そもそもアイヌ文化は借り物だから中身はどうでもいいんですね。 アイヌは13世紀までは大規模農業をやっていて、その後、鉄製農具の供給を止められたのでシベリアの民族から狩猟技術を学んで狩猟民化したのです。 ウポポイはアイヌが独自の文化を持っている事を示すのが目的ですから。お金を何百億かけても、それは北海道内で循環するので北海道の景気対策になるのです。お金は日銀が何百兆円でもすぐに発行できるので、国内で使われるならいくら金を使っても困る人は一人もいません。 国民から集めた税金を使っている訳じゃないですからね。 ▲△▽▼ アイヌというのは13世紀に狩猟民族に戻って以降の呼び名で、それ以前は擦文文化人と呼ばれていたんだ: 禁農モデル 深澤 (1995) アイヌ社会においての農耕文化は擦文文化期以後アイヌ社会内の欲求により常に進展 していたと考えられるにもかかわらず、「意図的なイデオロギー」によってその動きが禁止されるという、 人為的行為によって阻害された結果、実践的な折衝としてアイヌ社会内で再生産され、その現象が変容した文化的要素として認められるようになったと考える。これを禁農モデルと呼ぶ。 1786(天明6)年 佐藤玄六朗の報告 『蝦夷地之儀是迄見分仕候趣申上候書付』 「古来より蝦夷地において穀類を作立候儀は法度の様に相成り」 「先年イシカリと申候所の川上にて、稲を作り相応に出来在候処其段松前え相聞、領主役人より申付候哉、又は商人共の仕業の候哉、籾、種子迄残らず取り上、右作仕候蝦夷ともえは、ツクナイを出す為候由の風聞等之有り」 「田畑は少しも御座無き、去り乍遠方山中の蝦夷共は粟はムンシロ、稗はヒヤバと申、少々宛作り、則見および候処、農具等之れ無き候に付け、草木の間に種子を蒔き置き候のみ御座候得共随分相応に出来立て、夫食に相成候様子にて、其の所々蝦夷は臼、杵等も取り持ちいたし罷申候」 1857(安政4)年 『石狩日誌』 松浦武四郎(1973年丸山道子訳) 「家のそばにはムニノカン(狸豆)、マーメ(いんげん豆)、ムンシロ(粟)、リテアママ(もち粟)、ヒヤハ(稗)などを作っているが、こういう農作業は女の仕事とされている。かれらはまだ鍬を持っていないので、まさかりの側面に木の柄をとりつけて鍬の代わりに使っているが、これは松前藩の方針で、かれらに農業を教えることを禁じているので、運上屋もアイヌには鍬を渡さないためである」 対雁方面では、大根ばかり作っていたので、なぜ穀類も作らないかとたずねたところ、そういう物はつくりたくとも鍬や種が手に入らない 「石狩川中流のトック(徳富)ベツハラの辺りでは場所の番人たちには見つからないように、(見つかると取り上げられるので)住居から少し離れた場所に、まさかりを利用して畑を耕し、いんげん豆、大豆、稗、粟などを作っており」 1857(安政4)年 『蝦夷草紙』 最上徳内 彼の国法にて、蝦夷地への物の種を渡す事を停止なり。其故いかんといふ事を知らず」 「密かに按ずるに、蝦夷人農業に力尽くしては、干魚漁猟の産物も相減じ、請負人の交易も不足し、運上金も相減ぜんとの故なるべし」 耕作面積の縮小 1800年 6 8. 0坪 (224.4u) 1858年 3 3. 3坪 (109.9u) (羽田野 1981) 1857(安政4)年 『石狩日誌』 松浦武四郎(1973年丸山道子訳) 松前藩の流言飛語 「アイヌが畑に種をまいたりすると、蝦夷地の神様が怒って悪い病気を流行らせるだろう。そうしたら、アイヌの子孫は絶えてしまうだろう」 「畑などを作ってアイヌの神の祟りで、病気になってしんでも良いというなら作れ、シャモのまねをして畑をどうしても作るというのなら、江戸のニシパのようにお前達もすぐにひげをそって、和人語を使え。 和人語を使うような奴はその名前を書いて弁天様の前で焼いてやる。そうすればすぐに死んでしまうからな」 安斉正人「対談:人類史の可能性」『現代思想』 1990 渡辺仁談 「樺太アイヌなんかも農耕などをうっかり真似してやると病気になるとか、子孫が不幸になるとかそういうことが言われていましたね」 https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf
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