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(回答先: グローバリズムは我々の「祖国を愛する気持ち」までをも利用する 投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 02 日 22:37:53)
国民国家 対 グローバル資本主義
寺子屋ゼミ後期オリエンテーション「コロナ後の世界」
2021-11-23
http://blog.tatsuru.com/2021/11/23_0945.html
みなさん、こんにちは。ふた月ぶりに寺子屋ゼミ後期の開講となりました。後期もどうぞよろしくお願いします。出欠をとります。
後期のテーマは「コロナ後の世界」ですが、僕はこのお題でいくつも講演をし、原稿もたくさん書きました。あまり仕事の依頼が続くので、なぜかと考えてみたら、同じタイトルでまとまったことを話したり書いたりしている人があまりいないんですね。どうも、「コロナ後の世界」という枠組みで問題を考える人と考えない人とに世界が二分されてしまったらしい。コロナ禍で社会の分断が進んだのですが、その一つはこんなかたちになりました。
2020年初めに世界的なパンデミックが起きましたが、その時に「こんなのはたただの風邪だ。感染症ごときで自分は生き方を変えないし、世界も変わるべきではない」と主張する人たちが出てきました。この人たちは、どちらかというと社会的強者です。健康で活動的な方たちです。風邪に罹る人間は罹り、死ぬ人間は死ぬ。じたばたすることはないという考えの人たちです。ですから、この人たちは「コロナ後の世界」などという枠組みではものを考えません。コロナなんかで世界が変わるはずがない。だから、「コロナ後」という語そのものに意味がない、そういう立場の人たちです。
その一方に「コロナ後の世界」という問題枠組みでものを考える人たちがいます。こちらはどちらかというと社会的弱者の立場にいます。だから、感染症が大きな社会変動を引き起こした場合、それによって「よくないこと」がわが身に起きるだろうと予測している。だから、コロナのせいで世の中がどう変わるかに切実な関心を持つ。
僕は「社会的弱者」というほどではありませんけれど、合気道の道場を開いて稽古をするという僕の最も基本的な活動がコロナのせいで長期にわたって制限・休止を余儀なくされました。稽古ができないというのは非常につらいことでした。心身にネガティヴな影響を受けましたし、もちろん大幅な減収にもなりました。だから、このパンデミックがそう簡単には収束しないとすると世界はどう変わっていくのかと今後に思いをめぐらさずにいられません。収束した後に、旧に復するものもあるでしょうけれど、いくつかのセクターについては、後戻りしない変化が生じると思っています。
そこで後期ですが、みなさんにはそれぞれの観点、問題意識、関心領域に沿って、このパンデミックのあと日本と世界がこうむる不可逆的な変化、地殻変動的な変化とは何かを各自が観察する範囲で探し出して、それについて話して頂きたいと思います。
まず、ゼミ生全員が共有しておくべき前提になる現実について話します。
第一は、人獣共通感染症は新型コロナウイルスのパンデミックが収束した後も、繰り返し発生するだろうということです。それは多くの専門家が予言している通りです。
野生獣に寄生しているウイルスが人間に感染し、変異して、世界中に広がってゆくのが人獣共通感染症、あるいは動物原性感染症です。発生地はこれまでは主としてアフリカです。これまで人間が入り込まなかった野生の領域が開発されて、人間が入り込んで野生獣と接触することで新しいウイルスが発生しました。人獣共通感染症は21世紀に入ってからだけでも4回起きました。2002年のSARS、2009年の新型インフルエンザ、2012年のMERS、2020年の新型コロナ。ウイルスを感染させた動物はラクダ、豚、鳥、コウモリなどなど。約5年に1回のペースでパンデミックが起きています。
人口増がピークアウトした先進国と違って、アフリカの人口はこれからも増加し続けますから、人間と野生獣の接触の機会はこれからも増え続け場ます。ですから、アフリカでの人口増と開発が続く限り、人獣共通感染症のアウトブレイクは構造的に防ぐことができません。
一方、アジアで危険な兆候を示しているのがミャンマーです。東アジア最大の熱帯雨林を持つこの国には、多種多様な野生獣が生息していますが、乱獲が後を絶ちません。実は、ミャンマーは野生獣の密猟密輸の一つの中心地なんです。現在、ミャンマーは統治機構も警察も十全には機能していませんので、熱帯雨林で野生獣が密猟され、密輸されても、効果的に阻止できない。ですから、これからミャンマー発の感染症の出現のリスクが高い。人獣共通感染症が新型コロナで終わるという可能性はきわめて低いといことです。
日本では第5波が猛威をふるったあと、感染者数が激減しましたが、理由はよくわかりません。医者たちに会うたびに訊くのですが、誰も確かな理由は言えないということでした。ウイルスのふるまいは非常にわかりづらく、これからどう変異するかも見通せません。いったんは新規感染者が減って、日常生活に戻っても、しばらくするとまたどこかで別種のウイルスによる感染症が広がるということが起きる。ですから、これからの社会制度は定期的に起きるパンデミックに適応したかたちで社会の仕組みを設計し直してゆかざるを得ないだろうというのが、この問題に取り組む際の最初の前提条件です。
第二の変化は経済システムについてのものです。今回のコロナ騒動でグローバル資本主義はどうも限界にきたらしいということがはっきりしました。多国籍企業に牽引されたグローバル資本主義が政治や経済の仕組みを変え、ついには生態系にまで大きな影響を与えて、人類の生存を脅かし始めたというのが今日の状況です。
多国籍企業はどの国民国家にも帰属せず、どこの国民に対しても「同胞」という感覚を抱かず、株主の利益を最大化することだけを目的とする事業体です。それが現在の経済システムを支配している。でも、こうした企業の野放図な活動を止めないと、もう地球環境は持たないし、貧富の格差も拡大し、僕たちの生活基盤そのものが破壊されてしまう。どこかでグローバル資本主義の活動を抑制しなければならないということが国際社会でも同意を広げてきました。
例えば、SDGsがそうです。これは国連が提案し、貧困をなくす、豊かな自然を守る、などの目標を掲げて対応策を出したものです。国連は国民国家の連合体ですから、これはグローバル資本主義に対する「国民国家の側からの異議申し立て」というふうに理解してよいかと思います。
国連だけではなく、今世界中で若い人が中心になって多国籍企業の行動に歯止めをかけて、気象変動を抑制しようとして活動しています。『人新世の「資本論」』の著者でマルクス主義の復権を訴える斎藤幸平さんのような若手の経済学者も出てきました。今の若い世代は、グローバル資本主義を暴走させたままにしておくと、自分たちの生存が脅かされるということを実感し始めています。
そのような動きのさなかにコロナが来た。これは結果的にはグローバル資本主義の暴走に対する抑制として働きました。物流が止まり、企業の経済活動が停滞し、飛行機も飛ばなくなりましたので、CO2の排出量が減り、いろいろな国で大気汚染が緩和されたり、海洋が浄化された。パンデミックで、人や商品のクロスボーダーな動きが抑制されたことで、環境負荷が軽減されたのです。ですから、見方によっては、コロナは自然から文明社会へ向けての「いい加減にしろ」という手厳しい叱責だというふうに見立てることもできます。
グローバル資本主義の抑制と国民国家の再構築は一つのコインの裏表です。国民国家の連合体である国連が主導してSDGsという「グローバル資本主義の暴走抑制」政策が提言されたわけですから、国民国家は本質的にはグローバル資本主義と相性がよくありません。
国民国家(Nation-State)というのは、1648年のウエストファリア条約によって成立した新しい世界の枠組みです。ある地域に、同一人種、同一宗教、同一言語、同一生活文化を共有する「国民」という同質性の高い人々が暮らしていて、この人たちは基本的に利害が一致しているというのが「国民国家」という概念の基本になるアイディアです。そういうものがもともと存在していたわけではありません。それ以前は帝国の時代であり、巨大な帝国の中に人種も宗教も言語も異にする多民族が共生していました。それが17世紀頃から、同質的の高い「国民国家」というものを基本的な政治単位とみなした方が、「帝国」を政治単位として考えるよりも、今起きている政治的出来事を説明したり、未来を予測したりすることに適しているということになった。だから「国民国家」を政治単位とするという考え方が採用されました。一定の歴史的条件が整ったせいで採用されたアイディアですから、歴史的条件が変われば、賞味期限が切れて、使い勝手が悪くなるということもあり得る。
グローバル企業は複数の国民国家にまたがって活動します。最も人件費の安いところで人を雇い、最も公害規制のゆるいところに工場を建て、最も税金の安いところに本社機能を移す。どの国民国家にも帰属しないし、どこの国民国家の「国益」も配慮しない。どの国民国家のメンバーも気づかうべき「同胞」とはみなさない。そういう事業体です。
日本企業である以上は、日本国内で操業して雇用を創出し、日本の国庫に税金を納めて、日本の同胞たちに安価で質の良い商品やサービスを提供し、日本の生態系や伝統文化を守るべきだ・・・というのが伝統的な「国民国家内部的企業」の建前でした。けれども、グローバル企業にはもうそういう「しばり」がありません。そして、そういう「しばり」のない企業の方が競争においては圧倒的に優位に立てる。ですから、資本主義社会では、すべての営利企業はグローバル化を目指すことになる。でも、そういう企業の形態が支配的になると、国民国家はもう持たないわけです。それがグローバル企業と国民国家は「相性が悪い」ということです。
EUは域内の国境線を事実上廃止して、人や商品の出入りを自由化し、通貨や度量衡を統一しました。その結果、複数の国民国家があたかもひとつの「帝国」のようにふるまうことが理論上はできるようになりました。EUの版図はかつての神聖ローマ帝国のそれとほぼ一致します。国民国家は解体されてゆくのかと思っていたら、コロナが来た。そして、消えかけていたと思われていた国民国家の国境線が再び「疫学的な壁」として甦った。
国境線は幻想ではなく、リアルな壁でした。ヨーロッパの人がそれを実感したのが、医療の分野です。2020年初めにイタリアがヨーロッパで最初に医療崩壊を起こしました。ただちにEU同盟国のフランスやドイツに医療支援を求めました。けれども、フランスもドイツも医療品の輸出を断りました。自国民の健康を優先的に配慮するというのです。どんな商品もサービスも自由に国境線を越えて行き来するはずだったのに、そうならなかった。
アメリカではすでに70万人以上の死者が出ています。南北戦争の戦死者数を上回る数字です。世界最高レベルの医療技術のアメリカで医療崩壊が起きたのは、感染拡大の初期にマスクや防護服や検査キットのような基礎的な医療品の備蓄がなかったせいです。
アメリカでは医療分野でも、経営者マインドが徹底していますから、不要な在庫は持たない。「必要なものは、必要な時に、必要な量だけ、市場で調達する」というジャストイン生産システムが理想とされています。だから、マスクや防護服のような、特段の技術も要らない、材料とミシンだけあればできるようなシンプルな医療品は国内生産なんかしない。人件費の安い海外の途上国にアウトソースしていた。
そのせいで、感染が拡大して、「いざ必要」という時に国内に備蓄がまったくなかった。注文しても、世界中の国が奪い合っていましたから、手に入らない。そうやってたくさんの人が死にました。これは「不要在庫を抱え込むのは愚かな経営者だ」という企業経営者の常識が「国民の生命と安全のためにほんとうに必要なものは海外にアウトソースすべきではない」という国民国家の常識より優先されたことの結果です。
「リスクヘッジ」というのは「丁半ばくち」で丁と半の両方に張ることです。用意したものの半分は無駄になる。でも、どちらの目が出ても困らない。この「無駄」のことを経済学の用語では「スラック(slack)」と言います。何かあった時のための「余裕」「ゆとり」「たるみ」のことです。システムがクラッシュしないようにするためには、スラックは絶対に必要です。でも、ビジネスマンはスラックをただの「無駄」としか見なさない。感染症のための医療品も、感染症専用病棟も、感染症専門医さえも、感染爆発が起きない限り「資源の無駄」だと見なす。だから、ビジネスマインドで医療システムを設計したら、いつ来るか分からない感染症のために戦略的な備蓄をしておくということはあり得ないのです。そうやってアメリカの医療崩壊は起きて、多くの人が死にました。
これらの出来事は、国民国家の常識と資本主義の常識の間に大きな「ずれ」があることを前景化しました。それがコロナのもたらした重要な教えだったと思います。国境線の「こちら側」は医療体制が整っているので、コロナに罹っても命が助かり、国境線の「あちら側」は医療崩壊していたので、命が失われた。同じ病気に罹っても、国境線のこちらとあちらで生き死にが分かれたのです。国境線がこれほど決定的な境界線であったということを僕たちは改めて思い知らされた。
消えるはずだった国境線が「疫学的な壁」として改めて再建された。それは世界各地でナショナリズムが息を吹き返してきたことと平仄が合っています。グローバル化が進行するにつれて、それに対するカウンターとしてのナョナリズムの覚醒が世界各地で始まった。ブレグジットを選択した英国、「アメリカ・ファースト」で熱狂的な支持を集めたトランプ大統領時代のアメリカ、ヨーロッパでも、フランス、ドイツ、ハンガリー、ポーランド、オランダなどでは排外主義的な政党が国民的支持を集めています。日本でも、排外主義的な言説を平然と口にする政治家が増えてきました。コロナ以前からの世界的な傾向でしたが、コロナが国境線の分断機能を強化した以上、ナショナリズムがさらに亢進するリスクは高いと思います。
もう一つ前景化してきたのが、「教育のアウトソーシング」です。コロナ2年目に入って、そのことが骨身にしみた人も多いと思います。僕はこれまで教育現場で90年代から「教育は海外にアウトソーシングできる/アウトソーシングすべきだ」という声が広がっていることに不安を感じていました。
1991年に大学設置基準の大綱化がありました。少子化に伴って、大学の淘汰が始まった。その時に文科省はどの大学が生き延び、どの大学が退場するかを決定することを「市場に委ねる」という決断を下しました。明治以来日本の教育行政は「いかにして良質な教育機関を作り出すか。いかにして国民にできるだけ多くの就学機会を保障するか」という目標をめざしてきました。話は簡単でした。ところが人口減が始まり、教育機関を淘汰しなければならなくなった。でも、文科省は「学校を増やす理屈」はいくらでも出せるけれど、「学校を減らすロジック」は手持ちがない。仕方がないので、「市場に丸投げ」することにした。どの学校が生き延び、どこが消えるかは「消費者」が決めるべきだというビジネスのロジックにすがりついたのです。
この時点で日本政府は「国内に世界レベルの高等教育を維持する」というモチベーションを失いました。というのは、市場では商品サービスの価値を決定するのは消費者だからです。どれほど良質な商品でも買い手がいなければ市場から消えるし、どれほどジャンクな商品でも市場が歓迎すれば生き延びる。「市場は間違えない」というルールに従うならば、学校は「市場に好感される教育商品」の提供に専念するしかなくなる。
そのように教育に市場原理が導入されたことの当然の帰結として、「教育のグローバル化」が始まった。英語で授業をして、外国人教員を雇い、海外提携校に留学生を送り出し、留学生を受け入れるということが熱心に進められました。でも、それは言い換えると、世界中どこでも、好きな学校で好きな学習機会を「買う」ことができるということです。「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればいい」ということは、言い換えると国内にさまざまなレベルのさまざまな種類の学校を揃えておく必要はもうない、ということです。世界最高レベルの教育が受けたければ、欧米にいくらでもある。学力が高くて経済力のある子どもはハーヴァードでも、オックスフォードでも、スタンフォードでも、北京大学でも、そこに行けばいい。そういうふうに豪語する人が21世紀に入ってから増えてきました。それが気がつけば支配的な世論になっていた。でも、それは言い換えると、日本国内に世界レベルの教育機関をわざわざ高いコストをかけて作る必要はないということです。アウトソースできるものはアウトソースすればいい。
その結果、実際に上流階層では、子どもたち中等教育の段階からヨーロッパのボーディングスクールやアメリカのプレップスクールに送り出すことが流行しています。自分の子どもたちには欧米でレベルの高い教育を現に受けさせている人たちが日本の教育制度を設計しているわけですから、国内の教育レベルは当然下がります。日本の教育制度は「ダメだ」という判断を下したからこそ、海外に留学させたわけですから、その判断が正しいことを証明するためには、日本の教育が「見限るに十分なほどダメである」という現実を創り出すのが一番確実です。だから、エリート教育は海外に丸投げすればいいと主張する人たちは、国内の学校については「低賃金で、長時間労働を厭わず、辞令一つで海外に赴任するようなイエスマン社員」を大量生産することに特化すればいいとなげやりな態度を示す。ですから、学校教育に対する公的支援はこの四半世紀減り続けています。もう日本の大学を世界レベルに高めるというモチベーションは日本のエスタブリッシュメントにはありません。
でも、明治初年に近代教育が始まったとき、明治政府が目指したのは、日本の大学で、日本人教師が、日本語を使って世界標準の内容の授業を行うことでした。そして、わずか一世代でその目標を達成した。それによって日本の近代化は達成された。
現在でも日本では、学術論文を日本語で書いて博士号をもらえます。日本語で世界レベルの学術情報が発信受信できる。これは欧米以外の国では稀有のことです。しかし、「教育のアウトソーシング」はその明治以来の伝統を否定する。日本の将来を考えると、これはきわめて危険なことです。
母語で高等教育を行うことのできる国でしか、学術的なイノベーションは起きません。イノベーションというのは、新しいアイディア、新しい言葉から生まれるわけですけれども、僕たちは新語(ネオロジスム)を母語でしか作れない。母語から生まれた新語は、口にした瞬間に母語話者には誰でもその微妙なニュアンスがわかる。はじめて聞いた言葉なのに、意味がわかる。それは母語から生まれたものだからです。
僕たちにとっての母語は数千年前から日本列島で暮らした人たちが口にし、書いて来た言葉です。それはすべての日本人の記憶の底に深く沈殿しています。だから、その奥底から泡が湧き出るように出てきた言葉は、新語であっても意味が理解できる。それは外国語では起きないことです。僕らが英語で新語を思いついて、口にしても「そんな言葉はない」と言われるだけです。
何年か前、池澤夏樹さんから頼まれて、吉田兼好の『徒然草』を現代語訳したことがあります。『徒然草』なんか、高校時代に教科書で少し読んだだけで、全文を通して読んだこともないし、古文も受験以来やっていませんから、できるかなと不安でしたけれども、古語辞典を片手に現代語訳をしてみたら、これが何とか訳せた。吉田兼好は800年も前の人ですけれど、兼好法師も僕も、同じ日本語話者です。現代日本語も兼好の時代の日本語も「根は同じ」です。だから、初めて使われる新語が理解できるのと同じ理屈で、もう使われなくなった古語も理解できるということが起きる。兼好法師が言いたいことは、かなり微妙なニュアンスも含めてなんとなくわかるんです。なるほど「母語を共有する」というのは、こういうことかと思いました。
母語話者はこの母語の数千年分の蓄積すべてにアクセス可能なのです。もう使われなくなった言葉も、まだ使われていない言葉も、そこにアーカイブされている。そこから実に豊かなものを引き出すことができる。
村上春樹さんが長い海外生活を切り上げて日本に帰ってきた時に「英語では小説が書けないということがわかったから」と言っていましたけれど、そうだと思います。どれほど英語がうまくて、会話も文章も不自由なくても、英語を母語としてない人間には、英語のアーカイブへのアクセスがきびしく制約される。だから、英語で「まったく新しいアイディア」を語ることはきわめて困難なのです。
日本人のノーベル賞受賞者は自然科学分野だけで25人いますけれど、これだけの数の受賞者を出している国は欧米以外では日本だけです。中国は自然科学分野では3人、台湾が2人、韓国はゼロ、ベトナムもフィリピンもインドネシアもゼロです。どこの国でも大学院レベルでは自然科学の論文は英語で書かれていると思いますが、母語で英語と同じレベルの学術情報のやりとりができる環境があるかどうかがこの差を生み出していると僕は思います。
母語で世界最高レベルの研究教育を行うことができるような環境整備は国力を維持するうえで必須であるということはこの事実からも分かると思いますが、そういうことを言う人は今では少数派になっています。でも、今回、パンデミックで2年近く留学生の送り出し、迎え入れができなくなったことで、「教育のアウトソース」というのがいかに危ういものであるかが明らかになりました。
学者でも、アーティストでも、科学者でも、ビジネスのイノベーターでも、それぞれの分野で世界レベルの人間をどうやって作り出すか。答えは別に難しいものではありません。子どもたちが好きなことを、好きなように学ぶことができて、自分の潜在能力を思う存分発揮できるような環境を提供すること。それに尽きます。そういう仕組みを整えておけば、誰もコントロールしなくても、世界の第一線で活躍する人間は自ずと出てきます。別にとんでもないコストがかかる事業ではありません。
アウトソーシングしてはいけないものは、医療と教育以外にもあります。食料、エネルギーなどがそうです。人間が集団として生き延びてゆくために必須のもの、国の安全保障の根幹にかかわるものはそうです。それなしでは生きてゆけないものは原則的には「自給自足」をめざすべきです。自給自足は困難でしょうけれども、それをめざす努力を止めてはならないと思います。
コロナ後の世界がどうなるのか。今は分岐点であるというのが僕の認識です。これまで当然とされていた多くの仕組みに疑問符が付けられ、良い方に変わるか、悪い方に変わるかの分岐点に立っている。
例えばナショナリズムはどちらに転ぶかで良くも悪くもなる。ナショナリズムの復活はグローバル資本主義を抑制するという点では良いけれども、国民国家の壁が再構築されて、世界が分断され、すべての国々が「自国ファースト」を言い立てるようになり、国際協調が進まなくなると、これは良くない。でも、世界はいまこの方向に向かっている。
先日、名古屋で講演をした折、フロアの方から「ポストモダンの次にどんな世界がくるのでしょう?」というずいぶん本質的な質問がありました。「ポスト・ポストモダンの時代」とはどういうものになるのか。
ポストモダンの時代は、近代を駆動してきた楽観論が失われた世界です。近代の物語というのは、ある種の進歩史観に導かれていました。人類は多少の曲折はありながらも、総じて良い方向に進み、誰もが幸福で豊かな生活を営む平和な世界に向かっているという「大きな物語」が近代の通奏低音でした。でも、ポストモダンの世界になって、その物語が否定された。代わりに登場したのが、「歴史に目標はない」「人類は別に進歩していない」というかなりニヒリスティックな歴史観でした。
すべての人は主観的なバイアスのかかった世界しか見ることができない。他者の目から見える世界がどのようなものであるかを僕たちは知ることができない。だから、誰も自分が見ている世界こそが「客観的現実」であると主張する権利はない。このポストモダンの思想は、自分の目に見えるもの、自分が経験していることの客観性を過大評価することを戒めるという点では健全なものだったと思います。けれども、ポストモダンの思想はそれにとどまらず、さらに暴走して、「客観的現実」などというものはどこにも存在しないというところまで行ってしまいました。だから、みんな自分の好きなように「自分にとって都合のいい現実」のうちで安らいでいればいいという話になった。
トランプの大統領就任式の時に、「過去最多の参列者が集まった」というホワイトハウスの報道官の嘘について、大統領顧問がそれは「もう一つの事実(alternative fact)」だと強弁しました。人はそれぞれ自分の好きなように世界を眺めている。そこに真偽の差はないという考え方が公的に言明されたのです。
ナショナリズムの劣化したかたちはたぶんそういうものになると思います。「私たちには世界はこう見える」という人たちがそれぞれ異なる世界像にしがみついて、他の人たちと世界像の「すり合わせ」をするという努力を放棄する。
となると、「ポストモダンの次」に来るのは前・近代だということになります。あり得ると思います。世界が「中世化」する。コロナ後の世界について考える時の最悪のシナリオがこれです。でも、今世界で起きていることを見ると、前近代に退行している徴候が至るところに見られます。
前近代から近代への移行を可能にしたのは、「公共=コモン」という概念の誕生だったと僕は思っています。万人がおのれの自己利益だけを求めて行動するという「万人の万人に対する戦い」という前近代的状況では、誰も自己利益を安定的に確保することができません。弱肉強食の無法の社会では、つねに誰かに私財を盗まれ、誰かに私権を奪われるリスクに怯えながら暮らさなければならない。それよりは、一人ひとりが私権の制限を受け入れ、私財の一部を公共財に供託することで、「国家という公共」を立ち上げ、それに従うことによって、長期的・安定的に自己利益を確保する、というのが近代市民社会のアイディアでした。ホッブズもロックもルソーも、そういうロジックで近代市民社会における「公共」の必要性を根拠づけました。
でも、今の日本社会で観察されるのは、それとは逆のふるまいです。政治家も官僚もビジネスマンも、公共財をせっせと私物化し、公権力を自己利益のために利用している。私財を投じて、私権の制限を受け入れて、それによって公共を手作りで立ち上げるというような行動をする人間は日本の指導層にはもう一人も見当たりません。他人に向かってうるさく「私財を差し出せ、私権の制限を受け入れろ」ということは要求するのに、自分の身銭を切って公共を立ち上げ、機能させようとしている人間は「公人」の中にはもうほとんど見当たらない。
「公共のために身銭を切る市民」が登場したことで近代は成立したのだとすると、「私利私欲のために公共財を盗み、公権力を私用に供する人」たちが公職を占め、統治機構を支配し、企業活動をしている社会はまっすぐ「近代以前」に退化していることになる。
公共に命を吹き込み、行きすぎたグローバル資本主義や個人の貪欲を制御するためには、穏健な「人間の顔をしたナショナリズム」が必要ではないかと僕は考えています。
ナショナリズムは国民国家という政治幻想に基づくイデオロギーです。ですから、ナショナリストは国境線の内側にいる「国民」たちについては、その全員を「同胞」として受け容れ、支援する義務を負っています。それがナショナリズムの「約束」です。日本人だというだけで、つい「ひいき」にしてしまう。そういう偏りがナショナリズムの心理的基礎をなします。だから、まずは同胞がちゃんと飯が食えているかどうかを気づかい、同胞が健康で文化的な生活ができているかどうかを心配する...というのがナショナリストの本来のあり方であるはずです。そういうナショナリストが政治指導者であるなら、たいへん結構なことだと思います。
でも、今の日本で「ナショナリスト」と呼ばれている人たちは、「日本人をひいきにしている」わけではありません。彼らは日本人すべてに同胞的な親愛の情を抱いているわけではありません。国民を自己都合で分断して、自分の支持者、自分の味方、自分の身内を「ひいき」にして、自分の敵、反対者、他人は日本人であっても気づかわない。だとしたら、それは「ナショナリスト」という呼称には適しません。それはナショナリズムではなく、「部族主義(トライバリズム)」です。僕は、ナショナリズムという言葉を誤用して欲しくない。いまのネトウヨとか「保守派」と呼ばれている人たちは、右翼でも保守でもナショナリストでもなく、ただの「部族主義者」です。
世界に目を向けると、安定した基盤の上に立つ国はほとんどありません。どの国もギリギリのところでバランスをとっていて、ある方向に傾くと、崩れそうなリスクを抱えています。国だけでなく、社会的なセクターもわずかな入力の変化で、大きく変質したり、瓦解したりする可能性がある。でも、それは見方を変えれば、「チャンス」でもあるわけです。これまで固定的でびくともしなかったシステムがコロナをきっかけにぐらりと揺らいだ。もしかすると、あと一押しで転がすことができるかも知れない。
後期では、コロナの前後でどんな変化が起きたか、その変化はどういう意味をもつのか、あるいは社会をどう変化させるべきか、などを含めて自由に語っていただくようお願いしたい。みなさんの興味があってよく知っている分野、多様な分野ということですが、もっと専門的な話でもかまいません。僕と同じように大風呂敷を広げて「コロナ後の世界はこう変わる」と未来予測して頂いても結構です。また、これからアメリカはどうなる、中国は、EUは、と国家や地域を取り上げてスケールの大きい話をしていただいても結構です。
今日のオリエンテーションの話はこんなものです。ご質問なりご感想なりあればお聞きしたいと思います。まずフロアのほうから。伊地知さん、お願いしますよ。
(伊地知さん)
はい、内田先生がいま話されたなかで、ナショナリズムと呼ばれるのはトライバリズムじゃないかという部分は、わたしもすごく感じるところです。韓国の対外的な観光戦略の話ですけど、ソウルの観光キャッチフレーズとして採用されたのは「オギオンチャ」といって、昔から慣れ親しまれている固有語の掛け声なんです。意味は「よいしょ」とか「えんやこら」。ある都市を象徴するフレーズとしてそういう翻訳の不可能な表現を選んだことに、いまの韓国の自信が表れていると感じました。韓国だけでなく、近年、経済力をつけてきた国々にナショナリズムやそれがつくり出した排外主義が広がって、問題になってきています。
もうひとつ、朝鮮半島に関係することを勉強しているので在日コリアンの友人が多いんですが、日本国籍をとった方のなかで、選挙に出馬しようという動きがある。それも一人で出るのでなく、違う出身国の方たちが連動するかたちで。歴史的な背景は必ずしも共有できないけど、「こんなに大勢いるんやから、いまのままやったらまずいやろ」という思いが共有されるようになってきたこともあります。旧植民地出身者のもつこだわりがそこで試されるし、むろん日本社会も試されます。そういう現象が生まれた背後には、これまでのナショナリズムの議論で語られなかった日本の姿を求める人たちがいるんだなぁと......。
(内田先生)
うん、それは興味深いですね。ありがとうございました。じゃあ、本さん。
(本さん)
わたしの身近なところでも、いまコロナで弱い人たちにしわ寄せがきていると感じます。たとえば、学校教育の場で集団に適応できない子どもたち、発達障害といわれる子どもたち、その保護者の方々。不安定な雇用とかさまざまな困難を抱えて働く女性たちの、もうヤバい、みたいなメンタリティのありようもひしひしと伝わってくる。それでもみんな頑張っているけど、新政権が「もう大丈夫」といわんばかりのメッセージを発して、そういう人たちの間に燃え尽き症候群のような症状が出てくるんじゃないかと、すごく心配しています。
一方で、ズームなどオンラインの新しい文化に適応できた人たちのなかでは、場所の制約を超え、共通の問題意識をもって、ていねいに対話しようという動きが始まっている。わたしはオープンダイアローグの実践を広げようとしていて、とてもいい兆しをみています。
発表されるみなさんには、「こんなふうに希望もあるよ」とか「こういうところを見てほしい」という現場からの声を聞かせていただきたいと願っています。とくに、教育現場の方のお話をうかがいたいです。はい、今日の感想でした。
(内田先生)
ズームの方たちは? 誰か手を挙げていますか?
(渡邉さん)
内田先生のなかでは、ナショナリズムが逆の意味に解釈されているようですが......。ナショナリズムより範囲を狭めて、もっと地域を重視した愛郷主義、パトリオティズムと言ったほうが地方分権の時代にはふさわしいのでは、と。内田先生のようなナショナリズムの理解のしかたには、やはり違和感があるような気がするんですけど。
(内田先生)
国民国家というのは政治的な擬制、フィクションですよね。とりあえずこれを足場にして、もうちょっと使い延ばしてゆくしか手がないと思っているんです。国民国家を結束させて、国民に政治的なエネルギーを備給する装置がナショナリズムです。でも、扱いが非常に難しい。すぐ暴走するし、気を緩めると簡単にトライバリズムに劣化してしまう。だけど、僕はここから逃げちゃいけないっていう気がするんです。自分がナショナリズムという取り扱いの難しいものを操作しているということに対する警戒心と、疚しさと、ある種の含羞を感じながら、ていねいにこの装置を使う。「うつむき加減のナショナリズム」というか(笑)。多くの人たちがそういうマインドを熟成させて、「うつむき加減のナショナリスト」になってゆくのが着地点としては健全かなという気がしているのですけど、どうでしょう......。
(渡邉さん)
わたしとしては、東京オリンピック・パラリンピックで日本社会が本当の意味で分岐点を超えちゃったという感じがあります。なので、コロナ後のオリンピックを取り上げたい、と。12月ぐらいに発表できれば、と思います。
(内田先生)
ありがとうございました。では、6時半になりましたので、これから先の担当者を決めて、お開きにしたいと思います。
http://blog.tatsuru.com/2021/11/23_0945.html
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