http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1234.html
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(回答先: 川端康成の世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 27 日 19:27:00)
381可愛い奥様2020/12/27(日) 19:25:44.56ID:PCLbmfwo0
なかにし礼の実兄、中西正一の娘の中西美乃生は森田童子って知ってた?
森田童子の旦那がアドプロモーション社長の前田亜土(前田正春)
なかにし礼の兄は住吉連合の構成員だった、風吹ジュン軟禁事件の首謀犯
4人とも亡くなってるけど
豊悦がなかにし礼で、兄役がたけしのドラマが昔あったわ
現実はもっとドロドロだったんだね
なかにし礼はキャンディーズに1曲だけ作詞しているけど、
ナベプロとも何かありそうね
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/ms/1608963474/381
森田童子 ぼくたちの失敗
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1022.html
森田童子 ぼくたちの失敗
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html
▲△▽▼
なかにし礼
誕生 中西 禮三(なかにし れいぞう)
1938年9月2日満州国、牡丹江省牡丹江市
死没 2020年12月23日(82歳没)
職業 小説家、作詞家
最終学歴 立教大学文学部仏文科
代表作 作詩
『天使の誘惑』
『今日でお別れ』
『北酒場』
『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』
小説
『兄弟』
『長崎ぶらぶら節』
『赤い月』
『夜の歌』
オペラ
『天国と地獄』
『ワカヒメ』
『静と義経』
主な受賞歴 日本レコード大賞(3回)
日本作詩大賞(2回)
直木三十五賞(2000年)
配偶者 石田ゆり(中西由利子)
なかにし 礼(なかにし れい、1938年9月2日 - 2020年12月23日)は、日本の小説家、作詞家。本名は中西 禮三(なかにし れいぞう)。
満州国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満州からの引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで小学校は東京と青森(青森市立古川小学校)で育ち、中学から東京品川区大井町に落ち着く[1]。青森市在住時には入会していた読売ジャイアンツのファンクラブの誘いで青森市営野球場での試合のバットボーイを担当したが、その試合は藤本英雄が日本初の完全試合を達成することとなった。東京都立九段高等学校卒業後、一浪して1958年に立教大学文学部英文科に入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部仏文科を卒業する(立教仏文の第1期生)。その後、東京に在住。実兄は立大から学徒出陣として陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。
大学在学中、1963年に最初の妻と結婚する。一女をもうけ、1966年に別居、1968年に離婚する[2]。
元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルのバーで『太平洋ひとりぼっち』(映画1963年公開)を撮影中の石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。石原に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1年後に作詞作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。 1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。
1971年、週刊ポスト(7月9日号)に俳優や歌手などの乱れた関係を暴露する「芸能人相愛図」を掲載するが、後に、週刊ポストの記者から強要されて書かされたものだとして告訴。記者2人が逮捕される事件へ発展する[3]が、後に和解した。
若い時から繰り返した心臓疾患、離婚、特攻隊の生き残りで戦後、鰊漁に投資した兄の膨大な借金を肩代わりして返済に苦しむなどの困難を抱えたこともある。1998年にその兄を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。
テレビ朝日系列で放送されているワイドショー『ワイド!スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年3月5日の放送で、食道癌であることを報告。治療のため休業することを明らかにした[4]。医師たちから抗がん剤、放射線治療、手術という治療法の説明を受けるが、自身の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、インターネットを活用して陽子線療法の存在を見つける。2012年2月から6月にかけての闘病の様子は著書『生きる力 心でがんに克つ』に詳しい。闘病の結果がんを克服、同年10月に復帰。執筆、コメンテーター等の仕事も再開した。
2015年3月、自身のラジオ番組「なかにし礼「明日への風」」で癌を再発し、休養することを明らかにした[5]。その後、同番組を休止することが発表された[6]。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」とも語っている。核兵器、原発に反対する歌「リメンバー」(歌唱:佐藤しのぶ)の作詩、毎日新聞からの依頼で書き起こした詩「平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう」など、平和で自由に生きることを人間の根源的な権利とする主張を続けている。2015年6月、『サンデー毎日』で小説「夜の歌」連載開始。戦争体験が自分をどう作り上げてきたか、自らの戦争体験に基づき内面的な葛藤を描いた、もう一つの自伝的小説と言える。2015年9月、『週刊現代』のインタビューで再発がんが消えたことを語り、公式サイトでも発表。テレビ出演などの活動も再開。
2016年4月、植え込み型除細動器(ICD)と心臓ペースメーカーを体内に植え込む手術を受ける[7]。2016年12月、サンデー毎日に連載していた「夜の歌」が単行本化され発刊。がん再発、穿孔による大量出血の危機が迫る危機的状況の中で書き始められた小説である。2016年、BS日テレの報道番組「深層NEWS」に毎月1回のペースでほぼ定期的に出演した。2017年10月、『サンデー毎日』でエッセイ「夢よりもなお狂おしく」連載開始。2018年10〜12月、読売新聞連載記事「時代の証言者」(「言葉を紡いで」なかにし礼)。
2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため東京都内の病院で死去[8][9]。82歳没。
作品
主な作詞曲
あ行
朝丘雪路 - 「雨がやんだら」(1970年)
梓みちよ - 「風来坊」(1968年)
アン・ルイス - 「グッド・バイ・マイ・ラブ」(1974年)
石川さゆり - 「風の盆恋歌」(1989年)
いしだあゆみ
「恋のシャドー」(1967年)
「喧嘩のあとでくちづけを」(1969年)
「あなたならどうする」(1970年)
「昨日のおんな」(1970年)
「何があなたをそうさせた」(1970年)
石原裕次郎
「男の嵐」(1967年)
「帰らざる海辺」(1967年)
「ひとりのクラブ」(1967年)
「サヨナラ横浜」(1971年)
「何故か愛せない」(1972年)
「不思議な夢」(1976年)
「みんな誰かを愛してる」(1979年)西部警察主題歌
「よこはま物語」(1980年)
「時間よお前は」(1982年)西部警察主題歌
「勇者たち」(1983年)西部警察主題歌
「さよならは昼下り」(1985年)
「わが人生に悔いなし」(1987年)
『男の詩/石原裕次郎 なかにし礼を歌う』アルバム(1972年)
市地洋子 - 「恋算数」(1970年)
岩崎宏美 - 「女優」(1980年)
岩崎良美
「赤と黒」(1980年)
「あなた色のマノン」(1980年)
小野木久美子 - 「マジカル・ナイト」(1979年、『ザ・スーパーガール』主題歌)
奥村チヨ
「恋の奴隷」(1969年)
「恋泥棒」(1969年)
「恋狂い」(1970年)
「中途半端はやめて」(1970年)
尾崎紀世彦
「五月のバラ」(1973年)
「許しておくれ」(1974年)
「サマー・ラブ」(1987年)
か行
川中美幸 - 「愛は別離(わかれ)」(1986年、『必殺仕事人X・旋風編』『風雲竜虎編』主題歌)
北島三郎 - 「まつり」(1984年)
北原ミレイ
「石狩挽歌」
「春」
キャンディーズ - 「哀愁のシンフォニー」(1976年)
黒沢年男/なかにし礼 - 「時には娼婦のように」(1978年、作曲も担当)
グラシェラ・スサーナ -「サバの女王」(1972年)
琴風豪規 - 「まわり道」(1982年)
小林旭 - 「思いやり」(1982年)
小柳ルミ子
「京のにわか雨」(1972年)
「冬の駅」(1974年)
「ひとり歩き」(1978年)
さ行
ザ・キング・トーンズ - 「暗い港のブルース」(1970年)
ザ・ゴールデン・カップス
「いとしのジザベル」(1967年)
「愛する君に」(1968年)
ザ・ドリフターズ
「ズッコケちゃん」(1967年)
「のってる音頭」(1968年)
「ドリフのズンドコ節」(1969年)※補作詞のみ
「大変歌い込み」(1969年)
「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」(1970年)※替詞のみ。原詞は野村俊夫
「冗談炭坑節」(1970年)
「誰かさんと誰かさん」(1970年)
「ドリフのおこさ節」(1970年)
「ドリフのツンツン節」(1971年)
「ドリフ音頭 北海盆歌より」(1971年)
「ドリフのツーレロ節」(1971年)
西城秀樹
「サンタマリアの祈り」(1980年)
「Blue Sky」(1988年)
「夏の誘惑」(1988年)
坂本スミ子 - 「夜が明けて」(1971年)
五月みどり - 「熟女B」
佐良直美 - 「風のメロディー」(1978年)
志学館中等部・高等部 - 「志学館高等学校校歌」(1983年)
島倉千代子 - 「愛のさざなみ」(1968年)
島津ゆたか
「ホテル」(1985年)
「くせになりそう」(1986年)
下成佐登子
「花のささやき」(1985年、世界名作劇場シリーズ『小公女セーラ』オープニングテーマ)
「ひまわり」(1985年、同上・エンディングテーマ)
菅原洋一
「知りたくないの」(1965年)
「今日でお別れ」(1969年、第12回日本レコード大賞受賞)
た行
タマコ
「私は私」(1970年/作曲:藤本卓也)
ザ・タイガース
「花の首飾り」(1968年)【補作詞】
「美しき愛の掟」(1969年)
ちあきなおみ - 「私という女」(1971年)
鶴岡雅義と東京ロマンチカ - 「君は心の妻だから」(1969年)
ザ・テンプターズ - 「エメラルドの伝説」(1968年)
TOKIO
「AMBITIOUS JAPAN!」(2003年)
「駅・ターミナル」(2003年)
玉井邦彦(東京放送児童合唱団) - 「あっそうか!」(1986年)
トニーズ - 「アカプルコの娘」(1967年)
な行
奈美悦子 - 「大阪ブルース」(1967年)
丹羽応樹 - 「恋路海岸」(1978年)
NEWS - 「星をめざして」(2007年)
野口五郎 - 「愛の証明」(1980年)
は行
ハイ・ファイ・セット - 「フィーリング」(1976年)【日本語詞】
橋幸夫
「そばにいておくれ」(1967年)
「少年時代」(1973年)
ハナ肇とクレージーキャッツ - 「酒のめば」(1969年)
氷川きよし
「櫻」(2012年、第45回日本作詩大賞受賞)
「母」(2020年、作詞家としての遺作)
ピーター(池畑慎之介☆) - 「夜と朝のあいだに」(1969年)
ザ・ピーナッツ
「恋のフーガ」(1967年)
「恋のオフェリア」(1968年)
「愛のフィナーレ」(1968年)
「ガラスの城」(1968年)
「帰り来ぬ青春」(1975年)
弘田三枝子 - 「人形の家」(1969年)
布施明 - 「バラ色の月」(1969年)
フランク永井 - 「生命ある限り」(1967年)
ザ・ブルーインパルス
「太陽の剣」
「夜明けに消えた恋」
「メランコリー東京」
「小さな恋人」
ペドロ&カプリシャス - 「別れの朝」(1971年-日本語詞)
細川たかし
「心のこり」(1975年)
「みれん心」(1975年)
「北酒場」(1982年、第24回日本レコード大賞受賞)
「星屑の街」
「酒場であばよ」
「人生航路」
「うかれ節」
「ねぶた」(2011年)
「津軽へ」(2012年)
ま行
前川清 - 「花の時・愛の時」(1987年)
黛ジュン
「恋のハレルヤ」(1967年)
「霧のかなたに」(1967年)
「乙女の祈り」(1968年)
「天使の誘惑」(1968年、第10回日本レコード大賞受賞)
「夕月」(1968年)
「不思議な太陽」(1969年)
「雲にのりたい」(1969年)【補作詞】
「涙でいいの」(1969年)
「土曜の夜何かが起きる」(1969年)
「自由の女神」(1970年)
「時は流れる」(1970年)
水原弘
「さよならは言えない」(1969年)
美空ひばり
「かもめと女」(1974年)
「むらさきの涙」(1974年)
「かすりの女」(1974年)
「初恋」(1974年)
「しのび泣き」(1974年)
「年下の人」(1974年)
「女の部屋」(1974年)
「許して下さい」(1974年)
「雨の日記」(1974年)
「金の星」(1974年)
「恨んでいます」(1974年)
「海で死んだ人」(1974年)
「傷心 (いたみ) 」(1976年)
「さくらの唄」(1976年)
「おんな酒」(1976年)
「われとわが身を眠らす子守唄」(1988年)
「終りなき旅」(1988年)
ムッシュかまやつ - 「20才のころ」【安井かずみとの共作】
森進一
「港町ブルース」(1969年)【補作詞】
「波止場女のブルース」(1970年)
森昌子
「バラ色の未来」(2006年)
や・ら・わ行
矢沢永吉
「いつか、その日が来る日まで...」(2019年)
「海にかかる橋」(2019年)
由紀さおり - 「手紙」(1970年)
RYTHEM - 「ブルースカイ・ブルー」(2003年)
レイジー
「地獄の天使」(1978年)
「ハローハローハロー」(1978年)
ロス・インディオス - 「知りすぎたのね」(1968年、作曲も担当)
和田アキ子
「涙の誓い」(1971年)
「美しき誤解」(1974年)
「バ・カ・ダ・ネ」(1985年)
「愛、とどきますか」(1992年)
アルバム
マッチ箱の火事(フォーライフ・レコード、1977年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
黒いキャンバス(東芝EMI、1979年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
昭和 忘れな歌〜なかにし礼アンソロジー〜(ユニバーサル ミュージック、2004年 - 作詞・訳詞曲を集めた3枚組アルバム)[10]
なかにし礼と12人の女優たち(日本コロムビア、2015年1月、映画・舞台・ドラマなどを通じて縁のある12人の女優たちがなかにし礼作品を歌唱)
なかにし礼と75人の名歌手たち(日本コロムビア、2015年11月) - 作家生活50周年記念のオムニバスアルバム [11]
なかにし礼と13人の女優たち(日本コロムビア、2016年9月、なかにし礼 作詩家・作家生活50周年記念アルバム、シリーズ第2弾)
クラシック音楽
ベートーヴェン「歓喜の歌」(交響曲第9番終曲の日本語訳)
モーツァルト歌曲集(日本語訳 音楽之友社)
西村朗:合唱曲「そして夜が明ける」(作詞 NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
ジャック・オッフェンバック:オペラ「天国と地獄」(日本語訳)[12]
三木稔:オペラ「ワカヒメ」(台本)[13]
三木稔:オペラ「静と義経」(台本)[14]
三枝成彰:オラトリオ「ヤマトタケル」(台本)[15]
小六禮次郎:世界劇「眠り王 -愛とまごころの約束-」(作・構成)
小六禮次郎:世界劇「黄金の刻 -愛と永遠の絆-」(作・構成)
甲斐正人:世界劇「源氏物語」(作)
著書
詞集
『エメラルドの伝説』(作品集 新書館、1969年)
『シャンソン詩集141・さらば銀巴里』(さがみや書店、1991年)
『なかにし礼訳詞によるモーツァルト歌曲集』(音楽之友社、1991年)
『昭和忘れな歌―自撰詞華集』(新潮文庫、2004年)
絵本詩集『金色の翼』(響文社、2014年)
『平和の申し子たちへ 泣きながら抵抗を始めよう』(毎日新聞社、2014年)
創作
『花物語』(新書館、1970年、のち新潮文庫)
『昭和左膳只今参上』(東京スポーツ新聞社、1970年)
『大人の紙芝居・まぼろし劇場―丹下左膳 暁のG線上に死す』(継書房、1973年)
『兄弟』(文藝春秋、1998年、のち文春文庫、新潮文庫)
『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋、1999年、のち新潮文庫、第122回直木三十五賞受賞)
『赤い月』(新潮社、2001年、のち新潮文庫、文春文庫、岩波現代文庫)
『てるてる坊主の照子さん』(新潮社、2002年、のち新潮文庫) - 2003年度のNHK連続テレビ小説『てるてる家族』としてドラマ化
『夜盗』(新潮社、2003年、のち角川文庫)
『さくら伝説』(新潮社、2004年、のち新潮文庫)
『黄昏に歌え』(朝日新聞社、2005年、のち幻冬舎文庫)
『戯曲 赤い月』(河出書房新社、2005年)
『戦場のニーナ』(講談社、2007年、のち講談社文庫)
『世界は俺が回してる』(『産経新聞』2009年1月1日-8月31日 角川書店、2009年)『イカロスの流星』文庫 -『世界は俺が回してる』の鍵となる曲を集めたイメージ・サウンドトラックCD(ソニー・ミュージックダイレクト、2009年)
『なかにし礼と12人の女優たち』(日本コロムビア、2015年)-12人の女優によるなかにし礼作詩曲の競演アルバム
『なかにし礼と75人の名歌手たち』(日本コロムビア、2015年)-作詩家・作家生活50周年記念アルバム。時代を追ってオリジナル歌手の歌唱で収録されたコンピレーションアルバム
『なかにし礼と13人の女優たち』(日本コロムビア、2016年)-女優たちによるなかにし礼作詩曲の競演アルバム、前作のヒットにより第2弾リリース。
『昭和レジェンド 美空ひばりと石原裕次郎』(テイチクエンタテインメント、2016年)-なかにし礼が手掛けた、美空ひばり・石原裕次郎のすべての音源を収録。
『夜の歌』(毎日新聞出版、2016年、のち講談社文庫) - がん再発との闘いの中で執筆開始した「サンデー毎日」連載小説の単行本化。
随筆・その他
『ズッコケ勝負―終わりなき愛の遍歴』(双葉社、1969年)
『青春の愛について』(新書館、1972年)
『遊びをせんとや生まれけむ〜なかにし礼の作詩作法』(毎日新聞社、1980年)
『音楽への恋文』(共同通信社、1987年) - 「音楽の話をしようす」(改題、新潮文庫)
『翔べ!わが想いよ』(東京新聞出版局、1989年、のち文春文庫、新潮文庫) - 自伝
『時には映画のように』(読売新聞社、1997年) - 「口説く」(改題、河出文庫)、「恋愛100の法則」(改題、新潮文庫)
『愛人学』(河出書房新社、1997年、のち河出文庫)
『天上の音楽・大地の歌』(音楽之友社、2001年)
『道化師の楽屋』(新潮社、2002年、のち新潮文庫)
『さくら伝説―松坂慶子写真集』(フォーブリック、2002年) - 原作・監修
『人生の黄金律 自由の章―なかにし礼と華やぐ人々』(2003年、清流出版)- 対談集
『月夜に飛んで人を斬る』(作画:ふくしま政美、芳文社、1979年)- 劇画原作
『三拍子の魔力』(毎日新聞社、2008年)
『歌謡曲から「昭和」を読む』NHK出版新書 2011
『人生の教科書』(ワニブックス、2012年)
『生きる力 心でがんに克つ』(講談社、2013年)
『天皇と日本国憲法 反戦と抵抗のための文化論』(毎日新聞社、2014年)
『生きるということ』(毎日新聞社、2015年)
『闘う力 再発がんに克つ』(講談社、2016年)
『芸能の不思議な力』(毎日新聞出版、2018年)
『がんに生きる』(小学館、2018年11月)
『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』(河出書房新社、2019年7月)
『作詩の技法』(河出書房新社、2020年10月)
翻訳
ドーデ『哀愁のパリ・サッフォー』(角川文庫、1970年)
ラディゲ『ラディゲ詩集』(弥生書房、1973年)
映画
コント55号とミーコの絶体絶命(1971年、出演)
超能力だよ全員集合!!(1974年、出演)
時には娼婦のように(1978年、原案、脚本、出演)
動天(1991年、企画、原作)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC
▲△▽▼
「兄弟」と「赤い月」をつないだ直木賞 なかにし礼さんを悼む
2020年12月27日
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700099&g=soc
なかにし礼さんが23日に亡くなった。82歳だった。数々の名曲で昭和の流行歌最盛期を彩り、小説家としても活躍した多才な人だが、「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受けたことは、なかにしさんの創作活動にとって大きな意味を持っていた。歌詞と小説。何をどう書くか。昭和から3時代を駆け抜けた表現者が、リレーからマラソンへ転じた瞬間でもあった。
◇ ◇ ◇
2012年に食道がんが見つかり、克服した後で15年に再発。近年はテレビで話すのを聞くと、年齢のせいもあってか声が枯れ気味だったなかにしさん。そのたびにあの日の声を思い出した。
00年1月14日に直木賞受賞が決まり、その2、3日後だったと思う。当時、文化部で文芸担当をしていた筆者に電話があった。「申し訳ない」。かすれた声。すぐに事情を察した。受賞決定直後からお祝いの電話やら何やらがひっきりなしで寝る時間もなく、風を引いてしまったという。
一般紙は芥川賞・直木賞に選ばれた人に受賞エッセーを寄稿してもらうのが常で、当時は弊社も地方紙向けに配信しており、各候補者に「選ばれた時には」と依頼してあった。その締め切りを延ばしてほしいとのこと。
過去の受賞者から、家の中が祝いの花で埋まると聞いていた。文学賞の場合、それまでの関係者だけでなく、新作を書いてほしい出版社からも花が届く。レコード大賞を何度も受けたなかにしさんでさえ「おろおろとするほど」だった。「大変でしょう。お体が良くなってからお送りください」「ありがとう」。幸い、さほど日を置かずに原稿が届いた。
「長崎ぶらぶら節」が候補作になると聞いて、選考会前にインタビューしていた。直木賞候補になるのは2回目だった。前回は98年上半期。初めて発表した小説「兄弟」がノミネートされた。才能は評価されたが、次作を見ようとなって受賞には至らなかった。自らの体験を題材にした作品であることが、大きな理由の一つだった。
誰の人生にも物語はある。だから人は一生に一つなら小説を書ける、ともいわれる。新作のテーマに行き詰まって自分の体験を書く小説家も少なくない。
◇昭和から平成へ、リレーからマラソンへ
だが、「兄弟」は「兄が死んだ。/姉から電話でそのことを知らされた時、私は思わず小さな声で『万歳!』と叫んだ。」という痛烈な書き出しで始まる。終戦によって、生まれ育った旧満州(現中国東北部)で「地獄」を見たなかにしさんの人生を、さらに壮絶にした兄への愛憎。戦後、北海道でニシン漁への投機に失敗し、多額の借金を作った兄。その後もゴルフ場開発に手を出して失敗し、売れっ子作詞家の弟がばく大な借金を背負った。生半可な物語ではなかった。
なかにしさんは昭和から平成への変わり目を機に、いったん作詞を離れて小説家への転身を決めている。「昭和への思いが強くて、昭和だから歌を書けたという気持ちもありましたから」
「歌詞というのは、言いたいことを全部書いちゃいけないんですよ。作曲家、歌い手、聞き手が想像を膨らませる余地を残しておかないと。みんな書いちゃったら曲も歌も入り込めない」
いわゆる「ベタ」な歌詞が増えた昨今と違い、昭和の流行歌の書き手はみんなそうだった。だから時代を超えて歌い継がれるのだが、なかにしさんから直接聞くと、改めて説得力を感じた。受賞エッセーでは、歌を作詞家と作曲家、プロデューサー、歌手による4×100メートルリレーに、小説をマラソンに例えている。
作詞家としては、想像力をかき立てる言葉を選び抜き、七五調を排し、立教大時代に訳詞を手掛けたシャンソンの風を吹き込んで数々の名曲を書いたが、表現者としては、全てを吐き出したわけではなかったのだろう。北原ミレイが歌った「石狩挽歌」(1975年)は、ニシン漁をモチーフにした名曲だが、歌詞では兄との相克を書き尽くせなかった。
「兄弟」の書籍刊行は98年。平成も10年になっていた。この間、古今東西の名作を次々と読み、物語の展開や文学の修辞を学んで「小説家の脳をつくる修行」をしていた。決して天賦の才に任せた華麗な「早替わり」ではなかった。「兄弟」は自伝的とはいえ、小説として昇華させた自負もある。だから直木賞の選に漏れた理由には、納得し切っていない様子だった。
◇「地獄」を書き残すために
それならと書いたのが「長崎ぶらぶら節」だった。長崎の芸者・愛八と郷土史研究者が、忘れられていた長崎の古い歌を掘り起こしていく、実話を題材にした物語。オペラ制作のために聞いた民謡のCDがきっかけで長崎を訪ねると、ちょうど「愛八をしのぶ会」が開かれていて、取材の糸口ができたという。「これは自分が書かなくてはと、運命みたいなものを感じた」と、ソフトな口調で熱く話した。
優れた小説の条件の一つは、胸突き八丁を書き切れたかどうか。マラソンなら30〜35キロの壁。「長崎ぶらぶら節」も、選考委員には「まだ少し作詞家の癖が残っていて、ここぞというところをスーッといく感がある」との声があった。
その点はなかにしさんも分かっていたと思うが、自らの体験ではない物語で直木賞を受けたことが、満を持していた次作「赤い月」の執筆を大きく後押しした。
終戦前夜から旧満州で死線をさまよい、ハルビンへの逃避行、引き揚げまで、阿鼻(あび)叫喚の1年余を「事実だけで」書いた。執筆中から「これを書くために生きてきた」と話していた大作。「怖くて行けない」と言っていたハルビンを再訪したのは、刊行から3年後の04年だった。
以後も「てるてる坊主の照子さん」「戦場のニーナ」「夜の歌」などの小説を書き、オペラ、ミュージカルなども手掛けた。それぞれの技法を知り、最もふさわしいと思う手法で人々に伝えてきた表現者。「地獄」から生還し、その後は聴衆や読者へ伝えることに力を尽くしていたから、人と会う時は肩の力が抜けたようにスマートだったのかもしれない。
ある時、筆者が十代の頃、身の程知らずにも作詞家志望だったと明かすと、「そうだったんだ。新聞記事は言いたいことをしっかり伝えないといけないから、歌とは対極じゃないの。でもそれも大変な仕事だ」と優しく励ましてくださった。もしも今、なかにしさんが若かったら、ネットの海を前にどうしただろう。
直木賞前の取材の終わり際、筆者が開いていた「長崎ぶらぶら節」の書籍に手を伸ばした。「サインをしましょう」。頼んではないのに、「スタア」だなあと思っていると、バッグから筆を取り出した。毛筆の美しい文字で書かれたサイン入りの受賞作は、転勤のある我が家を避けて実家へ運び、今も大切に飾られている(時事通信社・若林哲治)。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700099&g=soc
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なかにし礼生い立ち〜家族と兄弟仲に無謀過ぎる兄に振り回された半生
https://oitachi-ima.com/sakka-oitachi/2977/
現在ではコメンテイターとしても顔を見なくなった
作詞家のなかにし礼さん。
妻に元女優の石田ゆりさんを持ちその姉にいしだあゆみ
さんが見えるなかにし礼さんの生い立ちや家族と兄について
壮絶な過去を追ってみようと思います。
昭和歌謡曲の作詞を多数担当し、数々のヒット作を
世に送り出したなかにし礼さん。
1998年からは小説家としても活動し、2000年には
『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞されています。
またラジオやテレビ番組でのコメンテーターなど様々な
顔を持ち活躍を続けています。
そんななかにし礼さんの生い立ちから兄に振り回された
半生などをまとめてご紹介します。
なかにし礼プロフィール
本名 中西 禮三(なかにし れいぞう)
生年月日 1938年9月2日(80歳2018年9月現在)
職業 小説家、作詞家
出生 満州国の牡丹江省牡丹江市
学歴 東京都立九段高等学校、立教大学文学部英文科
大学在学中にシャンソンの訳詞を手がけました。
1964年に『知りたくないの』のヒットを機に
作詞家になり、『今日でお別れ』『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』など約4000曲の作品を残し
日本レコード大賞など数々の賞を受賞されています。
その後は作家活動を開始し1998年に『兄弟』次作に
『長崎ぶらぶら節』など作家としても数多くの
作品を残されています。
なかにし礼の生い立ち〜裕福だった満州時代と家族
なかにし礼さんの両親はなかにし礼さんが
生まれる前に北海道の小樽から、旧満州(中国東北部)
に渡りました。
醸造業を営むなかにし礼さんの両親は関東軍に
お酒を納め、ガラス工場やホテルも経営し成功を
収めていたそうです。
なかにし礼さんは従業員に「坊ちゃん」と呼ばれ
当時は相当な裕福な家庭で育ちました。
その後なかにし礼さんが小学1年生の時に終戦し
満州から引き上げて8歳の時に小樽に戻りました。
その時に家族とともに何度も命の危険に遭遇し
その時の体験が以後の活動に大きな影響を
与えたと言われています。
戦前戦後を生きた人特有の壮絶な体験をなかにし
さんも体験されていたようですね。
今では想像もつかないような壮絶な経験から
数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。
なかにし礼さんは当時の混乱の様子を実体験に
基づいて『赤い月』という小説を書かれています。
なかにし礼の家庭崩壊の始まりは戦後の兄の傍若無人から
なかにし礼さんには14歳も年の離れた兄がいました。
14歳とかなり年齢の離れた兄弟だったため恐らく
なかにしさんの年齢(現在80歳)では徴兵制度で
戦争に駆り出される年齢には届いていませんでした。
だが14歳も年上の兄は当然徴兵で日本男児の義務と
して戦争に駆り出されているはずです。
兄は戦時中特攻隊に所属していて生き延び、終戦後
何とか命からがら生き延びた少数派の一人として
なかにし礼さん達家族の元へ帰ることができました。
父親の死後、一家の大黒柱として祖母、母、姉から
頼りにされましたが、戦後の兄は人が変わったように
破滅的で大金を投資しては失敗し、一家はすぐさま借金を
抱える事に没落したそうです。
頼りにするどころか兄の自暴自棄な精神状態に巻き込まれて
一家はどんどん貧乏になっていったそうです。
戦争が一人の青年に与えた影響はやはり生還してきた
極一部の強運を持ったなかにし礼さんのお兄さんであれ
人生観を破壊される程のインパクトとショックがあって
の変貌だったのでしょう・・・
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なかにし礼の兄に振り回された半生と絶縁
ただこの時代の長男と言ったらもうそれはそれは特別な
存在で14歳も年下の弟が意見うぃ言えるような立場では
ありません。
どうにか家庭を立て直したいなかにしさんら兄弟を
傍目にちっとも元に戻りそうにない兄の尻拭いがこの
時代特有の兄弟関係でかなり壮絶な目にあうことに・・・
なかにし礼さんには兄の借金を肩代わりしていた
時期があるそうです。
作曲家として起動に乗り世間でいう成功者となりつつ弟が
夢に向かう最中になかにし礼さんは兄に振り回され
憎しみを抱くようになったそうです。
なかにし礼さんがどんどん有名になりお金を稼ぐように
なっても兄がどんどんなかにし礼さんから借金して
浪費してしまいます。
最後にはなかにし礼さんの名義でお金を借りて
全てを使い切ってしまうほどでした。
なかにし礼さんは兄の借金を返済するのに
大変苦労されたそうです。
その金額も破格の7憶円もの大金を肩代わりしていたとか。
普通なら返しきれない量の借金だったんですね。
ただそんな兄を疎ましく思いつつ兄を憎むが兄嫁が
長男の嫁であるため、献身的になかにしさんらの
母親の介護をしていたこともあり兄を切り離すことが
できなかったそうです。
だがそれも母親が生きているうちは何とか我慢しても
母親が亡くなり家族ができたなかにし礼さんは兄と縁を
切る覚悟をしたそうです。
当然でしょう・・・
あまりにも傍若無人な兄の振舞いは限度を超え過ぎです。
なかにし礼さんもほとほと嫌気がさしていたのでしょう。
縁を切ってからは16年間一切会わず兄が亡くなったと
電話があったときは内心喜んだそうです。
この辺りの心境がなんともリアリティがあります。
そんな兄との関係を自らの体験に基づいた自伝小説
『兄弟』は直木賞候補にもなり1999年にはテレビ朝日の
開局40周年スペシャルとしてドラマ化されています。
「兄さん、死んでくれてありがとう」
という有名な台詞がありますが聞いたときは
衝撃的でした。
今書いてても相当インパクト大過ぎます。汗
でも自分に置き当てたら、死んでくれてありがとう〜では
済まされないとは思いますが・・・
だって7億ですよ。
せめて自分が稼いだ金で借金して欲しいものです・・・
兄弟とは言え人のお金を、身勝手過ぎます。
なかにし礼さんのデビュー作にして代表作の『兄弟』
を読んだことがない方はぜひチェックしてみましょう。
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おわりに
現在は2012年に食道がんを患い完治するも2015年に再発しこれも克服したなかにし礼さん。
戦争が幸いして精神状態が破綻したであろう兄弟の莫大な借金を身勝手で理不尽な借金と分かりながら返済を続けてきたなかにし礼さんは絶望的な半生を送って相当苦労されています。とは言えそんな兄さんもお亡くなりになられましたし改めて戦争の恐ろしさを考えさせられるエピソードでした。
現在も精力的に活躍を続けどんな状況でも希望を失わずに生きてきたなかにし礼さんの作品をぜひ読んでみてください。
https://oitachi-ima.com/sakka-oitachi/2977/
- 安井かずみの世界 中川隆 2021/1/08 18:27:58
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