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日本への原子爆弾投下におけるイギリスの役割
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2020.08.03 櫻井ジャーナル
アメリカ軍が広島へ原子爆弾を投下したのは75年前、1945年の8月6日だった。その3日後には長崎へも落としている。広島へ落とされた爆弾はウラニウム235を使ったもので、長崎へ落とされた爆弾はプルトニウム239を使ったものだ。原爆が投下されてから最初の2カ月から4カ月までの間に広島では9万から16万6000人、長崎は6万から8万人が死亡し、その約半数は投下当日に亡くなったと推定されている。
原子爆弾はマンハッタン計画と名づけられたアメリカの計画によって開発されたが、開発の歴史の中でアルバート・アインシュタインの名義で1939年8月に出された勧告書が有名。もっとも、アインシュタインはサインしただけで、勧告書の草稿を書いたのはレオ・シラードとユージン・ポール・ウィグナー。ふたりともハンガリー出身の物理学者だ。
しかし、原子爆弾開発の切っ掛けを作ったのはイギリス。アメリカで原爆の開発が具体化するのはその後だ。イギリスでは1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてMAUD委員会が設立され、その委員会のマーク・オリファントが41年8月にアメリカでアーネスト・ローレンスと会ったところからアメリカでは動き始めたのだ。
その年の10月にフランクリン・ルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まる。日本軍が真珠湾を奇襲攻撃したのはその2カ月後である。
そして1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行って成功した。その年の4月12日にルーズベルトは急死、大統領はハリー・トルーマンに交代していた。そのトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可する。ポツダム宣言が発表されたのはその2日後だ。
日本側は宣言の受諾を8月9日の「御前会議」で決定、その旨を翌日に連合国側へ打電している。そして8月15日に天皇の声明が日本人に対して発表された。いわゆる「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれるものだ。
マンハッタン計画と統括していた陸軍のレスニー・グルーブス少将に対し、8月30日にローリス・ノースタッド少将がソ連の主要都市への核攻撃に関する文書を提出、9月15日付けの文書では攻撃に必要な原爆の数をソ連の204発だと推計している。軍は原爆の生産能力を知らされていなかったので、そうしたことを無視した数字だ。トルーマン大統領も1947年4月まで、その実態を知らなかったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
FBIの文書によると、ウインストン・チャーチルは1947年、アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようトルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
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