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(回答先: 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 01 日 21:22:46)
序列価値観 _ 序列の高い者が、低い者を支配する
我々の生きている社会は、権力者が人に重荷を強要する社会だ。税金から始まって、苦役の強要、差別の強要、序列の強要、果てには嘘つきだらけの国家に命を捧げる徴兵の強要まである。国家が気に入らない人間は、死刑制度で抹殺してしまう。
だから、我々は、こうした国家や組織による苦役から解放されたい。人に序列をつけ、他人を差別し、見下し、ありもしない権威の虚構に洗脳されたような愚かな社会から抜け出したい。
我々は解放されたい。人間解放の人生を目指したい。
人間解放とは何か?
この社会で、もっとも人々を拘束し続けてきた虚構の「序列価値観」からの解放である。
孔子は儒教体系のなかで、人に序列をつけて組織を支配することを教えた。国家という組織に根拠を求めるとすれば、それは「序列の高い者が、低い者を支配する合理性」という虚構である。
人には生まれながらの貴賤があり、能力の差があり、序列があるという虚構を洗脳し、権力の統治に従わせるというやり方が儒教の本質である。
こうして、生物学的人間として何一つ差のないにもかかわらず、皇族と名付けられるなら、「血筋」という虚構によって「特別にえらい人たち」と根拠もなく決めつけ、人々を欺して序列の価値観をすり込んできた。
皇族なんてタダの人に過ぎないのは、彼らを観察していれば誰にもあっというまに分かる事実なのだが、そんな嘘をありがたがる一群の人々がいて、そんな嘘の価値観を全国民に強要してきたのだ。
「王様は裸だ」=「皇族はタダの人だ」と叫ぼうとすれば、抹殺される社会なのだ。
現在の社会にあって、我々は二種類の人間に区分することができる。
「王様は裸だ」と素直に言える人々と、裸なのに立派な服を着ているように思い込まされている人々だ。
なぜそうなるかといえば、序列という虚構を刷り込まれた人々にとって、「特別の価値ある人」と思い込まされている相手は、例え裸であっても立派な権威を身にまとっているかのように洗脳され、思い込まされ、畏怖させられる幻想に束縛されているからだ。
序列や権威という虚構に洗脳されている人々のことを「右翼」といい、「王様は裸だ」と言える人々のことを「左翼」と便宜上言っている。
つまり、右翼というのは、天皇が素っ裸で歩いていても王様の衣装を身につけているように思い込まされている人々であり、左翼というのは、素っ裸であることが素直に見えてしまって「王様は裸だ」と言ってしまえる人々のことである。
我々は、序列・格差・差別という虚構を「実際にはありもしない虚構にすぎない」と素直に思い、素直に口に出す。
すると、それを激しく怒り、ありもしない序列の虚構にしがみつこうとする人々が出てくる。今の日本は、そんな連中が社会を支配している。
なぜかというと、無条件に権威や序列に従う人間は、権力者にとって、とてもありがたい存在であり、その人を利用して利権を得て、自分の権力を拡大再生産できるからだ。
この文章は、昨日のブログの続きのつもりで書き出したが、ずいぶん異なる方向に歩き出してしまった。昨日書いたことは、以下のようだ。
【日本人は合理化が大好きなので、すぐに効率化、合理化を進め、会社組織のような生産性を作り出し、上下関係を生み出してしまう。
だが、それでは、これまでの日本社会と本質的に何も変わらないことになってしまう。
それでは「真の人間解放」を実現することはできないのだ。】
「人間解放の理念」を示したかった。
人間は高い知能があり、それは他人との比較のなかで鍛えられてゆく。競争は知能を高めるのだが、それゆえに、競争の勝者は、弱者を支配する傾向が生まれる。
勝者は必ず奢るようになり、弱者を見下すようになり、序列と差別が自然発生してくる。
日本人は競争の好きな民族だ。「自分こそは勝者だ」と自己満足したくて、すぐに序列と階級を作り出し、差別に自己陶酔するのだ。
そんな関係ができれば、その集団には必ず階級差別の構造が成立してくる。
我々の生きている社会は、権力者が人に重荷を強要する社会だ。税金から始まって、苦役の強要、差別の強要、序列の強要、果てには嘘つきだらけの国家に命を捧げる徴兵の強要まである。国家が気に入らない人間は、死刑制度で抹殺してしまう。
だから、我々は、こうした国家や組織による苦役から解放されたい。人に序列をつけ、他人を差別し、見下し、ありもしない権威の虚構に洗脳されたような愚かな社会から抜け出したい。
我々は解放されたい。人間解放の人生を目指したい。
人間解放とは何か?
この社会で、もっとも人々を拘束し続けてきた虚構の「序列価値観」からの解放である。
孔子は儒教体系のなかで、人に序列をつけて組織を支配することを教えた。国家という組織に根拠を求めるとすれば、それは「序列の高い者が、低い者を支配する合理性」という虚構である。
人には生まれながらの貴賤があり、能力の差があり、序列があるという虚構を洗脳し、権力の統治に従わせるというやり方が儒教の本質である。
こうして、生物学的人間として何一つ差のないにもかかわらず、皇族と名付けられるなら、「血筋」という虚構によって「特別にえらい人たち」と根拠もなく決めつけ、人々を欺して序列の価値観をすり込んできた。
皇族なんてタダの人に過ぎないのは、彼らを観察していれば誰にもあっというまに分かる事実なのだが、そんな嘘をありがたがる一群の人々がいて、そんな嘘の価値観を全国民に強要してきたのだ。
「王様は裸だ」=「皇族はタダの人だ」と叫ぼうとすれば、抹殺される社会なのだ。
現在の社会にあって、我々は二種類の人間に区分することができる。
「王様は裸だ」と素直に言える人々と、裸なのに立派な服を着ているように思い込まされている人々だ。
なぜそうなるかといえば、序列という虚構を刷り込まれた人々にとって、「特別の価値ある人」と思い込まされている相手は、例え裸であっても立派な権威を身にまとっているかのように洗脳され、思い込まされ、畏怖させられる幻想に束縛されているからだ。
序列や権威という虚構に洗脳されている人々のことを「右翼」といい、「王様は裸だ」と言える人々のことを「左翼」と便宜上言っている。
つまり、右翼というのは、天皇が素っ裸で歩いていても王様の衣装を身につけているように思い込まされている人々であり、左翼というのは、素っ裸であることが素直に見えてしまって「王様は裸だ」と言ってしまえる人々のことである。
我々は、序列・格差・差別という虚構を「実際にはありもしない虚構にすぎない」と素直に思い、素直に口に出す。
すると、それを激しく怒り、ありもしない序列の虚構にしがみつこうとする人々が出てくる。今の日本は、そんな連中が社会を支配している。
なぜかというと、無条件に権威や序列に従う人間は、権力者にとって、とてもありがたい存在であり、その人を利用して利権を得て、自分の権力を拡大再生産できるからだ。
この文章は、昨日のブログの続きのつもりで書き出したが、ずいぶん異なる方向に歩き出してしまった。昨日書いたことは、以下のようだ。
【日本人は合理化が大好きなので、すぐに効率化、合理化を進め、会社組織のような生産性を作り出し、上下関係を生み出してしまう。
だが、それでは、これまでの日本社会と本質的に何も変わらないことになってしまう。
それでは「真の人間解放」を実現することはできないのだ。】
「人間解放の理念」を示したかった。
人間は高い知能があり、それは他人との比較のなかで鍛えられてゆく。競争は知能を高めるのだが、それゆえに、競争の勝者は、弱者を支配する傾向が生まれる。
勝者は必ず奢るようになり、弱者を見下すようになり、序列と差別が自然発生してくる。
日本人は競争の好きな民族だ。「自分こそは勝者だ」と自己満足したくて、すぐに序列と階級を作り出し、差別に自己陶酔するのだ。
そんな関係ができれば、その集団には必ず階級差別の構造が成立してくる。
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