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(回答先: 中近東の歴史と現代史 投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 28 日 13:10:05)
雑記帳
2021年10月31日
ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_31.html
ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大に関する研究(Wilkin et al., 2021)が公表されました。考古学と歴史学において、ユーラシア草原地帯の牧畜民は長く高い関心を集めてきました。前期青銅器時代に、ユーラシア西部草原地帯の複数集団がヨーロッパからモンゴルまでユーラシア北部の広範な地域へと拡大しました。考古学と遺伝学を組み合わせた証拠は、前期青銅器時代のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの広範な人口移動を裏づけます。
この人口移動により広大な距離にわたる遺伝子流動が生じ、スカンジナビア半島のヤムナヤ(Yamnaya)文化牧畜民と、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化として知られる、はるか東方のアルタイ山脈(関連記事1および関連記事2)およびモンゴル(関連記事)の牧畜民集団が結びつけられました。一部のモデルは、この拡大が、ウマによる牽引、荷車による大量輸送、食性の肉および乳への日常的な依存を特徴とする、新たに移動性となった牧畜経済の帰結であったことを示していますが、そうした経済的特徴を裏づける確かな証拠は得られていません。
本論文は、ユーラシア西部草原地帯で発見されたさまざまな個体に由来する歯石のプロテオーム(タンパク質の総体)解析を利用して、青銅器時代初頭の酪農に大規模な変化があったことを示します。酪農の至る所での急速な開始が、草原地帯集団の拡散の開始と知られている時点であることは、草原地帯での移動性をもたらした重要な原因に関する重大な手がかりとなります。また、馬乳タンパク質が見いだされたことで、前期青銅器時代までのウマの家畜化が示唆され、草原地帯の拡散でのウマの役割が裏づけられます。本論文の知見は、紀元前三千年紀までにポントス・カスピ海草原地帯がウマの家畜化の中心地であった可能性を示しており、動物の二次的な産物の新規利用が、前期青銅器時代までのユーラシア草原地帯牧畜民の拡大の重要な原動力であった、という見解を強く裏づけています。
ヤムナヤ文化の拡大はよく明らかになっていますが、その背後にある原動力は不明なままです。広く引用されている理論によると、ユーラシア全域での牧畜民の初期の拡大は、ウマの牽引と荷車による輸送の組み合わせにより可能となった、新たな移動牧畜経済により促進されました。肉と乳への一定の食性依存と相まって、草原地帯は牧畜民共同体による開拓と占有の対象となりました。しかし、このモデルは説得力があるものの、直接的な考古学もしくは生体分子データの裏づけが不充分なままです。銅器時代マイコープ(Maikop)文化と前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団による荷車輸送使用の考古学的証拠は、荷車と頭絡の形で存在しますが、このモデルの他の二つの重要な構成要素、つまり家畜化されたウマと反芻動物の酪農への依存は、考古学的には証明されていないままです。
ユーラシアのウマの家畜化は長く議論されており(関連記事)、最近の遺伝学的研究(関連記事)では、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化の銅器時代遺跡の初期のウマが、現在の家畜ウマ(Equus caballus)ではなくモウコノウマ(Equus ferus przewalskiiもしくはEquus przewalskii)と特定されました。ウマは草原地帯において前期青銅器時代に出現しますが、当時のウマに人々が騎乗していたのかどうか(関連記事)、あるいは牧畜の一部だったのか単に狩られていたのか、不明確なままです。ユーラシア東部草原地帯については証拠が蓄積されつつあり、ウマは紀元前1200年頃以前には騎乗もしくは搾乳に用いられておらず、初期牧畜民集団では一般的ではなかったかもしれない、と示唆されています。
西部草原地帯における初期の反芻動物の酪農も充分には論証されておらず、それはこの地域のヒトの安定同位体データが、乳製品消費を示唆してはいるものの、確証できていないからですか。古プロテオミクスは、個体の(乳生産よりもむしろ)乳製品消費を示し、分類学的解決を示せる唯一の方法で、これまでは草原地帯人口集団にほとんど適用されていませんでした。ヤムナヤ文化とアファナシェヴォ文化の人口集団全体で、酪農の証拠は東部草原地帯のわずか数個体でのみ利用可能で、これらの個体は西部草原地帯集団からの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を有しています。そのうち最初の個体は、分類学的に曖昧な反芻動物(ヒツジ属かウシ属)のペプチドの結果のみをもたらしました。
何が草原地帯全体でヤムナヤ文化の拡大を引き起こしたのか、という激しく議論されている問題に取り組むため、銅器時代から後期青銅器時代(紀元前4600〜紀元前1700年頃)にわたる草原地帯の56個体の歯石のプロテオーム解析が実行されました。銅器時代(紀元前4600〜紀元前3300年頃)の標本は5ヶ所の遺跡の19個体から構成されます。その内訳は、ムルジハ2(Murzikha 2)遺跡の6個体、フヴァリンスク(Khvalynsk)1および2遺跡の9個体、エカテリーノヴカ・ミス(Ekaterinovka Mys)遺跡の1個体、レビャジンカ5(Lebyazhinka 5)遺跡の1個体、フロプコヴ・ブゴール(Khlopkov Bugor)遺跡の2個体です(図1a)。
フヴァリンスク遺跡とヴォルガ菓舗およびコーカサス北部の他の銅器時時代遺跡の古代DNA分析結果(関連記事1および関連記事2)は、ヤムナヤ文化人口集団と遺伝的に類似しているものの、後に草原地帯に到達した追加の(アナトリア半島)農耕民祖先系統が欠けている、この地域全体の銅器時自体人口集団の存在を裏づけます。ポントス地域の銅器時代人口集団に適用された既知の安定同位体および考古学的研究は、漁撈と在地植物の採集と家畜化された動物の飼育に基づく経済を示します。初期の牧畜拡大の再構築におけるウマの重要性を考えて、ボタイ文化のよく知られた遺跡の2個体の歯石も調べられました。おもにウマ遺骸で占められる動物相と、紀元前3500年頃までのその遺跡におけるウマの搾乳を示唆する土器の脂質に関する初期の研究とともに、この遺跡はユーラシア草原地帯における初期のウマの搾乳と酪農に関する議論の中心となります。
本論文の青銅器時代の標本は、ヴォルガ・ウラル草原地帯の20ヶ所の遺跡の35個体に由来し、年代的に二分できます。一方は、ヤムナヤ文化の遊牧期となる前期青銅器時代(紀元前3300〜紀元前2500年頃)です。もう一方は中期〜後期青銅器時代の移行期(紀元前2500〜紀元前1700年頃)で、戦車(チャリオット)と要塞化された集落と新たな西方由来の影響を受けた遺伝的祖先系統が、シンタシュタ(Sintashta)文化とともに出現しました。
前期青銅器時代の墓地遺跡と個体数は以下の通りです。クラシコフスキー1(Krasikovskyi 1)遺跡が2個体、クラスノホルム3(Krasnokholm 3)遺跡が1個体、クリヴャンスキー9(Krivyanskiy 9)遺跡が2個体、クツールク1(Kutuluk 1)遺跡が2個体、レシュチェフスコエ1(Leshchevskoe 1)遺跡が1個体、ロパティノ1(Lopatino 1)遺跡が1個体、ムスタヤエヴォ5(Mustayevo 5)遺跡が2個体、ニズナヤ・パヴロフカ(Nizhnaya Pavlovka)遺跡が1個体、パニツコエ(Panitskoe)遺跡が1個体、ポドレスノエ(Podlesnoe)遺跡が1個体、ピャティレツカ(Pyatiletka)遺跡が1個体、ツルドヴォイ(Trudovoy)遺跡が1個体です(図1b)。
中期〜後期青銅器時代の移行期の墓地遺跡と個体数は以下の通りです。ボルシェカラガンスキー(Bolshekaraganskyi)遺跡が1個体、カリノフスキー1(Kalinovsky 1)遺跡が2個体、カメンニー・アンバー5(Kamennyi Ambar 5)遺跡が3個体、クラシコフスキーI(Krasikovskyi I)遺跡が1個体、クリヴャンスキー9遺跡が3個体、ロパティノ1および2遺跡が2個体、ポタポフカ1(Potapovka 1)遺跡が1個体、シュマェヴォ2(Shumayevo 2)遺跡が1個体、ウテフカ6(Utevka 6)遺跡が5個体です(図1c)。以下は本論文の図1です。
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考古学および安定同位体の知見(関連記事)から、前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団の食性は、動物の群れ、とくにウシとヒツジとヤギが中心だった、と示唆されています。ウマ遺骸も数ヶ所の遺跡で多数見られますが、前期青銅器時代のウマの地位は、家畜でも狩猟対象でも、不明なままです。中期〜後期青銅器時代の移行期には、より大規模なウマの利用と戦車使用への移行が、家畜への継続的な食性への集中の文脈の中で見られます。本論文で検証された56個体のヒトの歯石標本のうち、55標本で抽出に成功し、識別可能なタンパク質データが得られました。この55標本のうち48標本(87%)で、口腔内で一般的に見られるタンパク質の評価を通じて、保存の強い兆候がある、と判断されました。
本論文の最初期の標本(紀元前4600〜紀元前4000年頃)は、ロシア南西部に位置するか、ヴォルガ川およびその支流に近い5ヶ所の銅器時代遺跡に由来します(図1aおよび図2a)。これら19標本のうち、11標本では抽出に成功して保存状態が良好で、10標本は乳製品消費の証拠を示しません。1個体の歯石には、乳食品タンパク質であるウシ(ウシとスイギュウとbison)のα-S1カゼインに特有の2つのペプチドが含まれていました。しかし、この標本に含まれ唯一の食性ペプチドはカゼインに特異的で、最も一般的に回収される乳タンパク質であるβ-ラクトグロブリン(BLG)の証拠が欠けていたので、この個体における乳製品消費の証拠は確実ではありませんでした。
一般的に、カゼインペプチドはBLGよりも保存性が低いようなので、それ自身だけよりも他の乳タンパク質ペプチドとともに同定されることが最も多くなります(関連記事)。さらに、2つの特定されたカゼインペプチド内では、アミノ酸の脱アミノ化は1ヶ所しかなく、これらのペプチドの古さの推定はひじょうに困難です。以前の研究では、乳タンパク質におけるアミノ酸の脱アミノ化のきょくたんな変動が実証されており、この1個体で発見されたペプチドの信憑性の確認能力を制約します。ボタイ文化の追加の2個体の歯石は充分な保存状態を示しましたが、乳製品消費の証拠が欠けていました。
前期青銅器時代個体群(ヤムナヤ文化開始期)では、乳ペプチドが分析された16個体のうち15個体で回収されました(図1bおよび図2b)。この15個体全てで、BLGを含む反芻動物の乳タンパク質と合致する複数のペプチドが含まれ、一部の個体はα-S1カゼインかα-S2カゼイン、もしくは両方も含んでいました。乳ペプチドの多くは、偶蹄類(ウシ、ヒツジ、ヤギ、スイギュウ、ヤク、トナカイ、シカ、カモシカ)の下目である真反芻類など、より高次の分類群にのみ特異的ですが、他のものは、科か属か種を含む、より特異的な分類が可能です。
前期青銅器時代個体群では、ヒツジ属やヤギ属やウシ属のものが見つかり、多くの標本にはいくつかの種の乳ペプチドが含まれていました。とくに、クリヴャンスキー9の南西部の遺跡(紀元前3305〜紀元前2633年頃)からは、前期青銅器時代17個体のうち2個体で、BLGIタンパク質のウマ特有の乳ペプチドが特定されました。ウマ属はウマやロバやチベットノロバを含みますが、ウマ種(Equus caballus、Equus przewalskii、Equus hemionus、Equus ferus)のこが前期青銅器時代草原地帯では考古学的に証明されており、ウマとの特定を裏づけます。
中期〜後期青銅器時代の移行期では、19個体のうち15個体で歯石標本な反芻動物の乳を消費した証拠が認められました(図1cおよび図2c)。前期青銅器時代と同様に、BLGとα-S1カゼインとα-S2カゼインと乳清タンパク質のα-ラクトアルブミンが同定されました。分類学的識別は、真反芻類下目から属水準(ヒツジ属とウシ属を含みます)までの範囲でしたが、ヤギ属もしくはウマ属に特有の識別はありませんでした。以下は本論文の図2です。
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全体的に本論文の結果は、ポントス・カスピ海草原における銅器時代と前期青銅器時代との間における、乳消費パターンの明確で顕著な変改を示します。本論文の分析対象とされた銅器時代の個体の大半(11個体のうち10個体)では、乳消費の証拠が欠けていますが、前期青銅器時代のほとんど(16個体のうち15個体)は、歯石に乳製品消費の充分なプロテオミクスの証拠を含んでいます。銅器時代のフヴァリンスク遺跡の1個体は、ウシの乳消費のやや曖昧な証拠を示し、小規模な父の使用を示唆しているかもしれませんが、この個体の識別の信頼性には疑問があります。
本論文の調査結果から、ポントス・カスピ海草原における定期的な乳製品消費が銅器時代から前期青銅器時代の移行期に限られる、と示唆されます。ヨーロッパにおける近隣の銅器時代農耕集団は酪農を行なっていたようですが、草原地帯の辺境全域に居住している人々は搾乳慣行を採用しておらず、文化的境界の存在を示唆します。プロテオミクスデータは、ウクライナでの脂質分析とほぼ一致しています。プロテオミクスデータは、銅器時代から青銅器時代のサマラ(Samara)の個体群の同位体分析とも一致しており、サマラの個体群はこれに対応して、魚やシカや他の河川森林資源への強い依存から、陸生および草原(C3およびC4)の動物製品により大きく依存する変化を示します。
プロテオミクスデータの重要な利点の一つは、場合にゆっては種特有のタンパク質同定を提供できることです。本論文はヒツジとヤギとウシの青銅器時代の搾乳の証拠を提示しており、これらの動物の放牧の証拠と一致します。ポントス・カスピ海草原の青草の多い河川流域は、乾燥に適応したヒツジやヤギの混合群とともに、より多く水に依存するウシに充分な飼料と水分補給を提供しました。最近の研究では、成人でも乳糖分解酵素の生産を可能とするアレル(対立遺伝子)の存在の結果である乳糖分解酵素活性持続が、前期青銅器時代の草原地帯人口集団では稀だった、と示していますが(関連記事)、本論文では、西部草原地帯共同体は、定期的に乳製品を消費しており、それには新鮮な乳および/もしくは他の加工製品(ヨーグルトやチーズや発酵乳飲料など)が含まれていたかもしれない、と明らかになりました。
曖昧ではあるものの、脂質分析により初期のウマの搾乳が示唆された、ボタイ文化の銅器時代遺跡から東方までの個体の歯石分析では、乳タンパク質は得られませんでした。2点の標本は幅広い結論を引き出すには不充分ですが、この調査結果は遺跡での広範な乳消費を裏づけません。しかし、ポントス・カスピ海地域の前期青銅器時代個体群の歯石標本2点では、ウマの乳消費の証拠が得られました。ボタイ文化のウマは現在の家畜ウマ系統(DOM2)とは異なっていた、と推測した考古遺伝学的証拠(関連記事)と組み合わせると、本論文の調査結果は、さらなる標本抽出と分析により裏づけられるならば、ユーラシア西部草原地帯において持続的な初期のウマの家畜化の焦点を、ポントス・カスピ海地域へと確実に移行させることになるでしょう。
現時点では、DOM2系統を有する最古のウマ標本は紀元前2074〜紀元前1625年頃で、現在のロシアとルーマニアとジョージア(グルジア)で証明されています。本論文における草原地帯もしくは他地域での最初のウマの乳のタンパク質の同定は、前期青銅器時代までに西部草原地帯において家畜ウマが存在したことを明らかにしており、ウマにより牽引される戦車(チャリオット)の最初の証拠が紀元前2000年頃に出現するこの地域は、紀元前四千年紀後期もしくは紀元前三千年紀にDOM2系統の家畜化の最初の震源だったかもしれない、と示唆されます。
全体的に本論文の調査結果は、前期青銅器時代までにユーラシア草原地帯において二次産品革命が起きた、という考えを強く支持します。人骨の安定同位体やプロテオミクスにより示唆される生計のこの変化は、銅器時代の川沿い集落遺跡の広範な放棄、川の谷間の以前には未開拓だった乾燥した大地におけるクルガン(墳丘)墓地の出現ヤムナヤ文化の墓に車輪付き乗り物とたまにウマの骨が含まれていたことを伴っていました。同時に草原地帯のヤムナヤ文化集団は、ヨーロッパへと西進し、アルタイ山脈へと東進しており、その範囲は6000kmに及びます。本論文のデータに基づいて騎乗や牽引の問題への直接的洞察を提供できませんが、搾乳されたウマの証拠は確実に、ウマの家畜化の可能性を高め、ヤムナヤ文化集団の拡大にウマが役割を果たした、と示唆します。
動物の牽引と酪農とウマの家畜化の三要素は、ポントス・カスピ海草原の経済の変革と、前期青銅器時代までにヒトの居住地により広範な草原地帯を開放するのに役立ったようです。これらの要素の一部もしくは全てさえ青銅器時代の前に存在していたならば、多くの集団間で集中的かつ持続的に利用されるようになったのは、この後期の時代になってからです。他の要因も重要だったことは間違いないでしょうが、より高い移動性と、寒冷で乾燥した草原地帯での生存に適応した牧畜社会(ウマが他の動物に雪で覆われた牧草地を開いたかもしれず、乳がタンパク質と栄養と水分の持続的な供給源となりました)の出現は、ヤムナヤ文化集団など青銅器時代牧畜民の拡大に疑いなく重要でした。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文で言及されていたウマの家畜化について最近の研究では、DOM2系統の起源地はヴォルガ川とドン川の下流域だった可能性が高く、ウマが草原地帯関連祖先系統を有する集団のヨーロッパへの最初の拡大を促進した証拠はない、と指摘されています(関連記事)。ペスト(関連記事)などにより後期新石器時代のヨーロッパで人口が減少し、草原地帯牧畜民の西方への拡大の機会が開かれたのではないか、というわけです。草原地帯牧畜民の西方への拡大は、ヨーロッパ現代人の遺伝的形成に重要な役割を果たしたと考えられており、関心の高い問題なので、すでにかなり解明されているものの、今後も研究の進展が期待されます。
参考文献:
Wilkin S. et al.(2021): Dairying enabled Early Bronze Age Yamnaya steppe expansions. Nature, 598, 7882, 629–633.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03798-4
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_31.html
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