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表現は「弾圧との戦い」の歴史 求められる覚悟としたたか
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/264487
2019/11/09 日刊ゲンダイ
弾圧を屁とも思っていない(C)日刊ゲンダイ
8日の昼すぎ、東京・文化庁の前にアーティストらが集まり、「文化を殺すな」などのメッセージを掲げていた。言うまでもなく、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」への補助金不交付を文化庁が決めたことに対する抗議活動だ。不交付撤回を求めるネット署名も10万筆に達したという。
今回は署名の提出は見送られたが、このところ「表現の自由」が脅かされる事態が相次いでいる。
10月27日から神奈川県川崎市で行われた市民映画祭「KAWASAKIしんゆり映画祭」では、慰安婦問題を題材にしたドキュメンタリー映画「主戦場」(ミキ・デザキ監督)の上映が中止になった。「あいトリ」で慰安婦を象徴する少女像を展示した「表現の不自由展・その後」が激しい攻撃を受けたのを見て、共催する川崎市が上映に「懸念」を表明したためだ。
この映画祭に作品を出品していた是枝裕和監督が「行政の懸念だけで作品が取り下げになるなんて言語道断だ」と怒りの声を上げるなど、中止に対する反発が広がったことで、最終日の11月4日になんとか上映にこぎ着けた。
だが、「あいトリ」の騒動が急速に自治体に懸念をもたらしていることには不穏なものを感じざるを得ない。
「安倍政権下では、従軍慰安婦はでっち上げだと主張する歴史修正主義者が跋扈しています。彼らが気に入らないものは認めようとしない。補助金の不交付など、権力側がカネで圧力をかけることもいとわずに表現の自由を侵害しにかかっているのは恐ろしいことです。安倍政権になって、表現の自由への圧力はどんどんエスカレートしている。国の意向に沿わない芸術は認めないということになると、自治体だけでなく芸術家も権力の顔色をうかがうようになるし、国家による事実上の検閲が横行してしまいます」(政治評論家・本澤二郎氏)
権力にとって表現の自由は邪魔
最近では、映画「宮本から君へ」(真利子哲也監督)への交付が内定していた助成金1000万円を文化庁関連団体が取り消すという出来事もあった。出演しているピエール瀧が麻薬使用で有罪判決を受けたため、「国が薬物を容認するようなメッセージを発信しかねない」というのが表向きの理由だが、この映画のプロデューサーは、官邸が煙たがっている東京新聞の望月衣塑子記者の著書をモチーフにした映画「新聞記者」の製作者でもあり、助成金取り消しは“意趣返し”だという見方も出ている。
「こうしたニュースが大きく取り上げられないことも不気味です。国粋主義で独裁的な安倍政権は、気にくわない表現を弾圧することなど屁とも思っていません。表現の自由なんて統治の邪魔だと考えているのです。権力の意に沿わない芸術にはカネを出さないということが常態化すれば、政権に批判的な人物には表現の場が与えられなくなる。そういう不条理にあらがうべき言論界も、自分たちが標的にされないように、形ばかりの問題提起で逃げてしまうようになる。権力への忖度がはびこり、国民に真実が知らされない翼賛体制が出来上がってしまう。戦時中がそうだったように、この国のメディアは権力側の思惑におめおめと乗っかってきた歴史があるだけに心配です」(本澤二郎氏=前出)
メディアだけではない。国民もすっかり飼いならされてはいまいか。政府のやり方に異を唱えると“反日”などとレッテルを貼るのは思考停止の自殺行為だ。何度でも言うが、安倍政権が日本国なのではない。この国をおかしくする政府ならば、一刻も早く取り除くのが愛国者の務めではないのか。為政者の思考に同調し、すべて受け入れて従っていたら、いつの間にか国が破滅に向かっていたという事例は、歴史を振り返ればゴマンとある。
文化庁前での抗議活動は続く(C)共同通信社
表現者のギリギリの挑戦にこそ芸術の神髄がある |
マサチューセッツ工科大名誉教授のノーム・チョムスキー氏は著書「メディア・コントロール」で、権力のプロパガンダについてこう書いている。
<国家による組織的宣伝は、それが教育ある人びとに支持されて、反論し難くなったら、非常に大きな効果を生む。この教訓は、のちにヒトラーをはじめとして多くの者が学び、今日にいたるまで踏襲されている>
<愚かな大衆は自分で状況を理解する頭がないと見なされて、指導者の意のままに未来へと誘導されるのである>
古今東西、権力者は都合の悪い情報を隠し、プロパガンダによる国民洗脳にいそしんできた。そのために、芸術や言論も利用してきた。言論界を味方につけて自らの権威を高めたり、芸術のパトロンとなって正義の顔をする。あるいは、一定の表現にお墨付きを与えることで、言論を支配し、国民を洗脳しようと企図することもある。
古代ギリシャに魅せられたヒトラーは、ピカソやゴッホの近代芸術を弾圧。スパルタ人がアーリア人の先祖であるという印象を植え付けようと、1936年のベルリン五輪でオリンピアから聖火を運ぶ儀式を始めた。その一方、ピカソは1937年に代表作の「ゲルニカ」を描いて反戦を表現している。
芸術は、いつの時代も権力との戦いなのだ。ブルースやロックが体制にあらがう中から生まれたように。弾圧を嘆き、悲観しているのではなく、出し抜く知恵や諧謔から新しい文化が生まれることもある。
そういう表現者のギリギリの挑戦にこそ、芸術の神髄があるのではないか。
権利を守るには不断の努力が必要
1972年に雑誌「面白半分」に掲載されて摘発を受け、わいせつ文書裁判で有名になった「四畳半襖の下張」の作者は、「金阜山人」を名乗った永井荷風作といわれているが、荷風の真骨頂は1917年から1959年までつづり続けた日記「断腸亭日乗」にあるだろう。戦時中の世相や、軍部への批判を丹念に書きとどめ、当局に目を付けられぬよう、友人にも見せなかったという。静かなレジスタンスである。
弾圧を逆手にとったという点では、明治時代のジャーナリスト、宮武外骨もあっぱれだった。反権力の「滑稽新聞」を創刊するも、名目上の発行人は三好米吉。外骨が当局に摘発されても発行できるように別人を立てたのだ。外骨は「小野村夫」のペンネームで執筆した。
日露戦争が勃発して当局の検閲が厳しくなり、報道は伏せ字だらけになると、外骨は伏せ字になる語句を多用した記事をあえて書く。伏せ字を飛ばして読むと意味が通じるようにしたのだ。「当局者の○○○○○尻の○○穴の○○狭い○はなしで度胸が○○○無さ○○○過ぎる○○○○様○○○○だ」という具合である。
ベストセラーになった「老人力」でも知られる前衛芸術家の赤瀬川原平は、「千円札の模型」を芸術作品として制作し、起訴されたが、冒頭陳述の際に紙幣に類似する作品を裁判所内に多数陳列させ、法廷を美術館に仕立て上げた。
権力が常に介入の機会をうかがっているのなら、その裏をかく軽やかな工夫もまた必要なのである。立正大名誉教授の金子勝氏(憲法)もこう言う。
「戦後日本では、権力者が表現の自由を露骨に弾圧することはなかったのに、現政権は基本的人権への侵害をものともしない。芸術なんて自分には関係ないと傍観していたら、気づいた時には自由にものを言えなくなる社会になってしまいます。権利や自由は、主張し、行使しなければ取り消される宿命にある。憲法第12条には『憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない』と書かれていますが、基本的人権を守るためには、国民の努力が必要なのです。ましてや、選挙時に政権に不利な報道をしないようにメディアに圧力をかけた人物が文科相ですから、より多くの国民が表現の自由を守るために戦わなければならない時代になったということです」
正攻法で通じる相手でないならば、表現者の側にもシタタカさが必要だ。文明国としては悲しく、情けない状況ではあるが、そこで立ち上がってこその民主主義である。その覚悟が、われわれ主権者に問われている。
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