私もあなたの主張に賛成します。残念ながら、多くの日本人には絵空事にしか映らない、響かないかもしれませんが、こうした発想とそれに基づいた政策転換が待ち望まれるでしょう。 以下に私のブログ記事を張り付けさせてもらいますので、もし御時間がありましたらお目を通してください。今回の記事は、私のブログの主題と同じタイトルで述べています。 以下貼り付け、始め 日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える今回は、以下のくだりにあるように、箇条書きにして話を要約している。次回から、ここで述べたことを下敷きとして、話を展開していきたい。ただし、これまでの拙論や拙著でも論じたものではあるが、やっと私自身に、「これだ」「これしかない」という、まさに「可能性」と「方向性」について、納得できるものを得たので、ここに報告した次第である。 今のコロナ危機に際して、またこれからも起こりうるウイルス危機に対処するためにも、私は日本の今後の在り方について提言しておきたい。 結論から先に述べるならば、日本は「農・林・水産業を中心とした国造りを目指すことをこれからの基本方針とすべきである。 そこにはまず何よりも、環境問題への対応・配慮が求められているとの理由が存在している。その理由は、21世紀の、また22世紀における生命維持活動において、絶対に必要不可欠であるとの事情も絡んでくる。 私たちの生存を考えるとき、食糧確保の問題を無視したり軽視することは許されない。また中国やインド、そしてアフリカ諸国の今後のさらなる「重厚長大」型の産業振興路線政策の推進の下で、農業従事者の減少とそれに伴う食糧生産の推進と維持における物理的な困難さが予想される。と同時に、地球的規模での食料争奪戦が今後ますますその熾烈化の度合いを深めていくことは、容易に予想されることだろう。 たとえ、お金があったとしても、国家がその食糧を確保して、国民に等しく分配することは、これまたかなり、実現不可能な問題であることは、今次のコロナ危機に際しての日本国家、政府によるマスクや消毒剤の確保と手配、さらにはコロナ感染患者に対する対応を見ても、とても期待できないことは明らかではあるまいか。 今回のコロナ危機は、今後もたびたび、それこそ手を変え品を変えて、日本と日本人に襲い掛かってくるのは避けられない「現実」として、受け止め、それに向き合う覚悟が必要となることを、改めて私たちに確認させたのではあるまいか。そのためには、私たちは、自らの手で、それこそ「革命」を引き起こす決意をもって、今からその準備を周到にしておかなければならない。 幸い、この危機において、私たちはいろいろなことを学ぶ機会を得た。そもそも、国家は、その本来の意味において、機能しているのだろうか。すなわち、国民の生命と財産を保障するという意味で、まったく有効に動いてはいない。 日本政府は、安倍政権は無用の長物そのものではあるまいか。内閣だけではない、国会も、その議員も不要である。わざわざ東京で政治を行う時代はもう去ったのではあるまいか。47都道府県が政治の実権を握る時代となったことが、コロナ危機で証明されたのではあるまいか。 国家の政治は、日本の防衛に限定して、国連との調整は、全国の47都道府県の「連合政治会議」(仮称)が協議すればいいのではあるまいか。防衛問題も早急にその会議が引き受けた方がいいだろう。 私たちが、この間の日本の政治・外交・防衛を見るにつけ、はっきりと了解した出来事は、もう「官僚」は不要だということではないか。彼らの能力では、もはやどうにもこの国を動かせないということが、森友・加計問題を始めとして、そしてこのコロナ危機での厚生労働省や総務省、その他の官庁の亀のような動きののろさ、そして何よりも、「公僕」としての、国民に対する不誠実極まりないなめ切った態度に、それは如実に示されているのではあるまいか。 彼ら官僚は、官僚の誇りを持つべきなのに、その矜持さえも無くし、無能な政治家を使って、その背後で国民に見えない形で、彼ら官僚の、官僚による、官僚のための「政治」を、白昼堂々と行っているのだ。 こうした政治が奉仕する日本の、また米国を始めとした覇権連合諸国の財界や経済界の意のままに動かされる、日本と日本人に甘んじたままに生きることを、私たちは何ら恥じ入らないのか。私たちの子供や、その孫や、またその子供たちに、このような日本社会の惨状を、私たちの「遺産」として、引き渡すことに、良心の呵責を感じないで済まされるだろうか。断じて許してはならないのではあるまいか。 私たちの子供たちの世代がいま直面している問題を、私たち親世代が知らないとするならば、もうあなたは親をやめた方がいい。過労死、職場における上司や仲間たちからの不当なイジメ、非正規労働問題をはじめ、枚挙にきりがない。また私たちとその親が抱えている問題も、どうにもやりきれない者が、これまたたくさんある。その大きなものに、介護の問題がある。親は自らの尊厳さを死の間際まで取り戻すことがかなわず、またその子供たちも、自らの親不孝を悔いたままで、やがて、また親たちと同じ末路を辿るのではあるまいか。 こうした問題は、私たちが当然としてきた日本の産業構造の高度化と切り離して考えることはできない。同時に、この日本の高度化問題は、世界の産業の高度化問題と結びついているのである。簡単に言えば、明治維新以降の日本は、農林水産業の第1次産業に「特化」した国造りであった。それが「あの戦争」の敗北以降、今度は第2次産業に特化した国づくりを推進していくが、いわゆる「重厚長大」型の産業の下に、高度経済成長を実現して、「分厚い中間層」の形成の下での成長と繁栄と自信に満ちた日本社会が登場した。 その夢の時代も、あっという間に過ぎてしまい、お隣の中国が重厚長大型産業の国造りに邁進するための「世界の工場」役を引き受けるのと呼応する形で、日本は、先進国では遅咲きの「金融・サービス化」経済に特化した国造りに着手するのである。 こうした産業構造の転換は、私の言う「システム」とその「関係史」の「段階」において、世界の各々の国が引き受けざるを得ない「役割」であり、その意味において、日本の金融・サービス化経済の下での国造りは、覇権国の興亡史と連動した世界資本主義システム、世界民主主義システムに見る変容と転換と、相互に補完する関係にあるのである。 何度もこれまで述べてきたように、先進国は富の二極化が引き起こされ、分厚い中間層も解体されていく。世界資本主義システムにおいて、先進国はごく一部の富裕層は、金融・サービス化経済の恩恵に与るのだが、その反面、大多数の持たざる者は、生活の困窮の度合いを深化させていく。資本主義システムにおいて、先進国とそこに暮らす者は、「低度化」の段階に甘んじざるを得なくなるが、それが先に述べた格差問題や貧困問題に象徴されるのである。 こうした先進国における世界資本主義システムに見る低度化の問題は、世界民主主義システムにおける民主主義の発展に見る「低度化」の問題と連動しているのである。すなわち、もはやかつての分厚い中間層を形成し、それに支えられていた時代の「民主主義」を「取り戻す」ことはできないのだ。私たちがいま手にしている、手にできるのは、「低度化」の段階の「民主主義」なのである。その民主主義の下では、雇用崩壊や貧困問題、そして格差社会とそれに伴う問題への対応と解決は、一層困難なのである。 私が悔しいというか、腹立たしいのは、政治学者や経済学者が、ほとんど「民主主義」の勉強をしていない、ということである。クルーグマンのようなノーベル経済学賞の受賞者も、またクリントン政権下で活躍したライシュ氏も、彼らの日本語訳著作にある、もう一度ニューディール期の、また50、60年代の米国に戻れるかのような話を展開しているが、まったくお話にもならない無責任な議論なのである。これは、、フランスのピケティの『21世紀の資本』においても、また同じような、「素人」の話を、すなわち、民主主義を取り戻すことが大事だ云々の話を、繰り返しているだけなのである。 それゆえ、もはや「民主主義を取り戻す」ことなどできないという前提から、議論を始め直すべきなのである。そして、今のコロナ危機が最後のチャンスとなるかもしれない。何度も言うのだが、日本の環境問題や原発問題や産業廃棄物問題、さらにこれからの深刻化する雇用問題と食糧確保問題、また日本のすぐ横に次期覇権国として台頭する中国と、これまでの覇権国であった米国との狭間で生きていかなければならないという外交・防衛問題を、地政学的問題とも重ねて考えるときに、私は日本のこれから以後の選択肢は、トルストイが『イワンの馬鹿』で述べている生き方以外にはない、と言わざるを得ないのである。 それが、国内の日本の代表的な多国籍企業と結びついた権力集団であるハゲタカと、国外の覇権連合勢力が主導するハゲタカから、身を守る唯一、残された生き方である、と信じて疑わないのである。農業研究者が残した有名な格言がある。土に立つものは倒れず、土を耕す者は飢えず、土に生きる者は滅びず、である。 以上、張り付け、終わり ありがとうございました。
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