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軍部の検閲より怖かった「戦前のツイ民」投書階級の猛威
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 6 月 20 日 04:45:52: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 13:16:21)

軍部の検閲より怖かった「戦前のツイ民」投書階級の猛威
井上 寿一 2020/06/19


新型コロナウイルスへの対応で「自粛」という言葉をよく聞くようになった。これは昭和の戦間期に似ている。最新の昭和史研究によると、娯楽統制の主体は検閲当局というよりも民意だった。メディアはそうした民意を恐れ、自粛を求め、戦争を煽るようになっていった――。

※本稿は、井上寿一『論点別 昭和史』(講談社現代新書)の一部を抜粋、見出しなど再編集したものです。


メディアは被害者か加害者か?

新聞やラジオなどのメディアが戦前昭和の政治社会に及ぼした影響は、評価が二分されている。一方ではメディアは国家権力によって弾圧された被害者であり、他方では戦争を煽った加害者である。ほんとうはどちらが正しかったのか。

被害者としてのメディアの代表的な事例を挙げる。1933(昭和8)年8月の『信濃毎日新聞』の論説記事である。この年の8月9日に関東防空大演習がおこなわれる。2日後、主筆の桐生悠(きりゅうゆう)が「関東防空大演習を嗤う」と題する軍部批判の記事を書く。「かかる架空的な演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである〔……〕敵機を関東の空に、帝都の空に迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」。

激怒した軍部は、在郷軍人組織を動員して桐生らの退社と謝罪を要求する。不買運動も展開される。2カ月後、桐生は退社させられる。

今日においてもっともよく読まれている昭和史の本の一つ、半藤一利『昭和史 1926‐1945』は、桐生の先見の明を高く評価する。「日本の上空に敵機が来て爆弾を落とすようなことになれば、日本は勝てるはずないじゃないかというのは、非常に妥当な意見だと思わざるを得ません」。なぜならば事実、そうなったからである。

同時に同書はつぎのようにも指摘する。「ここで大事なことをひとつ付け加えますと、すでに厳しくされていた新聞紙法に加えて、昭和8年秋、9月5日に出版法が改正されたのです。〔……〕実はたいへんな『改悪』で、これ以降、当局が新聞雑誌ラジオなどをしっかり統制できるようになり、それは次第に強められていきます」。このとおりだとすれば、「関東防空大演習を嗤う」事件をきっかけとして、国家権力による言論統制が強化されたことになる。

満州事変で180度転換したメディアの論調
他方で戦争を煽った加害者としてのメディアの責任を指摘する研究は、満州事変の勃発を重視する。満州事変をきっかけとして、メディアの論調は180度の転換を遂げる。

たとえば『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』は満州事変支持のキャンペーンを展開する。新聞社による慰問金募集の社告や号外・ニュース映画・展示会・慰問使派遣・特派員戦況報告講演会などがおこなわれる。戦争報道に関する古典的な研究の江口圭一『十五年戦争の開幕』(小学館、1982年)は、「これをも言論抑圧のやむをえない結果と称するとすれば、それは詭弁というものであろう」と批判している。

最近の著作も同様である。たとえば筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』は一つの章を「満洲事変とマスメディアの変貌」に充てて、新聞論調の「大旋回」を跡づけている。

新聞各紙は速報合戦をくりひろげる。満州事変速報は新聞の部数を伸ばす。満州事変前後で朝日新聞は約27パーセント部数が増えている(筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』)。

ラジオという新しいメディア
新聞のライバルは同業他社だけでなかった。新聞が号外を連発して速報に努めたのに対して、ラジオもライバルだったからである。

満州事変はラジオの速報機能を際立たせる。柳条湖事件の翌朝、1931(昭和6)年9月19日午前6時30分、ラジオ体操の時間に飛び込んできたのは、満州事変の勃発を速報する臨時ニュースだった。1925年に3500世帯の受信契約数から始まった民間ラジオ放送は、満州事変勃発の翌年には受信契約数が100万を超え、1935年には200万台に至る。同年の全国普及率15.5パーセント(東京は47.8パーセント)に隣家からの「もらい聞き」などを含めれば、ラジオ放送の急速な普及状況がわかる(佐藤卓己『現代メディア史 新版』)。

ラジオが満州事変熱を煽ったことはまちがいない。日本放送協会の当時の番組編成基本方針は言う。「ラジオの全機能を動員して、生命線満蒙の認識を徹底させ、外には正義に立つ日本の国策を明示し、内には国民の覚悟と奮起とを促して、世論の方向を指示するに努める」(江口、前掲書)。ここでは「満蒙」権益擁護の観点から満州事変の拡大が正当化されている。

二・二六事件で「主役」になったラジオ
新聞とラジオの報道合戦は新聞が優位に展開していた。その立場が逆転する直接のきっかけとなったのは、1936(昭和11)年の二・二六事件だった。それまでラジオのニュース報道は、通信社と新聞社が提供する内容をラジオ向きに取捨選択、編集したものにすぎなかった。そこへ二・二六事件が起きる。ラジオ局の担当者は警視庁や陸軍省に飛んで直接、取材を始める(丸山鐡雄『ラジオの昭和』)。速報性に優るラジオが報道内容も独自性を持つということになれば、新聞とラジオの報道合戦の勝者は自ずと明らかだった。

事件を知ったラジオ局内は混乱する。娯楽番組の扱いをめぐって意見が対立する。非常時だから遠慮すべきとの考えがあれば、娯楽番組を放送しないとかえって国民に動揺と不安を抱かせるとの自粛への反対論もあった(同書)。

結局のところ翌日午前の通常放送はすべて中止となり、午前8時半すぎにアナウンサーが戒厳司令官布告の「兵に告ぐ」を読み上げた。事件は収束に向かう。陸軍大臣が事件の鎮圧の声明を発表したのもラジオだった。

ラジオで人気者になった近衛首相
軍部はラジオを事件鎮圧の手段として利用した。そうだからといって、軍部によるラジオの政治利用を非難することには躊躇を覚える。当時の日本は、世界恐慌からの脱却に成功して、明るい日常生活と消費文化が花開いていた。経済的な豊かさと社会の安定を享受していた国民は、事件の鎮圧を求めていたはずだからである。

喜劇役者の古川(ふるかわ)ロッパは、29日のラジオのニュースで、午後二時頃には事件が鎮圧されたと知る。午後四時頃になると、丸の内あたりの交通も復旧する。午後六時すぎには丸の内の日劇や日比谷の映画館もニュース劇場も興行を再開する。映画街にどっと人が繰り出す。ロッパはこのような様子から「平和である」と記す。この日、ロッパは銀座で夜更けまで酒を飲んだ。国民はクーデタが不首尾に終わって安堵した。

ラジオの機能を巧みに利用した首相が近衛文麿である。1937(昭和12)年6月4日に組閣すると、この夜、近衛はラジオ放送「全国民に告ぐ」をおこなっている。組閣当夜の首相のラジオ放送は、日本の歴史上はじめてのことだった。

ラジオは近衛をカリスマに祭り上げる。近衛の正伝は当時の状況を活写する。「近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで、『近衛さんが演説する』といって、大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有様だった」

戦時中も娯楽番組を求めた国民
ほどなくして7月7日、盧溝橋事件が起きる。日中戦争が拡大する。この年、ラジオの普及率が急伸している。都市部の普及率は48.2パーセント、郡部でも14.3パーセントになった。聴取者は連戦連勝の公式情報に接していただけではなかった。「戦死傷者の中に知人がいないかと耳をすますようになった」。ラジオは安否確認の情報源だった。

戦時下の国民がラジオに求めたのは安否確認だけではなかった。この年度の聴取状況調査によれば、聴取率75パーセント以上の番組は、浪花節、歌謡曲、講談、落語、漫才、ドラマなどだった。国民はラジオに娯楽を求めていた。軍部がラジオを戦意高揚の手段としても、大衆娯楽を求める国民世論を無視することはできなかった。ラジオは双方向性があるメディアだった。

恐るべき「投書階級」の登場
大衆娯楽に対する統制の実態は、近年の研究(金子龍司「『民意』による検閲―『あゝそれなのに』から見る流行歌統制の実態」『日本歴史』794号、2014年)によって、既存のイメージがくつがえされつつある。

盧溝橋事件が勃発した年に美(み)ち奴(やっこ)の歌う流行歌「あゝそれなのに」が大ヒットする。ところがこの流行歌は取り締まりの対象となり、放送禁止措置を受ける。検閲当局を動かしたのは民意だった。民意とは「投書階級」のことである。

ラジオ局の日本放送協会は、投書を受け付けていた。投書は番組編成に影響を及ぼす。ラジオ局に投書をするのは、都市化の進展とともに現われた新中間層(官公吏、教員、会社員など)だった。「投書階級」とはエリートでもなく大衆でもない「亜インテリ」(丸山眞男)のことでもあった。

「投書階級」の影響力は強かった。たとえば1938(昭和13)年のラジオの聴取者の投書は約2万4000件だった。ラジオ局の番組編成と放送の担当者は、これらの投書を一件ずつ閲覧して、実行可能であればできるだけ番組に反映させることになっていた。

流行歌もクラシックも「炎上」のネタに
「投書階級」が問題視したのは、出征兵士を送る宴で、軍歌の合唱がいつの間にか「忘れちゃいやヨ」などの流行歌の合唱になってしまうことや、軍歌が花柳街で大声放歌されていることだった。「あゝそれなのに」が「投書階級」の逆鱗に触れたのは、美ち奴の歌い方がなやましく、「エロ」を発散するセクシャルな歌だったからである。

「投書階級」の非難の矛先は、流行歌に止まらず、西洋クラシック音楽に及ぶ。一九三七年の「草深き山村の百姓」からの日本放送協会への投書は、西洋クラシック音楽に対して「不愉快と嫌味とそして一種云うべからざる反感が心の底から湧き上って来る」と嫌悪感を露にする。別の投書は、ヨハン・シュトラウス二世の歌劇「蝙蝠」(こうもり)序曲に対して、「只ガヤガヤ騒々しくて全く聴いていて閉口致しました」と苦情を述べる。これらの投書に共通するのは、西洋クラシック音楽に対する「生理的な違和感ないしは嫌悪感」であり、「都市エリート文化一般の押しつけに対する反感」だった(金子龍司「日中戦争期の『洋楽排撃論』に対する日本放送協会・内務省の動向」『日本史研究』628号、2014年)。

娯楽統制をリードしたのは「民意」だった
「投書階級」の西洋クラシック音楽の放送回数削減要求は、「日本的なもの」のイデオロギーで飾られていた。西洋クラシック音楽の放送は「ガンガンキーキーやかましいばかりで日本精神に反する」。そう非難する「投書階級」は、他方で軍歌ならば同じ西洋楽器を用いた演奏でも、つべこべ言わなかった(金子、同上)。戦時下に「日本精神」を掲げて非難する相手には、どうしようもなかった。

以上要するに、娯楽統制の主体は検閲当局というよりも、民意(「投書階級」)だったことになる。

権力と民意の逆転は日中戦争の長期化に拍車をかける。新聞やラジオの報道によって戦勝気分が高まった民意は、無賠償・非併合による戦争の終結をめざす近衛の和平工作の妨げとなったからである。メディアの持つ双方向性は、権力による被害者でもなく、権力に追従する加害者でもないメディアの実像を明らかにしている。

---------- 井上 寿一(いのうえ・としかず) 学習院大学教授 1956年東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院を経て学習院大学法学部教授、2005年に同大学法学部長。2014年から現職。法学博士。吉田茂賞、第12回正論新風賞などを受賞。著書に『機密費外交 なぜ日中戦争は避けられなかったのか』『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』(共に講談社現代新書)など。 ----------


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