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宮沢賢治の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/751.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 09 日 18:20:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 川端康成の世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 27 日 19:27:00)


宮沢賢治の世界


宮沢賢治  21世紀映像童話集  黄いろのトマト



『80年後のKENJI〜宮沢賢治21世紀映像童話集  
汚れなき魂  「黄いろのトマト」


出演:竹財輝之助, 我妻三輪子, 小柴亮太, 竹中涼乃,
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 2021年6月10日 16:11:49 : CD0syXjenk : R2dzTkMyT3VGNWs=[24] 報告
【ゆっくり解説】天才詩人•童話作家「宮沢賢治」!注文の多い料理店や銀河鉄道の夜など数多くの作品を残した彼の人生とは…?




【目次】
0:00 オープニング
1:29 宮沢賢治の概要
3:38 宮沢賢治の生涯の振り返り
27:24 エンディング
2. 保守や右翼には馬鹿し[188] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年5月20日 12:49:17 : 9yppaRr6IU : cDdWdzlnUHhyU1E=[3] 報告
<■142行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
イーハトーブという国
2023年05月20日
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12803769340.html

 日本の北の方に「イーハトーブ」と名付けられた国がある。面積は日本の県のなかで一番大きい。四国よりほんの少し小さく、イスラエル国よりも少しだけ小さいほどだ。
 そんなイーハトーブ国からは、少ない人口に見合わず、人口比で当然といえる東京都を除けば、山口県に次いで二番目という、たくさんの総理大臣を輩出している。

 有名人も数多いのだが、この数年になって、とんでもない物凄い野球キャラクターが数名登場してきて、世界中にイーハトーブの名が一気に広まった。
 それが大谷翔平と佐々木朗希で、もう一人菊池雄星もいる。後に続く佐々木麟太郎も三名に匹敵する活躍が予想されている。
 すぐ隣の地域でも、落合博満という凄い選手を出した。

 そもそもイーハトーブとは「葉っぱを食べる国」(イート・ハーブ)という意味で、その理由は名付け親の童話作家Mが仏教の敬虔な信者で、殺生を嫌い、精進食を好んだからといわれている。
 でも、葉っぱを食べて2m近い高身長の世界的スポーツ選手が育つとは思えないのだが。
 イーハトーブ国からは、随分前だが、三船久蔵と藤原敏男という、これも歴史に残る物凄い格闘家を輩出している。しかし彼らがイーハトーブ食だったかは分からない。

 私は大谷翔平の報道を見ていて、日本中が夢中になっているなかで、彼の純粋な精神性に惹かれるのだが、それは名付け親のMに共通するものを感じるのだ。
 Mは、生きているうちには誰からも、何一つ正当な評価を受けず、無名で貧しいまま結核で死んでいったが、とてつもない純粋純真な心根だけをこの世に残していった。
 まるで大谷が、Mに与えられるべきだった評価を、まとめて受けて無念を晴らしているようにさえ見える。

 イーハトーブの住民は、全員が子供の頃からMの純真さに打たれ、その心を受け継いでいるように見える。だから、政府に割り当てられた県名よりも、Mの名付けたイーハトーブ国という名前に誇りを持っているのだ。
 イーハトーブは、Mの精神を受け継いで、とてつもなく優しい人が多い。
 だから、全国犯罪率ランキングでも、隣の「もうアキター国」と並んで47都道府県中最低なのだ。
 http://area-info.jpn.org/CrimPerPop.html

 イーハトーブの小学校では、全員がMの残した詩を朗読して記憶するので、大人になっても淀みなく話せる人が多い。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ
 南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 
******************************
 こんな詩を、幼い頃から暗誦していれば、いったいどんな子供が育つだろうか?
 それが、イーハトーブの犯罪率が日本最低であることの秘密だと私は思う。
 そして大谷や佐々木を輩出した本当の秘密なのだ。

 イスラエルのユダヤ教徒が、旧約聖書のトーラー五書を13歳までに暗誦するバルミツバという成人儀礼を見れば、その意味が反対側からわかる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%BC#:~:text=%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%80%81%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC,%E5%BC%8F%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%82%E6%8C%87%E3%81%99%E3%80%82

 ユダヤ教徒が幼いころから暗誦する義務を負っているトーラーには何が書かれているのか?
 それは、「陰謀と殺戮の教科書」と呼ばれていることで察しがつくだろう。
 代表的な陰謀殺戮の章である、旧約聖書創世記34章を見れば思い知らされる。
 https://www.wordproject.org/bibles/jp/01/34.htm

 あるとき、ヤコブの娘ディナをシケムという他部族の若者が犯した。シケムの一族はディナを妻として娶りたいと申し入れたとき、ヤコブは一族が割礼を受け入れるなら認めると答えた。
 シケムの一族が割礼の痛みと化膿によって戦意を喪失すると、ヤコブの一族が攻め入ってシケムの一族を皆殺しにしたという物語だ。

 ユダヤの民は、この物語を繰り返し幼い頃から暗誦し、「陰謀殺戮」の意味を心の底に沈殿させる。他にも、旧約聖書には陰謀的な殺人が無数に登場してくる。
 こうして大人になったユダヤ人の、あらゆる発想の根底に、旧約聖書が置かれるのである。
 それが世界資産の9割を手中に収めたユダヤ人によって、どんな計画がもたらされるのか? それは、あなたの想像力のなかにある。

 もう一つ、イーハトーブの人々の人間性を定めてきた、Mの悲しい詩がある。
 日本の詩集の最高傑作として、知らない人はいないのだが、こんな詩を読みながら育ったイーハトーブの人々の人間性が、どうして大谷翔平や佐々木朗希につながるのか、あえて説明する必要もないだろう。

 永訣の朝
 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html

 けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (*あめゆじゆとてちてけんじや)
 うすあかくいつそう陰惨いんざんな雲から
 みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

 青い蓴菜じゆんさいのもやうのついた
 これらふたつのかけた陶椀たうわんに
 おまへがたべるあめゆきをとらうとして
 わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
 このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

 蒼鉛さうえんいろの暗い雲から
 みぞれはびちよびちよ沈んでくる
 ああとし子
 死ぬといふいまごろになつて
 わたくしをいつしやうあかるくするために
 こんなさつぱりした雪のひとわんを
 おまへはわたくしにたのんだのだ

 ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
 わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
 はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
 おまへはわたくしにたのんだのだ

 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
 そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
 みぞれはさびしくたまつてゐる
 わたくしはそのうへにあぶなくたち
 雪と水とのまつしろな二相系にさうけいをたもち
 すきとほるつめたい雫にみちた
 このつややかな松のえだから
 わたくしのやさしいいもうとの
 さいごのたべものをもらつていかう

 わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
 みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
 もうけふおまへはわかれてしまふ
(*Ora Orade Shitori egumo)

 ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
 あああのとざされた病室の
 くらいびやうぶやかやのなかに
 やさしくあをじろく燃えてゐる
 わたくしのけなげないもうとよ

 この雪はどこをえらばうにも
 あんまりどこもまつしろなのだ
 あんなおそろしいみだれたそらから
 このうつくしい雪がきたのだ
  (*うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで     くるしまなあよにうまれてくる)

 おまへがたべるこのふたわんのゆきに
 わたくしはいまこころからいのる
 どうかこれが天上のアイスクリームになつて
 おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
 わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
*******************************

 私はMが書いた「銀河鉄道の夜」を読んでいて、大谷翔平が、この世の小さな欲望の交錯するカオスのなかで、まっすぐに銀河だけを見つめて、ひたすら登ってゆく姿を見せているような気がする。
 大谷も佐々木も、たぶんMの人間界を超越した壮大なビジョンのなかで、ジョバンニとカンパネルラのように、銀河鉄道の乗客になっているのだと思える。
 それがイーハトーブの人々なのだ。
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12803769340.html

3. 2023年6月19日 07:47:22 : fwqF0gWoXo : UGFxZU9PQ2NJVDI=[5] 報告
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岩手県では、小学校で「雨にも負けず」を全員が暗誦しなければならない
2023年06月18日
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12808279049.html

 私は、名古屋市なのだが、実は、私の子供の頃の記憶をたどると、やはり小学校で「雨にも負けず」を暗誦させられたことを思い出した。
 ちょうど、1960年前後のことだ。今から63年前になるかな。

 1960年代と聞けば、私には安保闘争が思い浮かぶ。当時、父が国労愛知の書記長だったから、毎日のように、我が家に当時の国労活動家が集まって反対運動の構想を話し合っていた。
 私も、学校で「アンポハンタイ」とか叫びながら教室内を練り歩いていた記憶がある。
 東大生の樺美智子さんが、デモ中に機動隊に殺されたニュースもはっきりと記憶している。当時の東大女学生の死といえば、今で言えば、広瀬すずが強姦され殺害されたくらいのインパクトがあった。当時の首相はA級戦犯でありながらCIAスパイになることで政界に復帰した岸信介だ。

 それから今の天皇の徳ちゃんが誕生した。社会は、樺美智子さんの死を悼む人々と、徳仁ちゃんの誕生を喜んで提灯行列する人々に、完全に二分されていたような気がする。
 我が家には、中古の白黒テレビがやってきて、毎晩、近所の人たちが見に来ていた。

 力道山とブラッシーの対戦では、白黒テレビだから顔中を真っ黒に染めた力道山(金信洛)の画面を見つめて、凄まじい大声を上げて、驚いているのか喜んでいるのか分からない反応だった。
 あとは、若乃花と栃錦、大鵬と柏戸の戦いを興奮して眺めた。他の番組といえば、黒柳徹子の出る人形劇(ちろりん村とかひょっこりひょうたん島とか)が記憶に残っている程度だ。

 そんな日本中に活気が満ち溢れ、上昇気流一辺倒だった時代、小学校では、圧倒的に日教組が強くて、「民主主義」の理念を教育するという熱意に溢れていたように思う。
 そして、子どもたちの人間性を高めたいという教師の願いを体現する教育として、宮沢賢治の詩の暗誦が選ばれたのだ。

 宮沢賢治の詩を調べているうち、にわかに、そういえば小学校で暗誦させられた記憶が蘇ってきた。そこで、宮沢賢治の地元岩手県では、どうなっているのか調べてみると、どうやら今でも「雨ニモマケズ」の暗誦が行われているようだ。

 「雨ニモ負ケズ」を暗唱するようぬ
https://ncode.syosetu.com/n1062eo/

https://ehon.manebi.tokyo/entry/amenimomakezu

https://kids.shueisha.co.jp/manten/nihongo/omoi/chapter3_3.html
************************************
 もちろん全体主義が大好きな、文科省官僚たちが人間性を磨こうとしてきた宮沢賢治と相容れるはずがないから、必須科目にはなっていないかもしれないが、その教育的効果を絶賛する人が少なくない(上のリンク)。

 私は、前にも書いたのだが、少年時代に雨ニモマケズを暗誦した人たちは、その思想理念を心の奥底に沈殿させ、生涯にわたって、人間性を磨こうとするのだと思う。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6038440.html

 岩手県をイーハトーブと名付けたのも宮沢賢治だ。戦後、全国最強の日教組があって、革新的な思想持った人が多かったように思う。
 だが、岩手県出身の有名人をウィキで調べても、記憶と一致する人は、東條英機、板垣征四郎、石川啄木、新渡戸稲造、金田一京助と宮沢賢治くらいで、芸能人や歌手など、千昌夫くらいしか分からなかった。
 しかし、最近は違う。
 世界的なスケールの、とんでもない若者たちが、岩手県から飛び出してきた。

 今や、大谷翔平は世界の話題の中心にいるし、やがて佐々木朗希もそうなるだろうし、菊池雄星だって一流のメジャーリーガーだ。佐々木麟太郎も、やがて大谷に次ぐ地位に向かうだろう。
 私は、菊池雄星がはじめて甲子園の決勝で戦ったとき、ちょうど花巻大沢温泉にアブに噛みつかれながら友人と入っていたのだが、客も宿側の人も、完全に客の世話など忘れて、テレビに熱狂してしまっていた。
 「おいおい、夕飯、食いたいんだけど……」

 「これは尋常な熱気じゃないぞ!」
 もしかしたら、岩手県にとんでもないことがおきはじめているのかもしれないと、宮沢賢治記念館で「セロ弾きのゴーシュ」の展示を見ながら、そう思った。
 私は、宮沢賢治のイーハトーブが、何か物凄い勢いで躍動を始めているように思った。
 「岩手県には特別な何かがある」

 私は、県内を彷徨った。とりわけ興味があったのが、私が若い頃から夢中になって貪るように読み漁っていた、柳田国男の「遠野物語」であり、遠野地区や早池峰山周辺を回った。
 遠野には何度も通ったが、いたるところに河童のモニュメントが建設されていた。テレビドラマでも遠野が主役になったものがあったような気がする。もしかしたら、この時代が一番良かったかな。
 ネット時代になったら、今度は有名な猫が登場した。「カゴ猫シロ」だ。
 https://cat-press.com/cat-news/book-noseneko-final
 これが、動物の癒やしブログの先駆けになったような気もするが、数年前に主役が寿命を全うして消えた。
 
 早池峰山は、70年代前半に、登っているが、このときは車のマフラーにマムシが食いついたことが強く記憶に残っていて、「ここはマムシの王国なのか」という印象さえ持った。
 しかし、エーデルワイスの咲き乱れる「荒らされない自然」という意味で、八甲田のような観光客汚染もないし、本当に素晴らしい場所だと思った。
 八幡平では、熊の影を何度も見た。熊の糞だらけの山道だった。私の住む岐阜県も、熊が凄いが、岩手県は岐阜の比ではない。

 岩手県のことを話し始めると、思い出が尽きないのだが、私は、岩手県から大谷や佐々木が登場している理由について、思い当たることがあった。
 それは、宮沢賢治との関係だ。大谷も佐々木も、幼い頃から宮沢賢治と否応なしに深い関わりを持たされてきた。
 たぶんではあるが、小学校で、雨ニモマケズを暗誦させられたと思う。そして、イーハトーブという国について、深く考えるきっかけを与えられて育ったのだと思う。
 子供の頃に、心の奥底に暗誦によって刻み込まれた「生きる理念」は、生涯の思想を規定するのだ。
 https://eqwel-takarazuka.com/blog/798/

 三歳から十歳までの子供時代の心に刻まれた理念は、生涯を定める思想になる。
 この時期に、雨ニモマケズの思想を暗誦で心に刻み込んだ、イーハトーブの子どもたちは、死ぬまで「人に対する優しさ」という純粋な人間性を価値観として生きることになる。
 私は、岩手県から大谷たち世界史的な若者がたくさん登場してくることの背景には、彼らの子供時代に心に染み込んだ何かがあると予想した。
 そして、それは小学校における宮沢賢治の暗誦ではないかと考えた。

 前にも書いたが、逆に、子供時代に、殺戮教書ともいうべき旧約聖書を義務として暗誦させられたユダヤ人の子どもたちは、「陰謀殺戮」を心の底に置いて大人になってゆく。
 するとビルゲイツやイーロン・マスクのような「金儲けののためなら人命など屁の価値もない」と考えるような人々が育ってゆく。

 私には、ビルゲイツをはじめとするユダヤ人超富豪が、世界資産の9割以上を懐に入れる時代になった今、イーハトーブから、物凄い若者たちが飛び出し始めたことが偶然には思えない。
 ちょうど、イスラエルと岩手県は、似たような面積だ。旧約聖書が生み出したユダヤの国と、宮沢賢治が生み出したイーハトーブの国が、これから人類社会の焦点になるような予感がしてならないのだ。
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12808279049.html

4. 2023年6月19日 07:54:36 : fwqF0gWoXo : UGFxZU9PQ2NJVDI=[6] 報告
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宮沢賢治と法華経
https://kenji.hix05.com/kenji52.hokekyo.html

鎌田茂雄「法華経の読む」を手引きにして法華経のことを考えていたら、自然と宮沢賢治のことが思い浮かんだ。賢治は法華経に深く帰依していたことで知られている。その作品の中にも法華経の影響がこだましている。そんな法華経のこだまを、賢司の作品のなかから聞き当ててみると、どんなことになるか。そんなことをふと思ったので、その思ったことをとりあえず文章にしておきたい。もとより単なる思いつきの域を出ない。

法華経の根本思想は仏国土の実現ということである。仏国土とは、仏が導き給う浄土のことを言う。どんな人でも、大乗の教えに基づき修行すれば菩薩となり、ついには成仏して仏となる。仏となった人は、自分自身のみならず彼が生きている世界のすべての人々を救う力を持っている。それゆえ、彼が成仏すると、彼が生きている世界は彼を中心にした仏国土すなわち浄土となる。単純化して言えばそういうことになろう。つまり、あの世ではなく、この世において実現する理想的世界、それが法華経のいう仏国土なのである。この世がそのままに浄土となる、しかもその浄土を導く仏には、どんな人でもなれる可能性がある。それ故、人々はおのれ自ら成仏しつつ、彼が生きている世界の一切衆生を救うべくつめねばならない。

宮沢賢治が作品の中で主張したのは、まずはこの仏国土の実現ということであった。賢治が仏国土をとりあげた例としてよく引かれるのは「銀河鉄道の夜」のなかの次の一節である。

「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

銀河鉄道に途中から乗ってきた姉と弟に向かって、ジョバンニがずっと一緒に行こうよ、と誘ったところ、姉は自分たちはこれから天国へ行くのだからここで降ります、と答えたのに対して、ジョバンニは天上などではなく地上ですばらしい世界つまり仏国土を実現しようと言っている場面である。このジョバンニの言葉の中に、賢治は法華経の説く仏国土の実現への希望を述べているととらえることが出来るわけである。

その仏国土とは具体的にどのようなものなのか。「ポラーノの広場」はそれを問題にしている。ポラーノの広場にいる人々は、どこか別の世界で理想郷を建設しようとつとめるが、なかなかそれは実現しない。何故なら理想郷とは、彼等がいまいるポラーノの広場そのものなのだから、というのがこの童話の根本的な内容である。この童話は、賢治晩年の四つの長編童話のひとつだが、これらの長編童話にはいずれにも、法華経の言葉がこだましている。そのこだまの中で、もっとも法華経の核心に迫るのが、「ポラーノの広場」における理想郷実現への希求と考えることが出来よう。

以上は、法華経の核心についての賢司の捉え方が垣間見えるところだが、賢治は外に、法華経のいくつかの重要な経典について、その内容を童話のなかに盛り込んでいる。

まず、「提婆達多品」。これは、どんな人でも成仏できることの例として、提婆達多という悪人が成仏したということを説いている。賢治は、「よだかの星」において、同じようなテーマを追求した。「よだかの星」に出てくるよだかは、いわゆる悪人ではないが、世の中から疎まれ自分を嫌悪しているという点で悪人に通じるところがある。そのよだかが星になると言うのは、成仏の隠喩であろう。つまり、よだかが星になるということを通じて、どんなものでも成仏できるのだという考えを、賢治はこの童話のなかで語っているのだと考えられる。

星になるためには、よだかは星と一体にならなければならなかった。ということは、己の身を火で焼きつくすという行為が介入しているわけである。ここで、この童話には焼身というもう一つのテーマが潜んでいるということになる。法華経のなかで焼身を取り上げているのは「薬王菩薩本事品」である。このお経は、衆生救済のための自己犠牲として菩薩の焼身を取り上げているわけだが、賢治の童話のなかで焼身とそれによる衆生の救済というテーマに密接なかかわりがあるのは、「グスコーブドリの伝記」である。

この童話の中で、グスコーブドリは自分が火山の中に飛び込むことで、火山の噴火を防止し、人々を危険から救ったということになっている。つまり焼身という自己犠牲が衆生救済につながるという物語であるわけで、その骨格は「薬王菩薩本事品」と全く異ならない。賢治がこの美しい童話を、「薬王菩薩本事品」をもとにして構想したことは疑いを容れないと思う。

焼身といえば、いまでも東南アジアの仏教圏の中でたびたび起きている。東南アジアの国々の仏教は基本的には小乗仏教であり、それがなぜ焼身による自己犠牲を推奨するのか、研究に値するところだと思う。

賢治には「雨ニモマケズ」に始まる、自訓のような有名な文章がある。この文章は、自分自身に課した掟だと解するのが妥当と思えるのだが、その内容を精査すると、法華経の中の「常不軽菩薩品」の教えとよく似ている。

「常不軽菩薩」の常不軽とは、「常に人を軽んぜず」という意味であるが、そのとおりこの菩薩は、身を粉にして人々を礼拝して歩いていた。なぜ礼拝するかと言えば、人々に自分自身の価値を知ってもらい、成仏できるように薦めたいからであった。あなたはこんなにもすばらしい人です、それゆえわたしはあなたを礼拝するのです、あなたには礼拝される資格があるばかりでなく、成仏する資格もある、ですから菩薩の道を歩みなさい、そう言って人々を励まして歩くというのが、「常不軽菩薩」の自分自身に課した掟であった。その掟と、賢治が「雨ニモマケズ」の中で自分に課した掟は非常によく似ている。

賢治は言う、
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ

これは礼拝ではないが、人々を励ましていることは、「常不軽菩薩」と同じである。自分の身を粉にしているところは、続く部分で次のように書かれる、
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
そして最後は、
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
と結んでいる。つまり賢治は、自分自身が「常不軽菩薩」のようになりたいと言っているわけである。
https://kenji.hix05.com/kenji52.hokekyo.html

5. 中川隆[-10822] koaQ7Jey 2024年4月24日 12:00:58 : 4WrjOf869I : ZldWV3g5QnZacVU=[3] 報告

【Front Japan 桜】宮沢賢治が伝えたかったもの[桜R6/4/24]
銀谷翠
https://www.youtube.com/watch?v=j4Stw8OTuuk
6. 中川隆[-8839] koaQ7Jey 2024年10月14日 06:36:54 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[4] 報告
<■296行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
宮沢賢治の父政次郎はなぜ日蓮宗に改宗したのか
2024年9月15日
https://ihatov.cc/blog/archives/2024/09/post_1125.htm

 宮沢賢治の父政次郎は、若い頃から浄土真宗の篤信家で、自ら大量の仏教書を買い求めて読破するだけでなく、花巻仏教会の幹事役となって、夏期講習会には村上専精、近角常観、島地大等、暁烏敏など、当時の浄土真宗学僧の錚々たるメンバーを招聘し、人々とともに研鑽を深めていました。また、宮沢家の菩提寺である安浄寺(真宗大谷派)では、檀家総代も務めていました。
 このような父の薫陶のもと、賢治も幼い頃から浄土真宗の仏典に親しみ、物心つくと「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦して親戚を驚かせ、中学4年時に父にあてた手紙では、「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候〔中略〕念仏も唱へ居り候。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候」と、熱い信仰を吐露しています。

 ところが、この賢治が青年期になると、決然として浄土真宗と袂を分かち、法華経および日蓮を熱烈に尊崇するようになります。そして、父親と連夜の宗教論争を闘わせたのです。
 激論の様子は、『新校本全集』年譜篇では次のように記されています。

 政次郎の信仰は浄土真宗であるのに、正に青天の霹靂というべきか、賢治の法華経への帰依による改宗申し入れが行われ、連夜の争論に家内中まっ暗になったのは、1920(大正9)年、賢治が盛岡高等農林学校研究生を終えて、家に戻ったときである。ふたりはいちいち経典をあげ、くり返しくり返し論じあい、賢治が「死をかけている」といえば「思い上るな。いくらも知らない者が軽率に言うな」と叱り、店の者は親子喧嘩かと思い、イチや妹たちはおろおろと嘆き、なぜこのように烈しく言いあうのか、一方を聞けばそうかとうなずき、一方が言えばもっともと思い、どちらもお釈迦さまのおっしゃったことなのだから、だれかとめに入ってほしいと願う。イチは思い余って政次郎の法友高橋勘太郎を訪ねて相談したこともある。ある夜果てしない論議のうちに時が経ち、寝ずに侍はべっている母娘に向かった政次郎は「聞いていてひどかったろう(辛かったろう)。だが大事なことを言いあったので喧嘩ではないのだからな」と涙を流したことがある。

(『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)年譜篇pp.17-18)

 血気盛んな賢治に対して、父政次郎も一歩も譲らず、厳しく受け答えをしていたのだと思われますが、論戦はいつまでも決着が付かず、遂に1921年1月の賢治の家出に至ります。家出の目的の一つは、「家族皆が法華経と日蓮に帰依するまで戻らない」と宣言することによって、家族の改宗を図ろうとするものでしたが、やはり政次郎は譲らず、結局賢治は目的を果たせないままに、妹トシの病気の知らせを受けて帰郷しました。

 その後も、賢治は法華経と日蓮への信仰を貫き、また政次郎の浄土真宗信仰も変わりませんでしたが、以後は両者が表立って論戦をすることはなくなったようです。

 そして賢治は、亡くなる直前にも「南無妙法蓮華経」と高唱し、『国訳 妙法蓮華経』千部を人々に配付することを遺言したのですが、自らの死後の扱いについては、現在伝えられているかぎりでは、何も遺志は示さなかったのかと思われます。
 きっと賢治の本心では、自分の遺骨は妹トシと同じく三保にある国柱会の「最勝閣」に納めてほしかったでしょうし、国柱会からの法諡を受けたかっただろうと思うのですが、現実には賢治の葬儀は浄土真宗の安浄寺で行われ、いったん「釈亮祐」という真宗の法名が贈られて、安浄寺の宮沢家代々の墓地に葬られました。(その後、国柱会から9月27日付けで「真金院三不日賢善男子」という法諡が贈られ、現在はこちらが用いられています。)

 歴史学者で賢治研究家の小倉豊文氏が、この安浄寺の墓地に政次郎氏が案内してくれた時のことを、次のように書いています。

私は政次郎翁に安浄寺の宮沢家の墓地に案内されたことがある。そこで賢治の遺骨が一基の先祖代々の墓石の下に納められていると知り、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」といった言葉をきいた時は、父の「えらさ」に頭がさがり、さらには浄土真宗の「倶会一処」の信仰に感じ入ったのであった。

(小倉豊文「二つのブラックボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 「倶会くえ一処いっしょ」とは『仏説阿弥陀経』にある言葉だそうで、「倶ともに一つ処ところで会う」と読み下し、誰しも死んだらすぐに浄土に往生して、そこで皆に出会うのだという教えです。
 政次郎の揺るぎない浄土信仰に、小倉氏も打たれたのでしょう。

 ところが、その政次郎氏が、賢治の死後18年も経った1951年になって、宮沢家の宗旨を日蓮宗に改宗し、先祖代々の墓も、浄土真宗の安浄寺から日蓮宗の身照寺に移したのです。
 政次郎のこの決断には、小倉豊文氏も唖然としたということです。

 賢治ばかりでなく、父政次郎翁の宗教信仰についても私には解けぬ謎がある。真宗安浄寺の宮沢家の代々墓のなかに賢治も納骨されていたこと、父が賢治の墓を別につくらなかった「えらさ」を私が感じ入ったことは前述したところである。ところが昭和25〜6年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、二十回忌記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無銘の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代表的造形でもあったからである。

(小倉豊文「二つのブラック・ボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 そして、それからさらに数年後……。

 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治の勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高校(現在は飛行場近くに移転改築されて、跡地は公会堂や公園になっている)近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮沢家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治之墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然としたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和27年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第11巻の出たのが昭和32年2月27日であったが、建塔・移墓はそのころであったとのこと。政次郎翁が84歳で永眠したのは、同じ年の3月1日である。
 従って私は、政次郎翁の真宗から法華宗に転じた信仰の由来をきく機会を永久に失った。

(小倉豊文「二つのブラック・ボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 父政次郎は、賢治との議論においては毫も曲げなかった浄土真宗の信仰を、彼の死後相当な年月が経ってから、日蓮宗に変えてしまったのです。
 いったい何が、政次郎をそうさせたのでしょうか。

 生前の政次郎氏と親しく宗教談義を交わした宗教史学者の小倉豊文氏でさえ、その改宗の理由は、謎の「ブラック・ボックス」だと言うのですから、ここで私ごときが少々考えを巡らしたところで、真相がわかるというものではないでしょう。
 しかし、当時政次郎氏の周囲にいて事情を知っていた可能性のある人が、その改宗の経緯について書き残してくれている文章が、少なくとも二つありますので、ここではとりあえずそれらを確認しておくことにします。
 まず、晩年の賢治の主治医で、『宮沢賢治─素顔のわが友─』を著した佐藤隆房氏は、次のように記しています。

 浄土真宗の父に背き日蓮宗に篤信の賢治さんが、折伏の大義にたちまして父の違法を破折屈服しようとしたのですが、対立のままで賢治さんは亡くなったのです。賢治さんが亡くなったあと、その悲しみ、さびしさをしみじみと感じた政次郎さん夫婦は、賢治さんの心をあわれと思ったのでしょう。祖先の仏壇とは別に、特に賢治さんの仏壇を設け毎日礼拝し、賢治さんの遺言にて出版した国訳妙法蓮華経を品第一からお二人並んで読みすすみました。読みすすむにつれ、夫婦は賢治さんの主張に今更ながら深い感銘を覚え、改宗したのです。

(佐藤隆房『宮沢賢治─素顔のわが友─』pp.313-314)

 すなわち、佐藤隆房氏によれば、政次郎が改宗した理由は、政次郎自身が宗教的回心に至ったからだ、というわけです。

 一方、農学校における賢治の元同僚で、浄土真宗の僧でもあった白藤慈秀氏は、宮沢家の改宗について、次のように書いています。

 宮沢さんは、お父さんに言われたことは、お父さん、若し私が亡くなった後で私を思い出すことがあらば南無妙法蓮華経と唱えて私を喚び出して下さい、との烈々な願いに、厳父は、今まで何度も議論し争ってきた一切のゆきがかりを捨て、日蓮宗と浄土真宗の優劣成敗を抛って、賢治お前の言う日蓮宗に転向すると決意されたのである。
 お父さんとしては、この世に不思議な因縁をもって親と呼ばれ、子と呼ぶことに限りない愛情を感じ至情至愛の温かい情愛に催されて堅く閉ざしていた心の扉を開き、賢治さんの心に惹かれたのである。この世五十年七十年の間の親子でなく未来永遠、後の世まで親子でありたい賢治が死後、日蓮宗のいう霊山浄土に生まれて往くならば、私も賢治の往く霊山浄土に生まれることに同意すると言われた。
 子を憶う親の心は計り知れないほど高くまた深い。親子が各異各解の域を越えて、同一の信仰の天地に融合し同調した世界は誠に美しい。宮沢家はこの日蓮宗の信仰に安住の灯をかかげることになった。

(白藤慈秀『こぼれ話宮沢賢治』p.82)

 すなわち、白藤慈秀氏によれば、政次郎が改宗した理由は、賢治との間の親子の絆を、何より大切にしようとしたからだ、というわけです。

 佐藤隆房氏と言えば、賢治の死後も政次郎氏と親密な関係を継続していた人で、桜の賢治詩碑の建立の際には、その実行委員長を務めました。このような人の記していることは、十分な信頼に足るものと思われます。
 一方、白藤慈秀氏は浄土真宗の僧侶として、島地大等の後に盛岡願教寺の院代を務めたほどの仏教者で、何度か政次郎氏を訪ねて宗教談義もしていたということですから、やはりその話はそれなりに信頼できるでしょう。

 となると、今さらこれ以上あれこれ考えなくても、二人の説に従っておけばよいのではないかとも思われるのですが、ただ政次郎の改宗理由に関する上記の二人の説明は、明らかに「ずれ」があるように思われて、私としてはどうしてもそのまま受け容れがたいのです。
 まず佐藤隆房氏によれば、政次郎が改宗した理由は、「賢治さんの主張に今更ながら深い感銘を覚え」たからだということで、「賢治さんの主張=日蓮の教義の内容」によるのだということです。
 一方、白藤慈秀氏によれば、政次郎は「日蓮宗と浄土真宗の優劣成敗を抛なげうって」、とにかく親子の結びつきを優先した結果なのだということであり、教えの内容は二の次なのです。
 この違いは、いったいどう理解したらよいのでしょうか。

 それともう一つ、私としてこの二人の説明に違和感を覚えてしまうのは、政次郎が佐藤説のように日蓮の教えに感銘を受けて宗教的回心をしたとしても、あるいは白藤説のようにただただ賢治との親子の絆を大切にしたかったとしても、それらはいずれも政次郎氏の「個人的な思い」です。
 そのどちらも、十分に理解できる思いではありますが、はたしてこういう個人的な感情だけで、政次郎氏のように己の社会的立場をわきまえた人が、先祖から連綿と引き継がれてきた菩提寺を変更したり、墓所を移設したりなどというような、「家」の伝統を根本から変えてしまう行動に出るものだろうかということが、私としては非常に疑問に感じるのです。

 檀家総代まで務めていた、門徒の中心的な名家が菩提寺を変更するとなると、安浄寺にとっては相当な衝撃でしょうし、地域社会に与える影響も、計り知れないものがあるでしょう。
 かりに政次郎氏が、日蓮の教えに深く共感するようになったとしても、あるいは賢治との親子の絆のために「南無妙法蓮華経」を日夜唱えたかったとしても、それは個人的な信仰のあり方として、家の中でプライベートに行えばよいことであって、何も菩提寺変更や墓所移設のような公の行動を、大々的にとる必要があるものでしょうか。

 それに、白藤慈秀氏が引用している「南無妙法蓮華経と唱えて私を喚び出して下さい」という話は、賢治が1931年の上京時に病に倒れた際に両親あてに書いた遺書(書簡393)の、「どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答えいたします」とあるのを指しているのでしょうが、賢治は両親のために、ここにわざわざ「ご信仰といふのではなくても」と書いているのです。年をとって丸くなった賢治は、あえて両親に法華経への信仰を求めず、浄土真宗のままでもよいから、ただ合い言葉のように「南無妙法蓮華経」とさえ唱えてもらえれば、自分はそれに答えると言っているのです。
 賢治のこの言葉が根拠であれば、政次郎は何も改宗までする必要はなかったはずです。

 すなわち、私が想像するところでは、政次郎が改宗や墓所移設によって、「個人」を超えた「家」のあり方まで変更したということは、その理由も政次郎自身の個人的な事情ではなくて、何か「個人を超えた事柄」だったのではないかと思うのです。

 それでは、その「個人を超えた事柄」とは何か、ということが問題ですが、結論から申し上げると、それは政次郎氏が、「もはや賢治は、単に『宮沢家の一員』であることを超越して、『国民的作家』になってしまった」と認識し、そうなった以上「宮沢家」も、その事態に対応したあり方に変わらなければならないと判断したことによるのではないかと、私は想像します。

 私がそう考える理由は、小倉豊文氏の「二つのブラック・ボックス」という文章を読むと、政次郎氏が小倉氏に「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と言い、実際に五輪塔の供養塔を建立して「宮沢賢治之墓」という木柱を建てたことと、宮沢家が日蓮宗に改宗したこととは、別個の出来事ではなく、一連の計画のもとにあると感じられることにあります。
 1940年頃の政次郎は小倉氏に、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」と言って、賢治も先祖代々の墓に納めていたのが、1950〜1951年頃には180度転換して、「賢治の墓を作る」と言い、それから時を置かず日蓮宗に改宗しているのです。
 つまり、あくまでも「宮沢家」が根本にあって、「賢治」がその一員として従属している状態から、逆に「賢治」の方に合わせて、「宮沢家」のあり方を再編しようとしているのだと思われます。

 ここであらためて、賢治が「国民的作家」となっていった過程を、簡単にたどってみましょう。
 1933年9月21日に賢治が死去した翌日の『岩手日報』夕刊には、「詩人宮沢賢治氏/きのふ永眠す/日本詩壇の輝しい巨星墜つ」という記事が載るなど、地元ではかなり大きく取り上げられました。しかし、「地元の有名人」クラスの存在は、全国各地に大勢いるものですし、こういう人は亡くなった時には地元で大々的に報じられたとしても、何十年かが経てば、直系の子孫以外に知る人はいなくなってしまうものです。
 賢治もこのレベルで終わっておれば、父政次郎としても、息子を「宮沢家の一員」として扱っておくだけでよかったのです。

 しかし、賢治の全国的知名度は、その死後にどんどん上昇して行きます。1934〜1935年刊の『文圃堂版全集』に続いて、1939〜1947年には『十字屋版全集』、戦後まもなくの1946〜1948年には『組合版文庫』と、10年ほどの間に3種類の全集が出版されます。1938年には松田甚次郎の『土に叫ぶ』がベストセラーになって賢治の名前が広く世に知られ、翌年に松田の編集による『宮沢賢治傑作選』も刊行されました。
 1940年には日活版の映画「風の又三郎」が、児童映画として高く評価されて文部大臣賞を受け、1942年には大政翼賛会が刊行する『詩歌翼賛』に「〔雨ニモマケズ〕」が収録され、さらに多くの国民の読むところとなりました。
 戦後になると、戦前の教科書に掲載されていた軍国的なテクストが全て抹消される一方、1947年から「どんぐりと山猫」、1950年から「気のいい火山弾」が、毎年のように小学校教科書に採用されていきます。この「教科書に載る」というのは、多くの国民が好むと好まざるとにかかわらず、学校で一律に読まされ刷り込まれるテクストになるということを意味し、賢治が「国民的作家」となる上では、非常に重要なステップだったと言えるでしょう。

 このような過程を経て、遅くとも1950年頃までに宮沢賢治は、「日本中ほとんどの人がその作品を読んでいる作家」になったのです。
 そうなると、「宮沢家」と「宮沢賢治」の関係は、もはや「宮沢賢治は、宮沢家の一員である」という状態では収まらなくなり、「宮沢家とは、宮沢賢治を生み出した家である」という形で、人々から見られるようになるでしょう。
 ここで、「家」と「個人」の主従関係が、逆転してくるのです。戦後まもない時期に、宮沢政次郎氏が直面せざるをえなかったのは、このような事態だったのではないでしょうか。

 たとえば、吉本隆明の『初期作品集』に収録されている「詩碑を訪れて」という文章には、米沢工業高等学校の学生だった吉本が、1942年に花巻の宮沢商会を訪ねて、清六氏と思しき人から詩碑に行く道順を親切に教えてもらった様子が記されています。賢治が有名になるにつれて、このようにして賢治の故郷を訪ねて来る人々は、毎年相当な人数になっていったでしょうが、彼の墓に参りたいと思ってはるばるやって来た人は、浄土真宗の安浄寺にある宮沢家代々の墓の前に来て、どんな印象を持ったでしょうか。

 下写真は、日蓮宗の身照寺にある現在の宮沢家墓所で、向かって左の五輪塔が賢治の供養塔(墓?)で、右が宮沢家の代々墓です。代々墓の方は、ご覧のように「骨堂」と刻んであるだけで、正面には「宮沢」という家名も入っていません。

20240915b.jpg

 墓地が移設される前には、賢治の熱烈な法華経信仰を知っている読者が墓参に来て、彼が浄土真宗のお寺に埋葬されている現実を目にしたならば、どうしても違和感を覚えたのではないでしょうか。若い頃の賢治が浄土真宗を激しく批判していたことや、遺言で法華経を配ったことを知っている人なら、なおさらです。
 そしてそういう疑問について、政次郎氏や清六氏に尋ねてみた墓参者も、いたのではないかと思います。中には、「あれほど反発していた浄土真宗のお墓に入れられているなんて、賢治が可哀そう」などと、一方的なことを言う人も、あったかもしれません。

 本来、「宮沢家代々之墓」とは、宮沢家の子孫の方々が静かにお参りするための場所だったはずで、そこに外部の人が大勢やって来るなどということは、想定もされていなかったことでしょう。
 しかし、賢治が「国民的作家」になってしまった結果、その想定外の事態が、安浄寺の新たな日常になってしまったのではないかと思います。

 そして、これが先に述べた、政次郎氏が改宗や墓地移設を決断するに至ったところの、「個人を超えた事情」だったのではないかと、私は想像する次第です。

 一方、改宗および墓地移設の「理由」が、「個人を越えた事情」であったとすれば、その「目的」も、誰か「個人」のためではなくて、「個人を超えた存在」のためだったのではないか、という類推が成り立つでしょう。
 その目的が「政次郎のため」でなかったのは、すでに見たとおりです。そして、個人としての「賢治のため」でもなかったのは、賢治の死後もずっと政次郎は、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」と言っていたことに、表れています。
 では誰のためだったのかというと、上記でいろいろと見てきたように、政次郎氏の決断の目的は、「国民的作家となった賢治を敬愛するみんなのため」だったのではないかと、私は想像するのです。

 いずれにせよ、日蓮宗のお寺に賢治個人の立派な供養塔が設けられている現状においては、彼のことを慕って訪れた墓参者は、素直な気持ちでこの五輪塔の前で手を合わせ、自らの賢治への思いを伝えることができるわけです。
https://ihatov.cc/blog/archives/2024/09/post_1125.htm

7. 中川隆[-8836] koaQ7Jey 2024年10月14日 06:42:03 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[7] 報告
作家別作品リスト:宮沢 賢治
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person81.html

宮沢賢治童話集
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/868.html

宮沢賢治の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/751.html 

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