基づくと、グリーンランドのヴァイキング集団は、スカンジナビア半島人(ほぼノルウェー起源)とブリテン諸島の個体群との間の混合で、アイスランドの最初の定住者と類似していました。グリーンランドのヴァイキング個体群のゲノムにおける長期の近親交配の証拠は見つかっていませんが、グリーンランドにおける居住の後期の高網羅率ゲノムの1個体で確認されています。この結果は、比較的短期の人口減少説を支持するかもしれず、以前の人口統計学的モデルおよび考古学的知見と一致します。また、グリーンランドのヴァイキングのゲノムにおける古エスキモーやイヌイットやアメリカ大陸先住民といった他集団からの系統の証拠の欠如は、骨格遺骸と一致します。これは、グリーンランドのヴァイキング集団と他の集団間の性的接触がなかったか、ひじょうに小規模でのみ起きたことを示唆します。


●最初のヴァイキング航海集団の遺伝的構成

 海上襲撃は数千年にわたる航海文化で普遍でしたが、ヴァイキング時代はとくにこの活動により部分的に定義されています。しかし、ヴァイキングの戦争の正確な性質と構成は不明です。襲撃もしくは外征の1例が直接的な考古学的痕跡を残しました。エストニアのサルメ(Salme)では、スウェーデンからの41人の暴行死の男性が2隻の船に埋葬され、高い社会的地位を与えられていた武器が共伴していました。重要なことに、サルメ遺跡の船の埋葬は、最初に文献に見える襲撃(イングランドでの紀元後793年の事例)よりも半世紀近く先行します。

 サルメ遺跡の被葬者のうち34人のゲノムの親族分析により、並んで埋葬された4兄弟と、4兄弟のうち1人の3親等程度の親戚が明らかになりました。サルメ遺跡個体群の系統は、ヴァイキング時代の他の被葬者と比較して相互に類似しており、親族も含む高位の人々の比較的遺伝的に均質な集団が示唆されます。サルメ遺跡の5人の親族は、本論文のデータセットにおける唯一の親族ではありません。その他にこの親族2組が特定され、相互に数百km離れた場所で発見されており、ヴァイキング時代の個体群の移動性を明確に示します。


●ヨーロッパ北部における正の選択

 系統だけの経時的変化で説明できる以上の、過去1万年に顕著に変化したアレル(対立遺伝子)頻度を有する一塩基多型が調べられました。予想されたように、選択の最有力候補はラクターゼ(乳糖分解酵素)をコードするLCT遺伝子領域近くの一塩基多型で、その頻度は青銅器時代の後に増加しました(関連記事)。本論文のデータセットでは、乳糖分解酵素活性持続(LP)アレル(rs4988235)の頻度と青銅器時代以降の進化が調べられました。ヴァイキング時代集団はLCTのLP一塩基多型において、現代のヨーロッパ北部集団とひじょうに類似した頻度を有しています。逆に、青銅器時代スカンジナビア半島個体群では、紀元前2700〜紀元前2200年頃の縄目文土器(Corded Ware)文化や紀元前2500〜紀元前1900年頃の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化と関連するヨーロッパ中央部個体群と同様に、乳消費の証拠にも関わらず、この一塩基多型は低頻度でした。本論文の鉄器時代標本ではその中間の頻度で、この時期に乳糖分解酵素活性持続の頻度が上昇した、と示唆されます。乳糖分解酵素活性持続の頻度は、青銅器時代ではスカンジナビア半島よりもバルト海地域の方で高く、スカンジナビア半島における乳糖分解酵素活性持続の頻度増加を説明する、2地域間の遺伝子流動と一致します。

 以前に特定された他の選択候補領域としては、先天性免疫に関わるToll様受容体のうち3つ(TLR6・TLR1・TLR10)の関連遺伝子や、ヒト白血球抗原(HLA)領域や、色素沈着と関連するSLC45A2およびSLC22A4遺伝子があります。本論文で明らかになった、ヴァイキング時代の前に始まる選択の追加の候補も明らかになりました。これは、古代のヴァイキングと現代のスカンジナビア半島集団の間で共有されている表現型を示唆します。これらの領域には、癌抑制遺伝子DCCと重なるものや、結腸直腸との関連が示唆されるものや、免疫応答のAKNAタンパク質関連遺伝子と重なるものや、二次免疫反応と関連するものが含まれます。


●スカンジナビア半島における複雑な形質の進化

 複雑な形質と関連する一塩基多型指標における最近の集団分化の痕跡を調べるため、ヴァイキング時代の個体群の遺伝子型とデンマーク現代人の遺伝子型が比較されました。ヴァイキング時代の多因子遺伝スコアは3つの形質で異なっていました。それは、黒髪と直毛と統合失調症です。ただ、直毛と統合失調症は、検査数を考慮した後では有意ではありませんでした。現時点では、アレル頻度で観察された違いが、ヴァイキング時代と現代との間のこれらアレルに作用する選択と、ヴァイキング時代標本の民族的多様性が高いといったような他の要因のどちらに起因するのか、決定できません。ヴァイキング時代と現代の標本における高頻度の黒髪関連アレルの数の二項検定も有意で、この痕跡がいくつかの大きな効果の遺伝子座により完全に駆動されているわけではない、と示唆されます。


●現代の集団におけるヴァイキングの遺伝的遺産

 現代スカンジナビア半島集団がヴァイキング時代の該当地域個体群と増加した系統を共有しているのかどうか検証するため、D統計が実行され、古代の個体が現代の2集団のどちらとより多くのアレルを共有するのか、検証されました。ヴァイキング時代の個体群は、スカンジナビア半島系統から微妙に現代の該当地域集団に移動しています。

 さらに、fineSTRUCTUREを用いて、現代人集団における古代系統が調べられました。スカンジナビア半島内では、ほとんどの現代人集団はヴァイキング時代の該当地域個体群と類似しています。例外はスウェーデン的系統で、現代のスウェーデン人内では15〜30%しか存在しません。スウェーデンの一方のクラスタは古代フィンランド集団とより密接で、もう一方のクラスタはデンマークおよびノルウェー集団とより密接に関連しています。デンマーク的系統は今では、地域全体で高くなっています。

 スカンジナビア半島外では、ヴァイキング時代集団の遺伝的遺産は一貫して限定的です。小さなスカンジナビア半島系統構成はポーランドに存在します(最大5%)。ブリテン諸島内では、デンマーク的系統がどの程度、先行するアングロサクソン系統に起因するのか、評価は困難ですが、ヴァイキング時代の寄与はイングランドでは6%を超えません。遺伝的効果は他の方向でより強くなります。オークニー諸島の一部の北大西洋的個体群は文化的にスカンジナビア半島人になりましたが、アイスランドやノルウェーや他地域でも発見され、現代にも遺伝的影響を残しています。現代ノルウェーの個体群では、北大西洋的系統が12〜15%で、この系統はスウェーデンではより均一で10%程度です。


●まとめ

 本論文のゲノム分析は、ヴァイキング時代の歴史記録と考古学的証拠により提起された長年の問題に光を当てます。大まかには、スカンジナビア半島外のヴァイキングの長く議論されてきた移動が確認されました。ヴァイキングは現代のデンマークとノルウェーとスウェーデンからブリテンと北大西洋諸島へと向かい、またバルト海地域を越えて東方へと航海していきました。しかし、ヨーロッパの西端で古代のスウェーデン的およびフィンランド的系統が、東方ではデンマーク的系統が見られ、現代の歴史的集団とは異なります。そうした個体群の多くは、文化と大陸をまたがる複雑な交易・襲撃・植民ネットワークとともに形成された混合系統を有する共同体の出身である可能性が高そうです。

 ヴァイキング時代には、スカンジナビア半島の異なる地域が均一にはつながっておらず、この地域の明確な遺伝的構造が形成されました。スカンジナビア半島はおそらく、限定的な数の輸送地帯と海上の飛び地から構成され、活発な外部との接触と、スカンジナビア半島の残りの陸地への限定的な遺伝子流動を伴っていました。ヴァイキング時代のスカンジナビア半島の一部地域は、とくにノルウェー中央部とユトランド半島と大西洋の集落で、比較的均一でした。これは、ゴットランド島やエーランド島のような、人口が多い南部の交易共同体の強い遺伝的多様性とは対照的です。沿岸部共同体の高い遺伝的異質性は集団規模の増大を示唆し、後期ヴァイキング時代の町であるシグトゥーナ(Sigtuna)に関して以前に提案された都市化モデルを、時空間的に拡張します。シグトゥーナは、ヨーロッパ北部のヴァイキング時代の終わりにすでに存在していた、「国際的」交易中心地と示唆されています。人々と商品と戦争を広げる大規模な交易と文化のネットワーク形成は、スカンジナビア半島の中心地に影響を与えるのに時間がかかり、それは中世へと既存の遺伝的差異を保持しました。

 本論文の知見から、ヴァイキング時代は単純にスカンジナビア半島鉄器時代集団の直接的な継続だったわけではない、と示されます。代わりに、南方と東方からスカンジナビア半島への遺伝子流動が観察され、それは鉄器時代に始まり、ヴァイキング時代を通じて継続し、起源集団は増加し続けました。スカンジナビア半島の内外を問わず、多くのヴァイキング個体は非スカンジナビア半島系統を高水準で有しており、それはヨーロッパ全域で継続する遺伝子流動を示唆します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:ヨーロッパでのバイキングの海外遠征に関する遺伝学的知見

 このほど行われた古代人のゲノムの解析で、ヨーロッパ各地の住民の遺伝的構成にそれぞれ特定のバイキングの集団が影響を与えていたことが明らかになったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。

 バイキング時代(西暦750〜1050年頃)のスカンジナビア人集団の海外遠征によって、ヨーロッパの政治的、文化的、人口統計学的な地図が塗り変わった。今回、Eske Willerslevたちの研究チームは、その時代のゲノム史を突き止めるため、青銅器時代(紀元前2400年頃)から近代初期(西暦1600年頃)までのヨーロッパとグリーンランドの古代人類442人のゲノムの塩基配列を解読した。

 今回の研究で、Willerslevたちは、バイキング時代における南方と東方からスカンジナビアへの外来遺伝子の流動を観察し、またバイキングがスカンジナビアから外の世界に確かに移動していたことの証拠を得た。つまり、デンマークのバイキングが英国に向かい、スウェーデンのバイキングが東方のバルト海へと航行し、ノルウェーのバイキングがアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ渡ったのだ。その一方で、今回の解析では、現代のスウェーデン人集団との類似性が認められる祖先の実例がヨーロッパの西端域で、また現代のデンマーク人集団との類似性が認められる祖先の実例がヨーロッパの東部で見つかった。Willerslevたちは、これらの祖先が、さまざまな文化と大陸を結ぶ複雑な取引、襲撃、定住のネットワークによって集まった、祖先が混在する地域集団の出身者だと考えている。

 今回の解析の一環として、Willerslevたちは、エストニアのサルメにある埋葬地で採取したバイキング34個体のゲノム塩基配列を解析し、海外遠征に近親者が同行していたことを示す証拠を得た。4人の兄弟が並んで埋葬されていることが確認されたのだ。また、今回の研究で得られたデータセットには、この家族の近親者がさらに2人含まれており、それぞれ数百キロメートル離れた場所で見つかった。このことはバイキング時代における個人の移動性を示していると、Willerslevたちは指摘している。


集団遺伝学:バイキング世界の集団ゲノミクス

Cover Story:バイキングの旅路:ゲノム塩基配列から描き出された大昔の船旅の地図

 表紙は、世界最大級のバイキング復元船『シー・スタリオン号』である。バイキング時代(紀元750〜1050年頃)におけるスカンジナビア人集団の海洋進出は、ヨーロッパの政治地図、文化地図、人口地図を一変させた。今回E Willerslevたちは、この期間のゲノム史を調べている。彼らは、ヨーロッパおよびグリーンランド各地の考古学的遺跡に由来する、青銅器時代(紀元前2400年頃)から近世(紀元1600年頃)までの442個体のゲノム塩基配列を解読した。その結果、スカンジナビアでは南方と東方からかなりの遺伝子流動があったことが見いだされた。また、大陸各地でのバイキングの異なる移動の様子も明らかになった。すなわち、デンマークのバイキングはイングランドへ向かい、スウェーデンのバイキングは東へ進んでバルト地域へ行き、ノルウェーのバイキングはアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ移動し、その一方でスカンジナビアへも新たな人々が西方から流入していたのである。さらに著者たちは、エストニアのサルメにあるバイキングの墓地遺跡から出土した34個体のゲノム塩基配列を解読し、4人の兄弟が並んで埋葬されているのを発見した。数百キロメートル離れた場所ではこの家族の近縁者も発見されており、バイキング時代を特徴付ける集団の移動性が浮き彫りになった。


参考文献:
Margaryan A. et al.(2020): Population genomics of the Viking world. Nature, 585, 7825, 390–396.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2688-8

https://sicambre.at.webry.info/202009/article_27.html

6. 中川隆[-14276] koaQ7Jey 2022年1月10日 16:14:14 : SriECvQDc2 : NlNpa3B6YzlCUVE=[2] 報告
雑記帳
2022年01月09日
フェロー諸島におけるヴァイキング以前の人類の存在
https://sicambre.at.webry.info/202201/article_10.html

 フェロー諸島におけるヴァイキング以前の人類の存在を報告した研究(Curtin et al., 2021)が公表されました。以下、年代は明記しない限り全て紀元後です。アイスランドとノルウェーとブリテン諸島の間に位置するフェロー諸島は、北大西洋を横断するヴァイキングの探検の足がかりでした。一般的な合意は、古代スカンジナビア人がフェロー諸島に定住した最初のヒトなので、フェロー諸島における最初の考古学的構造は800〜900年頃になる、というものです。これは、ヴァイキング時代(800〜1100年頃)におけるより広範な古代スカンジナビア人拡大の時期と一致しており、その頃に古代スカンジナビア人はフェロー諸島とグリーンランドとさらには北アメリカ大陸に新たな居住地を確立しました(関連記事)。

 9世紀におけるフェロー諸島での古代スカンジナビア人の最初の居住を示すほぼ全ての考古学的証拠にも関わらず、古代スカンジナビア人の居住の主要段階前に人々がフェロー諸島に移住したかもしれない、と示唆する間接的な証拠があります。825年、ディクイル(Dicuil)という名のアイルランドの修道士が、一部の北方の島々は少なくとも100年にわたって隠者により居住されてきた、と記録しています。さらに、フェロー諸島の多くの地名はゲルト語に由来し、ケルトの墓標がフェロー諸島では特定されてきました。

 フェロー諸島の人々の現代の人口集団の遺伝学は、父系と母系の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の間で強く非対称的で、父系はおもにスカンジナビア人ですが、母系はおもにブリテン諸島に由来します。北大西洋の他地域もこの非対称性を示しますが、フェロー諸島はブリテン諸島の母系祖先系統の割合と遺伝的非対称性の水準が最高で、おもにブリテン諸島の子孫の既存の人口集団が存在したかもしれない、と示唆されます。

 しかし、ディクイルの文献がフェロー諸島に言及しているのかどうか、議論の余地があり、地名と墓標と現代の人口集団の遺伝学的証拠は、古代スカンジナビア人が最初の移住者だった、との仮説と矛盾していません。じっさい800年までに、ヴァイキングはすでにブリテン諸島のに到達していました。ヴァイキングはすでにケルト文化の影響を受けており、ブリテン諸島からフェロー諸島へ妻を連れてきた可能性があります。フェロー諸島における初期のヒトの到来に関するほぼ全ての証拠は決定的ではなく、直接的な物理的証拠が欠けています。

 フェロー諸島の初期定住に関する議論は、サンドイ(Sandoy)島のアソンドゥム(À Sondum)遺跡で発見された、平均年代が351〜543年となる、いくつかの炭化したオオムギ穀粒の発見で再燃しました。オオムギの加工は、穀粒が見つかった人為的な灰の堆積物とともに、古代スカンジナビア人の到来前にフェロー諸島に何らかの形のヒトの開拓地が存在した、と示唆します。しかし、フェロー諸島へのヒトの初期到来を裏づける追加の考古学的証拠はありませんでした。

 堆積物コアからの環境記録は、フェロー諸島へのヒトの最初の到来に関する貴重な制約を提供できます。考古学的記録の性質により、それらは一時的で断片的ですが、堆積物記録は景観の環境史の継続的記録を提供します。フェロー諸島におけるヒトの景観利用による攪乱の環境記録は、おもに湖と沼地の花粉と植物の大型化石の分析を通じて調査されてきました。花粉と大型化石の分析が示してきたのは、完新世の初期には、フェロー諸島の植生にはカバノキ属(カバノキ)やビャクシン属(セイヨウネズ)やヤナギ属(ヤナギ)など木本植生が含まれていた、ということです。木本植生被覆の減少は、地域的な寒冷化と乾燥化に起因する可能性がありますが、フェロー諸島の主要な植生変化はヒトの到来後のみに起き、そのさい放牧動物が木本植生を除去した、と考えられています。

 フェロー諸島におけるヘラオオバコ(Plantago lanceolata)の初期(4250年前頃)の出現は、元々はひじょうに初期のヒトの定住によるものだった、と考えられていました。しかし、ヘラオオバコの花粉は、アイスランドではよく確立された古代スカンジナビア人の定住期に先行し、北大西洋諸島の初期のヒトの定住を確証するのに用いることはできません。穀物花粉は、フェロー諸島では農耕開始後のみに見られ、以前の堆積物コアで特定され、年代は1500年前頃となり、フェロー諸島には古代スカンジナビア人以前に人類が存在した、と提案されました。しかし、これらの研究の手法は、ヒトの到来を制約するにはあまりにも不確実で、それは、家畜の放牧も広範な侵食をもたらしたからです。この侵食は、湖と沼地へ古い有機物を供給したので、多数の年代値なしに堆積性環境記録についての放射性炭素年代をしっかりと確立することは困難です。結果として、ヒトによりもたらされた植物の最初の到来の理解は限られています。

 本論文は、フェロー諸島でのヒトの存在の識別特性を特定できる、糞便生物標識の湖の堆積記録と堆積物の古代DNAを提示します。フェロー諸島における家畜の存在のこれら明確な標識を、広範な放射性炭素年代測定および火砕物(テフラ)年代学と組み合わせて用いることにより、フェロー諸島へのヒトと家畜到来が、古代スカンジナビア人に約300年先行していた、と確認します。本論文で調査対象地となったエストゥロイ(Eysturoy)島のエイジ湖(Eiðisvatn)は、アルギスブレッカ(Argisbrekka)と呼ばれる夏季の農耕集落である、古代スカンジナビア人の夏期放牧場の近くです(図1)。アルギスブレッカは、エイジ(Eiði)村と関連する夏期放牧場で、重要な沿岸部ヴァイキング集落遺跡でした。アルギスブレッカは、エイジ湖がダムで堰き止められ、湖の領域が拡大し、遺跡が浸水した直前の1985〜1987年に発掘されました。本論文の対象遺跡が主要な遺跡とエイジ村に近接していることにより、本論文の記録は局所的な考古学的記録の文脈に位置づけられます。以下は本論文の図1です。
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 コプロスタノールやβスティグマスタノールなど糞便生物標識は、哺乳類の消化管で産生される脂質分子で、流域におけるヒトと家畜の集団の存在の特定に用いることができます。コレステロールとシトステロールのこれら分解生成物は、哺乳類の糞便での背景濃度よりも高濃度で見られます。花粉や炭や堆積物蓄積率などヒトの散在と景観利用を示すのに用いられる多くの環境追跡子は、自然景観の発生と気候変動の影響を受ける可能性があります。しかし、糞便生物標識はヒトと家畜の存在について明白な証拠を提供します。この手法は、全ての哺乳類が元々はヒトにより導入されたフェロー諸島で、とくに有効だと証明されています。

 次世代DNA配列技術の出現により、堆積物記録の網羅的解析の適用が可能になりました。堆積物古代DNAの網羅的解析により、経時的な在来の植物と哺乳類の集団構成の変化の検出が可能となります。植物の堆積物古代DNAは、過去の植物集団の再構築に用いることができますが、堆積物における哺乳類、とくに家畜のDNAの特定は、沼地におけるヒトが導入した種の存在について否定できない証拠を提供します。植物と哺乳類の堆積物DNAおよび糞便生物標識を組み合わせると、ヒトがフェロー諸島に家畜を導入したの歯、古代スカンジナビア人の定住の少なくとも300年前だった、と結論づけられます。


●年代モデルと堆積物の特性

 エイジ湖の堆積物の年代モデルの制約として、10点の放射性炭素年代と5点の地化学的に痕跡のある火砕物層が用いられました。ベイズ年代モデル化ソフトウェアパッケージ(Bacon)を用いて年代モデルが作成され、堆積物コアの各間隔の年代不確実性が計算されました。年代モデルは、完新世全体でほぼ継続的な堆積速度を示し、高い強熱減量(loss-on-ignition、略してLOI)値と異常に古い放射性炭素年代を有する間隔では、堆積速度がわずかに増加します。最初に2400年前頃と提案された攪乱間隔の開始は、1点の放射性炭素年代の追加と、大半の堆積物年代の除去と、877±1年と知られているランドナム(Landnám)火砕物の暫定的な特定に基づいて、1500年前頃と改定されました。

 堆積物の有機物含有量を表すLOIは、堆積物コア全体で10〜40%の範囲です。LOIはコアの底からゆっくり増加し、深さ約53cmで急造します(図2)。これは、本論文の年代モデルによると、1514年前頃(95%信頼範囲で1670〜1415年前)に相当します。LOIは深さ29cmまで20%以上のままです。この高いLOI間隔において、8点の放射性炭素標本が年代逆転をもたらします。有機物堆積増加と異常に古い放射性炭素年代の帰還は、より古い植物大型化石を含む有機物の豊富な堆積物を湖にもたらす、集水における泥炭質土壌の浸食促進の証拠として解釈されます。この解釈は、湖の堆積物における陸生由来の葉の蝋の生物標識の濃度増加、それら生物標識の炭素同位体値の増加、土壌由来のグリセロールジアルキルグリセロールテトラエーテル(GDGT)の濃度増加により裏づけられます。以下は本論文の図2です。
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●糞便生物標識

 全標本で糞便のスタノールが同定され、定量化されました。スティグマスタノールとそのエピマー(エピ異性体)であるエピスティグマスタノール、コプロスタノールとそのエピ異性体であるエピコプロスタノールを合計すると、これらは流域における哺乳類の存在を示唆します。記録が景観攪乱期間の有機物堆積の増加により影響を受けないよう、有機物量へ正規化された糞便のステロール濃度が報告されます。スティグマスタノールとコプロスタノール両方(およびそのエピ異性体)の濃度は、50cmの深さの攪乱間隔中、もしくは1433年前(95%信頼範囲で1565〜1317年前)に増加し、攪乱以前の最大値を超えました(図2)。両者は主要な攪乱期以降に減少し、その後、現代の標本では最高値に増加します。


●堆積物古代DNA

 攪乱間隔にまたがる11点の深さから採取された14点の堆積物標本から、DNAが抽出されました。網羅的解析により、植物と哺乳類のDNAが増幅され、3点の標本ではヒツジのDNAが確認されました。これら3点のヒツジのDNAは全て、主要な攪乱間隔で採取され、最古のヒツジのDNAは深さ50.88cm、もしくは1458年前(95%信頼範囲で1580〜1343年前)で特定されました(図2)。ヒツジのDNAが確認された3点の標本全てでシカのDNAが、1点のPCR複製ではヒトのDNAが、1点のPCR複製ではウシのDNAが含まれていました。これらの読み取り数はヒツジと比較してずっと少なく、その識別が汚染(ヒトとシカ)もしくはウシ科間の誤配列が原因である可能性を示唆します。1点の追加のヒツジのDNAが確認された標本では、1点のCR複製にヒトのDNAが含まれていました。

 14点の堆積物古代DNA標本で、40の植物分類群が特定されました。イグサとワタスゲとスゲとベントグラスを含む4種のイネ科型草本が、有機物堆積の増加開始後により高頻度で特定され、ヒツジのDNAの最初の特定と同年代です(図2)。キンポウゲ属(とキンポウゲとイトキンポウゲ)とアカバナ属(ヤナギソウとスパイクプリムローズ)も、同時により高頻度になります。同じ移行期全体で、木本植物のカバノキ属やビャクシン属(セイヨウネズ)、広葉草本のスイカズラ科やセリ科など、いくつかの属の特定頻度が低下します。


●考察

 ヒツジのDNAの最初の出現を伴う堆積物層準と、コアにおける堆積物の1cm以内の糞便生物標識の濃度増加が特定されます(約25年に相当します)。流域における家畜存在についてのこれら2つの独立した分子指標の共起は、この時点までのエイジ湖集水域におけるヒトの到来の決定的証拠を提供します。この層準の年代は、ヒツジのDNAの最初の検出と、95%信頼期間に基づく1317年前(633年)の下限年代となるスティグマスタノールの最初の増加に基づくと、1458〜1433年前(492〜517年)です(図3)。以下は本論文の図3です。
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 アルギスブレッカでの考古学的発掘は、これらのデータの解釈に重要な文脈を提供します。アルギスブレッカは、夏季放牧場、もしくはヒツジの放牧のための一時的な夏季集落でした。その考古学的構造の放射性炭素年代測定から、ヴァイキング期の夏季放牧場は元々9世紀半ばに作られ、活動の複数段階の後、11世紀半ばに放棄された、と示唆されます。ヒツジのDNAの最初の出現と糞便生物標識の増加は、古代スカンジナビア人によるアルギスブレッカ遺跡の最初の記録された使用に約300年に先行します。スティグマスタノールの増加の程度はコプロスタノールのそれより大きく、ヒツジの糞便はコプロスタノールよりスティグマスタノールの方を多く含んでおり(約6:1)、ブタ(約2:1)もしくはヒトなどの雑食動物と比較して高い比率で、ヒツジはヒトよりも多い可能性が高く、景観の糞便へのより重要な寄与者だった、との見解と一致します。

 フェロー諸島の現代の植物群は、草やスゲやイグサなど草本植物が優占します。しかし、完新世の花粉記録が示すのは、木本と低木の植生は、完新世の初期にはより豊富だった、ということです。低木と他の木本植生は現在、フェロー諸島全域で広範に放牧されているヒツジが容易に到達できない地域でのみ成長します。ヒトの定住前の植生は、ヤナギ属やガンコウラン属やカルーナ属の通常種やヒメカンバ(Betula nana)の小規模な生息を含んでいた、と考えられていました。ヨーロッパダケカンバ(Betula pubescens)やビャクシン属の大型化石の切り株がアルギスブレッカ遺跡で発見され、その年代は4450年前頃ですが、同遺跡の花粉分析ではこれらの種の花粉が欠けており、木本分類群の存在もしくは欠如は花粉分析により正確には表すことができない、と示唆されます。木本植生はヒトの定住まで持続した可能性が高い、と考えられます。

 本論文の堆積物古代DNAは、景観にヒツジが最初に出現した直後の、カバノキ属やビャクシン属など木本植生の消滅を示唆します(図2)。これは、近くの花粉および大型化石記録と一致し、ヒトの定住開始と同年代のこれら分類群の減少を示し、それは草の花粉と微小木炭断片の増加により特定されます。しかし、ヤナギ属のDNAはヒトの攪乱間隔全体で存続します。

 最初のヒトの到来に関する本論文の証拠は、サンドイのアソンドゥム遺跡で回収された炭化したオオムギ穀粒と一致しており、古代スカンジナビア人の到来以前にヒトがフェロー諸島に到来し、少なくとも一時的に居住していた、と確証します。これはヴァイキング期間の考古学よりも早いものの、ヒトの定住に関するいくつかの他の刊行された古植物学とよく一致します。エイジ湿原に最も近いハイマヴァトゥン(Heimavatn)では、570年頃となるオオムギ属の花粉が大型野生イネ科の花粉および大きな炭の断片とともに見つかっています。フェロー諸島の他の場所では、穀物の花粉が600年頃に記録されています。しかし、以前に刊行された古生態学的記録は、ほとんど年代測定されていない系列に由来し、花粉再構築と本論文のデータと考古学的データとの間の比較を妨げます。

 ランドナムの火砕物は877年に北大西洋全域で広く堆積しており、ヴァイキングの植民期の有用な層序標識となります。本論文は深さ33cmでエイジ湖の堆積物におけるランドナムの火砕物を暫定的に特定し、それは層序学的にフェロー諸島におけるヒトの存在の最初の証拠の17cm上です。本論文におけるランドナムの火砕物標本の地球科学は、フェロー諸島の他の場所の標本で以前に報告された値の範囲と一致しますが、本論文の標本の酸化チタン値は以前に刊行された標本の酸化チタンの平均から外れます。ランドナムの火砕物を本論文の年代モデルから除外するならば、この灰の堆積物の発生は875年(95%信頼区間で871〜879年)となり、ヒトの存在に関する本論文の証拠の年代は大きく変化するわけではありません。


●まとめ

 本論文は糞便生物標識と堆積物古代DNAの組み合わせを用いて、考古学的記録で広く報告されているヴァイキング期の古代スカンジナビア人の植民期の3〜4世紀前に、ヒトがフェロー諸島に家畜を導入した、という決定的な証拠を示します。ヒトはエイジ湖の集水域に500年頃までに到来した可能性が最も高く、これはヴァイキングのフェロー諸島への植民の約350年前となります。本論文のベイズ年代モデルの95%信頼区間で許容される到来の下限は630年頃で、最初に記録されている古代スカンジナビア人の活動がフェロー諸島で始まる約200年前です。

 歴史の記録は、ヴァイキング時代以前のフェロー諸島にケルト人修道士が存在した、と示唆しますが、この期間からのヒトの活動の考古学的証拠は、炭化したオオムギ穀粒がいくつかあるだけで、本論文の証拠は、これら初期の植民者が誰なのか、直接的には語れません。しかし、古代スカンジナビア人は航海技術の後期の採用者で、750〜820年頃という、航海技術採用の一般的に受け入れられている年代の前に古代スカンジナビア人がフェロー諸島に到達することは難しかった、と考えられます。これは、初期のフェロー諸島の入植者が古代スカンジナビア人ではなかったことを示唆しますが、これら初期北大西洋の探検家の正体は未解決の問題です。

 また本論文は、脆弱な低木の広範な侵食が、フェロー諸島における後期完新世植生の発展の年代の理解に影響を及ぼし、低木から草やスゲ主体の泥炭地への移行は、後期完新世の気候変化ではなく、人為的及び家畜の活動により起きた可能性が高い、と示します。堆積物の古代DNA研究は近年ますます盛んになっており、今後は適用される地域や年代が拡大していくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


人類学:フェロー諸島に初めて定住した人類の証拠

 人類がフェロー諸島に定住したのは西暦500年ごろと考えられ、これまで考えられていたよりも約300年早かったことを示唆する論文が、Communications Earth & Environment に掲載される。フェロー諸島での家畜の飼育は、ノルウェーのバイキングが上陸した頃に行われていたとする報告があるが、今回の研究では、それよりも前に行われていたことが示された。

 西暦800〜900年にバイキングがフェロー諸島に上陸したことは、人類がフェロー諸島に定住したことを示す最古の直接的証拠となっている。しかし、それよりも前に定住者(おそらくブリテン諸島からやって来たケルト人)がおり、バイキングより前にすでに上陸していたことが示唆されている。しかし、それを裏付ける証拠は、ほとんどなかった。

 今回、Lorelei Curtinたちは、フェロー湖の湖底の1500年前の堆積層に堆積したDNAを調べた。その結果、西暦500年ごろのヒツジのDNAと糞便の痕跡が発見され、同じ頃にさまざまな草のDNAが増えて、木本植物のDNAが消失したことが判明した。これらはいずれも、放牧が行われていたことの徴候とされる。今回の知見は、バイキングより前に定住した人類が、島内で家畜を放牧していたことを示唆しており、フェロー諸島の初期の定住についての我々の理解を変えるものになるかもしれない。


参考文献:
Curtin L. et al.(2021): Sedimentary DNA and molecular evidence for early human occupation of the Faroe Islands. Communications Earth & Environment, 2, 253.
https://doi.org/10.1038/s43247-021-00318-0

https://sicambre.at.webry.info/202201/article_10.html

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