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欧米が供給を始めた高性能兵器でドンバスが攻撃され、住民が犠牲になっている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202206090000/
2022.06.09 櫻井ジャーナル
ウクライナの軍、あるいは親衛隊が6月6日からカエサル155mm自走榴弾砲でドンバス(ドネツクとルガンスク)の住民を攻撃している。この兵器はフランスが供給したもので、射程距離は42キロメートル(ベースブリード榴弾)から50キロメートル(ロケット補助榴弾)。ドンバスからほぼ追い出されたキエフ側がドンバスを攻撃するためには長い射程の兵器が必要になっているが、それを西側は提供しつつある。今後、アメリカはMLRS(多連装ロケットシステム)などをウクライナに供給する可能性があるが、そうなると戦火はウクライナの国境を越えるかもしれない。
ネオコンをはじめとするアメリカの好戦派は1991年12月にソ連が消滅した直後に世界制覇プラン(ウォルフォウィッツ・ドクトリン)を作成したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。その前から旧ソ連圏の解体工作は始まっていて、1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同じ年の9月にはマケドニアが続いた。翌年の3月にはボスニア・ヘルツェゴビナ、そして4月になるとセルビア・モンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国を結成、社会主義連邦人民共和国は解体される。
その連邦共和国からコソボを分離してアルバニアと合体しようとアルバニア系住民は計画、それをNATOが支援した。この間、西側の有力メディアはセルビア人による「人権侵害」を口実にしてユーゴスラビアを攻撃するよう求めている。後にこの人権侵害話は嘘だったことが明らかになっている。
1992年2月にフランスのランブイエで和平交渉が始まり、セルビア側はコソボの自治権を認め、弾圧もやめることで合意、交渉はまとまりかけたのだが、それを嫌ったのがNATO。相手が受け入れられない条件、つまり車両、艦船、航空機、そして装備を伴ってNATOの人間がセルビアを自由に移動できるという項目が付け加えたのだ。(David N. Gibbs, “First Do No Harm”, Vanderbilt University Press, 2009)
NATOが事実上、セルビアを占領するということ。独立国に主権を放棄し、NATO軍の占領を認めろと求めたわけだが、この条件をセルビア政府は受け入れない。これについて日本の外務省は「セルビアがNATO軍のコソボ展開を受け入れず決裂」したと説明している。
この当時、西側の有力メディアは軍事介入を煽る「報道」を続けていた。例えば、1992年8月にボスニアで16際の女性3人がセルビア兵にレイプされたとニューズデーのロイ・ガットマンは報道しているのだが、別のジャーナリスト、アレクサンドラ・スティグルマイアーやマーティン・レットマイアーらによってガットマンの話が嘘だということが判明している
当時、ガットマンはドイツのボンで支局長を務め、バルカンにいたわけではなく、現地を取材していない。ヤドランカ・シゲリなる人物から得た情報をそのまま書いたのだ。
このシゲリはレイプ被害者の知り合いだとされていたが、クロアチアの与党で民族主義の政党、HDZ(クロアチア民主団)の副党首を務めていたという側面があり、しかもクロアチアの亡命者が創設したプロパガンダ組織CIC(クロアチア情報センター)のザグレブ事務所で責任者を務めていた。このプロパガンダ組織がレイプ情報の発信源である。
こうした背景は無視され、シゲリは人権問題のヒロインとなった。ジョージ・ソロスをスポンサーとする「人権擁護団体」のHRWは1996年に彼女を主役にしたドキュメント映画を発表、レイプ報道で脚光を浴びたガットマンは93年にセルビア人による残虐行為を報道してピューリッツァー賞を贈られている。
ボスニアの戦乱で残虐行為がなかったわけではないが、ICRC(赤十字国際委員会)が指摘しているように、全ての勢力が「不適切な行為」を行っていたのであり、セルビア人による組織的なレイプが行われた証拠はない。(Diana Johnstone, "Fools' Crusade," Monthly Review Press, 2002)
こうした大規模なプロパガンダが展開されたが、ビル・クリントン米大統領はユーゴスラビアを軍事侵攻しようとしない。そこで1993年9月にはボスニアへの軍事介入を求める公開書簡がウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載された。
その書簡に署名した人物にはイギリスのマーガレット・サッチャー元首相、アメリカのジョージ・シュルツ元国務長官、フランク・カールッチ元国防長官、ズビグネフ・ブレジンスキー元国家安全保障問題担当大統領補佐官、ポール・ニッツェ、ジョージ・ソロス、あるいはネオコンとして知られているジーン・カークパトリック、アルバート・ウールステッター、ポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パールなどが含まれていた。(Wall Street Journal, September 2, 1993)
1995年、クリントン政権は軍事侵攻に踏み切るが、この当時、ボスニアでは「ムジャヒディン」が活動していた。その中心的な存在がオサマ・ビン・ラディン。ジャーナリストのレナテ・フロットーによると、サラエボにあるイザドベゴビッチのオフィスで1993年から94年にかけてオサマ・ビン・ラディンを何度か見かけたという。そして1995年、クリントン政権は軍事侵攻に踏み切る。
ムジャヒディンはサラフィー主義者(ワッハーブ主義者やタクフィール主義者と渾然一体)やムスリム同胞団を主体とする戦闘集団。イギリスの外務大臣を1997年から2001年まで務めたロビン・クックも指摘しているように、CIAの訓練を受けたムジャヒディンの登録リストがアル・カイダ、つまりデータベースだ。訓練要員をリクルートすることがオサマ・ビン・ラディンの仕事だった。
現在、ウクライナでネオ・ナチのリーダー的な存在であるドミトロ・ヤロシュは1989年にネオ・ナチと見られるグループで活動を開始、ドロボビチ教育大学でワシル・イワニシン教授の下で学んでいる。この教授はKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)の指導者グループに所属し、KUNはステパン・バンデラ派のOUN-B人脈によって組織された。
イワニシンが2007年に死亡するとヤロシュが後継者に選ばれ、このタイミングでヤロシュはNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。その年の5月にウクライナのテルノポリで開かれた欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議で議長を務めている。ネオ・ナチとムジャヒディンはともにCIAに雇われているのだ。アメリカが東ヨーロッパで戦争を始めた時からネオ・ナチとムジャヒディンは仲間であり、その関係は今のウクライナでも続いている。
クリントン政権がボスニア攻撃を決断する前、1993年2月にニューヨークにある世界貿易センターのノース・タワーの地下駐車場に仕掛けられた爆弾が遠隔操作で爆破されている。建造物で最も弱い地下が破壊されたのだが、ビルはびくともしていない。このビルは2001年9月11日、脆弱な構造の旅客機が衝突して崩壊したことになっている。
1993年の爆破工作を実行したのはラムジ・ユセフなる人物。爆弾製造に詳しいムジャヒディンだ。
ユセフらは1995年1月、12機の旅客機を爆破する「ボジンカ計画」をたてたが、PNP(フィリピン国家警察)に察知されて中止、2月にはパキスタンの情報機関ISIとアメリカのDSS(外交保安局)によってパキスタンで逮捕された。
この年の4月にはアメリカのオクラホマ州にある連邦政府ビルが爆破され、ティモシー・マクベインとテリー・ニコルスが逮捕、起訴されている。主犯とされたマクベインは2001年6月に処刑された。
オクラホマで爆破事件があった翌年、ニューヨーク沖でTWA800が空中で爆発するということがあった。公式見解は「事故」だが、複数の目撃証言からミサイルで撃墜された可能性が指摘されている。当時、ふたつの説が流れていた。演習中のアメリカ軍の艦船が誤ってミサイルを発射したという説と、イスラム過激派によるとする説だ。
西側の有力メディアが戦争熱を煽っていた頃、立て続けに大きな事件が起こっている。本ブログでは繰り返し書いてきたが、日本がアメリカの戦争マシーンに組み込まれたのも1995年だ。
国務長官がマデリーン・オルブライトに交代した1997年、アメリカ政府はユーゴスラビアへの軍事侵攻へ向かって進み始める。その翌年の4月にアメリカ上院はNATO拡大を承認、秋にオルブライトはユーゴスラビア空爆を支持すると表明した。そして1999年3月にNATO軍はユーゴスラビアを先制攻撃。この延長線上にウクライナでの戦争はある。
ウクライナは寄せ集め国家であり、東部地域と南部地域はロシアから割譲された。そこで住民は日常、ロシア語を話し、文化や宗教はロシアに近い。そのロシア色が濃い地域を地盤にしていた政治家がビクトル・ヤヌコビッチ。アメリカにとっては目障りな存在だった。
2004年の大統領選挙でヤヌコビッチが当選すると、アメリカは「オレンジ革命」(2004年から05年)を仕掛けて自分たちの手先で新自由主義者のビクトル・ユシチェンコを大統領の座につけた。
2010年の選挙で再びヤヌコビッチが大統領に選ばれると、2013年11月から14年2月にかけてネオ・ナチを使ったクーデターを仕掛け、再びヤヌコビッチを排除し、体制そのものを変えてしまった。そこから東部や南部の反クーデター派とキエフのクーデター体制が戦争を始めたわけだ。
クーデター後、アメリカやその属国はキエフのクーデター体制を支援し、軍事力を増強させてきた。その間もドンバスへの攻撃は続き、1万3000名以上の住民がキエフ軍の攻撃で殺されている。
そして今年3月、キエフ軍はドンバスへの大規模な攻撃を計画していた可能性があることは本ブログでも指摘してきた。その直前にロシア軍は動いて住民を救出、その住民はアメリカ/NATOが支援するネオ・ナチ体制の残虐さを証言している。
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