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チベット人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/273.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 15:41:40: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中国人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 11:23:14)

チベット人の起源


雑記帳 2020年07月18日
複数集団の混合により形成された現代チベット人
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html

 現代チベット人の起源に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。本論文はやや長いので、まず要約を述べます。考古学的研究では、チベット高原における人類の存在は16万年前頃までさかのぼり、これは非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)です。現生人類(Homo sapiens)では4万〜3万年前頃までさかのぼります。しかし、チベット高原の過去の人類の移動は、現代人および古代人のDNA研究において初期段階に留まっています。

 本論文は、3017人の旧石器時代から現代のユーラシア東部人のゲノムで、最初となる古代および現代のゲノムメタ分析を実行しました。3017人の内訳は、チベット高原のウー・ツァン(Ü-Tsang)地域とアムド(Ando)地域とカム(Kham)地域の98人のチベット人を含む183集団2444人の現代人と、573人の古代人です。分析の結果、古代および現代の高地チベット人と、低地島嶼部および沿岸部の新石器時代アジア東部北方人との間の、より密接な遺伝的つながりが特定されました。これは、高地チベット・ビルマ語族の主要な系統の起源が、黄河中流および下流域の後李(Houli)文化と仰韶(Yangshao)文化と龍山(Longshan)文化関連集団にあることを反映しており、シナ・チベット語族の共通する中国北部起源および雑穀農耕民の拡散パターンと一致します。

 チベット人と低地アジア東部人との間の共有されたアジア東部北方系統はありますが、チベット高原高地人と低地アジア東部北方人との間の遺伝的分化も識別され、前者はより深く分岐したホアビン文化(Hòabìnhian)およびアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人関連系統を有しており、後者はより多くの新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人関連系統を有しています。これは、現代および新石器時代のアジア東部高地人における、旧石器時代と新石器時代の両系統の共存を示唆します。

 ウー・ツァンとアムドとカム地域のチベット人は、その文化的背景および地形(人類の移動にとって障壁となります)と一致する、強い集団階層化を示します。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより強いネパールのチョクホパニ(Chokhopani)文化集団との類似性と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部系統と、カム地域チベット人におけるより大きな新石器時代アジア東部南方人系統です。また、チベット高原の過去における人類移住の複数の波も明らかになりました。斉家(Qijia)文化農耕民と混合した在来の狩猟採集民の第1層から、チョクホパニ文化集団関連の先チベット・ビルマ語族が派生し、ユーラシア西部草原地帯と黄河と長江からの追加の遺伝子流動により、それぞれ現代のアムド地域とウー・ツァン地域とカム地域のチベット人が形成されました。


●先行研究

 チベット高原は平均標高が海抜4000mを超え、通年の低温・極度の乾燥・低酸素など、人類にとって最も厳しい環境の一つです。しかしチベット高原には、現生人類が拡散してくるずっと前の16万年以上前に、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が存在していました(関連記事)。その後、4万〜3万年前頃までには現生人類がチベット高原に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。また、言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。現在、700万人以上の先住チベット人がチベット高原に居住しており、低酸素環境に適応しています。低酸素環境である高地へのチベット人の適応には遺伝的基盤があり(関連記事)、その中にはデニソワ人由来のものがある、と推測されています(関連記事)。チベット高原の人類史研究の問題点は、アジア東部の他地域と比較して発掘された遺跡が少ないことです。

 現在まで続く問題として、初期人類がチベット高原へどこからどのように移住してきたのか、現代チベット人の祖先は誰なのか、といったことが挙げられますが、考古学・古人類学・遺伝学はまだこの問題に対して充分に答えられません。上述のように、考古学的証拠から、デニソワ人が16万年以上前に、現生人類が、4万〜3万年前頃までにチベット高原に存在していた、と示されています。ゲノム解析からは、現生人類が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前にチベット高原に存在した、と提案されており、現代チベット人における上部旧石器時代住民の遺伝的痕跡は、チベット高原における最初の住民と現代チベット人との間のある程度の遺伝的継続性を示唆します。先史時代ヒマラヤ集団の遺伝的研究からは、ヒマラヤ最初の住民は高地アジア東部人起源との証拠が得られており、チベット高原における新石器時代よりも前の人類の活動が間接的に示唆されます。

 チベット高原における人類の居住に関して、後期更新世の狩猟採集民の場合とは対照的に、永続的な居住の時期と様相に関しては議論が続いています。考古学およびゲノム解析からは、チベット高原における永続的な定住は、農耕・牧畜の確立と一致する比較的最近の事象と推測されています。チベット高原でも標高2500m以上で農耕が始まったのは、耐寒性のオオムギが導入された3600年前頃以降と推定されており(関連記事)、永続的な定住はそれ以降ではないか、というわけです。チベットの羊の包括的なゲノム調査では、唐柏(Tang-Bo)古道を通じてのヒトの段階的な居住パターンが明らかになり、3100年前頃には中国北部からチベット高原北東部へ、1300年前頃にはチベット高原北東部からチベット高原南西部へと拡大した、と推測されています。しかし、耐寒性のオオムギと家畜を誰がチベット高原に導入したのか、また在来の狩猟採集民は拡散してきた農耕民とどのように相互作用したのか、まだ不明です。

 考古学では、拡散してきた農耕民は在来の狩猟採集民を置換したわけではなく、2集団が長期間共存した、と示されています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析と放射性炭素年代からは、雑穀農耕民が3600〜3300年前頃にチベット高原へとオオムギ農耕を採用して導入し、同時代のチベット人はその胃全摘痕跡を新石器時代雑穀農耕民にたどれる、と推測されています。他の高地集団とのゲノム比較からは、チベット人は複数祖先の遺伝子プールの混合で、旧石器時代と新石器時代の系統が共存している、と結論づけられています。

 まとめると、チベット高原の人類集団に関する先行研究では、中期更新世の到来と旧石器時代における居住、新石器時代の永続的な定住の理解が深められつつあります。しかし、以前の考古学的調査のほとんどは、海抜4000m以上となるチベット高原北東部におもに焦点を当てており、チベット高原の古代標本の欠如とアジア東部の古代人の包括的分析がなされていなかったことは、時空間的に分散したアジア東部古代人と現代チベット人の接続を妨げました。したがって本論文は、チベット高原の現代および古代人と周辺の低地ユーラシア東部人の遺伝的多様性をメタ分析し、アジア東部高地人と参照される世界規模集団との間の系統的関係を調査します。アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体群と現代チベット人のゲノム規模データを分析することにより、チベット高地住民の遺伝的移行・置換もしくは継続性・祖先の構成・人口史に焦点が当てられます。


●古代および現代チベット人とアジア東部北方集団との遺伝的類似性

 チベット高原の11地域から現代人98人のゲノム規模データが収集されました。地理的内訳は、チベット自治区5ヶ所、青海省(Qinghai)が2ヶ所、甘粛省(Gansu)が1ヶ所、四川省(Sichuan)が2ヶ所、雲南省(Yunnan)が1ヶ所です。さらに、他のアジア東部の古代人および現代人のデータが統合されました。現代人では、アルタイ諸語、シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、タイ・カダイ語族です。古代人では、ネパールからは、3150〜2400年前頃のチョクホパニ(Chokhopani)、2400〜1850年前頃のメブラク(Mebrak)、1750〜1250年前頃のサムヅォング(Samdzong)という異なる3文化期の8人(関連記事)、黄河とアムール川と西遼河流域の48人、曇石山(Tanshishan)文化など中国沿岸南東部や台湾の58人です。これらのゲノムデータは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)で提示されました。また、新石器時代から青銅器時代もしくは鉄器時代のアジア南西部とシベリア集団も、包括的な分析のいくつかで用いられました。

 現代チベット人と新石器時代から歴史時代のアジア東部人は全員、ユーラシア人の主成分分析では第2構成に沿った遺伝的勾配で集団化されます。アジア東部人の遺伝的多様性に焦点を当てて、アジア東部とアジア南東部島嶼部および大陸部の現代人106集団の遺伝的多様性に基づき、アジア東部人の主成分分析が構築されました(図1B)。アジア東部現代人は、4つの遺伝的勾配もしくはクラスタに集団化されます。それは、アジア北東部集団で構成されるモンゴル・ツングース遺伝的勾配、オーストロアジア語族とオーストロネシア語族とタイ・カダイ語族とミャオ・ヤオ語族から構成される中国南部・アジア南東部遺伝的クラスタ、中国関連の北部から南部への遺伝的勾配、チベット・ビルマ語族クラスタで、言語区分および地理的領域と一致します。

 チベット人は集団化され、中国北部のモンゴル語族およびツングース語族のいくつか、北部漢人、他の低地チベット・ビルマ語族と比較的密接な関係を示します。チベット人の下部構造に焦点を当てると、標本抽出場所の地理的位置と一致する、異なる3下位クラスタが観察されます。本論文では、高地適応チベット人もしくはウー・ツァン(Ü-Tsang)チベット人クラスタ、チベット高地北東部の甘青(Gan-Qing)もしくはアムド(Ando)遺伝的クラスタ、低地南東部遺伝的クラスタもしくはカム(Kham)チベット人と呼びます。ウー・ツァン地域クラスタはラサ(Lhasa)とナクチュ(Nagqu)と山南(Shannan)とシガツェ(Shigatse)、アムド地域クラスタは循化(Xunhua)と剛察(Gangcha)と甘南(Gannan)、カム地域クラスタはチャムド(Chamdo)と新竜(Xinlong)と雅江(Yajiang)と雲南(Yunnan)で構成されます。

 次に、古代人集団とアジア東部現代人との間の遺伝的類似性パターンが調べられ、243人の古代ユーラシア東部人が上述の現代人集団の遺伝的関係のパターンに投影されました。これは、アジア東部の現代人および古代人のゲノムに関する、最初の包括的なメタ分析となります。その結果、古代人4集団の遺伝的クラスタが明らかになりました。まず、台湾と福建省の後期新石器時代個体群を含む新石器時代から歴史時代のアジア南部人で、現代人ではタイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族とクラスタ化します。

 第二に、新石器時代から青銅器・鉄器時代のアジア東部北方人で、後李)文化・仰韶文化・龍山文化・斉家(Qijia)文化と、沿岸部および内陸部の個体群を含み、アジア東部の主要な3遺伝的系統と漢人の最北端との接点近くで集団化します。このクラスタは、主要な生存戦略が狩猟採集と関連する前期新石器時代の山東省の後李文化集団と、河南省に近い中期〜後期新石器時代の仰韶および龍山文化農耕民との間で密接な遺伝的関係が観察され、前期新石器時代の中国北部における狩猟採集から雑穀農耕への移行の遺伝的継続性が示唆されます。また、これらの中国北部の新石器時代から鉄器時代の個体群の微妙な遺伝的違いも識別されました。山東省の後李文化集団は、現代モンゴル語族のバオアン(Baoan、保安)人やツー(Tu)人やユグル(Yugur)人やドンシャン(Dongxiang)人と近い一方で、前期新石器時代の河南省の小高(Xiaogao)個体群は、現代ツングース語族のホジェン(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)人やシーボー(Xibo)人の近くに位置づけられます。山東省新石器時代の全集団は、山東省の現代漢人からは離れて位置し、現代中国北部少数民族の方へと移動しています。これは、現代の北方漢人が、アジア東部南方の祖先系統から追加の遺伝子流動を受けたか、新石器時代の後李文化個体群がより多くのシベリア関連祖先系統を有していたことを示唆します。河南省の、後期新石器時代の龍山文化集団と、青銅器時代・鉄器時代個体群は集団化し、漢人の遺伝的勾配の方へと移動しており、部分的に山西省と山東省の漢人と重なりました。これは、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)のアジア東部北方人の遺伝的類似性を示し、中国文化の各地域における遺伝的安定性を示唆します。中期新石器時代となる河南省の仰韶文化集団は、陝西省楡林市靖辺県五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団の何人かと集団化し、より北方の現代少数民族へと移動します。山西省や内モンゴル自治区や黄河上流のより内陸に位置する中期〜後期新石器時代のアジア東部北方人はクラスタ化し、現代チベット人およびネパールの高地に適応した祖先系統へと移動して、部分的に現代の地理的に近いチベット人と重なり、ネパールの古代人と密接な遺伝的類似性を示します。

 第三に、西遼河の古代集団です。この西遼河古代集団では、遺伝的類似性の異なる3パターンが識別できます。北方クラスタは、シベリアのシャマンカ(Shamanka)とモンゴルの新石器時代個体群と遺伝的類似性を示します。中期紅山(Hongshan)文化クラスタは、モンゴルの少数民族と剛察の現代チベット人との間に位置します。夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体など北方クラスタに関しては、草原地帯牧畜民と関連するモンゴル高原北部新石器時代個体群と、黄河流域雑穀農耕民の両方が、西遼河流域における後期新石器時代とその後の集団形成に加わった、と示唆されます。南方クラスタの後期新石器時代個体群は、アジア東部北方の沿岸部前期新石器時代個体群と、内陸部の新石器時代仰韶文化および龍山文化個体群との間に位置し、黄河中流および下流域(河南省と山東省)の雑穀農耕民が、内陸部および沿岸部両方の北方への集団移住により、紅山文化集団もしくはその子孫の形成に重要な役割を果たした、と示唆されます。

 第四に、モンゴル高原とロシア極東とバイカル湖地域とアムール川流域の古代集団です。これらには新石器時代から青銅器時代までの46人が含まれ現代ホジェン人およびウリチ(Ulchi)人と、モンゴル語族の一部との近くでクラスタ化します。日本列島の「縄文人」は集団化し、現代日本人からはずっと離れており、ロシア極東沿岸部新石器時代個体群と台湾の漢本および新石器時代アジア東部南方(現在の福建省)沿岸部個体群との中間に位置します。

 主成分分析では、現代チベット人と古代ネパール人集団と現代・古代のアジア東部人とシベリア人との間のゲノム類似性が明らかになりました。遺伝的構造と対応する集団関係をさらに調べるため、系統構成とクラスタパターンが推定され、アジア東部の主要な2系統が観察されました(図1C)。沿岸部アジア東部北方系統は、新石器時代シベリア人と現代ツングース語族で最大化されました。また沿岸部アジア東部北方系統(黄緑色)は、高い割合を有する山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人と同様に、中国北東部とロシア極東の青銅器時代から現代の集団にも存在します。他の沿岸部アジア東部北方系統は、現代高地チベット人と後期新石器時代の斉家文化関連集団において多く見られ、ネパールの青銅器時代から歴史時代の個体群および古代アジア東部北方人でも最大化し、それは現代低地シナ・チベット語族、内陸部のミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族でも同様です。本論文はこのチベット人関連系統を内陸部アジア東部北方系統と呼び、これはチベット人と現代および古代のアジア東部北方人との間の密接な遺伝的類似性の直接的指標です。

 沿岸部前期新石器時代のアジア東部南方人、鉄器時代の台湾の漢本(Hanben)人、現代のオーストロアジア語族の台湾先住民であるアミ(Ami)人とタイヤル(Atayal)人で多く見られる系統は、本論文では沿岸部アジア東部南方系統(濃緑色)と呼ばれます。青色系統はミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族に広く分布する沿岸系統の対応としてラチ(LaChi)人で最大化され、この内陸部アジア東部南方系統は、雲南と雅江・新竜と甘南のチベット人を含む低地チベット人に、比較的高い割合で存在します。さらに、チベット高原北東部のチベット人は、より多くの沿岸部アジア東部北方系統を有している、と明らかになりました。タイとラオスの国境のムラブリ(Mlabri)人で最大化されるいくつかのオーストロアジア語族関連系統は四川省と雲南省のカム地域チベット人で、青銅器時代のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化とヤムナヤ(Yamnaya)文化集団で最大化される系統(赤色)は青海省および甘粛省のアムドチベット人でそれぞれ識別されました。古代ネパール人集団は、シベリア北東部の鉄器時代エクヴェン(Ekven)人と関連した共通系統を有していました。以下、チベットチベット高原の11地域、主成分分析、系統構成を示した本論文の図1です。

画像
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/07/04/2020.07.03.185884/F1.large.jpg


●アジア東部人の集団分化とチベット人における下部構造

 11地区の現代チベット人と現代もしくは古代の参照集団との間の遺伝的差異をさらに調べるため、まず現代人82集団と現代および古代の32集団の遺伝的距離が計算されました。チベット自治区において、高地のウー・ツァン地域チベット人の南(シガツェと山南)と中央(ラサ)と北(ナクチュ)、北東となるカム地域のチャムドのチベット人は、近隣地域と最小のFst遺伝距離を有しており、チベット高原北東部の低地アムド地域(青海省と甘粛省)のチベット人と、チベット高原南東部のカム地域(四川省と雲南省)のチベット人と、ツー人など他のチベット・ビルマ語族集団がそれに続きます。これらの遺伝的関係の観察パターンは、低地集団とは顕著に異なっており、ミャオ・ヤオ語族のシェ(She)人は低地アジア東部人とほとんどの系統を共有しています。

 青海省と甘粛省のアムド地域のチベット人では、剛察チベット人が北部もしくは北東部チベット人(チャムドとナクチュ)と最小のFst遺伝距離で密接な遺伝的類似性を有し、チアン(Qiang)人とツー人もしくは他の地理的に近いチベット人がそれに続きます。剛察と循化のチベット人では異なるパターンが観察され、相互に最も密接な関係を示し、その次がツー人とユグル人になります。また、甘南および循化のチベット人とテュルク語族のカザフ集団との間の比較的小さい遺伝的距離も明らかになり、チベット高原において、中央部のチベット人と比較して、北東部のチベット人のユーラシア西部人との遺伝的類似性が示されます。

 四川省と茂県地区(Ganqing Region)の雅江と新竜のチベット人は、四川省のチベット・ビルマ語族(ツー人やユグル人やチアン人)と密接な遺伝的類似性を有します。雲南省のチベット人は、剛察とチャムドのチベット人と最小の遺伝的距離を有し、チアン人とイー(Yi)人とツー人がそれに続きます。チベット人と新石器時代から鉄器時代のアジア東部人の間で、各現代チベット人と最小のFst値を有する遺伝的に最も密接な集団は、他の現代チベット人により証明され、台湾の漢本集団は他の古代アジア東部人と比較して、現代チベット人と最も密接な関係を示します。

 TreeMixに基づく分析により、ユーラシアの現代人集団とユーラシア東部古代人の遺伝的多様性の下で、さらに系統関係が推定されました。現代チベット人と他のユーラシア人の遺伝的多様性に基づく図2Aの系統樹は、移住事象なしと想定されていますが、類似した語族集団が1集団にクラスタ化する傾向を示します。アルタイ諸語(テュルク語族とモンゴル語族)集団は、ウラル語族とクラスタ化しました。オーストロネシア語族のアジア東部人は、まずタイ・カダイ語族と、次にミャオ・ヤオ語族およびオーストロアジア語族とクラスタ化しました。チベット人はまず相互に、とくに高地適応のウー・ツァン地域でクラスタ化し、次に低地アジア東部人とクラスタ化しました。この観察された地理的孤立は、高地チベット人と低地アジア東部人との間の遺伝的差異を示し、共有された共通起源系統があるものの、識別されます。

 さらに、事前に定義された3回の交雑事象で、近東からのアナトリア半島新石器時代農耕民系統を除き、現代チベット人とユーラシア東部の26人の古代人との間の集団分岐と遺伝子流動が分析されました。甘南と新竜を除く現代チベット人は、まずネパールの高地古代人と、次に低地アジア東部北方新石器時代人および新石器時代から青銅器時代の南シベリア人とクラスタ化し、高地現代チベット人と低地アジア東部北方古代人との間の遺伝的区分が示されました(図2B)。このクラスタパターンはまた、高地の現代および古代チベット人と低地アジア東部南方人と同様に、アジア東部の北方人と南方人との間の遠い関係を示しました。これは、チベット人とアジア東部北方人との間の特別なつながり、もしくはより密接な遺伝的関係の証拠をさらに提供します。以下、この系統関係を示した本論文の図2です。

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https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/07/04/2020.07.03.185884/F2.large.jpg

 外群f3統計(現代チベット人、ユーラシア古代人および現代人、エチオピアのムブティ人)で、遺伝的類似性がさらに評価されました。現代人184集団の中で、各地域のチベット人にとって最も類似性が共有されるのは、地理的に近い別地域のチベット人です。山南チベット人はラサとシガツェとナクチュのチベット人と最もアレル(対立遺伝子)を共有しており、集団の類似したパターンは、ウー・ツァン地域において南方に位置するシガツェと中央に位置するラサのチベット人で特定されました。しかし、ウー・ツァン地域でも北東に位置するナクチュのチベット人は、そこからさらに北東に位置するカム地域のチャムドのチベット人と最もアレルを共有し、四川省のチベット・ビルマ語族のチアン人と、他のチベット人およびシェルパ(Sherpa)人が続きます。これらのパターンは、チャムドのチベット人における集団の特徴と一致します。

 現代チベット人内のゲノム類似性に続いて、5地域のチベット人が低地漢人と最も強い遺伝的類似性を共有する、と明らかになりました。これは、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。四川省と雲南省の低地カム地域では、新竜チベット人が、上海や重慶や湖北省や江蘇省の漢人および他の低地チベット・ビルマ語族のチアン人やトゥチャ(Tujia)人と最も遺伝的浮動を共有しています。新竜チベット人とは異なり、地理的に近い雅江と雲南省のチベット人は、チアン人および地理的に近いチャムドおよび新竜のチベット人と最も遺伝的浮動を共有しており、それら漢人と他のチベット人が続きます。これら低地漢人もしくはアジア東部南方人は、中国南西部に位置する低地のカム地域チベット人が、先史時代と歴史時代において集団移住と混合により、アジア東部南方人と系統の変化を有していた、と示唆します。アムド地域の剛察チベット人は、漢人およびチベット・ビルマ語族と遺伝的類似性を共有しているだけではなく、テュルク語族集団との類似性の兆候も示します。甘南と循化のチベット人におけるアレル共有は、漢人集団が甘南および循化のチベット人と最も系統を共有している、と示します。

 外群f3統計から推測される、現代チベット人と旧石器時代から歴史時代のユーラシア古代人106集団(ロシアが33、中国が41、モンゴルが29、ネパールが3)との間の共有されるアレルの水準は、現代チベット人が新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人と最も明確なつながりを有すると示し、これは主成分分析・Fst・ADMIXTURE・現代人集団に基づく類似性推定と一致します。中程度の高度となるチャムドのチベット人は、新石器時代の陝西省五庄果墚遺跡個体群および後期新石器時代となる斉家文化の黄河上流域農耕民と最も遺伝的浮動を共有しており、鉄器時代の雲南省の大槽子(Dacaozi)人と陝西省の石峁(Shimao)人、中国北部の紅山文化関連の中期新石器時代の半拉山(Banlashan)人、黄河中流および下流域の他のアジア東部北方人が続きます。

 ロシアとモンゴルの新石器時代人および歴史時代ネパールの青銅器時代人は、チャムドの現代チベット人とは比較的遠い遺伝的関係を示します。チャムドのチベット人のパターンとは異なり、ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人は、ネパール古代人と関連する系統の増加を示し、ウー・ツァン地域北部のナクチュのチベット人は、2700年前頃のチョクホパニ人と集団類似性の中間的傾向を示します。中国南西部および北東部の低地チベット人は、アジア東部北方古代人と似た集団類似性を示します。新竜チベット人を除くチベット人は、相互に他のチベット人と最も遺伝的浮動を共有してクラスタ化し、次にネパール古代人と集団化し、高地クラスタを形成します。前期新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人がまずクラスタ化し、次に高地クラスタと集団化します。アムール川および西遼河流域の古代クラスタも、高地チベット人とより密接な関係を示し、新疆の石人子溝(Shirenzigou)遺跡人とアジア東部南方人は、低地アジア東部北方人および高地チベット人クラスタと、比較的異なる関係を保ちます。


●チベット高原における現代チベット人と古代人集団との混合の痕跡

 最近の遺伝的混合の証拠があるのか検証し、対応する祖先集団(もしくは現代集団で代理とされる仮定的祖先集団)を決定するため混合f3統計が実行され、各地域のチベット人集団が祖先集団と派生的アレルをどの程度共有しているのか、評価されました。また、3集団比較と古代人および現代人の包括的な参照データベースにより、ネパールの古代人9人および青海省の後期新石器時代から鉄器時代の11人の混合の痕跡が再評価されました。その結果、高地と低地の現代および古代チベット人における、混合の兆候と祖先集団の異なるパターンが見つかりました。さらに、1地域もしくは類似した文化のチベット人の間で、小さいものの有意な違いが識別できました。

 ウー・ツァン地域では、南部の山南とシガツェにおいて4万組以上の検証で混合の兆候が観察されず、中央部のラサに関しては、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群と、カム地域のチベット人とチアン人、もしくは新石器時代アジア東部北方人とチベット南部人との混合集団、もしくはバイカル湖地域古代人という4集団が祖先集団候補として検出されました。検証された188集団では、一方はチベット・ビルマ語族と、もう一方はユーラシア西部人と有意な値を示します。古代アジア東部北方人および南方人ではなく、低地アジア東部現代人と組み合わされた南部および中央部チベット人も、ナクチュのチベット人と有意な混合の兆候を示します。ウー・ツァン地域とカム地域のチベット人の間の接合領域に位置するチャムドのチベット人は、潜在的な文化的およびヒト集団の移動と混合を有していますが、一つの混合兆候のみが観察されます。茂県地域の3人のチベット人は数千以上の集団の組み合わせから混合の兆候を有しており、一方はアジア東部の現代人もしくは古代人、もう一方はユーラシア西部人です。

 f3統計の結果、北方系統の祖先としての新石器時代内陸部アジア東部北方人である、内モンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡の前期新石器時代個体が、南方系統の祖先としてのオーストロアジア語族およびタイ・カダイ語族と組み合わされ、有意なf3値を示します。四川省のチベット人は、アジア東部北方人と南方人との間の混合、もしくは高地チベット・ビルマ語族と低地アジア東部人との間の混合の結果としてのみ、有意な兆候を示します。南部チベット人の結果と同様に、雲南省チベット人では混合の兆候は観察されず、遺伝的孤立もしくは最近起きた明らかな遺伝的浮動が原因だったかもしれません。チベット高原の古代人集団に焦点を当てた検証では、青海省の鉄器時代の大槽子遺跡集団からの混合の兆候が示され、これはアジア東部北方古代人とアジア東部南方現代人の祖先集団との混合、もしくはチャムドのチベット人関連集団と台湾の鉄器時代漢本個体のような集団との混合の結果です。


●f4統計から推定される高地および低地チベット人の集団内分化

 現代チベット人の間の下部構造を調べるため、f4統計が実施されました。チャムドのチベット人は、他のチベット人との比較で、ナクチュおよび雲南省のチベット人とクレード(単系統群)を形成します。アムド地域の剛察と甘南と循化のチベット人と比較して、他のチベット人はチャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。雅江と新竜の低地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地チベット人(ラサ、ナクチュ、シガツェ、山南)関連系統をより多く有していますが、甘南のチベット人はチャムドのチベット人と比較して、新竜のチベット人とより多くのアレルを共有します。高地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は比較的低地の他のチベット人とより多くのアレルを共有します。

 ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人の間では、明確な遺伝的均一性が示され、アムド地域のチベット人と比較して、南部チベット人とより多くのアレルが共有されます。しかし、ウー・ツァン地域の北部チベット人はチャムドおよび雲南省のチベット人とクレードを形成し、四川省のチベット人と比較して、より多くの高地チベット人関連派生的アレルを有します。低地チベット人では、中国北西部となるアムド地域の剛察と循化のチベット人がクレードを形成します。同じくアムド地域の甘南チベット人と比較して、青海省チベット人はチベット自治区のチベット人とより多くの系統を共有します。甘南チベット人をf4統計の対象とすると、他のチベット人と比較して、甘南チベット人とより多くのアレルを共有するチベット人集団は見つかりません。中国南西部の雲南省チベット人はチャムド・新竜および雅江チベット人とクレードを形成し、全てはカム地域チベット人に属します。低地の四川省と雲南省のチベット人は、茂県チベット人と比較してチベット人関連系統を、また他の高地チベット人と比較して高地チベット人関連系統をより多く有しています。

 さらに、f4統計により、古代ユーラシア集団(おもに中国とモンゴルとシベリア東部とユーラシア西部の草原地帯牧畜民)を用いて、高地および低地チベット人の間の観察された遺伝的類似性と集団下部構造が調べられました。ウー・ツァン地域のチベット人内のゲノム類似性パターンが確認され、またアムド地域とカム地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のチベット人におけるネパール古代人との明らかなより多くの類似性が特定できました。山南チベット人と比較して、ナクチュのチベット人は、中国南部の南東部沿岸地域における新石器時代から歴史時代のアジア東部南方の低地古代人集団と関連する系統の増加を示し、この系統はバイカル湖地域後期新石器時代個体でも見られます。アムド地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のナクチュのチベット人は、ネパール古代人関連系統の増加と、循化チベット人と関連する後期新石器時代の青海省の喇家(Lajia)遺跡個体関連系統の増加を示します。またナクチュのチベット人は、福建省のアジア東部南方沿岸部後期新石器時代集団と、黄河中流域の新石器時代から鉄器時代集団と、夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団と、内陸部新石器時代アジア東部北方集団と、他の黄河上流域新石器時代および鉄器時代集団と関連する系統の増加を示します。

 黄河上流域古代人集団では、地理的に近い剛察チベット人ではなく、ナクチュのチベット人との間でより密接な類似性が見つかり、喇家遺跡などの古代人集団が、ナクチュの現代チベット人の直接的祖先だったかもしれません。アムド地域のチベット人に関しては、ロシアのシンタシュタ(Sintashta)文化など中期〜後期青銅器時代のユーラシア草原地帯牧畜民関連系統の増加が示されます。また、アムド地域のチベット人の間の強い遺伝的類似性が、確認されています。アムド地域の甘南チベット人は、現代オーストロネシア語族や福建省・台湾などアジア東部南方前期新石器時代集団に代表される、アジア東部南方人関連系統の増加を示します。甘南チベット人の同じアジア東部南方人の類似性は、ウー・ツァン地域のチベット人との比較でも識別されます。

 ナクチュのチベット人とチャムドのチベット人とユーラシア東部古代人とエチオピアのムブティ(Mbuti)の現代人によるf4統計では、ナクチュのチベット人とがチャムドのチベット人とクレードを形成し、チャムドのチベット人におけるアジア東部北方の中期新石器時代の半拉山関連系統の増加を示し、半拉山遺跡の人々は紅山文化と関連している、と証明されました。またラサのチベット人と比較してチャムドのチベット人では、悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡(関連記事)個体群のようなロシアもしくはモンゴル関連新石器時代系統、中期新石器時代の紅山文化関連系統、後期新石器時代にかけての黄河中流域もしくは龍山文化農耕民関連系統、黄河上流域後期新石器時代の斉家文化関連系統の増加が示唆されます。遺伝的類似性は、前期新石器時代におけるチベット高原とアジア東部北方の古代人集団間のつながりを示します。

 ウー・ツァン地域南部の山南チベット人と比較して、カム地域のより北方に位置するチャムドのチベット人は、低地アジア東部の異なる古代集団と関連する系統の増加を示します。まず、沿岸部アジア東部南方の後期新石器時代の曇石山遺跡、台湾の鉄器時代の漢本遺跡、歴史時代となる福建省の伝云(Chuanyun)遺跡の人々は、山南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くの遺伝的浮動を共有しています。第二に、山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人は、チャムドのチベット人とより多くの遺伝的浮動を共有します。第三に、河南省の中期新石器時代から後期青銅器時代および鉄器時代の古代人集団は、チャムドのチベット人とより多くの派生的アレルを共有します。第四に、黄河中流域の新石器時代集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第五に、黄河上流域の後期新石器時代と鉄器時代の個体群は、甘南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くのアレルを共有します。第六に、西遼河流域の新石器時代3集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第七に、新石器時代から現代のモンゴルおよびロシアと関連する祖先集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。ウー・ツァン地域南西部のシガツェのチベット人と比較して、共有派生的アレルの類似のパターンが観察されます。アムド地域のチベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地および低地の古代人集団と関連する系統の増加を共有します。四川省のチベット人と比較して、チャムドのチベット人はネパールの2125年前頃のメブラク文化および1500年前頃のサムヅォング文化集団とより多くのアレルを共有します。チャムドのチベット人で観察された遺伝的類似性のパターンと似て、カム地域の他の3地区のチベット人も、アジア東部南北両系統の増加を示します。


●現代チベット人とアジア東部古代人の時空間的比較分析および現代チベット人の遺伝的混合と継続

 全体的なアジア東部人の遺伝的構造と人口動態を明確にし、文化的・地理的に多様なチベット人の起源への新たな洞察を得るため、f4統計により時空間的な調査が行なわれました。山東省の新石器時代沿岸部アジア東部北方人と現代チベット人との間には、類似した遺伝的関係が見られます。山東省の小荆山(Xiaojingshan)遺跡個体群では、新石器時代沿岸部アジア東部南方人関連系統の増加が識別でき、アジア東部における沿岸部集団との密接な関係が示されます。

 河南省の後期青銅器時代〜鉄器時代の遺跡(Luoheguxiang)の個体群は、河南省滎陽市(Xingyang)汪溝(Wanggou)遺跡の中期新石器時代個体群と比較して、台湾先住民であるオーストロネシア語族の現代アミ(Ami)人と関連する系統の増加を示します。河南省の後期新石器時代の郝家台(Haojiatai)遺跡個体群は、汪溝遺跡個体群と比較して、台湾の漢本遺跡や福建省の遺跡(Xitoucun)と関連するアジア東部南方人系統をより多く有し、アミ人やタイヤル人など類似の沿岸部南方集団の類似性が、河南省の後期新石器時代の平糧台(Pingliangtai)遺跡個体群で観察されますが、後期新石器時代の瓦店(Wadian)や中期新石器時代の汪溝や前期新石器時代の小呉(Xiaowu)といった河南省の各遺跡の個体群では観察されません。

 陝西省と内モンゴル自治区の古代人に焦点を当てると、現代チベット人とアジア東部南北両方(黄河流域と中国南部)の人々は、新石器時代の陝西省の石峁遺跡集団とより多くのアレルを共有します。黄河上流域古代人の経時的分析によると、現代チベット人は全員、黄河上流域古代人との類似した関係を示しますが、鉄器時代の雲南省大槽遺跡の人々は、より多くのアジア東部南方人系統を有します。これらの結果は、中国南部からの集団移動が、少なくとも鉄器時代からチベット高原北東部集団の遺伝子プールに有意な影響を有した、と示唆します。また、年代の異なるネパール古代人集団との、アジア東部人の間の対称的な関係が示されます。

 次に、現代チベット人と全ての利用可能なアジア東部古代人の空間的比較分析により、新石器時代アジア東部北方人の共有された遺伝的構成の類似性と差異が調べられました。現代チベット人11集団および他のアジア東部古代人が、地理的に異なるアジア東部北方古代人および古代チベット人と比較されました。その結果、山東省の沿岸部新石器時代4集団と比較して、ウー・ツァン地域チベット人が最も強い高地アジア東部人との類似性を有する、と明らかになりました。さらに、沿岸部および内陸部古代人と比較すると、現代チベット人は内陸部アジア東部北方人、とくに黄河上流域の後期新石器時代の喇家遺跡個体群と強い類似性を有している、と明らかになりました。この喇家遺跡個体群もしくはアジア東部北方人との類似性は、内陸部の中期新石器時代となるモンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡を沿岸部アジア東部北方人に置換しても成立しましたが、後期新石器時代個体群を前期新石器時代アジア東部北方人と置換すると消えました。アムド地域とカム地域のチベット人は、低地アジア東部北方人との類似性を、ウー・ツァン地域のチベット人はネパール古代人との類似性を示します。

 上述の集団ゲノム研究は、現代チベット人の間の集団下部構造(ウー・ツァンとアムドとカムの各地域)と、アジア東部現代人との最も密接な関係と、アジア東部南方人およびシベリア人との類似性を明らかにしてきました。現代チベット人3集団がそれぞれアジア東部の北方人および南方人とシベリア人との類似性を示すことと一致して、追加の遺伝的混合なしにこれらのソース集団の1つの直接的子孫だった、との仮定が検証されました。まず、現代チベット人が長江流域の稲作農耕民と関連するアジア東部南方人の直接的子孫だった、と仮定されました。アジア東部北方人もしくはシベリア人を用いたf4統計からは、それら参照集団からの明らかな遺伝子流動事象と、密接な遺伝的関係が示唆されました。

 チベット人の直接的祖先が沿岸部新石器時代アジア東部北方人との仮定で、追加の遺伝子流動事象を詳細に検証するためf4統計が行なわれ、ネパール古代人のみが負の値を示し、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。仰韶および龍山文化農耕民もしくはその関連集団、陝西省古代人と他のアジア東部北方古代人と南シベリア人を、現代チベット人の直接的祖先として仮定すると、これらのパターンは確認されました。裕民遺跡個体もしくはアムール川下流域のツングース語族のウリチ(Ulchi)人を直接的祖先として仮定すると、アジア東部南方人(台湾の漢本遺跡個体)と黄河流域農耕民からの追加の祖先的遺伝子流動が識別されました。ネパール古代人を直接的祖先として仮定すると、低地アジア東部古代人からの追加の明らかな遺伝子流動事象が、カム地域チベット人で検出されました。ロシアと中国新疆ウイグル自治区の追加の事前定義された祖先的集団は、強いアジア東部との類似性を確認します。


●現代および古代チベット人の系統構成

 現代チベット人と新石器時代アジア東部北方人の密接な遺伝的つながりと、チベット人とアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人と「縄文人」の父系(Y染色体)類似性を考慮し、qpWaveを用いて現代チベット人とネパール古代人と「縄文人」の祖先集団の数が調べられ、さらにqpAdmにより、1方向〜3方向の対応する系統割合が推定されました。オンゲ人と「縄文人」は、アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)の7700年前頃の個体と密接な関係がある、と示されています(関連記事)。

 qpWaveの結果から、対称となった集団における観察された遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2祖先集団が必要と示されました。まずオンゲ人と内陸部および沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人6集団の2方向モデルが採用され、内陸部の裕民遺跡個体が対象となった集団の遺伝的多様性に適合しませんでした。河南省の前期新石器時代となる小高遺跡個体とオンゲ人の2方向モデルは、甘南チベット人を除く全ての現代チベット人とよく合致します。小高遺跡個体関連系統の割合は、山南チベット人で0.846、新竜チベット人で0.906です。

 2700年前頃のネパールのチョクホパニ遺跡個体群は、地理的に近いウー・ツァン地域チベット人と類似しており、小高遺跡個体に代表されるアジア東部北方人関連系統の割合が0.861、オンゲ人関連系統の割合が0.139となります。より新しいネパール古代人は、チョクホパニ遺跡個体群よりも、オンゲ人関連系統の割合が高く、アジア東部北方人関連系統の割合が低くなります。縄文人は小高遺跡個体関連系統の割合が0.484、わずかな統計的有意性を有するオンゲ人関連系統の割合が0.516でモデル化できます。

 前期新石器時代の小高遺跡個体を、山東省の前期新石器時代となる淄博(Boshan)遺跡および變變(Bianbian)遺跡個体群と置換すると、類似した結果が得られますが、淄博遺跡個体を同じ山東省の前期新石器時代となる小荆山遺跡個体と置換すると、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群は、2方向モデルに適合しません。シベリアの前期新石器時代となるジャライノール(Zhalainuoer)遺跡個体とオンゲ人関連系統は、より高いオンゲ人関連系統を有する高地チベット人および雲南省チベット人の祖先集団として適合しましたが、他のアムド地域およびカム地域チベット人には適合しませんでした。

 中期新石器時代アジア東部人をソース集団として用いると、河南省の小呉遺跡とオンゲ人関連系統のモデルは全対象集団で適合せず、悪魔の門遺跡個体とオンゲ人関連系統のモデルは、オンゲ人関連系統のより高い割合を有する、四川省チベット人と縄文人とチョクホパニ文化個体群でのみ適合できました。ユーラシア西部人との類似性を有する集団(アムド地域チベット人とネパールのサムヅォング文化集団)以外の全ての現代人および古代人集団は、オンゲ人と中期新石器時代の各遺跡のアジア東部北方人関連系統との混合としてモデル化できます。

 アジア東部北方人関連系統の割合は、汪溝遺跡個体を用いると、チベット人では0.898〜0.960、縄文人では0.518、ネパールの2400〜1850年前頃のメブラク(Mebrak)文化集団では0.889、チョクホパニ文化集団では0.914です。半拉山遺跡個体を用いると、山南および新竜チベット人ではそれぞれ0.795と0.847、縄文人では0.458、チョクホパニ文化集団では0.800です。内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡個体を用いると、チベット人では0.906〜0.952、縄文人では0.615、メブラク文化集団では0.906、チョクホパニ文化集団では0.933です。

 さらに、ソース集団として後期新石器時代アジア東部北方人を用いると、剛察および甘南のチベット人とサムヅォング文化集団は、剛察チベット人での、瓦店遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(割合は0.932と0.068)、郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.973と0.027)、サムヅォング文化集団での郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.908と0.092)を除いて、すべて適合しませんでした。残りの全集団は、より高い新石器時代アジア東部人系統とより小さいオンゲ人関連系統の混合として適合できます。

 さらに、南方起源集団としてホアビン文化個体をオンゲ人と置換し、前期〜後期新石器時代のアジア東部北方人をもう一方の起源集団として2方向混合を実行し、サムヅォング文化集団と縄文人を除いて、剛察および甘南チベット人とネパール古代人の割合を推定しました。その結果、オンゲ人に基づく2方向モデルと比較して、わずかに異なる系統構成でも良好な適合が得られました。最後に、アムド地域の剛察および甘南チベット人とサムヅォング文化集団で遺伝的多様性に適合する3方向混合モデルにて、ファナシェヴォ文化個体群がユーラシア西部人のソース集団として採用されました。この3集団は全て、青銅器時代草原地帯牧畜民関連系統を導入すると、上手く適合ました。

 新石器時代アジア東部人と現代チベット人との間の系統関係を包括的に要約し、人口史を復元するため、qpGraphにより一連の混合モデルが構築されました。核となるモデルでは、デニソワ人、現生人類の最も深い分岐を示す集団としてアフリカ中央部のムブティ人、ユーラシア西部人の代表としてルクセンブルクの中期石器時代となるロシュブール(Loschbour)遺跡個体、アンダマン諸島の狩猟採集民である現代オンゲ人、ユーラシア東部の南北の深い系統を表す、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)個体が含まれます。

 図6Aに示されるように、アジア東部人は、ユーラシア西部人からの1%程度の遺伝子流動を有するモンゴル東部の新石器時代集団に代表される北部系統と、オンゲ人と密接な系統から35%程度の遺伝的影響を受けた、福建省連江県亮島の前期新石器時代となる粮道2(Liangdao2)遺跡個体に代表される南部系統に分けられます。後期新石器時代の斉家文化関連の喇家遺跡個体群は、アジア東部北方人関連系統84%とアジア南部オンゲ人関連系統16%の混合として、ネパールのチョクホパニ文化集団は、喇家遺跡個体群系統86%とオンゲ人関連系統14%の混合としてモデル化できます。このモデルは、チョクホパニ文化関連古代チベット人と後期新石器時代の喇家遺跡個体群における、チベット高原在来住民と関連する旧石器時代狩猟採集民系統と、新石器時代アジア東部北方人系統との共存の古代ゲノム証拠を提供します。

 次に、チベット高原の11地区全ての現代人をこのモデルに追加し、新竜チベット人を除くウー・ツァン地域とカム地域チベット人は、2700年前頃のチョクホパニ文化集団の直接的子孫として適合でき、アジア東部北方人系統1集団からの追加の遺伝子流動がある、と明らかになりました。このアジア東部北方人系統は、台湾の鉄器時代の漢本個体群に33%の追加系統をもたらしました。この遺伝子流動は、チベット高原への新石器時代の拡大の第二の波の典型とみなせます。したがって、図6の結果は、チベット人7集団が、オンゲ人関連系統、後期新石器時代の喇家遺跡個体群関連系統、アジア北東部人関連系統の第二の波という、3祖先集団によく適合できる、と示唆します。それぞれの割合は、山南では0.1235と0.8265と0.05、シガツェでは0.144と0.816と0.04、ラサでは0.1344と0.8256と0.04、ナクチュでは0.1176と0.7224と0.16、チャムドでは0.1001と0.6699と0.23、雲南省では0.1106と0.6794と0.21、雅江では0.1232と0.7568と0.12です。以下、本論文の図6です。

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 図7に示されるように、2〜3%のロシュブール関連系統の割合を有する茂県のアムド地域チベット人への1回の遺伝子流動事象を考慮すると、上手く適合できます。以下、本論文の図7です。

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 アジア北東部人関連系統の第二の波の最良の祖先集団の代理をさらに調べるため、新石器時代の内陸部および沿岸部のアジア東部北方人と南方人の集団を導入した、拡張混合グラフが再構成されました。図8に示されるように、新石器時代アジア東部南方人との類似性を有する低地のカム地域チベット人への第二の波は、割合が5〜11%となる台湾の漢本遺跡個体関連集団に直接的に由来する、と上手く適合できます。以下、本論文の図8です。

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 次に前期新石器時代となる後李文化の淄博遺跡個体群、中期新石器時代となる仰韶文化の小呉遺跡個体群、後期新石器時代となる瓦店遺跡個体群、青銅器時代〜鉄器時代の郝家台遺跡個体群を図6の核となるモデルに追加し、全てのチベット人をそれに適合させました。雲南省のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を33%有しており、四川省雅江のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を26%有しています。ラサのウー・ツァン地域チベット人の遺伝子プールも、龍山文化集団と関連する第二の移住の波に影響を受けています。この第二の遺伝子流動事象は、龍山文化集団を他の新石器時代もしくは青銅器時代〜鉄器時代集団として、受け入れ可能な系統の割合と置換しても持続し、これらの現象は中原(河南省と山東省)の主要な系統の遺伝的安定性に起因するかもしれません。以下、本論文の図9です。

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●考察

 チベット高原における先史時代の人類の活動と、高地適応の現代チベット人の起源は、遺伝学・考古学・人類学・歴史学などで注目されてきました。近年における古代DNA研究の発展は目覚ましいものの、アジア東部で遅れていることは否定できません。しかし、最近になってアジア東部の古代DNA研究は大きく進展しました(関連記事)。北京近郊の4万年前頃の田园洞窟個体からは、アジア東部の初期集団構造が、アジア東部人とアメリカ大陸先住民との分岐の前に存在した、と示されました(関連記事)。中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)では、アジア東部における南北の遺伝的分化が前期新石器時代以来続いていた、と示されました。この研究ではまた、山東省の後李文化集団から南方への移住と、福建省の曇石山文化集団から北方への移住とともに、アジア南東部のベトナムから極東ロシアまでの、アジア東方沿岸部のつながりも示し、これは後に太平洋に拡散したオーストロネシア語族の祖型集団と推測されます。新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)では、生存戦略が集団の移動と混合に関連している、と報告されました。さらに、ヤムナヤ文化関連のユーラシア草原地帯関連系統が、アジア東部とユーラシア西部の間の混合をもたらし、インド・ヨーロッパ語族を中国北西部にもたらしたことも推測されています(関連記事)。これらの発展はあったものの、アジア東部の高地と低地の現代人と古代人との間の遺伝的関係と分化はまだ曖昧でした。本論文では、チベット高原に関連する新石器時代から歴史時代までの広範なゲノムデータを分析することにより、チベット高原を中心にアジア東部の人類集団の旧石器時代から現代までの歴史を検証しました。

 チベット高原の現代人と古代人のゲノムは、現代漢人および新石器時代アジア東部北方人、とくに山東省の沿岸部の後李文化と河南省の内陸部の仰韶および龍山文化、茂県地区の斉家文化個体群との明確なつながりを示し、チベット・ビルマ語族現代人集団の中国北部起源を示唆します。シナ・チベット語族の起源について、言語の多様性などに基づき、仰韶・馬家窯(Majiayao)文化と関連する中国北部起源、中国南西部の四川省起源、インド北東部起源という3仮説が提示されてきました。農耕と言語の拡散仮説、チベット高原とアジア東部とアジア中央部および南部とシベリアにおける物質文化の類似性に基づくと、現代および古代チベット人の起源は依然として曖昧です。

 本論文における古代高地人とアジア北東部低地人の諸分析は、これらの集団の密接な関係を示し、母系・父系のみで伝わるmtDNAやY染色体のハプロタイプ分析により明らかになった遺伝的類似性と一致します。本論文で直接的証拠により確認されたシナ・チベット語族の仰韶文化・馬家窯文化と関連する中国北部起源説は、系統関係の再構築により提示されました。系統学的結果に基づくTreeMixとqpGraphは、現代チベット人における主要な系統を示し、チベット高原古代人(ネパールと斉家文化の人々)は、モンゴル東部新石器時代人および中原の仰韶文化・龍山文化・後李文化個体群と関連する、共通のアジア東部北方人系統に由来します。したがって、本論文のメタゲノム分析では、チベット高原の人々の主要な系統は、雑穀農耕民の新石器時代の拡大を伴う黄河中流および下流域に起源がある、と支持されます。本論文の新石器時代から現代の常染色体ゲノムに基づく知見は、ミトコンドリアとY染色体の多様性により明らかにされてきた、現代シナ・チベット語族集団の起源と多様化と拡大を確証します。

 シナ・チベット語族の共通起源の強い証拠は提示されましたが、依然としてその系統構成の違いが識別されます。チベット高原高地と比較して、低地の後期新石器時代から現代の人々は、新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人と関連する系統をより多く有しています。茂県地区の鉄器時代となる大槽子遺跡の人々も、曇石山文化のアジア東部南方人とより密接な遺伝的類似性を示し、それは稲作農耕民の北方への拡散の遺伝的痕跡を示します。低地内陸部の仰韶文化と龍山文化もしくは沿岸部の後李文化集団と比較して、高地集団は、オンゲ人もしくはホアビン文化集団と関連する旧石器時代狩猟採集民系統を一定の割合(8〜14%)で有します。したがって、本論文のメタ分析は、アジア東部高地人の遺伝子プールにおける旧石器時代系統と新石器時代系統両方の共存、チベット高原の人々の旧石器時代の居住と新石器時代の拡大に関する新たな証拠を提供します。これは以前に、現代人の全ゲノム配列とミトコンドリアとY染色体のデータで明らかにされていました。

 さらに、現代チベット人の間の明らかな集団下部構造も見つかりました。チベットの核地域であるウー・ツァンのチベット人はおもに旧石器時代系統と新石器時代系統を示し、中国北西部のアムド地域チベット人はユーラシア西部人と混合して2〜3%程度の遺伝的影響を受け、四川省と雲南省のカム地域チベット人は新石器時代のアジア東部南方人とのより強い類似性を有します。したがって、現代チベット人の間で観察される集団下部構造は、地理的および文化的区分と一致します。これが示唆するのは、複雑な文化的背景と地形がある程度、集団移動と混合の障壁になっていた、ということです。qpGraphに基づく系統によく適合した集団移動と混合の第二の波は、鉄器時代のアジア東部南方人からカム地域チベット人、新石器時代アジア東部北方人からカム地域およびウー・ツァン地域チベット人、ユーラシア西部人からアムド地域チベット人への遺伝子流動を明らかにしました。これは、シベリアとアジア東部南北両方からの複数の移動の波が、チベットのアジア東部高地人の遺伝子プールを形成した、と示します。


●まとめ

 ユーラシア東部、とくに中国に焦点を当てた新石器時代から現代の包括的なゲノムメタ分析は、チベット高原の高地人と低地アジア東部人との間の関係を明確にし、チベット高原の人々を調査するために行なわれました。遺伝的調査の結果は、古代および現代チベット人と新石器時代から現代のアジア東部北方人との間の強い遺伝的類似性を示します。これが示唆するのは、チベット・ビルマ語族の主要な系統は中国北部の黄河中流および下流域の仰韶文化・龍山文化集団に起源があり、漢人との共通祖先を有し、雑穀農耕民とシナ・チベット語族の拡大を伴う、ということです。

 古代チベット人と低地の仰韶文化・龍山文化・後李文化集団の間で共有された系統が存続しますが、遺伝的分化も見つかりました。高地チベット人は深く分岐したユーラシア東部オンゲ人関連狩猟採集民系統を、低地の新石器時代から現代のアジア東部人は新石器時代アジア東部南方人とシベリア人系統からより多くの系統を有します。これは、現代および古代チベット人における旧石器時代と新石器時代の系統の共存、および旧石器時代の居住と新石器時代の拡大の集団史を示唆します。

 さらに、地理的・言語学的区分と一致して、現代チベット人において3集団下部構造が識別されました。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより高いオンゲ人・ホアビン文化集団関連系統と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部人関連系統と、カム地域チベット人におけるより大きいアジア東部南方人関連系統です。要約すると、アジア東部高地現代人は、少なくとも古代人5集団に由来します。最古層としてのホアビン文化関連集団、アジア北東部の内陸部および沿岸部からの新石器時代の2回の拡大による追加の遺伝子流動、新石器時代のアジア東部南方人の北方への拡大が1回、ユーラシア西部人の東方への拡大が1回です。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、今年(2020年)になって大きく進展したアジア東部人類集団に関する古代ゲノム研究の成果を取り入れた包括的な分析になっており、たいへん注目されます。現代チベット人集団の遺伝的類似性とともに、その下部構造も明らかになっており、それが地理および文化と関連している、との推測は妥当でしょうし、興味深いものだと思います。ただ、中国領となっているチベット人の主要な居住地域では古代ゲノムデータがほとんど得られておらず、それが今後の課題となるでしょう。チベット高原の人類の古代ゲノムデータが蓄積されていけば、現代チベット人の形成過程がさらに詳細に解明されるでしょうし、それはアジア東部における各現代人集団の形成過程の分析にも役立つと期待されます。

 現代チベット人と現代日本人の類似性は、現代日本社会において一部?の人々により強調される傾向にあるように思われますが、本論文からも、類似した遺伝的構成が示されます。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。この古層としての在来狩猟採集民は、出アフリカ後の現生人類がユーラシア東西系統に分岐し、さらにユーラシア東部系統が南北に分岐した後の南方系統に由来する、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られるY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくこの狩猟採集民系統に由来するのでしょう。もっとも、これも単純化はできず、現代日本人における古層としての在来集団である「縄文人」は、本論文が示すように、ユーラシア東部南方系統と、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統との混合だった、と推測されます。

 今年になって大きく進展したアジア東部の古代ゲノム研究ですが、今後の課題は、まず新石器時代アジア東部南方人を代表すると考えられる長江流域新石器時代個体群のゲノム解析で、あるいは、すでにゲノムデータが得られている福建省の新石器時代個体群とはかなり異なる遺伝的構成を示す可能性もありますが、おそらく両者は類似した遺伝的構成だと思われます。次に、アジア東部ではほとんど得られていない更新世人類のゲノムデータです。現時点では、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統がいつどのようにアジア東部に拡散してきて、南北両系統に分岐したのか、ほとんど明らかになっていません。

 ただ、中国の大半はヨーロッパと比較して古代DNAの保存に適していない自然環境なので、今後も更新世人類のゲノムデータはさほど期待できないかもしれません。上述の4万年前頃となる北京近郊の田园洞窟個体と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000〜34000年前頃の個体(関連記事)からは、アジア東部系統はユーラシア中緯度草原地帯を西進してきたユーラシア東部北方系統から派生してアジア東部北方に4万年前頃かその少し前に到達し、その後にLGMによる各地域集団の孤立を経て南北両系統に分岐したのではないか、と現時点では考えていますが、自信はなく、今後の研究の進展を俟つしかないのでしょう。


参考文献:
Wang M. et al.(2020): Peopling of Tibet Plateau and multiple waves of admixture of Tibetans inferred from both modern and ancient genome-wide data. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.07.03.185884


https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html

 

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1. 2020年9月01日 20:35:08 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[56] 報告
雑記帳 2018年12月01日
さかのぼるチベット高原への人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/201812/article_1.html


 チベット高原への人類の拡散に関する研究(Zhang et al., 2018)が報道されました。チベットへの人類の移住に関しては、以前まとめました(関連記事)。海抜4000m以上となるような高地は、砂漠・熱帯雨林・北極圏とともに人類にとって極限環境で、居住は容易ではないため、進出できた人類は現生人類(Homo sapiens)だけで(関連記事)、チベット高原も、低温・低い生物量(バイオマス)生産性・低酸素のため、人類にとって過酷な環境で、人類の進出した陸上環境の中でも最後の方の一つと考えられています。

 海抜4000m以上となるような高地における、ある程度は継続的な人類の居住の確実な痕跡は、これまでせいぜい更新世〜完新世移行期にまでしかさかのぼりませんでした。アンデス高地に関しては、通年の利用と断定はできないとしても、少なくとも季節的には利用していたと考えられる12800〜11500年前頃の人類の痕跡が(関連記事)、チベット高原に関しては、12670〜8200年前頃までさかのぼる人類の通年の居住が報告されています(関連記事)。

 本論文は、チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡の年代を報告しています。2013年に発見された尼阿底遺跡は、ラサ市の300km北西に位置し、東西1km、南北2kmほどの広さです。尼阿底遺跡では1ヶ所の発掘溝で3地点の層位と人工物と年代が詳細に調べられました。3地点の層位はそれぞれ3層に区分されます。10〜30cmの第1層は小石の多い沈泥と細かい砂で構成されており、表面採集分も含めて3124点の石器が発見されています。50〜80cmの第2層はよく揃った細粒砂で構成されており、砂利を含んでいて、223点の石器が発見されています。第3層はおもに砂利で、淡水貝の殻を含んでいます。深さは全体で約170cmです。石器が発見されたのは、第3層となる深さ138cmまでの地点です。これら3層の石器の間に明確な形態・技術の違いはなく、本論文は、これらが単一の石器群で、第3層で人類の痕跡が始まる、と結論づけています。

 尼阿底遺跡では放射性炭素年代測定法を用いて信頼できる年代を得られるほどの有機物は残存していなかったので、年代測定にはおもに光刺激ルミネッセンス法(OSL)が用いられ、合計24点の標本から推定年代値が得られました。これらの年代はおおむね層序と整合的です。第1層の年代は130000±1000年前と3600±300年前で、おもに完新世と考えられます。第1層最下部の淡水の貝の殻は、加速器質量分析(AMS)法による放射性炭素年代で12700〜12400年前頃となります。第2層の年代は25000〜18000年前頃と短い期間なので、最終氷期極大期の間の堆積や攪乱を反映しているかもしれません。第3層の人工物と関連した年代は45000〜30000年前頃で、貝殻のAMS法による年代と一致しています。石器と近い試料による最古級の年代は、44800±4100年前と36700±3200年前です。AMS法による年代とOSLの年代は近接しているので、OSLの年代の信頼性は高いと考えられます。OSLと放射性炭素年代測定法によると、石器の出現年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となる4万〜3万年前頃と推定されます。チベット高原における更新世の人類の痕跡は、これまでその周縁部でいくつか発見されているだけでしたから、尼阿底遺跡は、海抜4000m以上となるような高地における更新世の人類の痕跡としては最古の事例となります。

 尼阿底遺跡の合計3683点の石器の中には、石刃石核・剥片石核・石刃・剥片などが含まれています。これらの石器の特徴は石刃生産で、ルヴァロワ(Levallois)石核というよりも、プリズム石核から製作され、単方向剥離が優占しています。石刃のサイズは様々で、掻器や礫器などに再加工されています。全ての石器は黒い粘板岩で製作されており、尼阿底遺跡の東方800mの丘から調達されていた、と推測されます。廃棄物の割合が高くて精選された道具が少なく、遺跡の規模や石材調達地から近くて、動物遺骸や炉床がないことから、尼阿底遺跡は石器製作の作業場だった、と本論文は推測しています。

 尼阿底遺跡の石器群と技術的に類似した石器は、中国では北部でわずかにしか見つかっていません。尼阿底遺跡の石器群と最もよく類似しているのは、シベリアとモンゴルの早期上部旧石器時代の石器群です。そのため本論文は、チベットとシベリアで4万〜3万年前頃に相互作用があった可能性を指摘しています。これは、南シベリアのアルタイ地域で存在が確認されている、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関連(関連記事)で注目されます。デニソワ人の現代人への遺伝的影響は、東アジアにおいてわずかで、オセアニアにおいてそれよりずっと高く、チベット高原は、デニソワ人の遺伝的影響を受けた現生人類集団の南方への拡散経路の一つだったかもしれない、と本論文は指摘します。ただ、デニソワ人に関しては、北方系と南方系が存在し、それぞれ東アジア系とオセアニア系に遺伝的影響を残した、と想定する方が節約的であるように思えます(関連記事)。

 本論文は、チベット高原のような海抜4000m以上の高地への人類の進出が4万年前頃までさかのぼることを示した点で、たいへん意義深いと思います。MIS3には、チベット高原の生態学的条件は現在と同じか、もっと良かったのではないか、と推測されていますが、それでも、低温や低酸素への適応が重要となってきます。現代チベット人には高地適応関連遺伝子が確認されており(関連記事)、中にはデニソワ人から継承されたと推測されるものもあります(関連記事)。おそらく、現代チベット人の祖先集団のなかにはそうした遺伝的多様体を有した個体がおり、高地へと拡散して定着していく過程で集団内に定着していった(遺伝子頻度が上昇した)のでしょう。なお、アンデス高原の現代人も高地適応関連遺伝子を有していますが、それはチベット人とは異なっており(関連記事)、人類の遺伝的な高地適応も多様だったと考えられます。


参考文献:
Zhang XL. et al.(2018): The earliest human occupation of the high-altitude Tibetan Plateau 40 thousand to 30 thousand years ago. Science, 362, 6418, 1049-1051.
https://doi.org/10.1126/science.aat8824

https://sicambre.at.webry.info/201812/article_1.html

2. 2020年12月02日 11:12:05 : weMcLq6kNI : Tmg0WFlRdDFXOFk=[5] 報告
2020年12月02日
チベット人におけるデニソワ人由来の高地適応関連遺伝子の歴史
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_2.html

 チベット人における、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)に由来する高地適応関連遺伝子の歴史に関する研究(Zhang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。この研究は、昨年(2019年)開催された第88回アメリカ自然人類学会総会で報告されており(関連記事)、まだ査読前ですが、論文として公表されました。

 デニソワ人は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された、現生人類(Homo sapiens)ともネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とも異なる後期ホモ属の分類群で、種区分は未定です(関連記事)。現生人類やネアンデルタール人といったホモ属の各種や、さらにさかのぼってアウストラロピテクス属の各種もそうですが、人類系統の分類群は基本的には形態学的に定義されています。しかし、デニソワ人は人類系統の分類群としては例外的に、遺伝学的に定義された分類群です。

 デニソワ人に関しては、多くの問題が未解決です。たとえば、外見や地理的範囲や現代人への詳細な遺伝的影響です。デニソワ人の遺骸は断片的なものがわずかに確認されているだけですが、最近になって、デニソワ洞窟以外にチベット高原にも存在している、と明らかになりました(関連記事)。デニソワ人はネアンデルタール人と近縁な後期ホモ属の分類群ですが、ネアンデルタール人系統との推定分岐年代には幅があり、44万〜39万年前頃との研究(関連記事)や、737000年前頃との研究(関連記事)があります。

 デニソワ人に関しては、デニソワ洞窟で発見された1個体(デニソワ3)から、高品質なゲノムデータが得られています(関連記事)。ネアンデルタール人やデニソワ人といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との交雑は大きな関心を集めており、現代人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域の割合は、パプア人とオーストラリア先住民とで1〜5%、アジア東部および南部集団で0.06〜0.5%、アメリカ大陸先住民で0.05〜0.4%と推定されています。

 現代人におけるデニソワ人由来の適応的な候補遺伝子も、少なからず提示されています。その中で最もよく知られているのは、現代チベット人におけるEPAS1遺伝子で(関連記事)、これは高地の低酸素環境への適応を容易にします。チベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域の割合は低いので、EPAS1遺伝子はチベット人において選択を受けてきたのではないか、と注目されてきました。一方、パプア人やオーストラリア先住民には、EPAS1遺伝子のデニソワ人由来のハプロタイプは確認されておらず、これはチベット高原のような高地環境におらず、選択圧が作用しなかったためと考えられています。

 チベット高原は平均標高が3500m以上で、酸素濃度が低地よりもかなり低いため、ほとんどのヒトに強い生理学的なストレスをもたらします。低酸素環境への一般的な順応の一つはヘモグロビン濃度の増加で、これは血液の粘度を増加させ、妊娠合併症や心血管疾患のリスク増加と関連しています。チベット人は低地住民と比較して、ひじょうに鈍い順化反応を示し、臨床的には上昇したヘモグロビン濃度に苦しまない傾向にあります。この推定される適応反応は、低酸素応答経路の転写因子をコードするEPAS1遺伝子の多様体と直接的に関連しています。

 デニソワ人の存在がアルタイ山脈のデニソワ洞窟でしか確認されていない時には、デニソワ人の遺伝的影響を受けている現代人が、オセアニアやチベットなどデニソワ洞窟から遠く離れた地域にいることをどう説明するのか、議論となりました。これに関しては、遺伝学においてデニソワ人の複数系統からの異なる遺伝子流動事象の可能性が指摘されたことなどから(関連記事)、デニソワ人の分布範囲は広かったのではないか、と推測されました。上述のように、最近ではチベット高原におけるデニソワ人の存在が確認され、この推測の妥当性が少なくとも部分的には証明されました。

 本論文は、現代チベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域を調べ、デニソワ人からの複数の遺伝子移入の痕跡があるのか、そうならば、高地適応と関連するデニソワ人由来のEPAS1遺伝子のハプロタイプは、どの遺伝子移入事象で、いつチベット人の祖先集団にもたらされたのか、このハプロタイプの選択圧はいつ作用したのか、といった問題を検証します。本論文はそのために、以前の研究で公開された78人(そのうち30人が高網羅率の全ゲノム配列)のチベット人のデータセットからEPAS1遺伝子の配列を調べました。

 次に、チベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域に関する情報を用いて、デニソワ人からの遺伝子移入と、デニソワ人由来のEPAS1遺伝子のハプロタイプの選択開始年代が推定されました。また、統合されたデータセットの全ゲノム配列を用いて、他のアジア東部集団と同様に、現代チベット人の祖先集団へのデニソワ人からの遺伝子移入事象が2回起きた、と推測されました。本論文の結果は、アジア東部特有のデニソワ人との混合事象を示し、現生人類における適応的な遺伝子移入パターン形成する、異なる進化的過程の影響を解明します。


●チベット人の祖先における古代型ホモ属からの3回の遺伝子移入事象

 本論文は、チベット人のゲノムにおける古代型ホモ属から遺伝子移入されたと推定される断片を検出するため、SPrimeという手法を用いました。その結果、22対の常染色体全てで、古代型ホモ属に由来する断片が広く確認されました。これら検出された領域のほとんどはネアンデルタール人と高い類似性(80%)を示し、デニソワ人との類似性は低くなっています。一方、ネアンデルタール人との類似性が低く(10%)、デニソワ人との類似性が高い断片も観察されます(50%と80%)。これはデニソワ人から遺伝子移入された断片と推定され、この二峰性分布は、アジア東部におけるデニソワ人的な古代型ホモ属との2回の混合を指摘する仮説(関連記事)と一致しており、そのうちアルタイ山脈のデニソワ洞窟と合致する方は、1回の遺伝子移入事象に由来する、と予想されます。

 EPAS1遺伝子の近くでは、古代型ホモ属からの遺伝子移入と推定される2ヶ所の断片が、EPAS1遺伝子の20万塩基対内の上流と下流で推定され、それぞれアルタイ山脈のデニソワ人とは72%と42%の一致率です。適応的アレル(対立遺伝子)を有するEPAS1遺伝子内で以前に特定された断片は、ナイジェリアのヨルバ人を外群として用いたSPrimeでは検出されませんでした。これは、ヨルバ人がEPAS1遺伝子領域に古代型ホモ属のアレルをわずかに有する、という事実に起因する可能性が高く、ヨルバ人のその領域は、古代型ホモ属との共有系統か、未知の古代型ホモ属との混合か(関連記事)、アフリカからユーラシアへ拡散して古代型ホモ属と交雑した現生人類集団の一部がアフリカへと「逆流した」ことにより起きたかもしれません(関連記事)。

 ただ、ヨルバ人はEPAS1遺伝子にデニソワ人型のハプロタイプを有していませんが、この領域にいくつかの古代型ホモ属由来のアレルが存在すると、SPrimeのようなアルゴリズムを用いての遺伝子移入された領域の検出が妨げられます。じっさい、EPAS1遺伝子にデニソワ人型のハプロタイプを有さないヨーロッパ系集団(CEU)を外群として用いてSPrime分析を繰り返すと、アルタイ山脈のデニソワ人と高い類似性(82.14%)で合致するものの、アルタイ山脈のネアンデルタール人とは低い類似性(28.57%)でしか合致しない、EPAS1遺伝子の中心領域の推定される古代型ホモ属断片は検出されません。この領域では、チベット人においてSPrimeで推定される多様体は、デニソワ人により類似しており、予想されるように、チベット人と漢人との間で高い遺伝的差異化を示します。チベット人における遺伝子移入検出のための外群としてヨーロッパ系集団(CEU)を用いると、以前の観察と同様に合致率のゲノム規模の分布が得られますが、一般に推定される断片は少なく、これらはおもに、ヨルバ人を外群として用いた場合に得られたものの部分集合と示唆されます。以下、デニソワ人と現生人類との複数回の交雑の可能性を示した本論文の図4です。

画像
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/10/02/2020.10.01.323113/F4.large.jpg


●アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入事象によるチベット人祖先にもたらされたEPAS1ハプロタイプ

 上述のように、チベット人における2回のデニソワ人からの遺伝子移入事象と、そのうち1回がアジア東部特有である可能性が示されました。本論文は次に、EPAS1遺伝子において有益なハプロタイプをもたらしたのが、この2回のうちどちらなのか、検証しました。そのため本論文は、EPAS1遺伝子における38人のチベット人の遺伝子移入断片を、デニソワ人との最高の合致率(60%以上)とネアンデルタール人との低い合致率(40%以下)を示す、SPrimeで推定される領域と比較しました。これらの断片は、アルタイ山脈のデニソワ人とより近いデニソワ人集団とのアジア東部特有の遺伝子移入事象経由だった可能性が高く、アジア南部やオセアニアのような他集団では、アルタイ山脈のデニソワ人とのこうした水準の類似性を有する遺伝子移入された断片が欠けています。

 SPrimeは個々の染色体の遺伝子移入断片を推測しないので、チベット人の各ハプロタイプにおけるデニソワ人から遺伝子移入された領域の推測には、隠れマルコフモデル(HMM)が用いられました。EPAS1遺伝子における遺伝子移入された断片は、高いデニソワ人との類似性を示し、最高のデニソワ人との類似性を有する他の断片と似た長さです。EPAS1遺伝子の断片は、領域頻度の点で外れ値にすぎず、これはこの領域に作用する正の選択の予想と一致します。これらの観察に基づくと、チベット人のEPAS1遺伝子のハプロタイプは、アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入事象によりもたらされた、と提案されます。

 しかし、単一のデニソワ人のゲノムのみとの高い類似性は、必ずしもデニソワ人に由来する遺伝子移入断片を意味しません。代わりに、ネアンデルタール人に由来するEPAS1遺伝子の有益なハプロタイプの可能性を調べるため、以前に特定されたチベット人の適応的EPAS1ハプロタイプの長さと一致する、重ならない32700塩基対において、デニソワ人とアルタイ山脈およびクロアチアのネアンデルタール人とチンパンジーでD統計を実行することにより、ネアンデルタール人間の分岐の分布が得られました。この分布は予想通り、ネアンデルタール人2個体が相互により遺伝的に関連しているため、1で最も密度が高くなります。チベット人のEPAS1ハプロタイプがデニソワ人ではなくネアンデルタール人によりもたらされた場合、ネアンデルタール人とチベット人のEPAS1ハプロタイプ間の派生的アレルの共有が増えると予想されるので、D値は分布内に位置する、と予想されます。しかし、その代わりに、EPAS1遺伝子のD値は有意に低いと明らかになり、チベット人のハプロタイプはネアンデルタール人集団に由来せず、チベット人におけるデニソワ人から適応的に遺伝子移入されたEPAS1ハプロタイプが支持される、と示唆されます。


●43000年以上前となるデニソワ人からチベット人へのEPAS1ハプロタイプの遺伝子移入

 次に、現代チベット人の祖先集団とデニソワ人との混合、およびEPAS1遺伝子に作用する正の選択の年代が推定されました。遺伝子移入されたハプロタイプは一般的に、時間の経過とともに断片化するので、混合集団における遺伝子移入された領域の長さの分布をゲノム全体で計算でき、混合年代を推測するのに使用されます。シミュレーションでは予想通り、より最近の混合年代は平均してより長い領域につながる、と示されています。しかし一部の研究では、現在のアレル頻度の1条件であるかどうかに依拠して、選択も遺伝子移入された領域の平均長に影響を及ぼす、と示唆されています。

 そこでシミュレーションにより、現在のアレル頻度を条件付けしない場合、より強い正の選択下で、遺伝子移入された領域の平均長が増加する、と確認されます。これは、正の選択下では、領域がすぐに高頻度に達する一方で、それはまだ長く、組換えにより分断されていないからです。その後、組換えの過程が継続し、ハプロタイプをより多く断片化していくにつれて、組換えが2回の遺伝子移入の領域の合同をもたらす可能性は増加します。換言すると、選択の効果は、遺伝子移入断片間の復帰組換えの可能性を高める、アレル頻度の増加により媒介されます。選択がEPAS1遺伝子多様体に作用したので、このシステムのモデル化では、正の選択と古代型ホモ属との混合の両方を考慮する必要があります。

 混合年代は1741世代前(1世代25年とすると43525年前)と推定され、95%信用区間では60000〜15700年前です。推定選択年代は492世代前(12300年前)で、95%信用区間では50000〜1925年前です。EPAS1遺伝子のハプロタイプの選択係数は0.018と推定されました。本論文の推定では、デニソワ人からの遺伝子移入事象は、アジア東部特有のもの(43000年前頃)がパプア人系統特有のもの(30000年前頃)よりも古くなります。


●複数の遺伝子に影響を及ぼす古代型ホモ属からの遺伝子移入

 次に、古代型ホモ属からの遺伝子移入に影響を受けた他のゲノム領域が、チベット人において正の選択の兆候を示すのかどうか、調べられました。まず、SPrimeで推定された領域が、他の高地適応候補遺伝子と重複するのかどうか、検証されました。候補遺伝子の中心領域もしくは遺伝子の隣接領域の20万塩基対内と重複する古代型ホモ属由来の断片を有する、11ヶ所の特有の領域が見つかりました。しかし、これらの断片のほとんどは正の選択の兆候を示さず、たとえば、EPAS1およびFANCA遺伝子と関連するアレルを除いて、ほとんどのSPrimeで推定されるアレルは、チベット人と漢人との間で、そのゲノム規模の平均的な遺伝的違いと比較して、有意には区別されませんでした。これは、1番染色体上の高地適応と関連するよく知られた他の遺伝子EGLN1にも当てはまり、遺伝子領域全体で遺伝的違いの増加を示し、ネアンデルタール人に由来するアレルを有しますが、古代型ホモ属由来の多様体が正の選択下にある、という証拠を示しません(古代型ホモ属由来のアレルに関しては遺伝的違いが小さくなっています)。これまでの証拠から考えると、高地適応の観点では、EPAS1遺伝子のみが明確な適応的遺伝子移入の兆候を示します。

 次に、他の生物学的経路が、正の選択を促進した古代型ホモ属の遺伝子移入からの寄与を受けたのかどうか、調べられました。ヨルバ人を外群として用いて、SPrimeから特定された全ての一塩基多型を検討したところ、そのほとんどは、おそらくネアンデルタール人かデニソワ人か他の未知の古代型ホモ属集団に由来する、と示されました。EPAS1遺伝子領域の遺伝子移入された断片は、その例外的に強い選択の兆候が他の経路でより弱い兆候を減少させる懸念から、この分析に含まれません。

 古代型ホモ属から遺伝子移入されたアレルは、ゲノムでモザイク状のパターンで保存されているので、各経路に含まれる遺伝子の古代型ホモ属由来のアレルの濃縮を検出することにより、経路の部分集合で正の選択の微妙な兆候が探されました。その結果、古代型ホモ属由来のアレルが濃縮され、正の選択下にあった可能性が推測される、5経路が特定されました。そのうち2経路は、ともにRHOQ遺伝子を含むインシュリン関連経路です。興味深いことに、この遺伝子はEPAS1遺伝子の下流(155000塩基対)にあります。


●まとめ

 以前の研究では、古代型ホモ属からの遺伝子移入は、現生人類において広範な表現型の変異に寄与し(関連記事)、多くの遺伝子移入された遺伝子は、おそらく正の選択の対象だった(関連記事)、と示されています。本論文は、この適応的遺伝子移入の最も説得力のある事例とされる、チベット人におけるEPAS1遺伝子の配列データを用いて、アジア東部におけるデニソワ人からの遺伝子移入の起源と年代に関する一連の問題に対処しました。

 本論文の結果は、アジア東部におけるデニソワ人的な古代型ホモ属との2回の混合を指摘する仮説(関連記事)を支持し、チベット人におけるEPAS1遺伝子の有益なハプロタイプは、アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入に由来し、それはアルタイ山脈のデニソワ洞窟のデニソワ人とより密接に関連したデニソワ人の1集団を含む、と示唆します。EPAS1遺伝子に加えて、古代型ホモ属からの遺伝子移入は、ゲノム全域のさまざまな遺伝子で断片を残しており、低酸素症を含む複数の生物学的経路に影響を及ぼしました。

 本論文は、アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入に関する最初の年代推定を提供します。本論文はそれを43000年前頃と推定し、これは、40000年前頃と35000年前頃のアジア東部の早期現生人類個体におけるデニソワ人の遺伝的痕跡を示した研究(関連記事)と一致します。本論文の推定からは、アジア東部特有のデニソワ人との混合事象は3万年前頃となるパプア人特有のデニソワ人との混合事象よりも古く、アジア人およびオセアニア人系統に共有される、45000年前頃となる最初のデニソワ人との混合事象(関連記事)により近い、と示唆されます。

 古代型ホモ属も含むチベット高原における人類の拡散時期に関しては、まだ議論が続いています。中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ではデニソワ人系統に分類される16万年以上前のホモ属の下顎が発見されました(関連記事)。また最近、白石崖溶洞の10万年前頃の堆積物からデニソワ人系統のmtDNAが確認されました(関連記事)。

 チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡では、4万〜3万年前頃までさかのぼる石器が発見されていますが(関連記事)、当時、チベット高原における長期的な人類の居住は稀だった、と考えられています。チベット高原における現生人類の恒久的(通年)居住に関しては、大規模な定住は4000年前頃に始まった農耕により促進された、との見解(関連記事)が有力です。

 しかし、チベット高原における現生人類の恒久的居住は1万年以上前までさかのぼるとの見解もあり(関連記事)、4000年以上前から狩猟採集民の小集団が居住していた可能性もあります。本論文では、EPAS1遺伝子周辺の領域の長さから、アジア東部特有のデニソワ人との混合年代が43000年前頃と推定されており、これはチベット高原における現生人類の恒久的居住のほとんどの推定年代より古くなるので、この混合はチベット高原外で起きた可能性が最も高い、と示唆されます。

 さらに、EPAS1遺伝子の正の選択の推定開始年代が12000年前頃なので、デニソワ人からもたらされたEPAS1遺伝子のハプロタイプは、デニソワ人からの遺伝子移入事象の直後には選択の標的ではなく、おそらくは、後期更新世もしくは早期完新世における、チベット人祖先集団によるアジア東部低地から恒久的なチベット高原への移住と一致している、と示唆されます。上述のように、デニソワ人も含めてより早期のチベット高原における人類の到来の証拠はありますが、そうしたチベット高原の早期人類がどのくらい長くチベット高原で生き残ったのか、また遺伝的に低酸素環境に適応していたのかどうか、また現代チベット人の直接的な祖先なのかどうか、不明です。チベット人系統の古代DNAを報告した研究は一つしかなく(関連記事)、その古代DNAデータはヒマラヤ山脈のネパール側で得られたもので、最古の個体の年代は3150年前頃です。興味深いことに、これら古代の個体のうち、1750〜1250年前頃と新しい2人だけで現代チベット人に存在するEPAS1アレルが確認されました。この地域の古代人の将来の研究により、チベット高原の人口史はより細かく解明されていくでしょう。

 以前の研究では、アジアにおけるデニソワ人からの遺伝子移入の年代が推定されていますが、本論文の分析とは複数の違いがあります。まず、アジア東部集団へのデニソワ人からの単一の遺伝子移入に関する推測です。以前の研究では、パプア人もしくはチベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の断片の全てを用いており、アジア東部人への2回のデニソワ人からの遺伝子移入事象(関連記事)の平均なのかどうか、あるいはその推定が遺伝子移入事象の一つにより近いのかどうか、不明です。対照的に本論文は、明らかに選択の標的だった単一の遺伝子データを用いています。これは、ゲノムの小さな局所的領域なので、その断片は単一の混合事象によりもたらされた古代型ホモ属由来のDNAの残りである可能性が高い、という利点があります。次の違いは、選択が領域の長さに影響を及ぼすと示されるので、本論文では推測において正の選択が考慮されていることです。他の推定は中立を前提としており、適応的に遺伝子移入された遺伝子座が、遺伝子移入のゲノム規模の要約統計量からの推定を変えるのか、あるいは偏らせるのか、不明です。たとえば、遺伝子移入された領域の長さの分布や、連鎖不平衡崩壊パターンです。最後に、本論文ではパラメータ推定に近似ベイズ計算が用いられましたが、他の研究では、推定手法も推定にいくつかの違いをもたらす可能性がある、ということです。

 本論文では、いくつかの仮定と選択がなされました。まず、わずかな情報量で、大きな信頼区間で反映される、単一遺伝子の配列データが用いられました。不確実性を減らす一つの方法は、アジア東部人におけるデニソワ人からの遺伝子移入事象によりもたらされた、推定される遺伝子移入断片を用いることかもしれませんが、それは、選択がそれらの各領域にどのように作用するのかに関して、異なる一連の仮定を必要とします。第二に、本論文ではチベット人の単純な人口統計学的モデルが想定されており、より複雑なモデルが本論文の推測にどのように影響を及ぼすのか、不明です。しかし、ボトルネック(瓶首効果)の規模が混合年代にはほとんど影響を有さないことも示されました。第三に、本論文では混合割合が0.1%と仮定されていますが、以前のゲノム規模推定では、アジア東部現代人におけるゲノム規模のデニソワ人系統の割合は、0.06〜0.5%です。本論文では、計算効率を確保し、遺伝子移入を受けた集団における有益な変異の最初の喪失の可能性を減らすために、0.1%という推定割合が選択されました。

 本論文では、持続的な古代型ホモ属の変異に作用する選択が変化するという結論は予想されていませんが、より高い混合水準を用いると、持続的な変異の期間は、混合年代のより最近の推定に起因して、減少するでしょう。また本論文では、領域の長さの実際の分布がチベット人においてどのように見えるのか分からず、隠れマルコフモデルを用いて推測されました。隠れマルコフモデルがチベット人における実際の領域の長さをどの程度性格に推測できるのか不明ですが、他の手法でも類似の結果が得られます。隠れマルコフモデルが実際のチベット人の領域の長さを把握できない場合でも、隠れマルコフモデルを実際のデータとシミュレートされたデータの両方に適用することで、同じ偏りが両方で発生し、パラメータ推定値が歪む可能性は低くなる、と期待されます。

 過去10年間で、古代型ホモ属と現生人類との間の遺伝子流動が、現生人類の進化と遺伝的多様性の形成に主要な役割を果たした、と認識され始めました。古代型ホモ属からの多様体の導入は、明らかに複数の集団において地域的環境への適応を促進しました。本論文の結果は、適応的な遺伝子移入はおもに持続的な古代型ホモ属の変異で起きる、という仮説を支持し、他の適応的に遺伝子移入された遺伝子座の分析は、これが適応の起きる主要な形態なのかどうか、明らかにするでしょう。他の古代型ホモ属に由来するゲノム領域を配列し続けると、現生人類における古代型ホモ属からの遺伝子移入の高解像度の全体像が明らかになる、と期待されます。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。本論文は、チベット(関連記事)も含めて、今年になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究を踏まえねばならない、と思います(関連記事)。それに基づくと、ユーラシア東部への現生人類の拡散の見通しは以下のようになります。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万〜5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統(オーストラリア先住民およびパプア人)に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。アジア南東部の古代人では、ホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体がユーラシア東部南方系統に位置づけられます。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系統と南方系統とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族およびオーストロアジア語族集団の主要な祖先となり、前者は華南沿岸部、後者は華南内陸部に分布していた、と推測されます。

 現代チベット人の主要な直接的祖先は、遺伝的にはおもにアジア東部北方系統で構成される黄河流域新石器時代集団と推測されます。現代チベット人と現代漢人との遺伝的差異は、漢人がアジア東部北方系統とアジア東部南方系統との新石器時代以降の混合の流れの中で形成され、おもに地理的な南北の勾配として現れるさまざまな割合の混合を示すのに対して、チベット人はこのアジア東部の南北両系統の混合の影響をさほど受けていない(チベット人でも地域によってはアジア東部南方系統の遺伝的影響が一定以上見られます)、と推測されることにあります。

 もう一つの違いは、漢人にはほとんど見られないユーラシア東部南方系統の遺伝的影響が、チベット人には10〜20%程度と少ないながら確認されることです。これは、Y染色体ハプログループ(YHg)Dの分布とも関わっていると思います。YHg-Dの現代の分布は、日本人とチベット人において高頻度で、とくにアンダマン諸島人ではほぼYHg-D1aで占められています。日本人のYHg-D1aは、現時点ではYHgがDしか確認されていない「縄文人」に由来すると推測されます。「縄文人」は、アジア東部南方系統(55%)とユーラシア東部南方系統(45%)の混合としてモデル化できます。ホアビン文化の個体でYHg-D1が確認されていますが(関連記事)、ユーラシア東部北方系統およびそこから派生したアジア東部系統の古代DNA研究では、まだYHg-D1は確認されていないと思います。したがって、YHg-D1はユーラシア東部南方系統のみに由来する可能性が高いでしょう。

 上述のように、現代チベット人に見られるデニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプは、デニソワ人とアジア東部人の系統との混合事象に由来し、それはアジア東部の40000年前頃と35000年前頃の早期現生人類個体で確認されます。これは具体的には、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性1個体です。田园個体とサルキート個体は遺伝的に類似しており、田园個体は、ユーラシア東部北方系統でも、そこから派生したアジア東部系統とは早期に分岐した系統と位置づけられます。したがって、アジア東部集団特有のデニソワ人との推定混合年代が43000年前頃であることからも、現代チベット人に見られるデニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプは、デニソワ人とユーラシア東部北方系統集団との混合によりもたらされた可能性が高そうです。

 問題は、デニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプの選択の推定開始年代が、この混合事象よりもずっと遅い12000年前頃であることです。この問題の手がかりとなりそうなのは、現代チベット人と類似した遺伝的構成のネパールの古代人のDNA研究では、デニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプが、3150〜2400年前頃と2400〜1850年前頃の個体では確認されず、1750〜1250年前頃の個体で確認されていることです。

 私の知見では、これらを整合的に解釈することは困難です。選択の推定開始年代には幅があるので、実際に始まったのは、黄河流域新石器時代集団がチベット高原へと拡散して恒久的居住を開始し、農耕を定着させた完新世にまで下るかもしれません。あるいは、黄河流域新石器時代集団とよく似た遺伝的構成の集団が、末期更新世もしくは完新世最初期にチベット高原に拡散してきて恒久的居住を開始し、その時点では農耕を伴っていなかったのかもしれません。また、チベット高原でも海抜2500m以上では恒久的居住や農耕開始が遅れたものの、それ以下の地域での恒久的居住はもっと早かったでしょうから、そこで選択が始まったのかもしれません。

 いずれにしても、4万〜3万年前頃のチベット高原の(ほぼ間違いなく)現生人類は、絶滅もしくは撤退により、チベット高原における恒久的居住を確立しなかった可能性が想定されます。ただ、本論文も指摘するように、農耕開始前からチベット高原には小規模な狩猟採集民集団が恒久的に居住していた可能性も考えられ、それがおもにユーラシア東部南方系統の遺伝的構成の集団だったのかもしれません。仮にそうだとして、現代チベット人において、常染色体ゲノムでは圧倒的にユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統の影響が強いのに、YHgはユーラシア東部南方系統にのみ由来すると考えられるD1aが高い割合で残っているのは、不可解なことではあります。これは、同じく常染色体ゲノムではアジア東部系統の影響がずっと強いのに、「縄文人」に由来すると考えられるYHg-D1aの割合が高い、本州・四国・九州を中心とする「本土」日本人と類似しています。この問題は、社会構造や集団間の優劣関係など、複数の要因が考えられますが、現時点では私の知見で的確な見解を提示できず、今後さまざまな文献を読んで推測していくつもりです。


参考文献:
Zhang X. et al.(2020): The history and evolution of the Denisovan-EPAS1 haplotype in Tibetans. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.10.01.323113

https://sicambre.at.webry.info/202012/article_2.html

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