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(回答先: 外務省や小和田恒・雅子妃は中国のエージェントなんだよ 投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 24 日 12:46:41)
天というのは儒教の考え方、儒教精神は現代で最悪の社会を齎す:
xxは儒教国家、儒教を知らないとxx人の行動様式は理解できない
●xxは儒教国。儒教は徳治主義。
●徳治主義は「徳のある」人には「良い結果」が訪れるという理屈。
●もしもお金を騙し取られた場合、騙されたのは「徳が無い」からとなる。
●もしもお金を騙し取り、うまく逃げおうせたら、それは「徳がある」から、お金を手に入れたとなる。
●よって騙されるより、嘘をついて騙す方が得。嘘がバレたらケンチャナヨ(まぁいいか)となる。
●嘘をつくというよりは、嘘のハードルが低い。
徳治主義について
xxは儒教の国です。儒教は徳治主義です。徳治主義というのは「徳のある人が統治者になると国が栄える」というものです。これは統治者に関わらず、国民全体に浸透しています。よってx国ではこの徳治主義が倫理の基礎となっています。
それで庶民にとっての徳治主義をというのは、何か良い結果があれば、それはその人に徳があったからということになります。逆に悪い結果があれば、その人に徳がない、つまり、悪い人であるか、もしくはバカということになります。
この理屈をよく覚えておいてください。
騙す人と騙される人はどちらが悪いか
さて。
ここで問題です。
Aさんがいます。
このAさんが、騙されてBさんにお金を取られたとします。
このとき、AさんとBさんはどちらが悪いでしょうか?
普通の国ならBさんが悪い
普通の国ならノータイムで悪いのはBさんになります。
Bさんが騙しているからです。
事実と異なることを言って、誤解させてお金をせしめているからです。Bさんが嘘をついているから、Aさんは悪くないということです。
まぁ、場合によっては、「よくそんな嘘に騙されたな」ということもありますが、ほとんどの法治国家ではAさんに非は無く、Bさんの犯罪ということになります。
儒教の徳治主義に照らすとAさんが悪い
でも儒教ではそう簡単にはいきません。
「悪い結果があったのは、その人に徳がないから」
という原則があるからです。
この原則に照らすと、Aさんが悪くなります。
お金を騙し取られるという「悪い結果」が起きたのはAさんに徳が無いからです。
騙す人の論理
ではBさんの側で考えてみましょう。
Bさんは普通の国では問答無用で「悪い」のですが、儒教では「嘘をついた時点で悪」というわけではありません。
儒教では警察に捕まるなどしないと、「悪い結果」と受け取られません。
もしも、うまく逃げおうせたら、単に「BさんがAさんのお金を手に入れた」というBさんにとって「良い結果」だけとなり、なぜBさんがお金を手に入れることが出来たのかというと、それはBさんに徳があるからということになります。つまりBさんはうまくやった立派な人であり、徳のある正しい人となります。
無論、中韓以外の国では警察に捕まろうと捕まらなくとも嘘をついた時点で「悪人」なのですが、儒教ではこういった結論と成ります。バレなければOK。バレたらケンチャナヨ精神です。
騙される方が悪い。そういう考えは多少なりとも、何処の国でもあることです。しかし、それは「余りに間抜け」という批判であって、「騙されないようにする努力も必要」という戒めの意味です。「騙した方の正当性」を保証するものではありません。この「騙した方の正当性」を「思想」が後押ししていることが、この儒教の珍妙さでもあります。
ただ、儒教は決して「騙した方が正しい」と言っているわけではありません。徳治主義という原則を厳密に採用すれば、こういった結論に成るというだけです。
騙した方が偉い…ならば嘘をつくべきという文化
結果的ではありますが…
騙した人の方が立派ということです。
日本のように騙すくらいなら騙される方がマシなどという価値観は存在しません。騙されるよりは騙した方がマシ、というレベルではなく、嘘をついても利益を得た方が「立派」「偉い」「徳がある」「正しい」となります。また嘘もバレなければ真実として横行します。だから嘘をつきます。真面目に正直にする意味がありません。正直にメリットが無いのです。
この思想を全員が完全に実践しているとは言いませんが、文化の土台としてこういった思想があるのは事実です。嘘のハードルが低いってことですね。
日本人には理屈では理解出来ても感覚としては理解できないことですが、この理屈を通して韓国のニュースを見ると非常に面白いです。
▲△▽▼
儒教には神がいない。だから嘘に罪悪感を抱かない。
儒教と嘘
儒教は徳治主義です。
徳治主義とは徳のある正しい人間が上に立つとうまく行くという思想です。
この思想は統治者だけでなく、すべての社会にまで浸透しています。
では「徳」とか「正しい」とはどういうことか?というと、明確な答えはありません。時代によって状況によって正しいということは変化するものだからです。そこで、その人物の正しさは何によって証明されるのか?? それは「結果」です。
そのとき正しくても悪い結果が出れば、その行動とその行動を取った人物は「悪い」ことになります。その人物が徳の無い正しくない、悪い人間だから悪い結果となったわけだから、その人物は「悪」です。
となると、良い結果こそが正義です。
徳治主義とは実は、究極の成果主義と言えます。
しかし、それなら何の問題も無いような気がします。
日本のように「和」を重んじるあまり、誰も失敗の責任を取らないという社会によりはずっと現実的で、臨機応変に対応が出来るような気がします。優れている、ような気がします。
しかし、ここに落とし穴があります。
結果がその人物の「徳」を証明するのですが、ここに「因果関係」がありません。
例えば、AさんがBさんに騙されてお金を取られたとします。
儒教の徳治主義では、騙されたAさんが悪い、となります。
騙されたのはAさんに徳がないから、バカだからです。
徳がないから、お金を騙し取られるという結果になったのです。
でも、Aさんは「嘘」をつかれ、騙されたから判断ミスしたのです。
客観的な情報を得ることが出来れば判断ミスはしなかったでしょう。
それでも騙される人はいますが、客観的で正しい情報を得ることが出来ればAさんが騙された確率は格段に下がったのです。だから、嘘をつき、間違った情報で騙したBさんが、儒教の国以外では悪いのです。多少は「騙される方も悪い」という意見もあるでしょうが、Bさんに非が無い、もしくはほとんどの非がAさんにあるという考えにはなりません。そう判断するのは儒教国だけです。
その結果、嘘をつくことが正当化されます。
騙される方が悪いのだから、嘘は付いた方が得です。
騙し切って利益を得られれば、その利益が得られたのは「徳があるから」となるからです。
嘘はつき得なのです。
ばれたらケンチャナヨ(まぁいいや、気にすんな)です。
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