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「万世一系」の虚妄
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/237.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 24 日 05:28:21: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した 投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 24 日 05:14:09)

「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか

2013-05-05
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

天皇といえば、枕詞のようについてくる形容が「万世一系」。

ある種の人々にとって、天皇家が「万世一系」であることは、何物にも代えがたい至上の価値であり、日本という国を、他国より優れた特別な存在にするものであるらしい。

…バカじゃなかろうか。

当たり前だが、親から生まれて来なかった人間はいない。

皇族であろうがなかろうが、また日本人であろうがなかろうが、人間である以上、誰でも親、その親と辿っていけば、必ず悠久の過去の人類発祥までたどり着く。途中一世代どころか一瞬でも断絶があれば、その人間はいま生きてはいない。人間であれば誰でも、現生人類の誕生以来約25万年と言われる歴史の中を、連綿と命を受け継いで来たのだ。その中で、高々2千年程前のある男が祖先だと称する一族だけが「万世一系」で尊いなどということがあるわけがない。そんなものを崇め奉るのは愚の骨頂である。

「万世一系」など下らぬ妄想。

以上、終わり。

…ということにしてもいいのだが、せっかくなのでもう少しこれに関連する言説を見てみることにする。

一口に「万世一系」と言っても、その考え方は一つではないようだ。中でもとりわけバカバカしいのはこれあたりだろうか。

平沼赳夫オフィシャルホームページ:(強調部は引用者による)


 つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。

 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。

平沼によると、「万世一系」の本質とは、天皇家の父から息子へと受け継がれていくY染色体上の遺伝子のことなのだそうだ。代々の天皇(天皇にはなれなかった傍系の男も含む)の肉体は、単なる遺伝子を運搬するための器に過ぎず、息子に「Y因子」を受渡してしまえばもう用済みなのである。もちろん、個々の天皇の人格などどうでもいいわけだ。なんだか、利己的遺伝子仮説の出来の悪い焼き直しみたいな話だ。

これほど歴代天皇を侮辱した言説もないのではなかろうか。

ついでに指摘しておくと、古事記に名前が出てくる各地の豪族のうち、88%は「皇系」、つまり何代目かの天皇の子孫ということになっている。平沼の言うように「Y因子」さえ受け継いでいればいいのなら、男系で続いてさえいれば、そうした豪族たちの誰がどんな手段で天皇になっても構わないことになる。とんだ「万世一系」もあったものだ。

より穏当というか、一般的な説は、日本では歴史の初めから王朝の交代がなく、同じ王統がずっと続いているから「万世一系」だ、というものだ。

しかし、こちらの説も極めて怪しい。

例えば、平沼も言及している武烈(25代)から継体(26代)への代替わりなど、まず王朝交代と見て間違いない。

武烈には子がなく、次の天皇となった継体は、古事記によれば応神天皇(15代)の五世の孫、日本書紀によれば六世の孫、とされている。確かに一応過去の天皇の子孫ということになってはいるが、これほど世代の隔絶した継承は異常だ。それは、以下の系譜と比べてみれば分かる。


桓武天皇

葛原親王1

高見王2

平高望3

平良持4

平将門5

平将門は桓武天皇の五世の孫。継体が天皇になったというのは、平将門が天皇になったのと同じようなものなのだ。

しかも、三国(現在の福井県坂井郡付近)の出身とされている継体の、応神以来の系譜は、古事記にも日本書紀にも書かれていない。(日本書紀は父の名のみ記載。)


 これは記紀の編者が、それらを知らなかったためではなく、それらを書くことが必ずしも名誉とならない、そういう事情を配慮したからではないであろうか。なぜなら、それらの人名は、北志賀(滋賀県)や三国(福井県)の諸豪族にとって、同僚や時として下僚に当る人物として熟知されていた人名だったであろうから。

 このように考えてみると、継体即位の問題性、さらに不法性、それを疑うことは困難なのではなかろうか。

という古田武彦氏の推測(『古代は輝いていた』2)は妥当なものと思われる。実際、応神―継体間の系譜は、鎌倉末期に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀」に、今では失われた「上宮記」という史書からの引用という形で記載されている。上宮記は7世紀頃に成立したと考えられており、古事記・日本書紀より古い。当然、記紀の編者が知らなかったはずはないのだ。

要するに、武烈死後の混乱に乗じて、出自もはっきりしない、しかし武力や経済力は十分に備えた地方の大豪族が大和に進出してきて次の天皇となったのだ。「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

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日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878


歴代天皇のいわゆる「万世一系」について、真に問わなければならない問題とは何か?

それは、「万世一系」の定義とか、それは事実かどうか、といったことではなく、なぜ天皇は「万世一系」ということになっていなければならないのか、そもそもなぜそんなものが必要だったのか、という問題だと私は考えている。

「万世一系」の天皇を戴く大和民族の一員であることにしか自尊感情の源泉を見いだせないある種の人々(「特定日本人」とでも呼ぶべきか?w)は、幾多の王朝が興亡を繰り返した中国と比較することで自国の優位性を言いたがる。

なので、ここでも中国との比較を通してこの問題を考えてみることにしよう。

■ 疑問1

前回の記事では、武烈―継体間の王統断絶を取り上げた。ここで、日本書紀は、前王朝最後の王武烈を、悪逆非道の暴君として描き出している。


武烈2年: 妊婦の腹を割いて胎児を見た。

武烈3年: 人の生爪を抜き、その手で芋を掘らせた。

武烈4年: 人の頭髪を抜き、木の頂に登らせ、その木を切り倒して、

      登らせた者が落ちて死ぬのを楽しんだ。

武烈5年: 人を池の水を流す樋に伏せ入らせ、外に流れ出てきたところを

      三叉の矛で刺し殺して楽しんだ。

武烈7年: 人を木に登らせておき、弓で射落として笑った。

武烈8年: 女を裸にして板の上に据え、馬を引いてきて交尾させた。

      そして女の性器が濡れていれば殺し、濡れていなければ官婢とした。

これとよく似た例が、中国の史書にも見られる。有名なのは殷に亡ぼされた夏王朝最後の王「桀」、そして周に亡ぼされた殷王朝最後の王「紂」に関する暴虐記事だろう。

『史記』夏本紀34:


桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。

『史記』殷本紀29-30:


(紂は)酒を好み淫を楽しみ、婦人を嬖(へい)す。

妲己(だっき)を愛し、妲己の言に是れ従ふ。

賦税(ふぜい)を厚くして以て鹿台(ろくだい)の銭を実たし、而して鉅橋(きょきょう)の粟(あわ)を盈(み)つ。

(人々を)大いに最(あつ)め沙丘に楽戯す。

酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸(ら)し其の間に相ひ逐(お)はしめ、長夜の飲を為す。


武烈紀の暴虐記事は、これら中国の先例に倣ったものと思われる。

こうした記事の内容が本当だったのかどうか、それは分からない。しかし、確実に言えるのは、前王朝に取って代わった新権力者にとって、先王の暴虐を宣伝するのは、自らの権力奪取の正当性を主張する上で大変役に立つ、ということだ。

殷の湯王や周の武王と、継体はよく似た立場にいたといえる。ではなぜ、湯王や武王が堂々と新王朝の樹立を宣言したのに対して、継体はあたかも穏当に武烈の後を継いだかのように振舞ったのだろうか?

別の言い方をすれば、継体から始まる新王朝の正史である日本書紀は、なぜ継体を自王朝の始祖として描かず、神武以来の王朝がそのまま継続したかのように描いているのだろうか?

■ 疑問2

武王が樹立した周王朝は、その後しだいに衰退し、やがて形式的な権威を担うだけの有名無実の存在となっていった。鎌倉時代以降、実質的権力を失い、衰退していった京都朝廷とよく似ている。

両者の違いは、周王朝が数百年続いた後、最終的に秦に滅ぼされたのに対して、京都朝廷は曲がりなりにも近代に至るまで存続したことだ。

何がこの両者の運命を分けたのだろうか?

■ 答え

周王朝を廃した秦の始皇帝は、泰山で「封禅の儀」を行い、天と地を祭って、中国全土を統治する皇帝としての自らの権威を誇示した。

この例が示すように、古来中国には「天」の思想がある。そもそも王や皇帝とは、天の命令(天命)を受けて、「天子」として天下を統治するものなのだ。

だから、皇帝が徳を失い、天子にふさわしい存在でなくなれば、他の者が代わって天命を受け、新たな天子となることができる。桀のように、「徳に務めず」民を虐待するような権力者は、倒されても仕方がないとされるのだ。

これが、天命が革(あらたま)ること、すなわち「革命」である。

一方の日本はどうだろうか。

日本には、権力の正当性を主張するための基準となる、このような普遍的原理がない。記紀神話を通して見ても、地上の権力者にその権力の正統性を与える根拠は、天照大神が自らの孫ニニギに対して言ったという言葉、


葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是(これ)、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ。

―いわゆる「天壌無窮の神勅」(日本書紀 神代下 第九段)―しかない。

ちなみにこの「神勅」、いかに荘重な漢文調で飾って見せたところで、中身を見れば、自分の子孫だけが可愛いという身内びいきの塊みたいなものであって、そこには普遍性のカケラもない。

このように、権力の正統性を支える普遍的原理がなく、頼れる権威が天照の子孫とされる一族の血筋だけとなれば、どうしても天皇には(内実はどうあれ)「万世一系」でいてもらわなければならないことになる。

この国で新興の実力者が権力の頂点に立つには、継体のように王朝内での順当な継承を偽装するか、そうでなければ天皇から権力の行使を委託される(例えば「征夷大将軍」として)という形式を取るしかなかった。だから、天皇家はいくら落ちぶれても、とりあえず権威を示すそれらしい儀式を行える程度の状態で存続を許された、というよりむしろ、存続させられてきたのである。

結論。天皇が「万世一系」ということになっているのは、日本には権力の正統性を支える基盤としての普遍的原理がなく、権威として頼れるものが神の子孫だという天皇家の血筋しかなかったからである。


※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

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仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313

記事《「万世一系」の虚妄》の中で、武烈(25代)から継体(26代)への代替わりが王朝交代に他ならないことを説明した。しかし、明治以来常識化されてきた「万世一系」を否定する反例はこれだけではない。

次は、仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりを見てみよう。

仲哀は、実に奇妙な死に方をしている。

古事記(仲哀記):


 その太后息長帯日売の命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は、当時神帰よせしたまひき。かれ天皇筑紫の詞志比かしひの宮にましまして熊曾の国を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴を控ひかして、建内タケシウチの宿禰の大臣沙庭さにはに居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神帰よせして、言教へ覚さとし詔りたまひつらくは、「西の方に国あり。金・銀を本はじめて、目の炎耀かかやく種々の珍宝その国に多さはなるを、吾あれ今その国を帰よせ賜はむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地に登りて西の方を見れば、国土くには見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐いつわりせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控ひきたまはず、黙もだしたましき。ここにその神いたく忿いかりて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝いましの知らすべき国にあらず、汝は一道ひとみちに向ひたまへ(=黄泉の国へ行ってしまえ)」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「恐かしこし、我が天皇。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに(=しぶしぶ)控ひきいます。かれ、幾久いくだもあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を挙げて見まつれば、既に崩かむあがりたまひつ。

仲哀は、西方の国(新羅)を与えてやろうという神の言葉を信じなかったために、神罰を受けて死んだというのである。このとき本当は何があったのか。伊藤浩士氏がブログで次のように書いているが、私も同感である。


仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は熊襲征伐のために筑紫にきていて、そこで神功皇后が新羅を攻めると言い出します。仲哀天皇は反対します。仲哀天皇と神功皇后、竹内宿禰の3人だけがいて、気が付くと神の罰が当たって仲哀天皇が死んでいたと記されています。ふつうに考えれば、神功皇后と竹内宿禰の共謀による殺害です。

このとき、仲哀は軍を率いて九州まで遠征していた。仲哀には既に別の后(大中津比売の命)との間に香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王という二人の息子がいたのだが、この遠征には同行していない。建内以外の有力な臣下もついてきていない。暗殺には絶好のシチュエーションと言っていいだろう。

そしてこの「神」は、香坂・忍熊を押しのけて、息長帯日売が産む子を次の天皇にする、と決めてしまうのである。

古事記(仲哀記):


また建内の宿禰沙庭に居て、神の命みことを請ひまつりき。ここに教へ覚したまふ状、つぶさに先の日の如くありて、「およそこの国は、汝命いましみことの御腹にます御子の知らさむ国なり」とのりたまひき。ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は、何の子ぞも」とまをせぱ、答へて詔りたまはく、「男子なり」とのりたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかぱ、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒の男そこつつのを、中筒の男なかつつのを、上筒の男うはつつのを三柱の大神なり。この時にその三柱の大神の御名は顕したまへり。

天照大神の神意だ、というわけだが、それを聞いたのは建内宿禰だけなのだから、要するに建内がそう決めた、ということである。

この後、息長帯日売はいわゆる「神功皇后の三韓征伐」(それが征伐などと呼べる代物でないことは別途書く予定)を行い、九州に帰ってきてから息子を産む。これが後の応神天皇である。この応神の出生についても、不可解なエピソードが書かれている。

古事記(仲哀記):


かれその政(三韓征伐のこと)いまだ寛をへざる間に、懐妊ませるが、産れまさむとしつ。すなはち御腹を鎮いはひたまはむとして、石を取らして、御裳みもの腰に纏まかして、竺紫つくしの国に渡りましてぞ、その御子は生あれましつる。かれその御子の生れましし地に号なづけて、宇美といふ。またその御裳に纏かしし石は、筑紫の国の伊斗いとの村にあり。

「三韓征伐」が終わらないうちに子どもが産まれそうになってしまったため、石を腰紐にはさんで押さえ、神に祈って出産を遅らせたというのである。これも普通に考えれば、応神の出生が仲哀の子とするにはあまりに遅すぎたため、つじつまを合わせるための説話を創作したのである。

では応神の父親は誰か? 史料的根拠には欠けるが、建内宿禰とするのが最も自然ではないだろうか。

そして、息長帯日売と建内は九州から大和に攻め上り、忍熊王の軍を破ってこれを滅ぼしてしまう。(香坂王はその前に事故死。)もちろん、「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


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「神功皇后の三韓征伐」という大嘘
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858

仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりが、単なる代替わりではなく王朝交代であったことについては既に説明した。このとき、仲哀の九州遠征に同行せず大和に残っていた息子たちを滅ぼして権力を奪ったのが、神功皇后こと息長帯日売(オキナガタラシヒメ)と建内宿禰(タケシウチノスクネ)である。

そして神功皇后といえば、いわゆる「三韓征伐」が必ずセットとなって語られる。

この「三韓征伐」とは実際にはどんな事件だったのか。まず、古事記の記述を見てみよう。


 かれつぶさに教へ覚したまへる如くに、軍を整へ、船双なめて、度り幸でます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風おひかぜいたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波瀾なみ、新羅の国に押し騰あがりて、既に国半なからまで到りき。ここにその国王、畏おぢ惶かしこみて奏まをして言まをさく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘みまかひとして、年の毎に船双めて船腹乾さず、棹楫さをかぢ乾さず、天地のむた、退しぞきなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の国をぱ、御馬甘と定めたまひ、百済の国をぱ、渡わたの屯家みやけと定めたまひき。ここにその御杖を新羅の国主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江すみのえの大神の荒御魂あらみたまを、国守ります神と祭り鎮めて還り渡りたまひき。

しかし、これは果たして「征伐」などと呼べるものだろうか。神功が軍船を整えて新羅に行ったら、一戦も交えることなく、向こうが勝手に恐れをなして降伏してしまったというのだ。(日本書紀にもほぼ同じ内容の説話が記されているが、こちらは新羅だけでなく、接触すらしていない高句麗と百済まで降伏してしまったことになっている。)こんなことはあり得ない。

いや、実際この後、新羅は日本に朝貢しているではないか、と言う人がいるかもしれない。しかし、記紀に朝貢記事があるからといって、それが服属の証拠にはならないのだ。古田武彦氏が次のように指摘している[1]。


わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする。

(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。

(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加(新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

まず、(1)について説明しよう。

すでに前の本で詳しくのべたように、“天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心の存在だったのだ”という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではない。たとえば、


  冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。    〈仁徳紀五十八年〉

  夏四月に、呉国、使を遣して貢献す。      〈雄略紀六年〉


とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従し、朝貢してきたように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

中国の皇帝が「東夷」の蛮族と見なしていた日本に朝貢してくるはずがないことは、常識として理解できるだろう。

つまり、記紀の「三韓征伐」記事が示しているのは、神功が新羅を訪問して王と交渉し、このときから近畿天皇家と新羅との間の国交が始まった、という出来事なのだ。これは新羅との国交開始に関する説話なのである[2]。新羅王が服従を誓ったとか、新羅の国を「御馬甘」に定めたとかいうのは、魚たちが神功の船を背負って海を渡った、船が波に乗って新羅の中央部まで押し上がった、などと書いてあるのと同じ、何も知らない国内人民向けのほら話に過ぎない。

しかし、ではなぜ、新羅との国交が必要だったのか?

ここで、そもそも神功と建内は、仲哀の熊襲征伐に従って九州まで来ていたことを思い出していただきたい。仲哀をうまく始末したのはいいが、次は大和に戻って仲哀の息子たちを討ち滅ぼさなければ自分たちに未来はない。しかし、まだ熊襲との戦争は続いているのだ。こちらの事情が変わったからといって、簡単に敵に背を向けて帰るわけにはいかない。追撃を避けるには、熊襲との和平、最低でも休戦が必要だ。

日本書紀では、神功を通じて仲哀に新羅征伐を勧めた「神」は、次のように語っている。


時に、神有まして、皇后に託かかりて誨おしへまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服まつろはざることを憂へたまふ。是これ、膂宍そししの空国むなくにぞ。豈あに、兵を挙げて伐つに足らむや。玆この国に愈まさりて宝有る国、警たとへば処女をとめの睩まよびきの如くにして、津に向へる国有り。眼炎まかかやく金・銀・彩色、多さはに其の国に在り。是を衾たくぶすま新羅国しらきのくにと謂いふ。若もし能よく吾を祭りたまはば、曾かつて刃に血ちぬらずして、其の国必ず自おのづから服まつろひしたがひなむ。復また、熊襲も為服まつろひなむ。

自分を良く祭れば新羅は従い、また熊襲も自ら従うだろう、と言っているのだ。この両者の間には何らかの強い結びつきがあり、新羅との友好は熊襲との関係改善にもつながることを示唆している。

だから神功は、熊襲との戦争状態を終わらせて大和での権力奪取に集中するため、熊襲のバックに控えている新羅との友好関係を確立しようと海を渡ったのである。それは、「征伐」とは正反対の、友好を求める外交交渉だったのだ。

[1] 古田武彦 『盗まれた神話』 朝日文庫 1994年 P.63-64
[2] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.131

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858

 

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コメント
1. 中川隆[-12062] koaQ7Jey 2020年7月24日 06:14:08 : 12ES5zWEUg : WTVldTlrSnJDMGs=[4] 報告
国際派日本人養成講座
No.1113 皇位継承危機の乗り越え方 〜 ご先祖様の叡智に学ぶ 2019/05/12
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_2.html


 126代の皇位継承の歴史で何度となくあった危機を、ご先祖様たちはいかに乗り越えてきたのか。


■1.いよいよ限られた皇位継承者

 先帝陛下の御譲位から新帝陛下の御即位まで恙(つつが)なく進められたのは大慶至極であるが、その過程で一つだけ気にかかった事があった。5月1日午前10時半から行われた「剣璽(けんじ)等承継の儀」では皇位継承資格のある成人皇族として立ち会いされたのが、秋篠宮殿下と常陸宮殿下のお二方だけだった事だ。

 常陸宮殿下は83歳のご高齢、秋篠宮殿下は御年53歳で新帝陛下と5歳しか違わないため、数十年後の皇位継承を考えると、実質的な皇位継承者としては現在12歳の悠仁(ひさひと)親王のみということになる。

 悠仁親王の学校の机にナイフが置かれた事件も、皇位継承者が極端に少ない、という事実が背景にあるのだろう。また、共産党の志位委員長が、急に女性天皇・女系天皇・女性宮家の議論を訴え始めたというのも、これがきっかけだろう。

 議論をするのは自由だが、その際には皇位継承の歴史事実を十分踏まえる必要がある。すでに126代にも及ぶ皇室の歴史を見れば、男系男子の皇位継承者が不在の危機は3度あり、その危機を乗り越えるための叡智もすでに用意されているからだ。

 いずれのケースも相当な遠縁から男系男子を猶子(親族からの養子)として迎え入れ、場合によっては先帝陛下の皇女や姉妹を皇后とする、という方法である。

 ちなみに、男系とは父親を遡(さかのぼ)っていくと初代・神武天皇に行き着くという事である。皇女が皇族以外の配偶者と男子をもうけても、それは女系男子であって皇位継承権はない。


■2.5代・70年ほど前に分かれた宮家から猶子として迎えられた光格天皇

 3事例のうち最も新しいケースは、明治維新の100年ほど前、江戸時代中期の第118代・後桃園天皇(御在位1770-1779年)がわずか22歳で御在位のまま崩御された時のことである。

 皇女として欣子(よしこ)内親王が遺されたが、女性天皇にはならず、閑院宮家の第6皇子で9歳の師仁(もろひと)親王が後桃園天皇の末期の猶子として迎え入れられ、急遽、即位された。これが光格天皇である。そして欣子(よしこ)内親王を皇后とされている。

 閑院宮家とは5代前の東山天皇から宝永7(1710)年に別れた宮家である。すなわち、後桃園天皇の崩御時から見れば、5代、70年ほど前に分かれた宮家の3代目の子孫が皇位を継がれたことになる。この光格天皇はその後、37年間も御在位になり、直系として仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇から新帝陛下まで続く近代皇室の祖となられた。

 光格天皇は遠い血筋から突然、即位された故か、天皇としての在り方を深く修養された。御在位中に天明の飢饉が起きた時は、一向に動かない幕府に民の救済を訴えられている。

 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ
(自分のことで何も祈ることはない。朝な夕なに民安くあれと思うばかりである)

 光格天皇の御製(御歌)である。無為無策の幕府と、ひたすらに「民安かれ」を祈る天皇との鮮烈なコントラストから、後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりが始まっていった。(拙著『日本人として知っておきたい皇室の祈り」[a])

 今回の先帝陛下の御譲位は光格天皇以来、200年ぶりと言われたが、126代の皇室の歴史から見れば、わずか7代前の事である。そして皇位継承者を遠縁の宮家から猶子として迎え入れる、という方法がとられたのも、ほぼ同時代の、皇室の歴史から見ればごく最近のことであった。


■3.10代・100年も前に分かれた系統から即位した継体天皇

 先帝が皇女しか遺されなかった場合に、相当の遠縁であっても男系男子を次代天皇にお迎えし、その皇女を皇后にするという方法は、さらに1200年ほども前の、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承からヒントを得たものだろう。

 武烈天皇の在位は『日本書紀』によれば西暦498年から506年。わずか18歳で崩御し、お世継ぎはいなかった。大連(おおむらじ、朝廷最高官)の大伴金村(かなむら)は群臣と諮って、応神天皇5世の末裔を越前から迎えて、継体天皇とした。応神天皇は第15代、西暦400年頃の天皇であるから、継体天皇は10代、100年ほども前に分かれた家系の子孫である。

 継体天皇が皇位に就いたのは57歳で、武烈天皇の姉妹、手白香皇女を40歳ほどの年齢の差があったにも関わらず皇后に迎え、皇位の安定を図っている。このお二人から、やがて推古天皇や聖徳太子、舒明天皇などと皇統が続いていく。

 現代の歴史研究では、継体天皇がそれまでの皇室と血縁関係のない「新王朝」だ、などと諸説取り沙汰されているが、『記紀』には「応神天皇5世の末裔」とされており、これを明確に否定しうる事実も見つかっておらず、古来からその通りに信じられてきた。

 我々のご先祖様が、「応神天皇5世の末裔」という説明で継体天皇の皇位継承の正統性を受け入れてきた、という歴史事実は重要である。直系直近の皇女よりも、はるか遠縁でも男系男子が皇位につくべき、という明確な原則が、以上の119代光格天皇、25代継体天皇のお二方の事例から窺われるのである。


■4.3代前・35年ほど前に分かれた宮家から猶子となった後花園天皇

 なお、このお二方は先帝の皇女、あるいは姉妹を皇后として迎えられたが、そのような直系の女性がいながらも皇后とされずに、遠縁の男系男子が皇位に就かれた天皇がもうお一方ある。

 南北朝合一後の第100代後小松天皇の皇子、第101代称光天皇は28歳の若さで崩御され、二人の皇女を遺されたが、男性の皇嗣は無かった。そこで9歳の伏見宮家彦仁親王が後小松天皇の猶子として迎えられて102代後花園天皇として即位された。後小松天皇は北朝では第6代であり、伏見宮家はその3代前の北朝第3代崇高天皇から別れた宮家である。

 光格天皇は5代・70年ほど前、継体天皇は10代・100年ほど前に分かれた家系から即位されたのに対し、後花園天皇は3代・35年ほど前に分かれた家系から迎えられた。この程度なら、人々の記憶も残っており、直系の皇女を皇后として迎え入れる必要もなかったのかも知れない。

 この方も、遠縁から即位された故か、君徳の涵養に努められ、飢民の流亡を座視して遊興に耽り続ける第8代将軍・足利義政に怠惰や奢侈を戒める漢詩を送るなど、「近来の聖主」と称えられた。(『国史大事典』)

 いずれにせよ、我々の先祖は、この3回の危機に際して、たとえ皇女がいても女性天皇とはせず、相当な遠縁でも男系男子を猶子として迎え入れて皇室を維持してきたのである。これが126代の皇統をお守りしてきた我らが御先祖様の叡智であった。


■5.二種類の女性天皇

 それでは歴史上、8人10代(お二方が二度即位されている)の女性天皇はなぜ生まれたのか。それは主に、次の2つの理由から「中継ぎ」として即位されたのである。

・先帝が崩御または退位された際に、幼い皇子が成人するまでの中継ぎとして・・・第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇。

・先帝が崩御または退位された際に、有力後継候補が複数いて、すぐには決められない場合に、元皇后などのお立場による中継ぎとして・・・第33代推古天皇、第35代皇極天皇(重祚されて第37代斉明天皇)

 上記、7人8代の女性天皇の場合は、いずれも男系男子の後継者に皇位を譲る事が明確であり、その時期を待つための中継ぎであった。したがって、これらの女性天皇の御存在も男系男子の皇統を守るための智慧であった。

 唯一、異なる事例が、第46代孝謙天皇(重祚して第48代称徳天皇)である。第45代聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれたが皇子の早世により、国史上初の、そして最後の女性皇太子となった。父帝崩御の後、即位してから、天武天皇の孫である第47代淳仁天皇に譲位した。ここまでは良かったが、両者の不和から兵乱が起こり、淳仁天皇は廃されて、淡路島に流された。

 第48代称徳天皇として重祚すると、看病僧・道鏡は天皇の寵愛を良いことに、宇佐八幡神の託宣と詐って皇位を狙った。この皇統史上最悪の危機を阻止したのが和気清麻呂だった。清麻呂は後に「勤皇の忠臣」として称賛され、またこの失敗からだろう、本格的な女性天皇は二度と擁立される事はなかった。

 ただ、孝謙・称徳天皇も含め、すべての女性天皇は、先帝の皇后として寡婦、あるいは生涯未婚のままで、御在位時に配偶者はいなかった。したがって女系のお世継ぎが生まれる可能性はまったくなかった。

 これに「皇女が皇族外の男性と結婚すると皇族から外れる」というルールを合わせ考えると、男系でない男子を皇族には入れない、という原則が見てとれる。女性は一般国民からでも皇族に入ることができ、皇后にもなれる。しかし、男性は完全にシャットアウトされているのである。

 これは道鏡のような野望を持つ男性を、万が一にも皇族に入れないための叡智であろう。昨今伝えられる眞子女王と小室圭氏の結婚騒動は、女性天皇論議への天の警告でもあるようだ。


■6.皇位継承の史実を整理してみれば

 以上を整理してみると、皇位継承の危機の際に、次の3つの方法が採用された。

1)「猶子」:直系の男系男子が不在の場合、たとえ皇女がいても、遠縁の男系男子を猶子として皇位継承・・・3事例とも継承成功。
2)「中継ぎ女性天皇」:後継の皇子が幼少、または有力候補が複数いて、すぐには決められない場合の女性天皇による中継ぎ・・・7事例とも継承成功。
3)「本格的女性天皇」:皇女が本格的な女性天皇として即位・・・1事例のみ。皇統最悪の危機を招く。

 これだけの史実を見れば、3)「本格的女性天皇」を理性的に是認しうる人間がいるとは思えない。いるとすれば、密かに「天皇制」廃止を目指して、確信犯的に3)を主張する輩であろう。もともと「天皇制」を否定していた共産党が、突然、女性天皇を議論しよう、などと言い出したのは、この戦略であると疑わざるを得ない。

 注目すべきは、上記の3つのいずれにおいても、「男系」そのものは完全に守られてきたことである。126代の一度たりとも.男女を問わず男系でない人間が皇位についた例はない。何故に、我々の先祖はこれほどまでに男系にこだわってきたのか?

 ここで筆者が思い起こすのは、「理性の限界」と「死者の民主主義」という二つの言葉である。「理性の限界」とは、多くの知識人が支持した共産主義が、一億人とも呼ばれる犠牲者を出した失敗からも明らかであろう。その失敗から目をそらして、未だに共産党と名のっている人々がいることも「理性の限界」の一例である。

 伝統や習慣の意義を合理的に説明できないからと言って否定するのは、自らの理性の限界を弁えない、近代人特有の理性過信である。「男女平等」などという観念から「男系の維持」を否定するのも、その一種である。

 限界ある理性を補うのが「死者の民主主義」である。男系の維持は、ほぼ2千年に及ぶ我らが御先祖様が選択してきた結果である。おそらくこれが一因となって、126代もの安定した皇位継承をもたらし、それによって中国や西洋に比べれば、我が国民ははるかに平和な、幸福な歴史を過ごしてきた。

 長い歴史を経た皇室制度などに関わる政治的決定は、我々現世代の限られた理性だけでなく、過去の皇室制度を支えてきた無数の御先祖様、すなわち「死者」たちの経験と叡智と意思に耳を傾けなければならない。これが「死者の民主主義」が示す道である。

 そして御先祖様たちがうまく解決できた問題に関しては、遠慮なくその叡智を拝借し、失敗したやり方に関してはその経験を生かさねばならない。皇位継承の問題に関しては、猶子という成功した叡智に学び、失敗しかけた本格的女性天皇の道は避ける、というのが、賢明な国民のとるべき道であろう。

「男系」へのこだわりも、猶子の智慧で維持できるのだし、そのディメリットも歴史上、一向に現れていないのだから、わざわざこの伝統を崩さねばならない合理的理由もない。


■7.皇位継承者の極端な現象は占領軍の遺制

 現代において、ご先祖様の猶子の叡智を活用して皇位継承者を増やす方法として、小堀桂一郎・東大名誉教授が次のようにまとめた提案が最も現実的だろう。

__________
・・・今後、結婚される女王様方の御配偶が、血統の上で皇統につながっており、且つ、それがなるべく近い過去に於いて、そのつながりが証示できる様な方であれば、その御当人でなくとも、その次の世代の男子(母方の血筋からしても、皇室の血を引いておられることが明らかなのであるから)が、皇位継承権を保有されることは、系譜の論理から言つて、道理に適(かな)つたものになる。[1, p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここで言う「血統の上で皇統につながって」いる方とは、昭和22(1947)年10月14日付けで占領軍から皇籍離脱を命ぜられた旧11宮家ご出身の方々となろう。戦後の新しい皇室典範が施行されたのは、この5か月程前の5月3日であり、11宮家はそれまでの間、新皇室典範のもとでも皇籍に属しておられた。それを日本国家国民の意思とは関係なく、占領軍の指令で離脱を強制されたのである。[2, p152]

 現在の皇位継承者の極端な減少は、この占領軍の皇室弱体化政策によるものであり、憲法と同様、戦後体制の一環である。したがって、2千年の我がご先祖様の叡智に従って、これを是正していくことは現世代の責務であろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/asyuracom-22/
アマゾン「メディアと社会」「ジャーナリズム」カテゴリー 1位(H30/2/1調べ)
万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。

b. JOG(416) 万世一系のY染色体〜「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html

c. JOG(462) 皇位継承 〜 聖なる義務の世襲
 国家の中心には、ひたすら国民の安寧と国家の繁栄を祈り続ける方が必要である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog462.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 小堀桂一郎『象徴天皇考』★★★、明成社、H31
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905410541/asyuracom-22/

2. 小堀桂一郎『皇位の正統性について―「万世一系の皇祚」理解のために』明成社、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219466/asyuracom-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_2.html

2. 中川隆[-12061] koaQ7Jey 2020年7月24日 06:16:52 : 12ES5zWEUg : WTVldTlrSnJDMGs=[5] 報告
2019-05-21
「記録の国」中国に「前王朝の痕跡を根こそぎ消してきた」と難癖をつけるネトウヨさんの蛮勇
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/21/221649

■ 中国では各王朝が前代の正史を編纂してきたのだが…

何度教え諭されても、入れ替わり立ち替わり、ドヤ顔でこういうことを言い出すネトウヨさんが現れる。
msmnia @msmnia
民族が替わり、前王朝の痕跡を根こそぎ消してきた近隣諸国に「歴史ガー」とか「反省ガー」とか言われる筋合いなんてこれっぽっちもないと思う。そしてこの世界最古の国家の背骨こそが皇統であるという歴史だけは日本人全てが共有すべきファクトなのだ。
7:00 - 2019年5月15日


弥栄瑞穂 @Shooting_Water
この人、日本が「前の戦争の時に記録という記録を破棄しまくり、現代においても都合の悪い記録を政権が破棄しまくってる」中で「王朝が倒れた時に次の王朝が歴史書を書き始められるだけの記録をたんまり残しておく」中国に何ケンカ売ってるの。
kizitora @anyatoraneko
前王朝首都を落としたらまっさきに公文書を保全し、高級官僚候補者を最初に歴史編纂室に配置する、歴史至上主義とすら言われる民族ですよ。
民主主義になった民国や、共産主義になった中国共産党ですら膨大な時間人員をかけて「清史」を編纂する国。共産党版清史は近日三千万字のものを公開予定。
23:46 - 2019年5月15日

中国の各王朝が前王朝の痕跡を根こそぎ消してきたのなら、歴代各王朝の正史はどうやって書かれてきたのだろうか。子どもでもわかりそうな当たり前の話だ。

冒頭のツイートで使われている画像は、世界史対照年表(吉川弘文館)の日本の部分だけを赤一線で塗り潰した粗雑な代物だ。「世界最古の国家」どころか、他の国と同じレベルで時代を区切れば、現在の日本国が成立したのは、連合国への無条件降伏により大日本帝国という旧体制が崩壊し日本国憲法に基づく国家となった1947年、わずか72年前のことである。

■ 前王朝の痕跡を根こそぎ消してきたのは大和朝廷

ちなみに、古代にまでさかのぼっても、「前王朝の痕跡を根こそぎ消して」きたのは中国や韓国ではなく、むしろ日本のほうだ。

大和朝廷が編纂した最古の正史である日本書紀の神代紀には、やたらと「一書」という表現が現れる。例えばその冒頭部分は次のようになっている。


神代上

【本文】古いにしへに天地未だ剖わかれず、陰陽分れざりしとき、混沌まろかれたること鶏子とりのこの如くして、溟Aほのかにして牙きざしを含めり。(略)時に、天地の中に一物ひとつのもの生なれり。状かたち葦牙あしかびの如し。便すなはち神と化為なる。国常立尊と号まうす。次に国狭槌尊。(略)

【一書第一】一書あるふみに曰いはく、天地初めて判わかるるときに、一物虚中そらのなかに在り。状貌かたち言ひ難し。其の中に自づからに化生なりいづる神有います。国常立尊と号す。亦あるいは国底立尊と曰す。次に国狭槌尊。亦は国狭立尊と曰まうす。(略)

【一書第二】一書に曰はく、古に国稚いしく地稚しき時に、譬たとえば浮膏うかぶるあぶらの猶ごとくして漂蕩ただよへり。時に、国の中に物生れり。状葦牙の柚ぬけ出でたるが如し。此に因りて化生づる神有す。可美葦牙彦舅尊と号す。次に国常立尊。次に国狭槌尊。(略)

【一書第三】一書に曰はく、天地混まろかれ成る時に、始めて神人有す。可美葦牙彦勇尊と号す。次に国底立尊。(略)

【一書第四】一書に曰はく、天地初めて判るるときに、始めて倶ともに生なりいづる神有す。国常立尊と号す。次に国狭槌尊。又曰はく、高天原に所生あれます神の名を、天御中主尊と曰す。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊。

【一書第五】一書に曰はく、天地未だ生らざる時に、譬へば海上に浮べる雲の根係る所無きが猶し。其の中に一物生れり。葦牙の初めて泥ひぢの中に生でたるが如し。便ち人と化為る。国常立尊と号す。

【一書第六】一書に曰はく、天地初めて判るるときに、物有り。葦牙の若ごとくして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、天常立尊と号す。次に可美葦牙彦勇尊。又物有り。浮膏の若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、国常立尊と号す。

このように、各段ごとにいくつもの「一書」から文章が引用されている。その数をまとめると次のようになる。[1]

段 内容 一書の数

一 天地未剖 6
二 神生み 2
三 神世七代 1
四 国生み(大八洲国) 10
五 天照たちの誕生 11
六 二神の誓約 3
七 スサノオの追放 3
八 大蛇退治 6
九 天孫降臨 8
十 海幸山幸 4
十一 神武兄弟の系譜 4
計 58


ここからは、次のことがわかる。

まず、日本書紀に先行して、既に複数の史書が成立していたこと。次に、そもそも「一書」などという名の史書はありえないので、日本書紀はこれらの史書の書名を隠しているということ。

そして、これらの「一書」は、神代紀に続く神武紀(神武ことサヌの近畿侵入以降)の段階になると、突然その姿を消してしまう。

これらの「一書」は、みな神話だけを記載していたのだろうか。

そんなはずはない。日本書紀それ自体と同様に、これらの史書も、神話に続いて、そこで語られた神々の血を引く「正当な王者の系譜」とその「輝かしい物語」を記していたはずだ。その部分を「一書に曰く…」として引用しないのは、そこで語られている系譜が近畿天皇家のそれではないからだろう。

要するに、近畿天皇家こそが、先行する王朝の痕跡を根こそぎ消して、残された史書から都合のいい部分だけを剽窃していたのだ。

「この世界最古の国家の背骨こそが皇統」とかいうお話は、「日本人全てが共有すべきファクト」どころか、日本最古のフェイクと言うべきだろう。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(3)』 朝日新聞社 1985年 P79-80

※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/21/221649

3. 中川隆[-12060] koaQ7Jey 2020年7月24日 06:18:52 : 12ES5zWEUg : WTVldTlrSnJDMGs=[6] 報告
2019年05月12日 神武天皇のY染色体
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html

 皇位継承にさいして男系維持派がY染色体を根拠とすることについては、すでに11年半近く前(2007年11月)に当ブログで述べましたが(関連記事)、今でも男系維持派がY染色体を根拠とすることもあり、一部?の界隈ではすっかり定着したようです。この問題について当時も今も思うのは、皇位継承のような物語性の強い社会的合意事項に安易に自然科学の概念を持ち込むべきではない、ということです。重要なのは、少なくとも6世紀半ば以降、皇位(大王位)が男系で継承されてきた、という社会的合意(前近代において、その社会の範囲は広くなかったでしょうが)であり、それは自然科学の概念とは馴染まない、と思います。

 男系継承においてY染色体を根拠にしてしまうと、生物学的確実性が要求されるわけで、どこかで「間違い」が起きた場合、それ以降の天皇の正統性が損なわれることになります。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。

 現実の「間違い」としては、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例があります(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。なお直仁親王は、正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし上述したように、皇位の父系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは明らかで、そのさいに重要なのは、あくまでも皇位継承者が「初代天皇」と男系でつながっているという社会的認知であり、Y染色体を持ち出す必要はまったくないばかりか、有害でしかありません。何よりも、Y染色体を根拠とすれば過去の女性天皇の正統性が損なわれるわけで、父系で「初代天皇」とつながっている、という社会的合意があれば充分でしょう。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。

 藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきだと思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。また、藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することは無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。

 もちろん、古代に限らず、日本において母方も財産やそれに基づく政治的地位に大きく貢献していますが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来するのだと思います。こうした特徴が人類社会を重層的に組織化した、との観点は重要だと思います(関連記事)。その意味で、古代日本社会を双系的と解釈する見解には一定以上の妥当性があると思います。しかし、少なくとも皇族(王族)や有力氏族は6世紀半ば以降に父系的構造を形成して維持しており、母方も重要だからと言って母系的とは言えないでしょう。支配層の母系継承かもしれない事例としては、9世紀〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。

 そもそも、人類は父系的な社会から現在のような多様な社会構造を築いた、と私は考えています(関連記事)。人類社会において父系的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、「唯物史観」での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られます。それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。人類におけるこうした社会構造の柔軟性をもたらしたのは、上述したように、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来すると思います。少なくとも現生人類にはこの特徴が顕著に発達していますが、それはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他系統の人類にもある程度以上共通している可能性もあるとは思います。

 最後に話を皇位継承に戻すと、現在の規定において皇位継承が危機に瀕していることは、この問題に関心のある人が等しく認めているでしょう。それでも解決策の検討が具体的に進展しないのは、悠仁親王の存在が大きいと思います。しかし、現行の規定でも数十年後の皇位継承を可能とするには、もはや悠仁親王が男子を儲けるしかなく、それに期待すると言ってしまうような政治家はあまりにも無責任で(関連記事)、政治家失格と言うべきでしょう。これも、政治家をはじめとして有力者には50代後半以上が多く、悠仁親王の結婚と子供が本格的に問題になる頃にはすでに死んでいるか、現役ではないからだと思います。これは解決困難な問題の先送りに他ならず、多くの解決困難な問題を抱える現代日本社会の弱点ですが、現代日本社会でとくに深刻というわけではなく、人類社会に普遍的な事象だと思います。とくに皇位継承問題は、政治家にとって票になりにくい上に、どのような解決策でも影響力があり声の大きな複数の著名人に批判されることになるので、政治家が先送りにしたいという心情はよく理解できます。

 正直なところ、1980年代に小学校高学年だった頃から近年までずっと天皇制廃止論者だった私としては、このまま男系維持派に大きな声を挙げ続けてもらい、天皇制が自然に消滅してほしい、とさえ考えたくなりますが、近年では天皇制廃止論にやや否定的になったので、天皇制の自然消滅を強く願っているわけではありません。なお、小学校高学年から天皇制廃止論者だった私は、当然のごとく改憲を支持しており、日本国憲法第9条も改正して軍隊の保有を明記すべきだ、とずっと考えてきました。これは今でも変わりませんが、少数派の改憲論だという自覚は小学生の頃からあったので、ネットでの匿名での発言以外では、誰かに打ち明けたことはありません。

 現状では、皇位継承の長期的な安定性を確保するには、男系維持の立場からの旧宮家の男性の皇族への復帰か、まだ若い女性皇族がいるうちに女系継承も認めるかのどちらかしかないと思います。皇位継承が長期にわたって男系を大前提としてきたことは間違いありませんが、誕生時には皇族ではなかった男性が即位した事例(醍醐天皇)もあるとはいえ、父系では600年以上さかのぼらないと天皇にたどりつかない人物が、即位はもちろん皇族に復帰することもあまりにも異例の事態で、正直なところ、国民の理解が得られるのか、はなはだ疑問です。少なくとも現時点では、女系継承の方が国民の圧倒的に多くの支持を得られそうです。しかしこれも、愛子内親王への国民の期待によるところが大きく、旧宮家の男性で、人格・知性・体力・容貌に優れた人物がいれば、旧宮家の皇族復帰が国民の圧倒的支持を得られるようになるのではないか、と思います。

 私は、男系による皇位継承は長期にわたって大前提ではあったものの、天皇(大王)の本質としては、時代の変化に柔軟に対応して存続してきたことの方が重要だと思うので、日本が今後属すべき社会の価値観という観点からも、若い女性皇族がまだ複数いるうちに女系継承を認めるべきだと思います。ただ、政府、とくに現在の安倍晋三内閣がそう決断するのは、支持基盤の問題もあって難しいでしょうから、このまま女性皇族が結婚により次々と皇族を離れていき、悠仁親王に息子が期待できないような状況になってやっと、皇室典範の改正により旧宮家の男性の皇族復帰が検討されるようになるのではないか、と予想しています。まあそれでも、天皇制廃止よりはましなのかな、と最近では考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html

4. 中川隆[-12059] koaQ7Jey 2020年7月24日 06:21:20 : 12ES5zWEUg : WTVldTlrSnJDMGs=[7] 報告
2019年07月20日
石浦章一『王家の遺伝子 DNAが解き明かした世界史の謎』
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_41.html

 川端裕人著、海部陽介監修で、講談社ブルーバックスの一冊として、講談社から2019年6月に刊行されました。


https://www.amazon.co.jp/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90-DNA%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%9F%B3%E6%B5%A6-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4065166144


本書はおもに王族を対象として、DNA解析により解明された世界史上の著名人の「謎」を取り上げています。具体的には、リチャード3世、ツタンカーメン、ジョージ3世、ラムセス3世、トーマス・ジェファーソンです。本書の主題からして、醜聞めいた内容になることは避けられないのですが、遺伝の仕組みや親子鑑定やゲノム編集についての基礎的な解説も充実しており、著名人を取り上げることで一般層を惹きつけ、最新科学を分かりやすく解説するという、一般向け科学書として王道的な構成になっていると思います。

 本書で取り上げられているのはヨーロッパとエジプトとアメリカ合衆国の人物で、古代DNA研究で中心的役割を果たしてきた、ヨーロッパとアメリカ合衆国の研究者たちの関心を反映しているように思います。本書の想定読者はほとんど日本人でしょうし、著者も日本人ということもあってか、日本人の起源や壬申の乱の頃の王族(皇族)も取り上げられていますが、詳しくはありません。この分野の研究では、日本はヨーロッパやアメリカ合衆国と比較して大きく遅れているので、仕方のないところではあります。

 しかし、本書で取り上げられているトーマス・ジェファーソンの子孫をめぐる醜聞を読むと、日本で同様の研究が進められたとしても、一般に公表するのはかなり難しいだろうな、とも思います。本書は、ジェファーソンの父系子孫と自認していた一族が、じっさいには違っており、それが公表をめぐっての醜聞になったことを取り上げています。またイギリスにおいて、プランタジネット朝に始まる父系一族において、サマーセット家ではどこかで家系とは異なる父系が入っている、と推測されています。

 日本では現在も、1400〜1500年以上に及ぶ父系による皇位(王位)継承が続いており、系図上は明確に父系で皇族とつながっている民間の男性も、旧宮家や一部の旧摂関家にいます。したがって、系図と生物学的な父系が一致するのか、確認することも可能ですが、それを公表することに大きな反発があることは容易に想像できます。ましてや、現在の皇族と比較して系図の正確さを検証し、公表することはできないでしょう。旧宮家や一部の旧摂関家出身の男性と男性皇族との間で、父系が一致するのならばまだしも、仮に大きな違いが明らかになれば、大騒動になることは間違いありません。その意味でも、皇位継承の根拠として、安易に「神武天皇のY染色体」を持ち出すべきではない、と思います(関連記事)。


参考文献:
石浦章一(2019)『王家の遺伝子 DNAが解き明かした世界史の謎』(講談社)

https://sicambre.at.webry.info/201907/article_41.html


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2019年12月07日
皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内久美子氏の認識はある意味で正しい
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_12.html

 「皇統の男系男子継承の深い意味」と題する竹内久美子氏の記事が公開され、それなりに話題になっているというか、嘲笑されているようです。とくに嘲笑の対象になっているのは、皇位継承を「日本の存亡に関わる問題」としているところのようですが、竹内氏の認識はある意味で正しいと思います。似たような認識として、「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言を最近取り上げたので(関連記事)、かなり重なってしまうのですが、改めて私見を整理するとともに、竹内氏の他の見解にも言及します。

 竹内氏は、女系天皇を認めれば「異質の王朝」を生むとして、男系男子による皇統の継承は、日本国の存亡に関わる問題である、との認識を示しています。似たような認識の「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言も含めて嘲笑する人は多いでしょうが、重要な論点が含まれており、一笑に付すようなものではない、と私は考えています。たとえば、網野善彦『日本の歴史第00巻 「日本」とは何か』(講談社、2000年)では、「日本」はヤマトを中心に成立した国家の国号で、王朝名だと指摘されています(P333)。また網野氏はかつて、一部の支配者が決めた「日本」という国号は国民の総意で変えられると述べて、日本が嫌いなら日本から出ていけ、という手紙・葉書が届いたそうです(同書P94)。

 現在の女性皇族が「(天皇の男系子孫ではない)民間人」と結婚し、その子供が天皇に即位した場合、これを「王朝交替」と解釈することは、人類史、とくにヨーロッパ史的観点からは無理のない定義と言えるでしょう。日本も含まれる漢字文化圏でも、後周のように異なる男系でも同一王朝という事例もあり、異なる男系での君主継承が王朝交替の第一義的条件ではないとしても、実質的には男系の交替と王朝交替がおおむね一致しています。また漢字文化圏では、王朝が替われば国号も変わります。

 このように、異なる文化圏の概念の組み合わせという側面もあり、強引なところも否定できませんが、「日本」という国号を王朝名、それまでとは異なる男系の天皇が誕生すれば「王朝交替」と考えれば、皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内氏の発言や、「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言に見られる認識は一笑に付すようなものではない、と私は考えています。日本は、漢字文化圏的枠組みでは少なくとも6世紀以降「王朝交替」はなかったと言えるので(関連記事)、漢字文化圏としては異例の長さで同じ国号が続いたことから(漢字表記で正式に「日本」とされたのは8世紀初頭)、「日本」はもう地理的名称として定着した感もありますが、原理的には変えられるものなのだ、と気づく契機になり得るという点で、皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内氏の認識は嘲笑されるべきではない、と私は考えています。

 もっとも、仮に今後日本で天皇制が廃止されたり、皇位の女系継承が容認され、女性皇族と天皇の男系子孫ではない夫との間の子供が即位したりするようなことがあっても、すでに定着した「日本」という国号を変える必要はまったくないと思いますし、もしそういう運動が起きたとしても、すでに長く定着した国号で愛着があるので、私は反対します。網野善彦氏は、「日本」は王朝名だと強調し、「日本」という枠組みで「(日本)列島」史を把握することに否定的ですが、そもそも「政治的」ではない「中立的な」地理的名称が世界にどれだけあるのかと考えれば、「アジア」や「朝鮮半島」や「中国大陸」という地名を採用しておきながら、ことさら「日本」を標的にすることには疑問が残ります。なお、網野氏は天皇号と日本国号の画期性を強調しますが、これにも疑問が残ります(関連記事)。

 ただ、竹内氏が皇位男系継承の根拠として、Y染色体の継承を挙げていることにはまったく同意できません。なお、竹内氏は「Yについては交差が起きず、父から息子へ、そのまた息子へといった男系で継承している限りまったく薄まることがない」と述べていますが、竹内氏は以前Twitterにて、Y染色体にも短いながら組換え領域があると述べていたように記憶しているので、この発言は一般読者向けに簡略化した説明なのでしょう。まあ、とても褒められたことではありませんが。

 それはさておき、皇位継承が話題になった小泉内閣の頃より、皇位男系継承の根拠としてY染色体を挙げるのは地雷に他ならない、と指摘されてきたように思うのですが、今年(2019年)久しぶりに天皇の生前退位があったためか、皇位継承問題への関心が高まる中で、Y染色体に基づく皇位男系継承論がネットでは支持を集めつつあるように思われるのは気がかりです。率直に言って、皇位男系継承支持者で、その根拠としてY染色体を持ち出す人は大間抜けだと思います。

 その最大の理由は、皇位継承のほとんどの期間において父子関係が遺伝的に保証されていたわけではない、ということです。つまり、系図上の父親と生物学的な父親とが異なっている(ペア外父性)可能性がある、というわけです。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。じっさい、「間違い」が起きていた可能性の高い事例も指摘されており、『源氏物語』の設定を単なる空想とも言い難いでしょう。

 それは、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例です(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。直仁親王は正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。どの程度の確率で皇室において「間違い」があったのか、推定できる根拠はほぼ皆無ですが、14〜20世紀のネーデルラントの事例では、人口密度および社会階層がペア外父性率と相関している、と報告されています(関連記事)。人口密度が高く、社会階層が低いいほどペア外父性率は高い、というわけです。逆に、人口密度が低く、社会階層が高いとペア外父性率は低くなります。人口密度の低い地域の中流〜上流階級のペア外父性率は0.4〜0.5%と推定されています。

 皇室は、上流階級でもさらに特殊ではあるものの、人口密度の高い場所に居住し続けているという点や、直仁親王や猪熊事件の事例からは、ペア外父性率が0.4〜0.5%以上でも不思議ではないでしょう。仮に0.4%という割合を採用し、継体「天皇」を始祖と仮定した場合、今上天皇は北畠親房の云う「まことの継体(父系直系なので天皇ではない皇族も含みますが、この点に関しては議論もあるようです)」では54世(数え間違えているかもしれませんが)で、53回の父子継承となりますから、始祖とずっと父系でつながっている確率は約81%です。ペア外父性率が1%だった場合は、始祖とずっと父系でつながっている確率は約59%となります。もっとも、直仁親王の事例のように、ペア外父性でも皇族もしくは臣籍降下の氏族だった場合は、「初代天皇」のY染色体が継承されていることになるので、じっさいには確率はもっと上がるでしょうが。まあ、上述のように皇族におけるペア外父性率を推定するデータが皆無に近い状況ですから、まったく参考にならないお遊び程度の計算でしかありませんが。

 実際問題としては、持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする皇位継承男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし、皇位男系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。竹内氏は皇位男系継承の根拠としてY染色体を提示した草分け的な人物の一人だったようですから、愚論と言われて不満なのは当然かもしれません。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。前近代において、皇位継承が男系であることは明文化されていないと思いますが、それは皇位男系継承が大前提・常識だったからと思います。

 皇位継承の根拠をY染色体とする言説は、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思いますが、それ以上の問題に発展しかねません。今後、男系維持派の大半?が主張するような、旧宮家の男系男子の皇族復帰にさいして(皇別摂家の男系子孫の皇族復帰を主張する人は、私の観測範囲では皆無に近いようです)、Y染色体根拠論に基づくと、Y染色体DNAの検査が必要となるからです。仮に、現在の男性皇族と旧宮家の男系男子とでY染色体ハプログループ(YHg)が大きく異なっていた場合(たとえば、YHg-DとYHg-O)、どちらが「正統」なのか、という点をめぐって議論になり、皇室の権威を傷つけてしまうことになりかねません。じっさい、外国の事例ですが、プランタジネット朝に始まる父系一族において、サマーセット家ではどこかで家系図とは異なる父系が入っている、と推測されています(関連記事)。今後、皇族が減少するなか、旧宮家の男系男子を皇族に復帰させるとしても、DNA検査は必要ない、と私は考えています。

 ただ、皇位男系継承維持派がY染色体を根拠として持ち出したことは理解もできます。現代日本社会において、皇位継承を男系に限定する根拠として、伝統だけを挙げても日本人の広い理解を得られない、との危機感が皇位男系継承維持派にはあるのでしょう。そこで、「科学的根拠」たるY染色体が提示されたわけですが、「科学的根拠」を採用してしまうところが、伝統維持や保守を自任していても、いかにも近代的だなあ、と思います。皇位男系継承派の中に、皇族における一夫多妻制を提案する人がほとんどいないことも、現代日本社会においてヨーロッパ発の近代がいかに深く浸透したのかを示しています。

 皇位男系継承維持派には保守主義者を自任している人が多いでしょうが、保守主義の本質の一つとして、(1000年以上にわたる)伝統宗教も含めて長きにわたる伝統・慣行は深い叡智に基づいているかもしれないので、安易に変革・廃止してはならない、という自制があると思います。その意味で、皇位男系継承維持派は、日本人の広範な支持を得るためには、男系継承がいかなる叡智に基づくのか説明しなければならなかった、と私は考えています。しかし実際には、少なからぬ人がY染色体論という「科学的根拠」に飛びついてしまい、これは皇位男系継承維持派の知的怠慢だと思います。まあ、上述のようにY染色体を根拠とする皇位男系継承維持論議は「科学的根拠」になるどころか、地雷でしかないのですが。

 少なからぬ皇位男系継承維持派は、男系継承をきわめて価値のあるものと主張しますが、高貴な地位の男系継承自体は、人類史において普遍的です。それが日本のように短くとも1400年以上という事例はきわめて例外的としても、たとえばフランスでは、革命期からナポレオン期を除いて、800年以上にわたってユーグ・カペー(Hugues Capet)の男系子孫が王位を継承しました。男系継承は人類進化と深く関連しており、その意味でも、何らかの叡智に基づいている可能性はあるかもしれません。ただ、私程度の見識では、説得力のある見解の提示はできませんが。

 私が男系継承と人類進化との深い関連を想定しているのは、人類はずっと父系に傾いた社会を形成していた、と考えているからです。現代人(Homo sapiens)も含む現生霊長類では母系社会の方が優勢ですが、現代人も含まれるその下位区分の現生類人猿(ヒト上科)では、現代人の一部を除いて非母系社会を形成します。これは、人類社会が、少なくとも現生類人猿との最終共通祖先の段階では、非母系社会を形成していた、と強く示唆します。さらに、現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)は父系社会を形成し、次に近縁な現生系統であるゴリラ属は、非単系もしくは無系と区分すべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持するという、父系的社会を形成しています(関連記事)。

 おそらく、現代人・チンパンジー属・ゴリラ属の最終共通祖先の時点で、父系にやや傾いた無系社会が形成されており、チンパンジー属系統ではその後に明確な父系社会が形成されたのだと思います。人類系統においても、現生人類ではない絶滅人類で父系社会を示唆する証拠が得られています(関連記事)。人類系統においては、父系に強く傾きつつも、所属集団を変えても出生集団への帰属意識を持ち続けるような双系的社会(関連記事)がじょじょに形成され、さらに配偶行動が柔軟になっていき、母系に傾いた社会も出現したのだと思います。おそらく人類史において、母系に傾いた社会の形成は父系に傾いた社会の出現よりもずっと新しいと思います。ただ、そうした変化が現生人類の形成過程と関連しているのか、それともさらにさかのぼるのか、現時点では不明ですし、将来も確証を得るのはきわめて困難でしょう。

 この観点からは、藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、双系的社会に基づき、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきで、母系社会であった証拠にはならない、と思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することも無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。なお、竹内氏は、「皇統の男系男子による継承は、かつては藤原氏などの国内の権力を排除するという意味があった」と述べていますが、父系継承が人類史において普遍的だったことを反映しているだけだと思います。じっさい、古代日本も双系的な社会だったので、藤原氏は娘を天皇(や皇太子)に嫁がせて権力を獲得(分掌と言うべきでしょうが)していったわけで、「藤原氏などの国内の権力を排除」できていませんし、その意図もなかった、と考えるべきでしょう。

 支配層の母系継承かもしれない事例としては、9〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。現在の通説のように、古代日本社会は基本的に双系的だったのでしょうが、それは現生人類の特徴でもあり、古代日本を母系社会から父系社会への過渡期と解釈するのは的外れでしょうし、そもそも人類社会は母系制から始まり、社会的発展により「原始的な」母系制から父系制へと移行する、という社会発展モデル自体が根本的に間違っているのでしょう。

 人類社会において父系(男系)的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、俗流唯物史観での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。その意味で、確かに現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られるものの、それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。

 たとえば、日本でもすっかり有名になったヤノマミ集団は、テレビ番組などで「1万年以上、独自の文化・風習を守り続けている」と紹介されてきましたが、アマゾン地域は先コロンブス期において大規模に開発されており(関連記事)、ヤノマミの祖先集団もかつては現在とは大きく異なる社会を構成していたかもしれません。そうだとすると、1万年以上前の祖先集団の文化・風習をどの程度継承しているのか、疑問です。また、現代の「未開社会」は、完新世の農耕・牧畜社会、さらに産業革命以降の近代社会の圧迫を受けてきたわけで、更新世にはそうした社会は存在しなかった、という視点も重要となるでしょう。

 もちろん、長く基準だったからといって、それが「本質的」とは限りませんし、何よりも、仮に「本質的」あるいは「生得的」・「自然」だから守らねばならないと主張するならば、自然主義的誤謬に他なりません。現生人類は、双系的社会を築いたように、柔軟な行動を示す霊長類の中でも、きわめて柔軟性の高い種です。これは、『暴力の人類史』などでも指摘されているように(関連記事)、現生人類には相反するような複数の生得的性質と、状況に応じて行動を変えるような高度な認知能力が備わっているからでしょう。もちろん、他の動物にもそれは当てはまり、それ故に気候変動も含めて短期的および長期的な環境変化を生き延びてきたのでしょうが、現生人類ではそうした特徴がとくに強く発達したのだと思います。

 その意味で、皇位男系継承維持派からも一夫多妻制の提案すら躊躇われるような、すっかりヨーロッパ発の近代が浸透してしまった現代日本社会において、あくまでも皇位男系継承維持に拘るならば、単に伝統と主張したり、もっと突っ込んで、長きにわたる伝統・慣行は深い叡智に基づいているかもしれないので、安易に変革・廃止してはならない、と主張したりしても、それだけで広く支持を集めることは難しいでしょう。じっさい、そうした見解を述べる人もいましたが、あまり支持を集めていないように見えます。そのため、現生人類のさまざまな生得的性質と社会状況を踏まえた、説得力のある根拠(叡智)の提示が要求され、少なからぬ皇位男系継承維持派にとって、それがY染色体だったのでしょうが、上述のようにそれは地雷に他ならず、伝統だけを主張しておいた方がまだましだったように思います。その意味で、Y染色体を皇位男系継承維持の根拠とする人々は、(本心を隠した天皇制廃止論者や女系容認論者でなければ)大間抜けだと思います。

 なお、皇族が父系では「縄文人」系統との認識も見られますが、その確証はまだ得られていない、と言うべきでしょう(関連記事)。ただ、皇族が一部で言われている現代日本人では多数派のYHg-D1a2a(旧D1b1)である可能性は低くないように思います。YHg-D1a2(旧D1b)は「縄文人」由来と考えられており(関連記事)、現代日本人のうち本州・四国・九州を中心とする「本土」集団における「縄文人」の遺伝的影響は10〜20%程度と推定されているのに(関連記事)、YHg-D1a2の割合は35.34%になるからです。皇族に連なる父系集団は、武士になるなどして地方で父系を拡大する機会に恵まれていたましたから、ゲノム規模では弥生時代以降の渡来集団の影響力が圧倒的に高いとしても、皇族が父系では「縄文人」系統だとすると、「縄文人」系統のYHg-D1a2の強い影響力を説明できる、というわけです。ただ、皇族が本当にYHg-D1a2aか、まだ確証は得られていないでしょうし、何よりも、「縄文人」ではYHg-D1a2aはまだ確認されておらず、YHg-D1a2b(旧D1b2)しか確認されていません(関連記事)。これは、YHg-D1a2aが弥生時代以降に日本列島に到来した可能性を示唆します。ただ、YHgが分類されている「縄文人」はいずれも東日本の個体なので、西日本の「縄文人」がYHg-D1a2aで、皇族がその父系に属する可能性もじゅうぶんある、と思います。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_12.html

5. 中川隆[-12057] koaQ7Jey 2020年7月24日 06:53:05 : 12ES5zWEUg : WTVldTlrSnJDMGs=[9] 報告
2019年12月07日
皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内久美子氏の認識はある意味で正しい
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_12.html

 「皇統の男系男子継承の深い意味」と題する竹内久美子氏の記事が公開され、それなりに話題になっているというか、嘲笑されているようです。とくに嘲笑の対象になっているのは、皇位継承を「日本の存亡に関わる問題」としているところのようですが、竹内氏の認識はある意味で正しいと思います。似たような認識として、「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言を最近取り上げたので(関連記事)、かなり重なってしまうのですが、改めて私見を整理するとともに、竹内氏の他の見解にも言及します。

 竹内氏は、女系天皇を認めれば「異質の王朝」を生むとして、男系男子による皇統の継承は、日本国の存亡に関わる問題である、との認識を示しています。似たような認識の「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言も含めて嘲笑する人は多いでしょうが、重要な論点が含まれており、一笑に付すようなものではない、と私は考えています。たとえば、網野善彦『日本の歴史第00巻 「日本」とは何か』(講談社、2000年)では、「日本」はヤマトを中心に成立した国家の国号で、王朝名だと指摘されています(P333)。また網野氏はかつて、一部の支配者が決めた「日本」という国号は国民の総意で変えられると述べて、日本が嫌いなら日本から出ていけ、という手紙・葉書が届いたそうです(同書P94)。

 現在の女性皇族が「(天皇の男系子孫ではない)民間人」と結婚し、その子供が天皇に即位した場合、これを「王朝交替」と解釈することは、人類史、とくにヨーロッパ史的観点からは無理のない定義と言えるでしょう。日本も含まれる漢字文化圏でも、後周のように異なる男系でも同一王朝という事例もあり、異なる男系での君主継承が王朝交替の第一義的条件ではないとしても、実質的には男系の交替と王朝交替がおおむね一致しています。また漢字文化圏では、王朝が替われば国号も変わります。

 このように、異なる文化圏の概念の組み合わせという側面もあり、強引なところも否定できませんが、「日本」という国号を王朝名、それまでとは異なる男系の天皇が誕生すれば「王朝交替」と考えれば、皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内氏の発言や、「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言に見られる認識は一笑に付すようなものではない、と私は考えています。日本は、漢字文化圏的枠組みでは少なくとも6世紀以降「王朝交替」はなかったと言えるので(関連記事)、漢字文化圏としては異例の長さで同じ国号が続いたことから(漢字表記で正式に「日本」とされたのは8世紀初頭)、「日本」はもう地理的名称として定着した感もありますが、原理的には変えられるものなのだ、と気づく契機になり得るという点で、皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内氏の認識は嘲笑されるべきではない、と私は考えています。

 もっとも、仮に今後日本で天皇制が廃止されたり、皇位の女系継承が容認され、女性皇族と天皇の男系子孫ではない夫との間の子供が即位したりするようなことがあっても、すでに定着した「日本」という国号を変える必要はまったくないと思いますし、もしそういう運動が起きたとしても、すでに長く定着した国号で愛着があるので、私は反対します。網野善彦氏は、「日本」は王朝名だと強調し、「日本」という枠組みで「(日本)列島」史を把握することに否定的ですが、そもそも「政治的」ではない「中立的な」地理的名称が世界にどれだけあるのかと考えれば、「アジア」や「朝鮮半島」や「中国大陸」という地名を採用しておきながら、ことさら「日本」を標的にすることには疑問が残ります。なお、網野氏は天皇号と日本国号の画期性を強調しますが、これにも疑問が残ります(関連記事)。

 ただ、竹内氏が皇位男系継承の根拠として、Y染色体の継承を挙げていることにはまったく同意できません。なお、竹内氏は「Yについては交差が起きず、父から息子へ、そのまた息子へといった男系で継承している限りまったく薄まることがない」と述べていますが、竹内氏は以前Twitterにて、Y染色体にも短いながら組換え領域があると述べていたように記憶しているので、この発言は一般読者向けに簡略化した説明なのでしょう。まあ、とても褒められたことではありませんが。

 それはさておき、皇位継承が話題になった小泉内閣の頃より、皇位男系継承の根拠としてY染色体を挙げるのは地雷に他ならない、と指摘されてきたように思うのですが、今年(2019年)久しぶりに天皇の生前退位があったためか、皇位継承問題への関心が高まる中で、Y染色体に基づく皇位男系継承論がネットでは支持を集めつつあるように思われるのは気がかりです。率直に言って、皇位男系継承支持者で、その根拠としてY染色体を持ち出す人は大間抜けだと思います。

 その最大の理由は、皇位継承のほとんどの期間において父子関係が遺伝的に保証されていたわけではない、ということです。つまり、系図上の父親と生物学的な父親とが異なっている(ペア外父性)可能性がある、というわけです。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。じっさい、「間違い」が起きていた可能性の高い事例も指摘されており、『源氏物語』の設定を単なる空想とも言い難いでしょう。

 それは、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例です(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。直仁親王は正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。どの程度の確率で皇室において「間違い」があったのか、推定できる根拠はほぼ皆無ですが、14〜20世紀のネーデルラントの事例では、人口密度および社会階層がペア外父性率と相関している、と報告されています(関連記事)。人口密度が高く、社会階層が低いいほどペア外父性率は高い、というわけです。逆に、人口密度が低く、社会階層が高いとペア外父性率は低くなります。人口密度の低い地域の中流〜上流階級のペア外父性率は0.4〜0.5%と推定されています。

 皇室は、上流階級でもさらに特殊ではあるものの、人口密度の高い場所に居住し続けているという点や、直仁親王や猪熊事件の事例からは、ペア外父性率が0.4〜0.5%以上でも不思議ではないでしょう。仮に0.4%という割合を採用し、継体「天皇」を始祖と仮定した場合、今上天皇は北畠親房の云う「まことの継体(父系直系なので天皇ではない皇族も含みますが、この点に関しては議論もあるようです)」では54世(数え間違えているかもしれませんが)で、53回の父子継承となりますから、始祖とずっと父系でつながっている確率は約81%です。ペア外父性率が1%だった場合は、始祖とずっと父系でつながっている確率は約59%となります。もっとも、直仁親王の事例のように、ペア外父性でも皇族もしくは臣籍降下の氏族だった場合は、「初代天皇」のY染色体が継承されていることになるので、じっさいには確率はもっと上がるでしょうが。まあ、上述のように皇族におけるペア外父性率を推定するデータが皆無に近い状況ですから、まったく参考にならないお遊び程度の計算でしかありませんが。

 実際問題としては、持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする皇位継承男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし、皇位男系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。竹内氏は皇位男系継承の根拠としてY染色体を提示した草分け的な人物の一人だったようですから、愚論と言われて不満なのは当然かもしれません。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。前近代において、皇位継承が男系であることは明文化されていないと思いますが、それは皇位男系継承が大前提・常識だったからと思います。

 皇位継承の根拠をY染色体とする言説は、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思いますが、それ以上の問題に発展しかねません。今後、男系維持派の大半?が主張するような、旧宮家の男系男子の皇族復帰にさいして(皇別摂家の男系子孫の皇族復帰を主張する人は、私の観測範囲では皆無に近いようです)、Y染色体根拠論に基づくと、Y染色体DNAの検査が必要となるからです。仮に、現在の男性皇族と旧宮家の男系男子とでY染色体ハプログループ(YHg)が大きく異なっていた場合(たとえば、YHg-DとYHg-O)、どちらが「正統」なのか、という点をめぐって議論になり、皇室の権威を傷つけてしまうことになりかねません。じっさい、外国の事例ですが、プランタジネット朝に始まる父系一族において、サマーセット家ではどこかで家系図とは異なる父系が入っている、と推測されています(関連記事)。今後、皇族が減少するなか、旧宮家の男系男子を皇族に復帰させるとしても、DNA検査は必要ない、と私は考えています。

 ただ、皇位男系継承維持派がY染色体を根拠として持ち出したことは理解もできます。現代日本社会において、皇位継承を男系に限定する根拠として、伝統だけを挙げても日本人の広い理解を得られない、との危機感が皇位男系継承維持派にはあるのでしょう。そこで、「科学的根拠」たるY染色体が提示されたわけですが、「科学的根拠」を採用してしまうところが、伝統維持や保守を自任していても、いかにも近代的だなあ、と思います。皇位男系継承派の中に、皇族における一夫多妻制を提案する人がほとんどいないことも、現代日本社会においてヨーロッパ発の近代がいかに深く浸透したのかを示しています。

 皇位男系継承維持派には保守主義者を自任している人が多いでしょうが、保守主義の本質の一つとして、(1000年以上にわたる)伝統宗教も含めて長きにわたる伝統・慣行は深い叡智に基づいているかもしれないので、安易に変革・廃止してはならない、という自制があると思います。その意味で、皇位男系継承維持派は、日本人の広範な支持を得るためには、男系継承がいかなる叡智に基づくのか説明しなければならなかった、と私は考えています。しかし実際には、少なからぬ人がY染色体論という「科学的根拠」に飛びついてしまい、これは皇位男系継承維持派の知的怠慢だと思います。まあ、上述のようにY染色体を根拠とする皇位男系継承維持論議は「科学的根拠」になるどころか、地雷でしかないのですが。

 少なからぬ皇位男系継承維持派は、男系継承をきわめて価値のあるものと主張しますが、高貴な地位の男系継承自体は、人類史において普遍的です。それが日本のように短くとも1400年以上という事例はきわめて例外的としても、たとえばフランスでは、革命期からナポレオン期を除いて、800年以上にわたってユーグ・カペー(Hugues Capet)の男系子孫が王位を継承しました。男系継承は人類進化と深く関連しており、その意味でも、何らかの叡智に基づいている可能性はあるかもしれません。ただ、私程度の見識では、説得力のある見解の提示はできませんが。

 私が男系継承と人類進化との深い関連を想定しているのは、人類はずっと父系に傾いた社会を形成していた、と考えているからです。現代人(Homo sapiens)も含む現生霊長類では母系社会の方が優勢ですが、現代人も含まれるその下位区分の現生類人猿(ヒト上科)では、現代人の一部を除いて非母系社会を形成します。これは、人類社会が、少なくとも現生類人猿との最終共通祖先の段階では、非母系社会を形成していた、と強く示唆します。さらに、現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)は父系社会を形成し、次に近縁な現生系統であるゴリラ属は、非単系もしくは無系と区分すべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持するという、父系的社会を形成しています(関連記事)。

 おそらく、現代人・チンパンジー属・ゴリラ属の最終共通祖先の時点で、父系にやや傾いた無系社会が形成されており、チンパンジー属系統ではその後に明確な父系社会が形成されたのだと思います。人類系統においても、現生人類ではない絶滅人類で父系社会を示唆する証拠が得られています(関連記事)。人類系統においては、父系に強く傾きつつも、所属集団を変えても出生集団への帰属意識を持ち続けるような双系的社会(関連記事)がじょじょに形成され、さらに配偶行動が柔軟になっていき、母系に傾いた社会も出現したのだと思います。おそらく人類史において、母系に傾いた社会の形成は父系に傾いた社会の出現よりもずっと新しいと思います。ただ、そうした変化が現生人類の形成過程と関連しているのか、それともさらにさかのぼるのか、現時点では不明ですし、将来も確証を得るのはきわめて困難でしょう。

 この観点からは、藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、双系的社会に基づき、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきで、母系社会であった証拠にはならない、と思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することも無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。なお、竹内氏は、「皇統の男系男子による継承は、かつては藤原氏などの国内の権力を排除するという意味があった」と述べていますが、父系継承が人類史において普遍的だったことを反映しているだけだと思います。じっさい、古代日本も双系的な社会だったので、藤原氏は娘を天皇(や皇太子)に嫁がせて権力を獲得(分掌と言うべきでしょうが)していったわけで、「藤原氏などの国内の権力を排除」できていませんし、その意図もなかった、と考えるべきでしょう。

 支配層の母系継承かもしれない事例としては、9〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。現在の通説のように、古代日本社会は基本的に双系的だったのでしょうが、それは現生人類の特徴でもあり、古代日本を母系社会から父系社会への過渡期と解釈するのは的外れでしょうし、そもそも人類社会は母系制から始まり、社会的発展により「原始的な」母系制から父系制へと移行する、という社会発展モデル自体が根本的に間違っているのでしょう。

 人類社会において父系(男系)的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、俗流唯物史観での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。その意味で、確かに現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られるものの、それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。

 たとえば、日本でもすっかり有名になったヤノマミ集団は、テレビ番組などで「1万年以上、独自の文化・風習を守り続けている」と紹介されてきましたが、アマゾン地域は先コロンブス期において大規模に開発されており(関連記事)、ヤノマミの祖先集団もかつては現在とは大きく異なる社会を構成していたかもしれません。そうだとすると、1万年以上前の祖先集団の文化・風習をどの程度継承しているのか、疑問です。また、現代の「未開社会」は、完新世の農耕・牧畜社会、さらに産業革命以降の近代社会の圧迫を受けてきたわけで、更新世にはそうした社会は存在しなかった、という視点も重要となるでしょう。

 もちろん、長く基準だったからといって、それが「本質的」とは限りませんし、何よりも、仮に「本質的」あるいは「生得的」・「自然」だから守らねばならないと主張するならば、自然主義的誤謬に他なりません。現生人類は、双系的社会を築いたように、柔軟な行動を示す霊長類の中でも、きわめて柔軟性の高い種です。これは、『暴力の人類史』などでも指摘されているように(関連記事)、現生人類には相反するような複数の生得的性質と、状況に応じて行動を変えるような高度な認知能力が備わっているからでしょう。もちろん、他の動物にもそれは当てはまり、それ故に気候変動も含めて短期的および長期的な環境変化を生き延びてきたのでしょうが、現生人類ではそうした特徴がとくに強く発達したのだと思います。

 その意味で、皇位男系継承維持派からも一夫多妻制の提案すら躊躇われるような、すっかりヨーロッパ発の近代が浸透してしまった現代日本社会において、あくまでも皇位男系継承維持に拘るならば、単に伝統と主張したり、もっと突っ込んで、長きにわたる伝統・慣行は深い叡智に基づいているかもしれないので、安易に変革・廃止してはならない、と主張したりしても、それだけで広く支持を集めることは難しいでしょう。じっさい、そうした見解を述べる人もいましたが、あまり支持を集めていないように見えます。そのため、現生人類のさまざまな生得的性質と社会状況を踏まえた、説得力のある根拠(叡智)の提示が要求され、少なからぬ皇位男系継承維持派にとって、それがY染色体だったのでしょうが、上述のようにそれは地雷に他ならず、伝統だけを主張しておいた方がまだましだったように思います。その意味で、Y染色体を皇位男系継承維持の根拠とする人々は、(本心を隠した天皇制廃止論者や女系容認論者でなければ)大間抜けだと思います。

 なお、皇族が父系では「縄文人」系統との認識も見られますが、その確証はまだ得られていない、と言うべきでしょう(関連記事)。ただ、皇族が一部で言われている現代日本人では多数派のYHg-D1a2a(旧D1b1)である可能性は低くないように思います。YHg-D1a2(旧D1b)は「縄文人」由来と考えられており(関連記事)、現代日本人のうち本州・四国・九州を中心とする「本土」集団における「縄文人」の遺伝的影響は10〜20%程度と推定されているのに(関連記事)、YHg-D1a2の割合は35.34%になるからです。皇族に連なる父系集団は、武士になるなどして地方で父系を拡大する機会に恵まれていたましたから、ゲノム規模では弥生時代以降の渡来集団の影響力が圧倒的に高いとしても、皇族が父系では「縄文人」系統だとすると、「縄文人」系統のYHg-D1a2の強い影響力を説明できる、というわけです。ただ、皇族が本当にYHg-D1a2aか、まだ確証は得られていないでしょうし、何よりも、「縄文人」ではYHg-D1a2aはまだ確認されておらず、YHg-D1a2b(旧D1b2)しか確認されていません(関連記事)。これは、YHg-D1a2aが弥生時代以降に日本列島に到来した可能性を示唆します。ただ、YHgが分類されている「縄文人」はいずれも東日本の個体なので、西日本の「縄文人」がYHg-D1a2aで、皇族がその父系に属する可能性もじゅうぶんある、と思います。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_12.html


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2019年11月02日
皇位継承の根拠をY染色体とする言説について、竹内久美子氏より有本香氏の見解の方がずっとまとも
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_8.html

 現行法では、悠仁親王に息子がいなければ将来皇位継承者が不在になるため、皇位継承への関心が以前よりも高まっているように思います。そうした中で、皇位継承の根拠をY染色体とする言説が支持を拡大しているように見えます。そうした言説の古株とも言える竹内久美子氏は、

神武天皇のY染色体です。男しか持たない性染色体Yは、父から息子へ純粋に受け継がれ、男から男へ、つまり男系でつなげている限り、そのままの状態を保ち続けます。性染色体Xも、その他の常染色体もこういうことはなく、わずか数代で「薄まって」しまいます。

と発言し、また

先ほど、読者の方から指摘があり、有本氏は先人が見抜いたこと(男系男子でY染色体が純粋に受け継がれる)に敬意を払っているが、科学的根拠に基づいて説明されることに抵抗があるとのことです。私は科学的根拠ほど客観的で優れたものはないと考え、どうして抵抗があるのか、理解できないのですが。

とも発言しています。皇位継承を男系に限定することは短くとも1500年以上の伝統と言って大過はないでしょうが(前近代において皇位の男系継承が明文化されなかったのは、それが支配層において常識・大前提だったからと考えています)、その根拠をY染色体とすることには弊害が大きい、と私は考えています。この問題については以前述べたので(関連記事)詳しくは述べませんが、DNA解析のない時代には父子関係が遺伝的に保証されていたわけではないので、どこかで「間違い」が起きていた可能性もある、ということが皇位継承の根拠をY染色体とする言説の致命的な欠陥だと思います。

 皇位の男系継承は、社会的合意(前近代において、その社会の範囲は限定的だったわけですが)が積み重ねられてきた伝統により主張されるだけでよく、Y染色体という生物学的根拠を持ち出せば、じっさいに検査しなければ正統性が認められない、という話になってしまいます。その意味で、皇位継承をY染色体で説明することに抵抗がある、という有本香氏の見解は、竹内久美子氏よりもずっとまともだと思います。また、Y染色体には短いながら組換え領域がありますし、もちろん変異は蓄積されていきますから、Y染色体が「純粋に受け継がれ」て「そのままの状態を保ち続け」ることはあり得ません。まあ竹内久美子氏の発言なので、とくに驚きませんが。

 皇位継承の根拠をY染色体とする言説は、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思いますが、それ以上の問題に発展しかねません。今後、男系維持派の大半?が主張するような、旧宮家の男系男子の皇族復帰にさいして(皇別摂家の男系子孫の皇族復帰を主張する人は、私の観測範囲では皆無に近いようです)、Y染色体根拠論に基づくと、Y染色体DNAの検査が必要となるからです。仮に、現在の男性皇族と旧宮家の男系男子とでY染色体ハプログループ(YHg)が大きく異なっていた場合(たとえば、YHg-DとYHg-O)、どちらが「正統」なのか、という点をめぐって議論になり、皇室の権威を傷つけてしまうことになりかねません。じっさい、外国の事例ですが、プランタジネット朝に始まる父系一族において、サマーセット家ではどこかで家系図とは異なる父系が入っている、と推測されています(関連記事)。今後、皇族が減少するなか、旧宮家の男系男子を皇族に復帰させるとしても、DNA検査は必要ない、と私は考えています。

 なお、世論は女系容認と愛子内親王の即位を支持しており、旧宮家の男系男子の皇族復帰は支持されていない、と主張する天皇制支持の女系容認派も少なくないようですが、世論は移ろいやすいものであり、世論を根拠とするのは危険だと思います。かりに、旧宮家の男系男子に、人格・知性・体力・容貌に優れ、皇族復帰の意志のある人、つまり現時点では旧宮家の男系男子として最も有名であろう竹田恒泰氏とはとても似ていないような人がいれば、世論は一気に旧宮家の男系男子の皇族復帰に傾くのではないか、と私は危惧しています。まあ、私は子供の頃からずっと天皇制には好感を抱けず、長く廃止論者でしたから(近年では、世論で強く支持されている以上、直ちに廃止する必要はない、と考えていますが)、男系派が声高に主張し続け、一方で旧宮家の男系男子の皇族復帰も支持されないまま、悠仁親王とその配偶者の間に息子が生まれず、皇族がいなくなり、天皇制が実質的に廃止になってもよい、と考えていますが。

 日本の皇位継承に限らず、人類史において男系継承は普遍的に見られます。その意味で、日本の皇室のように長期にわたって特定の父系がある政治的体制の君主であり続けたのは珍しいとしても、男系継承自体には特別な価値はない、と言うべきでしょう。おそらくこれは、人類社会にはもともと父系的性格が強いことに起因するのではないか、と私は考えています。もっとも、現生人類(Homo sapiens)社会は単純な父系制でも母系制でもなく、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けるので、双系的と考えるのが妥当だと思います(関連記事)。ただ、現代人も含まれる現生類人猿(ヒト上科)の社会からは、現生類人猿社会は人類系統の一部を除くと、非母系社会だった可能性がきわめて高いと思います。さらに、ゴリラ社会は基本的に父系でも母系でもない「無系」と言うべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持しています(関連記事)。

 おそらく、現代人・チンパンジー属・ゴリラ属の最終共通祖先の時点で、父系にやや傾いた無系社会が形成されており、チンパンジー属系統ではその後に明確な父系社会が形成されたのだと思います。人類系統においても、現生人類ではない絶滅人類で父系社会を示唆する証拠が得られています(関連記事)。人類系統においては、父系に傾きつつも、じょじょに双系的な社会が形成されていき、さらに配偶行動が柔軟になっていき、母系社会も出現したのだと思います。おそらく人類史において、母系社会の形成は父系社会よりもずっと新しいと思います。ただ、そうした変化が現生人類の形成過程と関連しているのか、それともさらにさかのぼるのか、現時点では不明ですし、将来も確証を得るのはきわめて困難でしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_8.html

6. 2021年2月13日 15:58:38 : ggtj42tZ3E : MkF0VFlkVHpkbEE=[18] 報告
2021年02月13日
石原比伊呂『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_14.html

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が指摘するように、おそらく北朝の一般的な人気は南朝よりも低く、そもそも北朝への関心が低い、と言うべきかもしれません。北朝は足利将軍家(室町幕府)の言いなりで、南朝と比較して魅力というか個性に欠ける、との一般的な印象が強いようにも思います。本書はその北朝を、両統迭立から織田信長の上洛の頃までの長期的視点から位置づけます。

 両統迭立となり、皇位継承に鎌倉幕府が決定的な影響力を有するようになり、それは裁判などさまざまな政治的判断に及びました。持明院統が幕府に依存する傾向にあったのに対して、大覚寺統は幕府に依存するだけではなく、自助努力により朝廷内で主導権を掌握し、皇位を確保しようとする傾向にあった、と本書は指摘します。鎌倉時代に分裂した持明院統と大覚寺統は、権威の象徴たる楽器の違い(持明院統は琵琶、大覚寺統は笛)など、それぞれ独自の特徴を有するようになっていきました。

 後醍醐天皇の建武政権が崩壊し、京都を掌握した足利尊氏は、後醍醐天皇に冷遇された持明院統を担ぎ出し、自らを正当化しました。これは、武家社会内の血統観念のみでは、足利家は唯一無二の棟梁として君臨できなかったからです。本書は、足利将軍家と北朝(持明院統)天皇家とは相互依存関係にある運命共同体で、それを維持するための実体的努力は全て将軍家が担わざるを得なかった、と指摘します。大覚寺統の後醍醐天皇は吉野へと逃れ、持明院統の北朝と大覚寺統の南朝との対立が固定化します。尊氏や弟の直義は、南北朝時代において南朝勢力と戦うさい、自らを「北朝の軍隊」として厳密に位置づけながら戦い続けました。この過程で、初期室町幕府において実質的な統治者的立場にいた直義は、光厳院と「君臣合体」とも言うべき親密な関係を築きます。これが、その後の天皇と将軍との関係の萌芽とも評価できる、と本書は指摘します。

 軍事的には南北朝時代の初期の段階で北朝を擁する足利軍が南朝を圧倒しましたが、その後も南北朝の並立は続きました。これは、足利やその一門も含めて武士勢力内で対立が起きた場合、しばしば一方が南朝を頼ったからでした。その最大の事件が観応の擾乱で、一時は、尊氏が南朝に降ったことにより、北朝が南朝に接収されました(正平の一統)。この過程で、北朝の主要皇族が南朝に拉致され、北朝は天皇になるべき皇族がほとんどいない状況に追い込まれます。そこで室町幕府は、拉致された崇光上皇の弟を即位させます(後光厳天皇)。これにより、北朝の皇統は崇光と後光厳に分裂します。

 北朝が早々に新たな天皇を擁立したことにより、崇光上皇など北朝の主要皇族の人質としての価値はなくなり、南朝は北朝の主要皇族を解放します。皇位は崇光から後光厳に移りましたが、北朝天皇家領の大半を占めた長講堂領の処分権に関して、崇光上皇は強い発言力を有し続けました。しかし、後光厳天皇の後継者として、幕府は崇光の息子である栄仁親王ではなく、後光厳の息子を指名します(後円融天皇)。栄仁親王は、父である崇光の死後に足利義満から所領を没収され、それは後円融の息子の後小松天皇に与えられました。すっかり傍流となった崇光院流(伏見宮家)ですが、栄仁親王の息子の貞成王の代に、後小松の後継者である称光天皇が皇子のいないうちに没し、貞成王息子の彦仁王が後小松上皇の猶子として即位します(後花園天皇)。

 この間、光厳院と直義との間に成立した「君臣合体」は、観応の擾乱により終わり、正平の一統により大打撃を受けた北朝は、以後人材難に苦しみ、特定の固定化された少数のみで、異例の状況で即位して権威に欠けていた後光厳天皇の時期の朝儀が辛うじて支えられていました。自らを正当化してきた北朝の危機的状況を見て、室町幕府は光厳院と直義との間のような個人的関係ではなく、組織として朝廷に関与していくようになります。これ以降、廷臣が南北両方朝の動向を様子見するようなことは許されず、強い忠誠心、具体的には朝儀での朝廷への貢献が要求されるようになりました。廷臣には忠誠心・貢献に応じて信賞必罰がくだされ、その執行を幕府が保証しました。

 室町幕府3代将軍の義満は、権威に欠ける後光厳院流を支持し、崇光院流や南朝(大覚寺統)に厳しく接しました。ただ、崇光院流や大覚寺統に厳しく接しつつ、所領や銭を支給しており、本書は義満の皇族懐柔策を「アメとムチ」と評しています。後円融天皇とは相性の悪かった義満ですが、その息子の後小松天皇をよく補佐し、後小松は義満へと依存を強めていきます。上述のように、後光厳院流は称光天皇の代で途絶え、後継者は崇光院流の彦仁(後花園天皇)でした。4代将軍の義持は、後小松と称光との「親子喧嘩」にまで処理に励み、本書は義持を「王家」の執事と評します。この頃には、足利将軍家が北朝天皇家を公私にわたって丸抱えするようになっていました。

 称光が病弱で皇子もいないことから、義持はすでに称光の生前に後小松上皇と相談し、彦仁を有力な候補と考えていました。義持は称光よりも半年前に没し、将軍に就任したばかりの義教は、重臣・側近たちから義持時代の既定方針を説明され、彦仁が即位します。義持の補佐を受け、義持に依存する傾向が強かった後小松上皇は、義教との関係構築に積極的でした。ただ、義教は後小松に遠慮しすぎで、後小松が望むような両者の関係は構築されなかった、と本書は評価しています。義教は後小松に悪感情を抱くようになり、後小松の死の頃には両者の関係は悪化していましたが、後花園天皇と義教との関係は良好で、義教は後花園にとって「王家」の執事だった、と本書は指摘します。ただ、後花園の実父の貞成と義教との関係は微妙で、義教は貞成を贔屓にしていましたが、貞成は気難しい義教を恐れて迎合するだけで、親近感を抱いていなかった、と本書は評価しています。

 将軍が「王家」の執事として振舞うことは、義教の息子の8代将軍義政も同様でした。義政は退位後の後花園とも良好な関係を築きます。しかし、次代の後土御門天皇の代に応仁の乱が勃発し、疲弊した幕府(足利将軍家)は、譲位や即位や元服といった重要儀式の費用を捻出することが難しくなっていきます。義政は、皇子の元服は天皇家の費用で賄ってもらいたい、と考えますが、将軍に依存しきっていた天皇家は、これに不満を抱きます。応仁の乱以後、もはや将軍家が天皇家を丸抱えすることは難しくなっていました。

 本書はこの過程で、応仁の乱を契機に長期にわたって天皇家と将軍家とが同居したことを重視します。この同居では酒宴が日常化し、前例のない弛緩した事態に、天皇家と将軍家との交流から儀礼性が失われ、財政難もあって儀礼が衰退・変化していきます。義政の息子で9代将軍の義尚は、公家社会との公的な関係構築に消極的でした。義尚がこのような姿勢を示したのは、単に義尚の個性に起因するのではなく、応仁の乱の結果として、もはや中央政権たる幕府の権威に頼るよりも在地での支配確立を有力守護が志向したため、守護在京制が崩壊し、天皇家との儀礼的関係を見せつける相手が存在しなくなった、という大きな構造変化がありました。

 後土御門の次の後柏原天皇の代には、天皇家と将軍家との儀礼的昵懇関係は完全に無実化し、天皇家は将軍家からの最低限の資金援助さえ期待できなくなります。それでも後柏原天皇は、将軍に依存しようとしますが、幕府の衰退は明らかで、戦国時代には、最重要とも言える即位儀さえ大きく遅延するような事態に陥ります。この間、細川政元のように天皇家を支えることに冷淡だった実力者もいますが、大内義隆は後柏原天皇の息子の後奈良天皇の即位儀の費用を負担します。ただ本書は、細川政元のような考え方は少数派としても、大内義隆のように惜しみなく費用を負担する大名も珍しかった、と指摘します。本書は、細川政元のような考えに近い人物として、室町幕府最後の将軍である15代義昭を、伝統的な将軍家と天皇家との親密な関係を望んだ人物として、織田信長を挙げます。つまり、信長の考え方は伝統的だった、というわけです。本書は、北朝(持明院統)天皇家が、自分たちの立場を最大限利用し、その時々の有力な武家を庇護者とすることで中世を生き抜いた、と評価しています。

 なお本書は、後光厳院流が天皇だった時代、とくに後小松と称光の時代における天皇・上皇絡みの密通騒動の多さを指摘しています。これが、後小松と称光の時代に特異的な可能性もありますが、本書でも言及されているように、後光厳院の父である光厳院からして密通を告白しており、江戸時代初期の猪熊事件からも、朝廷において「風紀の乱れ」は程度の差こそあれ長く続いていた可能性が高いように思います。この観点からも、天皇の正統性をY染色体に求める言説にはまったく同意できません。

https://sicambre.at.webry.info/202102/article_14.html

7. 中川隆[-10411] koaQ7Jey 2024年5月29日 09:28:34 : gyOucZ4HFg : VVYwNnU3Y0FqM1k=[27] 報告
<■406行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024年05月28日
皇太弟の実父は誰なのか? / 暗闇に光る皇室(5)
https://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68963413.html

幽霊作家を隠すインチキの常習者?

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( 左 : 秋篠宮夫妻 / 中央 : 礼宮文仁殿下と安西孝之 / 右 : 悠仁親王殿下)

  マスコミによる「秋篠宮バッシング」には、イチャモン程度のゴシップ記事が多いけど、秋篠宮家がマスコミの標的になるのは、あまりにも愚行や謎が多すぎるからだ。例えば、悠仁親王が書いたとされる『赤坂御所のトンボ相』論文は、飯島健と清拓哉との共著になっている。しかし、悠仁親王が「第一著者(first author)」というのは信じがたい。おそらく、この共同論文は国立科学博物館の清氏と東大農学生命科学研究科の須田真一が発表した『皇居のトンボ類』という論文が下地になっているのかも知れない。

  また、飯島氏は元々、つくば市にある国立機関「農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)」の研究員を務めていた人物で、今は宮内庁に勤めているという。つまり、トンボ研究の専門家と家庭教師を主筆にして、その先頭に「神輿」として悠仁殿下を載せた、というのが真相なんじゃないか? たぶん、悠仁殿下も何枚かトンボの写真を撮ったのかも知れない。だが、そんなのはカメラ好きの少年なら誰でもやることで、学術論文のレベルじゃない。志望校への「コネ入学」を正当化するためのアリバイ作りだろう。

飯島健 特別研究員
( 「特別研究員」だった飯島氏)

  悠仁親王殿下は頼りなさそうな少年ではあるが、宮内庁の計画では「優秀な皇位継承者」という設定になっているので、スポーツも得意な若き皇族となっている。しかし、実際の殿下は違うんじゃないか? 例えば、北九州市の懸賞論文では盗作がバレて赤っ恥をかいたし、「推薦制度」という“裏口入学”で難関の筑波大附属駒場高校に入った。どの大学に入るのか判らないが、もし「特別枠」で東京大学に進んだら、全国各地から苦情が殺到し、恨みや嫉妬で非難囂々だろう。「学歴信仰」が日本の宗教なのに、こんな不正をすれば、世間から激しい野次を受けても当然だ。

  また、「部活にも熱心な悠仁殿下」というのも虚構で、本当に運動神経がいいのかどうかさえ判らない。例えば、殿下は東京都春期高校バトミントン大会に参加され、関東大会の予選に出場したことになっている。しかし、大会主催者が公開した結果表(令和6年4月14日)には、悠仁殿下の名前が無いのだ。予選では「筑波大附属高校」対「八雲学園」、「武蔵野大千代田」、「修徳」、「芝浦工業大学」戦が行われ、試合番号「BT1-7」「BT1-18」「BT1-17」「Bt1-27」の対戦表を見れば、「姜・齋藤vs太田・藤縄」や「生田vs坂牧」などの試合結果が載っている。

  だが、なぜか悠仁殿下の対戦成績はカットされているのだ。ということは、悠仁殿下は予選に参加したが試合は行っていない、もしくは、試合はあったが記載するほどの価値が無い、と判断されたのかも知れない。でも、こんな侮辱を受ければ、宮内庁が大会の主催者側に「ふざけるな!」と抗議するはずなんだが、宮内庁が訂正を求めた形跡は無い。普通なら土下座で謝るはずなのに。

  もしかすると、殿下の大会出場を報じた「ニュース・ポスト・セブン」が偽情報を流した可能性もある。単に殿下が会場に赴いただけなのに、対戦試合をしたかのように報じたとも考えられるのだ。取材記者が伝聞だけで記事を書くこともあるので、「うっかりミス」という場合もある。宮内庁が悠仁親王に関する情報を閉ざし、様々な報道規制を敷いているから、適当な憶測記事が飛び交ってしまうのだろう。

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  話を戻す。悠仁殿下に関する生情報は非常に少ないから、ちょっとした事件でも大々的に報じられる危険性がある。中学生の悠仁殿下が幽霊作家を雇って代筆させたという事件もそうだ。たぶん、周囲の誰かが仕組んだのだろう。もしかすると、両親が側近に命じて原稿を書かせたのかも知れないし、本人が稚拙な原稿を書いて幽霊が名文に仕上げたのかも知れない。おそらく、推薦入学の材料にしたかったから、「佳作」という賞を手配したんだろうが、ひょんな事から剽窃がバレて大恥をかいた。しかも、巧妙な編集がなされていたので悪質である。

  こうなると、お茶の水小学校を卒業した時に書いた「人は自然界の中で生きている」という作文も怪しい。この文章を読むと、いかにも出来の良い小学生が書いたように思えるが、何となく大人が注意しながら書いたように思える。つまり、子供らしい表現で書かれているが、ちゃんと考えた事が纏まっており、文章全体が引き締まっているから、何となく胡散臭い。子供ならもっと率直で、拙く書くのでは?

  悠仁殿下が作文でボロを出したのは本人の“せい”じゃない。秋篠宮夫妻じたいが不正の前科者であるからだ。以前のブログで説明したが、秋篠宮殿下が1996年に“取得”したとされる“博士論文”「Molecular Phylogeny of Jungleowls, genus Gallus and Monophyletic Origins of Domestic Fowls」は、英語で書かれているが、本文は42ページほどであり、残りは参考文献とデータを貼り付けたシロモノだ。学部生でもしない恥ずかしいくらいの水増しをしている。

  タイで行った英語演説では、研究分野を語っていたが、喋っている英語は中学生の片仮名イングリッシュ。殿下はオックスフォード大学の大学院に留学され、動物学科で魚の分類学を専攻されたというが、本当に自分で論文を書き、英語で級友と議論をしたのか? オックスフォード大で指導教官を務めたトマス・ケンプ教授は、「真面目で優秀な学生でした」と褒めていたが、 殿下がイギリス人の研究者と英語で語り合う録画映像は無い。少なくとも、一般国民が視聴できる動画は存在しないのだ。

  魚類や鳥類に関する「研究」が好きならしょうがないけど、どうしてあんなに名誉学位を欲しがるのか? 宮内庁のホームページを見れば判るが、色々な大学から名誉博士号をもらっている。例えば、

  平成7 (1995) 年9月  カセートサート大学から理学(水産生物学)
  平成15 (2003) 年8月  ウボンラーチャタニー大学から理学(農学)
  平成23(2011)年3月  カセートサート大学から理学(畜産学)
             チエンマイ大学から人文学(人間・環境管理学)
  平成30 (2018) 年12月 マハーサーラカーム大学から生物学

  秋篠宮殿下は名誉学位を11個も授与されているというが、これではまるで創価学会の名誉会長だった池田大作みたいだ。輝かしい「学歴」をつけて自慢したいのなら、イベント参加の時に名札や旗に贈与された学位を記せばいい。でも、そんなにしてまで国民に見せびらかしたいのか?

Prince Akishino in ThaiPrince Akihito & Princess Kiko 3907Princess Kiko 720


  紀子妃殿下も「博士」となっていたから、驚く国民も多いだろう。妃殿下は「お茶の水女子大学」で勉強されたそうで、「結核予防の意識と行動について : 結核予防婦人会講習会参加者・女子大学生の調査より」という博士論文を書いていた。(秋篠宮紀子/ 取得学位 : 博士 / 学位授与番号 : 乙第325号 / 学位授与年月日/ 2013年3月22日) しかし、この論文を読むには京都にある国会図書館まで行かねばならず、関東や東北に住む国民が手にしたいと欲すれば、関西館にお金を払って郵便配送してもらうしかない。

  どうして宮内庁は妃殿下の論文をPDFにして無料公開しないのか? 図書館の奥に秘蔵されたまま、なんておかしいぞ。紀子妃には「最近の結核に関する意識と予防行動について」『結核』Vol.87, Np.10(2012年)という学術論文があるけど、これは内容がスカスカで、単にアンケート結果を並べただけの紹介文である。こんなのは小室圭が雑誌に投稿した「優秀作文」と変わりがない。紀子妃の論文を読んで、いったいどんな利益があるというのか?

  それに、どうして皇族が「結核」について研究しなければならないのか? 現在の日本で結核が原因で死亡する国民が多いとは思えない。これは筆者の邪推だが、学会が注目する幹細胞やテロメアの研究、非コードDNA領域、ゲノム解析などの最先端科学を専攻すると、多くの人々が熟読してしまうから、なるべく地味で関心の薄い分野を勉強したとも考えられる。また、勝手な推測になってしまうが、もしかすると、博士号を取るための「専門分野」だったんじゃないか? つまり、悠仁親王殿下をお茶の水の小学校に入れるため、「母親が博士号を取って研究者の身分を得る」という計画だった、ということだ。(研究者の子供だと、優先的に入学できるから。)

 やがて悠仁殿下は皇位に就くことになるが、その時、マスコミは過去を蒸し返し、数々の不正疑惑を書き立てるだろう。ピンク左翼や反日分子は「裏口の宮ズルヒト天皇」と揶揄して、「頭の悪い皇族が権力で学歴をつけた!」と嘲笑うはず。将棋界では10代の藤井聡太が、自分の“実力”で竜王や名人、棋聖、王位などのタイトルを次々に奪取し、21歳で堂々の“8冠王”となった。日本人は「実力主義」で栄光に輝いた者を称賛するが、「銭の力」や「親の七光り」で優等生になったお坊っちゃんは軽蔑の言葉を投げつける。昔、格闘技団体「PRIDE」」で八百長試合があったけど、対戦相手が主催者と組み、審判までもがグルになっていたから、全国の格闘技ファンは激怒した。日本人は有力者が仕組む巧妙な不正が嫌いだ。

  だいたい、「トンボの研究」といっても、空を飛ぶトンボの観察をしているだけじゃないか! 筆者だって小学生の時、素手でトンボを摑むことが出来たし、昆虫の標本を作って友達に見せていた。しかし、それで東京大学とかICUに入れるとは思わなかった。もし、トンボを専門とする学者が殿下の「アドヴァイザー」になっているなら、それは皇室にたかって研究費の増額を狙う吸血鬼だろう。将来の天皇がトンボの研究をするとなれば、政府からの補助金が数千万から数億円支給される可能性だって出てくる。下心のある研究者や団体役員は、笑顔で皇族に近づき、その威光を利用して私腹を肥やそうとする。

  昔、学習院の院長を務めていた乃木大将は、「皇族は軍人になるべし」という考えを持っていた。もう敗戦から半世紀以上経ったのだから、悠仁殿下は裏口から有名校へ入らず、中卒で自衛隊の「高等工科学校」に入ればいいじゃないか。興味も無いトンボとか稲の研究じゃなく、少年自衛隊で国旗掲揚をしたり、一緒に軍事訓練をすれば、国民からの尊敬を得ることが出来るだろう。一般国民は見栄を張った優等生より、素朴な愛国心と信仰心の篤い凡人の方を評価するはずだ。もし、学校を卒業して陸自の三等軍曹にでもなれば、「ズルヒト君」の汚名を雪ぐことができるぞ。

秋篠宮殿下の血統は神聖なのか?

  秋篠宮殿下が国民の不評を買っているのは、その出自が何となく怪しいからだ。インターネット界隈では、「上皇陛下の息子ではなく、安西孝之が実父では?」と囁かれている。確かに、自民党の衛藤征士郎議員がYouTubeにアップロードした映像を観ると、安西氏と秋篠宮殿下はよく似ている。(2014年の第18回ゴルフ新年会に、フジテレビの日枝会長と一緒に参加していた。) しかし、これは単なる印象論なので、誰かが意図的に類似の人物を探し出し、それを拡散しているだけなのかも知れない。それでも、人々の間には疑念が広がるもので、「今上(徳仁)陛下は上皇陛下と似ているのに、なぜ弟の秋篠宮殿下は似ていないんだ?」という国民感情も理解できる。

  秋篠宮による男系男子を主張する八木秀次や竹内久美子は、「Y染色体」まで持ち出して、「126代の萬世一系」を強調するが、それなら上皇陛下と秋篠宮の親子関係を証明するDNA鑑定を実施すべきだろう。秋篠宮殿下の唾液を綿棒で採取するだけだから簡単だ。怪しげな匿名サイトでは、秋篠宮殿下が昭和電工の安西孝之と正田恵美子(美智子妃の妹)の間に生まれた子供で、流産した美智子妃の養子になった、という陰口が絶えない。まぁ、一般的に息子は父親の体型や人相と似てくるから、違っているように見えれば親子関係を疑う国民が出てくるのも当然だ。

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(左 : 安西孝之と秋篠宮 / 若い頃の上皇陛下 / 右 : 礼宮文仁殿下)

  筆者は宮内庁の説明より、科学的検査の方を信じる。現実の社会では、病院の看護婦が二人の赤ん坊を取り違えてしまい、何も知らぬ親が育ててしまう、というケースがあった。他人の赤ん坊と気づかぬ両親は、自分の子供と思って20年ないし30年も一緒に暮らすが、弟たちが兄の人相を疑って血液検査を強要したことで事実が判明した、ということもあるのだ。検査の結果で「他人」と判明すると悲惨なもので、仲良しだった家族が分裂する、という事態もあるらしい。鑑定前、両親は「馬鹿らしい」と却下するが、兄貴に疑いを持った弟たちが強く迫り、渋々ながらの検査ということもある。

  秋篠宮のケースも感情論や印象論ではなく、客観的な科学捜査で真実を追究すべきだ。それに、八木氏や竹内氏も染色体や遺伝子を持ち出していたから異論は無かろう。もし、竹内氏が「DNA鑑定は必要なし」と言い張るのであれば、それはとても奇妙だ。例えば、警察官は事件捜査の時、犯人のDNAと一致するのかどうかを調べるため、一応、無駄と分かっていても事件の被害者家族や友人などのDNAも採取する。そして、鑑定の結果から「違う」と判断されれば「容疑者」から外すので、あながち「不必要な検査」とは言えない。殺人事件などでは、親兄弟でも「犯人では?」と疑われるくらいだから、科学的捜査は大切である。もし、頑なに拒否する者がいたら、その方が怪しい。「不敬である!」と言ってDNA鑑定を阻止する秋篠宮ファンは、どことなく怪しい。

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  筆者は男系で良いと考えているが、たとえ秋篠宮が安西氏の息子であっても、立派な人物であれば構わない。なぜなら、男系男子による皇位継承は“信仰”の領域であるからだ。大学教授や皇室研究家、歴史家、評論家達は、天照大神の子孫だ、神武天皇以来の皇統だ、八百万の神々を祭る大神主だ、と様々な説を唱えて皇室問題を論じるが、昭和や平成の学者で孝明天皇や後醍醐大帝の遺伝子を調べた者はいないし、弥生時代や平安時代、あるいは室町時代や江戸時代に君臨した天皇から、聖なる血液を抜き取り、皮膚や鼻水を採取した学者も皆無である。それゆえ、本当に同じ「Y染色体」が父親から息子へ受け継がれているのかどうか誰にも判らない。

  昔の日本には宗教的誡律で定められた性倫理は無かったし、「夜這い」も珍しくなかったから、長男が別人の子供という場合もあった。もし、女性が二股をかけて別々の男性と付き合っていると、どちらの精子で妊娠したのか判らない。B氏との性行為で子供を身籠もったのに、それを隠してA氏と結婚すれば、それは後々大問題へと発展するだろう。夫のB氏は自分の赤ん坊と思っているんだから。A氏の存在すら知らぬB氏は、生まれてきた息子を見て「目元や鼻が俺とソックリだ!」と勘違いするし、夫の両親も「息子の赤ん坊」と信じ切っているから、初孫に喜んだりする。

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(左 : 浩宮殿下と礼宮殿下 / 中央 : 今上天皇陛下 / 右 : 秋篠宮殿下 )

  宮中の人間模様も庶民と同じで、厳格な性倫理があったとは思えない。もし、側室や正室の女性が生臭坊主、あるいは親しい公家の誰かと不義密通を行い、それを隠したまま“御懐妊”となったら、「萬世一系の皇統」は偽の血筋で誤魔化されたことになる。朝廷に使える者が、生まれてきた皇子を「天子様の実子」と認めたからこそ、正統なな「皇位継承者」になった訳で、科学技術が未発達の時代だと、疑惑を嗅ぎつけても証明する手立ては無い。

  それに、現在の宮内庁には“信用”も無いから、たとえ政府や側近がDNA鑑定を行っても、世間は疑いの眼差しを向けるだろう。たぶん、検体をすり替えたり、鑑定人を抱き込んだりするから、宮内庁が発表する「DNAの一致」は証明にならない。秋篠宮家を守るためなら、真面目な顔で嘘をつくのが宮内庁の役人である。それゆえ、検査の時には皇室に批判的な科学者や正直な科捜研のベテランを加え、不正行為を防止せねばならない。昔の日本人は「皇族が不正行為をするはずがない」という前提で皇室問題を考えていたので、米国財務省の特別捜査官(the Untouchables)みたいな“買収されない対皇族捜査班”の発想が無かった。(英国のアンドリュー王子みたいに、ユダヤ人の売春組織と昵懇になる貴族だっているから、日本の皇族の中に“ふしだら”な人物がいてもおかしくはない。)

  ついでに言えば、紀宮清子内親王にも疑惑があった。これは証拠に基づかない憶測だが、紀宮殿下は美智子妃と似ておらず、何となく“養子”という印象を受ける。単に“派手”な母と“地味”な娘というだけでなく、清子様に母親の“面影”が無いのだ。両者の顔を眺めていると、「なぜ、親子なのに清子様にはオーラが無いんだろう?」と素朴な疑念が湧いてくる。一般人の世界だと、年頃の娘は母親の若い頃と似てくる、という現象が大半なんだが、皇族だと違うのかも知れない。とはいえ、下界の社会では、赤ん坊の頃に違って見える娘でも、15歳や23歳くらいになると母親の若い頃と似てくるし、娘が子供を産んで中年に近づくと、自分を出産した頃の母親と表情がソックリになる。

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  母親の幼馴染みだって、久しぶりに友人の娘を見ると、「昔のあなたとソックリじゃない!」と言って驚いたりするだろう。窓際族になったサラリーマンのオッちゃん達でも、中学や高校時代の親友に10年か20年ぶりに再会すると、成長した友人の子供に驚くことがある。それに、娘を嫁に出した母親だって、60歳とか70歳になると、亡くなった母親(祖母)と似てくることも。翻って、敬宮愛子内親王を見ていると、若き日の雅子妃にどことなく似ている。就職する愛子内親王を見た国民は、外交官時代の雅子妃を思い出すんじゃないか。

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タイ王国にいる愛人は義理の姉妹

  もう一つ、秋篠宮殿下の行動で“謎”と思われている点は、タイ王国のプリンセスであるチュラポン王女との関係だ。1990年6月、礼宮文仁殿下が川嶋紀子さんと結婚することになったので、皇族の皆様が宮中三殿に赴くことになった。当時、テレビ局が正門に向かう皇太子の徳仁殿下や紀宮殿下をカメラで映し、そのあとに続く常陸宮、高松宮、三笠宮、高円宮の各殿下を撮影していたのである。ところが、この宮中三殿に向かう行列の中に、タイ王国のシリントン王女が混じっていたのだ。しかも、王女は紀宮殿下の隣に寄り添って歩いていたから、一般の視聴者は「えっ、何だこれ!!」と驚いてしまった。

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( 左皇太子殿下と紀宮殿下と一緒に歩くシリントン王女 / 右正門に向かう列に加わり、皇族を従えるシリントン王女)

  いくら何でも、重要な儀式の日にタイの王女が、皇族の常陸宮殿下や高松宮殿下の前を歩いて、堂々とテレビに映るなんて前世紀の日本人には想像できなかった。こんな映像を一般人が目にすれば、「もしかすると、タイの王女と肉体関係を持ってしまったんじゃないか? だから皇太子殿下と義理の妹といった関係になり、紀宮殿下の義理の姉として一緒に歩くことになったんじゃないか?」と勘ぐってしまうだろう。おそらく、日本の皇室にとりタイ王室は特別だから、友好関係を維持するために王女の出席を許可し、一緒に歩くことを認めたのかも知れない。それでも「不自然」で「奇妙」な印象を国民に植え付けてしまったから、本当にマズい判断だった。

  これも推測となってしまうが、タイの王族だから皇太子殿下も隣で歩くよう提案し、西門まで仲良く歩いたとも考えられる。しかし、宮内庁が明確で説得力のある理由を述べないと、「秋篠宮の愛人説」を信じてしまうし、「真相の隠蔽」を疑う国民も出てくるので、本来なら参列を断るべきだった。テレビ映像だけ観て終わり、という人も多いから、必ず王女を紹介する時、ナレーターか局アナが特別な参列の理由を解説すべきだ。これは願望だが、秋篠宮殿下は自分の名誉を守るためにも、定例の八百長会見じゃなく、辛辣な質問をする雑誌記者の参加を許し、堂々とマスコミの誹謗中傷に反論すべきだった。

Princess of Thailand 2秋篠宮 & チュラポーン王女 昭和62年秋篠宮&シリントン王女 2
(左 : チュラポン王女 / 中央 : チュラポン王女と秋篠宮 / 右 : タイの王室と親戚になった日本の皇室? )

  敗戦後、左翼陣営の皇室攻撃は凄まじく、NHKや民放が戦争犯罪を言い立て、新聞や週刊誌が次々と批判記事をバラ撒いていた。しかし、敗戦国の日本には偉大なる昭和天皇が君臨していたので、マスコミがどれほど罵倒しようが、良識的な国民は同調しなかった。皇室は国民からの「信頼」や「敬愛」で成り立っているから、左翼知識人や進歩的文化人、あるいは反日メディアがいくら頑張っても、その人気を叩き潰すことは出来なかった。

  ところが、「開かれた皇室」が世間の風潮となり、天皇皇后両陛下や他の皇族方が次々と庶民に近づくようになると、神々しい天子様という尊崇の念が薄くなり始めた。一般人がイベントで“当然”の如く両陛下と会話を交わし、セレブ藝人のように振る舞うから、「ミッチー・ブーム」で熱狂する民衆が増えても当然だ。「皇室の民主化」という方針は、皇室の権威を蝕んで行く。特に、昭和天皇が崩御されると、皇室の威厳や威光が段々と消え去り、「国民に寄り添う」が気さくな皇室が普通になった。一般国民の方も、神道の儀式や古来からの信仰なんかより、煌びやかなドレスを纏ったプリンセスに目を奪われる。華やかな美智子妃は、雑誌社と連携して写真集の乱発だ。

  新しい平成時代と民主化の日本に浮かれた国民は、チャラい礼宮殿下を目にしても気にしなかったし、ちょくちょくタイへ渡航する宮様を温かく見守っていた。ただ、皇室の伝統を尊重し、皇族の威厳を求める保守派国民は、心の中で不満を募らせていたのかも知れない。もし、皇室の儀式に無知な国民が、皇太子殿下と一緒に歩くシリントン王女を見れば、「文仁殿下にはタイに愛人がいるんじゃないか?」と疑うのも当然だ。一般国民は内情を知らないから、「シリントン王女の妹であるチュラポン王女が第1夫人なんだろう」と噂話をする。

  貴族のセックス・スキャンダルは珍しくないから、野次馬国民が色々と勘ぐるのも無理はない。「非公式でも“男女の契り”を結んでしまったから、文仁殿下の儀式に“親族”として参加させろ、と迫ったんじゃないか? チュラポン王女本人が出席できないから、代理としてシリントン王女が来日したのかも知れないぞ」と。内縁関係の発覚を恐れた宮内庁と天皇陛下が、“特別枠”で参列を許したとも考えても不思議じゃない。しかし、雑誌の記事が本当でタイの王女が愛人なら、代理人が来日しても参列を許さないだろう。どんなにシリントン王女から要求されても宮内庁が却下するはず。そもそも、誤解を招きかねない要求を通した宮内庁が悪い。

  当時、参列の映像を目にした時、筆者も驚いたけど、内情が判らないから推測しかなかった。「いくらなんでも愛人というのはないだろう」と思いつつも、ヨーロッパの王族を直ぐに思い出したので、「まぁ、日本の皇族だって下半身事情は変わらないから」と心配したのを覚えている。

  例えば、イングランド国王ウィリアム4世は、ザックス・マイニンゲン公爵ゲオルグ1世(Herzog Georg I. Friedrich Karl von Sachsen-Meiningen )の娘アデレイド(Adelaide)を娶ったが、53歳の時だから、27歳のアデレード妃からすれば、父親みたいな亭主だ。でも、この王様には内縁の妻というか愛人のドロセア・ジョーダン(Dorthea Jordan / 本名Dorothy Bland)がいて、なかなかの美人女優であったらしい。アデレイドは娘を二人出産したが、どちらも夭折したので、二人の間には後継者がいなかった。

William IV of EnglandDorothea Bland (Jordan) 02Prince Akihito & Princess Kiko 3964
(左 : 国王ウィリアム4世 / 中央 : ドロセア・ジョーダン / 右 : 秋篠宮夫妻)

  一方、ドロセアとの間には既に10人の庶子をもうけていたというから凄い。しかも、非嫡出子の子供なのに、「フィッツクラレンス(FitzClarence)」という名をもらっていて、息子のジョージは初代ムンスター伯爵になった。娘のソフィアはフィリップ・シドニー(Philip Sidney)男爵と結婚したし、エリザベスはウィリアム・ヘイ(William Hay)伯爵家に嫁いだ。末っ子のアメリアはルシアス・ケアリー(Lucius Cary)子爵と結婚し、息子をもうけている。だが、ドロセアはウィリアムよりも前に別に二人の男性と懇ろになり、女優業を続けながら子供を授かっていた。リチャード・フォード(Richard Ford)との間には二人居て、リチャード・ダリー(Rihchard Daly)との間には一人の息子が生まれている。ただし、このドロシーはウィリアム王より4歳年上だった。

  「日本の皇族は清廉潔白で誰もが立派な人物」とは思わないが、秋篠宮殿下が過去に色々な「お遊び」をしていたから、国民からの信用を失ったのだろう。秋篠宮家に対する批判が激しくなったのは、度重なるタイへの旅行や小室問題が切っ掛けであったが、それでもまだ修復する機会はあった。しかし、秋篠宮家は独自の考えを貫き通す。もし、NYへ移住した娘婿を援助していなければ、皇籍離脱の時点で非難は沈静化したのに、裏でコソコソ支援するから雑誌に感づかれ、外務省や日系人の暗躍を書き立てられるのだ。一橋大学やフォーダム大学への工作もそうだし、小室圭がローウェンシュタイン・サンドラーズ社で未だに雇用されている実態を見れば判るじゃないか。

  これだけでも困った問題なのに、裏口入学の計画まで実行したんだから、秋篠宮家が批判されるのは自業自得だ。皇族には「信用」が大切で、国民から揺るぎない信用を得ていれば、週刊誌が何を掲載しようが国民は信じない。逆に、「嫌われる皇族」や「いかがわしい宮様」となれば、マスコミが垂れ流すコシップ記事に信憑性が出てしまうだろう。論より証拠で、兄の今上陛下には国民からの篤い信頼感がある。ところが、弟宮になると首を傾げる国民が多く、週刊誌にスキャンダル記事が出れば、「もしかしたら本当かも?」と信じてしまうのだ。「あの宮様ならやりかねない!」と思う人が多くなれば、宮内庁の広報担当者がいくら火消しに廻っても無駄である。秋篠宮家は「信用第一」という言葉を肝に銘じるべきだ。

謎が多い将来の天皇

  父親と息子は性格や癖が似てくるのか、悠仁殿下にも奇妙な点があった。悠仁親王は形式的に筑波大附属高校の筆記試験を受けるため、一般受験生と一緒に試験会場に向かったことがある。(既に推薦入学が決まっていたが、「実力テストを受けた」という印象を国民に植え付けるため、受験生のフリをしていたということだ。) 試験会場に繋がる道には、雑誌記者とカメラマンが待ち受けていたので、カメラマンは歩いている殿下の写真を撮っていた。

  だが、悠仁殿下の頭を見ると、奇妙な髪型に気づく。殿下の左側頭部の髪をじっと見つめると、後頭部の旋毛から無理矢理に髪を左耳の前に流していたのだ。背後から頭を見れば判るけど、左側面に「附け毛」というか「部分鬘(かつら)」があるように思え奇妙だった。なぜ、左側頭部の髪だけ、あんなに盛り上がっていたのか? 左側の頭皮にハゲがあったのか? ベテラン刑事やレンジャー部隊の自衛官が、殿下の頭部を目にすれば、左側の髪型に気づくはずだ。あのヘアスタイルは意図的なものだから、普通の少年が好む髪型ではない。

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  とにかく、秋篠宮家には不審な点が多い。疑惑と不正の倉庫だ。皇室支持派の国民でも、密かに疑問を抱いている人も多いんじゃないか? ただ、不敬になるから口に出さないだけで、「秋篠宮はおかしい!」と思っている人が結構いたりする。保守派国民ほど正直な気持ちを隠し、嫌な記事を否定するから、何かの切っ掛けで皇室への信頼が揺らぐこともある。

  本来なら、秋篠宮殿下が厳しい質問に答えるべきなのに、お誕生日会見はいつも脚本通りの“茶番劇”となっている。ジェャイアント馬場のキックやチョップじゃあるまいし、八百長会見にはウンザリだ。提灯持ちの記者じゃなく、独立系のジャーナリストを招いて、疑惑追及の「手加減無用会見」にすべきだろう。ベテラン刑事による取調みたいな尋問に耐えるなら少しはマシだけど、秋篠宮殿下は忖度無しの生本番に応じられるのか? 何かの口実をもうけて逃げまくる腰抜けなら、国民の疑惑は益々深くなるだろう。
https://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68963413.html

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