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地獄に落ちろ、ドナルド・ラムズフェルド
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1683.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 7 月 06 日 00:29:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 悪の帝国と闘ったサダム・フセイン 投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 07 日 06:54:21)

地獄に落ちろ、ドナルド・ラムズフェルド(マスコミに載らない海外記事)
http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/687.html

2021年7月 5日 マスコミに載らない海外記事


Ben Burgis
2021年6月30日
JACOBIN

 ブッシュ政権の国防長官ドナルド・ラムズフェルドが88歳で亡くなった。人類に対する犯罪で裁判にかけられる前に、ラムズフェルドが死んだのは悲劇だ。


2010年、国防総省でのドナルド・ラムズフェルド。Wikimedia Commons

 ドナルド・ラムズフェルドが88歳で亡くなった。ニューヨークタイムズやCNNのようなメディアの死亡記事は一貫して、印象的ながら無意味な同じ話題に言及している。彼はアメリカ(フォード政権で)最年少、(ジョージ・W.・ブッシュ政権で)最高齢の国防長官だった。彼は実に多くの主題について、「雪片」として知られるようになった実に多くのメモを書いた。1970年代にペンタゴンに入り「片手腕立て伏せとスカッシュ・コートでの優れた能力」で有名になったとタイムズが書いている。

 このばかげた丸ごとを見るには、事務所の運営方法やサッカー愛好についてのの当たり障りのない詳細が記憶に残るスロボダン・ミロシェビッチの死亡記事か、彼が公式に1979年にイラク大統領になった際、どれだけ若かったか、バグダッド宮殿のお好みのデザートに集中したサダム・フセインの死亡記事を想像願いたい。

 策略家ディックの一期目、ラムズフェルドは、ニクソン政権における様々な職を勤めた。彼は1973年に、NATOアメリカ大使になるため、ホワイトハウスを離れたが、結局ニクソン辞任後、フォード大統領の移行委員長として、次にホワイトハウス首席補佐官になるため戻ったに過ぎなかった。彼は1975年、アメリカ最後のヘリコプターがベトナムを去った年まで首席補佐官だった。その年10月、彼は国防長官になった。

 これらの当たり障りのない事実をバランスのとれた見方で見るには、リチャード・ニクソンがベトナム戦争を終わらせる「秘密計画」があるというばかばかしい主張で立候補したことを想起願いたい。実際はクリストファー・ヒッチンスがThe Trial of Henry Kissingerで詳細に説明している通り、ニクソンと彼の同盟者は、ニクソンが選挙に勝つのを保証するため、アメリカと北と南ベトナム間の和平会談を妨害しようと企んでいたのだ。

 ニクソンの「計画」は、少なくとも実際は、ゆっくり戦争に負けることだったが、中立のカンボジアに爆弾投下して、侵略して、それを拡大した後でだ。ニクソンとフォードのホワイトハウスとNATOにおけるラムズフェルド時代、アメリカ帝国は、アメリカに同盟する腐敗した極めて不人気な政権を維持するため、膨大な人数のベトナム農民を銃撃し、手足をばらばらし、文字通り焼き殺していた。

 当時、ニクソンがホワイトハウスの録音テープで、ドナルド・ラムズフェルドを「無情なろくでなし」と呼んでいたのを聞ける。国内の政敵に対して違法に共謀し、ベトナムやラオスやカンボジアにおける大量殺戮レベルの死を監督した男ニクソンから、一体どんな連中がその種の称賛を得られるかについては考える価値がある。


1976年10月6日パネルインタビューで質問に答えるドナルド・ラムズフェルド国防長官。ロバート・D・ウォード/Wikimedia Commons

 公正に言えば、最初の一年か二年、ニクソン政権で、ラムズフェルドは経済機会局局長として、貧しい人々を助ける計画を停止するのを支援した。だがいくつかの他の地位で、彼は直接帝国の戦争機構と関係していた。もし第二次世界大戦後に捕らえられた戦争犯罪人にアメリカが適用した水準を、アメリカ当局者に適用されれば、それだけで、彼が強い罰を受けるのに十分だったかもしれない。

 だが人類に対する犯罪への、ラムズフェルドの最も重要な個人的関与は、後に、国防長官としての二期目に起きた。彼はアフガニスタン侵略を監督して、アメリカ史上最長の戦争を始めたのだ。

 公式の正当化は、タリバーン政権が、9/11事件テロ攻撃後、アメリカにオサマ・ビンラディンを引き渡すのを拒否したことだった。この原則が首尾一貫して適用されて、テロリストを匿うのは戦争の十分な根拠なら、キューバがマイアミに爆弾を投下するの認めることになる。それは世界中の、限りなく張り詰めた対立をしている二国が、全面戦争や混乱に拡大させるのを正当化することになる。だが、帝国であることの要点は、世界の他の国々とは違ったルールで活動できることだ。

 ジョージ・W・ブッシュの国防長官としてのラムズフェルド二期目に、ブッシュ、ラムズフェルド、チェイニーや、他の連中がイラク侵略を推進した時、正当化は一層弱かった。サダム・フセインは彼自身が「大量虐殺兵器」を使うか、将来ある時点で、アルカイダとそれらを共有するかもしれないと我々は吹き込まれた。それでそれが決して起きないようにするため、クラスター爆弾を投下し、侵略し、占拠することが重要だった。念のために。世界の他の国々がそのルールで活動できるかどうか想像願いたい。

 2004年5月13日、バグダッド、イラクの周辺でアブグレイブ刑務所の軍要員に演説するドナルド・ラムズフェルド国防長官。

ジム・マクミラン-ビリヤード/ゲティイメージ

 その年、ナショナル・レビューの悪名高いコラムで、ジョナ・ゴールドバーグは友人のマイケル・レディーンの古い演説を引用して、満足げにイラク侵略支持の最も率直な主張をした。「10年毎程度に、アメリカは、どこか、ひどい小さな国を選んで、壁に向かってそれを投げつけて、世界に我々が本気であることを示す必要がある。」同じ時期、同じ主題で、トーマス・フリードマンはニューヨークタイムズで「これらの国々」と彼らの「テロリスト」連中は、まさしくブッシュ政権の戦争挑発の予知不可能さについて重要なメッセージを送られていたと言った。我々はお前が、浴槽で何を料理しているか知っている。「我々は、それに対して何をしようとするか正確には分からないが、もしお前が、我々が座視して、お前から更なる攻撃を受けるつもりだと思うなら、お前は間違っている。ドン・ラムズフェルドがいる。彼はお前たちより、もっと狂っているから。」

 ブッシュの国防長官としてのラムズフェルド時代、アメリカが選んだ「ひどい小さな国」の国民に対する実践で、ドナルド・ラムズフェルドの狂気がどのようなものだったかは、ここでわかる。ラムズフェルドが長官の座を去った2006年、世界で最も高名な医学雑誌ランセットの一冊に発表された査読付き研究は、2003年侵略以来、イラクで654,965人の「過剰死亡」を推計した。イラク総人口の2.5パーセントが戦争の結果亡くなったのだ。

 これは、もちろんこの地域が2003年の侵略で不安定化にされて以来、18年、地域を揺り動かし続けた混乱や流血のらせん状の波を考慮に入れていない。類似の事態がアフガニスタンで、より小さな規模で展開し、そこにアメリカ部隊は依然駐留しており、ラムズフェルドと友人が侵略をしたほぼ20年後、結婚式参列者が依然爆撃されている。

 この死者推計は、これらの国々で愛する家族を失った家族の悲嘆を書き(言い)落としている。自宅から追い出された何百万人もの難民を抜かしている。手足が吹き飛ばされた人々、あるいは、そうした人々の世話をしなければならない人々の苦しみを書き(言い)落としている。

 それは、ラムズフェルド国防長官時代の最も衝撃的な側面の一つを書き(言い)落としている。彼らが「高等尋問技法」と呼んだもの、良心のかけらを持ったどんな人間でも「拷問」と呼ぶものを彼やブッシュ大統領が、あからさまに容認したことを。違法テロへの関与(あるいは彼らの国の侵略に対する抵抗への関与)の嫌疑で拘留された容疑者がイラクやアフガニスタンや、グアンタナモ湾や世界中の他のどこかの、悪名高い無法「施設」で、ラムズフェルドの監督下で拷問にかけられたことを。一部はCIAの援助の下で行われた。だが多くがラムズフェルド国防省管轄下にあった。


 2003年、イラクのアブグレイブ刑務所で、裸で頭巾をかぶされた捕虜と一緒のチャールズ・グラナー技術兵とサブリナ・ハーマン技術兵。囚人は人間ピラミッドを作るよう強いられた。Wikimedia Commons

 2006年、ベルリンの弁護士ウォルフガング・カレクは拷問への関与のかどで、ラムズフェルドと数人の他のアメリカ当局者に対し、正式な刑事告発を提出した。言うまでもなく、ラムズフェルドはドイツや他のどこでも法廷内を決して見ずに済んだ。

 その意味で、その意味でだけ、ドナルド・ラムズフェルドは余りに早く亡くなった。  

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コメント
1. 中川隆[-5098] koaQ7Jey 2021年7月06日 12:44:04 : SCCzU5D3XF : eFNVRS9iT3BRQ2s=[10] 報告
2021.07.05
自宅で息を引き取ったラムズフェルドの血とカネにまみれた人生(1/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202107050001/


 ドナルド・ラムズフェルドが6月29日、ニューメキシコ州の自宅で多発性骨髄腫のために死亡したと報道されている。88歳だった。

 ジェラルド・フォードが大統領だった1975年11月から77年1月、そしてジョージ・W・ブッシュが大統領だった2001年1月から06年12月に国防長官をラムズフェルドは務めたが、ブッシュ時代にアメリカ軍は従属国の軍隊を率いて2003年3月にイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を倒している。

 この戦争で殺されたイラク市民は100万人を超すと推測されている。例えばアメリカのジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると、2003年の開戦から2006年7月までに約65万人のイラク人が殺されたという。イギリスのORBは2007年夏までに94万6000名から112万人が死亡、またNGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは133万9000人余りが殺されたとしている。こうしたことから、ラムズフェルドを「戦争犯罪人」と呼ぶ人がいる。

 ラムズフェルドが表舞台に出てきたのはフォード政権の時である。リチャード・ニクソンが1974年8月にウォーターゲート事件で大統領を辞職、副大統領だったフォードが昇格したのだが、選挙でニクソンが勝利した時の副大統領はスピロ・アグニューだった。このアグニューが汚職事件の捜査対象となって1973年10月に辞任、下院議員のフォードに交代していたのだ。

 フォード政権の特徴はデタント派の粛清とシオニストの一派であるネオコンの台頭である。粛清の中でも特に重要な意味を持つと考えられているのは国防長官とCIA長官の交代だろう。1975年11月に国防長官はジェームズ・シュレシンジャーからラムズフェルドへ、76年1月にCIA長官はウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへそれぞれ交代している。

 コルビーはアレン・ダレスの側近として第2次世界大戦中から破壊工作の分野を歩いていた。ベトナム戦争の際、1968年から71年までベトナムの農民を殺戮するフェニックス・プログラムを指揮していた。大量殺戮を行った目的は共同体を破壊し、抵抗の基盤をなくすことにあったと推測する人もいる。ソンミ事件はその作戦の一環だったと見られている。

 1968年3月に南ベトナムのカンガイ省ソンミ村のミライ集落とミケ集落において農民がウィリアム・カリー大尉が率いる小隊に虐殺されたのだ。アメリカ軍によると犠牲になった村民の数はミライだけで347名、ベトナム側の主張ではミライとミケを合わせて504名だされている。

 この虐殺が発覚した一因は、農民が殺害されている最中に現場の上空にさしかかったアメリカ軍のOH-23偵察ヘリコプターが介入、虐殺を止めさせたからだ。その際、ヘリコプターからヒュー・トンプソンという兵士が農民を助けるために地上へ降りている。

 トンプソンを含むアメリカ軍の兵士は帰国後、ベトナムで住民を虐殺している実態を議員などに告発しているが、政治家は動かない。アメリカ軍には従軍記者や従軍カメラマンがいたが、そうした人びとも沈黙を守った。

 虐殺事件を明らかにする記事を書いたシーモア・ハーシュは従軍していたわけでなく、ジェフリー・コーワンという人物から聞いて取材を始めたのである。コーワンは1968年の大統領選挙で民主党の上院議員でベトナム戦争に反対していたユージン・マッカーシーの選挙キャンペーンに参加していた。ハーシュの記事はAPが配信している。

 事件が報道されるとCIAは事件の隠蔽を図る。調査を任されたウィリアム・ピアーズ将軍は第2次世界大戦中、CIAの前身であるOSSに所属、1950年代の初頭にはCIA台湾支局長を務め、その後もCIAとの関係は続いていた。その調査を受けて16名が告発されたものの、裁判を受けたのは4人にすぎず、そして有罪判決を受けたのはカリー大尉だけ。そのカリーもすぐに減刑されている。

 そうした虐殺事件などをもみ消す役割を負っていたひとりが1968年7月に少佐としてベトナム入りしたコリン・パウエルだ。カリー大尉の小隊は第23歩兵師団に所属していたが、パウエルが配属されたのも第23歩兵師団で、虐殺について知っていた。2004年5月にパウエルはCNNのラリー・キング・ライブに出演、ソンミ村の虐殺現場へ後に彼も入ったと語っている。

 コルビーはフランク・チャーチ上院議員が委員長を務める「情報活動に関する政府による作戦を調査する特別委員会」でCIA長官として情報機関の秘密工作などについて説明している。

 その中にフェニックス・プログラムも含まれていた。議会の公聴会では「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」とも証言した。こうした虐殺を南ベトナム民族解放戦線が行ったように見せかけることも工作の重要な要素だったという。(Tom O’Neill, “Chaos,” William Heinemann, 2019)

 言うまでもなく、こうした証言は犯罪行為に加わっていた人びとの怒りを買い、粛清の対象になったわけだ。コルビーの後任は父親がアレン・ダレスと親しく、エール大学でCIAにリクルートされたと言われているジョージ・H・W・ブッシュだ。

 ジェラルド・フォード政権でデタント派の粛清を主導したのは大統領首席補佐官だったラムズフェルドとリチャード・チェイニー大統領副補佐官。その背後にはポール・ニッツェやアルバート・ウールステッターを中心とするグループが存在した。

 ジョージ・H・W・ブッシュは1981年から副大統領を務める。当時の大統領はロナルド・レーガン。1983年12月にラムズフェルドはイラクのサダム・フセインを訪ね、84年8月にはフセインへ衛星写真などの情報を提供し始めた。その後、6年にわたってアメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)はイラン軍の動向や艦船の配置、戦術的作戦、空爆計画などに関する詳しい情報をイラク側に提供したと伝えられている。イラクへの武器供給はエジプトやサウジアラビアなどを通じて行われた。(James S. Henry, “The Blood Bankers”, Four Walls Eight Windows, 2003)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202107050001/


2021.07.06
自宅で息を引き取ったラムズフェルドの血とカネにまみれた人生(2/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202107050001/

 ジョージ・W・ブッシュ政権でも国防長官に就任したドナルド・ラムズフェルドはネオコンの戦略家であるアンドリュー・マーシャルの助言に基づき、中国を脅威だと叫ぶ。1991年12月にソ連というライバルが消滅、その後に潜在的なライバルと見なされた中国が新たなターゲットになったわけである。これは1992年2月に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンと符合している。

 ラムズフェルドは2001年12月に統合参謀本部の作戦部長だったグレゴリー・ニューボルド将軍をオフィスに呼びつけ、イラク侵攻作戦について報告させた。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)

 ネオコンが偽情報を流していることは、軍の上層部も認識、ニューボルドも後にイラク侵攻作戦に反対し、退役に追い込まれる。このほかにも統合参謀本部にはイラク攻撃に反対する軍人はすくなくなかったと言われている。イラク侵攻作戦を開始する前、エリック・シンセキ陸軍参謀総長が議会でラムズフェルドの戦略を批判、グレグ・ニューボルド海兵隊中将も2002年10月に統合参謀本部の作戦部長を辞している。そのほかアンソニー・ジニー元中央軍司令官、ポール・イートン少将、ジョン・バチステ少将、チャールズ・スワンナック少将、ジョン・リッグス少将もラムズフェルド長官を批判している。

 CIAの内部でもイラクの大量破壊兵器に関する情報が信頼できないことは早い段階から認識され、イラク侵攻に疑問を持つ人もいただろう。そこでイラク攻撃をCIAの内部に浸透させる作業も行われた。例えば、2002年11月に中東全域のCIA支局長がロンドンに集められ、CIAのIOG(イラク作戦グループ)は参加者に対し、戦争は決定済みであり、嫌なら辞めろと脅したという。(James Risen, “State of War,” Free Press, 2006)

 こうしたことが行われていたとなれば、「大量破壊兵器」に関する情報が信頼できないとする情報はコリン・パウエル国務長官の耳にも入っていただろうが、パウエルは2003年2月に国連でフセイン政権が間違いなく生物兵器を開発、生産能力もあると主張した。

 国連でパウエルがプレゼンテーションした9日後、UNMOVIC(国際連合監視検証査察委員会)のハンス・ブリックス委員長とIAEA(国際原子力機関)のモハメド・エルバラダイ事務局長が同じ場所に登場、調査は継続中で、大量破壊兵器の存在を示す証拠は見つかっていないと発言している。これを聞いたパウエルは激怒したというが、勿論、イラクに大量破壊兵器は存在しなかった。

 そもそも​イラクでアメリカ政府が何をしようとしているかをパウエルは知っていたはず​だと1991年から98年までUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めたスコット・リッターは書いている。パウエルは1989年から93年まで、軍のトップである統合参謀本部議長を務めていた。

 2003年のイラク侵攻は1991年に行われた湾岸戦争の続編。湾岸戦争でジョージ・H・W・ブッシュ大統領がフセインを排除しなかったため、ネオコンは激怒、ウォルフォウィツはイラク、シリア、イランを壊滅させると口にしている。

 1991年にパウエルはリッターが所属していたUNSCOMを情報収集の道具として使うため、アメリカ軍のエリート部隊員をCIAの特別行動部門へ編入することを止めさせたという。

 パウエルは統合参謀本部議長としてCIAのIOGが存在していることを認識していただけでなく、フセインを排除するためにCIAがミサイルに関する間違った情報を主張していたことも知っていた。パウエルはベトナム戦争時代、権力者にとって都合の悪い事実を隠蔽することで出世したと言われている人物だ。パウエルとラムズフェルドは仲間だと言えるだろう。

 ラムズフェルドはフォード政権で国防長官を務めた後、1977年から85年にかけてGDシアーレという医薬品会社の経営に携わっている。当時、この会社は経営状況が悪化していて新薬で苦境を脱しようと目論んでいたが、その薬をFDA(食品医薬品局)は認可しない。薬品の検査報告が偽造されていた疑いがあったのだ。悪性腫瘍を良性と偽り、死んだラットを生きていることにしていたという。そんなときにラムズフェルドは経営者として迎え入れられたのである。

 FDAは検察に対してGDシアーレの違法行為を伝えたが、FDAの規定が曖昧だという理由で不起訴になった。この件を担当した検事はジョージ・H・W・ブッシュ政権で運輸長官に就任したサム・スキナーだ。

 この会社は人工甘味料でもFDAと対立していた。この物質は脳に病変を起こすとワシントン大学医学部のジョン・オルニー博士が証明、安全だと主張する会社側と対立する。

 1980年9月に問題の甘味料を許可しない評決が出たが、この年の大統領選挙でロナルド・レーガンがジミー・カーターの再選を阻止した直後にFDAの局長は解任され、政権発足後の4月には新しい局長としてアーサー・ハル・ヘイズが就任。ヘイズは1981年7月、問題の人工甘味料を認可した。

 ラムズフェルドは1997年から2001年までギリアド・サイエンシズという医薬品メーカーの会長を務めていた。2009年1月から10年8月にかけて「新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)」が流行した時、インフルエンザの特効薬としてタミフルが宣伝されたが、その薬を開発したのがギリアドだ。タミフルの評判は芳しくなく、需要が伸びない。そうした状況の中、2005年にアメリカの国防総省はタミフルを備蓄する目的で10億ドル以上の予算を計上、日本も大量に買っている。その時の国防長官はラムズフェルドだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202107050001/

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