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(回答先: 日本学術会議の会員任命拒否 投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 23 日 12:41:39)
日本学術会議の新会員任命拒否に私はつよく反対する立場にある。それは私がこの問題で政府への抗議の先頭に立っている「安全保障関連法に反対する学者の会」の一員であるということからもご存じだと思うけれど、私は一人の学者としてと同時に、一人の国民として、それも愛国者としてこのような政府の動きに懸念と怒りを禁じ得ないでいる。その理路について述べる。
任命拒否はどう考えても「政府に反対する学者は公的な承認や支援を期待できないことを覚悟しろ」という官邸からの恫喝である。政権に反対するものは統治の邪魔だからである。
「統治コストを最少化したい」というのは統治者からすれば当然のことである。だからその動機を私は(まったく賛成しないが)理解はできる。
けれども、統治コストの最少化を優先すると長期的には国力は深く損なわれる。そのことは強く訴えなければならない。
これまでも繰り返し述べてきた通り、 統治コストと国の復元力はゼロサムの関係にある。統治コストを最少化しようとすれば国力は衰え、国力が向上すると統治コストがかさむ。考えれば当たり前のことである。
統治者は国力を向上させようと望むときはとりあえず国民を締め付ける手綱を緩めて好きなことをさせる。統制がとれなくなったら経済発展や文化的創造を犠牲にしても、国民たちを締め上げる。飴と鞭を使い分ける。そういうさじ加減は為政者には必須の能力であり、すぐれた政治家はこの緩急のつけ方についてのノウハウを熟知している。
日本の場合、60〜70年代の高度成長期は国力向上のために、国民に気前よく自由を譲り渡した時期である。「一億総中流」はそれによって実現した。おかげで私は10代20代をまことに気楽な環境の中で過ごすことができた。けれども、その時期は同時に市民運動、労働運動、学生運動の絶頂期であり、革新自治体が日本全土に生まれ、あきらかに中央政府のグリップは緩んでいた。その後、バブル期が訪れたが、このときは日本人全員が金儲けに熱中していた。たしかに社会規範は緩み切っていたけれど、とにかく「金が欲しい」というだけだったので、市民の政治意識は希薄だった。足元に札束が落ちているときに、「坂の上の雲」を見上げるやつはいない。
そして、バブルが終わって、日本が貧しくなると、政治意識はさらに希薄化した。
ふつうは中産階級が没落して、階層の二極化が進み、貧困層が増えると、社会情勢は流動化し、反政府的な機運が醸成され、統治が困難になるはずだけれども、日本はそうならなかった。市民たちはあっさりと政治的関心を失ってしまったのである。「自分たちが何をして政治は変わらない」という無力感に蝕まれた蒼ざめた市民たちほど統治し易い存在はない。そのことを7年8カ月におよぶ安倍政権は私たちに教えてくれた。
なんだ、簡単なことだったんじゃないか。統治者たちはそれに気がついた。
統治コストを最少化したければ、市民たちを貧困化させ、無権利状態に置けばよいのだ。マルクスやレーニンはそれによって「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」プロレタリアート的階級意識が形成され、彼らが蜂起して、革命闘争を領導するだろうと予言したけれど、そんなことはイギリスでもフランスでもアメリカでも起きなかった。もちろん日本でも。
市民を無力化すれば、市民は無力になる。わかりやすい同語反復である。無力化した市民たちはもう何か新しいものを創造する力がない。ただ、上位者の命令に機械的に従うだけである。当然、総合的な国力は低下し、やがて一握りの超富裕層=特権層と、それにおもねるイエスマンの官僚・ジャーナリスト・学者、その下に圧倒的多数の無権利状態の労働者という三層で構成される典型的な「後進国」の風景が展開することになる。
今の日本は「独裁者とイエスマン」だけで形成される組織に向かっている。少なくとも、官邸は日本中のすべての組織をそのようなものに改鋳しようと決心している。そういう組織なら、トップの指示が末端まで遅滞なく伝達され、ただちに物質化される。どこかで「これは間違い」と止められたり、「できません」と突き返されたりすることが起こらない。たいへん効率的である。
だが、この組織には致命的な欠点がある。創造力がないこと、そして復元力がないことである。
「独裁者とイエスマン」だけから成る組織では、トップは無謬であることが前提になっている。だから、メンバーにはシステムの欠陥を補正することも、失敗事例を精査することも許されない。システムのトラブルというのは、同時多発的にシステムの各所が不調になることである。そういうトラブルは、トラブルの予兆を感じたときに自己判断で予防措置をとれる人間、トラブルが起きた瞬間に自己裁量で最適な処置をできる人間たちをシステムの要所にあらかじめ配置しておかないと対処できない。けれども、「独裁者とイエスマン」の組織では、それができない。トップが無謬であることを前提にして制度設計されているシステムでは、そもそもトラブルが起きるはずがないので、トラブルを自己裁量で処理できるような人間を育成する必要がない。だから、「何も問題はありません」と言い続けているうちにシステムが瓦解する。
トラブルが致命的なものになるのを回避し、崩れかけたシステムを復元するのは、トップとは異なるアジェンダを掲げ、トップとは異なる「ものさし」でものごとを価値や意味を衡量することのできる者たち、すなわち「異端者」の仕事である。
けれども、「独裁者とイエスマン」から成るシステムはそのような異物の混入を許さない。
たしかに、短期的・効率的なシステム運営を優先するなら「独裁者とイエスマン」は合理的な解である。しかし、長いタイムスパンで組織の存続とメンバーたちの安寧を考慮するならば、異物を含む組織の方が安全である。
異物を含む組織は統率がむずかしい。合意形成に手間暇がかかる。
だから、安全保障のために異物を包摂したシステムを管理運営するためには、成員たちに市民的成熟が求められる。「大人」が一定数いないと堅牢で復元力のある組織は回せないということである。だから、異物を含むシステムでは、成員たちに向かって「お願いだから大人になってくれ」という懇請が制度的になされることになる。
「独裁者とイエスマン」の組織では成員が未熟で無力であることが望ましい。それが統治コストの最少化をもたらすからである。
今の日本社会では、統治者のみならず、市民たちまでもが「統治者目線」で「統治コストの最少化こそが最優先課題だ」と信じて、そう口にもしている。それは言い換えると「私たちを未熟で無力のままにとどめおくシステムが望ましい」と言っているということである。
彼らは「大人が一定数いないと回らないシステム」は「統治コストを高騰させる」と思っているので(事実そうなのだが)、「大人がいなくても回せるシステム」への切り替えをうるさく要求する。「対話だの調停だの面倒なんだよ。トップが全部決めて、下はそれに従うだけの組織の方が楽でいい。」それが今の日本人の多数意見である。
今、行政も、営利企業も、学校も、日本中のあらゆる組織が「管理コスト最少化」に血眼になっているのは、そのためである。「独裁者とイエスマン」の国はそういう日本人の多数派の願望がもたらしたものである。
たしかにそういう国は統治し易いだろう。市民たちは何も考えず、鼓腹撃壌して、幼児のままで暮らすことができる。けれども、そのような国は長くは生きられない。それは歴史が教える通りである。
http://blog.tatsuru.com/2020/10/30_1049.html
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