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(回答先: 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」 投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 25 日 10:46:31)
そもそも吉田茂はスパイ容疑で日本軍に逮捕されているだろ。吉田茂が単独でスパイをやる訳ないから昭和天皇が命令している。近衛文麿を殺したのも吉田茂単独でやる筈ないんだよ。:
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
英米に洩れる機密事項
憲兵が、吉田茂を検挙するに至ったのは、彼が近衛上奏文案を書きとったという一片の資料だけではなかった。
思えば、彼が我々の視察線に浮び上ったのは、昭和十四年頃からのことである。
私が、東京憲兵隊の特高課長になったのは、昭和十三年三月だったが、その翌年、つまり十四年の始め、私は国内防諜に関し、一つの指示を与えたことがある。
それは、その頃、国の秘密事項がよく外国公館に入っている。
たとえば議会における秘密会において軍の作戦事項が報告されると、その内容は、もう翌日には英米公館で握ってしまっている。
これはどうも、政治家というか、政治上層部の一部の人々が洩らしているものと察せられたのである。
だから、私は、この議会会期を通じ、こうした経路を現実につかむことを部下に命じたのであった。
そこで問題となるのは、いきおい親英米的な政治家、外交官といったところが、着目されることも当然なことといえよう。
この議会会期中は、外国公館に出入りする政界要人たちが、かなり憲兵偵謀の目標になったはずである。
そしてこの偵謀では、これらのすっきりした線は出なかったけれども、大体において、人の関係はつかみ得たことであった。
たとえば、原田熊男男爵や樺山愛輔伯爵のごときも、この線に浮んできた人々であった。
たしか、昭和十五年一月に米内内閣が誕生したのであったが、この場合、組閣の大命降下はまったく予想もつかぬものだった。
多くの練達の政治記者も、すっかり的が外れて、大慌てにあわてたものだった。
ところが、この米内内閣説が、事前にイギリスの『ディリー・メール』紙に載ったとの確実な情報が入手され、しかもそれは確認された。
こうなってくると、そこには必然に英米との密絡をもつ、しかも重臣層となんらかの脈絡があるものと推断が下された。
西園寺公の政治秘書として、組閣に暗躍していた原田熊雄男爵のごときは、大きく我々の前に浮び上ってきたのである。
原田男爵にたいする偵諜は、熱心につづけられていたが、その結果、彼のメモの一部入手に成功した。
原田男は人も知るように西園寺公の唯一の政治秘書、元老に情報を提供するという意味があったものか、およそ国家のいかなる機関も、彼だけには重要な国家秘密事項が洩らされていた。
彼は、これを大学ノートに克明にメモしていたのである。
これが後にいう、いわゆる、原田日記のタネ本になったわけである。
原田男に対しては、彼の防諜上の容疑について憲兵隊に出頭を命じ、私から厳重に警告を発したこともあるし、また樺山伯に対しても、防諜上、外人との遮断工作までしたことがある。
ともかく、我々は原田メモの一部を入手したことによって、吉田茂が、近衛公を中心とする各重臣間に暗躍し、一方、大磯別邸におってクレーギー英大使、グルー米大使らと会談している事実も明らかになったので、吉田、原田、樺山らの親英米分子にたいしては、たえず憲兵隊の鋭い目が注がれていたのであった。
私は、昭和十六年春、東京を去ったけれども、東京憲兵隊外事課は、防諜上の見地から、こうした人々にたいして、ずっと監視の眼を離さなかった。
吉田茂についていえば、麹町の本宅や、大磯の別宅にも、憲兵の視察網が張られていたのであった。
- 鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが 中川隆 2020/9/26 12:22:25
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