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ユーラシア大陸沿いの軍事同盟を強化している米国だが、思惑通りに進んでいない
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2020.09.06 櫻井ジャーナル
太平洋地域にはアメリカを中心とするふたつの軍事同盟が存在する。ひとつはアメリカと日本、もうひとつはアメリカ、オーストラリア、そしてニュージーランドの3カ国によるものだ。アメリカと日本の同盟は1951年9月8日にサンフランシスコのプレシディオで調印された安保条約から始まるが、そのその1週間前に同じ場所でアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約を結んでいる。
その太平洋地域へNATOを広げようという動きがある。NATOの事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグは6月8日、NATO2030なるプロジェクトを始めると宣言したが、それは機構を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにしようということ。
2018年5月にアメリカ太平洋軍はインド・太平洋軍へ名称変更になった。インド洋と太平洋を一体と考えることを意味しているが、太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、アングロ・サクソンにはユーラシア大陸の沿岸地域を支配し、内陸部を締め上げていくという長期戦略がある。その戦略をまとめ、1904年に発表したのが地政学の父とも呼ばれているハルフォード・マッキンダーで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその理論に基づいている。
イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)を中国(清)に対して仕掛け、略奪を本格化させたが、中国の全域を支配するだけの軍事力がない。そこで目をつけたのが日本。明治維新にイギリスが深く関与したのはそのためだ。アングロ・サクソンにとって獲物は中国であり、日本はその獲物を手にするための手先ということになる。
三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも深く結びついていた団琢磨は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業している。団の親友だった金子堅太郎も渡米したが、金子はハーバード大学で法律を学び、同大学の後輩にあたるセオドア・ルーズベルトと親しくなる。ふたりは1890年にルーズベルトの自宅で初めて会ったという。
明治維新で誕生した体制は琉球を併合し、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、日清戦争へとつながる。1904年2月に日本軍はロシア海軍の拠点だった旅順を奇襲攻撃して日露戦争がはじまる。
日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書き、金子はアンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったとシカゴやニューヨークで説明していた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
ロシアでは1905年1月に「血の日曜日事件」を切っ掛けにして始まった第1次革命で国内は混乱していたが、国力で差のある日本は戦争が長引くと劣勢になる可能性は高く、それを嫌ったルーズベルトが調停に乗り出した。この功績でルーズベルトは1906年にノーベル平和賞を授与されている。
こうした状況の中、ポーツマスで講和条約が結ばれるが、その内容に不満を持つ人びとは日比谷公園で抗議大会を開き、暴動につながった。戦利品が少ないという不満が爆発したわけだ。暴動の際、17名が死亡したと言われている。
その後、関東大震災を切っ掛けにして日本はウォール街の巨大金融機関JPモルガンの影響下に入り、1932年にはJPモルガンの総帥と結婚した女性のいとこにあたるジョセフ・グルーが駐日大使として赴任してくる。
その1932年にはアメリカで大統領選挙があり、ウォール街への不満を高めていた人びとはニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選んだ。そこでウォール街の住人は1933年から34年にかけてクーデターを目論んだが、失敗した。この辺の話は本ブログで繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。
ニューディール派は反ファシズム、半植民地の立場で、大企業の活動を規制して労働者の権利を拡大しようとしていたが、1945年4月にフランクリン・ルーズベルトが急死、ホワイトハウスはウォール街が主導権を奪還することに成功した。戦争後、反ファシスト勢力はレッド・パージという形で粛清されていく。戦後日本の進む方向を決めたのはジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物はジョセフ・グルーにほかならない。
アメリカは1949年にNATO(北大西洋条約機構)を組織を創設。その中に軍事員会が設置され、ヨーロッパ連合軍最高司令部や大西洋連合軍最高司令部が置かれた。そうした軍事部門の中心がヨーロッパ連合軍で、一般的にNATO軍と呼ばれている。
NATOが作られる前年、アングロ・サクソン系のアメリカとイギリスはACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)を創設した。ヨーロッパの統合が目的だとされている。
委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はアレン・ダレス。言うまでもなく、ダレスもウォール街の弁護士で、OSSやCIAの中心的な存在だった。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。
ACUEの下部組織にはビルダーバーグ・グループも含まれている。その創設者はオランダ女王の夫、ベルンハルトとユセフ・レッティンゲルだとされている。
レッティンゲルは世界大戦の前からヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた人物で、ポーランドのブワディスラフ・シコルスキー将軍の側近だった。戦争が始まるとシコルスキーは1939年9月にロンドンで亡命政府を樹立し、翌年の6月にはウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束している。
戦後、レッティンゲルはベルンハルトに接近、その人脈を利用してアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながる。
ソ連軍の軍事侵攻に備えるという名目で創設されたNATOだが、ヨーロッパをアングロ・サクソンが支配する仕組みという側面がある。同じことは安保条約やANZUSにも言えるだろう。同じ長期戦略に基づき、別々に創設された軍事同盟を統一する動きがあるわけだが、そこには大きな問題が横たわっている。アングロ・サクソンが立てた戦略の求心力が弱まっているのだ。
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