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(回答先: 独裁者列伝 _ 毛沢東 投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 17 日 12:13:54)
周恩来
2009年05月13日 (水) 22:26
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周恩来
初代中華人民共和国総理として1949年から76年まで、27年にわたって中国を率いた周恩来を知らぬ者はいないだろう。
とりわけ、50〜70年、日本訪中団のほとんどの人たちと面会し、記念写真に収まっているから、彼を直接見た経験のある日本人もたくさん存命している。
その類い希な誠意と人間的な大きさ、優しさ、暖かみに触れるなら、周恩来を嫌いだと思うような人はほとんどいない。中国でも同じで、歴史上のあらゆる指導者のなかで、もっとも深く敬愛されている人である。
中国では敬愛する偉人を神として祀る風習がある。古くは越の范蠡(陶朱公)諸葛亮・関羽・張良などだが、周恩来も新しい民衆信仰として周恩来廟が建てられて祀られているようだ。
周恩来は、1898年3月5日、まだ清時代に、江蘇省淮安市で官僚地主の家に誕生した。清が滅び中華民国となった15歳のとき天津の南開中学校に入学し、孫文が起こした辛亥革命に触れる。
1917年、日本に留学、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、明治大学政治経済科に通学。こうした体験から、周恩来は日本に対し、特別の親しみを抱いていたようだ。
1920年パリに留学する。彼は中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部書記となった。この時代の仲間には、李立三や小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。
ここで、中国政権を見る上で大切な視点が明らかになる。
中国における読書階級、計画的、組織的な行動をシュミレーション可能だったインテリ階級は、半奴隷(農奴)社会であった中国にあっては、地主官僚階級子弟しか存在しなかった。
農民に教育の機会は与えられず、大部分が文盲であり、黄巾党・青幇・紅幇のような宗教的結社・犯罪結社に組織されることはあっても、政治結社は官僚・地主子弟の独壇場であった。
そして、そうした特権階級は、客家出身者が多く、洪秀全・孫文・宋慶齢姉妹・朱徳・彰徳懐・葉剣英・郭沫若・蓼承志・郵小平・李鵬・朱鎗基・李登輝・蒲万長氏・許信良・呉伯雄・シアヌーク・アキノ・リーグァンユー・ゴーチョクトンらは、すべて客家である。
客家は華僑の主役でもあり、その経済的実力が抜きんでていた。この経済力を背景に、子弟たちを欧米日各国に留学させ、中国の指導階級になっているのである。
ここで、我々は、中国共産党、建国の元老たちの正体が、すべて官僚地主階級出身者である事実を見ておかねばならない。
第一次国共合作が成立した1924年に帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌年、五・四学生運動時代の恋人穎超と結婚した。26年、上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。
その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。31年、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東に主導権を渡すのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。(ウィキ引用))
周恩来は、建国以来、表向き毛沢東の政治方針に従い続けたが、実際には、紅衛兵の狂信的な横暴に対して、身を挺して阻止する場面が多々あった。
例えば、最期の清国皇帝溥儀を殺害させないために、北京植物園の庭師に変身させ、恐ろしく強靱な妻を嫁がせて身を守らせ、文革をやり過ごさせた。川島芳子を守ったのも彼だ。
八路軍に対立した新四軍派の幹部がまとめて殺戮されそうになると、劉少奇を公式に批判することで、党の処分を名目に、その命を守ろうとした。
紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。
外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。
しかし限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の養女であり女優であった孫維世の悲劇がある。
孫維世は毛沢東の妻である江青の激しい憎悪の対象であった。江青のこの感情は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」(赤いプリンセス)と呼ばれていた彼女に毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われるが、その差し金によって逮捕された孫維世は北京獄中で拷問を受けて死亡した。
しかし周恩来は養女である彼女のために何もしなかった。それどころか、孫維世へ対する“ソ連修正主義者のスパイ”という逮捕状にサインしていたのは周恩来本人だったとの証言も残されており、この様な仕打ちを受けてまで毛沢東に追従し続けた彼を批判する声は多い。
(ウィキ引用、筆者は、この事件について詳しく知らないが、後に小平が、辛い思いをこらえて、本意ではないことを、やらなければ他の人を守れなかったと、この時期の彼の立場を弁護している)
転機となったのが1971年の林彪事件であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバ2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の暗殺を計画したが失敗(林彪は毛沢東が文革で中国を破壊する事に批判を強めていたとも言われる)。
ソ連に逃亡する途中に搭乗機がモンゴルで墜落し死亡した。これが契機となって小平が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。
周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。後に周恩来自身が侍医に「文革によって寿命が十年縮まった」と語ったと言う。
1972年、膀胱癌が発見され、1976年北京の解放軍第301病院で死亡した。
後に筆者は、このとき毛沢東が病院に対して出したとされる指示を知り、我が目を疑った。
それは、「周恩来を治療してはならない」というものだった。
それは、おそらく毛の名を使った四人組、江青の指示によるものだっただろう。周恩来の最晩年は、四人組との熾烈な戦いに翻弄される毎日だった。
彼の死後、民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを四人組当局が鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。
中国国民は文革の混乱に嫌気が差しており周恩来を尊敬していた。周を孔子になぞらえて批判し失脚をはかった四人組による「批林批孔運動」が国民の支持を集めなかったのも、そこに原因があった。人々は復権した小平を事態を収拾してくれる人物として喜び四人組に反感を持っていた。
ゆえに1976年1月の周恩来の死は国内に大きな悲しみをひきおこし、周を評価し四人組を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど文革全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。江青たちはこうした空気に危機感を募らせていた。
特に4月4日は清明節という中国のお盆にあたる日で、2万人近くの群衆が集まった。人々は周恩来に対し花輪や詩を捧げるだけでなく、四人組を批判する演説や「インターナショナル」を歌うなど気勢を上げた。
数日前から四人組の指示を受けた公安部による取り締まりが、花輪の撤去や街宣車による警告、説得や拘禁などの形で始まっていたが、かえって逆効果となる。ついには取締りに当たる警官や兵士までもが人々の熱気に感化されて職場を放棄する事態となった。
四人組は党中央を動かし、これを反革命行為ときめつけ実力行使に出る。この犠牲者や逮捕者は不明だが、発砲が行われ、第二次天安門事件と同じ数千名の死者が出たとも噂されている。
以来、中国民衆は周恩来に対する敬意を表だって示せば当局の弾圧を食らうことになり、密かに周恩来廟を建立して、崇拝するという風習が生まれることになった。
この事件で、四人組は耄碌した毛沢東に取り入り、小平が責任を問われて処罰され失脚したが、後に76年の毛沢東死亡後、葉剣英や華国峰らによって、四人組はやっと追放され、小平も復権した。
これで数千万人の知識人犠牲者を出したと言われる文革は終焉を迎えた。また四人組の極左的大殺戮の反動により、小平の指導した開放路線は、逆に右傾化した極端な資本主義化を招くことになった。
近世中国権力史にあって、文革は知識人、党実権派に対する巨大な革命戦争といわれたが、なぜ、そんな事態が起きたのか? といえば、最初に述べたように、中国革命勢力の指導者は、全員、地主・官僚階級の子弟だったからだ。
文字を読み、論理的思考訓練をした階層は、特権階級しかいなかったのだ。したがって、革命後、政権が安定すれば、再び自分たちの出身階級の利益を回復しようとする傾向があからさまになる事態は避けられなかった。
これを見て毛沢東は焦り、巨大な文革によって、実力で実権派を粉砕しようとしたのである。だが、文革の、あまりにも凄惨な行きすぎた暴走によって、逆の結果を招いたと断言してよいだろう。
中国社会を根底で支えた知識人階級を根絶しようとした結果、社会は大混乱に陥り、行政事務から農作物管理、工業に至るまで、無知な素人が失敗を重ねるだけの結果を招き、中国民衆は文革の愚かさを思い知ることになった。
そこで小平らが文革をやめさせたのはよいが、これも逆暴走し、極端な官僚資本主義社会の到来を招いてしまったのである。
中国には、再び革命が必要になった。
筆者は、周恩来と直接会ったことはないが、1971年、日本での卓球代表団の警備に参加し、莊則棟などと直接交流した。このとき日本側担当女性と彼とのロマンスが生まれ、後に結婚している。
ピンポン外交で有名になった、この大会の仕掛け人は、愛大の後藤学長と周恩来であった。この当時の中国は、少年だった筆者にとっては、まさしく桃源郷、人類最高のユートピアに見えたものだ。
日本に紹介される中国の記事には、必ず周恩来の笑顔があった。そして、その温かいもてなし、優しさは、中国訪問団の全員が懐かしく語るところであった。
まだ当時は文革の最中で、詳しい情報は伝わらず、1億人に迫るような膨大な虐殺があったなど、まったく想像もしていなかった。
政権幹部たちも例外でなく、毛沢東以外のすべての幹部が批判され、周恩来でさえ四人組に批判され追放されかけ、また養女を殺害されている。
周恩来は、建国以来の同志や周囲にいる人たちの命を守るため、必死になって演技をしなければならないこともあった。
しかし、その温かい人間性は変わることがなかった。周恩来に一度触れた人たちは、終生、彼を尊敬し、死ぬまで暖かい笑顔と、誠意を忘れることがなかった。
周の死後、周と穎超夫人の帳簿整理に当たった人によると、周総理の当時の所得は、給与と給与振込口座の預金残高に対する利子のみだった。支出は、食費、党費、家賃、新聞代、日用品、親戚への仕送り、職員への手当て、寄付金などがあった。残された貯蓄は、夫妻合わせてわずか5100元(約20万円)しかなかった。
これが27年間にわたって中国国家総理を勤めた人の残した遺産である。周恩来という人物が、どれほど清廉潔癖な人物であったかを証明する何よりの証拠であろう。
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