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COVID-19の問題に限らず、有力メディアは支配者の広報として機能してきた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012290000/
2020.12.29 桜井ジャーナル
SARS-CoV-2(重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2)の問題に限らず、大半の人びとは有力メディアを通じて世界の姿をイメージしている。その有力メディアは特定の政治家や官僚、あるいは「権威」とされる学者などの話を垂れ流しているだけ。「権威」の中には「リベラル」や「革新」というタグのついている人も含まれている。「報道」と言うより「広報」と表現するべきことが有力メディアの仕事になっているのだ。そうした有力メディアに情報を頼る危険性を認識しなければならない。その危機感が足りない。
勿論、昔からメディアにはそうした傾向はあったが、一部の記者や編集者は自らの「足」で取材していたことも事実。そうした記者や編集者の取材は手間隙がかかり、支配システムの中枢にいる人びとを刺激することもある。メディア経営者にとって邪魔な存在であろうジャーナリストと呼ぶにふさわしい人びとは1980年代以降、排除されていった。
アメリカの場合、メディアをコントロールするシステムが第2次世界大戦の直後に作られている。ジャーナリストのデボラ・デイビスによると、このプロジェクトで中心的な役割を果たしたのはアレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、そしてフィリップ・グラハムの4名。有力メディアの経営者や幹部編集者も協力していた。
ダレスは兄のジョン・フォスター・ダレスと同じようにウォール街の大物弁護士で、大戦中から情報機関で破壊活動を指揮し始めた人物。その側近だったウィズナーもウォール街の弁護士で、大戦後、破壊活動を実行するために組織された秘密機関OPCを指揮している。ヘルムズの母方の祖父、ゲイツ・マクガラーは国際的な銀行家で国際決済銀行の初代頭取。グラハムの義理の父親にあたるユージン・メーヤーは世界銀行の初代総裁だ。CIAの前身であるOSSの長官を務めたウィリアム・ドノバンもウォール街の弁護士だ。
ユージン・メーヤーの娘でフィリップ・グラハムの妻だったキャサリン・グラハムはウォーターゲート事件で有名になった。カール・バーンスタインとボブ・ウッドワードを使い、リチャード・ニクソン大統領の犯罪行為を暴いたとされているが、それはデタント(緊張緩和)を打ち出した大統領の排除という側面があったことを忘れてはならない。
取材を担当した記者のうちウッドワードは少し前まで海軍の情報将校だった人物で、記者としては素人に近かった。事実上、取材はバーンスタインが行ったと言われている。
そのバーンスタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。その記事によると、20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達し、そのうち200名から250名が記者や編集者など現場のジャーナリスト。残りは出版社、業界向け出版業者、ニューズレターで働いていた。また1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供したとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)
この記事はウォーターゲート事件の裏側でもあるが、そうしたCIAによるメディア支配はアメリカだけの問題ではない。2014年2月にCIAとメディアとの関係をテーマにした本を出したフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)紙の元編集者、ウド・ウルフコテによると、世界各国のジャーナリストがCIAに買収されている。そうした工作が危険な状況を作り出していることを懸念、彼は告発に踏み切ったのだが、2017年1月に56歳の若さで心臓発作のため、死亡した。
1968年3月、アメリカ陸軍第23歩兵師団の第11軽歩兵旅団バーカー機動部隊第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊に所属するウィリアム・カリー中尉の率いる第1小隊が南ベトナムのカンガイ州にあるソンミ村のミライ地区とミケ地区で農民を虐殺した。アメリカ軍によると犠牲者の数はミライ地区だけで347名、ベトナム側の主張ではミライ地区とミケ地区を合わせて504名。この出来事はアメリカ軍兵士の告発で知られるようになった。
虐殺が行われているとき、現場の上空にアメリカ軍のOH-23偵察ヘリコプターがさしかかる。下で行われていることを知ったヒュー・トンプソンという兵士は農民を助けるため、ヘリコプターから地上へ降りた。その際、トンプソンは同僚に対し、下の部隊が住民を傷つけるようなことがあったなら銃撃するように命令していたとされている。
トンプソンらは帰国後、ベトナムで住民を虐殺している実態を議員などに告発しているが、政治家は動かない。アメリカ軍には従軍記者や従軍カメラマンが同行していたが、そうした人びとも沈黙を守った。
この虐殺が外で知られるようになったのは、ユージン・マッカーシー上院議員の選挙キャンペーンに参加していたジェフリー・コーワンから話を聞き、取材を始めたシーモア・ハーシュが記事を書き、1969年11月にAPがその記事を伝えたからだ。コーワンの父親はCBSの社長を務めたルイス・コーワンで、母親のポリー・コーワンはテレビやラジオのプロデューサーだったが、ジェフリーの話を記事にしたのは戦争報道の仕組みから外れていたハーシュだった。
ソンミ村での虐殺は当時、CIAと特殊部隊が共同で行っていた住民皆殺し作戦「フェニックス・プログラム」の一環だったと見られている。この秘密作戦について公の場で明らかにされたのは1970年代の半ば。フランク・チャーチ上院議員を委員長とする上院特別委員会が1975年1月から情報活動に関する政府の作戦を調査、その中で出てきたのだ。この委員会では外国の要人暗殺、電子的な情報活動、秘密のプロパガンダなどの一端が明らかにされている。
チャーチ委員会ではCIA長官だったウィリアム・コルビーがフェニックス・プログラムについても証言した。コルビー自身、このプログラムを現地で指揮したひとりだった。かれが指揮していた「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」というが、解放戦線の支持者と見なされて殺された住民は約6万人に達するという推測もある。共同体の破壊も目的のひとつだったと推測する人もいる。
ハーシュの記事が伝えられるとCIAは事件の隠蔽を図る。調査を任されたウィリアム・ピアーズ将軍は第2次世界大戦中、CIAの前身であるOSSに所属、1950年代の初頭にはCIA台湾支局長を務め、その後もCIAとの関係は続いていた人物だ。
その調査を受けて16名が告発されたものの、裁判を受けたのは4人にすぎず、そして有罪判決を受けたのはカリー大尉だけ。そのカリーもすぐに減刑されている。
ソンミ村での虐殺事件をもみ消す工作はピアーズが指揮したと思われるが、その中で重要な役割を果たしたひとりが1968年7月に少佐としてベトナム入りしたコリン・パウエル。カリー大尉の小隊は第23歩兵師団に所属していたが、パウエルも第23歩兵師団に配属されていた。虐殺について知っていたことを彼は2004年5月4日にCNNのラリー・キング・ライブで明らかにしている。
ウクライナでのクーデターにしても、リビアやシリアへのジハード傭兵を利用した侵略にしても、有力メディアには支配者が被支配者を踊らせる仕掛けという側面がある。支配者発の偽情報を伝えたことが発覚しても有力メディアは基本的に訂正も謝罪もしてこなかった。その姿勢を彼らが改める気配はない。
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