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昔は夫婦別姓だったのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/976.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 27 日 11:22:05: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 世界中どこでも、結婚というのは「親が決める」のが普通だった 投稿者 中川隆 日時 2020 年 5 月 05 日 07:16:47)

昔は夫婦別姓だったのか?
2007年06月04日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/349674c368ca73f27a683cf57b526b5a

 近年、夫婦別姓問題が巷をにぎわせているが、NHKがこの問題を特集した折、著名な日本史の大学教授が、昔は夫婦別姓だったと断言していた。その証拠として 北条政子と日野富子の例をあげていた。私は愕然とした。この二人は、「北条政子」「日野富子」という歴史用語であって、「北条政子」「日野富子」という人格があったわけではない。無論、そのように署名された文献資料があるわけがない。ただ、京の朝廷では女性に官位を与える時、実家の姓を使っている。「政子」「富子」では誰のことか分からないからである。苗字がどうしても必要な場合、実家の姓を使うということにすぎない。

 北条政子は北条時政の女(娘)「政子」であり、結婚後は源頼朝の妻「政子」なのである。また日野富子は権中納言・日野家の女であり、足利八代将軍・義政の御台所「富子」なのである。忠臣蔵の大石内蔵助の妻は「りく」と言うが、歴史用語としては普通「大石りく」と呼ばれている。昔は夫婦別姓ならば「石束りく」でなければおかしい。(「りく」は但馬豊岡藩の家老・石束家より赤穂藩の家老・大石家に嫁にきた )
 
 ごく最近、関西地方のある歴史博物館で「細川ガラシャ展」というのがあった。これも先の大学教授に言わせると、昔は夫婦別姓だったので「細川ガラシャ」は間違いで、正しくは「明智ガラシャ展」にしなければならない。(洗礼名ガラシャ、本名「たま」は明智光秀の娘で、細川忠興の妻となった)。
 夫婦別姓・同姓どちらがいいかはさておいて、学問的には正しい知識を国民に知らせるべきであると思う。明治以前、日本の女が「姓・名」を名乗ることは基本的になかった。例外的に実家の姓を使った表記はある。昔から、「家名を汚すな」という言葉があるように、元々、苗字(姓)とは家に付くものである。「女、三界に家(姓)なし」であったのは歴史的事実なのであるから。

 <追記>
 中国や朝鮮は昔から夫婦別姓である(朝鮮は中国をそっくり真似た)。このニ国では昔から男女同権で、女性の人権が保障されていたからなのか・・。 とんでもない、日本では昔から妻は婚家の一員と見なされてきたが、中国や朝鮮では婚家の一員、つまり、夫の一族とは見なされなかったからである。つまり、「腹は借りもの」であったのである。日本では、大河ドラマ「篤姫」を見ても分かるように、篤姫も和宮も婚家、徳川家の一員との意識を持っていた。戦国時代、夫、武田勝頼に殉じて、天目山で自害した妻は、北条氏康の娘であった。なにも死ななくても、織田信長は丁重に小田原に送り届けたであろう。この一件からも分かるように、日本では妻は婚家の一員との意識を強く持っていたことが分かる。このような事例は中国や朝鮮ではほとんど聞かない。日本の歴史的文化の一つと言える。

 最近、この私の説を補強する古い資料が見付かった。1998年(平成10年)9月19日付の朝日新聞の記事に ー震災復興に「ねね」尽力 ー との見出しで、京都の東寺の仏像(大日如来)の修復の過程で頭部から木札銘が見付かり、それには

         大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女

 とあり、年号は慶長3年(1598年)であった。この年の8月に秀吉は死んでおり、月日が無いので秀吉の死の前か後かは不明であるが、この2年前に起きた慶長大地震で東寺も相当の被害を受けたようである。その修復に北政所がかなりの寄付をしたことがうかがえる。この銘文で興味あるのは北政所が夫の姓(豊臣氏)を称していることである。つまり、「豊臣氏の女」であると。もし本当に夫婦別姓であれば、「杉原氏女」か「浅野氏女」としたはずである。(北政所は生まれは杉原氏であるが、浅野家の養女となった)。また、この木札に「豊臣氏禰々(ねね)」と書いてあったら、北政所の本名論争など起きなかったのに、やはり天下人・秀吉の正室であっても当時のしきたりに従ったのであろう。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/349674c368ca73f27a683cf57b526b5a  

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コメント
1. 2020年7月30日 05:05:34 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[1] 報告
昔は夫婦別姓だったのか ? 最終章  − 蔓延する常識の噓 (俗説) ー
2020年03月07日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b2fbad42247ac2b906f05b02692dc561

 先日、「選択的夫婦別姓」を推進するため、超党派国会議員の会合があったことが夜のニュースで報道された。翌日の新聞各紙も大きく取り上げていた。その時、ある全国紙がその記事に合わせて、大学教授の一文を載せていた。そこには驚きの内容が書かれていた。要約すると、「日本では古代から江戸時代まで夫婦別姓もしくは夫婦別氏であった。明治新政府が近代的民法導入のため、フランスから法学者・ボアソナードを招聘して民法作成に取り掛かり、最終的に君主制のあるドイツ民法も取り入れて、明治憲法下における新民法が成立した。そこで、夫婦同姓(原則的に妻は夫の姓を名乗る)が決められ、明治31年に正式に公布された。日本の夫婦同姓は明治政府の欧化政策によって生まれたものだ・・」とのこと。つまり、西洋を真似た結果だとの論旨であった。この説は一般的に流布しているもので、日本史学者、とりわけ古代の戸籍制度を研究している学者の説もだいたい同じようなものである。まさに、驚天動地、最後に今一度述べておく。

 ー 日本では古代から現代まで中国式の夫婦別姓であったことは唯の一度もない ー

 古代の倭国では中国文化の影響を受けて氏族名が「姓」となって行った。大伴旅人の異母妹であり、大伴安麻呂の娘、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)も「の」を入れて読み、男女共に自分の属する氏族を表わしていた。つまり、女姓も生涯、自分の生まれた氏(うじ)に属した。他氏族の男と結婚しても「大伴氏の女」であることに変わりなかったのである。平安時代中期に書かれた『更級日記』(さらしなにっき )の作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)であるが、本名は伝わっていない。この女性も橘氏と結婚して子供もいるが生涯、菅原氏の女であった。同様に、王朝時代の多くの才媛たち、紫式部、清少納言、和泉式部なども本名は分かっていない。誰それの娘とか妻であるとは諸史料にあるが・・。一方、中国では有名な楊貴妃(「貴妃」は尊号」)でさえ「楊王環」という本名が伝わっている。生涯、「楊王環」を名乗っていたからである。ここにも、日本と中国の大きな違いがある。

 この日本の歴史的伝統、慣習が武家社会になっても存続していたと見るのが正しいであろう。他家に嫁に行っても生涯、実家の姓で呼ばれてきたのである。しかし、意識は婚家の一員であった。これらの事実を夫婦別姓と呼ぶことには大きな問題がある。誰でも、夫婦別姓と聞くと中国のそれをイメージするからである。ただし、古代は夫婦別氏であったとの表現は正しい。男女共に生涯、自分の生まれた「氏(うじ)」(氏族)に属したのであるから。この慣習は江戸時代の公家社会まで生きていた。(なお、武家社会の足利氏や豊臣氏の「氏」は「家」の意味である)。

 たしかに、婦人が実家の姓を使って「姓・名」を表記した資料は存在する。ところが、逆に夫の姓を用いて「姓・名」を表記した事例もまた有ることがすでに研究者によって報告されている。その理由を「前近代には夫婦の苗字に関する法的規制は存在せず、妻が実家、婚家どちらの苗字を名乗るかは、慣行や帰属意識にゆだねられていた・・・」とある (大藤修著『日本人の姓・苗字・名前』吉川弘文館)。 

がしかし、ごくわずかの文献資料でもって、日本の女性が昔から中国のように「姓・名」で自分を名乗っていたと考えるのは早計である。日本の女性が全員、「姓・名」を名乗るようになったのは明治8年の「平民苗字必称令」の布告からである。その時、実家、婚家どちらの姓を名乗るかで日本全国で混乱が起きたことはすでに書いた。(当時の日本が本当に中国式の夫婦別姓だったら、何の混乱も起きなかったはずである。政府の指示は、妻は実家の姓を名乗れとのことだったのだから・・)。つまるところ、日本は夫婦別姓・同姓どちらとも言えない曖昧な国だったとしか言いようがない。(北政所が東寺に納めた木札に「豊臣氏女」と書いていることは象徴的)

 ー日本史学者の言う夫婦別姓と中国の夫婦別姓とは根本的に違う ー

 蒋介石の妻の名前は「宋美齢」である。娘時代は宗家の娘、「宋美齢」である。結婚しても、蒋家の嫁、「宋美齢」である。夫の死後もやはり宋家の女、「宋美齢」である。これが本当の夫婦別姓である。では、日本の場合はどうか。大石内蔵助の妻、「りく」の娘時代は石束家の娘、「石束りく」か? 結婚して、大石家の嫁、「石束りく」か? 夫の死後も石束家の女、「石束りく」か? 「りく」は「石束りく」とも「大石りく」とも名乗ったことはただの一度もない。この両者の違いを日本史の研究者は正しく認識しているとは思えない。

 この二人の女性の人生で根本的に違うのは、「りく」は結婚そして離縁後も、「大石家の女」としてその責任をまっとうしたことである。「りく」は離縁後、二人の子供を連れて但馬豊岡・石束家に戻った。男児は幕府からお咎めを受け遠島に処されたが、ほどなく赦免され豊岡に戻った。女児は他家に嫁にやったが、男の子供は実父の尽力や藩主の口添えもあったのであろう、浅野家本藩・広島藩に召し抱えられた。「りく」はその子と一緒に広島に行き、そこで生涯を終えた。大石家の再興に執念を燃やし、最後まで「大石家の女」として生きた人生であった。

 <追記>

「選択的夫婦別姓」を推進するため集まった与野党議員の先生方は、本当に日本史学者の言う、「昔の日本は夫婦別姓であった」との主張の矛盾を理解した上で、夫婦別姓に賛同しているのだろうか。はなはだ心もとない。そのとき新聞に一文を寄せた大学教授同様、日本も中国や朝鮮と同じように、古代から江戸時代まで夫婦別姓であったのに、明治31年、ときの政府によって、それまで名乗っていた実家の姓を取り上げられたと思っているのではないのか・・。

 また、「姓」と「名(苗)字」は違うとの通説があるが、それは歴史的由来から来ているものであり、日本で最初に中国風の姓を持ったのは氏族集団、つまり貴族階級であった。だからこそ、「大伴の旅人」と「の」を入れて読むのであり、「大伴氏の旅人」の意味である。「名字」は平安末の荘園制の崩壊から土地が私有されるようになり、その土地に「名」を付けて自分の物とした。そこから「名字」を持つ武士が生まれた。「姓」(貴族・官人)と「名字」(農民・武士)は格が違うのである。その後、両者の区別はなくなった。

 余談であるが、ドイツも貴族階級は戦前まで氏名の間に von (英語の of ・・の)を付けていた。東プロイセン(現在はポーランド領)にあった総統大本営爆破事件に失敗し銃殺された クラウス ・ フォン ・ シュタウフェンベルグ は地主貴族(ユンカー)出身であった。つまり、シュタウフェンベルグ家 の クラウス の意味である。他にも、フォン ・ モルトケ将軍 やフォン ・ ヒンデンブルグ元帥などが有名である。日本でも阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と「の」を入れて読むことで貴族意識を持っていたのであろう。全くの偶然とはいえ人間の考えることはよく似ているものである。 

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b2fbad42247ac2b906f05b02692dc561

2. 2020年7月30日 06:15:15 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[4] 報告

昔は夫婦別姓だったのか? 再論 −学者の無知と誤解 ー
2009年12月18日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b399bbeb1cfeb9fb125923347520a3a7?fm=entry_awp

「昔は夫婦別姓だった」というのが日本史の通説となっている。NHKの番組でそれを話した日本史学者・今谷明氏だけの説かと思っていたが、日本人の姓に関する本を調べてみると、なんとそれが定説のように書かれていた。まさに驚天動地、一体全体、どうしてこのような誤った説が定着しているのか。そうして、その根拠は判で押したように北条政子と日野富子があげられている。前回、私が述べたように、なぜ「細川ガラシャ」の名称が権威ある日本史の本で使われているのか。「明智ガラシャ」が正しいはずである。
 また、大石内蔵助の妻は「大石りく」と呼ばれている。「りく」の故郷、兵庫県豊岡市の観光案内には「大石りく」と出ている。なぜ、日本史の学者は、それは間違いで「石束りく」と訂正させないのか。(「りく」は内蔵助と離縁後、幼い子供を連れて実家の但馬豊岡藩家老・石束家に戻っている)。なぜ、このような相反する事例が存在するのか。その原因を再考してみる。

(1)夫婦別姓の定義が曖昧
 我々は普通、「夫婦別姓」と聞くと、中国や朝鮮のそれを思い浮かべる。中華民国総統、蒋介石の妻の名前は宋美齢である。彼女の親が「美齢」と名付けた瞬間から死ぬまで「宋美齢」である。けっして「蒋美齢」とは名乗らない。これが正式の夫婦別姓である。 では、日本史の通説のように、昔は日本も夫婦別姓だったと言うなら、秀吉の正室・北政所は生涯「浅野ねね」とか「杉原ねね」を名乗っていたのだろうか。(北政所の生家は杉原氏であるが浅野家の養女となった)。同じく、側室淀殿は生涯「浅井茶々」を称していたのだろうか。(両親は浅井長政とお市の方)。無論、そのような文献史料はない。
 
 北条政子と日野富子も同様、そのように書かれた史料はない。単なる歴史用語である。ただ、北条政子の場合は「平 政子」と署名した願文があるらしい。がしかし、「政子」の実家の姓は「北条」であり「平」ではない。伊豆・北条氏の遠祖が平氏であることから、姓の代わりに使ったにすぎない。ただ「政子」だけでは誰のことか分からないので。
 
 日本では通例、女性はその実家の姓で呼ばれてきたのである。例えば、三条夫人(武田信玄の正室、京三条家から来た)、大井夫人(武田信虎の正室、信玄の母、国人大井氏出身)、京極殿(秀吉の側室、北近江守護京極家の出)。また、系図にも「母〇〇氏」などのように実家の姓が書かれている場合がある。稀な例であるが、江戸時代の夫婦墓には、妻の実家の姓と名を刻んだものもある。また、同じく婦人の墓の側面に俗名として、実家の姓と名が刻まれた例が報告されている。
 上記のことから、昔は夫婦別姓だったとの誤解が生まれたのであろう。しかし、これらは中国の「宋美齢」とは根本的に違う。夫婦同姓でない以上、本人の意思で、実家の姓を表記する事例が少なからず散見されるに留めるべきである。

(2)夫婦同姓の由来
 現代日本の夫婦同姓はいつから始まったのか。意外と新しく明治31年施行の民法からである。調べてみると、この制度が決まるまで紆余曲折があったことが研究者によって明らかにされている。
 明治8年2月、明治新政府は「平民苗字必称令」を布告した。つまり、すべての日本国民は苗字(姓)を称すること、との布告である。しかるに、その3ヵ月後には石川県から、「婦人はその生家(実家)の姓を称するべきか、それとも夫の姓を称するべきか」の伺いが内務省に出されている。当時の日本国内で、姓をどちらにすべきか相当の混乱があったようである。これに対する太政官の回答はなんと、婦女は結婚してもなお元の実家の姓を称すべきとのものだった。この回答が後世の研究者を誤解させる根本原因となったと思われる。
 
 つまり、日本は夫婦別姓だったから、従来どおりにしなさいという意味に解釈したのである。それは違う。その証拠に明治30年頃まで全国各地から、「嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方ノ一般ノ慣行」(宮城県の伺い)、つまり、宮城県では一般的に妻は夫の姓を名乗ると言っているのである。また、お膝元の東京府からも、「嫁した婦人が生家の氏(姓)を称するのは極めて少数」とまで言っているのである。つまり、明治初期には日本は夫婦同姓であったのである。
 
 このことは何を意味しているのか。武家の婦人はその出自を表すため、実家の姓で呼ばれてきたし、そのように書かれた史料も多く存在する。大多数の農民はどうか、一般的に農民には苗字(姓)がなかったとされているが、それは常識の嘘で、戦国時代は地侍として姓はあったし、そのまま江戸時代は庄屋や中小の自作農として姓は持っていた。ただ、幕府の政策として公称することが禁じられていたにすぎない。今に残る江戸時代の村の神社・寺院の寄進帳には、ほぼ全員、堂々と「姓・名」で署名・寄進している。現在の学校の歴史教育はそのことを教えていない。私自身、武士と苗字帯刀を許された一部の者だけが姓を持っていたと誤解していた。
 
 これら農民階級も婦人の姓に対しては武士と同様の意識を持っていたと思われる。つまり、日本では夫婦同姓ではないし、といって中国式の夫婦別姓でもなかった。つまり、女性は基本的に姓を名乗ることがなく、きわめて曖昧な状態であったというのがことの真相であろう。
 そのため、明治新政府が全国民に姓を持つように布告したとき、子供は父親の姓をそのまま使えるが、すでに夫婦である者とか、その後、他家に嫁したとき姓をどうするかについて社会的混乱が起きたのであろう。では、明治新政府はどのような決定をしたのか・・。

(3)夫婦同姓の決定
 明治31年、公布された民法で妻は夫の氏(姓)を称することが決められた。この明治民法は家を中心に考えられ、すべての家族はその家の苗字(姓)を名乗ることが法的に義務化されたのである。いわゆる、家制度の確立である。
この決定まで紆余曲折があったことが分かっている。なぜか、それは明治新政府が当初、武家の慣習を踏襲して、妻は実家の姓で呼ばれてきた事実のみを念頭に置いて、妻は実家の姓を名乗るように通達を出したことによる。
 
 しかし、日本の女性は中国のように「姓・名」で自身を名乗ることはほとんど無かったゆえ、「浅井茶々」も「石束りく」も、無論「北条政子」もそのような人格は存在しなかった。あるのは「伊豆北条家の女、政子」であり、「大石家の奥方、りく」であったのである。つまり「女、三界に家(姓)なし」であった。そこに、明治政府に対する反発が起きた理由がある。(苗字とか姓とは家名でもあったのである。)
 
 お上から、苗字(姓)を新たに名乗るようにと指示が出されたとき、ほとんどの日本の女性は夫の姓を名乗ることに何の抵抗もなかったであろう。むしろそれはごく当たり前のことだと思ったであろう。だからこそ混乱が起きたと考えられる。私は明治31年の民法は決して欧米を真似た結果だとは思わない。むしろ自然の成り行きであったと考えている。
 大石内蔵助の妻「りく」も、もし幕府から武家の女性も「姓・名」を名乗れと指示されたら、迷わず「大石りく」と名乗ったであろう。自分は「石束りく」などと称したことは唯の一度も無かったのであるから・・・。

 <追記>
 日本では昔は夫婦別姓であったとの通説は完全な誤りとは言えないまでも、一般大衆に大きな誤解を与えるものである。夫婦同姓の対極に夫婦別姓(中国式の)があるのではないという基本的な認識が日本史学者に欠けているとしか思えない。
 たしかに、実家の姓を表記した資料は存在する。それは例外的なもので、基本的に女性が苗字(姓)を名乗ることはほとんどなかった。苗字は家に付くものであり、女性はその家の娘であり妻であった。「女、三界に家なし」とはまさに言い得て妙である。昔の人は真実をついていた。今に残る江戸時代の系図には、女性は名前さえ書かれず、「女」とのみあることは誰でも知っている事実である。
 

ただ、日本の女性が婚家の一員であるとの意識を強く持っていたのも紛れもない事実である。戦国時代にも夫に殉ずる悲劇の女性は数多い(武田勝頼の妻など、このような例は中国や朝鮮にはまず見かけない)。また、農民や商家の妻も、夫に先立たれたとき、その家業を一人で切り盛りして家を守る男勝りの女性は江戸時代にはいくらでもいた。実家より婚家こそ自分の居場所であったのである。
 

 幕末の篤姫や和宮などの超エリート女性も徳川家の人との意識は強かった。和宮(静寛院宮)にいたっては、徳川慶喜の助命嘆願の手紙を京の朝廷に送ったとき、「徳川家を朝敵として討つなら、自分も徳川と共に滅ぶ覚悟」とまで書いている。これには京の新政府もまいったようである。江戸無血開城の真の功労者は勝海舟ではなく和宮であったのが歴史の真実であろう。

 このように日本女性が婚家の一員であるとの意識を強く持っていたことが、明治新政府の初期の方針に反発し、夫婦同姓を認めさせた要因であろう。しかし、現代ではこの意識も過去の遺物になってしまった。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b399bbeb1cfeb9fb125923347520a3a7?fm=entry_awp

3. 2023年9月07日 14:54:55 : fP67uDhkSs : a2xQdkhEcmhGLjI=[9] 報告
・「失われた細川内閣以降」から脱却を
http://botsubo.publog.jp/
> 選択的夫婦別姓賛成派の活動方針が下手すぎる
> 私自身、選択的夫婦別姓には賛成ですが、他の賛成派の活動方針が下手すぎると思います。
>
> 多くの人は、子の姓を任意で選べるB案を推進している様ですが、それでは、国民や政治家の理解を得られません。(立憲民主党が提出している法案は戸籍法改正が無いので、別姓を選ぶと戸籍から抹消されることになります。※)
>
> ここは、子供の姓を統一するA案を推進しましょう。それでも厳しければ通称法案であるC案でも構いません。(稲田朋美議員が提案している「婚前氏続称制度」は成立の可能性が高いと思います。)
>
> 勿論、家名の存続を目的としてはいけません。A案&C案では出来ません。と言うより、家名の存続と言う概念が選択的夫婦別姓を「してはいけないこと」と考えてしまう傾向があると思います。
>
> ※ https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/g20805053.htm

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