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(回答先: 沖縄から尖閣には江戸時代までの漁船では渡れなかった。 尖閣の漁場には台湾からしか行けなかった 投稿者 中川隆 日時 2021 年 1 月 12 日 18:20:53)
古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこう語っている。
当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。
この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。
調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日本領とするようしきりに上申しまた。
明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切らせた理由と思います。
尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼であり、日清戦争の結果、中国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに考えようがない。下関条約第二条によって日本に割譲されたものであれば、台湾総督の管下になくてはならないというのは、あまりにもまともな考え方であり、明治軍国主義は、後世のまともな学者が、まともに考えて理解できるようなことはやっていないのである。どうして台湾総督の管下におかなかったのかといえば、水産取締りのために魚釣島、久場島などに標杭を建てたいと政府に上申したのは沖縄県知事であり、バカ鳥の島を開拓させてほしいと政府に願いでていたのは、那覇在住の古賀辰四郎氏だったことを考えれば、尖閣列島を日本領にした以上、沖縄県下に所属させたのは当然であり、何の不思議もない。もっとおおざっぱに、もっと乱暴に考えた方が、伊藤内閣のやった現実に合致する。
井上教授は
「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」
といわれるが、なるほど経過をみればそうともいえる。しかし事実ことの本質は、下関条約第二条によって、井上教授のいう窃取が割譲に変ってしまったのである。この条約によって沖縄と台湾とのあいだに国境がなくなってしまったことにより、尖閣列島の日本領有は割譲によって確定したというほかはない。
http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html
- そもそも清は満州人の支配していた国でkan 民族は植民地支配されていただけだから、台湾がkan民族の国であった事はないよ 中川隆 2021/1/22 19:16:54
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