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弥生人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 05 日 07:25:20: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 縄文人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 6 月 20 日 13:41:44)


弥生人の起源


朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。


言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3


▲△▽▼


Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。

ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。


▲△▽▼


3.弥生時代の世界情勢 朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

 

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コメント
1. 中川隆[-11955] koaQ7Jey 2020年8月05日 07:26:20 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[2] 報告

ハプログループ O1b2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/176.html

弥生文化のルーツ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html

弥生人の鳥信仰と太陽信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html

弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html

2. 2020年8月05日 09:38:34 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[8] 報告
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393


『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物
館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

3. 中川隆[-11947] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:46:49 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[12] 報告
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD


形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

4. 中川隆[-11941] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:16:46 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[18] 報告
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。

5. 中川隆[-11699] koaQ7Jey 2020年8月25日 08:06:07 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[4] 報告
日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大
2011年5月5日 発信地:パリ/フランス [ ヨーロッパ フランス ]
https://www.afpbb.com/articles/-/2798334?act=all

日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大


【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来することが、進化遺伝学の観点から明らかになったとする論文が、4日の学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に発表された。

 日本語は、世界の主要言語の中では唯一、起源をめぐって現在も激しい議論が戦わされている。

 主要な説は2つある。1つ目は、定住が始まった3万年〜1万2000年前の石器時代文化に直接由来しているというもの。この時代は原始的な農業も一部で行われていたが、主に狩猟採集生活が営まれていた。アジア大陸からは紀元前200年ごろに人の流入があり、金属製の道具やコメ、農業技術がもたらされたが、言語発達にはほとんど影響を及ぼさなかったというのがこの説の主張だ。


 もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。

■方言の共通祖先の年代は?

 さらなる証拠を求めて、東京大学(University of Tokyo)の長谷川寿一(Toshikazu Hasegawa)教授とリー・ショーン(Sean Lee)氏は、数十の方言の年代をさかのぼり、共通祖先を見つけようと試みた。

 この手法はもともと進化生物学において、化石から採取したDNA断片から系統樹を作成し、数百万年前の祖先までさかのぼる目的で開発されたもの。リー氏によると、言語に適用することには異論もあるが、これまでの実験結果などから、言語には遺伝子のような特性があり、代々の継承を通じて進化することが推定されるという。

 2人は、体の部位、基本動詞、数字、代名詞などの主な210単語について、59方言でリストを作成。数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出すのと同じ要領で、他の方言に影響されていない「変化耐性」を持つと思われる単語を選び出し、コンピューターでモデル化した。

 すると、これらの単語はすべて約2182年前の共通祖先に行き当たった。この年代は、朝鮮半島から大量の渡来人が来た時代に当たる。

 リー氏は、農民の流入が始まった時期はこの時期より少し前の可能性があると指摘しつつ、「日本に流入した最初の農民たちが、日本人と日本語の起源に深い影響を及ぼした」と結論付けている。(c)AFP/Marlowe Hood

https://www.afpbb.com/articles/-/2798334?act=all

6. 2020年8月31日 22:28:45 : ZzdrO3ISFE : NUR6UUF3eGY4R0k=[4] 報告
31名無しさん@お腹いっぱい。2020/08/26(水) 07:34:39.32ID:8hlREdxp

鬼界噴火の影響で轟式土器集団が釜山周辺と山陰に進出した
https://i.imgur.com/MzGV2fP.png
https://i.imgur.com/uVpUZu9.png

7. 中川隆[-9573] koaQ7Jey 2020年11月27日 10:48:11 : NoAzC6KCdU : T2xuTHNJQmhPa2s=[11] 報告
雑記帳 2020年11月27日
韓国釜山市の6000年前頃の人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_34.html

 最近ネットで、朝鮮半島には「縄文人」がいた、というような主張を見かけます。確かに、縄文時代の九州と同時代の朝鮮半島との交流が考古学で明らかになっているので(関連記事)、「縄文人」が朝鮮半島に渡ったとしても不思議ではありません。こうした主張那主要な元ネタの一つとして、韓国釜山市の加徳島で発見された6000年前頃の人類のDNA研究があるようです。日本語記事によると、その研究に関わった一人である篠田謙一氏は公開シンポジウムで、この6000年前頃となる加徳島人集団が日本列島に到来したならば、(縄文人と)混血せずに現代(本土)日本人になる、と述べたそうです。

 検索してみると、この研究は朝鮮語の学術誌である『文物』第9号に掲載された論文のようですが、ネットでは書誌情報しか見つけられませんでした。そこで、Wikipediaを利用して加徳島の朝鮮語表記を確認し、DNAとあわせて検索してみると、論文は見つかりませんでしたが、この論文内容を紹介したブログが見つかりました(内容紹介1および内容紹介2)。このブログ記事から推測すると、本論文は印刷版でしか公表されていないようです。私は朝鮮語を全く解さないので、機械翻訳に頼って内容を確認しましたが、著者は専門家である可能性が高く、少なくとも集団遺伝学に関してかなりの知見があるので、その内容紹介は信用できる、と判断しました。以下、このブログ記事に依拠して、この研究の内容を見ていきますが、機械翻訳なので私の誤認がかなり入っているかもしれません。

 この研究は、釜山市の加徳島の獐遺跡で発見された6300年前頃の人類遺骸のDNAを解析しました。獐遺跡では、朝鮮半島南岸地域の初期新石器時代で典型的な土器が発見されているようです。獐遺跡で発見された48個体のうち埋葬方法が識別可能なのは31個体で、そのうち23個体で屈葬が採用されていたそうです。屈葬は縄文時代の日本列島で一般的ですが、朝鮮半島の新石器時代では基本的に見られないそうで、黒曜石や土器などで交流が確認されている、縄文時代の九州とのつながりが示唆されます。

 獐遺跡の個体のうち、標本2はミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)がD4b1で、標本8はmtHg-D4aです。現代韓国人では、mtHg- D4b1の割合は6.36%、mtHg-D4aの割合は7.7%とのことです。mtHg-D4はアジア東部現代人では高頻度です。韓国の慶尚南道の青銅器時代の遺跡では、21個体のうち11個体がmtHg-D4で、そのうち2個体がmtHg-D4bでした。mtHg-D4は新石器時代には朝鮮半島に定着し、現代まで主流母系の一つだった可能性が高そうです。縄文人では、mtHg-D4a・D4b1はまだ確認されていないようですが、D4b2は確認されています。標本2と標本8は女性と推定されています。

 核ゲノム分析では、獐遺跡の標本2と標本8で違いが見られ、f3統計では、標本2は現代「(本州・四国・九州を中心とする)本土」日本人と、標本8は北海道の礼文島の船泊遺跡で発見された縄文人(関連記事)、次いで現代本土日本人と最も高い類似性を示します。f4統計でも、標本8が標本2よりも縄文人と近い、と示され、標本2と標本8は遺伝的にかなり離れていることが明らかになります。主成分分析でも、標本8が標本2よりも縄文人に近い、と示されます。また、標本2も標本8も、現代韓国人より現代本土日本人に近い、と示されます。標本2も標本8も、現代本土日本人と同程度以上の縄文人系統を有している、と推測されます。

 以上、この研究の内容を、上記の朝鮮語ブログ記事に依拠してざっと見てきました。現代本土日本人は、縄文人とアジア東部大陸部から弥生時代以降に到来した集団との混合により形成され、船泊遺跡縄文人の研究で推定されているように、縄文人の遺伝的影響は9〜15%と少ない、と指摘されています。しかし、この研究は、日本列島で弥生時代が始まる3000年以上前に、朝鮮半島において現代日本人と比較的近い遺伝的構成の集団が存在した可能性を指摘します。つまり、朝鮮半島に縄文人が渡り、そこでアジア東部大陸部集団と混合して形成された祖型本土日本人集団が弥生時代以降に到来し、日本列島では先住の縄文人とあまり混合しなかった可能性も想定されるわけです。この研究は、今年(2020年)になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究を踏まえねばならない、と思います(関連記事)。それに基づくと、ユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散の見通しは以下のようになります。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万〜5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統(オーストラリア先住民およびパプア人)に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系統と南方系統とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族およびオーストロアジア語族集団の主要な祖先となり、前者は華南沿岸部、後者は華南内陸部に分布していた、と推測されます。

 縄文人は、アジア東部南方系統(55%)とユーラシア東部南方系統(45%)の混合としてモデル化できます。このモデルは、Y染色体ハプログループ(YHg)Dの分布とも整合的です。YHg-D1aは現代では日本人とチベット人において高頻度で、とくにアンダマン諸島人ではほぼYHg-D1aで占められています。現代チベット人も15%程度と低頻度ながらユーラシア東部南方系統の遺伝的影響が見られ、アジア南東部では更新世〜完新世の狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団もユーラシア東部南方系統に位置づけられますが、ホアビン文化の個体でYHg-D1が確認されています(関連記事)。一方、ユーラシア東部北方系統およびそこから派生したアジア東部系統の古代DNA研究では、まだYHg-D1は確認されていないと思います。したがって、YHg-D1はユーラシア東部南方系統のみに由来する可能性が高く、その意味でも、ユーラシア東部南方系統が縄文人の一方の主要な祖先だった、と考えられます。

 これらの知見を踏まえて獐遺跡の標本2と標本8を位置づけると、まず問題となるのが縄文人の形成過程です。中国では、古代DNA研究で縄文人的な個体の存在がまだ確認されていないと思いますし、今後も発見される可能性は低いでしょう。朝鮮半島では、縄文人の遺伝的影響を受けたと推測される6300年前頃の個体が、釜山市の加徳島で確認されました。現時点での考古学などのさまざまな証拠からは、縄文人が日本列島で形成された、と考えるのが妥当なところでしょう。上述のように、考古学では縄文時代における九州と朝鮮半島との交流が明らかになっており、日本列島から朝鮮半島へと縄文人が渡り、混合したとしても不思議ではありません。日本列島から朝鮮半島へと渡った縄文人は、朝鮮半島に存在したおもにアジア東部北方系統を主要な祖先とする集団と混合したのでしょう。

 ただ、朝鮮半島南端という釜山市の位置を考えると、獐遺跡の標本2と標本8が当時朝鮮半島でどこまで一般的な遺伝的構成の集団だったのか、朝鮮半島の広範な地域の同時代人のゲノムデータが蓄積されるまで、判断は難しいと思います。この研究でも指摘されていますが、佐世保市の弥生時代の人類遺骸は、遺伝的には縄文人と現代本土日本人の中間で、獐遺跡の標本2と標本8よりも縄文人に近い、と示されています。獐遺跡の標本2と標本8から3000年以上経過しても、九州西北部では先住の縄文人と新たに到来しただろう、おもにアジア東部北方系統を主要な祖先とする集団との混合が起きていたと推測されます。

 したがって、6000年以上前に縄文人が朝鮮半島に渡り、朝鮮半島ですでに現代本土日本人に近い遺伝的構成の集団が形成され、この集団は現代朝鮮人にはさほど遺伝的影響を残していないものの、日本列島に到来し、先住の縄文人とはさほど混合せず、現代本土日本人の主要な祖先になった、とは考えにくいように思います。むしろ、獐遺跡の事例は一時的な例外で、朝鮮半島における縄文人の遺伝的影響は、日本列島の弥生時代の前には「希釈」され、改めてアジア東部北方系統を主要な祖先とする集団が朝鮮半島から日本列島へと到来し、先住の縄文人と混合していった、という可能性の方が高いように思います。

 レヴァント南部では、青銅器時代末期から鉄器時代初期にかけて(関連記事)と、十字軍の時代(関連記事)に、一時的なヨーロッパ系統の遺伝的影響の増加が見られますが、その痕跡は後に「希釈」され、ほとんど検出不可能となります。それと似たような事例が完新世の朝鮮半島でも起きたのではないか、というわけです。上述のように、縄文時代の九州と同時代の朝鮮半島との交流が考古学で明らかになっていますが、一方で、縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部との交流はさほど多くなく、両者の文化的交流は限定的だった、とも指摘されています。もちろん、私見が妥当だと強く主張するわけではなく、今後のアジア東部、とくに日本列島と朝鮮半島の古代DNA研究が今よりもずっと進展するまで、最終的な判断を保留しておくのが妥当だろう、と思います。

https://sicambre.at.webry.info/202011/article_34.html

8. 中川隆[-9314] koaQ7Jey 2020年12月13日 17:52:02 : ZFtpUZyA1g : eXNlS2ouWXVISXc=[15] 報告
1000年前のアイヌ語を再現する (Pre-)Proto-Ainu language





弥生時代の日本語を再現する Proto-Japano-Ryukyuan


9. 中川隆[-8958] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:57:13 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[18] 報告
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244


@ 渡来人の故郷、飛鳥

飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。
日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。

五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。

韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。
法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。

七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。
薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。
この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。
それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。


▲△▽▼

日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0
筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・
2015年5月11日


『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』

仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。

この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。

(韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう)

 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。

この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに?

  碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。

それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。

 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。

 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。

では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。

  一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。

 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。

また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県)

この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。

この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。

当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。

  朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。

 
  筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。

 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。

 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。

朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。

  筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。

  何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。

  また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな???

 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。

その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。

また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。
 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。

  その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。

 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244

10. 中川隆[-8950] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:53:06 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[27] 報告
日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。

倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。

弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。

つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。

国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った脱落者という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。

朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。

____


飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。

「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」

【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.

奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg

11. 中川隆[-8948] koaQ7Jey 2020年12月25日 16:00:21 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[29] 報告
篠田謙一の学説の変化


篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」


篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)




篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png



シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png

12. 2021年3月10日 09:37:07 : Uj2DKea5PM : ZUhYTnd1dThoMDY=[15] 報告
【ゆっくり解説】時代を遡る!弥生時代の食事について
2021/03/01








13. 中川隆[-5223] koaQ7Jey 2021年6月29日 22:26:00 : GeVGXNTzD2 : bXFkc2NISm44QmM=[18] 報告
雑記帳
2021年06月29日
西北九州弥生人の遺伝的な特徴
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、西北九州「弥生人(弥生文化関連個体)」の遺伝的な特徴に関する研究(篠田他., 2019)が報道されました。最近、「弥生人」の遺伝的構成に関するやり取りを見かけたこともあり、「弥生人」の遺伝学的側面の基本文献となる本論文を取り上げるとともに、本論文刊行後の研究にも言及します。

 弥生時代は、日本列島に本格的な水田稲作がもたらされ、在来の「縄文人」と稲作を持ち込んだ主体と考えられるアジア東部本土(大陸部)から到来した人々との混血が始まる時期とされています。そのため、この時期の日本列島には在来集団と大陸から渡来した集団の双方が存在した、と考えられています。形質人類学的な研究から、最初に渡来系集団が侵入した九州ではその情況を反映して、渡来系集団と在来の「縄文人」の系統である西北九州の「弥生人」が存在し、さらに独特の形質を持つ南九州の「弥生人」が暮らしていた、と指摘されています。しかし、各集団の関係や、その後の混血の状況については、依然として多くが不明です。

 長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡では、2個体の弥生時代人骨(成人女性の下本山2号と成人男性の下本山3号)が出土しています。放射性炭素年代測定法による較正年代では2001〜1931年前頃と推定されています。この遺跡は西北九州「弥生人」の居住地域にあり、出土した人骨の形質も「高顔傾向が見られる点に留意しなければならない」と指摘されつつも、全体的には北部九州の「渡来系弥生人」よりは縄文時代の人々と類似する、との結論が提示されています。つまり、下本山岩陰遺跡の弥生時代の2個体は、形質の面からは他の西北九州の弥生時代の人々と同じく、「縄文人」の系統を引く集団の構成員と判断されます。

 本論文は、次世代シークエンサ(NextGeneration Sequencer、NGS)を用いて核DNA を分析し、この問題の解決を目指します。核ゲノムは両親から継承されるので、遺伝的に異なる集団からの遺伝子の寄与についての情報を得られます。2010 年以降、NGSは古代人遺骸のDNA分析に用いられるようになり、得られた核ゲノムの情報は、分析された標本の由来や形質に関して、以前の方法では得られなかった精度の高い推定が可能になっています。日本でも北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)や愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された「縄文人」の核ゲノムが解析されており、その系統的位置についての情報が得られるようになっています。アジア東部本土から稲作農耕民が最初に侵入したとされる北部九州地域の情況を知ることは、現代日本人の成立を知る上で重要な知見となります。その意味でも西北九州「弥生人」の核ゲノム解析は重要です。


●DNA解析結果

 性染色体のDNAのリード数から、下本山2号は女性、下本山3号は男性と判定されました。下本山3号のY染色体ハプログループ(YHg)はOの可能性が高い、と推定されましたが、それ以上の下位区分はできませんでした。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の系統解析では、同一の石棺に合葬された上記の2 体のうち、2号女性のmtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a4、3号男性はD4a1で、前者は典型的な「縄文人」の系統、後者は「渡来系弥生人」の系統のmtHgと判明しています。この異なる2つのmtHgが同一の遺跡、しかも同じ石棺墓に埋葬されていたことは、2号と3号が夫婦関係にあることともに、在来の縄文系集団と弥生時代以降の渡来系集団との混合が始まっていることを予想させますが、母系遺伝のmtHgのデータだけでは、その程度について結論を提示することは困難です。

 そこで、核ゲノムデータでの分析が行なわれました。1KG(1000人ゲノム計画)およびSGDP(サイモン図ゲノム多様性計画)のデータとの比較の結果、下本山2号および3号(以下、両者をまとめての分析では下本山弥生人と表記します)は主成分分析ではともに、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人と縄文人との間に位置します。日本列島の本土とアイヌと沖縄人という3集団との比較でも、下本山弥生人は本土および沖縄集団とアイヌ集団との間に位置し、アイヌ集団の一部とは重なっています。

 外群f3統計(ムブティ人;検証集団X、下本山弥生人)で集団間の遺伝的類似性を比較すると、下本山弥生人は伊川津縄文人や船泊縄文人と最も多く遺伝的浮動を共有し、両者と遺伝的に近い集団と示されました。また、その次に近いのは日本列島の3人類集団で、これは主成分分析の結果と一致します。f4統計(ムブティ人、船泊縄文人;下本山弥生人、検証集団X)でも、下本山弥生人は現代のどの集団よりも縄文人との遺伝的類似性を示しました。また、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人よりも伊川津縄文人の方と遺伝的に近い傾向を示し、外群f3統計の結果とも一致します。

 次に、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、船泊縄文人)で、下本山弥生人に弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系の遺伝的要素が含まれるのか、検証されました。その結果、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人と比較してアジア東部本土集団との遺伝的類似性を示す傾向が確認されました。最後に、弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系要素が下本山弥生人と現代日本人のどちらに多く含まれるのか検討するため、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、現代日本人)が実行され、現代日本人がアジア東部本土か集団との遺伝的類似性が有意に高い、と示されました。


●考察

 上述のように、下本山3号はYHg-Oで、それ以上の下位区分はできませんでしたが、これは渡来系弥生人に由来する、と推測されます。下本山3号はmtHg-D4aで、父系でも母系でも弥生時代以降にアジア東部本土から到来した系統と考えられます。しかし、核ゲノム解析では、下本山3号も縄文人系の遺伝子を有していると示され、在来の縄文集団と弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系集団の双方に由来するゲノムを有している、と明らかになりました。同様に、縄文人系のmtHg-M7a1a4を有していた下本山2 号女性人骨も、核ゲノム解析からは渡来系弥生人に由来すると考えられる遺伝子も有している、と示されました。このような集団内に異なる系統の遺伝子が混在している状況をmtDNAやY染色体DNAの情報で明らかにするには、同一の遺跡から出土した多数の標本を分析する必要があります。しかし、わずかな個体を解析するだけでも混血の状況を明らかにできる核ゲノム解析は、得られる標本が少ない遺跡の解析にはとくに有効であることを示しています。

 日本列島の人類集団の形質は、縄文時代から弥生時代にかけて大きく変化したことが知られており、弥生時代は現代日本人の成立を考える上で重要な時期です。この形質の移行期の九州には、出自の異なる3集団が存在した、と指摘されています。そのうち、西北九州弥生人の顔面部の形態は、低顔性が強く、眉間から眉上弓へかけての高まりが著明で、鼻根部は深く陥没します。男性の身長は160cm以下とやや低く、四肢骨の比率でも、四肢骨の末端が比較的長い縄文人と共通した特徴を有しています。その形態学的な特徴をまとめた研究では、四肢骨の形状に古墳時代の人々につながる特徴も認められていますが、西北九州弥生人は人骨形質と考古学的所見を合わせて、「縄文人の継続であって、新しい種族の影響を受けたとは考えにくい」との結論が提示されています。西北九州弥生人の歯の形態に関する研究でも、北部九州弥生人が縄文人および西北九州弥生人と比較して大きな歯を有し、縄文人と西北九州弥生人との間にはほとんど有意差がなかったことを見いだしており、西北九州弥生人は縄文人の系統の集団である、との結論を提示しています。

 下本山岩陰遺跡は1970 年に発掘されており、以前の研究で西北九州弥生人の遺跡分布の範疇として指摘された地域内に位置します。下本山岩陰遺跡の人骨形態に関する研究では、箱式石棺に埋葬されていた2 号と3 号骨は、縄文人と共通する低顔、凹凸のある鼻根部の周辺形態、四角い眼窩などの特徴を備えている、と報告されています。したがって形態学的な研究からは、下本山岩陰遺跡人骨は縄文人の形質を強く残した西北九州の弥生人集団に含まれる、と判断されます。

 一方、これまで紀元前3世紀から紀元後3世紀までの約600年間と考えられてきた弥生時代の年代幅は、大きく修正されつつあります。21世紀になっての高精度の炭素14 年代法による年代研究の結果、水田稲作が始まったのは、当時考えられていた紀元前5 世紀ごろではなく、約500年古い紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、と指摘されました。ただ、弥生時代の開始年代については議論が続いています(関連記事)。弥生時代が従来の想定よりも長期間に渡る可能性の提示から、この時代における集団の形質の変化についても、千年を超える時間範囲を念頭において考える必要があります。こうした情況において、九州の弥生集団を系統の異なる集団として固定的に把握することが適切なのか、改めて検討する必要があります。

 人骨の試料的な制約もあって、これまで弥生時代における形質の変化を追う研究は困難でした。しかし、高精度の核ゲノム解析が可能になったことで、これまで渡来系や在来系の集団と位置づけられていた弥生人も、時間の中で変化していくものとして把握することが可能となりました。本論文の分析では、下本山弥生人の遺伝的な特徴は、いずれも縄文人と現代の本土日本人の中間に位置する、と明らかになりました。また、下本山弥生人が船泊縄文人よりも伊川津縄文人に近い傾向を示したことから、地理的に近い縄文人が混血に寄与した可能性も示されました。

 主成分分析では下本山弥生人とアイヌの一部の個体が重なっていますが、これは一部のアイヌが本土日本人と混血することで類似の位置にいると考えられ、集団として互いが直接的に関係するわけではない、と推測されます。下本山弥生人は、放射性炭素年代法により弥生時代後期に属すると推測されているので、本論文の結果から、弥生時代末には西北九州地域でも在来の縄文集団と渡来系集団の混血がかなり進んでいた、と示唆されます。形態学的な研究では縄文人系と把握される集団でも、ゲノムの解析では混血が進んでいる、と明らかになったわけです。古代核ゲノム解析により、形態の変化からは定量的には把握できなかった縄文時代から弥生時代への移行の状況の解明が可能であることも示されました。

 本論文の最重要点は、九州の弥生社会が祖先を異にするいくつかの系統に分かれていたという図式から、弥生時代の状況を誤って解釈する可能性を示したことにあります。少なくとも、渡来系弥生人集団と西北九州の弥生人集団の間には、形態学的な研究が予想するよりもはるかに大規模な混血があり、双方は弥生時代の全期間にわたって明確に分離した集団ではなかった、と考えられます。ただ、その交雑の状況は、地域・遺跡ごとにさまざまだった可能性があり、本論文の分析から西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできません。しかし、西北九州弥生人という集団は固定的なものではなく、時代とともに変化していった流動性のあるものだった、と把握する視点は重要でしょう。渡来集団が長い時間をかけて在来集団を取り込んでいったと考えれば、形態学的な研究が定義している渡来系弥生人と西北九州弥生人は、混血の程度の地理的・時間的な違いを固定化して見ているだけである、との解釈も成り立ちます。

 本論文は、1ヶ所の遺跡のわずか2個体を分析したものなので、この結果をそのまま九州全体の弥生時代の状況に演繹することは困難です。しかし、解析個体を増やしていくことで、古代核ゲノム解析は、九州における縄文時代から弥生時代にかけての集団の変遷について、更に詳細なシナリオを描くことになるはずです。日本列島本土では、弥生時代の幕開けとともにアジア東部本土から稲作農耕を行なう集団が渡来し、在来集団と混血していくことで現在につながる集団が形成されていきました。北部九州は、その渡来が最初に始まった地域であり、この地域での混血の状況を明らかにすることは、その後の日本列島での集団形成史を知るための重要な知見を提供します。幸いなことに、北部九州地域は、先人の努力により相当数の渡来系弥生人と西北九州弥生人の人骨が発掘され、保管されています。これらの人骨の核ゲノム解析を進めることで、日本人成立のシナリオは更に精緻なものになるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生人の核ゲノム解析はまだ始まったばかりで、本論文が強調するように、少ない事例から時空間的に広範囲の状況を安易に推測してはならないでしょう。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代の日本列島の人々の遺伝的構成は、縄文人とアジア東部本土集団の間で時空間的に大きな変動幅が見られるのではないか、と予想されます。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だった可能性も考えられます。

 本論文刊行後の研究では、縄文人はユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)の混合として、現代本土日本人は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(関連記事)。九州の縄文時代早期の人類遺骸のDNA解析からは、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的にはかなり均質だった可能性も示唆されています(関連記事)。まだ縄文人と弥生人の核ゲノムデータは少なく、現代日本人の形成過程には不明なところが少なくありません。関東地方に関しては古墳時代における人類集団の遺伝的構成の大きな変化の可能性が(関連記事)、現代日本人の都道府県単位の遺伝的構造からは、古墳時代以降における近畿地方へのアジア東部本土からの移住の影響の可能性(関連記事)が示唆されているように、現代日本人の形成過程においては地域差と年代差も大きいと予想され、その解明には、時空間的により広範囲の古代人の核ゲノムデータが必要となります。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html

14. 2021年7月09日 07:10:19 : MMSUDjOWSU : MHAzRzVjV3poUVk=[3] 報告
雑記帳 2021年07月09日
佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html


 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。同じ著者たちによる長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡の弥生時代の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究を当ブログで取り上げたさい(関連記事)、コメントで佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析に関する研究を教えていただき、調べてみたところ『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集に本論文が所収されていると分かったので、購入しました。他にも興味深い論文が多く掲載されているので、今後当ブログ取り上げていく予定です。

 本論文は、佐賀県唐津市呼子町大友の玄界灘に面した砂丘上に位置する大友遺跡の第5次調査で発見された、弥生時代人骨の核DNA解析結果を報告しています。大友遺跡では、1968〜1980年にかけての4次の調査、1999年の第5次調査と2000年の第6次調査により、それぞれ100個体以上と28個体と22個体の人類遺骸が発見されました。これら人類遺骸の副葬品の分析から、年代は弥生時代早期〜古墳時代初期と推測されています。大友遺跡は、朝鮮半島由来の支石墓をはじめとして、さまざまな様式の埋葬施設があることで知られています。大友遺跡の人類遺骸の特徴は、支石墓人骨を中心に「縄文人(縄文文化関連個体)」と共通する形質および抜歯風習を有する西北九州型とされています。これに関して、在来集団が朝鮮半島の墓制だけ取り入れたか、現時点では朝鮮半島の弥生時代相当期の人類遺骸が少なく判断困難ではあるものの、墓制の保守性・伝統性重視の観点から、被葬者はアジア東部大陸部起源だった、との見解があります。

 大友遺跡の人類遺骸の由来の解明は、日本人、とくに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」集団の成立過程の考察において重要です。日本人の成立に関して形態学的研究では、弥生時代にアジア東部大陸部から朝鮮半島経由で九州北部に到来した多数の「渡来人」が在地の縄文系と集団と混合して成立したという、「二重構造説」が提唱されています。しかし、二重構造説が依拠した人類遺骸の年代は弥生時代中期以降が大半で、最重要である縄文時代〜弥生時代の移行期における人類遺骸を解析の対象としてないことに要注意です。その後、二重構造説は現代人や古代人を対象としたDNA研究からも支持されており、現代「本土」日本人の成立の大枠を説目しています。

 日本列島の古代DNA研究は1990年頃から始まり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析対象とされてきました。mtDNAは細胞内に数百コピー存在するので、核DNAよりも解析が容易です。mtDNAでは、蓄積した変異に基づいたハプログループという分類体系が確立しています。mtDNAハプログループ(mtHg)は、人類拡散の過程で集団に共有されたり、新規に形成されていったりするので、その分布調査により、古代から現代における人類集団の移住と拡散の歴史を解明できます。

 ただ、これまでの分析では既存のmtHgに基づいてmtDNAの一部領域のみを分析しているので、情報量が限られています。また、mtDNAは母系遺伝なので、男系の情報が欠落します。さらに、「縄文人」と「渡来系弥生人」の混血度合といった定量的分析では誤差も多く必ずしも有効な手段ではないなど、複数の点で課題がありました。この状況は、2010年から次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、大きく変化しました。NGSにより古代人遺骸のDNAの網羅的分析が可能になり、mtDNAよりもはるかに多くの情報を有する核DNAの解析が可能になりました。mtDNAに関しても、新規のmtHgや個体特異的な変異の検出も可能となりました。そうした解析から描かれる集団成立史の想定は、以前よりも精緻なものとなっています。

 これまでの形態学的研究から、西北九州「弥生人」は「縄文人」系統の集団と考えられてきました。しかし、上述の下本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、縄文系と「渡来系弥生人」双方のDNAが示され、両系統の混血がかなり進んでいた、と明らかになりました(関連記事)。しかし、混血の地理的・時期的な変遷はまだ不明なので、本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成について結論づけるのは時期尚早です。そこで本論文は、大友遺跡の弥生時代早期の人類遺骸の核DNA解析結果を報告し、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成に新たな知見を加えます。


●DNA解析

 本論文がDNA解析の対象とした人類遺骸は、側頭骨が残存する個体のうち、オオツタノハ貝製腕輪を装着した5次8号支石墓の熟年女性(以下、大友8号)です。年代は弥生時代早期で、支石墓の下部構造は土壙墓です。側頭骨錐体部はDNAの保存状態が良好な部位とされます。大友8号は、X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から女性と判断され、これは人骨の形態学的所見と一致します。大友8号のmtHgはM7a1a6です。大友8号は、一塩基多型データに基づいて、主成分分析でアジア東部の現代人および古代人と比較されました。アジア東部大陸部の集団は、北から南にかけて、集団ごとにクラスタを形成しながら中央付近で左右方向に連続的に分布しました。日本列島本土現代人は上方に離れてクラスタを形成し、さらに上方に縄文人が位置しています。この分布は、縄文人がアジア東部で遺伝的に特異的な集団であることに加えて、日本列島本土現代人が縄文人由来の遺伝要素を受け継いでいる、と示します。弥生時代早期の西北九州弥生人型である大友8号は、縄文人の分布範囲内となり、アジア東部大陸部や日本列島本土現代人から大きく離れています。一方、同じく西北九州弥生人とされる弥生時代末期の本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人の間に位置します。


●考察

 大友遺跡出土人骨は、形態学的には典型的な西北九州弥生人型で、縄文人と共通する形質を有することから、その遺伝的背景と由来が注目されます。大友8号は、土圧などによる歪みが強く計測されていないものの、形質的には著しい低顔傾向など縄文人的な特徴が指摘されています。大友8号のmtHgはM7a1a6で、縄文人に典型的なmtHgです。南西諸島の古代人のmtDNA分析(本書に所収されている別論文、今後当ブログで取り上げる予定です)から、南西諸島集団のmtHg-M7aは下位区分では九州以北の古代人や日本列島本土現代人集団とも異なる、と明らかになっており、大友8号のmtHg-M7aは本土集団と共通します。大友8号の副葬品は南海産のオオツタノハ貝製腕輪ですが、遺伝的に母系では南西諸島集団からの影響は見られません。

 核DNAを用いた主成分分析では、大友8号は縄文人クラスタの範疇に収まり、大陸系集団との混血の影響は見られませんでした。これは人骨の形態的特徴と矛盾しません。支石墓は朝鮮半島に起源がある墓制なので、(1)土着住民が朝鮮半島の墓制を取り入れたか、(2)朝鮮半島で支石墓を墓制とする集団に起源がある、と考えられます。(2)では、朝鮮半島にも西北九州弥生人のように人々がいたのか、問題となります。現時点では人骨の形態学的証拠は乏しいものの、韓国釜山市の加徳島の獐項(ジャンハン)遺跡の6300年前頃の2個体の核DNAが解析されており、現代韓国人よりも縄文人的と明らかになっています(関連記事)。しかし、獐項遺跡の2個体の縄文人的な遺伝的構成の割合は日本列島本土現代人と同程度かそれ以下で、西北九州弥生人である大友8号や下本山岩陰遺跡の弥生人2個体とは遺伝的に大きく異なります。これらの知見を踏まえると現時点では、朝鮮半島に西北九州弥生人と遺伝的に同質の集団を想定するよりも、西北九州在来集団が朝鮮半島の墓制を取り入れた、と想定する方が妥当なようです。

 西北九州弥生人の中でも、早期の大友8号とは異なり、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は渡来集団との混血がかなり進んでいます。これを地域差と年代差のどちらと解釈すべきなのか、現時点の限定的データからは明らかではありません。大友遺跡人類遺骸の同位体分析による食性分析では、時代が下るとともに、当初の漁撈依存から穀物依存の度合が高まる、と明らかになっています。大友遺跡の古墳時代初期の人類遺骸の中では、1個体だけ九州北部弥生人との強い類似性が示され、渡来系弥生人の流入の可能性が指摘されています。これらの知見から、西北九州弥生人でも、時期的・地理的に差はありつつ混血が進んだと考えられますが、今後、同時期の朝鮮半島南部および九州北部集団の古代人のDNA分析を継続することで、その実態がより精緻なものになる、と期待されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代早期の九州の大友8号も遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と明らかになったことで、改めて弥生時代の人類集団の遺伝的異質性の高さが示されたように思います。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 その形態から縄文人的と評価されてきた西北九州弥生人のうち、早期の大友8号は核DNAの解析で既知の縄文人の範囲に収まりますが、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人集団との間に位置し、縄文人系集団と弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団との混合集団だった、と示唆されます。本論文が指摘するように、これが地域差と年代差のどちらを反映しているのか、現時点では不明ですが、いずれにしても、弥生時代にはアジア東部大陸部に最も近い西北九州でも、遺伝的には縄文人そのものの集団が早期に存在し、末期においても、日本列島本土現代人集団よりもずっと縄文人の遺伝的影響の強い個体が存在したことになり、弥生時代の日本列島本土ではまだ縄文人の遺伝的影響が根強く残っていた、と示唆されます。

 日本列島本土人類集団の遺伝的構成が、縄文人的なものからアジア東部大陸部現代人的なものに近づく過程は弥生時代もしくは縄文時代晩期に始まって長期にわたり、地域・年代差が大きかった、と推測されます。今後、時空間的に広範囲の古代DNA研究が進むことで、日本列島本土現代人集団の形成過程がより明らかになっていくと期待されます。アジア東部の古代DNA研究も進んでおり(関連記事)、縄文人や弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団の形成過程、さらには弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団にどのような年代差と地域差があるのか、といった問題の解明も今後進んでいきそうです。

 また本論文は、縄文人の遺伝的構成が長期にわたってかなり均質だった可能性を改めて示します。最近、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された縄文時代早期の人類遺骸の核DNAが解析され、既知の縄文人の範疇に収まる、と明らかになりました(関連記事)。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されていましたが(関連記事)、縄文時代早期と弥生時代早期の西北九州の個体から縄文時代後期の北海道の個体(関連記事)まで遺伝的に古代および現代の人類集団と比較して緊密なまとまりを示すとなると、縄文人は長期にわたって広範囲に遺伝的には均質だった可能性が高そうです。

 最近、中国南部の広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11000年前頃の1個体(隆林個体)が、未知の遺伝的構成だと明らかになりました(関連記事)。未知の遺伝的構成とはいっても、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)ユーラシア東部集団の範疇に収まり、その中では他の古代人および現代人と比較して異質の遺伝的構成というわけで、縄文人と位置づけが似ています。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の前後でユーラシア東部に拡散してきた現生人類集団は各地で孤立して遺伝的に分化していき、固有の遺伝的構成を形成していったのではないか、と推測されます。そうした集団の中には、隆林個体的集団のように絶滅したものや、縄文人のように一部の現代人に遺伝的影響を残したものもいたのでしょう。孤立性の高い日本列島において、縄文人は長期にわたって独自の遺伝的構成を維持し続けた、と推測されます。

 上述の韓国釜山市の加徳島の獐項遺跡の6300年前頃の2個体の事例からも、縄文人が日本列島から朝鮮半島に渡海したか、縄文人的な遺伝的構成の集団が日本列島だけではなく朝鮮半島南部にも存在した、と考えられます。しかし、縄文時代の日本列島と同時代の朝鮮半島の文化的交流は限定的で、対馬海峡で文化的に区分される、と指摘されています(関連記事)。その意味で、もちろん文化と遺伝を安易に同一視できないとはいえ、縄文時代と同時期の朝鮮半島において縄文人的な遺伝的構成の集団が大きな影響を有したとは考えにくく、縄文人が日本列島から朝鮮半島へと渡海しても、その影響は限定的で、獐項遺跡の6300年前頃の2個体も、その後の朝鮮半島や日本列島の人類集団に遺伝的影響を残さなかった可能性もじゅうぶんあるとは思います。弥生時代には、遺伝的にアジア東部大陸部の現代人集団と類似して縄文人とは大きく異なる集団が、大陸部から改めて到来したのではないか、と現時点では想定していますが、今後の古代DNA研究の進展により、大きな修正が必要になるかもしれません。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究も最近になって目覚ましく発展しており、今後の研究の進展が楽しみです。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

15. 2021年7月13日 11:06:11 : TXygMoa43s : WmtBVXNOYUZVemc=[22] 報告
雑記帳 2021年07月13日
鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_13.html


 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺遺跡は、弥生時代前期末から古墳時代初期の遺跡です。1998年度から2000年度の発掘調査で、2区から単独の頭蓋骨(頭骨33号)、3区B26南東側から漂着人骨1体、4区北西側と南西側からそれぞれ漂着人骨2と3、8区西側に検出された溝跡(SD38)から人骨約5300点(少なくとも109個体以上)が、土器などの遺物とともに出土しました。堆積層から出土し、同一層に共伴する土器の形式および人骨の年代分析から、頭骨33号と漂着人骨1および2は弥生時代中期、SD38人骨群は弥生時代後期と明らかになっています。人骨は泥湿地から出土したため保存状態が良好で、中には脳が残っている個体もあります。人骨には多数の殺傷痕が認められ、年代が『三国志』に見える「倭国大乱」の時期と重なってくる点で、発見当時から注目された遺跡でした。

 青谷上寺遺跡出土の人骨については、形態学的研究とともにDNA解析も行なわれ、32個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定され、さらに保存状態良好な6個体で核DNAが解析されました。これらの研究成果の一部はすでに報道されていました(関連記事)。DNA解析から、青谷上寺遺跡出土の人骨については、母系遺伝のmtDNAでは「(縄文時代晩期もしくは弥生時代以降の)渡来系」型が大半なのに対して、父系遺伝のY染色体DNAでは大半が「縄文系」と明らかになり、婚姻が在来系集団と「渡来系」集団との間で無作為に行なわれなかった可能性が示唆されています。一方、核DNA解析では、両集団の混血が進み、総体としては本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人集団に近い遺伝的組成だったことも明らかになりました。また、個体間の遺伝的違いが大きく、混血が充分には進んでいなかったことも示唆されています。これらの知見は興味深いものの、核DNA解析された個体が不充分なので、結論の提示は困難でした。本論文は、新たに核DNAが解析された複数個体の結果を踏まえて、この問題を検証します。


●DNA解析

 新たにDNA解析された漂着人骨1号および2号では、mtHgがそれぞれD4b2b1dとN9b3と分類され、前者は「渡来系」、後者は「縄文系」と考えられます。核DNAは、漂着人骨2号からの抽出はできず、1号のみとなりました。新たに合計で7個体の核DNA解析に成功し、平均深度は0.0014〜1.57倍です。X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から性別が推定され、男性が5個体、女性が2個体です。男性5個体のY染色体ハプログループ(YHg)は、頭骨19号がDもしくはD1b、頭骨25号がO1b2a1、頭骨25号が不明、頭骨9号がD1b、漂着人骨1号がO1b2a1a1です。YHgを定義する変異が明記されていませんが、YHg-D1bは現在のD1a2aだと思います。

 主成分分析により、アジア東部の現代人および古代人と比較した結果、青谷上寺遺跡個体群はおおむね現代日本人の分布範囲内に収まりましたが、個体間でバラツキが見られます。これに関してはデータ不足も考慮する必要があるかもしれませんが、比較的核DNAの網羅率が高い漂着人骨1号と8号も離れていることから、このバラツキは個体間の遺伝的構成の違いを反映している、と考えられます。日本列島の古代人では、九州北部の弥生時代中期人骨の福岡県那珂川市の弥生時代の安徳台遺跡5号が最も近接しており、西北九州弥生人の佐世保市下本山岩陰遺跡の2号および3号(関連記事)とは離れています。

 f4統計では、核DNAが解析された青谷上寺遺跡13個体のうち6個体は、現代日本人と比較して縄文人的な遺伝要素が少ない傾向にある、と示されました。一方で青谷上寺遺跡8号は、現代日本人と比較して縄文人的な遺伝要素が多い傾向にある、と示されました。これらの結果は、主成分分析のアジア東部大陸部集団から縄文人にかけての中央から左上にかけての軸に沿ったバラツキとも一致します。つまり、青谷上寺遺跡個体群の遺伝的な構成のバラツキが、縄文人的な遺伝要素の大小によることを示しています。


●考察

 青谷上寺遺跡で発見された人骨40点のうち36点でmtDNA分析が成功し、血縁関係が疑われる個体を除くと、31系統が確認されました。そのうち、在来の縄文人系のmtHgは2系統です。父系遺伝のY染色体では、現代日本人におけるYHgの頻度は、Cが5.4%、Dが39.6%、Oが53.8%です(2013年の研究)。2019年の研究では、日本列島本土現代人集団でCが8.2%、Dが35.34%、Oが55.1%です(関連記事)。青谷上寺遺跡個体群では、在来の縄文人系統のYHg-C・Dはそれぞれ2個体と3個体の計5個体(と本論文は示しますが、縄文人でまだYHg-Cは確認されていないと思います)、渡来系のYHg-Oが3個体と、依然として縄文人系統の割合は高いものの、現代日本人の比率とそうかけ離れた割合ではありません。これに関しては、婚姻が無作為ではなかった可能性も指摘されていますが、より多い情報を有するX染色体からも検証は可能で、今後の課題となります。

 核DNAが解析された青谷上寺遺跡13個体は、集団の総体として現代日本人に近い遺伝的傾向を示します。一方で、個体間のバラツキが見られ、その要因は縄文人的遺伝要素の強弱にある、と示されました。この強弱の要因の検討点として、資料の年代差、階層との関連、外部集団の流入や混血、在来系と渡来系の混血開始から経過した世代が浅くて充分な混血が進んでいない可能性、などが挙げられます。

 このうち年代については、青谷上寺遺跡の人骨はおそらく同時期に8区画西側の溝に放棄されており、強弱の要因とは考えられません。青谷上寺遺跡33号および漂着人骨1号と溝跡の人骨群との関係は明らかではありませんが、それで結論が変わることはありません。階層については、青谷上寺遺跡のように溝から無秩序に産卵した状態からの人骨からの検討は難しそうで、他の遺跡も含めて階層のはっきりした試料の分析により検討が可能になるかもしれません。外部集団との関りについては、mtHgの多様性から、ヒトの流入が多かったと推測されています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。青谷上寺遺跡は、DNAが解析された個体数の多さからも、現代日本人の形成過程の考察において今後も重要な役割を果たすことになるでしょう。青谷上寺遺跡個体群は遺伝的に、おおむね日本列島本土現代人集団の範疇に収まるものの、個体差が大きく、これをどう解釈するかは、本論文が指摘するように今後の課題となります。青谷上寺遺跡個体群からは、渡来系の女性を在来(縄文人)系の父系集団が受け入れていった、とも解釈したくなりますが、現代日本人のYHg-C・Dのうち、本当に縄文人由来と言える系統がどれだけあるのか、という点も今後の検討課題になるように思います(関連記事)。青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから直接的に朝鮮半島と交易したと推測されており(関連記事)、この考古学的知見も青谷上寺遺跡個体群の遺伝的構成を解釈するうえで重要となりそうです。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307

https://sicambre.at.webry.info/202107/article_13.html

16. 2021年7月15日 11:41:49 : SX7bl0bdbE : S0ttVi9nWExJTTY=[7] 報告

2021年07月14日
出雲市猪目洞窟遺跡の古代人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_14.html


 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。日本人の成立に関して形態学的研究では、弥生時代にアジア東部大陸部から朝鮮半島経由で九州北部に到来した多数の「渡来人」が在地の「縄文系」と集団と混合して成立したという、「二重構造説」が提唱されています。その後、二重構造説き現代人や古代人を分析対象としたDNA研究でも支持されており、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人集団の大枠を説明する、と考えられています。

 一方、たとえば「弥生人」の歯の形態学的分析から、「渡来系集団」の影響と拡散の状況には地域差があると示されていますが、日本列島において弥生時代から現代までどのように混血が進行したのか、不明な点が多く残されています。本論文は、島根県出雲市猪目洞窟遺跡から出土した弥生時代中期〜古墳時代の人骨のDNA解析結果を報告します。7個体でミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析され、このうちDNAの保存状態がとくに良好な2個体の核DNAが分析されました。これらの研究成果の一部はすでに報道されていました(関連記事)。


●DNA解析

 分析された7個体のうち、猪目3-3-1以外の6個体では良好なmtDNA分析結果が得られました。mtDNAハプログループ(mtHg)は、猪目3-3-1が明確に分類できず、Aの可能性が指摘されています。その他の個体はmtHgが明確に決定され、猪目13号と猪目3-2-1と猪目1-1-1がM7a1a1a、猪目3-1-1がD4g1、猪目3-1-2がN9a2a1、猪目3-2-2がD4b1a1aです。核DNA解析は、猪目3-2-1(紀元後6〜7世紀)と猪目3-2-2(紀元後8〜9世紀)で行なわれました。平均深度は、猪目3-2-1が0.53倍、猪目3-2-2が5.60倍です。X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から、猪目3-2-1は女性、猪目3-2-2は男性と判定されました。猪目3-2-2のY染色体ハプログループ(YHg)はO1b2a1a1です。主成分分析でのアジア東部の現代人および古代人との比較では、猪目3-2-1と猪目3-2-2は現代日本人の分布範囲内に収まりました。より詳細に他集団との関係を明らかにするためのf4統計では、猪目3-2-1と猪目3-2-2は現代日本人よりも有意に「縄文人」に近い、と示されました。


●考察

 猪目洞窟遺跡の6個体のmtHgは、在地の縄文人系統に由来するM7aと、渡来系に由来するN9a・D4b1・D4g1が見られます。父系遺伝のY染色体でも、渡来系に由来するO1b2a1a1が見られ、mtHgと矛盾しません。YHg-O1b2a1a1を含むYHg-O1b2は、日本列島本土現代人と現代韓国人においてそれぞれ29.3%と31.4%と高頻度で見られる主要なYHgで、他のアジア北東部やアジア南東部の集団でも低頻度で見られます。YHg-O1b2でも祖型とその下位区分の出現頻度は、日本列島本土現代人と現代韓国人で異なり(前者では7.7%と22.0%、後者では33.3%と4.0%)、日本列島本土現代人に特徴的なYHgは猪目洞窟遺跡の個体でも見られました。これは、猪目洞窟遺跡集団が在地の縄文人系と渡来系の混血集団であることと共に、現代日本人へ遺伝的につながる系統であることを直接的に示しています。核DNAデータを用いた主成分分析から、猪目3-2-1と猪目3-2-2の混血度合は日本列島本土現代人(東京)とほぼ同程度と推測されます。しかしf4統計では、猪目3-2-1と猪目3-2-2は日本列島本土現代人(東京)よりも縄文人的だったことから、混血が充分には進んでいなかったことも明らかになりました。

 猪目13号は弥生時代中期までさかのぼるので、DNAが分析された猪目洞窟遺跡の6個体の年代幅は1000年近くになります。猪目13号のDNA保存状態も良好なので、核DNA分析に適しており、猪目洞窟遺跡では弥生時代から古墳時代までの遺伝的変遷の解析も今後可能です。年代測定が行なわれていない猪目3-1-1と猪目3-1-2と猪目1-1-1も核DNA分析が可能です。今後、これらの個体の核DNA分析により、猪目洞窟遺跡集団の成立についてより詳細な解明が可能になる、と期待されます。

 mtDNA分析では興味深い結果が得られました。猪目13号と猪目3-2-1と猪目1-1-1はmtHg-M7a1a1aに分類され、mtDNA全配列でも完全に同一でした。通常、1ヶ所の遺跡で複数個体から同一のmtDNA配列が確認された場合、母系で血縁関係にあると判断されますが、年代測定では、猪目13号が紀元前4〜紀元前2世紀、猪目3-2-1は紀元後6〜7世紀と時期が離れています。つまり、猪目洞窟遺跡では母系で遺伝的に類似の集団が長期にわたって埋葬されていた、と考えられます。また遺伝的多様性は低く、6個体のうち3個体が同一のmtHgです。対照的に、鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代後期人骨36個体のmtDNA分析ではさまざまなmtHgが検出されており、猪目洞窟遺跡よりも遺伝的多様性が高くなっています(関連記事)。今後、両遺跡の核DNAを比較することで、両集団の成立過程についてより詳細な検証が可能となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。猪目洞窟遺跡集団は遺伝的に、古墳時代の個体は日本列島本土現代人集団の分布範囲内に収まるものの、縄文人の遺伝的影響は日本列島本土現代人よりもやや高いと推測されており、日本列島本土現代人集団の遺伝的構成は、西日本ではおおむね古墳時代までに形成されていたものの、その後の混合も一定以上の役割を果たした、と推測されます。猪目洞窟遺跡集団で注目されるのは、長期にわたる母系での遺伝的に類似した集団の存在ですが、当時の社会構造を推測するには、さらに多くの遺伝的および考古学的データが必要になるでしょう。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340

https://sicambre.at.webry.info/202107/article_14.html

17. 2021年7月16日 11:22:15 : sYFWmwfDwI : WVVBRG5XRlp5U0k=[10] 報告
雑記帳 2021年07月16日
高松市茶臼山古墳の古墳時代前期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_16.html


 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。香川県高松市の高松茶臼山古墳は、古墳時代前期の讃岐における最大規模の前方後円墳です。1967年に発掘調査が行なわれ、第T主体部から第[主体部までの8つの埋葬施設が検出されています。このうち、第T主体部から2体(E地区とW地区)、第V主体部から1体の人骨が出土しています。第V主体部の人骨のミトコンドリアDNA(mtDNA)分析からは、(縄文時代晩期もしくは弥生時代早期以降の)アジア東部大陸部からの「渡来系」集団に由来するmtDNAハプログループ(mtHg)D4m1が検出されています。高松茶臼山古墳は、その規模から讃岐の盟主的古墳と理解されており、埋葬されていた人物のさらなる遺伝的背景が注目されます。本論文は、mtDNA解析に成功している第V主体部の人骨(茶臼山3号)の核DNA分析結果を報告します。

 茶臼山3号は、X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から男性と判断され、これは人骨の形態学的特徴による推定と一致します。茶臼山3号のY染色体ハプログループ(YHg)はC1a1です。主成分分析によるアジア東部の現代人および古代人との比較の結果、茶臼山3号は現代日本人の分布範囲内に収まりました。より詳細に他集団との関係を明らかにするためのf4統計では、茶臼山3号は現代日本人よりも統計的に有意に縄文人に遺伝的に近い、と示されました。

 茶臼山3号のYHg-C1a1を含むYHg-Cは、在来の「縄文系」に由来すると考えられており、とくにYHg-C1a1は現代人ではほぼ日本人に固有です。本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人におけるYHg-Cの頻度は、2013年の研究では5.4%で、2019年の研究では8.2%です(関連記事)。一方、茶臼山3号のmtHg-D4m1は「渡来系」集団に由来すると考えられます。茶臼山3号は、父系では在来の「縄文系」、母系では「渡来系」となり、在来系と「渡来系」の混血後の集団が古墳時代の讃岐まで広く分布していた、と改めて示されました。これは、より大規模なデータである核DNA解析でも支持されましたが、茶臼山3号は日本列島「本土」現代人(東京)よりも「縄文人」的だったことから、混血がまだ充分には進んでいなかったことも示されました。ただ、茶臼山3号のDNAの汚染率はやや高めなので、それが解析結果に影響を与えている可能性もあります。

 これまでの弥生時代〜古墳時代の人骨の核DNA解析結果から、「渡来系」集団の影響と拡散には地域差が見られます。このような傾向は形態学的研究でも指摘されており、膨大なDNA情報を用いた解析により、その精度がはるかに高まっています。今後、分析個体を蓄積していき、DNAデータから混血の程度を定量的に評価することで、日本列島における混血の実態がより明らかになるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。古墳時代前期の讃岐の有力者と思われる男性は、父系では在来の「縄文系」、母系では「渡来系」と推測されています。ただ、YHg-C1a1はまだ「縄文人」では確認されていないと思いますので、「縄文系」と断定することはできないでしょう。この問題の解決には、日本列島に限らずユーラシア東部の時空間的に広範囲の古代DNA研究の進展が必要になります。同じく「縄文系」とされている現代日本人のYHg-Dも、そのうち一定以上の割合が弥生時代以降の「渡来系」である可能性を現時点では想定しておくべきではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373

https://sicambre.at.webry.info/202107/article_16.html

18. 2021年7月20日 08:21:25 : PyEbk2yR7o : cU1ic1FSWXJYZU0=[9] 報告
雑記帳 2021年07月20日
福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_21.html

 本論文(篠田他.,2020)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2018年度】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。福岡県那珂川市の安徳台遺跡は弥生時代中期の大規模な集落で、1997年〜2003年までの7年間の発掘により、集落跡からは多くの住居跡や豊富な副葬品のある首長の墓と推定される10基の甕棺墓が発見されています。このうちの6 基は4 m×5 m の巨大な墓坑に集中して埋葬されており、貝輪やガラス製の勾玉や鉄剣などが副葬品として共伴していることから、この地域の有力首長の墓と考えられています。そのうち5 基の甕棺には人骨が残存しており、発掘の当初から、埋葬された人々の系統や被葬者間の血縁関係などに関心が持たれました。

 発掘当時にも、形態学的な研究とともにDNA の分析が試みられました。古人骨由来のDNA 分析では、解析した個体間の血縁関係に関する解析と、集団間の比較が行なわれますが、当時の分析法の限界から、解析対象は母系に遺伝するミトコンドリアDNA(mtDNA)の一部領域に留まっており、そこから得られる情報にも限界がありました。また、最初に研究結果が報告された2006年以降にも縄文人と弥生人のDNA 分析が進み、現在では在来系の「縄文人」と弥生時代以降に渡来した人々のDNAについて多くのデータが蓄積されているので、系統に関してもより詳しい分析が可能になっています。とくに古人骨に残るDNA の解析は、次世代シークエンサ(NGS)と呼ばれる機器の開発により、2010 年以降に大きく進展しています。それまで不可能と考えられていた核DNAの解析も可能になったことで、1個体の分析だけでも、集団の遺伝的な特徴などの把握も可能になりました。本論文は、以前にmtDNAが分析された標本のNGSによる再解析結果を報告します。

 安徳台遺跡の10 基の甕棺のうち、これまで8 基が調査されており、その中で人骨が残っていた5基(安徳台2・3・5・8・10号)について、2016 年に再度標本を採取してNGSによる分析が行なわれました。以前は、DNAが最も残っているのは歯とされていましたが、最近では側頭骨錐体にある内耳骨にDNAが最も残っている、と考えられています。この研究でも、側頭骨からの標本抽出が可能な人骨については、錐体部が用いられました。分析の結果、mtDNAハプログループ(mtHg)の決定に充分な量のDNA断片が得られたのは安徳台5号だけでした。安徳台2号と10号では側頭骨が用いられましたが、いずれも満足な結果を得られず、形態が保たれている側頭骨であっても、必ずしも解析に足るDNA が残っていないこともある。と判明しました。安徳台遺跡は限られた地域に複数の甕棺が集中しており、その血縁関係に関心が持たれていましたが、今回の解析で確実な結果が得られたのは1個体だけだったので、相互の関係についての議論はできませんでした。

 安徳台5号のmtHgはB5bですが、これまでに報告されている下位区分のB5b1〜5のいずれとも異なる特殊な系統で、中国で報告されている2個体とともにB5b6系統を形成します。現代人では、mtHg-B5はおもに中国南部に分布しており、現代日本人におけるmtHg-B5の割合は4.3%程度です。これまでに報告されている「縄文人」にはmtHg-B5は存在せず、弥生時代以降にアジア東部大陸部からもたらされた、と推測されます。

 安徳台5号では核ゲノムも解析され、Y染色体と判定されるDNA断片がほとんどないことから女性と判断されましたが、これは形態学的研究とも一致します。安徳台5号の核ゲノムデータから抽出された1098136ヶ所の一塩基多型データを用いて、おもにユーラシア東部の現代人と古代人を対象として主成分分析が実行されました(図2)。図2で、下から斜め右上の方向に向かって、現代の大陸の集団が北から南に向かって並んでいますが、これはアジア南東部からアジア東部の集団が互いに関係を持ちながらも、ある程度遺伝的に分化している様子を示しています。一方、現代日本人(本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人)はこの大陸集団から離れた部分に位置しています。さらに、北京の中国人(漢人)と現代日本人の中間に1人の韓国人が位置しており、北京の中国人と現代日本人を結ぶ直線の反対側のはるか離れた場所に「縄文人」が位置しています。以下は本論文の図2です。
画像

 安徳台5号は、形態学的にも考古遺物の検討からも、典型的な「渡来系弥生人」と考えられています。したがって、安徳台5号の核ゲノムは「渡来人」の源郷と考えられる朝鮮半島や「中国」と類似する、と予想されました。しかし、その遺伝的な特徴は現代日本人の範疇に収まるものでした。この結果を単純に解釈すると、「渡来系弥生人」もかなり在来の「縄文人」と混血が進んでいたことになります。ただ現状では、弥生時代開始期における大陸側の遺伝的な特徴が明らかになっていないので、その検証はできません。今後、朝鮮半島における集団の遺伝的な変遷が明らかになれば、「渡来系弥生人」と規定される集団の成立についても、さらに推測が可能になるでしょう。

 一方、安徳台5号の遺伝的な特徴は、日本人の形成について新たな想定が必要なことを示唆しています。なぜならば、この集団が東進して在来の「縄文集団」を吸収していったとすれば、集団の内部に更に「縄文人」の遺伝子を取り込むことになり、現代日本人は更に「縄文人」に近づくことになります。「渡来系弥生人」との混血だけで現代日本人が形成されたとすると、東日本の「縄文人」が現代日本人に全く遺伝子を残していない、と仮定しない限り、「渡来系弥生人」は現代日本人と大陸集団の間に位置しなければなりません。渡来系集団が在来集団を絶滅させたという証拠はないので、この情況は弥生時代以降も渡来が続いていた、と考えないと説明できません。人類学の分野でも、これまで古墳時代以降の渡来について言及した研究者はいましたが、資料的な制約もあり、大陸からの渡来を弥生時代に限定した研究が多くなっていました。しかし本論文の結果から、アジア東部大陸部からの「渡来」の問題はその後の古墳時代までを視野に入れるべきである、と示されます。弥生時代後期の青谷上寺地遺跡出土人骨のゲノムはひじょうに多様性が大きい、と明らかになっています(関連記事)。弥生時代の「在来集団」と「渡来集団」の混合の様子は複雑で、さらに地域と時代の幅を広げて議論を進めていく必要があるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。形態学的にも考古学的にも、安徳台遺跡の人類は典型的な「渡来系弥生人」と考えられてきましたが、遺伝的には現代日本人の範疇に収まる、と示されました。韓国釜山市の加徳島の獐項(ジャンハン)遺跡の6300年前頃の2個体は、核DNA解析から現代韓国人よりも「縄文人」的と明らかになっています(関連記事)。本論文刊行後の研究では、佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨(関連記事)や、香川県高松市の高松茶臼山古墳の古墳時代前期人骨(関連記事)の核DNAが解析され、前者は既知の「縄文人」の範疇に、後者は現代日本人の範疇に収まる、と示されています。

 これらの知見に基づいて現代日本人の遺伝的形成過程をどう整合的に解釈すべきなのか、私の知見では難しく、日本列島に限らずユーラシア東部の古代DNA研究の進展を俟つしかなさそうです。現時点であえて推測すると、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団で、弥生時代以降にアジア東部大陸部から、「縄文人」とは大きく異なり青銅器時代西遼河地域集団と遺伝的に近い集団(関連記事)が日本列島に到来し(渡来系)、かなり後の時代まで、さまざまな程度の「(在来系)縄文人」と「渡来系集団」との混合割合の集団が存在しており、混合の進展は地域・時代差が大きかった、となります。弥生時代には遺伝的に「縄文人」そのものの集団と現代日本人の範疇に収まる集団とが存在し、「渡来系」そのものの遺伝的構成の集団も一時的に存在したでしょうから、弥生時代は日本列島の人類史上最も遺伝的異質性が高かった期間かもしれません。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210

https://sicambre.at.webry.info/202107/article_21.html

19. 中川隆[-16110] koaQ7Jey 2021年7月22日 09:54:31 : OZGjchZjaU : SHBTOW5ibGsvWS4=[3] 報告
雑記帳 2021年07月22日
韓国の三国時代の人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_23.html

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。これまでの形質人類学では、現代日本人の形成の考察において重要なのは、「縄文人」と「弥生人」の関係とされ、多くの研究が提示されてきました。現在ではその結果、基層集団である「縄文人」の社会に、アジア東部大陸部から水田稲作と金属器技術を有する「渡来系弥生人」が日本列島に到来し、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」では、両者の混合により現代日本人が成立した、と考えられています(二重構造説)。一方、古代DNA研究の進展により、「渡来系弥生人」の遺伝的特徴も明らかになりつつあり、両者の混合の状況をより正確に把握できるようになりました。しかし、「渡来系弥生人」の故地と考えられる朝鮮半島の弥生時代〜古墳時代相当期の人骨のDNA分析は行なわれておらず、「渡来人」の遺伝的性格が不明なので、まだその実態は明らかではありません。

 そこで本論文は、朝鮮三国時代の古墳として有名な、慶尚北道高霊郡に位置する、慶北高霊池山洞44号墳の出土人骨のミトコンドリアDNA(mtDNA)分析結果を報告します。池山洞44号墳は5世紀後葉の大加耶の王墓で、墳丘は直径25〜27m、墳丘中央に9.4m×1.75mの大型竪穴式石室(主槨)があります。30基以上の殉葬墓が主槨を取り囲むような状態で見つかっており、主槨の人骨は失われていましたが、殉葬墓からは多くの人骨が発掘されています。これらの人骨から直接的に「渡来系弥生人」の遺伝的特徴を推定することはできませんが、この時期の朝鮮半島南部の人類集団の遺伝的特徴を解明することは、弥生時代から古墳時代にかけての日本列島の人類集団の成立解明において重要な情報を提供する、と考えられます。

 DNA分析に用いられたのは4個体(13-1号、20号、27-1号、30号)で、APLP(Amplified Product-Length Polymorphism)分析によるmtDNAハプログループ(mtHg)分類は、13-1号がG2、20号がB4c、27-1号がD5b、30号がB5でした。27-1号と30号のmtHgはそれぞれD5b1b1とB5a2a1bで、APLP分析と矛盾しません。データベースで検索すると、mtHg-B5a2a1bもmtHg-D5b1b1もそれぞれ3個体ずつ報告されており、いずれも日本人でした。現代韓国人で一致する個体が確認されなかったのは、DNAデータベースに現代韓国人がほとんど登録されていないからと考えられ、現代の日本人と韓国人ではmtHgの構成がよく似ているので、mtHg-B5a2a1bおよびD5b1b1が現代韓国人で今後確認されても不思議ではありません。現代韓国人では、mtHg- B5は3.8%、mtHg-D5は6.5%ほど存在します。

 一方、既知の「縄文人」のmtHgではmtHg-B5a2a1bおよびD5b1b1は確認されていません。一方、弥生時代の鳥取市青谷上寺遺跡で出土した人骨では、mtHg-B5およびD5が確認されており、弥生時代中期の「渡来系弥生人」である福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された個体もmtHg-B5でした。青谷上寺遺跡の「弥生人」のmtHgは大半が「渡来系」と推定されています(関連記事)。現代日本人に占めるmtHg-B5およびD5の割合はさほど大きくなく、アジア東部の分布では南方に多い傾向が見られます。現時点では、古代の分布を推定できませんが、弥生時代開始期以降にアジア東部大陸部から日本列島に到来した人々の中には、mtHg-B5およびD5を有している人がいたかもしれません。慶北高霊池山洞44号墳の出土人骨では今後核DNA解析も予定されているとのことで、研究の進展が期待されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登、清家章、李在煥、朴天秀 (2021)「韓国高霊池山洞44号墳出土人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P465-471


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_23.html

20. 2021年7月23日 09:20:43 : lomcF4oKuY : U01VblJyTjVseXc=[6] 報告
2021年07月23日
愛知県清須市朝日遺跡の弥生時代人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_24.html

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。朝日遺跡は東海地方西部を代表する弥生時代の遺跡で、長期にわたる発掘調査により、多数の遺物とともに人骨が出土しています。1970年代の発掘では、弥生時代中期〜後期の人骨6体が見つかりました。その形質は古墳時代人骨と類似しているとされますが、少数例からの結論なので確実ではありません。1980年代の発掘調査でも人骨が見つかり、人骨は合計で23体となります。人骨の保存状態は個体によりさまざまで、中には詳しく形態の分かる個体もありますが、全体的な集団の特徴は明らかになっていません。

 こうした形態学的研究に対して、1990年代以降は人骨のDNA分析も行なわれ、その血縁や系統に関する研究も進められてきました。DNAは遺伝物質そのものなので、そこから得られる情報はひじょうに精度が高い、と期待されます。しかし、技術的制約から、初期の古代人骨のDNA研究は核DNAよりも分析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)の一部領域でした。しかし、2010年以降には、次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、古代人骨の核DNAの分析も以前よりはるかに容易となりました。

 これにより、弥生時代の人々のDNA研究も進められていますが、これまでは西日本に偏っていました。自然人類学では、在来の「縄文人」の世界に、弥生時代勝機にアジア東部大陸部から「渡来系弥生人」が水田稲作とともに日本列島に到来し、両者の混血により現代日本人が成立した、と考えられています。しかし、この「渡来系弥生人」の影響がどのように日本列島全体に及んだのか、まだ充分に把握できていません。朝日遺跡は稲作とともに拡散したと考えられている遠賀川系土器の出土範囲の東限に位置するので、朝日遺跡の人々の遺伝的特徴は、「縄文系」集団と「渡来系弥生人」との混合の様子の解明において重要となります。本論文は、朝日遺跡出土の弥生時代人骨のmtDNA分析結果を報告します。

 分析された10個体のDNA保存状態は悪く、明確に確認された「弥生人」のDNAに基づいてmtDNAハプログループ(mtHg)が決定されたのは2個体のみで、12号がD4g1b、13号がB4c1a1a1aです。13号の放射性炭素年代は紀元前775〜紀元前540年となり、弥生時代前期に相当します。一方、朝日遺跡は発掘初見では弥生時代中期中葉以降か、古墳時代の可能性も指摘されていました。朝日遺跡12号と13号のmtHgはどちらも「縄文人」では検出されておらず、基本的には弥生時代以降にアジア東部大陸部からもたらされた、と考えられます。朝日遺跡は典型的な「渡来系弥生人」の遺跡と考えられており、その意味ではmtDNAの解析結果は不思議ではありません。

 これらの知見から、北部九州に到来した稲作農耕民が、人口を増やしながら東進した、と推測されます。しかし、mtDNAは母系遺伝なので、2個体だけでは明確な結論を提示できません。さらに、上述のように朝日遺跡出土人骨のDNA保存状態は悪いので、多くの個体からmtDNAを解析することは難しそうなので、混血の状況をよりよく理解するには、核DNA解析が重要となります。現代日本人における割合は、mtHg-D4g1が3.1%、mtHg-B4c1が3.8%で、どちらも中部地方でやや高い割合となっています。mtHg-D4g1およびB4c1は、弥生時代から中部地方でも比較的割合が高めだったかもしれません。

 すでに愛知県田原市伊川津貝塚遺跡の出土人骨では「縄文人」の核DNAも解析されており(関連記事)、時空間的により広範囲の古代人の核DNA解析が進めば、中部地方の人類集団の遺伝的構成の経時的変化もよりよく理解されるようになるでしょう。朝日遺跡で一つ問題となるのは年代で、弥生時代中期中葉以降と想定されていたのに、放射性炭素年代では弥生時代前期と推定されていることで、これはアジア東部大陸部から日本列島に到来した稲作農耕民集団の東進速度とも関わってくるので、今後の研究の進展に注目しなければならないでしょう。伊川津貝塚遺跡の出土人骨の年代は紀元前500年頃ですが、同じ愛知県とはいっても、清須市は名古屋市よりも岐阜県寄りで、伊川津貝塚遺跡は渥美半島ですから、朝日遺跡が紀元前7世紀までさかのぼるとしても、伊川津貝塚遺跡ではまだ縄文時代が続いていたとして、不思議ではないように思います。ただ、愛知県の考古学には詳しくないので、的外れなことを言っているかもしれませんが。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2021)「愛知県清須市朝日遺跡出土弥生人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P277-285


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_24.html

21. 2021年7月28日 11:08:53 : sS04KeZ6iI : YTM5ZlpHUU54cXc=[2] 報告
雑記帳2021年07月28日
南九州古墳時代人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_29.html

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。九州南部東側地域では、紀元後5世紀初頭から7世紀前半の古墳時代に、墳丘を造らず地下の玄室に遺体を葬る、地下式横穴墓が造られていました。地下式横穴墓には複数の人類が埋葬されており、基本的には親族の墓と考えられています。したがって、各墓地に埋葬された人骨間の血縁関係が分かれば、当時の社会構造を推測する重要な知見が得られます。

 考古学では、これまで埋葬人骨間の血縁関係は、埋葬状態や副葬品などの情報にもとづいて推定されてきましたが、確実とは言い切れません。一方、形質人類学では、歯冠計測値などに基づいて推定されてきましたが、歯の形態形成に関する遺伝的メカニズムには不明な点が多く、その結論は推定の域を出ません。いずれにしても、文献がない限り、被葬者間の血縁について、確実な情報を得ることは困難でした。

 近年では、古人骨のDNA分析が可能になり、形態学的特徴に基づく以前の方法よりも格段に精度の高い推定が可能になっています。DNA情報は同一遺跡に埋葬された個体間の血縁関係の推定に確度の高い情報を提供できるので、DNA解析により埋葬人骨間の血縁関係について新たな知見を提供できます。本論文は、南九州の地下式横穴墓に埋葬された人骨のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告します。

 これら南九州(宮崎県と鹿児島県)の地下式横穴墓の人骨には次世代シークエンサ(Next Generation Sequencer、NGS)が用いられました。しかし、NGS解析は高額で手間がかかることから、地下式横穴墓埋葬人骨のように保存状態の悪い個体全てに適用するのは現実的ではありません。そこで、分析の第一段階として、APLP法(Amplified Product-Length Polymorphism method)によるmtDNAの簡易分析が行なわれ、NGSを用いたmtDNAの全塩基配列決定が試みられました。分析対象となったのは、宮崎県えびの市大字島内字平松・杉ノ原に位置する、島内地下式横穴墓群(5世紀後半〜6世紀)と鹿児島県鹿屋市の立小野堀遺跡および町田堀遺跡です。

 島内地下式横穴墓は、1905年に短甲と冑が出土して以来、古墳群として周知されており、これまで断続的な調査により多数の副葬品とともに人骨が出土しています。今回分析の対象となったのは、2012〜2015年の緊急調査により出土した人骨です。この緊急調査では23基の地下式横穴から少なくとも65体の人骨が出土し、全体的に保存状態はよくないものの、中には全身の形態を保っているものもあります。これらの人骨は形態的に、「縄文人」的な形質を残す周辺の南九州山間部「古墳人」に近似すると指摘されていますが、高顔性など宮崎平野部の人骨と類似した「渡来系」の形質を示し個体も報告されています。頭蓋小変異22項目の出現頻度データを用いたクラスタ分析では、島内遺跡個体群は宮崎平野の「古墳人」や九州北部の「弥生人」と同じクラスタに属する、と示されています。

 立小野堀遺跡は2010〜2014年にかけて東九州自動車道の建設に伴う調査により発掘された遺構で、合計200基の地下式横穴墓が検出され、30体の人骨の形態学的調査が行なわれました。町田堀遺跡も東九州自動車道の建設に伴う調査により発掘された遺構で、地下式横穴墓が88基見つかっています。形態学的調査ができたのは12体で、立小野堀遺跡個体群と同様に、大隅半島の地下式横穴墓から出土した人骨に共通の形態的特徴が見られます。

 これまでの研究で、南九州の古墳時代には、宮崎県の平野部と山間部で形質の異なる集団が共住していた、と指摘されています。しかし、これまで大隅半島の古墳時代人骨についての報告は少なく、その実態はよく知られていませんでした。これまでの人骨形態の調査では、大隅半島集団は宮崎県の平野部や山間部とも異なり、山間部集団よりは「縄文人」的な形質が弱く、また平野部集団より「渡来系」の形質が弱いという、独特な形質が指摘されています。

 島内遺跡で3個体(147号墓1号と148号墓3号と151号墓1号)、立小野堀遺跡で3個体(90号墓個体、130-3号墓個体、166号墓個体)、町田堀遺跡で1個体(76号墓個体)のmtDNAが解析されました。mtDNAハプログループ(mtHg)MとNを判定するAPLP分析では、島内遺跡の148号墓3号と151号墓1号でD4の可能性が、立小野堀遺跡では、90号墓個体はM7、130-3号墓個体はM8の可能性が、町田堀76号墓個体はD4の可能性が示されました。細分APLP分析では、島内遺跡148号墓3号がD4でもa・b・e・g・h・j・oのいずれでもない下位区分に分類され、島内遺跡151号墓1号はD4b2の可能性が示されました。立小野堀遺跡では、90号墓個体がM7a1に分類され、130-3号墓個体はC1の可能性が示されました。町田堀遺跡76号墓個体はD4b2と分類されました。

 NGS分析によるmtHgは、島内遺跡の148号墓3号がM7a1a2、立小野堀遺跡の90号墓個体がM7a1a7で166号墓個体がD4a1c、町田堀遺跡76号墓個体はD4b2と分類されました。ただ、町田堀遺跡76号墓個体については、現代人による汚染の可能性も排除できませんでした。解析した7個体のうち確実にmtHgを決定できたのは3個体となります。APLP分析とNGS分析の結果はおおむね一致していましたが、人骨のDNAが少ないとAPLP分析の結果は安定せず、異なる結果を提示する可能性がある、と示されました。理想的には、NGS分析が望ましいものの、費用と手間の問題があります。立小野堀遺跡の90号墓個体と166号墓個体はmtDNAのデータ量が多く、核DNA分析が可能と考えられます。

 上述のように、南九州では古墳時代において比較的狭い地域に異なる人類集団が存在した、と形態学的研究で指摘されています。人骨の形態学的研究では、現代日本人は在来の「縄文人」と弥生時代以降に日本列島にアジア東部大陸部から到来した集団との混血により形成された、と考えられています。したがって、古墳時代には「在来」集団と「渡来」集団との混血が進んだと推測され、地域により遺伝的に異なる集団が棲み分けていたとしても不思議ではありません。

 形態学的研究では、南九州の古墳時代において、山間部では「縄文人」系の形質が残り、宮崎県の平野部では「渡来系」の形質が卓越し、大隅半島では両者の混合が進んでいた、と示唆されています。今回検出されたmtHgはM7aとD4です。このうちM7aは日本列島全域の「縄文人」で検出されており、「縄文人」の主要なmtHgの一つと考えられます。これが島内遺跡の148号墓3号と立小野堀遺跡の90号墓個体で検出されたことは、ともに「縄文人」系の遺伝的要素を有する集団だったことを示唆します。一方、立小野堀遺跡の166号墓個体はmtHg-D4a1cで、これは既知の「縄文人」では見られず、弥生時代以降の「渡来系」と考えられので、立小野堀遺跡集団では混血が進んでいた、と示唆されます。しかし、少数のmtDNA解析例だけで混血状況の結論を提示することは困難で、核DNA解析が重要となります。

 島内遺跡の148号墓3号と立小野堀遺跡の90号墓個体で検出されたmtHg-M7a1系統は、縄文時代の南西諸島集団の系統とは異なり、九州本土「縄文人」の系統(関連記事)に属します。南九州から南西諸島に至る地域では、長期間にわたって海を隔てた棲み分けが行なわれていた可能性も考えられます。中世になると、奄美群島でも人口が増加し、人骨の出土例が増えますが、その集団の由来を知るうえでも、今回の南九州「古墳人」のDNAデータは重要となるでしょう。今後は、これら南九州の遺跡で出土した人骨の核DNA解析の進展が期待されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、安達登、角田恒雄、竹中正巳(2021)「南九州古墳時代人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P417-425

https://sicambre.at.webry.info/202107/article_29.html

22. 中川隆[-16531] koaQ7Jey 2021年9月07日 15:44:11 : r5z45lvW9w : b2RKcGJ1YVo0ZE0=[33] 報告
雑記帳
2021年09月06日
ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

 当ブログでは2019年に、Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族に関する複数の記事を掲載しました。現代日本人のYHg-Dの起源(関連記事)、「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(関連記事)、天皇のY染色体ハプログループ(関連記事)と、共通する問題を扱っており似たような内容で、じっさい最初の記事以外は流用も多く手抜きでしたが、皇位継承候補者が減少して皇族の存続が危ぶまれ、女系天皇を認めるのか父系を維持するのか、との観点から現代日本社会では関心が比較的高いためか、天皇のYHgについて述べた2019年8月23日の記事には、その1ヶ月半後から最近まで度々コメントが寄せられています。

 2019年に掲載したYHgと日本人や皇族に関する複数の記事の内容は、その後のYHgに関する研究の進展を踏まえた現在の私見とかなり異なるので、正直なところ今でもコメントが寄せられるのには困っていました。そこで、ユーラシア東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史とYHgについて現時点での私見をまとめて、上記の記事に関しては追記でこの記事へのリンクを張り、以後はコメントを受け付けないようにします。また、現生人類がユーラシア東部を経て拡散したと思われる太平洋諸島やオーストラリア大陸やアメリカ大陸についても言及します。なお、最近(2021年6月22日)、「アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性」と題して類似した内容のことを述べており(関連記事)、重複というか流用部分も少なからずあります。


●ユーラシア東部現代人の遺伝的構成

 ユーラシア東部への現生人類の初期の拡散は、とくにその年代について議論になっています。とくに、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカよりも古くなりそうな、7万年以上前となるユーラシア東部圏の現生人類の痕跡が議論になっており、そうした主張への疑問も強く呈されています(Hublin., 2021、関連記事)。仮に、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカが7万年前頃以降ならば、7万年以上前にアフリカからユーラシア東部に現生人類が拡散してきたとしても、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない可能性が高そうです。それは、非アフリカ系現代人の主要な祖先とは遺伝的に異なる出アフリカ現生人類集団だけではなく、遺伝的に大きくは出アフリカ系現代人の範疇に収まる集団でも起きたことで、更新世のユーラシア東部に関しては、アジア東部の北方(Mao et al., 2021、関連記事)と南方(Wang T et al., 2021、関連記事)で、現代人に遺伝的影響をほぼ残していないと推測される集団が広く存在していた、と指摘されています。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、更新世には遺伝的分化が進みやすく、また集団絶滅も珍しくなかったのだと思います。

 これは、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセア(ウォーレシア)に関しても当てはまります。ワラセアのスラウェシ島南部のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された完新世となる7300〜7200年前頃の女性遺骸(以下、LP個体)は、現代人では遺伝的影響が確認されていない集団を表している、と推測されています(Carlhoff et al., 2021、関連記事)。LP個体の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統(祖先系譜、ancestry)に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。LP個体はユーラシア東部における現生人類の拡散を推測するうえで重要な手がかりになりそうですが、その前に、現時点で有力と思われるモデルを見ていく必要があります。

 アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang CC et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統は、まずユーラシア東部(EE)と西部(EW)に分岐します。その後、EE祖先系統は沿岸部(EEC)と内陸部(EEI)に分岐します。EEC祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人やオーストラリア先住民やパプア人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。EEC祖先系統は、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素と言えるでしょう。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このEEI祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang CC et al., 2021の図2です。
画像

 このモデルを上述のLP個体に当てはめると、LP個体における二つの主要な遺伝的構成要素は、EEC 祖先系統(のうちオーストラリア先住民とパプア人の共通祖先系統)と、EEI祖先系統もしくは(EEC 祖先系統のうち)オンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されます。ここでまず問題となるのは、LP個体における一方の主要な遺伝的構成要素が、EEI祖先系統である可能性も、オンゲ人関連祖先系統である可能性もあることです。次に問題となるのは、Wang CC et al., 2021では、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素であるEEI祖先系統が、ユーラシア東部祖先系統においてEEI祖先系統と分岐したとモデル化されているのに対して、最近の別の研究では、出アフリカ現生人類集団がまずオーストラレーシア人とユーラシア東西の共通祖先集団とに分岐した、と推定されています(Choin et al., 2021、関連記事)。

 こうした非アフリカ系現代人におけるオーストラレーシア人の系統的位置づけの違いをどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、遺伝学と考古学とを組み合わせて初期現生人類のアフリカからの拡散を検証した研究です(Vallini et al., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021では、パプア人の主要な遺伝的構成要素に関して、EE祖先系統内で早期にEEI祖先系統(というかアジア東部現代人の主要な祖先系統)と分岐した可能性と、EEとEWの共通祖先系統と分岐した祖先系統とアジア東部現代人の主要な祖先系統との45000〜37000年前頃の均等な混合として出現した可能性が同等である、と推測されています。以前は、オーストラレーシア人の主要な祖先系統である、EEおよびEWの共通祖先系統(EEW祖先系統)と分岐した祖先系統を「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びましたが(関連記事)、今回は、ユーラシア南部(ES)祖先系統と呼びます。以下はVallini et al., 2021の図1です。
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 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合に大きな地域差がないことから、非アフリカ系現代人のネアンデルタール人的な遺伝的構成要素は単一の混合事象に由来し、その混合年代は6万〜5万年前頃と推定されています(Bergström et al., 2021、関連記事)。したがって、ES祖先系統はネアンデルタール人と混合した後の現生人類集団においてEEW祖先系統と分岐した、と考えられます。

 Vallini et al., 2021に従うと、ES祖先系統およびEEW祖先系統の共通祖先系統と分岐したのが、チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(Prüfer et al., 2021、関連記事)に代表される集団の主要な祖先系統です(ズラティクン祖先系統)。ズラティクンも非アフリカ系現代人と同程度のネアンデルタール人からの遺伝的影響を受けており、出アフリカ現生人類集団とネアンデルタール人との混合後に、出アフリカ現生人類集団において早期に分岐した、と推測されます。

 出アフリカ現生人類集団において、ズラティクンに代表される集団が非アフリカ系現代人の共通祖先集団と遺伝的に分化する前に分岐したと考えられるのが、基底部ユーラシア人です。基底部ユーラシア人はネアンデルタール人からの遺伝的影響を殆ど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)出アフリカ現生人類集団で、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残しています(Lazaridis et al., 2016、関連記事)。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000〜24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(Gelabert et al., 2021、関連記事)。

 話をオーストラレーシア人の非アフリカ系現代人集団における遺伝的位置づけに戻すと、オーストラレーシア人の遺伝的構成要素がES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合に起因すると仮定すると、オーストラレーシア人の系統的位置づけが研究により異なることを上手く説明できるかもしれません。また、オーストラレーシア人でもオーストラリア先住民およびパプア人(以下、サフルランド集団)の共通祖先とアンダマン諸島人とでは、ES祖先系統とEE祖先系統との混合年代が異なるかもしれません。つまり、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団がサフルランド集団の共通祖先とアンダマン諸島人の祖先とに遺伝的に分化した後に、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団が、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするそれぞれの祖先集団と混合したのではないか、というわけです。Vallini et al., 2021に従うと、パプア人はES祖先系統とEE祖先系統の均等な混合としてモデル化されますが、アンダマン諸島人の混合割合は異なっているかもしれません。

 仮にこの想定が一定以上妥当ならば、LP個体もES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合により形成されたことになりそうです。LP個体で重要なのは、アジア東部からアジア南東部に新石器時代に拡散してきた農耕集団の主要な遺伝的構成要素(Yang et al., 2020)が、Wang CC et al., 2021に従うとEEIS祖先系統と考えられるのに対して、EEIS祖先系統と早期に分岐した未知のEE祖先系統が一方の主要な遺伝的構成要素と推定されていることです(Carlhoff et al., 2021)。LP個体の年代(7300〜7200年前頃)からも、農耕集団の主要な遺伝的構成要素であるEEISおよびEEIN祖先系統以外のEE祖先系統が、アジア南東部への農耕拡大前にオーストラレーシア人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と示唆されます。

 北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)の主要な遺伝的構成要素が、Wang CC et al., 2021でもVallini et al., 2021でもEE(もしくはEEI)祖先系統であることから、ユーラシア東部系集団は4万年前頃までにはアジア東部北方にまで拡散したと考えられます。ユーラシア東部系集団がいつどのようにEW祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするオーストラレーシア人の一方の祖先集団(ユーラシア南部系集団)と遭遇して混合したのか不明ですが、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。その過程でユーラシア東部系集団(EE集団)は遺伝的に分化していき、ユーラシア南部系集団(ES集団)と混合したのでしょう。オーストラリア先住民とパプア人の遺伝的分化が40000〜25000年前頃と推定されているので(Malaspinas et al., 2016、関連記事)、ユーラシア東部系集団とサフルランド集団の祖先集団との混合はその頃までに起きた、と考えられます。この点からも、ユーラシア東部系集団が3万年以上前にアジア南東部というかスンダランドに存在した可能性は高そうです。

 ユーラシア東部圏やオセアニアの現代人および古代人集団は、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたと考えられますが、とくに注目されるのは、ユーラシア東部系もしくはアジア東部系集団で、現代人と掻器に分岐したと推定されている古代人集団です。具体的には、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11510±255年前(Curnoe et al., 2012、関連記事)のホモ属頭蓋(隆林個体)と「縄文人(縄文文化関連個体群)」です。隆林個体(Wang T et al., 2021)と愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(Gakuhari et al., 2020、関連記事)はともに、アジア東部現代人の共通祖先集団と早期に分岐した集団を表している、と推測されています。おそらく両者とも、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により形成され、アジア東部現代人集団との近縁性から、アンダマン諸島人よりもEE祖先系統の割合が高いと考えられます。「縄文人」や隆林個体的集団のように、EE祖先系統とES祖先系統との単一事象ではなく複数回起きたかもしれない複雑な混合により形成された未知の遺伝的構成で、現代人への遺伝的影響は小さいか全くない古代人集団は少なくなかったと想定されます。

 隆林個体と地理的にも年代的にも近い(14310±340〜13590±160年前)の中華人民共和国雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見されたホモ属の大腿骨(馬鹿洞人)は、その祖先的特徴から非現生人類ホモ属である可能性が指摘されています(Curnoe et al., 2015、関連記事)。しかし、おそらく馬鹿洞人も隆林個体と同様に、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたのでしょう。隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸から推測すると、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団(ユーラシア南部集団)は、形態的にはかなり頑丈だった可能性があります。ただ、ユーラシア南部集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが(Scerri et al., 2019、関連記事)、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 Wang CC et al., 2021では、アジア東部現代人はおもにEEIN祖先系統とEEIS祖先系統の混合でモデル化され、前者は黄河流域新石器時代集団に、後者は長江流域新石器時代集団に代表される、と想定されています。中国の現代人はこの南北の遺伝的勾配を示し、北方で高いEEIN祖先系統の割合が南下するにつれて低下していく、と推測されています。また長江流域新石器時代集団だけではなく、黄河流域新石器時代集団にも少ないながら一定以上の割合でEEC祖先系統がある、とモデル化されています。「縄文人」はEEIS祖先系統(56%)とEEC祖先系統(44%)の混合としてモデル化され、青銅器時代西遼河地域集団でもEEC祖先系統がわずかながら示されています。

 EEC祖先系統がEE祖先系統とEW祖先系統の複雑な混合により形成されたとすると、Wang CC et al., 2021のEEC祖先系統は、オーストラレーシア人の祖先集団の遺伝的構成要素が混合と移動によりアジア東部北方までもたらされた、という想定とともに、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団となったユーラシア東部系集団と遺伝的に近縁な集団にも由来するか、あるいはその集団に排他的に由来する可能性も考えられます。そうだとすると、オーストラレーシア人関連祖先系統が南アメリカ大陸の一部先住民でも確認されていること(Castro et al., 2021、関連記事)と関連しているかもしれません。南アメリカ大陸の一部先住民のゲノムにおけるオーストラレーシア人関連祖先系統は、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団で、アジア東部現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないユーラシア東部系集団にその大半が由来する、というわけです。アメリカ大陸への人類の拡散については、最近の総説がたいへん有益です(Willerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。


●日本列島の人口史

 日本列島においてDNAが解析された最古の人類遺骸は2万年前頃の港川人(Mizuno et al., 2021、関連記事)ですが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析で、核DNAとなると、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性となります(Adachi et al., 2021、関連記事)。日本列島における4万年前頃以前の人類の存在はまだ確定しておらず(野口., 2020、関連記事)、4万年前頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。この4万年前頃以降の日本列島の人類は、ほぼ間違いなく現生人類と考えられますが、4万〜8000年前頃の日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成は不明です。

 Vallini et al., 2021では、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするアジア東部の初期現生人類は初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とともに拡散してきた、と推測されています。IUPの定義およびその特徴は石刃製法で、最も広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることで、平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似していますが、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります(仲田., 2019、関連記事)。IUP的な石器群は、日本列島では最初期の現生人類の痕跡と考えられる37000年前頃の長野県の香坂山遺跡で見つかっていることから(国武., 2021、関連記事)、日本列島最初期の現生人類もEE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団だったかもしれません。一方、港川人の遺伝的構成は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の最初期現生人類集団とは異なっていた可能性があります。

 4万年前頃以降となる日本列島最初期の現生人類の遺伝的構成がどのようなものだったのか、そもそも日本列島、とくに「本土」における更新世人類遺骸がほとんどなく、今後の発見も期待薄なので解明は難しそうです。しかし、急速に発展しつつある洞窟堆積物のDNA解析(Vernot et al., 2021、関連記事)により、この問題が解決される可能性も期待されます。田園洞窟の4万年前頃の男性個体(田園個体)は、現代人にほぼ遺伝的影響を残していないと推測されていますが(Yang et al., 2017)、3万年以上前には沿岸地域近くも含めてアジア東部北方に広範に分布していた可能性が指摘されています(Mao et al., 2021)。したがって、日本列島の最初期現生人類が田園個体と類似した遺伝的構成の集団(田園洞集団)だった可能性は低くないように思います。また、港川人のmtDNAハプログループ(mtHg)が既知の古代人および現代人とは直接的につながっていないこと(Mizuno et al., 2021)からも、日本列島の最初期現生人類が現代人や「縄文人」とは遺伝的につながっていない可能性は低くないように思います。

 日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成が明らかになるのは縄文時代以降で、「縄文人」では複数の個体の核ゲノム解析結果が報告されています。上述のように、そのうち最古の個体は佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性(Adachi et al., 2021)で、その他に、核ゲノム解析結果が報告された縄文人は、上述の愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の個体(Gakuhari et al., 2020)、北海道礼文島の3800〜3500年前頃の個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)、千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体(Wang CC et al., 2021)です。これら縄文人個体群は、既知の古代人および現代人との比較で遺伝的に一まとまりを形成し、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団であることを示唆しますが、これは形態学でも以前より指摘されていました(山田.,2015,P126-128、関連記事)。

 弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成します(神澤他., 2021A、関連記事)。中国と四国と近畿の縄文時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果を見なければ断定できませんが、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団である可能性はかなり高そうです。大友8号は、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、縄文文化とのみ関連していない可能性を示唆し、これは最近の査読前論文(Robbeets et al., 2021)の結果とも整合的です。Robbeets et al., 2021では、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、既知の縄文人(六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群)とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。

 さらに、縄文人的な遺伝的構成(縄文人祖先系統)は日本列島以外でも高い割合で見られます。朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と縄文人との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。そのうち4000年前頃の欲知島(Yokchido)個体の遺伝的構成要素は、ほぼ縄文人祖先系統で占められています。また、大韓民国釜山市の加徳島の獐遺跡の6300年前頃の人類も縄文人祖先系統を有している、と示されています(関連記事)。これらの知見から、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、現地の環境への適応および/もしくは先住集団との混合により日本列島の縄文文化以外の文化の担い手になった、と考えられます。

 縄文人の形成過程が不明なので、朝鮮半島に縄文人祖先系統がどのようにもたらされたのか断定できませんが、その地理的関係からも、日本列島から朝鮮半島にもたらされた可能性が高そうです。考古学では、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられますが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、関連記事)。日本列島の縄文時代において、日本列島から朝鮮半島だけではなく、その逆方向での人類集団の拡散もあったと考えられますが、現時点では縄文人にその遺伝的痕跡が検出されていません。しかし、核ゲノムデータが得られている西日本の縄文人は佐賀市東名貝塚遺跡の1個体だけですから、縄文時代の日本列島に朝鮮半島から紅山文化集団関連祖先系統がもたらされた可能性は低くないでしょう。ただ、弥生時代早期の西北九州の大友8号の事例からは、日本列島の縄文人において、紅山文化集団関連祖先系統など朝鮮半島由来のアジア東部大陸部祖先系統(Wang CC et al., 2021のEEIN祖先系統)が長期にわたって持続した可能性は低いように思います。もちろん、西日本の時空間的に広範囲にわたる人類遺骸の核ゲノム解析結果が蓄積されるまでは断定できませんが。

 弥生時代になると、日本列島の人類集団の遺伝的構成が大きく変わります。現代日本人は、縄文人祖先系統(8%)と青銅器時代遼河地域集団関連祖先系統(92%)の混合としてモデル化されています(Wang CC et al., 2021)。Robbeets et al., 2021では、現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。

 ただ、これは「縄文人」から「(アジア東部大陸部起源の)弥生人」という単純な図式で説明できるものではなさそうです。まず、上述のように弥生時代早期の西北九州の大友8号は遺伝的に既知の縄文人の範疇に収まります(神澤他., 2021)。東北地方の弥生時代の男性も、核ゲノム解析では縄文人の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)。弥生時代の人類でも「西北九州型」は形態的には縄文人に近いとされており、遺伝的には既知の縄文人の範疇に収まる大友8号も西北九州で発見されました。一方、弥生時代の「西北九州型」でも長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と縄文人との中間に位置付けられます(篠田他., 2019、関連記事)。

 縄文人との形態的類似性が指摘される「西北九州型弥生人」とは対照的に、アジア東部大陸部集団との形態的類似性が指摘される「渡来系弥生人」では、福岡県那珂川市の弥生時代中期となる安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)で核ゲノム解析結果が報告されており、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる、と示されています(篠田他., 2020、関連記事)。「渡来系弥生人」は、その形態から遺伝的には夏家店上層文化集団などアジア東部大陸部集団にきわめて近いと予想されていましたが、じっさいには現代日本人と酷似していました。また安徳台5号は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合が高いと推定されています(Robbeets et al., 2021)。同じく「渡来系弥生人」でも弥生時代中期となる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや低くなっています(Robbeets et al., 2021)。鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代中期〜後期の個体群は、縄文人祖先系統の割合に応じて、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる個体から、現代日本人よりもややアジア東部大陸部集団に近い個体までさまざまです(神澤他., 2021B、関連記事)。

 これら弥生時代の人類遺骸は形態に基づく分類の困難(関連記事)を改めて強調しており、それは上述の隆林個体(Wang T et al., 2021)でも示されています。このように、弥生時代の人類の遺伝的構成は、縄文人そのものから、現代日本人と縄文人との中間、現代日本人の範疇、現代日本人よりも低い割合の縄文人祖先系統までさまざまだったと示されます。さらに、アジア東部大陸部集団そのものの遺伝的構成の集団も存在したと考えられることから、弥生時代は日本列島の人類史において有数の遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 日本列島におけるこうした弥生時代の人類集団の形成に関して注目されるのが、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)です。Taejungni個体は、夏家店上層文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化され、現代日本人と遺伝的にかなり近いものの、縄文人祖先系統の割合は現代日本人よりもやや高めです(Robbeets et al., 2021)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が、アジア東部大陸部から日本列島に到来した夏家店上層文化集団的な遺伝的構成の集団と、日本列島在来の縄文人の子孫との混合により形成されたのではなく、朝鮮半島において紀元前千年紀前半にはすでに形成されていた可能性を示唆します。

 一方、上述の6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の縄文人祖先系統を高い割合で有する集団は、紅山文化集団関連祖先系統との混合を示しており、現代日本人への遺伝的影響は小さい可能性があります。また、6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の集団も、Taejungni個体に代表される朝鮮半島中部の集団も、現代朝鮮人への遺伝的影響は大きくなく、紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島の人類集団で大きな遺伝的変容が起きた可能性も考えられます。朝鮮半島の人類集団は5000年以上前から遺伝的構成がほとんど変わらず、弥生時代以降に日本列島に拡散して現代日本人の遺伝的構成に縄文人よりもはるかに大きな影響を残したので、日本人は朝鮮人の子孫であるといった言説が仮にあったとしても妥当ではないだろう、というわけです。

 夏家店上層文化集団関連祖先系統は、黄河流域新石器時代集団関連祖先系統よりも、アムール川地域集団関連祖先系統の割合の方が高い、とモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。アムール川地域集団の遺伝的構成は14000年前頃から現代まで長期にわたって安定している、と示されています(Mao et al., 2021)。また、アジア東部北方完新世集団の遺伝的構造は地理的関係を反映しており、アムール川と黄河流域が対極に位置し、遼河地域はその中間的性格を示し、この構造は前期完新世にまでさかのぼります(Ning et al., 2020、関連記事)。中国の現代人(おもに漢人)は、上述のように黄河流域新石器時代集団と長江流域新石器時代集団との地域によりさまざまな割合の混合の結果成立しましたから、現代漢人と現代日本人との遺伝的相違は、縄文人祖先系統の割合とともに、少なくとも前期完新世にまでさかのぼる遺伝的分化に起因する可能性が高そうです。また黄河流域新石器時代集団は、稲作の北上とともに長江流域新石器時代集団の遺伝的影響も受けていると推測されているので(Ning et al., 2020)、現代日本人は間接的に長江流域新石器時代集団から遺伝的影響(黄河流域新石器時代集団よりも低い割合で)と文化的影響を受けていると考えられます。以下、アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体・集団の遺伝的構成を示したRobbeets et al., 2021の図3です。
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 注目されるのは、Taejungni個体も「渡来系弥生人」の一部も、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや高いことです。さらに、高松市茶臼山古墳の古墳時代前期個体(茶臼山3号)は、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021C、関連記事)。出雲市猪目洞窟遺跡の紀元後6〜7世紀の個体(猪目3-2-1号)と紀元後8〜9世紀の個体(猪目3-2-2号)も、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021D、関連記事)。

 これらの知見は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(Jinam et al., 2021、関連記事)。「中央軸」地域は歴史的に日本列島における文化と政治の中心で、アジア東部大陸部から多くの移民を惹きつけたのではないか、というわけです。都道府県単位の日本人の遺伝的構造を調べた研究では、この「中央軸」地域に位置する奈良県の人々が、現代漢人と遺伝的に最も近い、と示されています(Watanabe et al., 2020、関連記事)。朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。また、この推測が一定以上だとすると、現代日本人における縄文時代末に日本列島に存在した「縄文人」の遺伝的影響は、現在の推定値である9.7%(Adachi et al., 2021)よりもずっと低いかもしれません。


●Y染色体ハプログループ

 冒頭で述べたように、現代日本社会ではY染色体ハプログループ(YHg)への関心が高いようです。現代日本社会でとくに注目されているのは、世界では比較的珍しいものの日本では一般的なYHg-Dでしょう。これが日本人の特異性と結びつけられ、縄文人で見つかっていることから(現時点では、縄文人もしくは縄文人的な遺伝的構成の日本列島の古代人のYHgはDしか確認されていないと思います)、縄文人以来、さらに言えば人類が日本列島に到来した時から続いているのではないか、というわけです。注目されているようです。確かに、縄文人は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、との見解も提示されています(Gakuhari et al., 2020)。

 しかし、上述のように日本列島の最初期の現生人類集団が田園洞集団的な遺伝的構成だったとすると、縄文人にも現代人にも遺伝的影響をほぼ残さず絶滅したことになり、その可能性は低くないように思います。人類史において、完新世よりも気候が不安定だった更新世には集団の絶滅・置換は珍しくなく、それは非現生人類ホモ属だけではなく現生人類も同様でしたから、日本列島だけ例外だったとは断定できないでしょう(関連記事)。仮にそうだとしたら、YHg-D1a2aは日本人固有で、日本列島には4万年前頃から現生人類が存在したのだから、Yfullで18000〜15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島で起きたに違いない、との前提は成立しません。

 この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2には、縄文人由来の系統も、縄文人が朝鮮半島に拡散して弥生時代以降に「逆流」した系統も、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した系統もありそうで、単純に全てを縄文人由来と断定することはできないように思います。その意味で、仮に皇族のYHgが現代日本人の一部?で言われるようにD1a2a1だったとしても、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性は低くないように思います。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。上述のように、ホアビン文化集団はユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測され、それは縄文人や隆林個体に代表される古代人集団やアンダマン諸島現代人も同様だったでしょう。縄文人やアンダマン諸島現代人のオンゲ人においてYHg-D1a2がとくに高頻度で、アジア東部北方の古代人でほとんど見つかっていないことから、YHg-Dはユーラシア南部系集団に排他的に由来する、とも考えられます。しかし、同じくユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測されるサフルランド集団ではYHg-Dが見つかりません。

 YHg-Dは分岐が早い系統なので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在し、創始者効果や特定の父系一族が有力な地位を独占するなどといった要因により、大半の集団ではYHg-Dが消滅し、一部の集団では高頻度で残っている、と考えるのが最も節約的なように思います。おそらくサフルランド集団の祖先集団にもYHg-Dは存在し、ユーラシア東部系集団との混合などにより消滅したのでしょう。YHgは置換が起きやすいので(Petr et al., 2021、関連記事)、現代の分布と地域および集団の頻度から過去の人類集団の移動を推測するのには慎重であるべきと思います。

 チベット人ではYHg-D1a1が多く、Wang CC et al., 2021ではチベット人はずっと高い割合のEEIN祖先系統とずっと低い割合のEEC祖先系統との混合とモデル化されています。おそらく、チベット人の祖先となったユーラシア南部系集団は、縄文人、さらには現代日本人の祖先となったユーラシア南部系集団とは遺伝的にかなり分岐しており、YHg-D1a共有を根拠に現代の日本人とチベット人との近縁性を主張するのには無理があるでしょう。Wang CC et al., 2021では、現代の日本人もチベット人もEEIN祖先系統の割合が高くなっていますが、日本人は青銅器時代遼河地域集団、チベット人は黄河地域新石器時代集団と近いとされているので、この点でも、現代の日本人とチベット人との近縁性を強調することには疑問が残ります。

 YHgでも非アフリカ系現代人で主流となっているK2は分岐がYHg-Dよりも遅いので、ユーラシア南部系集団には存在しなかったかもしれません。Vallini et al., 2021では、4万年前頃の北京近郊の田園個体はユーラシア東部系集団に位置づけられ、そのYHgはK2bです(高畑., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021で同じくユーラシア東部系集団ながら基底部近くで分岐したと位置づけられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(Bard et al., 2020、関連記事)となる男性(Fu et al., 2014、関連記事)はYHg-NOです(Wong et al., 2017)。古代DNAデータでも、YHg-K2がユーラシア東部系集団に存在したと確認されます。

 YHg-CはYHg-Dに次いで分岐が早いので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在した可能性が高そうです。チェコ共和国のバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はほとんどない、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。この4万年以上前となるバチョキロ洞窟個体群ではYHg-F(M89)の基底部系統とYHg-C1(F3393)が確認されており、ユーラシア東部系集団には、YHg-CとYHg-K2も含めてYHg-Fが存在したと考えられます。Vallini et al., 2021ではこのバチョキロ洞窟個体群はユーラシア東部系集団に位置づけられ、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)の祖先集団と遺伝的にきわめて近縁とされます。「Oase 1」のYHgはFで(高畑., 2021)、ユーラシア東部系集団におけるYHg-Fの存在のさらなる証拠となります。

 サフルランド集団のYHgはK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっており、YHg-C1b2はユーラシア南部系集団に存在したかもしれませんが、YHg-K2はユーラシア東部系集団との混合によりもたらされたかもしれません。それにより、サフルランド集団の祖先集団には存在したYHg-Dが消滅した可能性も考えられます。もちろん、YHgについて述べてきたこれらの推測は、YHgの下位区分の詳細な分析と現代人の大規模な調査とさらなる古代人のデータの蓄積により、今後的外れと明らかになる可能性は低くないかもしれませんが、とりあえず現時点での推測を述べてみました。


●まとめ

 以上、現時点での私見を述べてきましたが、今後の研究の進展によりかなりのところ否定される可能性は低くないでしょう。それでも、一度情報を整理することで理解が進んだところもあり、やってよかったとは思います。まあ、自己満足というか、他の人には、よく整理されていないので分かりにくいと思えるでしょうから、役に立たないとき思いますが。今回は、出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先と分岐したユーラシア南部系集団という集団を仮定すると、パプア人の位置づけに関する違いも理解しやすくなるのではないか、と考えてみました。

 この推測がどこまで妥当なのか、まったく自信はありませんが、仮にある程度妥当だとしても、まだ過度に単純化していることは確かなのでしょう。現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)デニソワ人との間の関係さえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2021、関連記事)、生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょう。ただ、上述のように完新世よりも気候が不安定だった更新世において、現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。その意味で、出アフリカ現生人類集団からユーラシア南部系集団が分岐した後で、ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団が共通祖先集団から分岐した、との想定も一定以上有効だろう、と考えています。また今回は、考古学の知見を都合よくつまみ食いしただけなので、考古学の知見とより整合的な現生人類の拡散史を調べることが今後の課題となります。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132

https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

23. 中川隆[-16256] koaQ7Jey 2021年9月20日 13:18:22 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[19] 報告
雑記帳
2021年09月19日
縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html


 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88〜7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150〜2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9〜11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000〜15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20〜30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000〜18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000〜15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000〜16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500〜3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75〜8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991〜8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980〜7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300〜4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000〜15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は正確な人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001〜1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期〜古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6〜7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398〜468年頃)および2号個体(紀元後407〜535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9〜56.4%と42.4〜51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800〜2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半〜紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html

24. 中川隆[-16219] koaQ7Jey 2021年9月24日 07:38:47 : 1H0S8K0ZRI : ODR2ai5DRXRaUGM=[3] 報告
“日本人”に第3のルーツ 富山の遺跡から出土した「人骨」が貢献
その他
2021年9月22日
https://www.tulip-tv.co.jp/news/news_detail.html?nid=6111&dd=20210922

 現代の日本人は、縄文人と弥生人がルーツと考えられてきましたが、遺跡から出土した人骨の遺伝情報、いわゆるゲノムデータの解析で「第3のルーツ」をもつことがわかりました。

 この日本人のルーツに迫る研究に富山市から出土した人骨が大きく貢献しているんです。

 県埋蔵文化財センターで日本人のルーツに迫った人骨を見せてもらいました。

 「これが今回分析に使った人骨の側頭骨の、耳の穴になるんですけど、そこから削って粉上にして分析をしたと」(県埋蔵文化財センター・河西健二所長)

 現代日本人のルーツについて新たな研究成果を発表したのは、金沢大学の覚張隆史(がくはり・たかし)助教を中心とする研究チームです。

 遺跡から出土した人骨のゲノムデータを抽出し解析する「パレオゲノミクス」という手法で、今回、縄文時代から古墳時代までの人骨と中国など大陸から見つかった人骨のデータを比較、解析しました。

 「これまであくまで2つの祖先集団を基本にして考えられているものですけど、今回少なくとも3つ、それ以上になる可能性があるという新しいモデルを提示したことが今回の論文のキモになります」(金沢大・覚張隆史助教)

 解析の結果、早期の縄文人は約2万年前から1万5000年前に大陸からやってきた1000人程度の小さな集団で、弥生時代には北東アジアから人々が日本列島に流入し、さらに古墳時代には東アジアに起源をもつ人々と混血していることがわかったということです。

 今回ゲノム解析された国内の12体の人骨のうち4体が富山市の小竹貝塚(おだけかいづか)から出土した人骨でした。

 「これが耳の穴になるんですが、穴の中の部分がすい体。そこに非常にゲノムがよく残っていると」「我々これ10年前に発掘した人骨なんですけど、10年前の技術ではでなかったんです。ところがどうも人骨の場所によって取れるということがわかってきたのがここ数年でありまして」(県埋蔵文化財センター・河西所長)

 富山市呉羽町の小竹貝塚は現在は海岸線から遠く離れていますが、6000年前はすぐそばに潟湖が広がっていて、人々は貝などを採取しながら定住していました。

 北陸新幹線の建設工事に伴う発掘調査で、小竹貝塚からは縄文前期では国内最多となる91体の人骨が見つかりました。

 人骨の保存状態がいいため、今回、縄文人のゲノムの基礎的なデータ作成に貢献しました。

 今回の研究成果について県埋蔵文化財センターの河西健二所長は。

 「古墳時代の人が現代人のほぼ原型、類似しているということがわかったというのは考古学的にはすごく衝撃的」「古墳時代に須恵器が入ってくるとか金属器が入ってくるという大きな動きがあることはわかっていたんです。それが人を伴って来たのかというところはなかなか検証できなかったので、今回古墳時代に血が混じってきているのがわかりましたから、これまでの研究に当てはめながら検証することができるようになる」(県埋蔵文化財センター・河西所長)

 ゲノムデータの進化した解析技術を使って、県埋蔵文化財センターでは今後、小竹貝塚そのものの謎の解明に着手したいとしています。

 「この12号さんは男性なんですけど、今でも亡くなった人の使っていた物を焼いたりするでしょ。そういう行為は縄文時代からあるんですよ。マイ石斧。この人は磨製石斧、これ7点あるんだけど、砥石を一緒に墓で埋葬している」「この方が他の人骨との兄弟関係とか家族関係とか見えてくるとどんどん面白いストーリーが見えてくるんだろうと」(河西所長)

 ゲノムデータの解析が新たな縄文ロマンの扉を開こうとしています。

 研究が進めば保管された91体以上の人骨の1人1人のプロフィールが見えてくるかもしれません。

 「小竹という土地に住んでいた縄文人がどんな人々でどんな生活をしていたのかが知りたいのが一番ですから。あとは人間関係ですよね、どんな親子関係だったのか、男性が何をしていたのか、女性が何をしていたのか、そういったところまでゲノムの解析で見えてくると、もっとリアルな縄文人の生活が見えてくるだろう」(河西所長)

 「縄文人」といえば「小竹貝塚」と言われるように、謎に包まれた縄文人のリアルに迫りたいとしています。

https://www.tulip-tv.co.jp/news/news_detail.html?nid=6111&dd=20210922

25. 中川隆[-15584] koaQ7Jey 2021年11月04日 13:00:53 : ZwZnp6pbIc : T1NDbXVQb25JcUU=[19] 報告
雑記帳
2021年11月04日
弥生時代と古墳時代の人類の核ゲノム解析まとめ
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_4.html


 以前、縄文時代の人類の核ゲノム解析結果をまとめたので(関連記事)、弥生時代と古墳時代についても、当ブログで取り上げた分を同様にまとめます。まず弥生時代について、現時点で核ゲノムデータが得られている最古の個体となりそうなのは、佐賀県唐津市大友遺跡の女性(大友8号)です(神澤他.,2021A、関連記事)。大友8号の年代は2730〜2530年前頃(弥生時代早期)で、mtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a6です。大友8号は、既知の古代人および現代人との比較で、東日本の「縄文人」とまとまりを形成します。詳細を把握していませんが、東北地方の弥生時代の男性も核ゲノム解析では既知の「縄文人」の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)

 弥生時代中期では、九州北部で複数の人類遺骸から核ゲノムデータが得られています。そのうち、福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人(東京)の範疇に収まる、と指摘されています(篠田他.,2020、関連記事)。大友8号は遺伝的に「縄文人」と言えるわけです。同じく弥生時代中期の形態学的に「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人(東京)の範疇に収まります(Robbeets et al., 2021、関連記事)。一方、弥生時代中期でも安徳台5号や隈・西小田遺跡個体よりも新しく、形態学的に「縄文人」と近いと指摘されている、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(下本山2号および3号)は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と「縄文人」との中間に位置づけられます(篠田他.,2019、関連記事)。以下は安徳台5号と下本山2号および3号の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した篠田他.,2020の図2です。
画像

 下本山岩陰遺跡の2個体の核ゲノムは、「縄文人」構成要素の割合が50〜60%程度とモデル化されており、現代日本人(東京)よりもかなり高くなっています(Cooke et al., 2021、関連記事)。一方、現代日本人(東京)と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号ではやや高く、隈・西小田遺跡個体ではやや低くなります(Robbeets et al., 2021)。これらの事例から、弥生時代の人類の遺伝的構成は、「縄文人」そのものから現代日本人に近いものまで、地域と年代により大きな違いがあった、と推測されます。

 同一遺跡では、弥生時代前期末から古墳時代初期の鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺遺跡で、弥生時代中期〜後期の人類遺骸の核ゲノムデータが得られています(神澤他.,2021B、関連記事)。核ゲノム解析結果に基づく青谷上寺遺跡個体群の遺伝的特徴は、現代日本人(東京)の範疇に収まるか、そこに近く、違いが大きいことです。これは、経時的な「渡来系」と「在来系」の混合の進展を反映しているかもしれません。つまり、青谷上寺遺跡集団は遺伝的に長期にわたって孤立していたのではなく、日本列島外もしくは日本列島内の他地域との混合があったのではないか、というわけです。青谷上寺遺跡の事例からも、弥生時代の人類の遺伝的構成には大きな違いがあった、と改めて言えそうです。

 古墳時代では、石川県金沢市の岩出横穴墓で末期となる3個体(JpIw32とJpIw31とJpIw33)の核ゲノムデータが得られています(Cooke et al., 2021)。この3個体は遺伝的に現代日本人(東京)と類似しているものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています。古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号)も、核ゲノムデータに基づくと現代日本人(東京)の範疇に収まるものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています(神澤他.,2021C、関連記事)。島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の個体でも、茶臼山3号とほぼ同様の結果が得られています(神澤他.,2021D、関連記事)。

 このように、やや「縄文人」構成要素の割合が高いとはいえ、古墳時代には遺伝的に現代日本人(東京)の範疇に収まる個体が、九州に限らず広く東日本でも確認されています。一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398〜468年頃)および2号(紀元後407〜535年頃)の核ゲノム解析では、両者が他の古墳時代個体や現代日本人(東京)よりも弥生時代中期の下本山2号および3号に近く、「縄文人」構成要素の割合は、第1号石室1号が52.9〜56.4%、2号が42.4〜51.6%と推定されています(安達他.,2021、関連記事)。以下は、磯間岩陰遺跡の2個体の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した安達他.,2021の図1です。
画像

 このように、古墳時代の近畿地方(畿内ではありませんが)においてさえ、現代日本人の平均よりもずっと「縄文人」の遺伝的影響が高い、と推定される個体が確認されています。現代日本人の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。もちろん、現代(Watanabe et al., 2021、関連記事)がそうであるように、中世と近世においても地域差はあったでしょうし、さらに階層差がどの程度あったのかという点でも、研究の進展が期待されます。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1


Watanabe Y, Isshiki M, and Ohashi J.(2021): Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals. Journal of Human Genetics, 66, 4, 431–437.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0

安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021B)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021C)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021D)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340


篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)


篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231


篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_4.html

26. 中川隆[-15398] koaQ7Jey 2021年11月10日 16:01:16 : lCCO7qVYNQ : TkZaNEtBbjVhVkU=[27] 報告
雑記帳
2021年11月10日
大橋順「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html


 井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。ヒトゲノムとは、ヒト(Homo sapiens)が持つ遺伝情報(全DNA配列)の1セットのことです。あらゆる生物の基本単位は細胞で、赤血球以外のヒトの体細胞は核膜で囲まれた球状の細胞核を持っています。細胞核の中に染色体があり、各染色体はヒストンとよばれるタンパク質にデオキシリボ核酸(DNA)が巻きついた棒状の構造をしています。DNAの最小単位(ヌクレオチド)は、塩基と糖とリン酸から構成されています。塩基にはアデニン(A)とグアニン(G)とシトシン(C)とチミン(T)の4種類があり、ヌクレオチドにはそのうち1塩基が結合しています。ヌクレオチドはリン酸を介して鎖状につながっており、DNA鎖と呼ばれます。2本のDNA鎖の塩基同士は水素結合によりつながっており、二重螺旋構造となっています。向かい合う塩基の組み合わせは特異的で相補的な関係にあり、具体的にはAとT、GとCです。DNA鎖における4種類の塩基の組み合わせが塩基配列で、生物が正常な生命活動を維持するための遺伝情報が含まれています。ヒトゲノムは約31億塩基対により構成され、その一部(数%)はタンパク質のアミノ酸配列を規定しており、そうした部位はタンパク質コード遺伝子と呼ばれます。ヒトゲノムには、約25000個のタンパク質コード遺伝子が存在します。


●性特異的遺伝マーカー

 ヒトの細胞核には、22対の常染色体(ヒトは二倍体生物なので44本)と1対の性染色体(女性はX染色体が2本、男性はX染色体とY染色体が1本ずつ)が含まれています。卵子には必ずX染色体が1本含まれますが、精子にはX染色体を含むものとY染色体を含むものがあり、精子が卵子と結合すると、前者ならば女子、後者ならば男子が生まれます。Y染色体は父親から息子にのみ伝わるので、父親の系譜を反映する遺伝マーカーとしてよく利用されます。

 ミトコンドリアは細胞質に存在する細胞小器官で、エネルギー産生や呼吸代謝の役割を担っています。ミトコンドリアもDNAを含んでおり(mtDNA)、核DNAと同様に親から子供に伝わります。受精のさい、父親由来のミトコンドリアは卵子の中に入らないか、入っても破壊されるので、mtDNAは母親からのみ子供に伝わります。この母系遺伝の性質から、mtDNAは母親の系譜を反映する遺伝マーカーとして利用されています。mtDNAは男性も有しており、細胞内のDNA量が多く解析しやすいため、これまでに多くの研究があります。


●SNP

 配偶子が形成されるさい、ひじょうに低い確率ではあるものの、DNA複製エラーによる塩基配列の変化が起きることもあり、突然変異と呼ばれます。突然変異には、塩基置換、塩基の挿入や欠失、繰り返し配列における繰り返し数の増減などがあり、突然変異により生じた新たな塩基配列が、世代経過に伴って集団中で頻度が増加すると、多型として観察されるようになります。ヒトゲノム中で最も高頻度に観察される多型は、SNP(一塩基多型)です。SNPとは、着目する集団において、塩基配列上のある特定の位置に、2種類以上の塩基が存在する部位のことです。SNPの異なる塩基をアレル(対立遺伝子)と呼びます。ヒトの点突然変異(1塩基が別の塩基に置換されること)率は1世代1塩基あたり1.2×10⁻⁸と低いので、大部分のSNPには2種類の塩基しか観察されず、そのほとんどが単一起源と考えられます。単一起源とは、祖先型がGアレルで派生型がAアレルの場合、GアレルからAアレルへの突然変異は過去に1回しか起きていない、ということです。二倍体生物のヒトは両親から相同染色体を1本ずつ受け継ぐので、各SNPに対して3種類の遺伝子型が存在し、たとえばA/GのSNPでは、A/AとA/GとG/Gの3通りの遺伝子型が存在します。

 タンパク質コード遺伝子上にあるSNPのうち、塩基の違いにより異なるアミノ酸となるものを非同義SNP、同じアミノ酸となるものを同義SNPと呼びます。多くのSNPはアメリカ国立生物工学情報センター(National Center for Biotechnology Information、略してNCBI)に登録されており、rsで始まるIDが付与されています。SNPを構成する2つのアレルのうち、頻度の低い方はマイナーアレル、頻度の高い方はメジャーアレルと呼ばれます。NCBIのdbSNPデータベースには、マイナーアレル頻度が1%以上の非同義SNPが101000個以上、同義SNPが89000個以上登録されています(2020年10月27日時点)。

 日本人を含むアジア東部人に特徴的な表現型を示すSNPに、ABCC11遺伝子上の非同義SNP(rs17822931)とEDAR遺伝子上の非同義SNP(rs3827760)があります。ABCC11はABC(ATP binding Cassette)トランスポータータンパク質の一つで、乳腺やアポクリン腺などの外分泌組織で作用するタンパク質です。rs17822931はABCC11タンパク質の180番目のアミノ酸残基がグリシン(Gアレル)もしくはアルギニン(Aアレル)となるSNPで、アルギニンとなるアレル頻度がアジア東部人では高く、A/A遺伝子型だと耳垢は乾燥型に、G/AもしくはG/G遺伝子型だと耳垢は湿った型になります。EDARはエクトジスプラシンA受容体で、胚発生において重要な役割を果たすタンパク質です。rs3827760はEDAR タンパク質の370番目のアミノ酸塩基がバリン(Tアレル)もしくはアラニン(Cアレル)となるSNPで、Cアレルを持つほど毛髪が太くなり、また切歯のシャベルの度合いが強くなります。乾燥型の耳垢と関連するrs17822931のAアレルには、アジア東部人の祖先集団で強い正の自然選択が作用した可能性が高く(関連記事)、それが明瞭な地域差を生じさせた、と考えられます。


●減数分裂と組換え

 生殖細胞系列で起こる細胞分裂の様式は減数分裂と呼ばれ、細胞が通常増殖するさいの様式は有糸分裂もしくは体細胞分裂と呼ばれます。減数分裂が体細胞分裂と異なる点は、染色体の複製跡に姉妹染色分体となり、2回連続して細胞分裂(減数第一分裂と減数第二分裂)が起きることで、最終的に配偶子では染色体数が分裂前の細胞に半分になることです。減数分裂により遺伝的多様性が生み出される仕組みに、非姉妹染色分体間で染色体の一部が入れ替わる交叉(乗換)があり、各染色体あたり約2ヶ所以上(減数分裂あたり約50ヶ所)で交叉が起きます。これにより、新たな塩基配列を有する染色体(組換え体)が子供に伝わることがあります。同一染色体上の2地点間で組換えが起こる頻度が1%以上の時、その2点間の遺伝距離を1センチモルガン(cM)と呼び、ヒトの場合は1.3cMの距離が約100万塩基に相当します。


●ハプロタイプと連鎖不平衡

 ハプロタイプとは、同一染色体上に存在する複数のSNPのアレルの組み合わせです。観察されるハプロタイプの種類数は、SNP部位間で過去に起きた組換えの回数に依存しており、SNP部位が近接している(正確には、遺伝的距離が短い)と組換え率が低いため、理論上の最大種類数よりも少なくなります。観察されるハプロタイプの種類や各ハプロタイプ頻度は集団により異なりますが、遺伝的に近い集団ではよく似ているので、ヒト集団間の遺伝的近縁関係や、ヒトの移住史の推定に用いられます。


 連鎖不平衡とは、同一染色体上の2つ以上の多型間のアレルに関連がある状態のことです。SNP1(AアレルとGアレル)とSNP2(CアレルとTアレル)により規定されるハプロタイプの場合、A-CとA-TとG-CとG-Tの4種類のハプロタイプが存在し得ます。ハプロタイプの頻度がそれを構成するアレル頻度の積と等しくない場合、両アレルは連鎖不平衡の関係にあると呼ばれ、ハプロタイプ頻度の方がアレル頻度の積よりも大きければ正の連鎖不平衡、小さければ負の連鎖不平衡と呼ばれます。A-CとA-TとG-CとG-Tの各ハプロタイプ頻度をh11とh12とh21とh22とする場合、AアレルとCアレルの各頻度はh11+h12とh11+h21です。AアレルとCアレルの連鎖不平衡係数を、A-Cハプロタイプ頻度からアレル頻度の積を引いたD11=h11- (h11+h12) (h11+h21)と定義すると、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11=0ならば、AアレルとCアレルは連鎖平衡にある、と呼ばれます。AアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD12、GアレルとCアレルの連鎖不平衡係数をD21、GアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD22と定義すると、D11=-D12=-D21=D22の関係が常に成立します。


●ゲノム人類学

 全ゲノム配列決定技術が実用化されたことで、ゲノム人類学研究において飛躍的な進展がみられています。ゲノム人類学とは、ヒトゲノムの多様性情報から、人類の進化過程や表現型の多様性の基盤となる遺伝因子を明らかにし、ゲノム水準で「生物としてのヒト」の理解を目指す学問分野と言えます。多くの生物種でゲノム解析が行なわれていますが、公共ゲノムデータベースが最も充実しているのはヒトで、データ解析のフリーソフトウェアも多数公開されています。一昔前までは、実験してDNA配列を決定するという、いわゆるwet解析抜きに研究を進めることは困難でしたが、現在ではデータベースのデータを利用したいわゆるdry解析のみで優れた成果を挙げられます。若い人が参入しやすい点からも、ゲノム人類学は今後ますます発展する、と期待されます。


●アジア人の形成過程

 人の進化を包括的に理解するには、より多くのヒト集団の解析が必要なので、大規模な国際共同研究計画が盛んに行なわれています。その一つにヒトゲノム解析機構(Human Genome Organisation、略してHUGO)の汎アジアSNP共同事業体(Pan-Asian SNP Consortium、略してPASC)があります。PASCでは、アジア人の形成過程を明らかにする目的で、アジアの73集団の1808人について、54794個のSNP遺伝子型が調べられています(関連記事)。

 これまで、アジア東部現代人の祖先集団の形成について、二つの仮説が提案されてきました。一方は、アジア東部集団とアジア南東部集団がアジア大陸南部の沿岸部に沿って到達し、一つの共通祖先を有しており、アジア南東部到達後にアジア東部まで北上した、という説です(南岸経路説)。もう一方は、アジア東部に到達した二つの移住経路があり、南を経由した移住の後に、より北方を経由して到達した(アジア中央部を介してヨーロッパ集団とアジア集団をつないだ)移住があった、という説です(南北両経路説)。代表的なアジア集団と、アフリカ集団とヨーロッパ集団とオセアニア集団とアメリカ大陸先住民集団を含めた、29集団を対象とした系統樹解析により、ヨーロッパ集団とアジアやオセアニアやアメリカ大陸先住民の集団とが分岐した後、オセアニア集団とアジアおよびアメリカ大陸先住民集団とが分岐し、最後にアジア東部集団とアメリカ大陸先住民集団とが分岐した、と示唆されました。なお、本論文はこのように指摘しますが、現生人類各集団間の関係は複雑で(関連記事)、遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された集団を単純な系統樹に位置づけることには、難しさがあるように思います(関連記事)。

 SNPハプロタイプの多様度に注目すると、南の集団から北の集団にいくほど(緯度に比例して)、その多様性は減少しており、アジア集団の祖先は南から北へと移動してきた、と強く示唆されます。アジア東部集団で観察されるハプロタイプの90%のうち、50%はアジア南東部集団で観察される一方、わずか5%しかアジア中央部および南部集団では観察されませんでした。系統樹解析結果も合わせると、アジア東部集団の主要な起源はアジア南東部にあり、南岸経路説の方が有力と言えそうです。

 ネグリートは、アジア南東部からニューギニア島にかけて住む少数民族です。ネグリートは、低身長や暗い褐色の皮膚や巻毛といった特徴的な表現型を持ち、狩猟採集を営みながら孤立して存続してきたことから、その祖先集団や他のアジア集団との関係については諸説ありました。ネグリートは系統樹解析結果では、アジア東部人やアメリカ大陸先住民とともにオセアニア人から分岐しており、ネグリートの一部集団がアジア東部人やアメリカ大陸先住民と遺伝的に近いことから、ネグリートは他のアジア集団と共通祖先を有している、と考えられます。


●47都道府県の解析

 47都道府県の日本人11069個体の138688ヶ所の常染色体SNP遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた研究(関連記事)では、47各都道府県から50個体ずつ無作為抽出され、各SNPのアレル頻度が計算され、漢人(北京)も含めてペアワイズにf2統計量を求めてクラスタ分析が行なわれました。f2統計量とは、2集団間の遺伝距離を測定する尺度の一つで、SNPごとにアレル頻度の集団間差の2乗を計算し、全SNPの平均値として与えられます。クラスタ分析とは、多次元データからデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つで、この研究では階層的手法の一つであるウォード法が用いられています。47都道府県を4クラスタに分けると、沖縄、東方および北海道、近畿および四国、九州および中国に大別されます(図5.9、図のCHBは北京漢人)。関東や中部の各都県は1クラスタ内に収まりません。これは、関東もしくは中部の都県を遺伝的に近縁な集団とはみなせず、そうした単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることは難しい、と示しています。以下は本論文の図5.9(本論文の参照文献より引用)です。
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 47都道府県を対象にした主成分分析結果(図5.10a)では、沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県と示されます。主成分分析とは、多数の変数(多次元データ)から全体のバラツキをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する、多変量解析の1手法です。最も多くの情報を含む第1主成分の値から、沖縄県と鹿児島県の遺伝的近縁性が示されます。これは、単に地理的近さだけではなく、奄美群島の存在も影響していると考えられます。図5.9でクラスタを形成した地方については、九州と東北が沖縄県と遺伝的に近く、近畿と四国が遺伝的に遠い、と示されます。第2主成分は、都道府県の緯度および経度と有意に相関しています。以下は本論文の図5.10(本論文の参照文献より引用)です。
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 日本列島には3万年以上前からヒトが棲んでおり、16000年前頃から縄文時代が始まります(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)。弥生時代が始まる3000年前頃(この年代についても議論があるとは思います)に、それまで日本に住んでいた「縄文人」が、アジア大陸部から到来してきた「渡来人」と混血した、と考えられています。現代日本人の成立については、おもに北海道のアイヌと、おもに沖縄県の琉球人と、本州・四国・九州を中心とする「本土人」から構成される「二重構造モデル」が想定されています。遺伝学的研究により、「縄文人」と「渡来人」の混血集団の子孫が「本土人」で、アイヌや琉球人、とくに前者は当時の混血の影響をあまり受けていない、と示されています。

 「渡来人」の主要な祖先集団の子孫と想定される北京漢人と、各都道府県のf2統計量を計算すると、沖縄県は漢人から遺伝的に最も遠く、近畿と四国が漢民族に近い(最も近いのは奈良県)、と示されました。したがって、図5.10aにおいて、第1主成分の値が大きい都道府県は「縄文人」と遺伝的に近く、値が小さい都道府県は「渡来人」と近い、と想定されます。大部分の「渡来人」は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられますが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿や四国の人々に「渡来人」の遺伝的構成成分がより多く残っており、近畿と四国には、他地域よりも多くの割合の「渡来人」が流入したかもしれません。


●日本人に特徴的なY染色体

 Y染色体上の組換えを受けない領域の塩基配列の違いに基づいて、「縄文人」由来のY染色体を同定できる可能性があります。日本人男性345個体のY染色体の全塩基配列決定に基づく系統解析(関連記事)では、日本人のY染色体は主要な7系統に分かれました。他のアジア東部集団のY染色体データを含めての解析に基づくと、日本人で35.4%の頻度で見られる系統1は、他のアジア東部人ではほとんど観察されない、と示されました。系統1に属する日本人Y染色体の変異を詳細に解析すると、系統1はYAPという特徴的な変異を有するY染色体ハプログループ(D1a2a)に対応しています。YAP変異は、形態学的に「縄文人」と近縁と考えられているアイヌにおいて、80%以上という高頻度で観察されます。「渡来人」の主要な祖先集団の子孫である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体がほとんど観察されなかったことから、系統1のY染色体は「縄文人」に由来する、と結論づけられます。なお、同一検体のmtDNAの系統解析からは、明らかに「縄文人」由来と想定されるような系統は検出されませんでした。


●今後の課題

 日本列島「本土人」の常染色体のゲノム成分の80%程度は「渡来人」由来と推定されており(関連記事)、「縄文人」と「渡来人」の混血割合は2:8程度だったと思われます。縄文時代晩期の人口は8万人程度と推定されており、その居住範囲は日本列島全域にわたっていました。混血割合から単純に考えると、32万人の「渡来人」が渡海して日本列島に流入したことになりますが、この推定値は多すぎると思われます。より少ない「渡来人」が日本列島で優勢になる可能性として、「渡来人」との戦闘により「縄文人」が激減した可能性も想定されます。しかし、「縄文人」由来の系統1のY染色体の割合が現代日本人では35%となることから、仮に大多数の「縄文人」男性が系統1のY染色体を有していても、2:8の混血割合であれば、せいぜい20%にしかならないはずです。戦闘でまず犠牲になるのは男性であることが多く、系統1のY染色体の頻度はさらに低くなるでしょう。この問題も含めて、日本人の集団史には未解明の問題が残っています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。現代日本人は先住の「縄文人」と弥生時代以降にアジア大陸部から新たに日本列島に到来してきた「渡来人」との混合により形成された、との見解は現代日本社会においてかなり定着してきたように思います。しかし、近年の古代DNA研究の進展から、その形成過程はかなり複雑だったように思われます(関連記事)。朝鮮半島において、「縄文人」的構成要素でゲノムをモデル化できる個体が8300年前頃から確認されており、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸の個体は日本列島「本土」現代人と遺伝的構成がよく似ています。これらを踏まえると、日本列島「本土」現代人の基本的な遺伝的構成は朝鮮半島において紀元前千年紀初頭には確立しており、この集団が弥生時代以降に日本列島に到来して勢力を拡大した、と考えられます。

 さらに、朝鮮半島では紀元前千年紀後期以降に人類集団の遺伝的構成に大きな変化があって現代北京漢人により近づき、そうした集団が弥生時代後期から飛鳥時代にかけて到来し、日本列島「本土」現代人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と現時点では想定しています。47都道府県単位で奈良県民が遺伝的に最も北京漢人に近いのは、古墳時代から飛鳥時代に朝鮮半島から渡来した集団がおもにヤマト王権の中心地域に移住した結果だろう、と推測しています。また本論文では、「縄文人」由来と考えられる系統1のY染色体の割合が日本列島「本土」現代人で高い、と指摘されていますが、そのうち一定以上の割合は弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性が高いように思います。もちろん、こうした私見も日本列島、さらにはユーラシア東部の人口史を過度に単純化しているのでしょうし、今後の古代DNA研究の進展により大きく見直す必要が出てくるかもしれません。


参考文献:
大橋順(2021)「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第5章P78-91

https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html

27. 中川隆[-15335] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:05:45 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[17] 報告
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html

28. 中川隆[-13629] koaQ7Jey 2022年2月26日 12:45:13 : 7284w1h2Yo : ZEVCUFByRTFDb28=[12] 報告

2022年02月26日
設楽博己『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_26.html

https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87vs-%E5%BC%A5%E7%94%9F-%E2%80%95%E2%80%95%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E4%B9%9D%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A6%96%E7%82%B9%E3%81%A7%E6%AF%94%E8%BC%83%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A8%AD%E6%A5%BD-%E5%8D%9A%E5%B7%B1/dp/4480074511


 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2022年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は縄文時代と弥生時代とを、生業や社会や精神文化の観点から比較し、単に両者の違いだけではなく、縄文時代から弥生時代へと継承されたものについても言及しています。時代区分は、縄文時代については、草創期15000年前頃以降、早期が11300年前頃以降、前期が7000年前頃以降、中期が5400年前頃以降、後期が4500年前頃以降、晩期が3200年前頃以降で、弥生時代については、早期(九州北部地方)が紀元前9世紀以降、前期(九州北部地方)が紀元前8世紀以降、前期(近畿地方)が紀元前7世紀〜紀元前6世紀以降、前期(伊勢湾地方)が紀元前6世紀へ紀元前5世紀以降、前期(東日本)が紀元前5世紀〜紀元前4世紀以降、中期が紀元前4世紀以降、後期が紀元後1世紀以降となります。


●生業

 縄文時代の農耕の可能性は古くから指摘され、一時は有力とも考えられていましたが、その後の再分析により現在では、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が有力になっています。また縄文農耕櫓では、イネに先立って雑穀が栽培されていたと考えられていましたが、両者はほぼ同時に日本列島に出現することも明らかになってきました。弥生時代の農耕については、かつて発展段階論的に考えられており、水田稲作は粗放で生産性の低い湿田での直播から始まり、灌漑により半乾田での耕作という生産性の高い段階に達した、というわけです。しかし、福岡市の板付遺跡での発掘調査により、最初期の水田は台地の縁にあり、すでに灌漑水利体系という高度な技術を備えた完成されたものだった、と明らかになりました。このように、本格的な穀物栽培は弥生時代に始まりましたが、縄文時代にも、ヒョウタンやウリやアサやゴボウやエゴマやダイズなど、植物栽培はありました。ただ本書は、縄文時代を通じた植物栽培の特徴として、嗜好品的な性格を指摘します。また本書は、縄文時代の食料資源利用技術について、弥生時代と比較して劣っていると単純に言えるわけではない、と強調します。

 本書は縄文時代の栽培も「農耕」と呼び、縄文時代と弥生時代の農耕の質的差を指摘します。それは、縄文時代には農耕が生業のごく一部にすぎず、さまざまな生活道具が農耕用に特化しているわけではないのに対して、弥生時代の農耕は、地域的多様性があるものの、道具と儀礼は農耕用に特化している、ということです。文化要素の多くが農耕に収斂しているか否かが、縄文時代と弥生時代の違いというわけです。弥生時代の農耕について本書は、少ない種類の資源を集中的に開発・利用する選別型と、多くの資源を開発・利用する網羅型に二分しています。縄文時代の生業は基本的に網羅型なので、弥生時代の網羅型生業は縄文時代に由来しますが、ユーラシア東部大陸部の生業は、華南が選別型で華北は網羅型となり、これが朝鮮半島経由で日本列島にもたらされた可能性を、本書は指摘します。

 漁撈については、縄文時から弥生時代にかけての継承の側面とともに、環濠や水田の開発により形成された内水面環境で行なわれていた新要素もあった、と指摘されています。また、貝の腕輪など九州と南西諸島との交易の証拠から、広域的な活動範囲の海人集団の活動も推測されており、本書は、農耕集団の求めに応じての大陸との交通活発化にその要因がある、と指摘しています。狩猟民についても、農耕集団との相互依存関係が指摘されていますが、狩猟民は海人集団のように有力な政治的勢力になっていったわけではなさそうです。


●社会問題

 縄文時代には通過儀礼として耳飾りや抜歯や刺青がありました。耳飾りの付け替えの風習は縄文時代のうちに終了しましたが、抜歯と刺青は弥生時代に継承されました。耳飾りには複数の種類があり、集団間の違いとともに、集団内の地位の違いも示していたようです。抜歯は弥生時代まで継承されたものの、たとえば東海系の抜歯は弥生時代中期中葉に水田稲作とそれに付随する文化の到来とともに、急速に失われていったようです。また抜歯には、大陸系と縄文系の違いもあったようです。刺青については、人類遺骸での判断がきわめて困難なので、文献にも依拠しなければなりませんが、複雑だった縄文時代晩期終末の刺青が弥生時代中期以降に衰退し、紀元後3世紀に再度複雑化するというように、単純な経過ではなかったことが示唆されます。

 祖先祭祀については、縄文時代に定住が進み、竪穴住居の内側や貝塚から埋葬遺骸がよく出土するように、生者と死者の共住により芽生えていったのではないか、と推測されています。定住生活の進展により、資源領域の固定化と、資源の確保や継承をめぐる取り決めが厳しくなっていっただろうことも、祖先祭祀が必要とされた要因と考えられます。縄文時代中期には集落が大型化していき、何代にもわたって同じ場所に居住し続け、集落内部の埋葬小群は代々の家系を示しているのではないか、と推測されています。弥生時代には、縄文時代の伝統を継承しつつも、祖先祭祀のための大型建物が軸線上にあることなど、大陸由来の要素が見られるようになります。

 まとめると、縄文時代は複雑採集狩猟民社会で、定住化が進み、生活技術が高度化したものの、ユーラシア南西部や東部とは異なり、本格的な農耕社会には移行しませんでした。また縄文時代でも、西日本の集落が東日本と比較して小規模傾向であるように、東西の違いは大きかったようです。これについては、落葉広葉樹林帯の多い東日本と照葉樹林帯の多い西日本との違いも影響していますが、東日本は西日本と比較して資源の種類数が少ないため、集約的労働が必要となり、集落規模が大きくなる傾向にあった、とも指摘されています。階層化、つまり不平等は、副葬品の分析などにより、縄文時代にある程度進行していたことが窺えます。弥生時代の階層化の進展は、戦争の発生および大陸との交流増加に起因するところが大きかったようです。本書は縄文時代から弥生時代にかけて、階層構造がヘテラルキー(多頭)社会からヒエラルキー(寡頭)社会へと変わっていき、その最初の画期は弥生時代中期初頭だった、と指摘します。


●文化

 縄文時代の基本的な男女の単位は夫婦と考えられますが、生産単位では性別分業が進行していたようです。弥生時代になると、男女一対の偶像の出現かからも、農耕では他地域と同様に男女共業傾向が強かった、と示唆されます。芸術的側面では、縄文時代の動物の造形が立体的だったのに対して、弥生時代には平板になった、と指摘されています。これについては、森という立体的空間からさまざまな資源を得ていた縄文時代の網羅型生業体系から、大陸の影響を受けた弥生時代の農耕社会への移行が背景にあるのではないか、と指摘されています。

 土器については、弥生時代になって朝鮮半島の無文土器の影響を強く受けるようになったものの、近畿地方では前期のあっさりした文様が、前期後半から中期にかけて文様帯の拡張へと変わるように、一様ではなかったことと共に、弥生土器の形成に縄文土器が役割を果たしていたことも指摘されています。土器の伝播は、縄文時代から弥生時代への移行期において、九州北部から東方への伝播だけではなく、東日本から西日本への伝播もあった、というわけです。弥生時代以降の日本史を、大陸に近い西日本から東日本への単純な文化伝播として考えてはならないのでしょう。

 本書は弥生時代の多様性を強調し、農耕体系にしても、おもにイネを栽培対象として、灌漑による水田栽培を行なう遠賀川文化に代表されるものと、中部地方高地や広東地方の条痕文系文化に代表される、雑穀(アワやキビ)を主要な栽培対象として、畠で農耕を行なうものとでは、農具などの道具も違ってくる、と指摘します。後者は、縄文時代にも見られた複合的な網羅型生業体系で、前者と比較して縄文文化的要素が強くなっています。両者の境界は三河地方あたりで、これは縄文時代晩期の東西の文化の違いを反映しているのではないか、と本書は推測します。縄文時代晩期の東日本が複雑採集狩猟民なのに対して、西日本はそうではありませんでした。縄文時代から弥生時代への移行については、近年飛躍的に進展している古代DNA研究(関連記事1および関連記事2)が大きく貢献できるのではないか、と期待されます。


参考文献:
設楽博己(2022)『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』(筑摩書房)

https://sicambre.at.webry.info/202202/article_26.html

29. 中川隆[-12942] koaQ7Jey 2022年8月20日 19:59:23 : 1mt0LFVf3c : aG40M0haaC9KbGs=[4] 報告
日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14019324

金平譲司 日本語の意外な歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14020106


▲△▽▼
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日本語の原郷は9000年前の「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
2021-11-13
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12710029028.html

日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
Yahoo news 2021/11/13(土) 毎日新聞

(いちご有力説でいえば、3000年前、日本に水田稲作をもたらしたのは、青銅器文化を持った中国南方の米作民族で、朝鮮半島の米作は入ってこなかったとされているので、新説だ。天皇家の先祖は、殷の王族末裔の箕子朝鮮の流れを汲み、紀元1世紀初めに半島から松浦半島に到来した。天皇家を含む天孫族は、それ以前にも渡ってきており、それが今回の原日本語族となった可能性がある。縄文語も弥生語もアジアの北から南から重層的に入ってきている。9000年前の「中国東北部の農耕民」が現在の中国人と違う可能性はもちろんある。)


https://ameblo.jp/yuutunarutouha/image-12710029028-15031004815.html


日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。


日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。

 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。

 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。

 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。

 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。

 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。

 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。

 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】


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韓国語の起源は9000年前、中国北東部・遼河の農耕民
Yahoo news 2021/11/13(土) 朝鮮日報日本語版

https://ameblo.jp/yuutunarutouha/image-12710029028-15031005547.html


韓国語がチュルク語・モンゴル語・日本語と共に9000年前の新石器時代、中国東北部で暮らしていた農耕民から始まったことが明らかになった。これまでは、それよりはるか後に中央アジア遊牧民が全世界に移住して同様の体系を持つ言語が広がったと言われていた。

ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロベーツ博士研究陣は「言語学と考古学、遺伝学の研究結果を総合分析した結果、ヨーロッパから東アジアに至るトランスユーラシア語族が新石器時代に中国・遼河一帯でキビを栽培していた農耕民たちの移住の結果であることを確認した」と11日、国際学術誌「ネイチャー」で発表した。


■母音調和・文章構造が似ているトランスユーラシア語

 今回の研究にはドイツと韓国・米国・中国・日本・ロシアなど10カ国の国語学者、考古学者、遺伝生物学者41人が参加し、韓国外国語大学のイ・ソンハ教授とアン・ギュドン博士、東亜大学のキム・ジェヒョン教授、ソウル大学のマシュー・コンテ研究員ら韓国国内の研究陣も論文に共著者として記載されている。

 トランスユーラシア語族はアルタイ語族とも呼ばれ、西方のチュルク語、中央アジアのモンゴル語、シベリアのツングース語、東アジアの韓国語と日本語からなる。汁などが煮え立つ時の擬声語・擬態語である「ポグルポグル(ぐつぐつ)、プグルプグル(ぐらぐら)」のように前の音節の母音と後ろの音節の母音が同じ種類同士になる「母音調和」がある点や、「私はご飯を食べる」のように主語、目的語、述語の順に文が成り立っている点、「きれいな花」のように修飾語が前にくる点も共通の特徴だ。

 トランスユーラシア語族はユーラシア大陸を横断する膨大な言語集団であるにもかかわらず、起源や広まった過程が不明確で、学界で論争の対象となっていた。ロベーツ博士の研究陣は古代の農業と畜産に関連する語彙(ごい)を分析する一方、この地域の新石器・青銅器が出ると見られる遺跡255カ所の考古学研究結果や、韓国と日本で暮らしていた初期農耕民の遺伝子分析結果まで比較した。

 研究陣があらゆる情報を総合分析した結果、約9000年前に中国・遼河地域でキビを栽培していたトランスユーラシア祖先言語の使用者たちが新石器初期から北東アジア地域を横断するように移動したことを確認した、と明らかにした。

■新石器時代の韓国人と日本人の遺伝子が一致

 今回の「農耕民仮説」によると、トランスユーラシア祖先言語は北方と西方ではシベリアと中央アジアの草原地帯に広がり、東方では韓国と日本に至った。これは3000−4000年前、東部草原地帯から出た遊牧民が移住し、トランスユーラシア語が広がったという「遊牧民仮説」を覆す結果だ。

 ロベーツ博士は「現在の国境を越える言語と文化の起源を受け入れれば、アイデンティティーを再確立できる」「人類史の科学は言語と文化、人間の歴史が相互作用と混合の拡張の1つであることを示している」と述べた。

 韓国外国語大学のイ・ソンハ教授は「各分野の研究結果を立体的に総合分析し、トランスユーラシア語が牧畜ではなく農業の拡大による結果であることを立証したという点で注目すべき成果だ」「韓国の(慶尚南道統営市)欲知島の遺跡で出土した古代人のデオキシリボ核酸(DNA)分析により、中期新石器時代の韓国人の祖先の遺伝子が日本の先住民である縄文人と95%一致するという事実も初めて確認した」と語った。

李永完(イ・ヨンワン)科学専門記者
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12710029028.html


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日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
2021年11月14日
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa

Natureに日本語のルーツについての新しい研究成果が発表されたと言うことで、さっそく読んでみる。

こちらの論文、"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages(トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった)"である。

Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
A ‘triangulation’ approach combining linguistics, archaeology
www.nature.com
トランスユーラシア語族というのは聞きなれない言葉かもしれないが、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国語、そして日本語の共通のルーツにあたると推定される言語のグループである。

これまでの研究では、トランスユーラシア語族については「紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導した」という説が支持を集めていたという(これを「遊牧民仮説」という)。

これに対して今回の研究成果では、遊牧民仮説に異を唱え、紀元前9000年ごろまで遡る西遼河周辺地域の農耕民(キビ農耕民)こそがトランスユーラシア語を話す最初の人々であったと推定する。なお、西遼河というのは今の中国の東北部を流れる大河であり、キビというのはあの穀物の黍である。

せっかくなので、"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages"を読んでみよう。DeepLを使えば訳文も一瞬で取得できるので活用させていただく。

トランスユーラシア語族は紀元前2000年の牧畜民?それとも、紀元前9000年の農耕民?
Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
A ‘triangulation’ approach combining linguistics, archaeology
www.nature.com
まずAbstractから読んでみる。(Abstractというのは学術論文の概要をまとめたもので、その論文が新たに得た知見が先行研究の知見とどう違うのか、その新たな知見を得るためにどういうデータや資料をどのような方法で分析したのかが書かれている)

この論文が示す新たな知見は次の通りである。

従来の「牧畜民仮説」に疑問を投げかけ、トランスユーラシア言語の共通の祖先と主要な分散は、新石器時代初期以降に北東アジアを移動した最初の農民にまで遡ることができるが、この共通の遺産は青銅器時代以降の広範な文化交流によって隠されていることを示している。

トランスユーラシア語族のルーツについては、従来の説では紀元前2000〜1000年ごろに「東部のステップから移動してきた遊牧民」と考えられていたが、この論文はここに「疑問を投げかけ」るのである。そしてこの説に代わってトランスユーラシア語族のルーツが紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民にあることを諸々のデータから立証する。

ところでこの新説、なぜ今までは「紀元前2000年ごろの遊牧民の移動」説に比べて、もっともらしさで見劣りしていたのだろうか?

それは即ち、紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民の姿は、その後の時代の「青銅器時代以降の広範な文化交流によって隠され」たからである。

隠されていたとはどいうことだろうか?

それはすなわち、紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民から単純なツリー状にトルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国語、日本語を話すグループが分岐した訳ではないからである。単純なツリー状というのは要するに、いったん幹から分かれた枝が、その後もう二度と幹や他の枝と再び一つになることなく、永遠に独立したまま伸びていく、というイメージである。

画像3
図で描くとこのような具合であるが、現実はこんなに単純ではない。「青銅器時代以降の広範な文化交流」とあるように、一度別れた枝はまた幹に繋がるし、別々の枝同士も絡まり合い、その絡まり合った後からまだ新たな分岐が生じ、その分岐がさらに他の枝たちの絡まり合いに絡まり合い、という具合に縺れた網目状になるのである。絡まり縺れた網、毛玉のイメージである。

画像4
この縺れあいの中で幹はいつしか細くなり、ほとんど見えなくなってしまう。しかもここにより太い別の「幹」から分かれてきた他所の枝まで混じり合う。

この辺りの話については、デイヴィッド・ライク氏の『交雑する人類』が詳しいのでご参考にどうぞ。


交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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現代の私たちが直接観察できる言語の話者たちの集団は、一本のツリーの純粋な枝ではなく、特に濃密にきつく絡み合った網ないし毛玉の部分である。この現存する毛玉から、ルーツの残影を復元するのはとんでもなく大変なことである。

この大変な縺れを解きほぐしたのが言語学と考古学と遺伝学を統合した「トライアンギュレーション」というアプローチである。

言語の系統樹の分岐と生業
言語学と考古学(農耕遺跡の分析)の重ね合わせから、次のような知見が得られるという。

まず言語である。

ベイズ法を用いてトランスユーラシア諸語の年代順の系統樹を推定した。その結果、トランスユーラシア語族のルーツである原始トランスユーラシア語は9181 BP (5595-12793 95% highest probability density (95% HPD))、トルコ語、モンゴル語、ツングース語が統合された原始アルタイ語は6811 BP (4404-10166 95% HPD)、モンゴル語-ツングース語は4491 BP (2599-6373 95% HPD)、日本語-韓国語は5458 BP (3335-8024 95% HPD)という時間的な深さが示された(Fig. 1b).

ベイス法というのはデータを分類する手法である。この論文が採用したデータからは日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、トルコ語の共通のルーツである原始トランスユーラシア語が喋られていたのは今からおよそ9000年ほど前にまで遡る可能性が浮かび上がるという。

下記に図を引用する。参照元は次のページである。

Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
A ‘triangulation’ approach combining linguistics, archaeology
www.nature.com
画像1
図の上のaは現代の言語の分布である。緑はトルコ語、黄色がモンゴル語、青がツングース語、紫が韓国朝鮮語で、赤が日本語である。

そして図の下の方bが、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語が、共通のルーツとなる言語(トランスユーラシア語)から分岐していく様子を表している。

まず3が「原始(プロト)トランスユーラシア語」。これは図の中で3の赤が示す通り、西遼河の流域で今から9000年前ごろに話されていたと推定される言語である。

ここから、4「プロトモンゴル-ツングース語」を話すグループと、5「プロト日本語-韓国語」を話すグループが分かれつつ、東西へ、南へと広がって行ったのである。

ここで、なぜトランスユーラシア語を話した人々がキビ農耕民だと推定されるかというと、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語では農耕に関する言葉、食品の生産と保存に関する言葉、定住を示唆する野生の木の実を表す言葉、織布に関する言葉、家畜に関する言葉に、共通の祖語が推定されるのである。

復元された原語の語彙の中で明らかになった農耕民族的な単語を調べる質的分析(補足データ5)により、特定の地域で特定の時期に行われた祖先の言語コミュニティの文化的診断となる項目をさらに特定した。新石器時代に分離した共通の祖語(原トランスユーラシア語、原アルタイ語、原モンゴロ・ツングース語、原日本・朝鮮語など)には、耕作に関連する言葉(「field」、「sow」、「plant」、「growth」、「cultivate」、「spade」)や、米やその他の作物ではなく粟(「millet seed」、「millet gruel」、「barnyard millet」)などの小さな核が反映されている。食品の生産と保存(「発酵させる」「すり潰す」「粉にする」「醸造する」)、定住を示唆する野生食品(「くるみ」「どんぐり」「栗」)、織物の生産(「縫う」「布を織る」「織機で織る」「紡ぐ」「布を切る」「苧麻」「麻」)、そして唯一の家畜として豚と犬が挙げられる。

トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語の共通の祖語にまで遡れる時点、つまり9000年前の時点で、既にキビの畑作に関する言葉が用いられていたということは、つまりトランスユーラシア語族の共通祖先は農耕民であったことを示しているといえる。

次に考古学である。

キビの栽培の痕跡に注目すると、ちょうど今から9000年前ごろ、現在の中国東北部の西遼盆地ではキビの栽培が始まっていた。このキビ農耕の文化は5500年前ごろには朝鮮半島に達しており、5000年前ごろにはアムール河流域からロシアの沿海地方にも広まっていた。

4000年前ごろになって、このキビから始まった農耕文化に南方から稲作や小麦の栽培が加わった。西遼のキビ農耕民の文化と、南方の黄河の小麦や長江の稲作農耕文化とが、遼東半島や山東半島のあたりで出会ったらしい。

青銅器時代前期(今から3300年前ごろ)には、キビ農耕に稲作や小麦をも取り込んだ西遼の複合文化が朝鮮半島まで伝わる。

そして今から3000年前ごろになって朝鮮半島から日本に伝わったのである。

ある言語を話す集団がある植物を栽培化したとして、永遠にその作物だけを育て続ける訳ではない。作物と技術は、言語のグループを超えて伝承する。

* *

こちらも図を引用してみよう。参照元は下記のページである。

Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
A ‘triangulation’ approach combining linguistics, archaeology
www.nature.com
画像2
図中、赤い矢印は、今から7000年前〜5000年前ごろの新石器時代のアムール族キビ農耕民の東への移動を示す。

また、緑の矢印は今から3500年前〜2900年前ごろの新石器時代後期から青銅器時代にかけて、アムール族キビ農耕民が南方の稲作を取り入れつつ、朝鮮半島へ、さらには日本列島へと移動したことを示す。

対馬海峡の部分に描かれている2900年前という年代は、九州北部で稲作農耕が始まる頃である。

*この辺りの詳細については藤尾慎一郎氏による講談社現代新書『弥生時代の歴史』が参考になる。


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今日の日本語に連なる言語を話していた人々は、今から3000年前ごろに日本列島に到着したのであるが、その時点で言語に関してはトランスユーラシア語族に遡ることができる言語を話し、農耕の技術に関しては9000年前にまで遡るキビ農耕文化由来の要素と、南方起源の稲作文化の要素が複合した文化を携えていたという事になる。

水田を営む稲作農耕を営む人々は、定住性を高め、労働力を集約できるように一箇所に集まって生活し、地域の人口密度を高める傾向にある。一方、キビ農耕民はどちらかといえば居住エリアを広げていく傾向にあったという。

* *

ところで、キビ農耕文化に南方から稲作や小麦の栽培が加わった「4000年前ごろ」といえば、ちょうど「殷」の始まりの頃である。

後に殷と呼ばれることになる王朝を開いた人々は、もともと、おそらく今のモンゴルや遼河流域、ちょうど今でキビや粟を栽培していた人々であると推定されている。それが南に移動し後に、それこそ山東あたりで稲作の文化も取り込みつつ勢力を拡大し、後に「夏」にとってかわった、と考えられる。

上の図の緑の矢印の出発地点、ちょうど赤く塗られたエリアと、緑に塗られたエリアが重なるところであるが、「殷」の発祥の地もまさにこの辺りと推定されることが興味深い。

もともとキビ農耕民だった後の殷の人々が、稲作を取り込んだことによってまさに定住性、集住性を高め、王朝まで建立するに至ったと推定することもできる。

ところで、殷の文化と、その殷を滅ぼした周の文化とでは、大きな違いがあるということを、かの白川静氏が語っている。

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周の文化は今日に連なる中国の文明の直接の祖であって、「合理的」で「鬼神を語らず」の傾向がある。

それに対して殷の文化は「広くいえばシャーマニズム的なものが非常に濃厚」であると白川氏はいう。また殷には「文身(刺青)」の習慣のように、のちの中国では失われながら、いわゆる魏志倭人伝に登場する倭人の習俗には伝わる要素が含まれているという。

こうした点から白川氏は、『詩経』と『万葉』、古の日本と中国の古層との間に、「両者が共通して持っているような原体験の世界というものが見えてくるのではないか」と論ている(『呪の思想』p.21)。

今回の言語の系統樹の研究に依れば、殷の人々と、今から3000年前くらいに朝鮮半島から日本列島へと渡ってくることになる稲作農耕民とは、遡ること4000年ほどには同じ文化の人々であった可能性も高くなる。

もちろん、この場合の「同じ」というのも、孤立した単一の塊という意味合いではなく、すでに遡ること遥か9000年前ごろから、そしてもちろんそれよりもはるかに古い時代から複雑に絡み合い続けた動的な網の目の、一つの結び目というくらいの意味である。


* *

同じ言語的ルーツを持つグループでも、生業が変われば暮らし方も変わるし、人間の集まり方、関わり方なども大きく異なってくる。

そして何より、新たに接触した異言語を話す人々から一連の単語を借り、言語を変化させていくのである。

青銅器時代に分離したテュルク系、モンゴル系、ツングース系、朝鮮系、日本系の各亜族は、米・麦・大麦の栽培、酪農、牛・羊・馬などの家畜、農具や台所道具、絹などの織物に関連する生活用語を新たに挿入している。これらの単語は、様々なトランスユーラシア語や非トランスユーラシア語を話す青銅器時代の人々の間の言語的な相互作用から生まれた借用である。

古いにしえからの言い方を受け継ぎつつも変化し、変化しながらも古からの要素を残す。言語は同一性を反復しつつ差異化し、差異化しつつ反復するオートポイエシスのシステムともいえる。

まとめ
このとてもエキサイティングな論文"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages(トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった)"のまとめをあらためて参照しよう。

「トランスユーラシアの言語の起源は、新石器時代の北東アジアでアワの栽培を始めた人々(初期アムール人)にまで遡ることができる」

「新石器時代の初期から中期にかけて、"初期アムール人"の遺伝子を持つキビ農耕民が西遼河から周辺地域に広がる」

「新石器時代後期、青銅器時代、鉄器時代を通じてアムール人を祖先に持つキビ農耕民は、黄河、西ユーラシア、縄文の人々と各地で徐々に混血しつつ、生業にも稲作や、西ユーラシアの作物、そして牧畜を加えていった。」

この辺りの研究は今後もさらに進んでいくことだろう。

なんといっても、農耕という作物との関係で、定住なり、集団生活なりといった人間同士の関係の取り方が浮かび上がり、そうした中で、ある特定の言葉が繰り返し使われる頻度が相対的に高まり、そこが強力な伝搬の中心のようなものになってなって行ったという説は面白い。

◇ ◇

こうした研究成果は、あれやこれやの純粋性とか本質といったことが素朴に実在するだろうとする確信を揺るがせる点で、まさに科学の真骨頂といえるものだと思うのであります。

そしてそして、井筒俊彦氏が書いているような、今日現在の私たち一人ひとりにもまさに「憑依」している「言語的意味分節のカルマ」としての阿頼耶識が、そのごく細く小さな部分を、9000年も前に西遼河で暮らした人々から連綿と変容しつつ伝承されている何かの残滓だということも、大変なことであると思うのです。

https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa

30. 中川隆[-12502] koaQ7Jey 2023年6月16日 23:15:12 : pPPF1fK2NA : L3BWSVRFdm5scGc=[4] 報告
<■178行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767

2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説

化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)


日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。

篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。


大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。

 私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。

橘 中国も唐の時代(618年〜907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。

篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。

橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。

篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。

弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。

篠田 そう思います。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2


橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?


篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。

橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。

篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。

 さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。

 朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。

橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。

篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。

 両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。

橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。


篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184〜280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。

橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。

篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。

橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。

篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。

 ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。

橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。

篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。

 当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。

橘 すごくロマンがありますね。

篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。

弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770〜紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。

 古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。

篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。

 古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。

橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。

篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。


政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。

篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。

橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。

篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
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橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。

篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。

 弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。

橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。

篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。

橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。

篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。

 次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。

 朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。

橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。

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