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1300年前、「3密」を知らない日本人は感染症が怖すぎて「奈良の大仏」を建てた
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/823.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 21 日 22:59:17: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


田中英道◉疫病の世界史 奈良時代からある日本の疫病






1300年前、「3密」を知らない日本人は感染症が怖すぎて「奈良の大仏」を建てた
三宅 香帆 2020/04/21
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/1300年前、「3密」を知らない日本人は感染症が怖すぎて「奈良の大仏」を建てた/ar-BB12XTFX?ocid=ientp
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「三密を避けましょう」「家族と会うのも避けましょう」という言葉、奈良時代のひとびとに伝えてやりたかった……と今なら思う。


 なぜなら奈良時代はつくづく感染症に苦しめられた時代であり、なんなら感染症によって歴史が変わった時代だったからだ。



 まさか令和の時代が、世界中で猛威をふるう感染症からスタートするとは、だれが思っただろうか。



 思えば、「令和」という元号は『万葉集』が出典だ……という話を 去年の4月に寄稿していた 。あのときは万葉集で詠まれた歌みたいに想像力がもっと膨らむ時代になればいいな〜と思ったものだったけれど、完全に平和ボケした頭の発言であった。現実は思いもよらないもので、令和の最初は、元号の出典となった『万葉集』の時代――つまり奈良時代とおなじく感染症に悩むこととなってしまった。


 そう、じつは万葉集の時代とは、中国からの文化や知識によって文化が発展した一方で、同時に天災と感染症に多くの人が苦しんだ時代でもあった。


 ある種のグローバル化(国外からの文化の流入)、それと同時に引きおこる疫病。そもそも、奈良時代に大仏が建ったのも、遷都が繰り返されたのも、今でいうところの「感染症の流行」が原因だったのだ。


「民の半分以上が死亡した」崇神天皇即位5年


「日本は昔から天災が多かった」なんてよく言われるけれど、実際のところ、火事や地震よりも、当時のひとびとがおそれていたのは「疫病(流行りの感染症)」だったらしい。疫病が流行るのが、一過性の火事や天災よりもこわいの、今ならちょっとわかる気がする。


 たとえば日本最古の歴史書である『日本書紀』には、崇神天皇即位5年(3世紀初期)、「国内に疫病が大量発生し、民の半分以上が死亡した」なんて記述がある。民の半分。おそろしい。


 当時、中国ではちょうど後漢が滅んだ頃である。おそらく中国本土の混乱から逃げようと、朝鮮半島や日本へやってきた人が大量にいただろう。


 そう、いつの時代だって、グローバル化――つまりは文化の交流と、疫病の流行はセットなのである。


グローバル化が進んだ奈良時代、遣唐使が持ち帰った疫病


 グローバル化がさらに進んで奈良時代。天平9年(737年)、疫病が爆発的にひろまった。


 遣唐使、遣新羅使によってたくさんの文化が持ち込まれたところだった。しかし同時に、彼らはおそらく疫病を持ち帰りもしたのだろう。疫病(おそらく天然痘だったのではないかといわれている)は、九州から広まった。


 どれくらい大流行したかといえば、日本史を勉強した人なら一度は聞いたことがあるだろう藤原四兄弟(藤原不比等の子供たちのこと。武智麻呂、房前、宇合、麻呂)。当時の為政者だった四兄弟、全員が疫病で突然死してしまうのである。


 完全に藤原一家の無双状態だった政権は、「うおお四人とも!? 亡くなった!?」とてんやわんや。この突然の亡くなりようをおそれた人々は、「藤原四兄弟が自害に追い込んだ長屋王の呪いでは……?」と噂まで流すようになった。


 しかし今考えると、呪いというよりも、一家で仕事をしてずっと一緒にいりゃ、そりゃえんえんと「三密」の状態であろう。感染が広まってしまうのも当然なのだった。


 ちなみにこの疫病は、藤原四兄弟にとどまらず、当時政治を担っていた公卿たちをも襲い、その約1/3が亡くなったと言われる。今でいえば、総理大臣や各省庁大臣の1/3が亡くなるようなもんである。『シン・ゴジラ』もびっくりだ。


「三密」が奈良時代に知られていたら、日本の歴史は変わっていたのかもしれないが……。


「とにかく東京を離れたい」ならぬ「とにかく都をうつしたい」


 しかし「三密」など知らず、長屋王の呪いをおそれた聖武天皇は、「仏教」を広めることと「遷都」に生涯を注いでゆく。


 ご存じ、奈良の大仏を建てたのは聖武天皇だし、平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波宮と都をうつしまくったのも聖武天皇だ(結局、地震が続いたことが原因で、平城京に都を落ち着かせたのだが)。


「なんでこんなに遷都したんだよ……」と後世の人からも言われているが、ロックダウンなんて選択肢もなかった時代、「とにかく東京から離れたい!」と言わんばかりの「とにかく都をうつしたい!」という衝動だったのかもしれない。


 さらに感染症の拡大を食い止めるべく、当時、数百人の僧侶が宮中で読経していたらしい(しかしこの環境も、今思えば完全に「三密」の状態である)。


 そんなふうにして、感染症に悩まされた奈良時代、仏教は国家の宗教となり、幾多の寺が建立された。やはり、感染症がここまで広まっていなかったら、日本の歴史は変わっていただろう。


節分の「鬼は外」の本当の意味


 ちなみに奈良時代の歌集『万葉集』には、流行の感染症が「鬼病」という言葉で登場している。


「鬼病」とはもともとは仏典用語として「鬼にとりつかれた病気」のことを呼ぶ言葉だが、そこから疫病のことを意味するようになった。


 節分行事で「鬼は外」と唱えたことがある方は多いと思うが、実はあの「鬼」とは「疫病神」のことなのだ。もとは中国の宮中でおこなわれ、節分のもとになった行事「追儺」では、鬼の姿をした者が疫病で人々を苦しめる「疫鬼」に見立てられた。つまり、疫病をもたらす鬼を追い払う行事が、節分だったのだ。


「感染症は外に出ていけ」。それが「鬼は外」の意味だった。


 そりゃ鬼には外に出て行ってほしい。『万葉集』も旅途中の島で、感染症にかかって亡くなった方に向けた歌を収録している(巻15・3688)のだが、こんな思いが詠まれている。


「時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君」(『万葉集』巻15・3688番一部抜粋)


「時が過ぎて、月もかわってしまったから、今日帰ってくるか明日帰ってくるかって家の人は待ってるのに、きみは旅先にも着かず故郷にも帰れず、あの島で眠ったままなのか……」。なんとも切ない歌である。


 奈良時代と違っていまは医療の知識も技術もあるけれど、それでも「家の人」に会えないままでいる人も多いだろう。会いたい「家の人」がいない人も多いだろう。


 時代は令和なんだし、大仏が建たずともできるだけはやく感染症流行がおさまり、来年の節分にはまた各地の保育園や小学校で「鬼は外〜」とみんなで笑う声を聞けますように、とつくづく思う。


https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/1300年前、「3密」を知らない日本人は感染症が怖すぎて「奈良の大仏」を建てた/ar-BB12XTFX?ocid=ientp
 

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コメント
1. 中川隆[-13040] koaQ7Jey 2020年4月21日 23:13:06 : 0mSWXSkwek : Lmc3M2g0VW5abnM=[21] 報告
平城京、水銀汚染痕なし 大仏建立で中毒説、退ける
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2013-05-30-2

2013年5月29日
古代における塗金は、金や銀を水銀に溶かして銅や銅合金に塗り、その後で熱を加えて水銀を蒸発させ、金や銀を定着させる「水銀アマルガム」法だった。

奈良時代中期、東大寺の大仏造営、とりわけ塗金作業において、大量の水銀が使用され、それが環境を汚染し、水銀中毒が広がり、延暦3年(784)平城棄都=長岡遷都につながったという説は、杉山二郎『大仏以後』(1987年、学生社)が提唱して以来、けっこうもっともらしい説として、一部の人に信奉されていた。

私は、平城棄都=長岡遷都の理由を政治と仏教の分離に求める論文(「早良親王と長岡遷都」)を書いているので、水銀環境汚染説はとらなかったが、若干は影響があったかな?程度には思っていた。

今回の調査結果は、水銀による環境汚染は定性的にはあったものの、定量的にはほとんど問題にならない程度だったことを明らかにしたもので、これで水銀環境汚染説はほぼ成り立たなくなった。

むしろ、環境汚染としては鉛の方が重大だった可能性がある。
鉛汚染についての調査例がさらに増えることを期待したい。
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平城京、水銀汚染痕なし 大仏建立で中毒説、退ける   

『朝日新聞』2013年05月29日 東京 夕刊 環境

8世紀に都がおかれた平城京(奈良市)が74年間という短命で終わったのは、大仏建立時に使われた水銀による汚染のため? 近年広まっているこの学説について、東京大などが当時の土壌を調べたところ、水銀汚染は見つからなかった。23日、千葉市で開かれた日本地球惑星科学連合大会で発表された。

平城京には710年から都がおかれ、聖武天皇による大仏建立など仏教文化が花開いたが、784年には長岡京(京都府)に遷都した。大仏建立時に使った金めっきに大量の水銀が含まれていたことから、水銀中毒が広かったためという指摘があった。

東大大気海洋研究所の川幡穂高教授が奈良文化財研究所などの協力を得て、平城京のあった奈良市内や周辺4カ所の当時の土壌を採取し分析した。すると水銀については、大仏建造時に数倍増えているものの、現代の環境水準(15ppm以下)よりい大幅に低い0.25ppm前後にとどまっていることがわかった。
 
一方、8世紀中頃の土壌から最大で1200ppmの鉛が見つかった。これは現代の環境基準(150ppm)の8倍にあたる。平城宮から10km離れた地点でも高濃度の鉛が見つかっており、汚染は周辺にも及んでいたと見られる。これらの鉛は同位体の分析の結果、大仏に使われた銅と同じ長登(ながのぼり)鉱山(山口県)で採掘されたものとほぼ断定できた。

川幡さんは「水銀汚染で都を放棄したという説は退けられる。鉛汚染は、詳細な調査が必要だが、健康に影響のないレベル。白色や朱色の顔料として当時広く使われていた鉛白、鉛丹の影響ではないか」と話している。(香取啓介)

https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2013-05-30-2

2. 中川隆[-13039] koaQ7Jey 2020年4月21日 23:18:21 : 0mSWXSkwek : Lmc3M2g0VW5abnM=[22] 報告
8世紀の奈良平城京における重金属汚染
2014年9月5日 川幡 穂高(東京大学大気海洋研究所)
https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2014/20140703.html

平城京は奈良時代の日本の首都(710〜784年)で、唐の都「長安」にならい建造されたとされる。サイズは南北東西それぞれ約5km、人口は10〜20万人と推定され、シルクロードの終着点でもある国際的な大都会であった。人間活動も活発で、律令制度に伴う物資の輸送も増え、寺院も沢山建てられた。 UNESCO世界遺産にも登録されている奈良東大寺金堂(大仏殿)は長らく世界最大の木造建築物として有名であった。

特に「大仏さま」と呼ばれる東大寺盧舎那仏像は偉容を誇っていた。現在の「大仏さま」は銅の錆である緑青色であるが、当時は金ぴかであった。光り輝いた大仏を作るためには,金を大量の水銀に溶かし(アマルガムと呼ばれる)、それを塗布して、最終的に火であぶって水銀を蒸発させ、金メッキとした。平城京から平安京への遷都はこの水銀汚染が、東大寺裏の若草山に木が生えないのは銅汚染が原因であるとの指摘があった。そこで、当時の大都会の重金属汚染を調べるために、古土壌の精密化学分析を行った。その結果、水銀や銅汚染は限定的で、現代の環境基準に照らして問題とならないことがわかった。この事実は、平城京から他へ遷都した原因が重金属汚染でなかったことが示唆された。一方、鉛含有量は、平城宮および平城京から十km南の地点でも環境基準値を超えていた。鉛同位体は起源を推定する際に「指紋」となるが、私達の分析値により、鉛は「大仏さま」への銅の主な供給先である山口県秋吉台の長登鉱山に由来することがわかった。鉛の用途については、さまざまな可能性があるが、現時点では特定できていない。

日本の「古代大量消費型社会」では、大規模古墳の造営、大量の埴輪の製作、度重なる遷都が特徴である。平城京は最後の「古代大量消費型社会」であったものの、古墳建設の抑制、火葬の広まり、森林伐採の抑制などを通じて、「エコシティ」への変換点の役割も演じたと考えられる。

なお、この研究成果は理学部地球惑星環境学科の卒業研究で、日本の地球惑星科学の50学会が参加する(公)日本地球惑星科学連合の新雑誌「Progress in Earth and Planetary Science(PEPS)」に掲載されるとともに、昨年研究概要は朝日新聞に取り上げられた


https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2014/20140703.html

3. 中川隆[-12722] koaQ7Jey 2020年5月10日 17:14:46 : txBdn50SLs : OURXcXpRZUdqSms=[22] 報告
「疫病の日本史」を振り返る、アマテラスと疫病
足立倫行 (ノンフィクションライター)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19538


 日本史における疫病の歴史をたどってみたい。そこから窺えるものは何か?
 最初の疫病は、『日本書紀』(以下『紀』)の崇神(すじん)天皇5年条に登場する。

 〈国内に疾疫(えのやまい)多くして、民死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす(国内に疫病が流行し、死ぬ者が多く、民の半分ほどだった)〉

 この一文は、伊勢神宮など主要な3つの神社の起源説話の契機とされる。
 ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)と称され、ヤマト王権の実質的初代天皇とされる第10代崇神は、磯城(しき・奈良県桜井市)の瑞籬宮(みずがきのみや)に宮都を定めた。

 次の年、崇神は天神地祇(てんじんちぎ)に祈ったが民の離反は止まらない。顧みると、宮中に(天神の)アマテラス(天照大神)と(地方神の)倭大国魂(やまとおおくにたま)神の2神を並べて祀(まつ)っていた。神霊が強く両神が合わないのかと、皇女2人が別々に祀ったがうまくいかない。

 その後、夢やお告げの通り、太田田根子(たねこ)を探して(三輪山の)大物主神を、長尾市(ながおち)に倭大国魂神を祀らせたところ、崇神7年に疫病は収まり、五穀が実り国内は安定した。

 つまり、天皇家の祀る太陽神(ここではアマテラス)と、農耕神(=竜蛇神)の地方神は一緒に祀ると災いがあり、各自伝統の家柄の者が奉斎すべきだった、と教示する。

 アマテラスに関しては、次の垂仁(すいにん)天皇の時代、皇女ヤマトヒメが鎮座地を求めて巡行し、「常世(とこよ)の浪の重波帰(しきなみよ)する国」である伊勢に至り、「社(やしろ)」を立てた、と『紀』は記す。

 しかし、これは疑わしい。多くの研究者が指摘するように、アマテラスを祀る皇女・斎王(さいおう)の伊勢派遣は5世紀後半の第21代雄略天皇の時に始まり、斎宮(さいぐう)の制度として整ったのは7世紀後半の天武朝から、だからだ。
 古代日本において天皇の権力がもっとも高まったのが第40代天武天皇の時代。天武は壬申(じんしん)の乱(672年)で皇位を奪取したが、行軍の途上で伊勢のアマテラスを望拝したことが勝利につながった。そこで伊勢神宮を設け、斎王による祭祀制度を確立したのだ。

 世を騒がす次の疫病の記事は、『紀』の仏教伝来当時の起源説話である。
 6世紀前半、百済(くだら)の聖明王から第29代欽明天皇の下に仏像や経典が贈られた。

 いわゆる「仏教公伝」だが、外来の神の受容を巡っては、崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏や中臣氏)の間で激しい争いが起き、結果として疫病が流行したのだ。

 天皇自身は受容せず、蘇我稲目に礼拝を任せたところ疫病が発生、多数の民が亡くなった。そこで物部尾輿(おこし)らは天皇の同意を得て、蘇我氏所有の仏像を難波の堀に投げ棄て、建てた伽藍に火をつけて焼失させた。

 対立は次の世代も続き、蘇我馬子と物部守屋が争った時にも疫病の惨劇が発生した。

 かくして第31代用明天皇の崩御の年(587年)、馬子は厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと共に決起し、物部守屋の一族を滅ぼした。崇仏派の全面的な勝利である。

 外国の宗教である仏教を受け入れた「祟り」とされる疫病は、現在の天然痘だった(崇神朝の疫病にも天然痘説がある)。

 ともあれ、古代の天皇は何よりもまず神を祀る司祭者であったため、国家にとって最重要事の祭祀対象の改変に際しては、(天皇としての資質を問うような)多数の民を巻き込む悲劇(疫病)が付随した、と思われる。

同格だった神仏の関係が崩れる

 ちなみに田村圓澄『仏教伝来と古代日本』(講談社学術文庫、1986年)によれば、蘇我氏が滅ぼされた645年の大化改新(正しくは乙巳(いっし)の変)の理由の一つは、「天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取することだった」と記述する。

 その後、王権神授説(『金光明経』など)で天皇支持を明確にした仏教は、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教として普及した。

 そして平城京の第45代聖武天皇が大仏造営を発願した時、始祖神(八幡神)を祀る宇佐八幡宮は「天神地祇を率いて成就させる」と託宣した。前掲書によればこの時、それまで同格だった神仏の関係が崩れ、「仏」が「神」より格上の救済者になった、と指摘する。


この説に従うと納得できることがある。

 推古・皇極・持統と女性天皇が頻出したために天武・持統朝に伊勢神宮のアマテラスが女性の皇祖神になったと思われるが、なぜ歴代の天皇はただの一人も(明治時代まで)伊勢に参拝しなかったのか、という理由だ。

 つまり、天皇家が宮中でタカミムスヒ(高御産日)など始祖神8神を祀っている以上、また神仏習合で大半の神社に神宮寺があり、神より格上の仏が天皇家を守護している以上、伊勢に御座(おわ)す例外的皇祖神に天皇自身が参拝する必要はなかったのだ、と推察される。

 3つ目の疫病は、その伊勢のアマテラスが約1200年の眠りを経て再び息を吹き返すきっかけとなったコロリ(コレラ)である。

 インドの風土病だったコレラが19世紀初頭から20世紀初頭にかけて猛威をふるったのは、近代化による国際交流の結果だった。その意味では新型コロナの原初型と言える。

 安政5(1858)年、長崎に上陸したコレラは大坂・京都を経て江戸に達した。立川昭二『病気の社会史』(NHKブックス、1971年)によると、江戸のみで死者10万余人を数えたという。続いて文久2(1862)年夏にも流行し、この時は江戸だけで7万3000人の死者が出た。

 安政のコレラは、その5年前に浦賀に来航したベリー艦隊の一隻ミシシッピー号が改めて持ち込んだもので、安政2年の大地震の被害も重なり、庶民の間に開国への不安や外国人への敵意が生じ、終末観が広まった。


明治天皇が伊勢神宮を参拝

 やがて開国、新たに明治時代が始まる。

 文明開化を掲げた新政府は、欧米を模倣する一方、「王政復古」の基盤を神武創業に置くことにしたが、神武時代は不明。そこでモデルになったのが天武・持統朝の古代律令制である。

 初代神武天皇が大和平定後、鳥見(とみ)山(奈良県桜井市)の皇祖天神(タカミムスヒ?)を祀ったのに倣い、明治2(1869)年明治天皇は史上初めて伊勢神宮に参拝した。

 神祇官が復興され、伊勢神宮を頂点とした全国の神社の序列化も進んだ(相前後して神仏分離令に伴う全国規模の廃仏毀釈(きしゃく)が進行)。

 江戸時代の「お伊勢参り」は天皇崇拝とは無縁の物見遊山だった。しかもアマテラスを祀る内宮(皇大神宮)より豊受大神を祀る外宮(豊受大神宮)の方が勢力があり、優位だった。

 その状況が突然一変したのだ。そして、アマテラス以来の「万世一系の天皇」が統治する「大日本帝国」が誕生したのである。

 こう見てくると、折々の疫病の大流行は、日本という国の根幹を揺るがす変化をもたらしてきたと言える。では、今回のコロナ禍がもたらすものは?

 象徴天皇制の変更は考えられない。であれば、価値観がひっくり返るのは「グローバル資本主義」か、それとも「自由と民主主義」か?

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