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ローマ人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/277.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 26 日 14:20:36: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ヨーロッパ人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 16:02:53)


ローマ人の起源


2019年11月09日
長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html


 長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷に関する研究(Antonio et al., 2019)が報道されました。日本語の解説記事もあります。紀元前8世紀、ローマはイタリア半島の多くの都市国家の一つでした。1000年も経たないうちに、ローマは地中海全域を中心とする古代世界最大の帝国の首都となる大都市に成長しました。イタリア半島の一部として、ローマは独特な地理的位置を占めています。北はアルプス山脈により部分的に隔てられ、言語・文化・人々の移動にとって自然の障壁となります。またローマは、とくに青銅器時代の航海の大きな発展後は、地中海市周辺地域と密接につながるようになりました。ローマの歴史は広く研究されてきましたが、古代ローマの遺伝学的研究は限られています。

 本論文は、ローマの住民の遺伝的構成とその変遷の解明のため、ローマおよびイタリア中央部の29ヶ所の考古学的遺跡から127人の全ゲノムデータを生成しました。年代の推定は、直接的な放射性炭素年代測定法(33人)と考古学的文脈(94人)により得られました。DNAは内耳錐体骨の蝸牛部から抽出されました。内耳錐体骨には大量のDNAが含まれています。ゲノム規模解析の網羅率は平均1.05倍(0.4〜4.0倍)です。この個体群は時系列的には、中石器時代の狩猟採集民、新石器時代〜銅器時代農耕民、鉄器時代〜現代の個体群という遺伝的に異なる3クラスタに分類されます。

 より詳細な時代区分では、紀元前10000〜紀元前6000年頃となる中石器時代が3人、紀元前6000〜紀元前3500年頃となる新石器時代が10人、紀元前3500〜紀元前2300年頃となる銅器時代が3人、紀元前900〜紀元前27年となる鉄器時代が11人、紀元前27年〜紀元後300年となる帝政期が48人、紀元後300〜紀元後700年頃となる古代末期が24人、紀元後700〜紀元後1800年頃となる中世〜近世が28人、現代が50人です。なお、紀元前2300〜紀元前900年頃となる青銅器時代の標本はありません。

 歴史時代の個体群は、地中海およびヨーロッパの現代人集団(人口)と近似します。129人のうち最古の個体は紀元前10000〜紀元前7000年頃となる、中石器時代のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民3人です。この3人は、同時代のヨーロッパの他地域の狩猟採集民(ヨーロッパ西部狩猟採集民、WHG)と遺伝的に近接しています。この3人はヘテロ接合性が近世イタリア中央部集団より30%低く、以前のWHGに関する推定と一致します。人口が少なく、遺伝的多様性が低かったことを反映しているのでしょう。この後、新石器時代にヘテロ接合性は急増し、その後は小さく増加していき、2000年前頃には現代人の水準に達します。

 ローマおよびイタリア中央部住民の最初の主要な遺伝的構成の変化は紀元前7000〜紀元前6000年頃に起き、新石器時代の開始と一致します。ヨーロッパの他地域の初期農耕民と同様に、イタリア中央部の新石器時代集団はアナトリア半島農耕民と遺伝的に近接しています。しかし、イタリア中央部新石器時代集団には、アナトリア半島北西部農耕民系統だけではなく、新石器時代イラン農耕民系統とコーカサス狩猟採集民系統(CHG)も少ないながら見られ、前者はやや高い割合になっています。これは、おもにアナトリア半島北西部系統を有する同時代のヨーロッパ中央部およびイベリア半島集団とは対照的です。さらに、新石器時代イタリア農耕民集団は、5%程度の在来狩猟採集民と、追加のコーカサス狩猟採集民系統(CHG)もしくは新石器時代イラン農耕民系統を有する95%程度のアナトリア半島もしくはギリシア北部新石器時代農耕民系統との混合としてモデル化できます。これらの知見は、ヨーロッパ中央部および西部と比較して、イタリアの新石器時代移行に関する異なるもしくは追加の集団を指摘します。後期新石器時代および銅器時代には、低い割合ながらWHG系統が次第に増加していき、同時期のヨーロッパ他地域と同じ傾向が見られます(関連記事)。これは、新石器時代にもWHG系統を高水準で有し続けた集団との混合を反映しているかもしれません。

 ローマおよびイタリア中央部住民の第二の主要な遺伝的構成の変化は紀元前2900〜紀元前900年頃に起きましたが、青銅器時代の標本が得られておらず、空白期間があるため、その正確な年代は特定できません。この期間に、主要な技術的発展により集団の移動性が増加しました。近東およびポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の戦車(チャリオット)と馬車の発展により、陸上での移動が可能となりました。また青銅器時代には航海技術が発展し、地中海全域の航海がより容易になって航海を促進し、後期青銅器時代と鉄器時代には、地中海を越えてギリシア・フェニキア(カルタゴ)植民地が拡大していきました。

 紀元前900〜紀元前200年となる共和政期を含む鉄器時代では11人のゲノムデータが得られました。鉄器時代の個体群の遺伝的構成は銅器時代と明らかに異なっており、草原地帯系統の追加と、新石器時代イラン農耕民系統の増加として解釈されます。青銅器時代〜鉄器時代にかけて、イタリア中央部集団は、ポントス-カスピ海草原起源の遊牧民集団より30〜40%程度の遺伝的影響を受けたとモデル化でき、これはヨーロッパの多くの青銅器時代集団と類似しています。鉄器時代のイタリアの草原地帯関連系統の存在は、直接的な草原地帯起源集団の遺伝的影響ではなく、中間的集団との遺伝的交換を通じて起きた可能性があります。さらに、複数の起源集団が、鉄器時代以前の遺伝的構成の変化に、同時にまたはその後に影響を及ぼしたかもしれません。遅くとも紀元前900年までに、イタリア中央部集団は現代の地中海集団と遺伝的に近接し始めました。

 国家としてのローマの起源に関する直接的な歴史学的もしくは遺伝学的情報はありませんが、考古学的証拠からは、ローマは前期鉄器時代には近隣のエトルリア人やラテン人の諸勢力の間に位置する小規模な都市国家だった、と示唆されます。ローマとギリシアやフェニキア(カルタゴ)の植民地との接触は、象牙・琥珀・ダチョウの卵殻など地元では入手できない物質や、ライオンなど地元には存在しない動物のデザインからも明らかです。鉄器時代の11人はひじょうに多様な系統を示し、鉄器時代にイタリア中央部へ移住してきた複数の起源集団を示唆します。この11人のうち8人は銅器時代イタリア中央部集団と草原地帯関連集団(24〜38%)の混合としてモデル化できますが、他の3人には当てはまりません。この3人のうちラテン人の遺跡の2人は、在来集団と古代近東集団(最良のモデルは青銅器時代アルメニア集団もしくは鉄器時代アナトリア半島集団)との混合としてモデル化されます。エトルリア遺跡の1人は、顕著なアフリカ系統を有し、それは後期新石器時代モロッコ集団から53%程度の影響を受けている、とモデル化できます。

 これは、エトルリア人(3人)とラテン人(6人)の間のかなりの遺伝的異質性を示唆します。ただ、F統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、以前もしくは同時代のあらゆる集団と共有するエトルリア人とラテン人のアレル(対立遺伝子)の間の顕著な遺伝的違いは見られませんでした。しかし、小規模な標本では微妙な遺伝的違いの検出には限界があります。先史時代の個体群とは対照的に、鉄器時代個体群は現代のヨーロッパおよび地中海の個体群と遺伝的に類似しており、イタリア中央部が交易・植民地・紛争の新たなネットワークを通じて遠距離共同体とますます接続するようになるにつれて、多様な系統を示します。

 紀元前509〜紀元前27年の共和政の後、ローマは帝政に移行します。本論文は、紀元前27年〜紀元後300年までを帝政期とし、その後は700年までを古代末期(関連記事)としています。ローマの海外拡大は、紀元前264〜紀元前146年のポエニ戦争に始まります。この拡大はその後300年の大半にわたって続き、ブリタニア・モロッコ・エジプト・アッシリアにまで及びました。ローマ市の人口は100万人を超え、ローマ帝国全体の人口は5000万〜9000万人と推定されています。ローマ帝国は、交易ネットワーク・新たな道路・軍事作戦・奴隷を通じて、人々の移動と相互作用を促進しました。ローマ帝国は、領域外のヨーロッパ北部・サハラ砂漠以南のアフリカ・インド・アジア全域との長距離交易も行ないました。これらの史料はよく残っていますが、その遺伝的影響についてはほとんど知られていません。

 帝政期48人の最も顕著な傾向は、地中海東部系統への移行と、ヨーロッパ西部系統の少ない個体群が存在することです。帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。この移行には新石器時代イラン農耕民系統の割合のさらなる増加が伴います。鉄器時代個体群と比較して、帝政期個体群は青銅器時代ヨルダン人とより多くのアレルを共有しており、青銅器時代レバノン人や鉄器時代イラン人と同様に、帝政期個体群では混合の顕著な遺伝子移入兆候が示されます。帝政期の個体群は、前代の集団と他集団との単純な混合としてモデル化されるよりも、まだ特定もしくは研究されていない起源集団を含む複雑な混合事象だった、と示唆されます。

 帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240〜630年)の4人と重なります。さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30〜50%有するとモデル化できます。

 平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語やヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)にあります。

 一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定的だった、と示唆されます。この理由として、地中海西部よりも東部の方が人口密度は高い、ということが考えられます。アテナイ・アンティオキア・アレクサンドリアなど、帝国東部には大都市が存在しました。また、直接的な移民に加えて、東方系統は、ギリシア・フェニキア(およびカルタゴ)のローマ帝国拡大前の地中海全域への拡散により間接的にもたらされた、とも考えられます。

 ローマに到来する人や物資の大半は海上経由で、ローマの主要港の居住者はイソラサクラ(Isola Sacra)墓地に埋葬されました。本論文で分析対象となったイソラサクラ遺跡の9人は、近東系の遺伝的影響と個人間の多様性の両方を表しています。この9人のうち、4人は近東クラスタ、4人は地中海東部クラスタ、1人はヨーロッパクラスタに分類されます。酸素同位体分析では、この9人全員が地元育ちだと示され、ローマにおける多様な系統を有する人々の長期的居住が示唆されます。ただ本論文は、類似した同位体比の他地域出身の可能性も除外できない、とも指摘しています。

 本論文では紀元後300年頃からとされている古代末期に、ローマ帝国西方は衰退・崩壊していき、帝国の比重はローマからビザンティウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)へと移っていきます。古代末期の24人の平均的な系統は近東系から現代のヨーロッパ中央部集団へと移行していきます。具体的には、帝政期の住民とバイエルンもしくは現代バスクの個体群からの後期帝政期個体群(38〜41%)との混合としてモデル化できます。ただ、ほとんどの同時代の古代集団のデータが欠如しているため、起源集団と混合の正確な識別は断定的に述べられません。

 こうした系統の変化は、近東クラスタの大幅な減少、地中海東部および中央部クラスタの維持、ヨーロッパクラスタの顕著な拡大に反映されています。この移行は、紛争や伝染病によるローマの人口の劇的な減少(100万人以上から10万人未満)により促進された、地中海東部との接触の減少と、ヨーロッパからの遺伝子流動により起きたかもしれません。以前にはローマへと集約されていた交易や統治のネットワークはコンスタンティノープルにおいて再編され、人々の移動に影響を及ぼしました。さらに、いわゆる大移動の時代には、ヨーロッパ北部からイタリア半島へと集団が到来し、イタリア半島を征服しました。こうした人口減少や人々の移動経路の変化が、古代末期におけるローマの遺伝的構成の変容をもたらした、と考えられます。

 帝政期におけるローマの高度な個人間の異質性は古代末期でも続きます。古代末期の個体群は、地中海東部および中央部とヨーロッパのクラスタにほぼ三等分されます。一方で、遺伝的にサルデーニャ人に類似している1個体と、現代ヨーロッパ人と重なる2個体も確認されました。古代末期にも続くローマの遺伝的多様性は、継続する地中海西部との交易や大移動とともに、帝国期の交易・移住・奴隷・征服を含むいくつかの起源の結果かもしれません。この時期のイタリア北部のランゴバルド人のゲノムはすでに解析されていますが(関連記事)、本論文は、ランゴバルド人の影響がローマに及んだ可能性を指摘しています。本論文で調査対象とされた、ランゴバルド人関連の装飾品の発見された墓地では、7人のうち5人がヨーロッパクラスタに分類され、先行する帝政期の集団と、イタリア北部のランゴバルド人関連墓地の個体群との混合としてモデル化できます。

 中世と近世のローマおよびイタリア中央部住民においては、主主成分分析ではヨーロッパ中央部および北部系統への移行が観察され、近東および地中海東部クラスタが消滅します。中世の集団はほぼ現代のイタリア中央部集団に重なります。中世と近世のおよびイタリア中央部住民は、ローマの古代末期集団とヨーロッパの追加集団の双方向の組み合わせとしてモデル化でき、ヨーロッパ中央部および北部の多くの集団を含む潜在的な起源が推定されます。その候補として、ハンガリーのランゴバルド人、イングランドのサクソン人、スウェーデンのヴァイキングなどが挙げられます。

 この移行は、中世のローマとヨーロッパ本土との間の関係の進展と一致します。ローマはヨーロッパ中央部および西部の大半にまたがる神聖ローマ帝国に組み込まれました。ノルマン人はフランス北部から多くの地域へと拡大し、その中にはシチリア島やイタリア半島南部も含まれ、1084年にローマは略奪されました。さらに、ローマは神聖ローマ帝国と時には敵対しつつ密接な関係を維持し、カトリック教会の中心的位置としてのローマの役割は、ヨーロッパ全体、さらにはヨーロッパを越えた地域からイタリアへの人々の流入をもたらしました。ローマおよびイタリア中央部住民の遺伝的構成の変化は

画像
https://science.sciencemag.org/content/sci/366/6466/708/F2.large.jpg


 イタリア中央部集団は、農耕を導入した新石器時代と、鉄器時代以前(銅器時代〜鉄器時代の間)の2回、遺伝的構成が大きく変化し、その後に現代の地中海集団と近似し始めました。過去3000年、帝政期における近東からの遺伝子流動や、古代末期以降のヨーロッパからの遺伝子流動は、ローマの政治的立場の変化を反映しています。さらに、各期間内で、個体群は近東・ヨーロッパ・アフリカ北部など多様な系統を示しました。これら高水準の系統多様性はローマ建国前に始まり、帝国の興亡を通じて続き、ヨーロッパと地中海の人々の遺伝的十字路としてのローマの地位を示しています。


参考文献:
Antonio ML. et al.(2019): Ancient Rome: A genetic crossroads of Europe and the Mediterranean. Science, 366, 6466, 708–714.
https://doi.org/10.1126/science.aay6826

https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html


▲△▽▼
 

2019年09月15日
イタリア半島の人口史
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_38.html

 イタリア半島の人口史に関する研究(Raveane et al., 2019)が公表されました。現代ヨーロッパ人は、旧石器時代〜中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民、アナトリア半島起源の新石器時代農耕民、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきたヤムナヤ(Yamnaya)文化集団を代表とする遊牧民集団の混合により形成されました

(関連記事)青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html


この草原集団は、ヨーロッパ東部およびコーカサスの狩猟採集民とイラン新石器時代農耕民系統の混合として説明されてきました。しかし、ヨーロッパ南東部の古代DNA分析では、コーカサス集団からの追加の遺伝的影響の存在が識別され、ヨーロッパ人のより複雑な系統構成を示唆します。イタリア半島のような地理的交差点の人口集団は、大陸の多様性を要約すると予想されますが、これまで体系的には研究されてきませんでした。そこで本論文は、イタリアの全20行政区から1616人と、140以上の世界規模の人口集団からの5192人の現代人標本で構成される包括的な一塩基多型データセットを分析し、それに古代人の利用可能なゲノムデータを追加して比較しました。

 現代イタリア人は遺伝的に大きく、サルデーニャ島と北部(北部および中央部北部)と南部(南部および中央部南部とシチリア島)の3集団に区分されます。現代イタリア人は、複数の古代系統の混合です。その基礎的な古代系統はおもに、アナトリア半島新石器時代農耕民(AN)・ヨーロッパ西方狩猟採集民(WHG)・ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)・コーカサス狩猟採集民(CHG)・イラン新石器時代農耕民(IN)です。これらの基礎系統の混合の結果、より新しい派生的古代系統である、ヨーロッパ早期新石器時代集団(EEN)、青銅器時代草原地帯集団(SBA)、青銅器時代アナトリア半島集団(ABA)が形成されます。現代イタリア人に占める基礎的な古代系統では、ANがおおむね56〜72%と最多の比率を占め、サルデーニャ島では80%以上の高い比率を示します。ANの比率はイタリア南部よりも北部の方で高くなっており、AN以外はおおむねWHG・CHG・EHGで占められます。INはイタリア南部のみで検出されました。

 派生的な古代系統では、イタリア南部および北部で高い比率のABAとSBAが検出されました。ABAは南部で、SBAは北部で高い傾向を示します。この南北の違いについて、古代DNAから形成過程が推測されました。紀元前3400〜紀元前2800年頃となるイタリアの人類のうち、レメデッロ(Remedello)個体といわゆるアイスマンは、それぞれANが85%と74%を占めていました。イタリア北部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団の紀元前2200〜紀元前1930年頃の個体群は、ABAおよびANとSBAおよびWHGの混合としてモデル化されます。一方、シチリア島(南部集団)の鐘状ビーカー文化集団の紀元前2500〜紀元前1900年頃の個体群は、SBAが5%未満で、ほぼABAで占められるとモデル化されました。イタリア半島南北のABAとSBAの比率の違いは、青銅器時代にまでさかのぼる、と推測されます。こうした古代の混合が起きた推定年代は、イタリアではおもに2000〜1000年前頃で、ヨーロッパの他地域では2500年前頃です。

 本論文は、現代イタリア人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響も検証しました。非アフリカ系現代人のゲノムにはおおむね同じような比率でネアンデルタール人由来の領域が見られますが、地域による違いもあり、アジア東部はヨーロッパよりも有意に高い、と明らかになっています。さらに、ヨーロッパ内でも有意な違いが報告されており、北部は南部よりも高い、と示されています。シチリア島(イタリア南部集団)で確認されているように、ヨーロッパ南部では北部よりも強いアフリカからの遺伝的影響が見られるので、それがネアンデルタール人の遺伝的影響の違いに反映されているのかもしれません。しかし、アフリカ系統を有する個体群の除外後も、この点に関してイタリアとヨーロッパの他地域との違いが確認されました。この一因として、ネアンデルタール人の遺伝的影響を全くあるいは殆ど受けなかった出アフリカ系現生人類集団である、「基底部ユーラシア人」の遺伝的影響が指摘されています(関連記事)。本論文の再検証でも、基底部ユーラシア人の遺伝的影響の可能性が依然として示唆されました。

 本論文は、表現型との関連でもネアンデルタール人の影響を検証しています。ネアンデルタール人の遺伝子の中には、表現型との関連が明らかなものもあります。たとえば、精巣や日光暴露の遺伝子発現量の増加関連遺伝子(IP6K3とITPR3)や、心血管と腎臓疾患の感受性関連遺伝子(AGTR1)や、脆弱角膜症候群関連遺伝子(PRDM5)などです。これらの中には、一部の現代人に継承されているものもあり、ホスホリパーゼA2受容体と関連しているPLA2R1遺伝子では、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの比率が、ヨーロッパ北部で少なくとも43%、ヨーロッパ南部ではほぼ35%となります。全体として、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの比率には地域的な違いが見られ、たとえば、アジア東部で低くヨーロッパで高いものがあります。またヨーロッパ内部では、北部で高く南部で低いものや、その逆もあります。これは、何らかの選択が作用した可能性を示唆します。

 上述のように、現代イタリア人の間の遺伝的な地理的パターンは、南部・北部・サルデーニャ島で3区分され、その遺伝的構造はヨーロッパの他地域と同様に、先史時代以来の人口集団移動に続く孤立と、歴史時代のヨーロッパ他地域からの混合を反映しています。古代および現代の遺伝的データの分析からは、イタリア人集団では、CHGとEHGに関連する系統が少なくとも2つの起源から派生している、と示唆されます。その一方はSBA系統で、ポントス-カスピ海草原からの遊牧民集団と関連していま。上述の鐘状ビーカー文化集団の事例で示されているように、SBA系統はヨーロッパ本土からイタリア半島に、遅くとも青銅器時代には到達していました。

 他方はCHG系統と関連しており、おもにイタリア半島南部に影響を及ぼしています。CHG系統の起源はまだ不明ですが、イタリア南部において青銅器時代に存在した可能性があります。CHGの比率はサルデーニャ島とイタリアの古い個体群でたいへん低いのですが、現代のイタリア南部集団で見られることから、相互に排他的ではない複数の可能性が想定されます。それは、イタリアの早期狩猟採集民において、CHGとの遺伝的類似性の異なる集団が複数存在した可能性や、新石器時代にイタリア半島に遺伝的影響を及ぼした複数の集団でCHG系統の比率が異なっていた可能性や、新石器時代以後にCHG系統が増加した可能性や、歴史時代のヨーロッパ南東部からイタリアへの人類集団の移動に影響を受けた可能性です。CHG系統がアナトリア半島とヨーロッパ南東部において後期新石器時代から青銅器時代にかけて一時的に出現することから、本論文は新石器時代以後の流入を示唆しますが、これは古代DNA標本の追加分析により明らかにされる問題だ、とも指摘します。

 歴史時代では、ローマ帝国末期の「大移動」期と、1300〜1200年前頃となる、アラブ勢力のヨーロッパ南部への拡大が、イタリア半島の人口構造形成に役割を果たした、と本論文は推測します。とくにアフリカからの流入は、イタリア南部とサルデーニャ島において検出された多様性に寄与したかもれません。サルデーニャ島はヨーロッパの早期農耕民と遺伝的に最も密接に関連する人口集団と確認されているにも関わらず、両集団の間の単一の遺伝的継続性の証拠はありません。サルデーニャ島集団は完全には孤立しておらず、イタリアの他地域のように、遺伝子流動の歴史的事象を経験し、古代の系統とアフリカ系も含む他の構成要素の影響を受けた、と本論文は推測します。

 非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域的違いの理由については、ユーラシア西部集団における上述の基底部ユーラシア人の影響や、アジア東部系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との追加の交雑などが提示されています。本論文は、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの頻度に地域差があることから、何らかの選択が生じた可能性を指摘します。この問題も、今後の古代DNA研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。

 ポントス-カスピ海草原からヨーロッパへの青銅器時代の遊牧民の移住は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの到来と関連しています。本論文は、おそらく青銅器時代に到達したイタリアにおける追加の系統を識別し、ヨーロッパ大陸へのインド・ヨーロッパ語族集団による複数の移住の波の可能性を提示します。これと関連して本論文は、たとえばエトルリア語のようなイタリアにおける非インド・ヨーロッパ語族が歴史時代にも存続したいたのは、イタリア半島におけるSBA系統比率の減少と関連しているかもしれない、と指摘します。ただ、これらの関連性は魅力的ではあるものの、適切な調査と検証には専門的で学際的な方法が必要になる、本論文は指摘します。


参考文献:
Raveane A. et al.(2019): Population structure of modern-day Italians reveals patterns of ancient and archaic ancestries in Southern Europe. Science Advances, 5, 9, eaaw3492.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw3492

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_38.html
 


 

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コメント
1. 中川隆[-11552] koaQ7Jey 2020年9月01日 19:45:41 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[43] 報告
雑記帳 2020年07月08日
鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_9.html


ウンブリア州 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%B7%9E


 鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析に関する研究(Modi et al., 2020)が公表されました。先史時代の地中海地域では3回の重要な移住の波があり、現代人の遺伝的構成を形成しました。それは、旧石器時代の狩猟採集民と、東方からの新石器時代農耕民と、青銅器時代の始まりにおけるポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの牧畜民です。

 イタリア半島は、ヨーロッパ他地域と比較して現代人の遺伝的変異性が高いことから、地中海地域の人類集団の移住に重要な役割を果たした、と考えられます。これは、上部旧石器時代以来の、複数の移住の波の結果です。イタリア半島の人口史(関連記事)やローマ住民の長期的な遺伝的構成の変遷(関連記事)に関するゲノム規模研究からは、イタリア半島の人類集団の基本的な遺伝的構成はローマ以前に確立され、ローマ帝国崩壊後には大きくは変わらなかった、と示されます。

 イタリア半島の人類集団に関しては、常染色体でも単系統遺伝指標(ミトコンドリアとY染色体)でも、北部・中央部・南部を区別できる明確な遺伝的パターンの識別は困難です。南部集団はギリシアとアラブの植民化の影響を受け、北部集団にはフランス語およびドイツ語集団との混合が反映されているかもしれませんが、中央部集団は継続的な勾配を示します。イタリア半島中央部に関しては、エトルリア人とピケニ人に関して、現代人との遺伝的類似性が分析されてきましたが、もう一つの重要地域であるウンブリアはこれまで調査されてきませんでした。古代ウンブリア人の起源と民族的類似性に関しては、まだ議論が続いています。

 考古学および歴史学的データからは、紀元前9〜紀元前8世紀頃となる前期鉄器時代に、ウンブリア人はエトルリア人やピケニ人とともに、よく定義された文化的属性を有する共同体をイタリア半島中央部に築いていた、と示唆されます。ウンブリア人は当初、テベレ川左岸に位置する現代のウンブリア地域東部を占拠し、すぐにウンブリア西武とトスカーナ地方に拡大しました。紀元前6世紀頃、ウンブリア文化に影響を与え始めていたエトルリア人がウンブリア西部を支配し、テベレ川はウンブリア人とエトルリア人の境界線になりました。これら古代人の間の相互作用の程度はまだ不明です。ローマ人は紀元前4世紀に初めてウンブリア人と接触し、紀元前3世紀初めにラテン植民市を建設しました。紀元前260年以後、ウンブリアはローマの完全な支配下にありましたが、エトルリア文化(および言語)が消滅したのは、紀元前90〜紀元前88年の同盟市戦争の時でした。現在のウンブリアは古代よりも小さいものの、その住民の方言には大きな違いが見られます。

 ウンブリア東部の重要な墓地は、アペニン山脈の海抜760mに位置する現在のコルフィオリート(Colfiorito)にあります。ここは交通の要路ですが、鉄器時代の前には安定した人類の居住は確認されていません。しかし、資源が豊富なため、鉄器時代以降には人口が増加しました。本論文は、現在のウンブリア地域の545人のデータセットから選択された198人のミトコンドリアゲノム(このうち191人は本論文で初めて報告されます)と、現在のコルフィオリートにある鉄器時代の墓地の19人のミトコンドリアゲノムを分析し、ウンブリア地域住民の通時的な母系の遺伝的歴史を検証します。

 制御領域の分析からは、ウンブリア地域でも東部集団が遺伝的に他の亜集団と最も離れている、と示されます。これは、ウンブリア東部地域が他地域と比較して、古代もしくは最近の違いがあることを示唆します。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)分析では、ほとんど(97%)の個体が典型的なユーラシア西部型に分類されます。主成分分析では、ウンブリア東部集団はヨーロッパ東部集団とクラスタ化します。これは、ヨーロッパ中央部および東部で高頻度のmtHg-U4・U5aに起因します。その中でもとくに、mtHg-U4a・U5a1は、ヨーロッパ北部および東部の中石器時代標本群と同様に、ヤムナヤ(Yamnaya)文化関連標本群でも確認されています。

 鉄器時代の19人のmtHgで多いのは、J(32%)・H(26%)・U(16%)です。mtHg-Jは最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に近東で多様化し、後期氷河期にヨーロッパに拡大した、と推測されています。mtHg-Hはヨーロッパにおいて最も高頻度で見られ(40%以下)、ヨーロッパ西部から近東にかけて減少するパターンを示しますが、その起源はよく分かっていません。mtHg-UはU4を含む4系統が検出され、上述のようにこれはウンブリア東部集団をヨーロッパ東部集団へと近づけます。

 鉄器時代と現代とで、ウンブリアにおける主要なmtHgの割合が決定的に変わっているわけではありませんが、鉄器時代では32%のJが現代では12%と低下しています。しかし、ウンブリア東部では、現代でも鉄器時代とさほど変わらない割合(30%)です。ウンブリアでは、鉄器時代のmtHgが事実上すべて現代でも確認され、先ローマ期からの遺伝的連続性の可能性が示唆されます。より詳細な分析では、4万年前頃の上部旧石器時代と1万年前頃以降の新石器時代に、急激な増加を伴うヨーロッパ集団の典型的傾向が確認されます。鉄器時代標本の約半数で、より詳細なmtHg(H1e1・J1c3・J2b1・U2e2a・U8b1b・K1a4a)が現代人の標本と共有されます。

 イタリアは、地中海とアルプスに囲まれ、シチリア島とサルデーニャ島を含む、ひじょうに複雑な地理を示します。ミトコンドリアゲノム分析により、マルケ州やピエモンテ州やトスカーナ州やサルデーニャ島の特殊性が明らかになっています。しかし、他地域に関しては、詳細で網羅的な地理的特性の評価はまだ行なわれていませんでした。本論文は、ウンブリア地域のmtDNAの多様性を報告します。ウンブリア地域のmtHgのほとんど(97%)はユーラシア西部で典型的なものです。ウンブリア地域全体でこれらのmtHgの割合は比較的均一ですが、mtHg-Kが南部では高頻度(17%)であることや、mtHg-Jが東部では高頻度(30%)であることが注目される例外です。ユーラシア西部集団を対象にした主成分分析では、ウンブリア南部と東部がヨーロッパ中央部および東部集団と近くなり、上述のように、これはウンブリア南部と東部でmtHg-U4・U5aが高頻度だからです。

 より詳細なmtHg分析では、ウンブリア地域における先ローマ期の鉄器時代から現代までの遺伝的連続性が示唆されます。この遺伝的構成は、さまざまな地域の集団が異なる時代にウンブリア地域に到来したことにより形成された、と推測されます。それは、東方からの新石器時代農耕民や、青銅器時代のヤムナヤ文化関連集団などです。鉄器時代以後、中世にも、ある程度の人々の到来が考えられます。こうしたウンブリア地域の通時的な遺伝的構成の変遷は、イタリア半島全体の遺伝的データとよく適合します。既知のゲノム分析におけるイタリアのクラスタは、大まかにはサルデーニャ島・北部・南部ですが、そのうち北部と南部がイタリア半島中央部、より正確にはウンブリア地域で重複します。その意味でも、ウンブリア地域のより詳細な遺伝的構成の解明が期待されます。


参考文献:
Modi A. et al.(2020): The mitogenome portrait of Umbria in Central Italy as depicted by contemporary inhabitants and pre-Roman remains. Scientific Reports, 10, 10700.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-67445-0

https://sicambre.at.webry.info/202007/article_9.html

2. 2020年9月01日 19:52:16 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[45] 報告
雑記帳 2020年02月29日
中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_57.html

サルデーニャ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3


 中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史に関する研究(Marcus et al., 2020)が報道されました。サルデーニャ島は、100歳以上の割合が高く、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような自己免疫疾患や病気の割合が平均よりも高いため、病気や加齢に関連する可能性のある遺伝的多様体を発見するために注目されてきました。サルデーニャ島の現代人全体の遺伝的多様体の頻度は、しばしばヨーロッパ本土とは異なり、ヨーロッパ本土では現在ひじょうに稀な遺伝的多様体も見られ、その独特な遺伝的構成が研究されてきました。

 アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で発見されたミイラの5300年前頃の「アイスマン」のゲノムは、サルデーニャ島の現代人とよく似ていました。また、スウェーデン・ハンガリー・スペインなど、離れた地域の初期農耕民も、遺伝的にはサルデーニャ島の現代人とよく似ていました。この類似性の理解には、ヨーロッパにおける人口史の解明が必要です。ヨーロッパにおける現代人に直接的につながる人類集団は、まず旧石器時代と中石器時代の狩猟採集民です。次に、新石器時代農耕民集団が紀元前7000年頃以降に中東からアナトリア半島とバルカン半島を経てヨーロッパに到来し、在来の狩猟採集民集団と交雑しました。紀元前3000年頃以降にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とするユーラシア草原地帯の集団がヨーロッパに拡散し、さらに混合しました。これらヨーロッパの現代人を構成した遺伝的系統は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)・初期ヨーロッパ農耕民(EEF)・早期草原地帯集団としてモデル化できます。サルデーニャ島の人類集団は早い段階で高水準のEEF系統の影響を受け、その後は比較的孤立しており、ヨーロッパ本土とは異なり草原地帯系統の影響をほとんど受けなかった、と推測されています。しかし、このサルデーニャ島の人口史モデルは、古代ゲノムデータではまだ本格的に検証されていませんでした。

 サルデーニャ島の最古の人類遺骸は2万年前頃までさかのぼります。考古学的記録からは、サルデーニャ島の人口密度は中石器時代には低く、紀元前六千年紀の新石器時代の開始以降に人口が増加し、紀元前5500年頃、新石器時代の土器はサルデーニャ島を含む地中海西部に急速に拡大した、と推測されています。後期新石器時代には、サルデーニャ島の黒曜石が地中海西部で広範に見られ、サルデーニャ島が海洋交易ネットワークに統合されたことを示唆します。青銅器時代の紀元前1600年頃に、独特な石造物で知られるヌラーゲ文化が出現します。ヌラーゲ文化後期の考古学および歴史学的記録は、ミケーネやレヴァントやキプロスの商人など、いくつかの地中海集団の直接的影響を示します。紀元前9世紀後半から紀元前8世紀前半にかけて、現在のレバノンとパレスチナ北部を起源とするフェニキア人がサルデーニャ島南岸に集落を集中して設立したため、ヌラーゲ文化の集落はサルデーニャ島の大半で減少しました。サルデーニャ島は紀元前6世紀後半にカルタゴに支配され、紀元前237年にはローマ軍に占領されて、その10年後にローマの属州となりました。サルデーニャ島はローマ帝国期を通じて、イタリアおよびアフリカ北部中央と密接につながっていました。ローマ帝国崩壊後、サルデーニャ島は次第に自立していきましたが、ビザンツ帝国をはじめとする地中海の主要勢力との関係は続きました。

 サルデーニャ島の住民は集団遺伝学において長く研究されてきましたが、その理由の一部は、上述のように医学にとって重要なためです。サルデーニャ島の現代人集団は遺伝的に複数の亜集団に分類されており、中央部と東部の山岳地帯は比較的孤立しており、WHGおよびEEF系統がわずかに多い、と明らかになっています。サルデーニャ島集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究では、コルシカ島と文化・言語的つながりのある北部において、中央部と東部の山岳地帯より遺伝的構成の変化が大きく、21人の古代mtDNA研究では、サルデーニャ島特有のmtDNAハプログループ(mtHg)のほとんどは新石器時代かその後に起源があり、それ以前のものはわずかだった、と推測されています。サルデーニャ島のフェニキア人居住地のmtDNA分析では、フェニキア人集団とサルデーニャ島集団との継続性と遺伝子流動が推測されています。カルタゴおよびローマ期の大規模共同墓地では、3人でβサラセミア多様体が見つかっています。

 本論文は、放射性炭素年代で紀元前4100〜紀元後1500年頃となる、サルデーニャ島の20ヶ所以上の遺跡で発見された70人のゲノム規模データを生成します。本論文は、サルデーニャ島の人口史の3側面を調査します。まず、紀元前5700〜紀元前3400年頃の新石器時代の個体群です。当時、サルデーニャ島に拡大した初期の人々はどのような遺伝的構成だったのか、という観点です。次に、紀元前3400〜紀元前2300年頃の銅器時代から紀元前2300〜紀元前1000年頃の青銅器時代です。考古学的記録に観察される異なる文化的移行を通じて、遺伝的転換はあったのか、という観点です。最後に、青銅器時代以後で、地中海の主要な文化とより最近のイタリア半島集団は、検出可能な遺伝子流動をもたらしたのか、という観点です。本論文は、サルデーニャ島の初期標本はヨーロッパ本土の初期農耕民集団と遺伝的類似性を示し、ヌラーゲ文化期を通じて混合の顕著な証拠はなく比較的孤立しており、その後は、地中海北部および東部からの交雑の証拠が観察される、との見通しを提示します。

 サルデーニャ島の70人の古代DNAに関しては、完全なmtDNA配列と、120万ヶ所の一塩基多型から構成されるゲノム規模データが得られました。核DNAの平均網羅率は1.02倍です。70人の内訳は、中期〜後期新石器時代が6人、早期銅器時代が3人、中期青銅器時代早期が27人、ヌラーゲ文化期が16人で、それ以後では同時代でも遺伝的相違が大きいため、遺跡単位で分類されています。フェニキアおよびカルタゴの遺跡では8人、カルタゴ期では3人、ローマ期では3人、中世は4人です。これらの新石器時代〜中世にかけてのサルデーニャ島の人類遺骸からのDNAデータが、ユーラシア西部およびアフリカ北部の既知のデータと比較されました。

 中期〜後期新石器時代のサルデーニャ島の個体群は遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ西部本土集団、とくにフランスの個体とよく類似していますが、イタリア半島など同時代の他地域の標本数が不足している、と本論文は注意を喚起しています。中期〜後期新石器時代ののサルデーニャ島個体群は、早期新石器時代のアナトリア半島集団と比較して、WHG系統の存在が特徴となっています。サルデーニャ島の中期新石器時代〜ヌラーゲ文化期までの52人に関しては、mtDNAハプロタイプが全員、Y染色体ハプロタイプが男性34人中30人で決定されました。mtHgは、HVが20人、JTが19人、Uが12人、Xが1人です。同定されたY染色体ハプログループ(YHg)では、11人がR1b1b(R1b-V8)、8人がI2a1b1(I2-M223)で、新石器時代のイベリア半島で一般的なこの2系統で過半数を占めます。YHgでR1b1bもしくはI2a1b1を有する既知の最古の個体はバルカン半島の狩猟採集民および新石器時代個体群で、両者ともに後に西方の新石器時代集団で見られます。

 サルデーニャ島では、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、遺伝的連続性が確認されます。対照的に、ヨーロッパ中央部のような本土では、新石器時代から青銅器時代にかけて、大きな遺伝的構成の変化が見られます。qpAdm分析では、サルデーニャ島の中期および後期新石器時代の個体群が、ヌラーゲ期の個体群の直接的祖先である可能性を却下できません。qpAdm分析ではさらに、新石器時代アナトリア系統との混合モデルにおいて、WHG系統はヌラーゲ期を通じて安定して17±2%のままと示されます。中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群では、たとえば後期青銅器時代のイベリア半島集団のような、顕著な草原地帯系統は検出されません。また、イラン新石器時代およびモロッコ新石器時代系統のどちらも、中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群には遺伝的影響を及ぼしていない、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島個体群には、遺伝子流動の複数の証拠が見つかっています。サルデーニャ島の現代人集団は、ヌラーゲ文化期と比較して、遺伝的にはユーラシア西部・アフリカ北部集団により近縁です。これは、草原地帯系統の割合が現在のヨーロッパ本土集団より低いとはいえやや見られるようになり、地中海東部系統がかなり増加したためです。ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団には、複雑な遺伝子流動があった、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団における遺伝子流動を直接的に評価するため、17人の古代DNAが直接解析されました。新たな系統の流入という推定と一致して、ヌラーゲ文化期後にはmtHgの多様性が増加しました。たとえば、現在アフリカ全体では一般的であるものの、サルデーニャ島ではこれまで検出されていなかったmtHg- L2aです。YHgでも、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期まで見られず、現代人では15%ほど存在するR1b1a1b(R1b-M269)がカルタゴ期と中世で確認されます。また、カルタゴ期遺跡ではYHg-J1a2a1a2d2b(J1-L862)、中世個体ではYHg-E1b1b1a1b1(E1b-L618)が見られます。YHg-J1a2a1a2d2bはレヴァントの青銅器時代個体群で最初に出現し、サルデーニャ島の現代人では5%ほど見られます。

 これらを踏まえてモデル化すると、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期までほぼ新石器時代アナトリア系統とWHG系統で占められていたのが、ヌラーゲ文化期後には草原地帯系統と新石器時代イラン系統と新石器時代アフリカ北部(モロッコ)系統が加わります。草原地帯系統と新石器時代イラン系統はともに0〜25%の範囲でモデル化されます。また、フェニキア期〜カルタゴ期の遺跡の6人では、20〜35%と高水準のアフリカ北部系統が推定されました。サルデーニャ島の現代人でも、わずかながら検出可能なアフリカ北部系統が見られます。しかし、このフェニキア期〜カルタゴ期の遺跡から現代までの直接的連続性のモデルは却下されます。対照的に、ヌラーゲ文化期後の他の遺跡の個体は全員、サルデーニャ島現代人の単一の起源としてモデル化可能です。

 古代のサルデーニャ島個体群に最も近い現代人は、東部のオリアストラ県(Ogliastra)とヌーオロ県(Nuoro)の個体群です。興味深いことに、カルタゴ期のオリアストラ県の個体は、他の個体群と比較してオリアストラ県の個体群と遺伝的により近縁です。また、サルデーニャ島北東部の個体群はヨーロッパ本土南部集団により近く、サルデーニャ島南西部の個体群は地中海東部により近くなっています。これは、サルデーニャ島における地中海北部系統と地中海東部系統の地域間の混合の違いを反映している、と示唆します。

 このように、中期〜後期新石器時代のサルデーニャ島個体群は、地中海西部の他のEEF集団と同様に、本土EEFとWHGの混合としてモデル化されます。この期間のサルデーニャ島の男性のYHgは大半がR1b1b(R1b-V88)とI2a1b1(I2-M223)で、両方ともバルカン半島の中石器時代狩猟採集民および新石器時代集団で最初に出現し、後にイベリア半島のEEF集団でも多数派ですが、新石器時代アナトリア半島もしくはWHG個体群では検出されていません。これらは、紀元前5500年頃にヨーロッパ地中海沿岸を西進した新石器時代集団からのかなりの遺伝子流動の結果と考えられます。ただ本論文は、中期新石器時代よりも前のサルデーニャ島やイタリア半島の常染色体の古代DNAが不足しているので、この遺伝子流動の時期と影響について、北方もしくは西方からのどちらが重要なのか確定的ではない、と注意を喚起しています。中期新石器時代のサルデーニャ島個体群のWHGの推定割合はそれ以前のヨーロッパ本土のEEF集団より高く、ヨーロッパ本土では混合の進展に伴いしだいにWHG系統の割合が増加することから、サルデーニャ島への遺伝子流動には時間差があったことを示唆しますが、最初の地域的な交雑の結果か、あるいは本土との継続的な遺伝子流動の結果だったかもしれません。この問題の解決には、サルデーニャ島の中石器時代および早期新石器時代個体群のゲノム規模データが必要となります。

 中石器時代から紀元前千年紀初めまで、サルデーニャ島への異なる系統の遺伝子流動の証拠は見られません。この遺伝的構造の安定性は、紀元前3000年頃以降、ユーラシア中央部草原地帯からかなりの遺伝子流動があったヨーロッパの他地域と、しだいにWHG系統が増加していったヨーロッパ本土の多くの早期新石器時代および銅器時代とは対照的です。上述のように、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、サルデーニャ島個体群ではWHGの割合が約17%で安定しています。イベリア半島の鐘状ビーカー(Bell Beaker)集団のように、遺伝的に類似した集団からの遺伝子流動の可能性は否定できませんが、草原地帯系統の欠如は、サルデーニャ島がヨーロッパ本土の多くの青銅器時代集団から遺伝的に孤立していたことを示唆します。また、現在ヨーロッパ西部において最も高頻度で、紀元前2500〜紀元前2000年頃のブリテン島とイベリア半島への草原地帯系統の拡大と関連しているYHg- R1b1a1bが、ヌラーゲ期の紀元前1200〜紀元前1000年頃まで見られないことも、中石器時代から紀元前千年紀初めまでのサルデーニャ島の遺伝的孤立の証拠となります。サルデーニャ島からの標本数が増加すれば、微妙な交雑を検出できるかもしれませんが、サルデーニャ島が青銅器時代ヨーロッパの大規模な遺伝子流動から孤立していた可能性は高そうです。考古学的記録からは、サルデーニャ島はこの期間に地中海の広範な交易網の一部に組み込まれていましたが、それが遺伝子流動と結びついていないか、類似した遺伝的構造の集団間のみで交易が行なわれていた、と考えられます。とくに、ヌラーゲ文化期は遺伝的構成の変化が検出されず、その石造建築の設計はミケーネなど東方集団からの流入によりもたらされた、という仮説に反します。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島では、地中海北部および東部からの遺伝子流動の証拠が見られます。フェニキアおよびカルタゴ期の遺跡で、最初に地中海東部系の出現が観察されます。地中海北部系統はそれよりも後に出現し、サルデーニャ島北西部の遺跡で確認されます。ヌラーゲ文化期後の個体の多くは、直接的な移民もしくはその子孫としてモデル化できますが、他の個体は在来のヌラーゲ文化期の系統をより高い割合で有します。全体的に、ヌラーゲ文化期後の系統の多様性は増加し、これは、イベリア半島(関連記事)やローマ(関連記事)やペリシテ人(関連記事)など、鉄器時代以後の地中海も対象にした詳細な古代DNA研究と整合的です。

 サルデーニャ島の現代人は、古代標本で観察された遺伝的変異内に収まり、同様のパターンは、鉄器時代に系統多様性が著しく増加し、その後は現在まで減少していくイベリア半島とイタリア半島中央部でも見られます。サルデーニャ島においては、東部のオリアストラ県とヌーオロ県の現代人ではヌラーゲ文化期後の新たな系統の割合が低く、他地域よりもEEFやWHG系統の割合が高くなっています。サルデーニャ島内を対象とした主成分分析は、オリアストラ県の個体群が比較的孤立していた可能性を示唆します。サルデーニャ島北部は、ヌラーゲ文化期後に地中海北部系統の影響をより強く受けた、と推測されます。これらの結果は、紀元前にフェニキア人およびカルタゴ人がおもにサルデーニャ島の南部および西部沿岸に居住し、コルシカ島からの移民はサルデーニャ島北部に居住した、とする歴史的記録と一致します。

 本論文は紀元前二千年紀後のサルデーニャ島における遺伝子流動を推測し、これはサルデーニャ島の遺伝的孤立を強調した以前の研究と矛盾しているように見えますが、他のヨーロッパ集団との比較では、サルデーニャ島が青銅器時代〜ヌラーゲ文化期に孤立していたことは確認されます。また、ヌラーゲ文化期後の混合にしても、おもに草原地帯系統が比較的少ない集団に由来する、と推測されます。その結果、サルデーニャ島の現代人集団はヨーロッパの他地域と比較してひじょうに高い割合のEEF系統を有しており、アイスマンのような銅器時代ヨーロッパ本土の個体と高い遺伝的類似性を示します。高い割合のEEF系統を有する集団としてバスク人が知られており(関連記事)、サルデーニャ島集団との遺伝的関係が示唆されていました。本論文でも、現代バスク人と古代および現代のサルデーニャ島集団との類似性が示されました。サルデーニャ島集団もバスク人も異なる起源の移民の影響を受けているものの、共有されたEEF系統が地理的分離にも関わらず遺伝的類似性を示すのだろう、と本論文は推測しています。

 サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡の個体群では、アフリカ北部および地中海東部系統との強い遺伝的関係が示されました。これは、以前の古代DNA研究でも示されている(関連記事)、フェニキア人の地中海における拡散を反映していると考えられます。また、サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡でも、早期の方がアフリカ北部系統の割合は低く、アフリカ北部系統との交雑が後のカルタゴの拡大に特有だったか、異なる系統の到来だった可能性を示します。アフリカ北部系統の割合は、フェニキアおよびカルタゴ期よりも後では低下しており、サルデーニャ島も含むヨーロッパ南部のいくつかの集団における、低いものの明確に検出されるアフリカ北部系統の割合という観察と一致します。ローマでも、アフリカ北部系統の割合が帝政期以後に低下します(関連記事)。

 本論文は、古代DNA研究における古代と現代との遺伝的連続性および変容について、古代DNAの標本数の少なさと、現代(医学的な目的での遺伝情報収集)と古代では標本が異なるバイアスで収集されていることから、一般化に注意を喚起します。本論文はそれを踏まえたうえで、サルデーニャ島においては、中期新石器時代から後期青銅器時代まで、遺伝子流動が最低限か、遺伝的に類似した集団の継続の可能性が高いことを指摘します。ヌラーゲ文化期の始まりも、明確な遺伝子移入により特徴づけられません。鉄器時代以降のサルデーニャ島は、地中海の広範な地域と結びついていました。地中海西部を対象とした他の研究でも同様の結果が得られており、サルデーニャ島は新石器時代以降遺伝的に孤立してきた、という単純なモデルよりも実態は複雑だったことを示します。サルデーニャ島の現代人には地域的な違いも見られ、歴史的な孤立・移住・遺伝的浮動により、独特なアレル(対立遺伝子)頻度が生じた、と考えられます。この遺伝的歴史の解明は、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような、サルデーニャ島も含めて地中海全域の遺伝性疾患を理解するのに役立つでしょう。


参考文献:
Marcus JH. et al.(2020): Genetic history from the Middle Neolithic to present on the Mediterranean island of Sardinia. Nature Communications, 11, 939.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14523-6


https://sicambre.at.webry.info/202002/article_57.html

3. 2020年9月01日 19:56:06 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[46] 報告
雑記帳 2020年03月02日
地中海西部諸島における新石器時代以降の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_3.html


バレアレス諸島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B9%E8%AB%B8%E5%B3%B6

サルデーニャ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3


 地中海西部諸島における新石器時代以降の人口史に関する研究(Fernandes et al., 2020)が報道されました。紀元前3000年頃、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を起源とする人々が西進し始め、ヨーロッパ中央部の在来農耕民と交雑し、縄目文土器(Corded Ware)文化集団の系統の1/3に寄与し、鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団との関連においてヨーロッパ西部で拡大しました。イベリア半島では、草原地帯系統が紀元前2500年頃までに外れ値の個体群に出現し、紀元前2000年頃までにイベリア半島集団へと完全に混合しました。地中海東部のクレタ島では、紀元前2400〜紀元前1700年頃となる中期〜後期青銅器時代のミノア文化期の報告されている個体群では、草原地帯系統がほとんど確認されませんが、早期イラン牧畜民と関連した集団由来の系統(イラン関連系統)の約15%がゲノムで見られます。

 しかし、草原地帯系統はクレタ島とその近隣のギリシアに、紀元前1600〜紀元前1200年頃のミケーネ期には到達していました。地中海中央部および西部諸島では、青銅器時代の移行は古代DNA分析で調査されてきませんでした。バレアレス諸島における最初の永続的な人類の居住は、紀元前2500〜紀元前2300年頃にさかのぼります。紀元前1200年頃、タライオット文化(Talaiotic culture)が食資源の管理強化と記念碑的な塔の出現により特徴づけられ、その一部はサルデーニャ島のヌラーゲ文化との類似性が示唆されています。同様に、青銅器時代ヌラーゲ文化期のサルデーニャ島の農耕民もまた、地中海東部からの集団と交易しました。サルデーニャ島とシチリア島は紀元前2500年以後のビーカー文化の拡大に影響を受けましたが、一方でミケーネ文化期にエーゲ海の影響を受けました。これらの文化的交流が人々の移動に伴っていたのかは未解決の問題で、本論文は61個体のゲノム規模古代データを生成することで検証しました。バレアレス諸島・サルデーニャ島・シチリア島の61個体から約124万ヶ所の一塩基多型配列が決定され、ゲノム規模データが得られました。46人では遺骸から直接放射性炭素年代が得られました。1親等の関係にある個体が1人除外されました。常染色体DNAの平均網羅率は2.91倍(0.11〜12.13倍)です。

 まず本論文の分析結果を概観すると、バレアレス諸島では青銅器時代の3人がヨーロッパ新石器時代および青銅器時代集団の変異内に収まり、草原地帯系統も見られます。早期青銅器時代と中期青銅器時代と後期青銅器時代の間で、顕著な違いが明らかになりました。3人の考古学的背景はひじょうに異なるので、個別に処理されました。シチリア島では中期新石器時代の4人がヨーロッパ早期農耕民と近縁で、シチリア島中期新石器時代集団として分類されます。これと比較して早期青銅器時代のシチリア島個体はすべて、早期青銅器時代の外れ値となる2人とともに東方集団へと接近しています。この外れ値の2人は草原地帯系統を有し、シチリア島早期青銅器時代集団として4人とはやや異なります。中期青銅器時代の2個体は早期青銅器時代個体群とは区別されるクレードで、シチリア島中期青銅器時代集団と分類されます。後期青銅器時代の5人は全員クレードを形成します。サルデーニャ島では、新石器時代の始まりから青銅器時代末まで、ヨーロッパ本土の早期および中期新石器時代農耕民と遺伝的に近縁で、2人を除いて系統構成を区別できません。この外れ値となる2人は、レヴァントおよびアフリカ北部新石器時代個体群と類似した銅器時代の個体と、地中海東部系統をわずかに有する青銅器時代の個体です。鉄器時代の2人はクレードを形成せず、1人はイラン関連系統を、もう1人は草原地帯系統を有します。古代末期の2人はサルデーニャ島の早期中世個体とともにクレードを形成しますが、早期中世の個体は主成分分析では分離し、年代も離れているのでサルデーニャ島早期中世人として個別に分析されました。


●バレアレス諸島

 バレアレス諸島で人類の居住が永続的となったのは早期青銅器時代以降で、青銅器時代以降の4人のDNAが解析されました。この4人のうち最古となる紀元前2400年頃の早期青銅器時代個体は、そのゲノムのうち38.1±4.4%が草原地帯系統に由来する、と推定されています。この早期青銅器時代個体は、草原地帯系統を有するイベリア半島ビーカー(Beaker)文化関連個体の子孫と推測されます。バレアレス諸島に草原地帯系統をもたらしたのはイベリア半島からの移民と考えられますが、早期青銅器時代でDNAが解析されたのは1人だけなので、この個体がバレアレス諸島の最古の入植者の代表的な遺伝的構成を表していないかもしれない、と本論文は注意を喚起します。

 中期および後期青銅器時代の2人はそれぞれ、早期青銅器時代個体よりも草原地帯系統の推定割合が低く、20.4±3.4%、20.8±3.6%です。この2人は、草原地帯系統の割合が比較的高い集団と、もっと古いヨーロッパ農耕民関連系統を有する集団との混合と推測されます。これは、さまざまな割合の草原地帯系統がバレアレス諸島に移住して混合したか、より多くヨーロッパ農耕民系統を有する集団からの遺伝子流動の結果かもしれません。また後期青銅器時代個体は、中期青銅器時代個体の属する集団の直接的な子孫かもしれません。バレアレス諸島のタライオット文化とサルデーニャ島のヌラーゲ文化との遺伝的関連の証拠は得られませんでしたが、タライオット文化期では1人しかDNAが解析されておらず、また移住なしの文化的接触もあり得る、と本論文は注意を喚起します。

 鉄器時代のバレアレス諸島にはフェニキア人が植民してきます。鉄器時代の1個体の年代は紀元前361〜紀元前178年頃で、青銅器時代の3人とはクレードを形成せず、異なる遺伝的構成を有します。この鉄器時代個体の遺伝的構成をモデル化するには、モロッコの後期新石器時代系統が必要で、青銅器時代の先住集団の遺伝的影響をまったく受けていない可能性もあります。バレアレス諸島現代人集団は、アナトリア農耕民系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統に加えて、草原地帯系統・イラン系統・アフリカ北部系統の混合としてモデル化できます。これは過去の異なる系統の混合を反映しており、そのうちのいくつかは地中海南部および東部からと推測されます。バレアレス諸島現代人集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)はともに、古代に見られるmtHg-J2・H・U5およびYHg- R1bを有していますが、いずれも古代バレアレス諸島に特有ではないので、地域的な集団継続が証明されるわけではありません。


●シチリア島

 シチリア島では、中期新石器時代個体群が典型的な早期ヨーロッパ農耕民系統を有し、アナトリア新石器時代系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統の混合としてモデル化できます。また、ビーカー文化関連個体には草原地帯系統が見られない、と確認されました。早期青銅器時代になると、当初は紀元前2200年頃までに草原地帯系統が見られるようになります。2個体はとくに草原地帯系統の割合が高く、そのうち1個体はバレアレス諸島早期青銅器時代個体とクレードを形成するので、近い世代での祖先集団が同じと考えられ、その起源地としてとくに有力なのはイベリア半島です。早期青銅器時代における草原地帯系統の存在はY染色体の分析でも明らかで、男性5人のうち3人がYHg-R1b1a1a2a1a2(R1b-M269)です。この3人のうち2人はYHg-R1b1a1a2a1a2a1(Z195)で、現在はおもにイベリア半島に存在し、紀元前2500〜紀元前2000年頃に分岐した、と推定されています。これらの知見からの節約的な説明は、イベリア半島からシチリア島およびバレアレス諸島への遺伝子流動があった、というものです。

 シチリア島では、中期青銅器時代となる紀元前1800〜紀元前1500年頃までにイラン系統が検出され、主成分分析におけるミノア人とミケーネ人への方向変化と一致します。中期青銅器時代個体群は、イラン新石器時代関連系統が15.7±2.6%としてモデル化されます。またモデル化において、年代の近い系統では、ミノアやアナトリア早期青銅器時代が必要とされます。現代イタリア南部集団はイラン関連系統を有しており(関連記事)、シチリア島とイタリア南部ではイラン系統がギリシアの植民地となる前に出現した、と示されます。

 後期青銅器時代個体は、アナトリア新石器時代系統81.5±1.6%、ヨーロッパ西部狩猟採集民系統5.9±1.6%、草原地帯系統12.7±2.1%としてモデル化されます。現代人集団では、青銅器時代までに示された草原地帯系統とイラン関連系統がそれぞれ、10.0±2.6%と19.9±1.4%存在しますが、主要な系統は46.9±5.6%のアフリカ北部系統です。これらの結果は、鉄器時代以降にシチリア島に流入したのがほぼアフリカ北部系統だったことを示します。シチリア島現代人集団は、バレアレス諸島フェニキア期個体とクレードを形成します。これらの結果は青銅器時代以降のシチリア島におけるほぼ完全な系統転換と一致しますが、青銅器時代集団が現代人集団に少ないながら遺伝的影響を残している可能性も排除できません。現代人集団のmtHg- H・T・U・Kも、25%ほど存在するYHg-R1b1a1a2a1a2(R1b-M269)も、青銅器時代に見られます。


●サルデーニャ島

 サルデーニャ島では、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代まで、ほぼ全ての個体がアナトリア新石器時代系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統の混合としてモデル化され、高い遺伝的継続性が推測されます。新石器時代の個体群は、74〜77%がフランス中期新石器時代系統と、23%がハンガリー早期新石器時代系統もしくはクロアチアのカルディウム文化系統と関連しています。サルデーニャ島の早期農耕民の起源は、まだ古代DNAデータがほとんど得られていないイタリア北部やコルシカ島にあるだろう、と本論文は推測しています。ビーカー文化個体群でも、草原地帯系統は検出されませんでした。これはシチリア島およびイベリア半島のビーカー文化関連個体群と類似しており、ビーカー文化関連個体群にかなりの草原地帯系統が見られるヨーロッパ中央部および北部とは対照的です(関連記事)。

 このように、サルデーニャ島では新石器時代から青銅器時代にかけて、ヨーロッパでは例外的な遺伝的連続性が見られますが、外れ値も2個体確認されています。銅器時代となる紀元前2345〜紀元前2146年頃の個体は、アナトリア新石器時代系統22.7±2.45%とモロッコ早期新石器時代系統77.3±2.4%としてモデル化されます。この個体は、ほぼ同年代となる紀元前2473〜紀元前2030年頃のイベリア半島中央部のカミノ・デ・ラス・イェセラス(Camino de las Yeseras)遺跡個体(関連記事)と遺伝的に類似しています。この遺跡の個体はアフリカ北部系統を有し、mtHg-M1a1b1、YHg-E1b1b1で、ともにアフリカ北部で典型的です。こうしたアフリカとヨーロッパの間の遺伝子流動は、それが増加し、より大きな人口への影響を有するようになった古典期のずっと前に、地中海全体の広範な移動があったことを示します。

 外れ値の2番目の個体は、年代が青銅器時代となる紀元前1643〜紀元前1263年頃で、サルデーニャ島在来集団と、ミケーネ文化やヨルダン早期青銅器時代のような地中海東部系統、もしくはイタリアやフランスの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の草原地帯の混合としてモデル化されます。サルデーニャ島の銅器時代の1個体のmtHgは、サルデーニャ島では珍しく、早期青銅器時代バルカン半島やアジア西部で知られているU1aです。また、サルデーニャ島青銅器時代の1個体のYHgは、現在バルカン半島や中東において最高頻度で見られる J2b2aで、青銅器時代以前にはバルカン半島や中東にほぼ固有です。

 サルデーニャ島における草原地帯系統とイラン系統の最初の出現は、鉄器時代の2個体で見られます。一方は紀元前762〜紀元前434年頃で、草原地帯系統が22.5±3.6%、もう一方の紀元前391〜紀元前209年頃の個体ではイラン系統が12.7±3.5%と推定されています。イラン系統は、古代末期の個体群の複数個体ではより高くなります。サルデーニャ島の古代末期集団は、バレアレス諸島のフェニキア期個体とクレードを形成し、フェニキア人によりもたらされた、と推測されます。サルデーニャ島の中世個体は限定的な一塩基多型網羅率のためモデル化されていませんが、そのYHg-E1b1b1b2は、サルデーニャ島銅器時代個体およびヘレニズム期エジプトの個体群のYHg-E1b1bと同じ系統で、地中海東部起源を示唆します。

 これらの知見から、鉄器時代2人・古代末期2人・中世前期1人というサルデーニャ島の比較的新しい個体群では、新石器時代から青銅器時代の先住民の遺伝的影響は比較的小さいと推測されます。この5人は全員沿岸の遺跡で発見されており、サルデーニャ島外の集団からの移住を示唆します。内陸部などサルデーニャ島で古代DNAデータが得られていない地域では、おそらく鉄器時代より前の先住民系統を高い割合で保持しており、その先住民系統は、サルデーニャ島現代人集団に寄与した最大の単一系統と推測されます。

 サルデーニャ島現代人集団は、4〜5系統の混合としてのみモデル化でき、以前の推定よりも複雑な形成過程が示唆されます。サルデーニャ島現代人集団における先住民系統の割合は、新石器時代系統で56.3±8.1%、青銅器時代系統で62.2±6.6%と推定され、アフリカ北部(モロッコ)関連後期新石器時代系統の割合は、前者で22.7±9.9%、後者で17.1±8.0%と推定されます。このアフリカ北部関連系統はおそらくサハラ砂漠以南アフリカ系統との混合で、サルデーニャ島現代人集団でも複数の研究で検出されています。この56〜62%という割合は、鉄器時代よりも前のサルデーニャ島先住民を唯一の祖先源と仮定して推定しているので、上限値となります。

 これらの知見は、サルデーニャ島ではヨーロッパ最初の農耕民関連系統の割合がヨーロッパの他地域よりも高いことを確証しますが、以前には知られていなかった新石器時代後の主要な遺伝子流動があったことも明らかにします。これは、サルデーニャ島現代人集団において、新石器時代から青銅器時代までに一般的だったYHg-R1b1aとmtHg-HV・JT・Uとともに、青銅器時代以前には確認されていないYHg-R1b1a1a2a1a2が高頻度で見られることからも明らかです。最近の研究でも、サルデーニャ島現代人集団において、以前の推定よりも大きい青銅器時代後の遺伝子流動と、サルデーニャ島沿岸における青銅器時代以前の先住民系統の低さが指摘されています(関連記事)。アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で発見されたミイラの5300年前頃の「アイスマン」のゲノムは、サルデーニャ島現代人集団とひじょうに近いと言われていますが、その一致率は100%よりはるかに低くなります。


●まとめ

 本論文は5つの結果を強調します。まず、バレアレス諸島とシチリア島の両方で、青銅器時代の人々の主要な起源としてイベリア半島を特定したことです。バレアレス諸島の早期の住民の中には、少なくとも一部がイベリア半島系統由来だった人々もいました。早期青銅器時代のシチリア島の2人では、イベリア半島に特徴的なYHg-R1b1a1a2a1a2a1(Z195)が確認されました。イベリア半島は、東方から西方への人類の移動の目的地だけではなく、西方から東方への「逆流」の起源地でもあったわけです。しかし、この期間のイベリア半島の人口史は地中海諸島とは異なっており、たとえばイベリア半島では、銅器時代に一般的だったYHgが青銅器時代にはほぼ完全に置換されましたが(関連記事)、シチリア島ではYHgのほぼ完全な置換は起きておらず、新石器時代および草原地帯関連のYHgが両方見られます。

 第二に、ミノアおよびミケーネ文化と関連して中期青銅器時代までにエーゲ海で広まったイラン系統が、遅くともミケーネ期までにシチリア島へと西進し、かなりの割合を有するようになったことです。これはミケーネ文化の拡大に伴っていたかもしれません。しかし、ミケーネ文化最盛期の前に、マルタ島・ギリシア・アナトリア半島でシチリア島のカステラッチョ文化(Castellucian culture)と関連した人工物が見つかっており、それ以前の遺伝子流動の可能性も考えられます。バレアレス諸島やサルデーニャ島では、フェニキア期の前にイラン系統の高い割合の証拠はありませんが、それは地中海東部からの孤立を意味しません。考古学的証拠では、たとえば後期青銅器時代のサルデーニャ島におけるキプロス島の銅の輸入のように、地中海東部から西部へのかなりの物資の移動がありました。

 第三に、銅器時代と青銅器時代におけるアフリカ北部からヨーロッパへの広範な人類の移動です。具体的には、上述のサルデーニャ島における紀元前2345〜紀元前2146年頃の個体で、イベリア半島中央部の紀元前2473〜紀元前2030年頃の個体と類似しています。また、紀元前1932〜紀元前1697年頃のイベリア半島の個体にもアフリカ北部関連系統が認められます。現時点では、5000〜3000年前頃の地中海ヨーロッパの191人のうち1.6%に、数世代前のアフリカ北部移民系統の証拠があります。

 第四に、フェニキアおよびギリシア植民地期と、それに続く地中海西部諸島の移民の影響です。たとえば、バレアレス諸島鉄器時代以降の個体群は、在来の先住集団からの系統を有していないかもしれません。以前の研究と併せて考えると、鉄器時代以降、地中海西部の沿岸地域は、地理的に近接して共存していた移民と在来集団の民族的分離により特徴づけられます。じっさい、イベリア半島北東部のギリシア植民地アンプリアス(Empúries)では、遺伝的に異なる個体群2系統が共存しており、ストラボンの歴史的記述と一致します。バレアレス諸島やシチリア島のような地域では、鉄器時代後の集団のほぼ完全な置換が推定されますが、ある程度の在来集団の継続性も除外できません。

 最後に、サルデーニャ島現代人集団は初期農耕民の定着後比較的孤立していた、という一般的な見解に疑問を呈していることです。本論文は、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代まで、サルデーニャ島集団が典型的なヨーロッパ早期農耕民系統を有し、それがヨーロッパ他地域よりも長く続いたことを明らかにしました。しかし、地中海東部および北部とアフリカからの移民は、鉄器時代以降にサルデーニャ島集団の遺伝的構成にかなりの影響を及ぼし、それは地中海西部沿岸の他地域と同様です。サルデーニャ島現代人集団の系統の少なくとも38〜44%は、明らかに在来集団と混合した移民系統で、そのうちアフリカ北部系統は17〜23%と推定されます。このように、サルデーニャ島は新石器時代以来混合と移民から完全に隔離されていたというよりはむしろ、ヨーロッパの他地域のほとんどと同様に、移動と混合を経て現在の住民の遺伝的構成が形成されました。


参考文献:
Fernandes DM. et al.(2020): The spread of steppe and Iranian-related ancestry in the islands of the western Mediterranean. Nature Ecology & Evolution, 4, 3, 334–345.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1102-0

https://sicambre.at.webry.info/202003/article_3.html

4. 2020年9月01日 20:37:50 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[58] 報告
雑記帳 2018年10月26日
ローマ帝国における近親婚
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_53.html


 不勉強なため、まだまったくと言ってよいほど疑問が解消されていないのですが、興味深い事例なので、備忘録として記事にしておきます。近親交配(近親婚)について当ブログでは、クロアチアのネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の高品質なゲノム配列を取り上げたさいに言及しました(関連記事)。おそらく人類系統にも、近親交配を避けるような認知メカニズムが生得的に備わっている可能性は高く、人類社会において定常的な近親婚がほとんど見られないのは、根本的にはその認知メカニズムに起因すると思われます。

 しかし、それはさほど強い抑制ではなく、人類の配偶行動は状況により柔軟に変わると思われます。じっさい、ほぼ全ての現代人(Homo sapiens)の社会で近親婚は禁忌とされているでしょうが、その範囲は各社会によりさまざまで、いとこ婚を禁止する社会もあれば、それよりも近縁関係にある叔父(伯父)と姪もしくは叔母(伯母)と甥の婚姻を認める社会も存在します。それでも、親子間やきょうだい間での定常的な近親婚はまず見られません。

 とはいっても例外もあり、まず想定されるのは、宗教的もしくは社会身分的理由に起因する閉鎖性です。たとえば、古代エジプトや古代日本の王族(やそれに近い支配層)で、これは高貴性と財産の保持を目的としていたと思われます。次に想定されるのは、人口密度が希薄で、交通手段の未発達やそれとも関連する1世代での活動範囲の狭さなどにより、他集団との接触機会がきょくたんに少ないような場合です。

 たとえば、現生人類の事例ではありませんが、南西シベリアのアルタイ地域のネアンデルタール人は、両親が半きょうだい(片方の親のみを同じくするきょうだい)のような近親関係にあり、しかも近い祖先の間では近親婚が一般的だったのではないか、と推測されています(関連記事)。『ヒトはどのように進化してきたか』第5版(関連記事)では近親婚についても解説されていますが(P657〜665)、近親婚は適応度を大きく低下させます。そのため、近親婚の繰り返しがネアンデルタール人絶滅の要因だったのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。しかし、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列では、近親婚の痕跡は確認されませんでした。おそらくネアンデルタール人社会においても、孤立状況に陥らなければ、少なくともきょうだい間のような近親婚は避けられる傾向にあったのではないか、と思われます。

 このように、人類系統においても近親婚は避けられる傾向にあり、それはおそらく生得的な認知メカニズムに由来するものの、さほど強い抑制ではなく、とくに現生人類系統においては、王族における極度の近親婚のように、時として柔軟な配偶行動も見られます。しかし、それはあくまでも例外的で、現生人類社会において、きょうだい間のような極度の近親婚が定常的に見られることはまずありません。

 前置きが長くなってしまったというか、ほとんど前置きになってしまいましたが、ここからが本題です。しかし、『ヒトはどのように進化してきたか』第5版では、きょうだい間の定常的な結婚の事例も報告されています(P661)。それはローマ帝国支配下のエジプトで、紀元後20〜258年の間の市民・財産登録のデータによると、残された172の調査報告書から113組の結婚が推定されていますが、そのうち全きょうだい(両親が同じ)間が12例、半きょうだい間が8例確認されています。婚前協定書と結婚式への招待状が残っているので、これらきょうだい間の結婚は法的にも社会的にも承認されているようです。

 しかし、椎名規子「ローマ法における婚姻制度と子の法的地位の関係」によると、ローマ法では近親婚が禁止されていました。ローマ法では、初期にはきょうだい間の2親等までが、その後は伯父(叔父)と姪などの3親等までが、さらに後には、いとこ間のような4親等までが、婚姻禁止とされました。しかしその後、4親等でもきょうだいの孫は例外的に婚姻可とされたそうです。では、エジプトのきょうだい間の婚姻事例をどう解釈すべきなのか、という疑問が生じるわけですが、私の見識ではさっぱり分かりませんでした。市民・財産登録されているということはローマ市民でしょうから、ローマ法の適用対象外というわけでもないように思うのですが、私はローマ史・ローマ法の門外漢ですから、専門家にとっては的外れな疑問かもしれません。まあ、この問題の優先順位は高くないので、いつか新たな知見が得られれば、その時にまた当ブログにて記事を掲載するつもりです。


参考文献:
椎名規子(2018)「ローマ法における婚姻制度と子の法的地位の関係 欧米における婚外子差別のルーツを求めて」『拓殖大学論集 政治・経済・法律研究』第20巻第2号P47-81

https://sicambre.at.webry.info/201810/article_53.html

5. 2020年9月02日 02:59:38 : wpXk3w6zIY : LjZzUlJFRWgzbWM=[2] 報告
雑記帳 2015年11月13日
ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』第4刷
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_13.html

 これは11月13日分の記事として掲載しておきます。ブライアン・ウォード=パーキンズ(Bryan Ward-Perkins)著、南雲泰輔訳で、白水社より2014年9月に刊行されました。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A-%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%8C%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89-%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BA/dp/4560083541


第1刷の刊行は2014年6月です。原書の刊行は2005年です。ローマ帝国が衰退・崩壊し、古代は終焉して暗黒の中世が始まった、との見解は今でも一般では根強いようです。これまで、ローマ帝国の衰退・崩壊には大きな関心が寄せられており、本書でも取り上げられているように、ある研究者によると、ローマ帝国の衰退の要因は210通りにも分類されるそうです。

 しかし近年では、ローマ帝国の衰退・崩壊を強調するのではなく、古代から中世への長い移行期として「古代末期」との時代区分を設定し、文化・心性の連続性を強調する見解が支持を集めており、現代日本社会において私のような門外漢にも浸透しつつあるのではないか、と思います(関連記事)。ローマ帝国およびローマ「文明」は西ローマ帝国とともに滅亡したのではなく、緩やかに変容していったのではないか、というわけです。そうした古代末期論では、宗教(キリスト教)の役割が重視されています。

 本書は諸文献も引用していますが、おもに考古学的な研究成果に依拠して、古代末期論の提示する見解には大きな偏りがあり、ローマ帝国の滅亡とともにローマ「文明」も崩壊したのだ、との見解を提示しています。もっとも、この場合の「ローマ帝国の滅亡」とは西ローマ帝国のことであり、本書がローマ「文明」の崩壊と把握するのも、西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)が対象です。ローマ帝国東方では、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が西ローマ帝国の滅亡後1000年近く存続しました。

 本書がローマ「文明」崩壊の根拠としているものとして、識字率の低下もありますが、これは推定が難しいことを本書も認めており、決定的な根拠とはされていません。本書がローマ「文明」崩壊の重要な根拠としているのは、陶器や瓦といった身近な日常生活用品や貨幣です。このうち、瓦については、ローマ帝国期には社会の上層ではない人々の住宅でも瓦葺だったのに、西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパ社会では、瓦葺は一部の建築物に限定される、と本書では指摘されています。もっとも、これについては、瓦葺から茅葺への変化は、気候に対応した文化的な変容であり、「文明」衰退の根拠にはならないかもしれない、との懸念も取り上げられています。

 本書がローマ「文明」衰退の重要な根拠としているのは陶器です。4世紀以前には社会の中層・下層にまで、質の高い統一的な規格の陶器が用いられていたのにたいして、西ローマ帝国滅亡後には、そうした質の高い陶器が社会の中層・下層では見られなくなる、と本書は指摘します。ローマ帝国時代には、社会の中層・下層でも用いられていたそうした質の高い陶器はしばしば遠隔地で生産されており、大規模で複雑で広範な流通・経済の仕組みが存在していた、というのが本書の見解です。

 そうした「洗練」され複雑な経済の仕組みが、西ローマ帝国とともに崩壊していった、というわけです。西ローマ帝国の滅亡にともない、西ヨーロッパにおいて貨幣の使用が減少したと推定されるのも、そうした複雑な経済の仕組みが崩壊していったことと関連している、と本書では指摘されています。また、古環境の大気汚染に関する研究から、ローマ帝国時代と比較して、ローマ帝国崩壊後の数世紀の大気汚染の水準が先史時代に近い水準にまで落ち込み、汚染の水準がローマ帝国時代にまで上昇したのは16〜17世紀になってからである、とも指摘されており、「洗練」され複雑な経済の仕組みが崩壊した根拠とされています。

 ただ、上述した西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の長期の存続の問題とも関わってきますが、本書は、ローマ帝国の経済の様相は地域により大きく異なっていた、と強調します。西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)においては、ローマ帝国(西ローマ帝国)の崩壊にともない、「洗練」され複雑な経済は崩壊します。しかし、その西ヨーロッパにおいても、地域により様相がかなり異なることを本書は指摘しています。たとえばイタリアでは、4世紀の間に衰退が始まり、5世紀になるとやや加速しつつも、600年頃まで緩やかに経済的指標が低下していきます。

 もっとも、緩やかな低下とはいっても、長期的にはその間ほぼずっと低下し続けているわけで、300年頃と600年頃とを比較すると、推定される経済の複雑さには大きな違いが生じています。西ヨーロッパにおいて経済的複雑さがローマ帝国時代の水準に回復するのがいつなのか、諸見解があるようですが、上述した大気汚染の研究からは、西ローマ帝国の滅亡後1000年以上要したとの見解もあり得るわけで、ローマ帝国における経済的水準の高さが窺われます。西ヨーロッパでもブリテン島では、5世紀初頭に経済水準の劇的な低下があり、それ以降700年頃までほとんど回復していない、と推定されています。本書は、ブリテン島ではローマ帝国の崩壊(ブリテン島におけるローマの統治体制の崩壊)とともに、その経済的複雑さが先史時代の水準にまで低下してしまった、との見解を提示しています。

 一方、ローマ帝国東方は西方とは様相がかなり異なります。たとえばエーゲ海地域では、その経済的水準は300年頃から5世紀前半まで多少低下したくらいで、その後に6世紀前半にかけて上昇していき、それ以降7世紀初頭にかけて緩やかに低下していき、7世紀初頭以降に急激に低下します。レヴァントでは、300年頃から6世紀前半にかけて上昇していき、その後に緩やかに低下していきます。こうしたローマ帝国の西方と東方における経済的水準の変化の違いは、西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の存続とを反映しているようですが、本書は、元々の経済的仕組みの堅固さに差があったのではなく、地理的な違いなどの偶然の事情により、ローマ帝国の東方は西方と違い崩壊を免れたのだ、との見解を提示しています。

 本書はこのように、考古学的研究成果から推定される経済的水準を根拠に、ローマ帝国西方においてローマ帝国とともに「文明」も崩壊したのだ、と強調します。古代末期論は、ローマ帝国東方の5世紀以降も続く経済的繁栄や心性史を重視するあまり、ローマ帝国全体が緩やかに変容していった、との偏った見解を提示している、と本書は批判します。しかし本書は一方で、古代末期論が多くの魅力的な見解を提示してきたことも認めており、本書の見解と古代末期論とが両立し得ることを指摘しています。本書が指摘するように、ローマ帝国の崩壊や古代〜中世への移行とはいっても、地域により様相がかなり異なるようなので、ローマ帝国の分裂・(西方での)崩壊を考察するさいには、ローマ帝国を一括して把握することは大いに問題がある、と言うべきなのでしょう。

 本書の見解は、現代社会への重要な示唆を提示しています。本書を読むと、ローマ帝国の複雑で巨大な政治体制が、大規模で複雑な経済の仕組みを可能にしていた側面が多分にあるように思われます。この経済的仕組みは、もちろん近代以降と比較すると未熟だったとはいえ、分業化の進展したものでした。ローマ帝国の統治体制が、「外敵」たる「蛮族」の侵入や「内乱」などにより崩壊すると、それに依拠していた大規模で複雑な経済の仕組みも崩壊していきます。本書は、ローマ帝国の西方における統治体制の崩壊が5世紀の時点で必然だったわけではない、との見解を提示しています。数々の避けられ得る判断の誤りの結果、西ローマ帝国は滅亡した、というわけです。「蛮族」はローマ帝国の「快適な」体制を破壊しようとしたのではなく、それに参入したかった、というのが本書の見解であり、そこからも現代社会が汲み取るべき教訓は多いように思われます。

 現代社会は、ローマ帝国時代とは比較にならないほど経済において分業化が進展しています。そうした社会は、一度崩壊すると、元の水準に回復するまで長期間を要する脆弱なものなのかもしれません。私も含めて、現代社会の経済的仕組みが劇的に崩壊することを実感しにくい人は少なからずいるかもしれません。しかし、ローマ帝国の西方における政治体制と大規模で複雑な経済的仕組みの崩壊を考えると、ローマ帝国時代の「快適さ」がローマ帝国の崩壊とともに失われた、と本書が指摘するように、現代社会の「快適さ」が避けられ得る判断の誤りの蓄積により失われてしまう可能性を、真剣に考えるべきなのでしょう。

https://sicambre.at.webry.info/201511/article_13.html

6. 2020年9月02日 03:12:31 : wpXk3w6zIY : LjZzUlJFRWgzbWM=[3] 報告
雑記帳 2015年11月05日
ベルトラン=ランソン『古代末期 ローマ世界の変容』
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_5.html


 これは11月5日分の記事として掲載しておきます。ベルトラン=ランソン(Bertrand Lançon)著、大清水裕・瀧本みわ訳で、文庫クセジュの一冊として、白水社から2013年7月に刊行されました。原書の刊行は1997年です。

https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%AB%E6%9C%9F-%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9-%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B8%E3%83%A5-%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3-%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4560509816

「古代末期」との概念は、現代日本社会において私のような門外漢にも浸透しつつあるのではないか、と思います。古代末期という概念では、西ヨーロッパにおけるローマ帝国の衰退・滅亡による断絶を強調するのではなく、文化・心性の連続性を強調し、古代から中世への長期にわたる移行が想定されています。

 本書の解説にて、この古代末期との概念は今では日本の学界でも広く受け入れられているものの、その功績がピーター=ブラウン(Peter Robert Lamont Brown)氏一人に帰せられているのが問題だ、と指摘されています。本書を読むと、西ヨーロッパにおけるローマ帝国の崩壊から中世(あくまでも現代における一般的な用法)への連続性を強調する見解は、前近代においてすでに見られ、近代歴史学においても、複数の国で優れた研究者たちが提示していたことが分かります。

 本書は、西ヨーロッパにおいて5世紀にローマ帝国という政治体制が崩壊したことをもちろん認めつつも、文学・美術の衰退をはじめとして、ローマ文化はその高水準のままには中世に継承されず、文化的な断絶があったのだ、とする見解をさまざまな根拠により否定していきます。ローマ文化というか古典古代文化は、古代末期に決定的な影響を及ぼしたキリスト教を中心に変容しつつも継承されていった、というわけです。ローマ帝国を支えていた都市エリート層は、都市で帝国から課される過重な政治・行政・経済的負担を嫌い、それがローマ帝国の政治体制の崩壊にもつながりましたが、キリスト教の司教などに転身することにより、都市を指導していくとともに、古典古代文化を継承していった、との見通しが提示されています。

 また、キリスト教が西ヨーロッパにおいて異教的要素を多く取り入れていったことも以前から指摘されていますが、本書は、キリスト紀元(西暦)の算出が6世紀で、本格的な普及が7世紀以降だったことなどから、異教的要素が5世紀以降も根強く存在し、古代末期が古典古代的要素を強く残しつつ、中世の新たな要素も併存する時代だったことを改めて指摘しています。西ヨーロッパにおいて、初期のキリスト教はギリシア語で布教されていったのにたいして、やがてラテン語化していったことなども、古代末期を挟んで、ローマ帝国の時代と中世との連続性を示している、との見通しが提示されています。

 このように本書は、ローマ帝国はその文化とともに衰退・崩壊し、野蛮な中世との間には断絶が生じた、と古典古代期と中世との断絶を強調して、その移行期間を没落の時代とする根強い見解を否定し、古代末期における変容を挟んでの古代から中世への連続性を強調します。現在では、このように単純にローマ帝国の崩壊および古代と中世との断絶を強調する古典的な説に否定的な見解が重視されているようです。しかし一方で、考古学的分析から、西ヨーロッパにおけるローマ帝国の崩壊にともなう社会の崩壊を強調する見解も提示されているようなので、今後そうした見解に基づく一般向け書籍も読んでいく予定です。

https://sicambre.at.webry.info/201511/article_5.html

7. 2020年9月02日 06:26:17 : AUv6HyK3b2 : OW1XSExYVDc0dHc=[7] 報告
雑記帳 2008年03月04日
本村凌二『興亡の世界史04 地中海世界とローマ帝国』
https://sicambre.at.webry.info/200803/article_13.html?pc=on

 講談社の『興亡の世界史』シリーズ9冊目となります(2007年8月刊行)。

https://www.amazon.co.jp/%E8%88%88%E4%BA%A1%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-%E5%9C%B0%E4%B8%AD%E6%B5%B7%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E6%9D%91-%E5%87%8C%E4%BA%8C/dp/4062924668


本書は、曖昧模糊とした都市国家ローマの建国から、いわゆる東西分裂のあたりまでが主に扱われ、西ローマ帝国の滅亡の様相や、東ローマ帝国のその後についてはほとんど扱われていません。著者の本村氏の著書・論考には面白いものが多く、楽しみにしていた一冊です。本村氏は競馬ファンでもあり、『優駿』やスポーツ紙の競馬面へたびたび寄稿していましたが、最近はどうなのでしょうか。

 さて、余談はともかくとして本書についてですが、期待に違わずたいへん面白く読める内容になっていると思います。ただ、その分物語的性格の強い叙述になっている感が否めず、英傑の描写についてはとくにその傾向が強いように思われます。まあこれは仕方のないところがあり、現代の偉人にまつわる「伝説」を想起すれば分かるように、偉大な業績を残した人物は、何かと美化されてその人物像が喧伝されるものです。

 本書の特徴を挙げるとするといくつかありますが、その一つは、都市国家・帝国としてのローマの通史(上述したように、東西分裂後の記述は少ないのですが)でありながら、ローマ帝国の原像としてのアッシリア・アケメネス朝・アレクサンドロス帝国の記述に一章割かれていることです。これは、歴史の大きな流れを把握するという意味で、なかなかよい試みだったように思われます。

 次は、ローマ帝国と地中海世界が、多神教世界から一神教世界へと転換していくという視点からの考察があることで、当時のローマ帝国・地中海世界にキリスト教が拡大したのは、
(1)主が十字架刑上で犠牲になるという物語の理解のしやすさ。
(2)抑圧された人々の怨念。
(3)心の豊かさを求める禁欲意識。
というキリスト教が受容される精神的土壌があったからだとされていますが、なかなか興味深く説得力のある考察だと思います。また、多神教世界から一神教世界への転換が、結果論的なキリスト教勝利史になっておらず、キリスト教以外の宗教も取り上げられているのもよいと思います。私がクリスチャンではないということもあるのでしょうが、本書にかぎらず、キリスト教的価値観からなるべく距離を置いて考察しようとする本村氏の姿勢には好感が持てます。

 最後は、ローマ帝国の「滅亡・衰退」の意義について、さまざまな解釈の手がかりが提示されていることです。これはとくに目新しい史観というわけではありませんが、本書のような一般向け書籍において、衰退・没落史観に偏らないというか、むしろそれを否定するような見解が強調されることは、現在の日本ではまだ意義のあることのように思われます。全体として、なかなか面白いローマ史になっており、私の関心が高いということもありますが、これまでに刊行された『興亡の世界史』シリーズのなかでは、もっとも面白く読めました。

https://sicambre.at.webry.info/200803/article_13.html?pc=on

8. 2020年9月02日 17:26:07 : JPvaTJH7VM : L3BmLlBmcTV4VEE=[196] 報告
ローマ帝国と同時代の漢帝国、人口は両帝国合わせて1億2000万人程度で、両帝国合わせた値が、現在の日本人口を若干上回る程度だ。

人口1人に対する大地は無限の広さと言える。

ちなみに両帝国の人口は、当時の世界人口の40%程度という試算が計上されていて、地球上の全人口ですら3億人程度。

まあ、そのくらいが丁度良いんだろうな。

少なくとも、そう思い、かつ、力を持った人たちが居るという事実は、動かし難い真実である。

9. 2020年9月03日 16:36:51 : jvGCu7fHGg : Lmp2RC5rUmZuMjI=[30] 報告
雑記帳 2018年09月16日
本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』第3刷
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 2018年5月にPHP研究所より刊行されました。第1刷の刊行は2018年3月です。本書は王政期から滅亡へといたるローマ史を時系列で語りつつ、通史というよりは、王政期から滅亡までのローマの歴史を規定した要因を探るという、問題史としての性格を強く打ち出しています。初期ローマであれば、同じ地中海地域の都市国家として始まりながら、なぜローマとギリシアは異なる政治体制を選択したのか、といった問題です。著者の他の著書を読んでいれば、目新しい点はあまりないかもしれませんが、相変わらず読みやすく、ローマの歴史的展開の背景に関する考察は興味深いものですし、ローマ史の復習にもなります。楽しく読み進められました。

 民主政に進んだギリシア(アテネ)と、共和政に進んだローマの違いは、構成員たる市民間の格差が比較的少なく平等だったギリシア(もちろん奴隷はおり、居住民の間の格差は大きかったわけですが)と、当初より格差の存在したローマという、社会構造の違いが大きかったのではないか、と指摘されています。本書は、ギリシアを「村落社会」、ローマを「氏族社会」と呼んでいます。ローマが大国になれてギリシア(アテネ)が大国になれなかった理由としては、ギリシアが独裁・貴族政・民主政という政体の三要素のどこかに偏り過ぎたのにたいして、ローマは共和政のなかに独裁(二人の執政官、時として独裁官)・貴族政(元老院)・民主政(民会)の要素をバランスよく含んでいたからだ、と指摘されています。

 また、ローマが大国になれた要因として、「公」への意識、つまり祖国ローマへの強い帰属意識があったことも重視されています。貴族層では「父祖の遺風」、平民層では「敬虔なる信仰心」がその背景にあった、と本書は指摘します。ローマ市民は、同時代の他地域の人々からは、敬虔だと思われていました。このような意識に基づき、何度も負けては立ち上がり、他国を征服していった共和政期ローマを、「共和政ファシズム」と呼んでいます。

 500年にわたって共和政を維持してきたローマが帝政へと移行した背景として本書が重視するのは、ローマ市民の意識の変容です。支配地が増え、平民は重い軍役で没落する一方、元老院を構成する貴族層は征服地の拡大により富裕になっていき、貧富の差が拡大します。この階級闘争的な過程で、「公」よりも自己愛・身内愛といった「個」を優先する意識が強くなっていきます。それと同時に、ローマにおいて以前から存在した、有力者によるより下層の人々の保護という、保護者(パトロヌス)と被保護者(クリエンテス)との関係が拡大・強化されていきます。これが、ポエニ戦争後100年以上にわたる内乱の一世紀およびその後の帝政の基盤になった、と本書は指摘します。この保護者と被保護者の関係が、最終的には頂点に立つ一人の人物たる皇帝に収斂される、というわけです。

 帝政期も当初は暴君がたびたび出現して混乱しますが、いわゆる五賢帝の時代には安定し、ローマの領土も最大となります。本書は、プラトンが唱えた「賢者による独裁」という理想に最も近い事例として、この五賢帝を挙げています。五賢帝の時代が終焉し、セウェルス朝を経てローマは軍人皇帝時代を迎えます。しかし本書は、軍人皇帝時代は単なる混乱期ではなく、分割統治・皇帝直属の機動軍の創設といった改革が模索され、進んだ時期とも把握し、在位期間が短く多くが殺害された皇帝たちのなかで、ウァレリアヌスとガリエス父子やアウレリアヌスのように、高く評価されるべき皇帝がいたことも指摘しています。本書は軍人皇帝時代の特徴として、支配層が変容していったことも指摘しています。ローマの支配層は当初、古くから続く元老院貴族でした。内乱の一世紀〜帝政初期にかけて、イタリアの新興貴族層が台頭し、帝政の支持基盤となります。軍人皇帝時代には、それまでの文人的な元老院貴族から武人層へと政治的主導権が移っていった、というのが本書の見通しです。軍人皇帝時代の諸改革の延長戦上に、ディオクレティアヌスによる安定があったのでしょう。

 軍人皇帝時代を経て専制君主政期になると、ローマ帝国においてキリスト教が確固たる基盤を築き、やがて現在のような大宗教にまで拡大します。本書はローマ帝国においてキリスト教が普及した理由として、社会下層からじょじょに広がったというよりも、皇帝による保護の方が大きかったのではないか、と指摘しています。キリスト教が国教化されてすぐ、ローマ帝国は分割され、二度と再統一されることはありませんでした。西ローマが分割後100年も経たずに滅亡したのにたいして、東ローマが1000年以上続いた理由として、西ローマでは都市が衰退していたのにたいして、東ローマでは都市が衰退していなかったからだ、と本書は指摘します。東ローマは西ローマよりも経済状況がよかったから長期にわたって存続したのだ、というわけです。

 このように、ローマ帝国は東西に分裂したと言われますが、本書はもっと長い視点でローマ帝国の分裂を把握しています。ローマ帝国は、オリエント・ギリシア・ラテンという三つの世界を統合しました。ローマ帝国の分裂後、これらの地域は最終的に、イスラム教・ギリシア正教・カトリックに分裂していきます。ローマ帝国の統合前と分裂後の各地域はおおむね対応しているのではないか、というわけです。本書はその要因として、言語の違いを挙げています。オリエント世界のセム語系・ギリシア世界のギリシア語・ラテン世界のラテン語および後に加わったゲルマン語です。

 ローマ帝国の滅亡に関して、本書は単なる衰亡ではなく、三つの側面から把握しています。一つは伝統的な史観とも言える経済的衰退で、社会資本が劣化していきます。本書はその背景として、奴隷制社会では奴隷に面倒なことをやらせるので、技術革新・経済成長への動機が乏しくなりがちであることを挙げています。次に、こちらも伝統的な史観と親和的と言える、国家の衰退です。本書はこの過程を、皇帝権力の低下→異民族の侵入→軍隊の強化→徴税強化による皇帝権力の低下という悪循環で把握しています。最後に、文明の変質です。本書はこれを、人々の意識が共同体から個人へと変容し、弱者を切り捨てるような平等な個人間の関係から、強者による弱者の保護を前提とする社会への変容と把握しています。本書はローマ帝国の分裂・滅亡を、単なる衰退ではなく、人々が異なる価値観を受け入れて時代に対応していった、古代末期という概念で把握すべきではないか、と提言しています。
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_22.html

10. 中川隆[-11467] koaQ7Jey 2020年9月07日 14:21:16 : 3yQuJBsenC : MjE0bmRMZ3lickU=[11] 報告
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2020年09月06日
ローマ化する現代の帝国 / 変質する米国 (後編)
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68823851.html


異民族が流入した古代帝国

  アメリカ合衆国は現代のローマ帝国と言われるくらい、よく古代ローマと比較される。確かに、最強の軍事力を誇る点で両者は共通しているが、様々な民族が混在することでも注目を引く。ローマは共和政時代でも多種多様であったが、ビザンツ時代、すなわち東ローマ帝国になると、ギリシア人やオリエントの民族を抱えてしまったので、コンスタンチヌス大帝の都(コンスタンティノポリス / 現在のイスタンブール)は、まさしく無国籍のコスモポリタンになってしまった。

  高校時代にローマ史を習った人なら判るけど、ビザイツ帝国の軍人や官僚には非ローマ人が少なくなく、属州生まれの“外人”が結構多く登庸されている。というのも、「幸福者」と呼ばれたコーネリウス・スッラ(Lucius Cornelius Sulla Felix)やユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)の時代でも、内乱で多くのローマ貴族が殺されたし、後のユリウス・クラウディウス朝時代になると、共和政以来の名門貴族がほとんど姿を消してしまったのだ。ある者は政界から去り、別の者は処刑されるか暗殺、自殺で命を絶っていた。また、自然な出生率低下も主な要因である。長く続いた貴族の子孫でも断絶する場合もあったし、たとえ存続しても先細りになってしまうから、遅かれ早かれ消滅だ。それゆえ、元老院はおろか、高級政務官にも異民族の人物が現れ、皇帝ネロの時代になると、属州出身者の数が42名ほど居たらしい。

Seneca 1(左 / セネカ)

  もっとも、これらのニュー・タイプは第1世代の外人ではなく、何世代か前にイタリアかローマに移ってきた異民族の子孫で、西部の属州、すなわちイスパニア諸州やガリア・ナルボネンシス州の出身者が多かった。スペインのコルドヴァ出身の著名人と言えば、ストア派の哲学者として知られるセネカ(Lucius Annaeus Seneca)とその兄、ガリオ(Gallio / Lucius Annaeus Novatus)であろう。ルキウスという名を持つガリオは、ローマに移住してから元老議員ユニウス・ガリオの養子になったので、「ユニウス・ガリオ(Junius Gallio)」と改名したそうだ。

  このガリオが有名なのは、アカイア州の地方総督を務めた時、使徒パウロを助けたからである。当時、聖パウロはコリントで宣教活動をしていたが、彼を憎むユダヤ人の集団に襲われ、法廷に引きずり出された。何しろ、ユダヤ教徒にとって律法を守ることは絶対である。それなのに、このパウロときたら「イエズス」とかいう大工の小倅(こせがれ)に従い、律法(天主の戒律)を蔑ろにして神様を崇めるよう説いていたのだ。しかも、畏れ多いことに、この教祖を「天主の子」と呼んでいたのだから、パリサイ派やゼロテ派に殺されても不思議じゃない。敬虔なユダヤ教徒が激怒したのも当然だ。ということで、ユダヤ人はパウロをローマ人の法廷で仕置きに掛けることにした。でも、ガリオはパウロの宣教を不正行為とは見なしていなかったので、「私はそんな事の審判者になるつもりはない!」と言い放ち、訴訟を却下。これで、聖パウロは晴れて釈放となった。(使徒行伝18章12節〜16節を参照)

  弟のセネカは日本でも有名人だから、筆者の説明は不要だろう。でも、この哲学者の人生を調べると気の毒になってくる。彼はカリグラ帝からその才能を妬まれ、もう少しで処刑されるところであったし、クラウディウス帝の妻メッサリーナ(Messalina / 3番目の夫人)に「ユリア・リウィラ(Julia Livilla)と不義を結んだんじゃないか?」と疑われる始末。これにより元老院から死刑宣告を受けるが、クラウディス帝が助け船を出し、コルシカ島への追放で事を収めた。しかし、クラウディス帝が小アグリッピナ(Julia Agrippina / Agrippina the Younger)を4番目の妻として迎えると、彼女がセネカを呼び戻し、追放されていた哲学者を息子の教育係にした。この息子は後にローマ皇帝となるネロ。

  一方、リウィアは伯父によって死刑を宣告され、餓死で亡くなったそうだ。彼女は結構“したたか”で、以前、カリグラを打倒する計画に関与して、義理の兄弟であるマーカス・アメリウス・レピドゥスを帝位に就けようと謀ったが、失敗に終わったので、ポンツィア島へ逃げることになったという。カリグラ帝が亡くなったことで逃亡先から帰ってきたものの、今度はセネカとの一見で窮地に陥り、命を失う破目になってしまった。ちなみに、彼女はカリキュラ帝と小アグリッピーナの妹である。1979年に公開された映画『カリグラ』を観た人なら覚えていると思うが、リウィア役を演じていたのはミレラ・ダンジェロ(Mirella D'Angelo)だ。この映画は淫乱場面が凄くて、たいへん印象深い作品であった。(筆者はこのDVDが出ているのかどうか分からない。)

Caligula 2Julia LiVilla 01Agrippina the Younger 1Mirella D'Angelo 2


(左 : カリキュラ帝 / ユリア・リウィラ / 小アグリッピーナ / 右 : ミレラ・ダンジェロ )

  第21世紀のアメリカでは黒人が初めて合衆国大統領になったけど、第1世紀末のローマでも浅黒い外人が出世したたようで、北アフリカ出身のパクトメイウス・フロントー(Quintus Aurelius Pactumeius Fronto)が執政官(Consul)になった。彼は有名なウェスパニス帝(Vespasianus)によって騎士階級から元老院議員になった人物である。マウリタニア人(ベルベル人)のルシウス・クィエトゥス(Lucius Quietus)は、ダキア戦争で騎兵隊の指揮官を務め、戦後、その功績を認められて元老院議員となった。さらに、トラヤヌス帝のパルティア戦争で重要な指揮官となるや、ニシビスやイデッサを攻略し、バビロニアでの暴動も鎮圧したから、その恩賞としてユダヤの総督職を授けられたという。しかし、トラヤヌス帝が崩御すると、クィエントゥスの運命に翳りが差してきた。後継者のハドリアヌス帝は軍隊におけるクィエトゥスの人気を懸念し、その才能を自分にとっての危険と見なしたから、「将来のライヴァルを暗殺したのでは!?」と推測されている。

  ローマ帝国が東方に拡大するれば、政務官や軍人にオリエント出身者が増えるのも当然だ。特に、軍隊では血筋よりも実力が重視されるからシリア人とかスキタイ人が抜擢されても意外じゃない。クラウディス・バルビルス(Tiberius Claudius Balbillus Modestus)は、エジプトのアレクサンドリアに生まれたギリシア・アルメニア系エジプト人で、クラウディス帝によってローマ市民権を与えられたという。彼は皇帝ネロの時代にエジプト州の長官に就任した。ティベリウス帝によってローマ市民権を与えられたユリウス・アレクサンデル(Tiberius Julius Alexander)もエジプト出身者で、彼はユダヤ人の家庭に生まれ異例の出世を遂げた人物として有名だ。ただし、アレクサンデルはユダヤ人として育ったが、家族の信仰を棄てて世俗的な「ローマ人」になった。クラウディウス帝からユダヤの地を委託されると、プロコンスルの身分で管理者になったという。ちなみに、彼は哲学(神学)者として有名なアレクサンドリアのフィロン(Philo of Alexandria)の甥である。このフィロンはヘブライ語よりもギリシア語が得意なヘレニズム学者で、旧約聖書の研究では「七十人訳聖書(Septuagint)」を用い、ヘブライ思想とギリシア哲学を融合して研究に勤しんでいた。

  ちなみに、ユリウスの父親はアレクサンドリアの裕福な商人であった。たぶん、使徒パウロと同じ類いのユダヤ人なんだろう。新約聖書に書かれているけど、ローマ軍の千人隊長が連行された聖パウロを尋問した時、彼が「私は生まれながらのローマ市民です」と答えたから、この千人隊長は驚いた。なぜなら、当時、ローマ市民権は容易に取得することは出来なかったので、千人隊長は多額の金を払って市民権を得ていたのだ。(使徒行伝22章27節〜29節) 西歐系アメリカ人は不機嫌な顔になるけど、現在のアメリカも古代ローマと同じで、金銭を払えば公民権を取得できる。例えば、トランプ大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナーは裕福な支那人にアメリカ国籍を販売していたし、図々しい支那人になると、妊娠を伏せて入国し、カルフォルニアとかで赤ん坊を産んでしまうのだ。つまり、我が子を「産まれながらのアメリカ国民」にして、自分は赤ん坊の保護者となり、アメリカに永住できる、という訳だ。ユダヤ人はもっと悪質で、「避難民」という口実で入国したのに、いつの間にか国籍を取って「アメリカ国民」になっている。そして、こうした難民の2世、3世となれば「生まれながらのアメリカ国民」だから、まるで生粋のイギリス系アメリカ人のように振る舞い、「自分の国」と豪語する。まったく、骨の髄まで厚かましい !

  脱線したので話を戻す。有色移民が流入した歐米諸国と同じく、ローマ帝国の官僚機構は外人を多く雇っていた。特に、皇帝の官房に属する行政官にはギリシア人が多く、中には相当な「悪党(ワル)」も居たらしい。例えば、クラウディス帝が以前「奴隷」として抱えていたクラウディス・ナルキッスス(Tiberius Claudius Narcissus)だ。ナルキッススは主人の皇帝から解放され、文書管理を担当する皇帝直属の秘書官になっていた。クラウディウスはナルキッススをよほど信頼していたのか、この解放奴隷を暴徒鎮圧軍の指揮官に任命したし、後に法務官(執政官に準ずる役職 / praetor)の職すら与えていたのだ。(軍の兵卒達は、解放奴隷が指揮官となって現れたから、呆れるというか驚いたそうである。) ただし、この解放奴隷は性悪で、クラウディス帝の第三夫人たるメッサリーナ(Valeria Messalina)を抹殺しようと考えたのだ。なぜなら、夫人が自分に対して恨みを抱いているので、先手を打つことが急務であったからだ。ナルキッススはメッサリーナの不義密通を皇帝に伝え、躊躇う皇帝に囁いて夫人の処刑を決心させたという。

  それにしても、このメッサリーナ夫人というのは大胆というか、奸婦の性格を持っているのか、皇帝の妃なのに、既婚者である元老院議員のガイウス・シリウス(Gaius Silius)と恋仲になってしまったのだ。メッサリーナは彼にベタ惚れで、女房のユリアと別れるよう求めたらしい。以前、女優のアンジェリーナ・ジョリーが既婚者のブラッド・ピットを誘惑したけど、人間の行動は二千年経っても変わらぬようだ。野心家の女は恐ろしいもので、アンジーはブラットに対し、妻のジェニファー・アニストンと別れるよう囁き、彼女の魅力に負けたブラッドはジェニファーを棄ててアンジーと結婚。しかし、略奪婚というのは幸福のチケットにはならず、二人は実子をもうけたが、次第に関係は冷え込み、2016年に離婚が成立したという。

   亭主を寝取った皇妃も不幸な結末を迎えることになった。彼女はクラウディウス帝がオスティアに出張したのをいいことに、亭主の留守を見計らってガイウスと結婚してしまったのだ。オスティアへの視察から帰ってきた皇帝は、この重婚を知って激怒し、ナルキッススの勧め通り、メッサリーナを処刑することに決めたという。もちろん、姦通相手のシリウスにも極刑が下され、三途の川を渡る破目に。ナルキッススは皇帝の命令を受けたかのように振る舞い、近衛兵を皇妃のもとに遣わし、自殺するよう促した。しかし、メッサリーナは自殺することができず、近衛兵の刃で殺してもらったそうだ。皇帝の寵愛を受けた解放奴隷も、その権勢は長く続かず、4番目の皇妃になった小アグリッピナと反目したことで処刑されてしまった。彼女はナルキッススを公金横領で非難したが、本当はナルキッススが彼女の不貞を暴こうとしたから、「口封じ」となった次第である。アグリッピナは解放奴隷のパラスと肉体関係を持ち、この不倫がバレることを恐れたため、ナルキッススを逮捕して抹殺したのである。

  アグリッピナの愛人となったパラス(Marcus Antonius Pallas)は、アナトリア出身の解放奴隷で、クラウディス帝と後継者のネロに仕えて異例の出世を果たした。(元々、パラスは小アントニアが所有する奴隷であった。この小アントニアはユリウス・カエサルと覇権を競ったマーカス・アントニウスの娘である。) パラスは財務畑を歩み、その辣腕を振るったことで、3億セステルティウスの財産を築いたそうだ。(「セステルティウスsestertius」はローマ時代に使われた銀貨である。) ところが、彼は政争に巻き込まれ、皇帝を亡き者にしようとする転覆計画に係わったのでは、と疑われてしまう。しかし、セネカが弁護してくれたので、疑惑を解かれ無罪放免となった。しかし、皇帝ネロに仕えることは剃刀の上を歩くようなもので、絶えず命の危険に晒されている。案の定、パラスはネロの怒りを買ってしまい、あえなく処刑されてしまった。

  東ローマ帝国には異邦人の官僚が目立っていたけど、皇帝にも外人が現れるようになった。有名なのはセプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus)帝で、彼の母親はフルウィウス(Fulvius)氏族のローマ貴族であったが、父親はカルタゴのフェニキア人であった。現在のリビアにあるレプティス・マグナ(Leptis Magna)で育ったせいか、セウェルス帝は北アフリカで話されたポエニ語の方が得意で、カルタゴ訛りのラテン語を話していたそうだ。この混血皇帝は最初、レプティス・マグナ出身のパッキア(Paccia Marciana)と結婚したが、彼女が病死すると再婚相手を求めるようになった。鰥(やもめ)となった皇帝は、シリア人女性のユリア・ドムナ(Julia Domna)と出逢い、彼女と再婚して二人の息子をもうけた。これが後に共同皇帝となるカラカラ(Lucius Septimius Bassianus / Caracalla)とゲタ(Publius Septimius Geta)である。しかし、弟のゲタは支配欲に駆られたカラカラ帝によって殺されてしまう。

Severus 1Caracalla 01North African 4Obama ring 15


(左 : セプティミウス・セウェルス / カラカラ帝 / 北アフリカのベルベル人 / 右 : バラク・フセイン・オバマ )

  実際、カラカラ帝がどんな容姿の「ローマ人」なのか分からないが、たぶんエトルリア人やサビーニ人とは異なった外見の持ち主だろう。何しろ、血統的に見れば、ほぼフェニキア人とシリア人の混血児であるからだ。肉体が変化すれば、その精神が違ってきても不思議じゃない。シリア人の血を引くカラカラ帝は、ローマ人としての愛国心が希薄だったのか、帝国領土内に住む外人にローマ市民権を大盤振る舞い。アフリカ系大統領のバラク・フセイン・オバマを思い出せば分かるけど、外人みたいな支配者が君臨すると、国境や民族の壁が無くなってしまうようだ。オバマは南米からの不法移民に対し非常に優しかった。この大統領は侵入者を排除するどころか、逆に帰化への道を整えてやったくらいだ。それにしても、高利貸しの社員が配るポケット・ティッシュじゃあるまいし、誰にでも気軽に公民権を与えるなんて言語道断。馬鹿げている。

  コンスタンティノポリスに都を移したローマ帝国を調べてみると、現代のアメリカ合衆国が抱える問題の本質が分かってくる。なるほど、非ローマ人でも実力があれば立身出世ができるというのは素晴らしいことだ。しかし、その副作用として、共和政時代にローマ人が持っていた“一体感”は消え失せる。共和政の権化とも言えるキンキナートゥスやマーカス・カトーに呼応するローマ人と、皇帝に仕えるだけの新ローマ人とは根本的に違っているのだ。もし、ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソン、ジョン・ジェイ、ベンジャミン・フランクリンといった建国の父祖が現在のアメリカ社会を見たら、どんな感想を持つことか。今世紀に入ると、黒人のバラク・オバマが上院議員を経て大統領となったし、最近では茶色の上院議員であるカマラ・ハリスが副大統領候補だ。しかも、彼らを支援するのが、西歐人とは南米のメスティーソ(混血児)や黒人奴隷の子孫、中東アジアからやって来たムスリム移民ときている。国民の倫理・道徳も相当酷い。都市部では兇悪な有色人種がうろつき、髭面のゲイや赤いレズビアンが赤ん坊を養子に迎えている。ピューリタンの入植者が目にしたら、「ソドムかゴモラに来てしまったのか !」と勘違いするだろう。

Marcus Cato 1george Washington 2John Jay 21Thomas Jefferson 1

(左 : マーカス・カトー / 「キンキナートゥス」のイメージで作られたジョージ・ワシントンの彫像 / ジョン・ジェイ / 右 : トマス・ジェファーソン )

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68823851.html

11. 2020年12月12日 08:28:57 : eIoE9QZswE : VkQxbW1yT1RGa0U=[6] 報告
同じイタリアの作曲家でもモンテヴェルディの音楽とヴェルディやプッチーニの音楽が天と地ほで違う理由


ミラノとは北イタリアの厳しく寒い、霧の土地です。
ナポリやローマの地中海に面した温暖明媚な都会でもなければ海辺の町でもない。
そこにある空気はイタリア的というよりゲルマニアに近い。
https://womanlife.co.jp/topics/k-2734

イタリアでは一般的にミラノ、フィレンツェ、ヴェネチアがあるゾーンを北イタリア、
ローマの辺りを中央、ローマから下、ナポリ、シチリアのゾーンを南イタリアと言います。
イタリアは、南北に長い国なので場所によって気候や風習が大きく違います。
建物の雰囲気も南北では大きく違います。
イタリア人の中でも、「彼は南の人だから」とか「北の人だから」と会話に出てくるほど性格に違いがあり、
その違いは日本でいう東京と大阪の違い以上に顕著です。

南イタリア人は、まさに日本人がイメージするイタリア人像です。笑うのが大好き、ふざけるのが大好きです。
 
イタリア人は、家族や友達のつながりが強いのですが、南の人は特に強いつながりを持ちます。
また、近隣住民とのつながりも強く、家族のように振る舞います。
初めて会った人でもまるで旧友のように話し始めます。
それは、観光客であっても話し始めたら抱きしめてくれて旧友のように接してくれます。

北イタリアの人は、イタリア人のイメージと違い神経質で心配性な人が多いです。
友達や家族のつながりを大切にしながらも、自分の時間や空間を大切にします。働き者でもあります。

旅行で人とのふれあいを期待するなら南イタリア、建築物や芸術を楽しむ旅行には北イタリアが良いかもしれませんね。
個人的に仕事・住居・ショッピングは、北イタリア、食・バカンスは南イタリア
ただし、南イタリアの女性だけの旅はいろいろ注意も必要。女性のご旅行の際は2人以上での旅行にしてみては?

文:Maki.C(イタリア在住音楽家/翻訳家)
http://www.ryugakupress.com/2016/02/26/italian-4/


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イタリアの南北で分裂する!? 「イタリアの深刻な南北問題」
2018年2月メールマガジン
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/
Buon Giorno!

ボンジョルノ!
おはようございます!

フィレンツェ観光ガイドサービス&ブライダルフローレンス(海外挙式プランナー)
代表 片庭未芽(カタニワミメ)です。

2月後半に入りましたが、
イタリアはまだまだ寒い北風が吹く
寒い日が続いております。

なんと今週末は、
シベリアから寒波が入ってくるそうで、
フィレンツェでは滅多に降らない、雪の予報も。。。。!

さて、今日のメールマガジンのテーマは・・・・・

イタリアの南北で分裂する!? 
「イタリアの深刻な南北問題」

を取り上げてみました!

イタリアは日本と同じく、
南北に長い国土をしています。

日本と似ていて、周囲を地中海に囲まれています。
(日本は島国ですが、イタリアは半島です)

よくイタリア事情で耳にする
「南北問題」って聞いたことありますでしょうか?

簡単にいうと、

イタリアの北と南でかなりの
生活水準の格差があり
それが、分裂問題、または、人種差別

(地方差別というのが相応しいかもしれません)

にまで繋がっているのです。

特に、イタリアの本当の首都は
ローマですが・・・・

イタリアの経済の首都は
ミラノという、
北にあるイタリア経済を
支える大都市です。

ミラノに行くと、
イタリアンスーツをビシッと着て
ネクタイをしたビジネスマンが多く、
街も、とても綺麗。

特にファッション、モードの発祥地
と言われ、
ショッピング通りを歩いているだけで、
オシャレな「ミラノマダム」=セレブ
が闊歩しています。

(なんと釣れている犬まで
ヴィトンのリードをしていたり。。。。!!)

ミラノ、その近郊のトリノ、
自動車産業で有名なエミリアロマーニャ州などには、
イタリア全体を支えて行く
経済の街が集中しているのです。

ところが。。。。。

南イタリアを見てみましょう。

ローマは首都ではありますが、
経済としては

観光都市以外としては
特に際立ったものもなく、

街は、汚いし、盗難は多いし。。。。

さらにローマから南に行くと。。。

ナポリ、カラブリア、プーリア、シチリア。。。

ますます、「危険地区」とも言われる
ヤクザのアジトが多く存在する場所でもあります。

でも、外国人が考える

「陽気なイタリア人」
というイメージはまさに
南イタリアの人たちなのでは
ないでしょうか?

実は南イタリアでは
失業率が高く、
(働いていても、正式な契約ではなく、
全て、nero=黒い労働と言われて、
税金を払わない、日雇い労働)

物価は北イタリアよりも
安いのですが、
給料が安く、
(というか稼ぎがないので、生活もなかなか大変)

そのために、
若者は、南を拠点とする「ヤクザ」に
傾倒して行くので、
犯罪や薬物に染まって行く。。。

というのが南イタリアの状況なのです。。。。

結果、イタリアという国全体に何が起こるのかというと。。。

南イタリアの人は税金を払わないので、

(職が無いか、
Nero =税金無払いの職についているから)

結局、北イタリアの人が払っている高額な
税金は南にほとんどまわされる・・・・

= 北イタリアの労働者が重税に悩まされるが
それは、ほとんど、自分たちの街(北イタリア)には
反映されていない。

という悪循環が生まれるのです。。。。

実際、イタリアには、
LEGA NORD=北結束政党
というのが古くから存在し、
現在、かなり選挙では
有力だとも言われているのですが、
彼らのモットーは
「南北分裂」

「イタリアの北と南を分けよう!!」

そうすれば、

南イタリアに税金を回さずに、
北イタリア経済に恩恵をもたらすことができる
という目的を掲げているのです。。。

実際、北イタリア(特にミラノ)には、
南イタリアから移住した
住民が多いと言われます。

(南では、仕事がないので、
北に行って出稼ぎしているか、
そのまま、移住して、ミラノ生まれの子供達の世代が
今のミラノ人の中心となっている場合が多いのですが)

中でも、ミラノ言葉で
「sei proprio un mandarino」
「お前は、ミカンだね!」
という人を馬鹿にする言葉があります。

ミカン=南イタリアからくる果物:
南イタリア人のように、馬鹿だという意味

という、ひどい「人種差別と言っていい」
言葉があるくらいなのです。。。

やはり、ナポリ弁や、カラブリア弁を話していると
かなり学校でも馬鹿にされると言いますし。。。

ただ、イタリアは最近はもう、学校の中でも、
地方の差別というよりは、
外国人の生徒がかなり増えてきているので
そちらの差別の方がどうしても濃くはなっているようですが。。。

何年か前に、イタリア映画で
「benvenuto ai sud」=南へようこそ!

というお笑い系映画が流行りました。

北イタリアのエリートを目指していたサラリーマンが
突然、南イタリアに飛ばされるというストーリーで。。。

最初は、家族や周囲に、「死に別れ」当然のように見送られ、
防弾チョッキを着て、南に単身した主人公。

最初は、生活に慣れず、
南イタリアの方言も全く理解できず、
恐怖と不信感に悩まされ
1日も早くミラノへ帰りたいと
嘆きます。。。

ところが、徐々に、南イタリアの人々の
心の暖かさ、陽気さ、懐の深さ、
生活リズムのリラックス感

何よりも素晴らしい自然と美しい海、そして美味しい食事。。。など

に主人公は気がついていき、

結局は彼は南の素晴らしさを発見することになるという
ストーリーなのです。。。

イタリアというのは、
地方色がとても強い国だと思いますが、
それ全てを合わせて、
多種多様の民族が
昔から、混じり合い(古代ローマ帝国時代から)
お互いに共有し、影響しあい、発展してきた国です。

人って違うからこそ、「素晴らしい」と思いませんか?

イタリアという国の素晴らしさはそこにあると思います。

北から、南から「本当にイタリアという国は、行く街、
会う人、全然特徴が違う!」

だから何度訪れても興味深い国

:それがイタリアの良いところだと思っています。

来月の3月の選挙では、
このleganord レーガノルド :南北分裂を掲げている政党が
勝たないことを祈るばかりです。。。。
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/


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イタリアの惨状に心が痛む 2020 MAR 24 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/03/24/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%83%A8%E7%8A%B6%E3%81%AB%E5%BF%83%E3%81%8C%E7%97%9B%E3%82%80/

イタリアはドイツ人にとって永遠の憧れの地である。かのゲーテもアルプスを越えるとわくわくした。僕の部下たちもお客さんも、ドイツでは渋面を作っているがあっち側へ行くと人が変わったように明るくなった。
何度イタリアへ行っただろう。まずは仕事で、チューリヒから車を飛ばせばゴッタルド・トンネルを抜けてイタリア語圏のルガノへ1時間ちょっとで着いた。そこからコモ湖を経てミラノは1時間だからぜんぜん外国という気がしない。観光、買い物、オペラ、スキー、ゴルフ、サッカーなどの「不要不急」も入れれば2〜30回ぐらいだろうか。

クルーズ船もヴェネチア、ジェノヴァから乗った。最初は35年前。東洋人は我々夫婦だけで、余生でもう一度だけ外国旅行するなら地中海クルーズがいいと思う程楽しくイタリアには特別の思いがある。子供たちが結婚記念日にクルーズのチケットをプレゼントするよと言ってくれたその矢先にコロナ禍が襲ってきてしまったが、残念より何より凄まじい勢いの感染による惨状には心が痛むばかりである。

あの国は財政が苦しいから中国の一帯一路に飛びついたのはわかるし、それがこんな厄災につながろうとは誰も想像しなかった。北部に住みついた中国人労働者が春節でウィルスを持ち帰ったのを遮断しなかった初動の問題はあるが、日本も武漢の閉鎖前の対中国の水際対策のユルさは似たもの同志だ。そのうえにこっちはD・プリンセス号の数字もあるのだから日伊の被害の差は驚くしかない。こんなに失敗してるのになぜ数字が少なくて済んでるんだろう?

統計では示せないが、日本が今のところイタリアのようになっていないのは何よりも、清潔好きという国民性の寄与が非常に大きいと思う。ドイツ人もそうなのだが、それは主婦がテーブルや食器やドアのノブをぴかぴかに磨きカーテンの裾を微塵も汚さないことにプライドをかけて執着するという感じであってちょっとちがう。公衆トイレにまでウォッシュレットがあり、バスタブで頻繁に入浴し、普段からうがい・手洗いが当たり前という身体的な潔癖さという面では日本人に勝る民族はないように思うがどうだろう。

それがイタリア、フランス、スペインのラテン系の人たちとなるとさらに我々とは遠い。例えばハグだ。日本ならカラオケで盛り上がれば社員とのコミュニケーションはOKだが彼らはそれだけではいけない。見ているとやっぱりポイントは締めのハグであり、女性なら両のほっぺにチュチュぐらいは当然というか、場面によってはしないと失礼の雰囲気すらある。酒の勢いではなく立派な文化なのであって、例えばコンチェルトが終わって女性ピアニストに指揮者がしているあれだ。濃厚接触などというも野暮であるが、そうはいっても物理的には濃厚接触以外の何物でもない。

幸か不幸か柄でない僕はハグもキスもまったく不得手でつまんない堅物と思われてたろうが、そのかわりというのもなんだが潔癖症であり、例えばプールサイドの濡れた箇所を歩くのが猫なみに生理的に嫌いである。不潔に感じて気持ちが悪く、おかげで泳ぎは今もさっぱりだ。盃や茶器の回し飲みもウィルスの交換に思えて御免である。電車の吊革はコロナ以前から触らないし、仕方なければ小指と薬指でつかむ。やたらと初対面で握手する西洋の風習に慣れるにも時間がかかった。でも、ここまでではなくともこういう日本人は結構いるのではと思う。空気感染もあるコロナがそれで大丈夫とは思わないが、真逆の性格の人よりは餌食になりにくいだろうとは思う。

いまのところ感染者も死亡者も多くないのは日本人の潔癖さと生真面目な用心深さによるところが大きいというのが私見だ。日本だけ薬があるわけでも、特別な医療があるわけでも、日本人だけ抗体があるわけでも何でもない。まして政府が他国より群を抜いて良い手を打ったわけでも資質において優秀なわけでもまったくない。
いまだウィルスに「丸腰」状態なのはイタリアと変わらず、都市封鎖までして約3248人(3月20日現在)が死亡して「地獄」と化した武漢みたいになる可能性は全然消えていない。何度も書くが、桜が咲いて気が緩み、学校閉鎖が解けてなにか事は済んだようなユルい空気が広がると危険で、不顕性キャリアが増えて一気に感染者が増えるオーバーシュートになると医療限界を超えてイタリアの二の舞になる可能性は十分にある。

潔癖さと生真面目な用心深さが緩んだら終わりだ。人の噂も七十五日とはよくいったもので、株式市場を見てると確かに日本人は2か月半で物事を忘れる傾向がある。1月半ばから始まったコロナ騒動は、3月末でそれを迎える。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/03/24/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%83%A8%E7%8A%B6%E3%81%AB%E5%BF%83%E3%81%8C%E7%97%9B%E3%82%80/

12. 2021年6月09日 13:47:40 : 7yttxBnFTc : U1o3RXhZZ2pndkE=[20] 報告
雑記帳
2021年06月08日
イタリア北部の16000年前頃の人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_8.html


 イタリア北部の16000年前頃の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究(Bortolini et al., 2021)が公表されました。イタリアのヴェネト州のリパロ・タグリエント(Riparo Tagliente)遺跡は、南アルプス山脈の斜面における人類居住の最初の証拠を表しますが、この地域で主要な氷河が交代し始めたのは17700〜17300年前頃なので、この時期の人類の移動の影響に関する疑問を解決するのに重要です(図1A)。以下は本論文の図1です。
画像

 リパロ・タグリエント遺跡の標本抽出された個体の生物学的背景を評価するため、人類学的および遺伝学的分析が行なわれました。局所的なセメント質骨異形成症が見られる左側下顎骨(図2)は、その年代と、部分的に保存された埋葬から発掘された頭蓋後方の遺骸(タグリエント1号)との同時代性を独自に確認するため、直接的に年代測定されました。このタグリエント2号(Tagliente2)遺骸の左側第一大臼歯(LM1)の歯根の直接的な放射性炭素年代は16980〜16510年前(以下、年代は基本的に較正されています)で、文化区分では後期続グラヴェティアン(Late Epigravettian)と確認されました。これは、タグリエント1号の16130〜15560年前と近く、同じ文化背景となります。以下は本論文の図2です。
画像

 下顎および歯から採取された5点の標本でDNAが抽出され、X染色体と常染色体の網羅率の比率からタグリエント2号は男性と推定され、これは形態学的分析と一致します。タグリエント2号のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2'3'4'7'8'9で、他にもヨーロッパの旧石器時代の個体で見られ(図3A)、15500年前頃のリグニー1(Rigney 1)洞窟の個体および13000年前頃のパグリッチ・アクセッソ・サラ(Paglicci Accesso Sala)の個体により共有されています。タグリエント2号のY染色体ハプログループ(YHg)はI2a1b(M436)で、14000年前以前のヨーロッパにおけるYHgの多様性の大半を占めていました(図3B)。この期間の年代測定されたほんどの標本は、単一のmtHg-U5bおよびYHg-I2の系統に分類され、単一の創始者人口集団から拡大した、と推定されています。以下は本論文の図3です。
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 人口集団の観点から、外群f3距離(図4A)に基づくMDS(多次元尺度構成法)分析が実行され、タグリエント2号はより広範なヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の範囲内に収まると明らかになり、以前に報告された14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるクラスタとの類似性が示されます。このヴィラブルナ集団は、少なくとも14000年前に以前のヨーロッパ狩猟採集民をほぼ置換した個体間の遺伝的類似性に基づいて定義されています(関連記事)。

 ヴィラブルナ集団は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)やチェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群など、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)までヨーロッパに存在していた狩猟採集民集団からの遺伝的寄与の痕跡を殆どもしくは全く示しません。ヴィラブルナ・クラスタを定義する特徴の一つは、それ以前の旧石器時代ユーラシア西部人により示される遺伝的構成要素よりも、近東集団とのより高い類似性です。

 f4検定でも、タグリエント2号がヴィラブルナ・クラスタと遺伝的特徴を共有しており、それ以前のヨーロッパ狩猟採集民の遺伝的背景との不連続性が確認されました。タグリエント2号とXとYとムブティ人によるf4検定で、この観察結果がさらに調べられました。Yは対象集団、Xは14000年前頃のヴィラブルナ個体もしくは13700年前頃のビション(Bichon)遺跡個体もしくは中石器時代となる11900年前頃のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民です(図4B)。

 遺伝子型決定戦略(キャプチャ法のヴィラブルナ個体とショットガン法のビションおよびコンティネンツァ個体)による潜在的な偏りを制御するため、独立したWHGの3標本が選択され、データを比較するとじっさいに小さな不一致が見つかりました。この影響を最小限に抑えるため、ショットガンの結果の解釈に重点が置かれました。タグリエント2号と比較した場合、ヴィラブルナ個体やイベリア半島狩猟採集民など後のWHGとのコンティネンツァ個体とビション個体の遺伝的類似性は高く、これは、タグリエント2号のより古い年代により説明できるか、コンティネンツァ個体とビション個体が少なくとも14000年前頃までにヨーロッパ中央部に到達した祖先系統とより密接であることで説明できるかもしれません。

 あるいは、より新しいWHG標本群の間で現れるより高い類似性も、新たに到来したタグリエント2号に代表される個体群と、先住のドルニー・ヴェストニツェもしくはGoyet Q116-1的な遺伝的集団との間の、その後で起きた混合に起因するかもしれません。これは、ルクセンブルクの中期石器時代となる8100年前頃のロシュブール(Loschbour)遺跡個体ですでに報告されています。次に、タグリエント2号の系統樹内の位置がモデル化され、ヴィラブルナ系統内に収まると明らかになり、以前の結果が確認されます。以下は本論文の図4です。
画像


 本論文では、イタリア半島北部における早くも17000年前頃となるヴィラブルナ構成要素の存在が、ゲノムと片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)と年代測定の証拠により裏づけられました。17000年前頃には、この地域も含めて大きな文化移行が起きました。続グラヴェティアンの前期から後期への移行は急激ではなく、アドリア海とティレニア海の間の地域化および環境/文化的違いの出現にも関わらず、人工物の様式や石器縮小戦略の相対的頻度、原材料獲得と居住パターンの変化が、17000年前頃以降に記録されています。14000年前以後、幾何学的細石器への依存度の高まり、線刻や着色された骨、線形や幾何学模様や動物や擬人化を描いた石のより強い存在により、もっと顕著な不連続性が証明されます。

 続グラヴェティアンの前期から後期の移行は、アルプス山脈の氷河が26000〜24000年前頃に最大に達した後の顕著な後退、および16500年前頃以降の海面の急速な上昇とほぼ同時です。これらの過程は、アルプス山脈の地形に大きな変化をもたらし、大アドリア海・ポー平原の広範な表面を安定させました。アルプス山麓の急速な森林再拡大は17000年前頃に始まり、それは15000〜13000年前頃となるボーリング-アレロード(Bølling-Allerød)間氷期の温暖化のずっと前でした。アルプス山脈の麓は、開けた植生が遠方で発達した間、カバノキとカラマツのある(開けた)松林となりました。

 LGM末には、局所的な動物の利用可能性は限定的で、ほぼ開けた環境に適応した種で構成されており、そうした環境では、アルプスの野生ヤギのアイベックス(Capra ibex)やリス科のマーモット(Marmota marmota)のように温暖化する亜間氷期により高い場所に移動するか、好適な微気候の地域に退避することにより、最適な気候条件を見つけられました。ヨーロッパ中央部のほとんどの寒冷適応の大型動物種は、LGM開始の前にスロベニア回廊を通ってイタリア半島北部へと侵入しており、これはアドリア海全域で獲物を追って居住したグラヴェティアン期狩猟採集民と同じです。

 LGMにおいては、これら大型哺乳類の新たな到来と北方への移動の両方が妨げられ、それらは局所的に消滅するか、短いLGM亜間氷期と関連して絶滅しました。たとえば、ホラアナグマは24200〜23500年前頃に絶滅しました。寒冷期の森林被覆の減少は、ポー平原の中核地域とベリチ丘の両方における、アイベックスやヤギ亜科のシャモア(Rupicapra rupicapra)やマーモットの存在により確認されます。同じ地域では、考古学的記録が、現在では北半球の高緯度地域でのみ見られる旧北区の鳥の存在を示しています。

 まとめると、本論文の結果は、相互に排他的ではないものの、二つの異なるシナリオを支持します。一方は、LGMおよびその直後に地中海とヨーロッパ東部をつなぐ退避地の広範なネットワークを含みます。このネットワークは、黒海からイベリア半島に至る文化的および遺伝的情報両方の段階的な交換を通じて、長距離の伝播を促進した可能性があります。現時点では利用可能な証拠で検証できないこのシナリオは、標本の年代、その場所、比較的豊富な近東現代人と共有されるヴィラブルナ遺伝的構成要素との間の関係を予測するでしょう。文化的観点からは、ヨーロッパ南部における前期および後期続グラヴェティアン物質文化の発展は、急速で千年規模の気候事象によっては直接的には駆動されず、人口移動を伴わない収束と局所的適応と文化的融合から生じた可能性があります。この場合、遺跡間の距離も石器群の類似性を予測するでしょう。

 もう一方のシナリオは代わりに、人口移動と置換、より急速な遺伝的交替、地理的勾配では充分に予測されない遺伝的および文化的両方の類似性の分布を示唆します。この人口集団の変化はLGMに起きた可能性があります。つまり、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolni Vestonice)遺跡で発見された1個体のような遺伝的構成要素がまだイタリア南部のオストゥーニ(Ostuni)に存在した27000年前頃以後から、17000年前頃以前のことです。ヴィラブルナ系統を有する集団は、スロベニア回廊と海面の低下したアドリア海の沿岸を用いて、ポー平原までのイタリア半島アドリア海地域に居住し、その後ようやくアルプス山脈前方の渓谷に再居住したかもしれません。このモデルによると、27000年前頃以後、イタリア半島およびその後でのみ現在のフランスやスペインで見つかる遺伝的系統は、ヴィラブルナ・クラスタと、mtHg-U2'3'4'7'8'9および/もしくはYHg-I2・R1aに分類される片親性遺伝標識系統のどちらか、もしくは両方を示すはずです。このモデルによると、続グラヴェティアン全期でイタリアにおいて記録された文化的変化は、少なくとも一部は人口集団の置換と関連する過程により引き起こされた可能性があります。

 文化的観点から、利用可能な考古学的記録の偏った時空間的分布は、これら二つのモデル間の直接的識別に用いることはほとんどできず、イタリア半島全域の後期続グラヴェティアン開始の根底にある時間的動態には依然としてかなりの不確実性があります。18000〜17000年前頃以降、ヨーロッパ南西部におけるソリュートレアン(Solutrean)からマグダレニアン(Magdalenian)への物質文化移行と、ローヌ川からロシア南部平原にいたる広大な地域における続グラヴェティアンの前期から後期への物質文化移行の証拠があります。環境圧力はLGMにおける大型動物の移動を条件付け、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部をつなぐ回廊への人類集団の移動を制約しました。

 この期間に、ヨーロッパ南部の人類集団はヨーロッパ中央部および北部の他地域と比較して、限定的な生態学的危険性に曝されていました。イタリア南部のプッリャ州(Apulia)のパグリッチ洞窟(Grotta Paglicci)出土の個体群のストロンチウム同位体組成の変動は、グラヴェティアンと前期続グラヴェティアンの狩猟採集民間の居住移動性パターンと適応的戦略の顕著な変化を示します。気候変化のあらゆる背景となる証拠が欠如していることを考えると、これらの違いは文化的要因が理由で、続グラヴェティアンの初期段階ですでに起きていたかもしれない人口集団置換と関連している可能性があります。

 他方、イタリア半島とバルカン半島との間の人工物様式の分布における類似性は、東方・スロベニア経路でのヨーロッパ中央部からの技術複合拡大の可能性を裏づけ、続グラヴェティアン狩猟採集民の長距離移動性を示唆します。しかし、同じパターンは、社会的ネットワーク仮説を支持して、この見解に異議を唱えるのに用いられてきました。バルカン半島とイタリア半島の状況の間の類似性は、グラヴェティアン期から中石器時代まで記録されており、接触には、石材や海洋性軟体類や装飾品のビーズや粘土の小立像や装飾モチーフや石器技術が含まれます。同時に、人類の移動・相互作用の代理としての、有鋌石镞(shouldered points)など一部の文化的指標の信頼性が、最近では疑問視されています。

 片親性遺伝標識は、この提案された二つのシナリオの解明に役立つ可能性があります。確かな遺伝的および年代的根拠に基づいてヴィラブルナ・クラスタに区分される標本の大半(図3)は、mtHgとYHgの限定的な数の系統を共有しています。片親性遺伝標識のヴィラブルナ系統内での多様性低下は、ネットワークを中断するボトルネック(瓶首効果)、もしくは人口集団移行のより広範なシナリオにおける創始者事象と一致します。この片親性遺伝標識は、アドリア海全域の切れ目のない文化的交換、および東方のゲノム構成要素との増加する類似性と組み合わされて、遺伝的置換を本論文の結果への最も可能性の高い説明とします。

 ヴィラブルナ母系内の18500年前頃となるパグリッチ系統の存在からは、イタリア半島南部における18500年前頃もしくはそれ以前の創始者事象と、氷河後退の始まりにおけるイタリア半島北部での後の拡大が主張されます。この観点から、タグリエント2号は南アルプス地域にほぼ居住していたと考えられ、その基底部のmtDNA系統を説明します。南方回廊を通じてのヨーロッパ東西間のより早期のつながりの可能性は、拡大LGMネットワークの形態、もしくはヨーロッパ西部におけるヴィラブルナ的個体群の早期の到来として、ゴイエット2(Goyet-2)的祖先系統とヴィラブルナ・クラスタと関連する祖先系の混合を示す、イベリア半島北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の18700年前頃の個体によっても裏づけられます(関連記事)。

 この新たな遺伝的シナリオの最も節約的な解釈からは、LGM末からヤンガードライアス末(11700年前頃)にかけてヨーロッパ南部で観察される累積的な文化的変化は、少なくとも部分的には、南東部の退避地からイタリア半島への遺伝子流動により引き起こされた、と示唆されます。この過程はその初期段階およびアルプス山脈以南では、後のボーリング-アレロード事象とは独立しており、イタリア半島全域およびそれ以外でLGM以前の祖先系統の漸進的な置換に寄与しました。しかし、この仮説を検証するには、27000〜19000年前頃のヨーロッパ南部のさらなる遺伝的証拠と、イタリア半島と人口移動の推定起源地との間の文化的類似性の分析が必要となるでしょう。

 結論として、タグリエント2号は全てのヨーロッパ人の遺伝的背景に強く影響を及ぼした主要な移動が、以前に報告されていたよりもかなり早くヨーロッパ南部で始まり、LGMの最盛期後の寒冷期にはすでにヨーロッパ南部で起きていた、という証拠を提供し、それはおそらく氷河の段階的縮小とボーリング-アレロード期の急速な温暖化に先行する森林拡大により支持されます。この段階で、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部およびアジア西部は、LGMにおける潜在的退避地の同じネットワークへとすでに接続されており、遺伝的および文化的両方の情報を交換し、観察された人口集団置換の基礎を示します。この知見は、ヨーロッパ南部の同時代の物質文化の経時的変化における妥当な人口構成要素に関する以前の議論をさかのぼらせ、この過程を続グラヴェティアンの前期と後期の移行期に時間的に位置づけますが、あるいはその過程は続グラヴェティアンの最初期に位置づけられる可能性さえあります。


参考文献:
Bortolini E. et al.(2021): Early Alpine occupation backdates westward human migration in Late Glacial Europe. Current Biology, 31, 11, 2484–2493.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.03.078


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_8.html

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