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米英の対露戦争でポーランドが果たしてきた重要な役割
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2022.06.16 櫻井ジャーナル
2013年11月から14年2月にかけてのクーデターで現在のキエフ体制は出来上がり、クーデター政権を拒否するドンバス(ドネツクとルガンスク)の住民との戦争が始まった。そのクーデター当時からポーランドがウクライナ情勢に深く関与している。
現在、苦境に立つウクライナをポーランドは呑み込むかのような動きを見せ、ポーランドにNATO軍は軍事的な基盤を築きつつある。ウクライナはクーデターの頃には経済が厳しい状況にあり、それを打開するためにビクトル・ヤヌコビッチ大統領はロシアが提示した良い条件の提案に乗ろうとした。
それを許せなかったアメリカのバラク・オバマ政権は配下のネオ・ナチを使い、クーデターを実行。東部地区や南部地区を支持基盤とするヤヌコビッチを排除することに成功した。ウォロディミル・ゼレンスキー政権もクーデター体制の中から誕生している。
クーデターの前にネオ・ナチのグループは軍事訓練を受けている。例えば、2013年9月にポーランド外務省はネオ・ナチ86人を大学の交換留学生として招待、ワルシャワ郊外にある警察の訓練センターで4週間にわたって暴動の訓練をしたとポーランドで報道されている。
戦闘員や兵器はポーランド経由で運び込まれ流ようになり、今年2月24日にロシア軍がウクライナを攻撃し始める前からアメリカ/NATOは兵器をウクライナの西端、ポーランドとの国境近くにあるヤボリウ基地で一旦、保管していた。この基地では携帯式対戦車ミサイル「ジャベリン」などを使った軍事訓練が行われているとロイターは2月4日に伝えている。
その基地をロシア軍は3月13日に巡航ミサイルで攻撃。その後、したが、12日にはアメリカに対し、西側から運ばれてくる兵器は攻撃の対象になるとロシア政府は強く警告していた。ニューヨーク・タイムズ紙はヤボリウ基地がウクライナ軍と西側の軍隊とを結びつける場所で、重要な兵站基地であると同時に外国から来た戦闘員を訓練するセンターでもあるとしている。
中期的に見ると、アメリカのウクライナ攻撃は1990年代から始まっている。1991年12月にソ連が消滅した直後、アメリカの支配層は世界制覇に乗り出したのだ。そのプランは1992年2月にアメリカの国防総省がDPG草案という形で作成した。
当時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュだが、プランの作成を指揮したのは国防長官だったディック・チェイニー、書き上げたのは国防次官だったポール・ウィルフォウィッツ。そこでプランは「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。このプランに則り、まず旧ソ連圏の解体に取り掛かった。そしてユーゴスラビアへ軍事侵攻だ。
その間、アメリカは1991年からウクライナへ50億ドルを投入している。これは2013年12月に国務次官補だったビクトリア・ヌランドが米国ウクライナ基金の大会での演説で明らかにしている。1992年1月にウクライナはドイツと国交を樹立した。
しかし、2004年11月にウクライナで実施された大統領選挙で東部や南部を地盤とするビクトル・ヤヌコビッチが当選する。東部や南部はロシアから割譲された地域で、住民の多くは日常的にロシア語を話し、ロシア正教の信徒が多い。文化はロシアに近いのだ。それをアメリカの支配者は受け入れられず、介入してくる。
西側の政府や有力メディアが「不正選挙だった」という宣伝を開始、それと並行してデモを仕掛け、政府施設への包囲をはじめて社会を混乱させる。2004年から05年にかけて展開された「オレンジ革命」だ。そしてアメリカのコントロール下にあり、新自由主義者のビクトル・ユシチェンコが大統領の座を奪う。
ユシチェンコは金融界の人間。1998年にカテリーナ・チュマチェンコと再婚している。この結婚相手の両親は1956年にアメリカへ移住、カテリーナ本人は61年にシカゴで生まれ、87年にフロリダ州へ移り住んだ。
その後、彼女は国務省へ入って次官補の特別アシスタントを経験、ロナルド・レーガン政権ではホワイトハウス、ジョージ・H・W・ブッシュ政権では財務省で働いている。ウクライナが独立を宣言した後、米国ウクライナ基金の代表としてウクライナへ渡った。カテリーナがウクライナ国籍を取得したのは2005年。それまではアメリカ人だったということになる。
その「革命」が進行中、ユシチェンコの顔に異常が現れ、原因はダイオキシンによるという話が広まる。ユシチェンコ側はイホル・スメシコ治安局長やウォロジミール・サチュク副局長と食事をした翌日に腹部と背中に痛みが生じ、5日後にウィーンの民間病院で治療を受けたとしている。
イギリスやオランダの医師はダイオキシンが原因だと主張したが、実際に治療したウィーンの病院で主任医療部長だったロタール・ビッケはそうした説を否定している。2度診察したが、毒を盛られた証拠は見つからなかったという。ところが病院内部の何者かが「毒を盛られた」という話をリークしている。(The Telegraph, 27 March 2005)
ビッケによると、ダイオキシン説を否定した3日後に病院の監督委員会から文書で主張を撤回するように要求される。さらに英語なまりの人物から電話で「気をつけろ、おまえの命は危険にさらされている」と脅迫されたと語っている。その後、ビッケは病院を解雇された。
2009年にスイスとウクライナの研究者がユシチェンコの血清から通常の5万倍のTCDD(ダイオキシンの一種で、ベトナム戦争でアメリカ軍が使った枯れ葉剤の中にも含まれていた)を検出したとランセットで発表しているが、最初からこれだけのダイオキシンが含まれていれば、すぐにわかっただろう。(O. Sorg, etc, “2,3,7,8-tetrachlorodibenzo-p-dioxin (TCDD) poisoning in Victor Yushchenko: identification and measurement of TCDD metabolites,” The Lancet, 5 August 2009)
ユシチェンコが推進した新自由主義は欧米の金融資本やその手先を富ませる一方、大多数の国民を貧困化させていく。そして2010年の大統領選挙で再びヤヌコビッチが大統領に選ばれ、オバマ政権はクーデターで2014年にヤヌコビッチを排除した。
こうしたアメリカ支配層の工作に協力しているポーランドは歴史的に反ロシア感情が強い。20世紀初頭、ポーランドで反ロシア運動を指導していたユゼフ・ピウスツキは日露戦争が勃発した1904年に来日、彼の運動に協力するよう、日本側を説得している。1925年には「プロメテウス同盟」という地下組織を編成した。
当初、ウクライナの反ロシア派も同盟に加わっていたが、ポーランド主導の運動だったことから離反するウクライナの若者が増えていく。そしてイェブヘーン・コノバーレツィなる人物が中心になってOUNが組織され、それが分裂して強硬派はステパン・バンデラの周辺に集まってOUN-Bを形作った。
一方、ポーランドではピウスツキの後、ウラジスラフ・シコルスキーが反ロシア運動の指導者になり、イギリスへ亡命する。当時、ポーランド軍の大多数の将校がシコルスキーに忠誠を誓っていた。反ロシアということだ。
ポーランドとナチスの関係が悪くない時期もあり、1934年1月には両国の間で不可侵条約が締結された。ポーランドとドイツとの間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があったが、これは話し合いで解決できる見通しが立っていた。
領土問題でドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。
そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告。これでドイツとポーランドの関係は決定的に悪くなった。
その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。
イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドは9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まったとされているが、ドイツはそれから半年の間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。予定していなかった戦争を実行するための準備をしていた可能性が高い。
1939年9月17日にはソ連がポーランドへ軍事侵攻、その直後にイギリスとフランスはイラン、シリア、トルコから飛び立った爆撃機でソ連のカフカスにある油田地帯を攻撃する計画を立てた。パイク作戦だ。
大戦が勃発した後、ドイツ軍に占領された地域では数千人と言われるポーランドの知識人が逮捕、殺害された。一方ソ連はシコルスキーのグループを「テロリスト」だと見なし、ソ連占領地ではポーランド軍の将校など約1万5000人を収容所へ送る。ソ連軍に拘束された捕虜は翌年の4月から5月にかけての期間にNKVD(内務人民委員部)の手で処刑され、カチンの森に埋められたとされている。
そして1941年6月にドイツ軍はソ連へ向かって軍事侵攻を開始。「バルバロッサ作戦」だ。ポーランド東部のソ連軍を蹴散らして7月にはレニングラード(現在は帝政時代のサンクト・ペテルブルグに戻った)を包囲、兵糧攻めで多くのソ連市民が死亡した。
9月にドイツ軍はモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。ソ連軍は敗北し、再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測している。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
ドイツ軍は10月2日からモスクワに対する攻撃を開始するが、12月に入るとソ連軍の反撃が始まり、モスクワ攻防戦は翌月の上旬にドイツ軍の敗北で終わった。
そして1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的になった。
この当時、ポーランドには1600年当時に存在した「ポーランド・リトアニア連邦」の復活を夢見る勢力が存在、バルト海とエーゲ海に挟まれた中央ヨーロッパにカトリックの帝国を作ろうという計画につながる。カトリック内部で計画されていた「インターマリウム」だ。これは「三海洋(バルト海、アドリア海、黒海)イニシアチブ」という形で現在も生きている。
ロシア政府はドイツとの戦いを忘れていない。ネオコンをはじめとする欧米の反ロシア派がウクライナで行っていることはウラジミル・プーチンらにとって「第2のバルバロッサ作戦」にほかならない。
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