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1959年以来、キューバの体制転覆を試みてきた米国が11月にカラー革命を目論む
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投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 03 日 14:14:02: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: メキシコ _ 国までを支配⁉︎恐ろしすぎるギャング組織について 投稿者 中川隆 日時 2021 年 7 月 21 日 15:34:16)


2021.11.03
1959年以来、キューバの体制転覆を試みてきた米国が11月にカラー革命を目論む
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111030000/

 キューバでは11月15日に反政府デモが予定されている。このデモの黒幕がアメリカ政府だということは公然の秘密だが、デモの主催者が起訴されるようなことがあった場合、アメリカ政府はキューバに報復すると​フアン・ゴンザレス国防副次官補​は恫喝した。キューバでも「カラー革命」を行うつもりのようだ。

 世界の経済活動は「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)対策」のために悪化、特に経済力の弱い国は厳しい状況にある。食糧不足に陥ったスーダンではアメリカに近い軍人によるクーデターがあり、自立の道を模索していたフィリピン政府はアメリカに屈しそうだ。

 1959年の革命以来、歴代アメリカ政府はキューバに対し、さまざまな攻撃を仕掛けてきた。ドワイト・アイゼンハワー政権は1960年、CIAに対して秘密工作を承認、61年にジョン・F・ケネディが大統領に就任した直後、亡命キューバ人を使って軍事侵攻を試みている。侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けていた戦闘員で、ピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試み、失敗した。

 しかし、CIAもアメリカ軍もこの侵攻作戦が成功するとは予想していなったと言われている。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいことを理解、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵略作戦の際、チャールズ・キャベルCIA副長官(当時)は航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したが、アメリカ軍が前面に出た侵攻作戦の要求は却下された。これ以降、ケネディ大統領はCIAや軍の好戦派から敵視されるようになる。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 キューバ侵攻作戦はソ連や中国に対する先制核攻撃と深く関係していた。ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月に開かれたNSC(国家安全保障会議)の会議で、ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長とアレン・ダレスCIA長官はケネディ大統領に対し、1963年に先制核攻撃を実行するという計画を説明している。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 この計画を大統領は拒否、1961年11月にダレスCIA長官や彼の側近で秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベルCIA副長官も62年1月に辞めさせた。

 それでも好戦派はキューバ侵攻を諦めず、レムニッツァー議長は1962年3月に国防長官のオフィスでキューバ軍を装ったテロでアメリカ国民を騙し、戦争を始めるという計画を説明した。「ノースウッズ作戦」である。そのレムニッツァーの再任を大統領は1962年10月に拒否した。そのレムニッツァーを欧州連合軍最高司令官に据えたのはイギリス軍のハロルド・アレグザンダーだ。

 その前、1962年8月にアメリカのスパイ機U2がキューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を、また9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を発見した。この時点でもアメリカの好戦派はキューバへの軍事侵攻を主張していた。この時、すでにキューバへは160発以上の核弾頭が運び込まれ、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だった。

 10月27日にはアメリカ海軍の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。

 この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していた可能性が高い。10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 こうした展開に不満を募らせていた好戦派は1963年後半にソ連を核攻撃するという作戦を持っていた。アメリカでICBMの準備が整い、ソ連は準備できていないというタイミングはその時しかないという判断だったようだ。1963年11月22日、核戦争の障害になっていたケネディ大統領は暗殺されたが、キューバやソ連が実行したとするプロパガンダの嘘が明らかにされて開戦できなかった。

 当時、キューバはソ連や中国に対する先制核攻撃を成功させるために必要な場所だった。そこにソ連が核弾頭を搭載した中距離ミサイルを配備していたなら、報復されてしまうからだ。勿論、現在の技術力では反撃のためにキューバを確保する必要はない。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111030000/  

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コメント
1. 2021年12月31日 19:23:12 : cCpxunnU4w : S3FPbENyS1BiVy4=[13] 報告
2021.12.31
アメリカとの軍事同盟を強化しようとしている蔡英文政権の悲喜劇(1/3)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202112310000/


 ​台湾がアメリカとの軍事同盟を強めようとしている​という。蔡英文が総統に就任にした2016年以降、台湾は中国との関係を悪化させる一方でアメリカとの関係を強化してきた流れをさらに推し進めるということだろう。ロシアや中国を屈服させるために恫喝を続けているアメリカにとっては願ってもないことだ。

 中国にとって台湾がどのような位置にあるかは、アメリカがキューバに対してどのような行動を取ったかを思い起こせば理解しやすい。中国と台湾との距離はアメリカとキューバとの距離に比べて近い。そこへ敵と見なしている国の軍隊が入り、ミサイルが配備されることをアメリカは軍事的に解決しようとした。自分たちの行動に対して中国やロシアどのように反応するかをアメリカ側は理解しているはずだ。

 アメリカの偵察機U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのは1962年8月のこと。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明している。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 当時、アメリカの軍や情報機関にはソ連や中国を先制核攻撃するべきだと考えるグループが存在していた。カーチス・ルメイ空軍参謀長もそうしたグループの一員で、彼らはジョン・F・ケネディ大統領に対して10月19日に空爆を主張する。キューバを空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。アメリカの好戦派は政府の命令を無視して挑発を繰り返したわけだ。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。

 この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたならカリブ海にいたアメリカの艦隊は全滅、米ソは全面核戦争へ突入した可能性が高かったが、核魚雷は発射されなかった。ソ連の潜水艦にたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイたちは大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否されている。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除してソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に主張していたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだ背景にはアメリカやイギリスの軍事強硬派の計画が存在していた。例えば1945年8月末にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対してソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出、9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計、ソ連全体を破壊するためにアメリカが必要とする原爆の数は446発、最低でも123発だと算出されていた。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすと書かれている。1952年11月には初の水爆実験を成功させ、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てていた。

 実行を想定していたと考えられる1957年作成の「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 これが1950年代に沖縄の軍事基地化が進められた背景であり、そうして建設された基地は中国やソ連を攻撃する拠点。核兵器が持ち込まれるのは必然だった。勿論、「核の傘」ではなく「核の槍」だ。沖縄にアメリカの海兵隊が駐留しているのも必然。屁理屈をこねる必要はない。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​アメリカの先制核攻撃は1963年後半に実行されることになっていた​が、大きな障害が出現していた。ソ連との平和共存を訴えていたジョン・F・ケネディが大統領に選ばれたのだ。そのケネディは暗殺され、その責任をキューバやソ連に押しつけ、ソ連との戦争を始めようという動きがあったが、これは挫折した。(つづく)

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