http://www.asyura2.com/20/genpatu53/msg/216.html
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「今明かされる極秘避難計画 子ども6千人、原発事故直後」
(朝日新聞 2020/12/11)
https://www.asahi.com/articles/ASNDB4FXBND7ULZU02F.html
2011年3月中旬、東京電力の福島第一原発で事故が起きた直後、60キロほどの福島県郡山市で、子ども6千人を避難させる計画が急きょ練られた。市民にも議会にも極秘にされた。
当時市長だった原正夫氏(77)、教育長だった木村孝雄氏(74)とともに、ことし11月半ば、猪苗代湖畔の廃校を訪れ、記憶をたどってもらった。
「原発がさらに爆発したら、ここへ避難させる計画でした」と原氏。「せめて温かい食事を出せるよう、調理室にプロパンガスを運びました」と木村氏。校庭に残る雪を職員らと払い、雑草を刈った。
原発事故を想定した避難計画はなかった。計画づくりを政府から義務づけられていたのは、原発8〜10キロ圏だけだった。
郡山市内は切迫していた。大震災で約2万4千戸が全半壊。3月15日にかけ、1、3、4号機の原子炉建屋が爆発し、毎時8・6マイクロシーベルトの放射線量を市内で記録した。国が追って避難指示の目安とした値の2倍超。派遣されてきた自衛隊員は防護服を着ていた。
原発の周辺から避難者が押し寄せた一方、5千人超の市民がマイカーなどで市外に避難し始めた。動くに動けない市民から、怒り、戸惑う声が殺到した。
原氏は16日、地元の参院議員、増子輝彦氏の訪問を受けた。「問題なのは(爆発していない)2号機なんですよね」
半年ほど前まで経済産業副大臣だった人物の言葉に原氏は驚いた。爆発がさらに続くリスクは、想定していなかった。被曝(ひばく)の影響を強く受ける子どもたちの避難は「国からの正式な情報を待っていては手遅れになりかねない」と判断した。
避難先に決めた湖南地区は西に二十数キロ。奥羽山脈で隔てられ、放射線量が低かった。旧月形小学校など五つの廃校に電気や水道を通した。子どもを運ぶバス約60台を手配した。2週間ほどの急ごしらえだった。
市内の児童は1〜4年生だけで…
-----(引用ここまで)----------------------------------------
避難計画を潰されないように極秘で行なわなければならないところに、
この国の異常さがよく出ています。
空襲されても逃げるなと住民に命令したかつての日本そのものです。
いずれ被ばく被害が深刻になり、あのときなぜ子どもを避難させなかったのか、
と批判されることはまちがいありません。
(関連情報)
「東京大空襲の語られない事実…住民に逃げるなと命令、米の空襲司令官に
日本が勲章授与(リテラ)」 (阿修羅・赤かぶ 2015/3/18)
http://www.asyura2.com/15/senkyo181/msg/646.html
「昭和19年、奇しくも福島県未成年者に匹敵する学童40万人が集団疎開し、
助かった彼らは戦後日本の発展に貢献した」 (拙稿 2016/5/3)
http://www.asyura2.com/16/genpatu45/msg/615.html
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