大坂なおみ選手の行動を「一般社会のメンタルヘルスを考えるきっかけに」 日本スポーツ精神医学会の内田理事長<寄稿>(東京新聞) 2021年6月9日 04時00分 会員限定 https://www.tokyo-np.co.jp/article/109339 女子テニスの大坂なおみ選手(23)=日清食品=がうつ症状に悩まされていたと公表し、四大大会の全仏オープン(パリ)を棄権したことについて、日本スポーツ精神医学会の内田直理事長が本紙に寄稿した。大坂選手の行動を通じ「アスリートや一般社会の人のメンタルヘルスを考える契機に」と呼び掛けている。 うちだ・すなお 1983年、滋賀医科大医学部卒業。東京都精神医学研究所主任研究員や早稲田大スポーツ科学部教授を歴任。現在は早大名誉教授で、日本スポーツ精神医学会理事長、すなおクリニック(さいたま市大宮区)院長などを務める。 <寄稿> アスリートのメンタルヘルスの問題は、アスリートに限らず一般のメンタルヘルスの問題とも共通したことであり、この機会に私の意見をまとめてみました。 ◆上位になるほどプレッシャーは大きく 「トップアスリートはメンタルが強い」というのは、ある条件の中では正しいと思います。トップの座に上がってくるためには、厳しい練習にも耐えなければなりませんし、試合の場でのさまざまな駆け引きやプレッシャーにも耐えていかなければならないということもあり、これらを克服できなければトップアスリートとして勝利を勝ち取ることができないからです。したがって、トップアスリートになるための一つの条件と言ってもよいかもしれません。 しかしながら、いったん上位の成績をとったあとは、それまでとは異なった状況があります。これが、今回、大坂選手に起きていることなのではないかと思われます。いったん上位成績をとると、さまざまな注目を浴びるようになります。日本国内でもそうでしょうし、また大坂選手のような世界でのトップのレベルになれば世界中のメディアが現在の状況を追うことになります。私生活についても、成育史について調べられたりされ、その中にはあまり触れられたくない部分もあるかもしれません。生活もかなり制限されたものになるでしょう。そのような中で、多くの人の前に出て、競技でなく言葉で自分を表現することは、競技で上位に上がるためのプレッシャーとはまた別のものだと思います。このようなことが、上位に上がってくると付加されてくるということです。 大坂選手は、これが苦手だと話していますが、トップアスリートの条件としては、期待しているファンやメディアに自分の考えを表現することが必須であり、大会参加の条件としてもインタビューを拒否することは許されないという契約条件があるわけです。私は、大坂選手のインタビューを詳細にこれまで追っていたわけではありませんが、インタビューの場面で見方によっては天真らんまんに答えるさまは、好感が持てるとも思っていました。 一方で、試合やそれを取り巻く状況について、整理しながら論理立てて方向を示すということはあまり得意ではないのかもしれないとも思っていました。しかし、見ている側としてはそれはそれとして、話を聞く相手に良い印象を与えているので、それで良いのかなとも考えていました。 しかしながら、おそらく大坂選手としては、他の選手が勝っても負けても論理立てて試合を振り返り、今後の意気込みについて話をするようなそういう話が自分はうまくできないということに、ストレスを感じていたのかもしれません。あるいは、単純に人前に出て注目されて話をするということに大きなストレスを感じていたのかもしれません。 試合に出ればそういったストレス状況が確実につきまとってくるということは、おそらく2018年9月に全米オープンでセリーナ・ウィリアムズ選手を破って優勝したころからかなり大きなものとしてのしかかってきていたのではないかと思われます。そのような中で、テニスが強くなる=人前で自分を表現することが必須となる、というような図式は大坂選手にとっては大きなストレスだったのだろうと想像されます。 ◆メンタルの不調を呈した選手への対応 ストレス状況が長く続くと、うつ状態になることはよく知られています。その病態の背景はまだ十分に明らかになっているわけではありませんが、ストレスにより血中のストレスホルモン(コルチゾール)が上昇し、これが脳の神経システムを攻撃して不調を作るという説は有力です。 大坂選手はおそらくトップを極めた後、テニスのトレーニング→強くなる→ストレスを感じる人前への露出につながる、という図式のなかに常にさらされながらトレーニングを行い、試合に出るという生活を続けてきたのだと思います。これよって本来のテニスの競技力が発揮できないこともあれば、また、ときにこれを克服しうまくいくこともあったように思います。いずれの場合も、メディアには露出せねばならず、自分の考えを論理建てて試合を振り返り、今後の意気込みについて話をすることが期待されることは間違いありません。 そのような中で、長く続くストレス状況からうつ状態に陥ったことはおそらく間違いないと思います。こういう状況の中でも、むしろそういった自分のことをいろいろ書かれることが有名になった証拠だと思い、これを力に変えられる選手はいると思います。したがってこのような意味では、プロ選手のおかれる状況への適応がうまくいかなかった言う意味で「適応障害(抑うつ)」という診断も可能かもしれません。適応障害の治療では、その状況をいったん回避する、多くの患者さんの場合は「休職して自宅療養が必要である」ということになるわけです。そういう意味では、今回の選択は賢明であり、治療的な意味があると思います。 しかし、多くの患者さんはもし職場でのストレス状況が強ければ、回復後の職場転換なども視野にいれて復帰を考えるわけですが、大坂選手の場合は、プロテニス選手という場への復帰以外には選択肢は考えられません。 ◆メンタル不調は目に見えない ここで、今回の大坂選手のようなメンタルの不調と、身体的な不調(例えば骨折などのけが)を比較してみたいと思います。例えば、テニス選手が何らかの理由で足を骨折して試合に出られなくなったとしましょう。そうした場合に、その選手に「プロなんだから骨折くらいなんだ。試合に出て、ファンを楽しませてくれ」と言うことはないと思います。身体的な障害は、多くの人が経験していますし、また実際のその選手を見ればけがは目に見えてわかりやすいということもあるのだろうと思います。 それにくらべて、メンタルの不調はどうでしょうか。メンタルの不調があっても、ラケットをふることはできますし、実際にたとえばどうしてもやれと言われれば、一度ダッシュしてボールを受けることもできるかもしれません。しかしメンタルの不調がある人にとっては、1試合これを継続することはできません。そして、そのような意欲もでず、今までできていたことができない。その結果として、周りに迷惑をかけてしまっているという自分の姿は非常につらいものとして感じられるわけです。その部分は、けがでも共通項はあると思いますが、どのくらいの障害なのかを目で確認して理解してもらうのは非常に困難はことです。さらには、体を動かすのでない、インタビューのなかで感じられる大きな精神的なストレスについての理解が十分になされるとは思われません。 大坂選手に対しての、さまざまな温かい言葉がアスリートからかけられていますが、多くは程度の差はあれそのような自分自身の経験からこれを配慮したものが多くあるように思います。そのような経験をした人は、けがの経験がある人と同様に大坂選手の気持ちに寄り添うことは可能なのかもしれません。しかし、上記のような理由でメンタルの不調については、これを明確に理解するということは、けがに比べれば難しいことになると思います。 ◆うつ状態にもけがと同様の配慮を このような中で、大坂選手に対しては、けがをした選手が試合を棄権することがやむを得ないことであるというふうに考えられるのと同様に、メンタルの不調があれば療養をするということに理解を示す必要があると思います。また、うつ状態のさなかに、世界中が注目する記者会見に出席して、自分の不調をしっかり説明する義務があり、これが行われなければ反則金を科すというのは、メンタルヘルスに対しての理解のまったくない対応であると思います。 スポーツ関係者や、スポーツファンはこのような状況をしっかりと理解し、大坂選手のような状況にあるアスリートに対して、けがなど身体的な障害を負ったアスリートと同様の配慮をすることが重要なことだと思います。 近年、ジェンダーの問題などさまざまな問題に対して多くの人が理解を示し、鋭敏に反応を示すようになっていると思います。しかしながら、このような精神医学的な問題はなかなか理解が進まないようにも思います。この背景には、精神医学に対するスティグマ(偏見)がやはりあるのではないかと思います。 ◆精神障害への理解のなさが大坂選手への反応に ノーマライゼーションという考え方があります。北欧で生まれた考え方ですが、障害のある人は、社会の中で自分の思うように生活ができない状況があるときに、障害のある人が社会に合わせる努力をするのでなく、社会が障害のある人が問題なく暮らせるように変わるという考え方です。 この考え方は、身体障害に対しては現代の日本でも、非常に進歩が見られます。どこの駅にもある車いす用のスロープをみて、なんのためにここに坂道を作っているのかわからないという人はいないでしょう。このようにバリアフリー化したまちづくりは今や必須です。これによって、身体障害のある人たちは大分自由に行動できるようになりました。 しかしながら、これは1964年に東京でパラリンピックが開かれた年にはそうではありませんでした。そのころは、パラリンピックを開くときに、障害者にかけっこをさせて見せ物にするのはやめてくれ、という意見も多くあったわけです。そのころは、障害のある子供を思う優しいお父さんも、「自分も、社会の中で仕事をしたい」という希望に対して、「お前の考えはよく分かる。だけれども、歩道をあるい転んでしまったら、人様に迷惑をかけることになるだろう。お父さんがしっかりと働いて、お前に不自由のないようにしてやるからお前は家の中にいなさい」ということを話したかもしれません。しかし、それはこのノーマライゼーションの考え方にのっとれば、誤った方向の考え方なわけです。今は、そのような考え方は障害者の権利を損なうと理解している人が大半だと思います。そういった意味では、身体障害に対してのノーマライゼーションは非常に進んできました。 では、精神障害に対してのノーマライゼーションはどうでしょうか。うつ状態にある人でも、「体が動くなら出てきて仕事をしてくれ、そうでなければ周りに迷惑がかかるだろう。体が動かないんじゃしょうがないけれども動くんならなんとかやってくれないか」というような対応は、現代でもあるように思います。うつ状態の他、感覚への過敏性のある人など発達特性の障害がある人に対しても、必ずしも働きやすい職場環境がつくられているとは言えません。精神障害のある人に対しても、身体障害と同様のノーマライゼーションの配慮がなされた社会をつくっていくことが求められているわけです。 このような精神障害への理解のなさは、今回の大坂選手への反応とも関連があるように思うのです。 ◆おわりに 今回の大坂選手の問題は、個別の問題だけに終わらせず、アスリートのメンタルヘルスについて問題としても多くの人が考えるきっかけになるとよいと考えています。また、さらには、メンタルの不調を経験している、あるいは経験したことのある人への社会の対応という点においても、人々の理解が深まるきっかけになるとよいと考えています。そのような視点で、報道がなされ、そして社会が少しずつでも変わっていってほしいと思います。 (この意見は私個人のものであり、私の肩書となっている日本スポーツ精神医学会などの意見を代表するものではありません) 【関連記事】大坂なおみが全仏オープン棄権 18年全米以降「うつへの対処に苦労してきた」 以上引用−−− 時刻の横に、「会員限定」とありますが、何でしょうね? 引用できたので、有料記事ではないと思います。
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